2・1小松製作所の作戦
企業の目標の本質を理解するのに、きわめてわかりやすい実例がある。
小松製作所の作戦である。
かつては北陸のボロ会社にすぎなかった小松製作所は、建設機械の主力製品といわれるブルドーザーを自力で育てあげた。
現在では、アメリカのキャタピラー社についでインターナショナル・ハーベスター社(アメリカ)と第二位を争い、ヨーロッパのメーカーを押さえているのである(*1)。
その成長の秘密は、すぐれた経営者、販売力、技術力に加えて、会社をあげての血みどろの努力である。
そして、それを端的に物語っているのが、この作戦である。
昭和三六年のことである。
当時、小松製作所のブルドーザーは、建設機械ブームにのって売れて売れて笑いのとまらなかった、その最中のことである。
当時の社長河合良成氏は、作戦というのを打ち出した。
その目標は、「オーバー・ホールまでの寿命五、〇〇〇時間」というのである。
その根拠は、当時のキャタピラー社のブルドーザーの寿命が、オーバー・ホールまで五、〇〇〇時間だったのである。
小松製作所のブルドーザーの寿命は、それよりはるかに短かったのである。それでも、いまはブームにのって売れているからいい。
しかし、いったんこのブームが去ったときには売れなくなる。しかも数年先には、貿易の自由化によって、キャタピラー社の製品がドッと入ってくる。
そのときはキャタピラー社の製品に押されて、わが社の製品は壊滅する。
「キャタピラー社に対抗して、わが社が生き残るためには、どうしても最低限度キャタピラー社と同じく、オーバー・ホールまで五、〇〇〇時間の寿命を必要とする」という河合社長の経営者眼から生まれた目標なのだ。
好況に酔わず、きびしい反省と、すぐれた先見性によって、企業の将来を築く決定がくだされたのである。
そして、「この目標を達成するために、会社の中のすべての知能と行動をこれに結集せよ」というのだ。
すべてに優先するオールマイティ作戦だというので、作戦と名づけたということである。
そして会社の努力がこれに集中され、二年の歳月と一〇億円の費用が投ぜられて、みごとにその目標が達成されたのである。
この作戦は、まず現状調査から始められた。その結果、わかったことは、現在の製品の寿命が三、〇〇〇時間であるということである。とすると、目標との差は二、〇〇〇時間である。
ここに、「われわれは、どれだけのことをしなければならないか」が明確にとらえられたのである。
つまり、「われわれのやらなければならないことは、寿命を二、〇〇〇時間のばすことである」ということである。
しかし、寿命を二、〇〇〇時間のばすことは、世間なみの努力、常識的な対策ではできない相談だったのである。
最強の敵は「コスト」である。
そこで、「コストを無視せよ、JISにとらわれるな」という非常指令さえも出されたのである。三〇〇点の部品のうち、その八〇%が改造されたのであるから、実質は新製品である。
その結果は、その品質の優秀さをもって、業界にゆるぎない地位を確保している。しかも、それだけにけっして満足しているのではない。
いま、小松製作所で打ち出している作戦がある。その名を「WA作戦」という。Wとはワールド(世界)の意味である。
2・2「企業の目標」は生き残るための条件が基礎となる
小松製作所のすぐれた実例は、われわれにどのような教訓を与えているだろうか。
教訓の第一は企業の目標は、生き残るための条件が基礎となるということである。
そして、企業の運命は基本的に客観情勢にどう対処するかできまってしまう。
当然のこととして、企業の目標は、客観情勢に基づいて設定されるのであって、企業の内部事情とは本質的に無関係である、ということである。客観情勢は、特定の企業の内部事情とは無関係に変化する。
したがって、客観情勢に基づいてたてられる企業の目標は、企業の内部事情とは無関係なのだ。
論より証拠、小松製作所の目標は、キャタピラー社のブルドーザーの寿命に基づいて設定されたのであって、自社製品の寿命は一顧だにされていないのである。
ここが大切なところである。
従来のマネジメントの考え方は、すべて「過去の実績とか、本人の能力とかを基準にして、実現可能な計画とか、目標とか、予算をきめよ」という哲学にこり固まっている。
一応もっともらしい考え方のように思われる。
しかし、それは「企業は絶対につぶれない」という前提条件が満足されて、はじめて成立するおめでたい理論なのである。
過去の実績をもとにして実現可能な目標をたてたところで、それが生きるための条件を満たしているのかいないのか、わからないではないか。このような考え方こそ、現実無視の観念論なのである。
目標を設定するということは、客観情勢の変化に対応し、その圧力に耐え、これをはねかえすための会社の決意を固める、ということなのだ。
客観情勢の圧力が、目標という形をとって、われわれの上にのしかかってくるのだ。だから、目標は圧力なのである。
目標を達成しなければ企業は押しつぶされるのであるから、これはどうしても達成しなければならない「ノルマ」なのである。
「圧力として感じさせてはいけない」とか「ノルマではない」というようなことは、目標のなんたるかを知らない者の寝言であるだけでなく、実は会社をつぶす危険思想なのである。
その危険思想の論拠は人間関係にある。上から押しつけたのでは人間の意欲はわかない、というのだ。この人間関係病は、わが国の企業に根強くはびこっている病気である。
しかも、この病気を「健康な状態」と思いこんでいるのだから、手のつけようがないのである。部下の気持ちを尊重し、自主的に活動させれば企業が繁栄するなら、だれも苦労はしない。
しょせん、人間関係論は経営不在の理論なのである。
「上司が押しつける」のではないのだ。「客観情勢が上司をとおして圧力をかける」のだ。ということさえもわからぬヤカラなど相手にしていると、ろくなことはないのである。
企業の目標とは、「生きるための条件」が基礎になっているかぎり、これは問答無用なのである。ムリであるとかないとか、実現可能であるとかないとかという論議は、いっさい成り立たないのだ。
別の例をあげて説明しよう。
人間が健康で働くための一日の最低必要カロリーが、かりに二、〇〇〇カロリーであるとするならば、二、〇〇〇カロリー自体を論議してみても意味はない。
論議があるとすれば、二、〇〇〇カロリーが最低必要カロリーかどうか、という点である。
同様に、目標について論議があるとするならば、それはムリであるかないかではなくて、目標それ自体が生き残るための条件として適切なものであるかどうか、ということである。
目標が生き残るための条件であるかぎり、それがムリであり、実現不可能なものであるならば、その企業は消え去るよりほかに道はないのである。
客観情勢は日ごとにきびしく、変化は急激になってゆく。
当然のこととして、客観情勢に対処するための目標は、従来の実績や社内事情からみたらムリであり、実現不可能なものなのである。
その不可能を可能なものに変質させることが、企業の成員の役目なのである。過去の実績からみて、実現可能なことだけやっていたら、その企業はたちまち破綻してしまうのだ。
われわれは、不可能を可能なものに変えてゆく以外に、生きる道はないのである。
教訓の第二は、現状調査の意義である。
伝統的な考え方は、まず第一に現状調査をせよ、つぎにそれを検討し、改善して、よりよいものにせよ、というのである。
このもっともらしい、しかも正しい考え方として、なんの疑間もなく信じられていることが、いかに間違っているかを教えてくれるのである。
伝統的な考え方を、小松製作所に当てはめて考えてみよう。
現状調査をしたら、寿命三、〇〇〇時間である。これに可能な改善を施して、五〇〇時間寿命がのびて、三、五〇〇時間になりました。
メデタシ、メデタシということでいいのであろうか。
寿命が三、五〇〇時間になっても、それが生きるための条件、五、〇〇〇時間に満たないのなら、これはたんなる自己満足である。
三、〇〇〇時間であろうと、三、五〇〇時間であろうと、大勢には影響がないのだ。生きるための条件を満たさない点においては、〝五十歩百歩〟なのである。
現状調査→改善→新基準という、改善理論の罪悪がここにあるのだ。
小松製作所は、こんなバカなことはやらなかった。
まず目標が設定され、しかるのちに現状調査が行われた。これによって、目標と現状とのギャップが明らかにされたのである。
このギャップこそ、「生きるために期限つきでやらなければならない事柄」であり、「これだけは、どうしてもやらなければならない最小限度の事柄」なのである。
これを「これだけ主義」という。
従来の考え方は、できるだけやるという「できるだけ主義」なのだ。
「できるだけ」とはどれだけなのか、だれにもわからないし、できるだけやっても、それが生きるための条件を満たすか、満たさないか、だれにもわからないのである。
小松製作所は、できるだけ主義をとるの愚をおかさなかった。
生き残るための条件を、ハッキリと見つめて改善しては、その成果を目標と比較し、足りなければさらに改造するというくり返しを二年間も続けて、りっぱにというよりは、「血の出る思い」で目標を達成したにちがいないのである。
「改善」とか「合理化」の考え方は、現状調査→改善→新基準ではなくて、目標→現状調査→ギャップをつぶす、という考え方が本当であることを、小松製作所はわれわれに教えているのだ。
これは、非常に大切なことなので、「できるだけ主義」のあやまりと、「これだけ主義」の正しさを、極限状態において再確認してみよう。
いまかりに、あなたの会社で、今月中にどうしてもあと一、〇〇〇万円の売掛金を回収しなければ手形を落とすことができない、としてみよう。
手形を落とせなければ、会社はそれで一巻の終わりなのだ。つまり、生きるために最小限度ギリギリ必要な一、〇〇〇万円なのだ。
これをできるだけ主義でやったら、どうなるだろうか。
売掛金の現状を調査したら二、〇〇〇万円ありました、できるだけ回収につとめたので八〇〇万円回収できました、そのために売掛残が一、二〇○万円に減少しました、メデタシ、メデタシ、と喜んでおられるのだろうか。
これでは、会社がオメデタくなってしまうのである。
一、〇〇〇万円なければ会社がつぶれるのだ。だから、回収可能とか不可能とかの問題ではないのだ。どうしても一、〇〇〇万円回収しなければならないのである。
われわれの関心は、「できるだけ」の努力で回収した八〇〇万円ではなくて、「最小限度」どうしても回収しなければならない一、〇〇〇万円なのである。
──閑話休題──
きびしい現実は、「これだけはどうしてもやらなくてはならない最小限度の事柄」のほうが、「できうる最大限度の事柄」より大きいのである。
「企業があげうる最大限の利益」は、「企業がどうしても必要とする最小限の利益」よりはるかに少ないのが常態なのである。ここに、最大限主義のおそろしさがある。
あげられた最大限の成果という自己満足で、最小限必要なギリギリの成果が忘れられてしまうからなのである。
だから、われわれの関心は常に「あげられる最大限」でなくて、「どうしても必要な最小限」でなければならないのである。
ところで、従来の目標管理は、「どれだけやるか」を決める、見かけは「これだけ主義」である。
しかし、中味は違う。
中味は、「目標は人間に合わせてつくる」(『結果のわりつけによる経営』エドワード・C・シュレイ著)ものであって、「企業の生き残る条件」に合わせるのではないのであり、「達成可能な合理的な目標」(同)を設定することが大切なのであって、それによってえられる企業の利益が必要最小限に達しなくても、いっこうにさしつかえないのである。
つまり、「個人のあげられる最大限の成果」を、「これだけ」といっているにしかすぎず、正体は完全な「できるだけ主義」なのである。
2・3上のせされる「トップの意図」
企業の目標は、生きるための条件が基礎になっているのであるから、ある意味では、トップの意図とは無関係なのである。
つまり、内部費用(「第3章3・5収益性」を参照されたし)などは、トップが好むと好まざるとにかかわらず、ほとんど大部分がきまってしまう。
客観情勢も、トップの意図とは無関係に変化する。当然のこととして、それに対処するのは、トップの受身の意志といえよう。受身の意志とはいえ、これは容易ならざる重大事であることに変わりはない。
しかし、これだけが目標のすべてではない。
「トップの積極的な意図」がある。
これが、「生きるための条件」に上のせされて、目標がよりすぐれたものになる(もっとも、この二つは必ずしも明確に区別されるとはかぎらない。というよりは、区別するのがむずかしいといったほうがよいかもしれない)。
トップの意図は、トップの人生観、宗教観、使命感がもとになって生まれてくるものである。
たとえば、「生活必需品は、水道の水のように豊富でなければならない。そうなったら貧困は克服される。われわれは、貧困を克服するために生産をやるんだ」(松下幸之助)
という哲学もあれば、「世界一でなければならない」(本田宗一郎)という威勢のいいのもある。
「うちの社員には、結婚までにマイカーをもたせ、三〇歳でマイホームがもてるように」(A産業社長)というようなきわめて現実的なものまでいろいろある。
それは、「正しいもの」であるかぎりなんでもよい。
これが企業の成員に社会的責任を感じさせたり、希望をもたせたりすることになるのである。
ところが、「トップの意志」の次元が高ければ高いほど、また、すぐれた革新と創造の理念をもっておればおるほど、その目標は現実とはかけ離れたものになってゆくものである。
そして、これに対して、「夢物語」「大風呂敷」というような批判が、必ずつきまとうのである。
後藤新平の「震災復興計画」がその一例である。
もしも、それが現実主義者によって、「大風呂敷」のらく印のもとに葬り去られた、というようなことがなかったならば、今日の東京の姿は、まったく変わったものになっていたであろう。
何しろ主要道路の幅が一〇〇メートルというものだからである。
それが否決され、縮小したB案が否決され、さらに縮小したC案を修正して、やっと通ったということだ。大正一二年当時はさておき、戦後の東京で再びその失敗をくり返してしまったのは残念である。
名古屋の実例をみるにつけ、なおさらその感を深くするのである。
昭和三〇年に発表された、わが国ではじめてといわれる、松下電器産業の「長期経営計画」も、それが発表されたときには、誇大であるという批判を八方からあびたのである。
年商二〇〇億円を五年間で四倍の八〇〇億にしようというのである。年率三〇%以上の急伸長なのだ。
この計画は、会社の必死の努力で四年目に目標を達成し、五年目には一、〇〇〇億に達したという驚異的な成果を収めたのである。
家庭電化時代を見きわめた積極策によって、「天下の大松下」の実現に大きな貢献をしているのである。
われわれは、トップの打ち出した目標が大きく高いものであればあるほど、これに批判の目を向けるよりは、その意図を理解しようと努める必要があるのだ。これがトップに対する幹部の態度なのである。
2・4目標はワンマン決定でなければならない
目標は、トップのワンマン決定でなければならない。もともと、目標は客観情勢に基づき、それにトップの意図が上のせされるのだ。
ところで、客観情勢についていちばんよく知っているのはトップで、下にゆくほど知らないのだ。客観情勢に基づいて設定する目標を、客観情勢に暗い部下にきいて何になる。
病気の治療法を素人にきくようなものである。だいいち、部下に相談しなければ、決定のできないようなトップや幹部こそ大問題である。
部下にきかなければならないのは、目標達成のための具体策なのである。目標の決定と、決定を実施するための具体策の相談とを混同してはいけない。
「長」という呼称は、決定する人につけられたものである。だから、「長」という呼称のついた人は、「自らの責任において、決定を行う」のだ。
「ワンマン決定」こそ決定の大原則であって、この原則が破られたときに、組織は崩壊してしまうのである。
むろん、ワンマン決定とはいえ、その前に部下の意見をきくことはよい。会議で検討するのもよい。
しかし、最後の決定は、あくまでもワンマンの意志によって決定されるのだ。
ところが、従来のマネジメント論は、部下の意見のとりまとめ役が「長」であるかのごとき印象を与えるものが多すぎる。
その論拠は「人間関係」なのだ。部下の意志を無視してはいけないというのだ。
部下の意志を尊重するあまり、お客を忘れ、客観情勢から目をそらせても、それはいたしかたないというのであろうか。ここにも本末顚倒がある。
というよりは「本末」を知らないのだ。ここで、お断りしておきたいことがある。
それは、「ワンマン決定」と「ワンマン・コントロール」は違うということである。
「ワンマン決定」というのは、「ワンマンの責任において決定する」ということであり、「ワンマン・コントロール」というのは、「何もかも一人できり回す」ことなのだ。
決定はワンマン、実施は任せる、これが本当のトップである。
2・5目標の変更
「目標は情勢の変化に応じて変える必要がある」というような、アイマイな表現をとっている人が大部分である。これが間違った行動を人びとにとらせることになる。
情勢の変化とは何を意味するかが不明確なのだ。だから、不手際による目標と実績の差が大きくなると、これまで情勢の変化であると拡大解釈して、目標を変更し、実績に近づけてしまう。
こうした考え方は間違っている。
目標は客観情勢に基づいてたてられるのであって、主観情勢に基づいてたてられるのではない。だから、客観情勢が変わったなら、目標もすみやかに変えなければいけない。根拠が変わったのだから、目標も変わるのが当然である。
しかし、主観情勢と目標とは関係ない。
目標と無関係な主観情勢が変わったからといって、目標を変えるのは明らかにおかしい。主観情勢のために、実績がどれほど目標とはなれようと、目標を実績に近づけるのは間違いである。
そのようなことをして達成率をあげてみても、実績の絶対額が上がるわけではない。かえって真実の姿がわからなくなるだけである。
つまり、問題というのは、目標と実績との差の中にある。この差が大きければ大きいほど問題の大きいことを、われわれに教えてくれるものなのである。
その差を小さくして、問題を過小評価させてしまう危険があるからだ。危険な事態を覆いかくして、安易感を生ませるものこそ、不用意な目標の修正なのだ。
目標変更に対する正しい態度は、客観情勢の変化には、これに応じてすみやかに変更し、主観条件の変化によって変えていけない、ということである。
しかし、現実には、客観情勢の変化に応じて目標を変えようとせず、主観条件の変化にはすみやかに対応して目標を変える、ということがあまりにも多すぎるのである。
2・6目標どおりいかなくとも目標は必要
「目標をたてても、そのとおりいかない、だから目標をたててもムダだ」という声はよくきかれる。これは一応はもっとものように思われる。
しかし、この考え方は間違いである。
たしかに、目標をたてても、なかなかそのとおりいくものではない。もしも簡単に、たいした努力もなしに目標が完遂できたら、むしろ目標そのものがおかしいといえる。
目標はむしろ、なかなか達成できるものではないからこそ必要である、という考え方に立つべきである。
というのは、もしも目標がなく、常に実績だけであるとしたら、いったいどういうことになるだろうか。実績だけでは、それが「生きるための条件」を満たしているのかどうかがわからないから困るのである。
たとえば、季節的変動のために、前半期と後半期の業績が大幅に違う会社は多い。
このような会社で、前半期の実績が大幅の黒字であるといって、必ずしも安心はできないのである。後半期の赤字が、黒字を食ってしまうかもしれないからである。
だから、後半期の赤字はどうしてもこれだけは出る、それを補って必要利益を生みだすには、前半期に「これだけの利益」をあげなければならない。
というふうに、目標を設定しておいて、これと実績を比較してみれば、その黒字で十分なのか、たりないのかがわかるのである。
われわれは、まず会社が「生きるための条件」を目標としておき、常に実績と比較してみなければならない。
そして、目標と実績が違っていたら、それ以後が目標どおりにいっても、現在の数字の違いだけ最終利益が違ってくるのだ、と考えるのだ。
このように目標と実績とを比較した時点で、目標との差を知ることができるのである。
この差が危険信号なのである。
常に目標と実績を対比していれば、危険な事態をいち早く知ることができるのだ。どうにもならないほど事態が悪化した後では手遅れである。
また、不測の事故があって、実績が大きく目標とはなれてしまったとしよう。
このときに「目標と実績がはなれすぎて、とても実現できないから、目標は無意味になってしまった」と考えるのではない。
こうした考え方は、「敗北主義」である。
「不測の事故によって、目標とこれだけはなれてしまった。この事態の重要度は、いったいどのようなものであろうか。そして、この事態をのりきるには、何をしなければならないか」と考えるのである。
事態の認識と具体策の樹立は、目標と実績との差をつかむことによって得られるのである。
客観情勢に応じて目標を変更しなければならないときでも、「どこをどれだけ変えたらいいか、それには新たにどのような努力が必要か」ということを、たやすく知ることができるのである。
このように目標は、企業の危険に対する〝検知機〟の役目も同時に果たしていることを忘れてはならないのである。
2・7目標達成の決意と信念が成否をきめる
筆者の友人で、某社の重役をしている人が、かつて製造部長であったときのことである。
筆者が工場見学にその友人の会社を訪れたところ、工場のどこへ行っても、「本年度の目標、〝工数三割節減〟製造部長」という目標がかかげてあった。
工場を見学し終わってから、私は目標について質問をした。それに対して、彼は次のように答えた。
「工数三割節減に、べつに科学的な根拠は何もない。ただ、今年中にどうしても工数を三割節減しなければ、わが社は激烈な競争に打ち勝って生き残ることはできない、と製造部長としての私が判断したからだ。それ以外に何もない。
そして課長たちには、各自どのようにしたらこの目標が達成できるかを考えさせ、計画書を提出させた。私の役目は、この計画書をチェックすることだ。とはいっても、これは容易なことではない。工数節減は今年はじめて行うのではない。
会社創立以来一〇年間毎年行っているのだ。その上さらに三割を節減せよというのだ。一通りや二通りの努力でできる相談ではない。
だから各課長は、あれはできない、これもダメです、その理由はコレコレです、といってくる。
しかし、私は絶対にこれに耳をかさない。一つ一つ理由をきけば、もっともな理由があることは初めからわかっている。
もっともな理由をきけぱ、〝私も人間だ、できないことは仕方がない〟といいたくなる。またそうすれば、〝話のわかる部長だ〟といわれることもよく知っている。
しかし、私が話のわかる部長になってしまったなら、会社はどうなるのだ。工数三割節減どころか、一割もできないだろう。私は、鬼製造部長になるよりほかに道がないのだ。そして、あくまでも部下に目標達成を要求しなければならないのだ」まったく頭の下がる思いがした。
帰るときに、筆者は応接室の壁に貼ってある、この会社の一〇年間の「売上げグラフ」をあらためて見なおした。
はじめの五年間は、売上げは遅々として伸びていない。
六年目から売上げは急上昇しているのだ。そしていま、会社は業界のトップを独走している。五年目と六年目の間にハッキリとした「クギ折れ」現象があるのだ。
そして、そのクギ折れは、この友人が製造部長になった直後にあるのだ。この会社のすばらしい業績が、この製造部長一人のためでないことはいうまでもない。
しかし、この製造部長がいなかったならば、果たして、こんな急成長と高い利益が得られたであろうか、とつくづくと考えたのである。
目標は、過去の実績からみたら、常に不可能なものである。
だから、その目標を達成するのにムリがあってはいけない、部下の納得できるものでなければいけない、などという泰平ムードの観念論は通用しないのだ。
どうしてもやりとげなければならないのだ。
そのためには、トップの、そして幹部の、不退転の決意がいるのだ。必ず達成できるという信念が必要なのだ。
これがリーダーシップの基礎的要素の一つなのである。へなへな人間関係論なんかは、業績を落とす役目しかしないのだ。
その実例をあげよう。
F社の工場長は、非常に話のわかる人で、人間関係信奉者であった。
同社は受注生産なので、営業課長が引き合いをもってくると、設計・資材・製造の各課長を集めて、「図面はいつできるか、その図面が出てから何日で資材・外注品の手当ができるか、そうしたら、製造課ではいつ完成するか」ということをきき、その結果で納期の返答をしていた。
各課長は、早くできない理由を、縷々ならべ立てる。結局は、相当長い納期をもらわなければならない、ということになる。当然、営業課長は承服しない。そんなことでは受注はおぼつかないからだ。
そこで、また話合いが行われ、若干納期をつめて、「これ以上納期をつめるのはムリだ。営業課長はそれでお客に納得するように話をつけてくれ」というようになることがオチなのであった。
営業課長はシブシブ承知をする、という結末になる。当然のこととして、営業成績はあまりかんばしいものではなかった。
たまたま、筆者がこの会社のお手伝いをすることになり、上記のことを知ったのであるが、ご意見番としての立場から、この工場長に苦言を呈したのである。
「あなたは、社内の人びとの立場をよく理解し、人間関係を円滑にしようとしている。しかし、それは間違っている。社内の人間関係や立場を尊重するというが、そのシワよせは、納期の遅れとなってお客様にいってしまっている。
いったい、会社はだれのために食っているのか。お客様のおかげではないか。そのお客様を犠牲にした人間関係は、まったくの誤りではないか。
お客様を忘れる会社は、お客様から忘れられる。そうなったら会社はつぶれる。会社をつぶして、なんの人間関係か、それこそ最悪の人間関係である」
と歯に衣着せぬ直言をするとともに、「生きるための要請」についての考え方を説明したのである。じっときいていた工場長は、「わかった、自分の考えが間違っていた」と率直に反省した。
実にりっぱな人である。それを境にして、この工場長の態度はまったく変わってしまった。
営業から引き合いがくると、納期をきき、そのまま、あるいは数日の延期をあらかじめ営業課長に承諾させると、各部門の課長を集め、「設計は何日までに完了、資材はいつまでに、これこれの外注品はいつまでに、製造の完成は何日まで」と頭から指令したのである。
びっくりしたのは課長連中である。そしてさっそく、それではできない理由を述べはじめた。ところが、工場長はこれをピタリと押さえてしまった。
いわく「君たちのいうことはもっともだ。しかし、理由があればそれでいいというものではない。
君たちの昇給について、〝これこれの理由で、財源がないから、昇給させられない〟とハッキリと理由を述べたら、君たちは昇給しなくても仕方がないと納得するか。
それと同じだ、できても、できなくとも、そうしなければ会社は食えないのだ。どんな思いをしても、お客様の要求を満たすのがわれわれのつとめだ」
と実に鮮かなもので、今度は、火つけ役の筆者がビックリしてしまったのである。それ以降、その会社の課長たちは、もっともらしい理屈をいわなくなった。業績も上がった。
そして、その工場長に対する課長たちの気持ちをきいてみると、「初めは、正直のところビックリした。しかし、よく考えてみると、あれが本当ですね。私たちもかえって気持ちがいいですよ」という返答が返ってきたのである。
人間関係至上論者よ、この事実をなんと説明するか。ご高説を承りたいものである。
2・8伝統的な人間関係論は目標達成を阻害する
ある会社の社長は、従業員の気持ちを極端に重視し、またそれが非常に大切なことであると思いこんでしまい、一人の女性事務員の部長批判をとりあげて、その部長に警告を発するというところまで、人間関係病をつのらせてしまっている。
この会社は過去二年間赤字であり、今期も赤字……。しかも、大幅赤字であることは決定的である。
かつては、成長産業であるがゆえに、好収益時にかかえこんだ余剰な間接人員を、部下の気持ちを重視するあまり切れないばかりか、退職者の補充までしている、という常識を逸した行為が、この会社を赤字に追いこんでいるのである。
この社長ほど極端でないにしても、人間関係病は非常に広範に各企業体内に浸透し、しかも重症で治療のむずかしい病気なのである。
この病気にかかると、何事も「仲よくやる」ことが最上であると思いこむようになって、ちょっとした意見の相違やトラブルを極端にきらう。
そして、個性のない同調主義者になり、また、いいたいことを部下にいえない腰抜け幹部ができ上がってゆく例を、あまりにも多くみせつけられているのである。
独創的な人、革新的な人、積極的な人、こういった人びとこそ会社発展の原動力であり、会社にとって尊い財産なのである。こういった人びとは個性が強い。
そして、それらの人びとが推進する仕事には、それが革新的であればあるほど、抵抗も多く、摩擦も起こりやすいのである。
摩擦や批判のないような仕事は、会社の発展にはたいして役だたないものなのだ。その個性を同調主義の中で殺し、その革新的な仕事を摩擦が起こるという理由で骨抜きにしてしまう。
これでよいのか、いったい会社はどうなるのだ。〝角を矯めて牛を殺す〟の愚でなくてなんであろうか。
「部下の気持ち、部下の立場、部下の納得」ばかりを強調する。「上役の立場」いや、「企業の立場」「お客の立場」はいったいどうしてくれるのだ。
企業の中で最も大切なのは「部下の立場」なのであろうか。上役は、ひたすら部下の立場のみを考えて神経をすりへらし、部下に礼をつくさなければならない。
しかし、部下は上役の立場を考える必要はないらしい。論より証拠、人間関係論には、上役に対する「礼」については、ただの一言もふれていない。
部下は上役の立場を考える必要はなく、「礼」をつくさなくともよいらしい。礼というものは交換するものであって、一方的なものではないはずなのに……。
それも、何事も丸くおさめるための上役の譲歩であり、会社の投資であるのだろうか。
さらに、人間関係をよくし、モラール(*2)を高める大切な事柄は、物理的な環境を楽しいものにしなくてはいけないらしい。
そのために、数々の厚生施設や娯楽設備をととのえて、ひたすら従業員のご機げんを取り結ばなければならないらしい。
そうしたことに関心を向けない経営者は非難され、従業員は楽しい職場、楽しい環境の中で仕事をすることが当然のことであると思いこんでしまう。
あまりのことに、「会社は遊園地ではない」(盛田昭夫『学歴無用論』)というような当然のことが、声を大にして叫ばれなければならなくなってしまったのである。
そもそも「楽しい職場」などというタワゴトは、いったいどこのバカがいいだしたのであろうか。
企業は戦争なのだ。
同時にそこに働く人びとにとっては、生活の資を得るための戦場でもあるのだ。人びとの毎日毎日の仕事が真剣勝負の場なのだ。「楽しい真剣勝負」というのがあるわけがない。
われわれの仕事の毎日は、もともと苦しいものなのだ。
ソニーの盛田昭夫氏が、会社は楽しいところではない。根本的なところを間違わないでもらいたい…。会社というのは働きに来るところだ。働いてお金をもうけて、それで楽しく会社外で暮してもらいたいのである。会社が楽しいところである必要は毛頭ないのだ。……『学歴無用論』
といっている。
まったく同感である。
経営者は、楽しい職場をつくる責任もなければ、娯楽施設をととのえることに関心を向ける必要も毛頭ないのだ。経営者の責任は、「健全な経営」である。
われわれが、人間関係を大切にするのは、これによって従業員のモラールが上がり、それが業績向上に結びつくと考えるからである。この考え方自体に異論はない。
考えなければならないのは、現在われわれがもっている人間関係なるものの考え方では、その効果がほとんどない、ということなのである。
いや、逆にマイナスの効果になってしまうのを、筆者は数多く見せつけられているのである。
「そもそも、現在の人間関係は、四〇年前の〝ホーソン効果〟の上に何も積み上げていないではないか。
ということは、〝ホーソン効果〟そのものが、本当の人間関係かどうか、すこぶる怪しいのである」という意味のことをドラッカーはいっている。
もともと、「ホーソン効果」とは、企業体の中の最低辺の人びとを対象とした、個人と集団の心理研究であって、その次元の低い下向きの理論を、そのままミドルのみならず、トップにまで拡大しようというのだから、ムリでありムチャである。
人間関係論者が、いくら声を大にして、その効果を叫ぼうとも、行動科学者たちの調査によると、モラールと生産性の間には、相関関係がない、という結果が出てしまうのである。
この事実を、われわれは率直に認め、フランクに反省しなければならないのである。
しかし、何といっても、従来の人間関係論の最大の欠陥は、経営を無視していることである。個人の心理研究にのみ心をうばわれ、肝心の会社を忘れ、職務を無視している。
会社は人間関係をよくすることが目的でもなければ、心理の研究所でもないのだ。会社は商品を生産し、販売し、あるいはサービスを提供することが仕事なのである。
だから、ドラッカーが、「人間関係は経営に優先しない」というわかりきった警告を発しなければならないほど、病は膏肓に入っているのである。
しかもこれが、大センセーションをまき起こすのだから、どうみても常態とはいえそうもない。やはり、人間関係病は相当重いのである。
人間関係がいかによくみえても、それが経営にとってプラスにならなければ、それはむなしい人間関係論であり、モラール・サーベイの結果がいかによくても、それが生産性向上に結びつかなければ、たんに、ある種の幸福感にしかすぎないのである。
われわれは、いま、「モラール」の定義づけを変えなければならないときにきているのだ。
それは、きびしい客観情勢の認識のもとに、企業の目標に焦点を合わせて、その一部を背負う決意と責任を果たすために役だつものでなければならないのだ。
従来の下向きの態度とは逆に、上向きに、常に一つ上の階層への貢献を、その基本的な姿勢とするものでなければならない。
そして、それは、うじうじした個人の心理研究ではなく、個性を生かし、積極的に困難にぶつかり、摩擦をおそれず、よいと信じたら、どこまでもやりぬく信念と勇気を与えるものでなければならないのだ。
また、部下に対しては、明確な目標のもとに、彼らを説得し、やる気を起こさせるという強力な指導力をそなえたものでなければならないのだ。
あくまでも前向きに、革新的な考え方を信念をもってつらぬき通すマン・パワー論でなければならないのだ。
2・9「企業の目標の本質」を理解させよ、そこから真の人間関係が生まれる
筆者は、くり返し伝統的な人間関係論を攻撃してきた。
しかし、筆者は人間関係否定論者ではなく、真の意味の人間関係推進論者の一人であると自負している。
つまり、「マン・パワー」論者である。
伝統的な人間関係論は、真の人間関係ではなく、ごまかしのニコポン主義的人間関係論(*3)にしかすぎないのだ。というのは、むしろ外交辞令的表現であって、本当のことをいえば、その正体はまさに「人間侮辱論」である。
人間尊重と称して、その心理を研究し、満足感というよりは、むしろ弱点を逆に利用して人を動かそうとする。そして、それを動機づけと称して美化している。
その中で、徹底的に摩擦を罪悪視し、仲よくすることが至上であるかのごとき指導をし、革新・創造の芽をつんでしまう。
革新に摩擦はつきものなのだ。摩擦をおそれたら何もできなくなる。
三洋電機が電気洗濯機で、いち早く業界のトップに躍り出たのは、洗濯槽と、上部内張りの「ハゼ組み」の自動ロール機をいち早く開発したことに負うところが大きいのだ。
その自動機の開発途上で、関係者の間で常に大激論がかわされ、ついには取っ組み合いのけんかまでしているのである。
けんかを肯定するわけではないが、仕事にはそのくらいの熱意が必要なのだ。摩擦をおそれたら、何もできない。
人間関係に出てくるのは「話合い」であり、「意見をいわせる」であり、「参画させる」という、いかにも人間尊重のようにみえても、すぐその後から馬脚をあらわす。
つまり、「ムリをいってはいけない」であり、「能力に合った仕事をさせる」である。
ムリかどうか、が、簡単にわかるものではない。相手の能力を見きわめるなどは至難の業である。
筆者が、戦争中に軍隊で経験したことがある。戦争の最後の年に、名古屋で自動車の修理隊長をやっていたときのことである。三月一九日の空襲で、筆者の隊も焼けだされたのである。
そのときに、最も目ざましい活躍をしたのは、能力が低いという判定のために、上等兵に進級することもできなかったK一等兵だったのである。
筆者は自分の不明を恥じるとともに、人間の能力の判定がいかにむずかしいものであるかを痛感したのである。
それ以後も、筆者はそれに似たような経験を何回もしているのである。
人の能力など、容易にわかるものではない。
それを、「能力に合った」というようなことを簡単に考えて、表面的な観察で能力判定をやるのだから、判定されるほうは、たまったものではない。
そして、それらの論調の底にあるものは何か、「程度の低い人間は、こうして使うのがいちばんである。あいつの能力は、この程度のものだろう」という、人を見下した態度なのだ。
どこに人間尊重があるのか。人をコケにするにもほどがある。これが人間侮辱論でなくてなんであろうか。
「東洋の魔女」を鍛えた「鬼の大松」(*4)の非人道的とも思えるシゴキのうちに、監督と彼女たちの間に温かい人間性の交流と、鉄の団結と水ももらさぬチームーワークができ上がったのである。
彼女たちのかくれた能力が完全に引き出されたのである。
それに反して、表面は人間性尊重のごとくみえた後任監督のもとで、魔女と監督の人間関係はくずれ、チームは空中分解してしまったではないか。
どちらが本当に人間尊重で、どちらが人間侮辱であろうか。人間関係論者よ、胸に手を当てて、静かに反省してみてもらいたい。
あなたがたが人間尊重と思っていることそれ自体、実は「人間不信」の理念であることを。いいかえると、あなたがたが「Y理論」だと思っていることの正体は「X理論」なのである(*5)。
ついでにいえば、この理論そのものが間違っていることを、当のマクレガーが体験していることを。
人間というものは、あなたがたが考えているほどバカでもなければ、無能力者でもないのだ。人間を無能力化してしまうのは、あなたがたのふり回す人間関係論(だけではなく、もろもろの間違ったマネジメントの理論)なのである。
人間をあまやかし、過保護を加え、自己保存本能をマヒさせてしまうからなのだ。
「お大尽の道楽息子」「総領の甚六」の伝なのだ。
人間は幸福感、満足感を得ると、進歩が止まってしまうという、やっかいな動物なのだ。¥安心感を得ると努力しなくなるのだ。
イギリス経済の破綻の原因のうちに、「完備した社会保障制度のために、人びとが意欲的に働かなくなった」ことがあげられているのは、われわれに深く考えさせる教訓を含んでいる(*6)。
真の人開関係とは、どうも人間関係論者の主張とは違うようだ。いや、違うのだ。
〝可愛い子には旅をさせろ〟〝獅子はわが子を谷底につき落とす〟。これが真の人間尊重の理念ではないのか。
何百年の長きにわたり、人間の叡智の「ふるい」にかかって生き残ってきた格言なのだ。正しくなければ消えているはずである。
真に人間を尊重するならば、なぜ人間を信頼し、その人のかくれた能力を期待して、本人さえも考えてみなかった高い目標を与え、重い責任を負わせて突き放さないのだ。
そして、ジッと見守っていてやらないのだ。その試練に負けてしまったのなら仕方がない。それもせずに、頭から他人の判断だけで本人の能力を判定してしまうのは、人間不信である。
このようなことをするのは、きめつけられる当人だけでなく、あなた自身をも傷つけることになりはしないだろうか。
筆者のこのような主張は、本書ですでにあげた、いくつかの実例だけでなく、世の中のたくさんの実例や、いくたのすぐれた企業の人間指導理念とその実績から生まれてきているのである。
筆者は以上のような考えから、ムリと思われることを人に要求する。
そのときに、「ムリだから君に頼むのだ。ムリでなければ君には頼まない」というのだ。これが人間信頼なのだ。
ムリだとは思う、しかし人はどんなかくれた能力をもっているかわからない。いやもっているのだ。それに期待して、いまはムリと思うことを頼む、というのだ。
そして、そのムリをいわなければならない理由として、本章に述べているような「企業の目標の本質」を、じっくりと説明し、きびしい現実を生き抜くための覚悟と心構えを、くり返し強調することが大切である。
こうすると、だれでも必ずといっていいくらい納得してくれるのだ。筆者は、講座で、このようにやるのだ。
そして、受講者の感想をきいてみると、
- 「きびしい現実に対する認識が不足していた」
- 「自分の考え方があまかった」
- 「いままで、社長の要求がムリであると思いこんでいた自分の考えが、間違いであることがわかった」
というような意味のことを一〇人のうち九人までいうのである。「今日からは、覚悟を新たにして、自分の役割を果たそう」という気構えができたのだ。
きびしい事態を認識し、トップの意図を理解することによって、自分の役割を自覚したのだ。
そして、自らの意志で、自らの意志を無視して押しつけられた目標を達成するために、進んで困難にぶつかってゆく覚悟ができたのである。
ここに、精神革命が行われたのだ。そして、その日から、それらの人びとの行動がハッキリと違ってくるのを、筆者はこの目で確かめているのだ。
例をあげよう。
M社で、同期化計画を推進しているときのことである。いままでは数が少なかったので、ロット生産で流していた。そこへ、新機種が加わり、数量が一気に三倍にもなるので、コンベアで流そうというのである。
定石にしたがって、生産技術課で慎重に検討されただけでなく、相当思いきった改善案が盛られていたのである。
これの第一回の検討会のとき、製造課長は、「この案によると所要人員が三二人ということだが、これではわが課の付加価値目標に到達しない。
目標に達するためには、あと三人減らして、二九人でやらなければならない。したがって、この案は承服できない。二九人以内でやれるように、再検討をしてくれ」と、その案を生産技術につき返してしまったのである。
普通の場合だったら、三二人の案が検討され、製造部門からは、その人員ではできない。こういう条件が盛りこまれていない。
ああいう要因が見落とされている、というような意見が出るにきまっている。いろいろなやりとりがあって、それでは、これこれのところと、これこれのところを、こうやって、人員は三四名とする。というように落ちつくのが相場である。
つぎにY社の例である。
筆者は定期的にその会社へお伺いしているのだが、あるとき社長が筆者につぎのように語った。
「この間、資材課長にコテンコテンにしかられてしまいました。それというのは、新入社員を労務課長が何の気なしに、資材課ヘ一人配属したのです。これは明らかに労務課長のミスです。
というのは資材課に私が与えた目標の中に、〝今年中に人員を三名減らせ〟というのがあるのです。そしてすでに苦心して二人減らし、あと一人減らすために苦労しているその最中に、一人増員ということになるからです。
資材課長は、労務課長に〝会社の目標を何と心得ているか〟とやっつけて、配属の取り消しを要求し、それでもおさまらずに、私のところへやってきて、〝社長の不心得〟を説教したのです。
私は、資材課長のお説教をききながら、本当にうれしかった。こういうしかられ方なら、毎日でもいい」ここにあげたようなことは、普通の会社の普通の状態では、まず絶対にないといえよう。
読者の中には、つくり事だ、こんなことはあるはずがない、と思われるかたもあると思う。そして、そう思われるのがあたりまえなのである。
しかし、これはまぎれもない実話なのである。
ニコポン主義的人間関係論に、このような事実があるならば、ぜひ私に知らせてもらいたいものである。
先日お目にかかった、T社の製造課長は、筆者につぎのように語った。
「私は先生のお話をきいて、つくづく反省しました。いままでは、自分でこれ以上できないと思いこんでいました。責任者がそう思いこんでいるのだから、できるわけがありません。
〝不可能を可能なものに変えるのが幹部の役目だ〟という先生の言は、私にとっては痛棒だったのです。おかげで目がさめました。
私はさっそく、私の決意を上司と部下に話し、部下に対してムリをいうことを宣言いたしました。
それと同時に、部下もいいたいことをぼくにいえ、そのために毎週一回、終業後に会合を開くというようにしたのです。
あれから二カ月、生産は上昇し、不良は減り、職場の士気はますます盛んです。
毎週一回の終業後の会合も、義務づけはしないのですが、欠席するものはほとんどおりません。その会合で、私のムリに対する前向きの解決案があとからあとからと出てくるのです。
部下にムリをいえない上役はダメですね。
そういう上役は、客観情勢のきびしさを知らず、自己の職責を果たしていないのですから」以上にあげた三つの例が、筆者のいう「マン・パワー論」の一端なのである。
人間は、人間関係論者が思っているほどバカでもなければ無能力者でもない、という筆者の主張は、このような実証に裏づけられているのである。
精神革命によって、人間の考え方も行動も、このように変わってゆくのである。この精神革命こそ、人間関係の根底をなすものである、と筆者は信じているのである。
真の動機づけというのは、精神革命を起こさせることなのだ。人間の行動の動機づけとして最大なものは、「自己保存本能」であろう。
寒さや恋よりも、エジキが先なのである。火事のときに、思いもおよばないような力を出すことは、よく知られた事実である。
これは、自己保存本能の力なのだ。企業をとりまく客観情勢は、日ごとにきびしく、変転きわまりない。その変化に対応できない会社は、たちまちのうちに破綻してしまうのだ。
この事実を、企業の成員が認識したときに、そして、わが社も従来のやり方、考え方でいると消え去る運命にあることを知った、その瞬間から、成員の態度は変わってしまう。
自己保存本能が目ざめて、大号令を下すからである。これが精神革命なのだ。そして、いまほど精神革命が必要なときはないのである。
*1インターナショナル・ハーベスター社は、その後、経営不振に陥り、他社への事業売却などを余儀なくされた。
*2モラールとは、士気、労働意欲のこと*3ニコポンとは、ニコニコしながらポンと相手の肩をたたいて、相手と仲良くなること。
明治・大正時代に首相を務めた桂太郎が、そのスタイルで政治家や財界人と関係を深め、「ニコポン宰相」と呼ばれたことが、言葉のもとになった。
*4ユニチカの前身、ニチボーの貝塚工場の女子バレーチームは大松博文監督の下、世界的な強豪チームとして活躍した。
「東洋の魔女」の異名は有名。チームの主力選手は大松監督の下、1964年の東京五輪で金メダル獲得に貢献する。
*5アメリカの心理・経営学者ダグラス・マクレガーが唱えた動機づけ理論。
「人は、強制や命令がなければ仕事をしない」とするX理論と、「人は、自らの目標のために自発的に努力することができる」とするY理論で構築される。
*61960~1970年代のイギリスは、「ゆりかごから墓場まで」と称された社会制度の充実、基幹産業の国有化などを進めたが、国際競争力を失い、1976年にはIMFの支援を受け入れるまで悪化した。
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