01アサーションに必要な自己信頼
自己信頼とは自分を当てにできること
自己信頼とは、簡単に言うと自信のことです。自分をある程度頼りにすることができるようになること、自分を当てにできることが自信です。
幼い子どもは、自信がないときは助けを呼んだり、人の助けを借りてものごとを進めようとしたりします。
誰かが助けてくれることがわかると、「助けてほしい」と言ってもいいことがわかり、そう言える自分、言うことに自信を持ちます。
自信を持って「助けてほしい」と言えることは、いわば、自分ひとりではできないことを伝え、助けてほしいと表現してもいいということですから、矛盾した言い方かもしれませんが、自信がないことに自信がつき、助けてほしいときはきちんと依頼することができます。
本当に助けがほしいとき、相談をしたいとき、それを自ら認め、求めることは、じつは、自分の現状をよくわかっている自立的な行動なのです。
自信(自己信頼)は、自分ができることは実行し、できないことは認めて助けを得ることから培われます。「助けてほしい」と言える自分を「当てにする」ことができからです。
ということは、自分の思いを正直に、率直に表現したとき、それにきちんと反応してくれる人が必要だということにもなるでしょう。
攻撃的な人の嫌味
ところが、Part1でも述べたように、「助けてほしい」と言ってはならないと思っていたり、他者は自分を助けるべきだと思っていたり、幼いとき「助けてほしい」と泣いて頼んでも助けてもらえなかったりした人は、助けてほしいとき、素直な表現をしません。
その典型的な例のひとつが、渋谷部長の言い方です。
自分ができることでありながら「コーヒーがほしい」「コピーを取ってきてほしい」ときに、何らかの理由で「助けがほしい」、「お願いしたい」ということであれば、そのように伝えれば、助ける人はいるでしょう。
しかし、自分は「助けがほしいとは言いたくない」「断られるのは嫌だ」と思っていると、命令することになります。強く言えば、自分が助けを必要とする弱さを見せずに、助けてもらえるからです。従順な人から断られると、嫌味のひと言も言って、「今後、見ておけ!」とダメ押しをします。
逆に、三江さんや山本さんのように、上司の命令には「はい」と言うしかないとか、できないと言うと相手から嫌われる、不機嫌になられるのは困る、などと思っていると、断ってもいいことを引き受けてしまいます。
自分ができることとできないことを区別して自覚している人は、自己信頼がある人です。
したがって、「できないことは引き受けない方がよい」、「今、できない事情を伝えよう」とそれを伝えることができるのです。
上司と部下、親と子、命令的な言い方をする人と、優しく従順な人などの組み合わせができると、渋谷部長と三江さんのような攻撃的と非主張的なやり取りの悪循環が始まります。
三江さんは勇気を持って自分の思いを言いかけたのですが、コーヒーを持っていくことにしてしまいました。
断られかけたことに敏感に反応した渋谷部長は、「人をないがしろにしてけしからん」と思い続けていましたので、コピーを頼みかけて、「俺の言うことは聞きたくないんだったよな」と嫌味を言って仕返しをします。
さらに、三江さんの前で当てつけがましく、後輩の山本さんにコピーを頼むのです。これは、いわば「いじめ」の始まりです。
三江さんは、山本さんに罪悪感を持ち、謝ることになり、逆に山本さんは、部長から三江さんがいじめられていることを感じて肩代わりをし、同じことの繰り返しと拡大という悪循環が始まっています(次図参照)。
しかも、悪循環では、同じことがより険悪な形、強化された形で進むことになります。
生意気とアサーションは同じではない
このままでは、アサーションはかえって人間関係を悪くするコミュニケーションのように見えます。どこかでアサーションではないことが起こっているのです。
幸いなことに、三江さんには、淡々と自分のできることを信じて実行している根っからアサーティブな幼なじみの豊さんがいます。
「アサーションっていいと思う」「がまんしている三江は苦しそうだ」と、後戻りしそうな三江さんを励ましています。
ただ、三江さんは「言いたいことだけ言っていたら、人間関係はうまくいかない」「仕事では仕方ない」「がまんして、日常に波風を立てないことが大切」とも思っていました。
ところが、先輩キャビン・アテンダント(CA)の頼みを断れない後輩の山本さんの姿を見て、そこに自分自身が映し出されたような衝撃を受けました。
そこで、改めて「自分の気持ちや考えを表現してよい」「断ってもいい」と言った浅田さんことを思い出して、その意味を確かめたくなったのです。
ここに、三江さんのアサーティブな姿があります。
浅田さんと豊さんが勧める「言いたいことを言って歩み寄るアサーション」とは、どうしたらできるのか、自分の気持ちに素直になって考え始めたのでしょう。
02自信を育む人権としてのアサーション
三江さんが再び浅田さんを訪れたとき、浅田さんはまず、「失敗は成功の母」として、自信を失いそうになっている三江さんを受けとめてくれました。
「訓練すればアサーションはできるようになる」と聞いて、三江さんは少しいい顔になって「非主張的な自分を変えたい」とアサーティブに浅田さんに伝えました。
そのアサーティブな三江さんの思いをすぐさま感じ取った浅田さんは、アサーションの基礎である人権のひとつ「アサーションする権利」について伝えています。
「人権」を大切にするとは人権とは、男性と女性、大人と子ども、社会的役割や地位、人種などに関係なく、人が生まれたときから誰にも与えられている権利で、簡単に言うと、「人間として誰もがやってよいこと」を意味します。
「人権」と聞くと堅苦しく、抽象的でわかりにくく、ちょっと敬遠したくなりますが、「人間として誰もがやってよいこと」ですから、私たちの日ごろの具体的な言動と関わってきます。
これまでの例で見てきたように、やってもよいことを禁じられている子どもや部下、やってもよいことを禁じる親や上司という関係では、人権を軽視したアーサティブでない関わりが生じます。
同様に、世界でも人権侵害が起こっているのは、多くの人に「人権」が堅苦しいものだと敬遠されて、人権そのものがしっかりと知られていないことが影響している可能性があります。
ここで一度、身近なコミュニケーションを見直してみてください。
人間として自己表現することは誰もがやっていいことなのに、言ってもいいことを言わないで自ら人権を否定し、逆に人権を護ろうとすることを「反抗」とか「生意気」「わがまま」と判断して他者の人権を侵害しているとすれば、それはコミュニケーション上の自他の人権の侵害であり、アサーションの課題です。
人権尊重という考え方が世界で重視され、推進されるようになったのは、第二次世界大戦後の1948年、国際連合の第3回大会で「世界人権宣言」が採択されたことによります。
その中では人間関係の到達すべき指針が30条にわたり述べられており、アサーションに密接にかかわる条項として第19条に、「すべての人は、意見を持ちそれを表明する自由に対する権利を有する」と宣言されています。
これは「アサーションする権利」であり、本書では、「アサーション権」と呼んでいきます。アサーション権は、人権のひとつであり、その権利を大切にする具体的な表現がアサーションなのです。
Part1(02アサーションの広がり)でもお伝えしたように、アサーションの考え方と方法は、アメリカでは人権尊重の実践として1970年から1980年代にかけて、人種や性の差別に対する人権回復運動に活用されました。
黒人や女性は自分たちの具体的なコミュニケーション改善のためにアサーションを学習し、訓練して、暴力や非難によらず、自分の思いをきちんと伝えることに努めました。そしてその思いに耳を傾け、理解しようとする人びとが増えていったのです。
また、1989年の国連総会で、「子どもの権利条約」が採択されるに及び、アサーションは、虐待やいじめなど子どもの権利を護るためのひとつの方法となりました。
たとえよかれと思っていても、親や教師による、子どもの人権を無視した一方的で強制的なしつけや訓練は人権を侵している可能性があることに、人々の注意を向けたのです。
現在では、子どもの人権教育の一環として、子どもにアサーティブに関わり、子ども同士のアサーションを推進するための教師や子どもを対象としたプログラムが世界中で実施されています。
近年、アサーションは、大人同士のDVやパワハラ、セクハラなど相手の人権を侵す言動に対する自己を護る自己表現として、また、無意識のうちに相手の人権を侵してしまう攻撃的な言動への警告として、教育、福祉、産業などの分野でも広がっています。
アサーションは、権力がある人、地位や役割、年齢が上の人が無意識にやりがちな人権侵害を、今、ここのコミュニケーションの中で意識することに役立ちます。
私自身は、1983年に日本で「アサーション〈自己表現〉トレーニング」を開始し、以後、一般の人々、子ども、教師、ナース、そしてビジネス・パーソンのためのアサーション訓練を実施してきましたが、その中で人権とアサーション権を知ることが、多くの人々にとって支えになっていることを経験してきました。
「誰でもやってよいこと」を具体的に知らないとき、私たちは非主張的な表現で自分の人権を無視したり、攻撃的な表現で相手の人権を侵したりするからです。
人権尊重はコミュニケーションに現われるここまで述べてきたことは、人権尊重は具体的にやり取りに現れるということです。
たとえば、親が子どもにきちんと片づけてほしいとか、約束したことを実行してほしいと伝え、一方、それができない子どもが「失敗した!」とか「守れない事情があった」と伝えることは、両者が自らの人権を認めていることになります。
また、上司が部下に残業を頼むことも、部下が事情を話してそれを断ることも人権を尊重したやり取りです。友人から食事に誘われて断ることもアサーティブなら、断られた友人が他の日を提案することもアサーティブです。
一人ひとりが自分を大切にしてアサーティブな自己表現をすると、一度で意見が一致するラッキーなこともあれば、それぞれの事情や思いが異なっていて、一致しないこともあるのが現実です。なぜなら、自分も相手も頼む権利があり、断る権利があるからです。
その意味で、Part1で三江さんの側に事情があって「コーヒーを自分で取りに行ってほしい」と伝えることは自分の人権を尊重したアサーティブなコミュニケーションです。
たまたま、渋谷部長の願いと三江さんの思いが一致しなかっただけなのです。ところが、三江さんは自分の思いを途中で変えて、コーヒーを取ってきてしまいました。
渋谷部長は従おうとしなかったことを根に持って、Story2の冒頭で嫌味を言うという攻勢をかけています。
2人とも、互いに相手を大切にし合う人権尊重の原則を知らなかったために、話し合いを止めてしまったようです。また、互いが自分の思いを正直に、率直に表現すると、思いがずれたり、葛藤が起こり得ることも知らなかったと思われます。
そのために、葛藤が起こりそうになったとき、三江さんは言いよどみ、行動を変えましたし、渋谷部長は葛藤を起こそうとした三江さんを「けしからん」と思ったようです。
「アサーション権」を知っていると、葛藤が起こったとき、その葛藤をそのままにしないで、どのようにアサーティブに話し合うかが課題になるでしょう。
03アサーション権とは
三江さんは浅田さんから「アサーション権」という言葉を聞きました(Story2)。
人間同士の思いやりや信頼を育むための基礎に「アサーションしてもいい」という人権があることを知らされたのです。
私たちの日常に役立つ「アサーション権」は、細かく挙げると数限りなくありますが、浅田さんは三江さんに代表的な2つの「アサーション権」を紹介していました。
それぞれについて、もう少し詳しく考えていきましょう。
「私たちは誰もが自分らしくあってよい」これは、浅田さんが言っているように、私たちには、自分を大切にする権利、個性を持つ権利があるということです。
つまり、私たちの顔がそれぞれ違うように、私たちの考えや気持ちは他の人と同じでなくてよいということであり、生まれた環境や自分の気質、性格などによって違った考えや気持ちを持つことは当たり前だということを意味します。
たとえば、生まれつき身体が弱く、病気をしがちな人は、病気などしたこともない人と比べれば用心して生活するようになる可能性があり、身体を大切にすることが大切な価値観になるでしょう。
そうでない人を心配するかもしれません。病気をしたことがない人にとって、それは心配のし過ぎ、自己防衛的に過ぎることになるかもしれません。
それぞれの見方を、異なった見方をしている人に押しつけると、その人らしくないやり方を強要していることになります。
日本人の「おかげさまで」とか「お世話になります」といった挨拶は、欧米の人にとっては、「実際、世話をしたわけでもないのに、一体、本心なのか……?」と、困ってしまうようです。
それぞれが文化の違いによる「国民らしさ」でもあり、その人らしさの表現の一部なのです。それを変だとかおかしいと受け取ると、その人らしくあってよいことを認めていないことになります。
逆に、そのような習慣がない人が困惑したり、変だと思うことを責めるのも、その人らしくあってよいことを否定していることになるでしょう。
「その人らしくあっていい」権利は、一人ひとりが存在する権利でもあり、その人らしく生きる権利でもあります。その意味で、自分らしさ、個性を大切にしたいのであれば、相手の個性も大切にする必要があります。
しかし、いざとなるとこれはなかなか難しいことです。
私たちは、つい、浅田さんの言うように、相手が自分と違っているだけなのに、相手と同じでないと自分はおかしいのではないかと自己卑下したり、また相手を劣っていると思ってしまったりして、相手と同じでないことが「悪い」と思いがちです。
そうではなく、「違い」は「間違い」ではなく個性であることを理解することが必要であり、理解から互いを大切にする道が開けていくのです。
そこで必要になるのが、「個性の違いを理解し、互いを受けとめ、大切にする歩み寄り」のコミュニケーション、アサーションなのです。
「人は誰でも自分の気持ちや考え方を表現してよい」「自分らしくあってよい」というアサーション権は、必然的に浅田さんが伝えた2つめのアサーション権「人は誰でも自分の気持ちや考え方を表現してよい」につながります。
自分らしくあることは、誰もがそのとき、その場で自分の考えや気持ちを持つことになり、それを表現してよいことになります。そこに互いの思いを理解するチャンスができるのです。
赤ん坊が泣いているとき、その声は「ここにいるよ」とか「誰か来て!」と言っている可能性があります。それは「自分を大切にしてほしい」という自然な欲求の発声でもあります。
ケアを必要とする人に「どれどれ」と近寄ったり、「何を訴えているのかな?」と関心を持ったりすることも自然な反応です。人は、互いのコミュニケーションを通じて、自他の存在を大切にし合うこと、存在する権利を護り合えるのです。
ところが、人は万能ではありませんから、いつでも誰の要求も満たすことができるとは限りません。真夜中に「誰か来て!」と泣いても、すっかり寝入ってしまった親はそれに応えられないかもしれません。
応えられなかった親も、応えてもらえなかった子どもも、人間として仕方がないことです。こんなことが長いつき合いがある家族や学校、職場の人間関係では起こります。
失敗やミスは、長期的に何度も継続しない限り、取り戻すことができます。だから、気持ちを伝えることが重要なのです。
ほしいものや必要な小遣いをねだらない子どもは、この権利を使っていないことになりますし、特別な予定があるのに残業を断ることができない部下も同じです。
逆に、断ってはいけない子どもの要求を無視したり、有無を言わせず残業を押しつける上司もこの権利を侵害していることになります。
また、上司が困っているのに、けんもほろろに「無理です!」と言う部下も同じでしょう。
こんなときは、それぞれ「無視しないでほしい」とか「きちんと受け止めてほしい」と伝えることがこの権利を使ったことになります。
04互いを大切にすると起きる葛藤って?
アサーティブなやりとりについて考えてくると、その人らしさを大切にすること、互いの気持ちや考えを大切にすることは、異なった考えや気持ちが表現されることであり、たとえば、一方は頼んでよいし、他方は断ってもよいことになりますので、一時的に葛藤が起こる可能性があります。
じつは、アサーションは、こんなときこそ必要とされるものなのです。「この葛藤を解決するためにある」と言ってもいいくらいです。
葛藤を一緒に乗り越える
浅田さんと話し合った後の三江さんの渋谷部長とのコーヒーのやり取りは、葛藤を乗り越えるやり取りです。
重要なポイントは、三江さんはわかりやすい理由を言って渋谷部長の頼みを断り、いくつかのやり取りの後、渋谷部長が「条件つきで依頼してもいいか」と歩み寄り、三江さんが「できるときは喜んで」と応えているところです(Story2)。
この経験がもとになって、三江さんは「言いたいことはきちんと言わないと、伝わらない」ことを学びました。
そして、三江さんのアサーションを見ていた後輩の山本さんも事情を話して先輩キャビン・アテンダント(CA)の依頼を断ることができたのでした。
アサーションは一度で通じるやり取りではありません。特に葛藤が起こったときは、自分の言い分だけを言い張らず、相手を大切にしたやり取りをして、わかり合っていくことでそれを乗り越えることができるのです。
考えていることや意見は変えてもよい
私たちは、互いを大切にして、正直に素直に思いを伝え合うと、互いの思いがわかっていくので、考えが変わります。
三江さんがオドオドせず、率直に渋谷部長とやり取りをした結果、渋谷部長はいつもと違った反応をしました。
これまで一方的だった命令とそれに反する相手の言動への嫌がらせではなく、腹立たしい口調ではあるようですが、「それじゃ、頼んでいいときもあるのか!」と譲歩する姿勢を見せたのです。
それに対して、三江さんもこれまでの思いや恨みを持ち越さず、自分の気持ちを変えて、「できるときはやりますよ」と伝えています。私たちは、自分を大切にしてよいので、一人ひとりが自分について最終的に決心する権利を持っています。
自分がどう考え、どう行動するかについて決め、その結果に責任を取ることができるのは自分ですから、相手の希望に沿って動く決心をすることも、自ら意見を変えることもアサーティブなことです。
意見を言ったからには変えてはならないと思い込んで頑固に言い張ったり、今の気持ちではなく、以前の気持ちを持ち続けたりすることがありますが、それは相手を大切にしていないだけでなく、自分も大切にしていないことになるでしょう。
もし、自分の変化を相手のせいにして悪口を言ったり、責めたりするとしたら、それは自分で決めたことを他者のせいにする攻撃的な態度です。
また、他者も同じく自分の言動を決める権利を持っていますから、あなたが相手の思いや考えを変えることはできません。
「過去と他人は変えられない」と言った心理学者がいます。
つまり、相手は相手の意思で変わるのであり、過去は変えられなくても自分で未来を変えることはできるということです。三江さんの場合のように、自分が変われば相手が変わることもあります。
三江さんだけでなく、渋谷部長の方も、無意識のうちに自身の選択で変わったからこそ、互いを大切にしたことになるのです。
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