序にかえて 経営には〝よりどころ〟が必要である
困難な仕事をやっていくと、その過程で必ず右するか左するかを悩むことがある。
それは自分に確固たる〝よりどころ〟がないからである。
これは実は松下幸之助のものではありません。橋荒太郎氏という人物によるものです。
もう亡くなられて数年たちますが、あの世界のホンダを一代でつくり上げた本田宗一郎氏に藤沢武夫氏という補佐役がいたように、常に松下幸之助を支え続けた、まさに〝名補佐役〟であり、また〝大番頭〟でもありました。
松下幸之助本人からも「松下電器の伝統の精神というものは、私以上に 橋さんがつくってくれた」という最大の賛辞を贈られたほどの人物でした。
氏がそれほどまでに信頼されたのはなぜか。
松下が直面した危機の歴史を紐解けば、それはすぐに分かります。
松下幸之助が、パナソニックの前身となる松下電気器具製作所(一九二九年に松下電器製作所に改称、さらに一九三五年、株式会社に改組し、松下電器産業株式会社となった)を一九一八年に創業以来、幾度かの危機がありましたが、その中でも特に困難を極めたのが、太平洋戦争後の GHQによる財閥家族の指定でした。
家族三人から始めた事業がなぜ財閥なのかという不服の思い、財閥指定によって活動が大幅に制限され、思うように事業ができないことへの焦り、個人資産の凍結、さらにそれをあざ笑うかのように松下電器の赤字は累積し、松下幸之助は「物品税の滞納王」という報道までなされる……。
まさしく絶体絶命の危機に直面していました。
そして、この財閥指定を解除させるために日夜奔走したのが、当時常務だった 橋氏でした。関西から上京すること、百回近くに及んだといいます。その努力があって、財閥指定は解除、再建の道もひらかれたのです。
いざというときに助けてくれる部下、日常から全面的に信頼のおける部下がいるかどうかが、成功する経営者と、成功しない経営者の違いではないか。この 橋氏と松下の足跡を追うほどに、そう思わざるをえません。
と同時に、ならば松下はこの 橋氏のような部下をどうして得ることができたのかという疑問が湧くことでしょう。
それは晩年の 橋氏が自著で語っていることに集約されていると思いますので、そのままご紹介します。
私が一貫して確固たる〝よりどころ〟としてきたものは、松下幸之助創業者の経営理念に基づく基本方針であった。
ほかに類をみないこの基本方針こそ、松下電器発展の大きな要素であると確信したからである。
以来、私は自分の小さな知恵才覚でものごとを判断するのではなく、松下電器の基本方針に沿って仕事をし、やった仕事をまたそれに照らして謙虚に反省し、検討するというやり方を通してきた。
だからこそ、私のような者でも、そのときどきの重責を果たすことができたのだと思う。
氏は、松下幸之助という人間、いやそれ以上に松下の考え方と経営理念に感銘を受け、それによってみずからの任務を全うされたのです。
本論一七項目でも紹介のとおり、松下自身も経営者にとっていちばん大切なのは「確固たる経営理念である」と述べています。
このことは、 橋氏の行き方と完全に符合します。
すなわちそれは「経営理念」によって結ばれた固い絆が、企業の発展に大いなる寄与をしたことを意味するのではないでしょうか。
そして、社員が〝よりどころ〟とすることができる、世間にも認められ通用するような経営理念をもっているかどうかということが、平時はもちろんのこと、危機のときこそ問われるのだという思いがしてなりません。
確固たる経営理念のもと危機を乗り越える この戦後最大の危機の前にも、松下は大きな危機に直面しています。
それは、一九二九年末のニューヨーク株式市場大暴落、そしてその後の世界恐慌が猛威をふるった時代、つまり戦前の「昭和恐慌」の真っ只中のことでした。
ちなみに、一九三〇年代の世界恐慌は、奇しくも二〇〇八年からの現下の世界的金融危機とよく比較されます。
沈静化の兆しを見せつつありますが、いまだ油断できないこの世界的金融危機は、「一つは銀行の危機、もう一つは『流動性の罠』にはまっている」という点で一九三〇年代の世界恐慌に類似すると、二〇〇八年度ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン教授も『危機突破の経済学』(PHP研究所刊)で述べておられます。
実際にこの危機が露呈し拡大したとき、世界経済全体があの一九三〇年代のような事態に陥るかもしれないという危惧が、あながち冗談ではすまされない、それほどの状況でした。
日本経済の牽引役である大手企業、特に外需依存型企業はまさに大打撃を受け、矢継ぎ早にリストラ策が断行されたのは記憶に新しいところでしょう。
しかも、個人消費の冷え込みはいまだ回復していません。こうした危機的状況に陥らないよう、坦々とした経営の道を着実に歩いていく。
できることならばそれが望ましいことですし、そうした心がけを松下自身ももっていたのですが(本論二七項目で紹介しています)、どれほどそう心がけていても、外部要因の急激な変化による、避けられない危機が訪れる可能性は、日本経済が完全にグローバル化したなかで今後ますます高まっていくのではないか、そう思わないではいられません。
そして、このたいへん難しい現況にとっての歴史の教訓となっている昭和恐慌時においても、多くの経営者がリストラや給与削減の大決断を迫られたわけですが、その中の一人に、三十代半ばにさしかかった松下幸之助がいました。
当時は松下電器製作所の所主という立場でした。当時の心境を、松下はつぎのように述懐しています。
金解禁、開放経済に向かわんとして、政府がそれに踏み切ったわけですよ。そのときだいぶガラガラッと来たわけですよ。さっぱり売れんようになってしまった。その時分は今みたいに、銀行は金貸しませんからな。だから、むしろ完全に引き締めですよ。
(中略)だからスパッと売れんようになってしまったんですよ。
(中略)職工さんは半日休み、そして給料は全額払う。
ただし、その時分は個人経営でしたから店員といいましたが、店員は休みなしでやったんです。
店員は朝から晩まで駆け回って売れるだけ売れ、値段は安くしたらあかん、値段は安くしたらいかんけれども、できるだけ努力せえと、そういうことでやったんですよ。
そうしたら二カ月したら、すっかり倉庫が空になって、また全部活動したんですわ。
ところが、その二カ月の体験によって、店員にも職工さんにも非常にいい筋金が入ったわけですよ。
またわれわれ経営者としても、ものにはやる方法があるもんやという、非常に大きな体験を得たわけですね。
非常に強いものがあとに生まれたわけです。
実際にこのあと、松下は順調に業績を伸ばします。
一九三二年には産業人の真使命に思いいたり、一九三三年には本店・工場を大阪府北河内郡門真村(現・門真市)に移転、大いなる発展を遂げますが、実はさきの 橋氏が企業人生の〝よりどころ〟とした、松下経営理念の礎となる綱領と信条を制定したのが、一九二九年三月のことでした。
この大恐慌のまさに直前の時期に生まれた明確な経営理念・方針のもとで、従業員が一丸となって不況に立ち向かうことができたのです。
そしてこうした実体験を経て、「好況よし、不況もまたよし」という松下の名セリフが生まれたのはいうまでもありません。
危機から転じて成長へ――松下幸之助が涙した日
感極まる。そしてみずからの頬に、涙が流れる。そうした経験は、多かれ少なかれ、どなたでも自身の記憶の中にあるのではないでしょうか。
すでに名経営者としての名声を得ていた松下幸之助は、一九六四年七月、熱海の地で、当時の松下電器の販売会社、代理店社長たちを前に、涙しました。
この涙の「熱海会談」(全国販売会社代理店社長懇談会)こそが、松下自身が経営者としての立場にあって最後に直面した大きな危機でした。
当時の販売会社、代理店の営業不振は、松下電器に対する不信へとつながり、その商品力、販売体制への不満を引き起こしていました。
そうした状況下で、会長職にあり第一線を退いていた松下に、長年の企業経営者としてのカンが働きます。
全国の販売会社、代理店の社長を集め、向かいあって話しあい、その実情の把握と打開策の模索が早急に必要であると考えた松下は、熱海会談の実施を決めたのです。
エンドレスの会談としてスタート。
会談は最初から〝松下糾弾大会〟の様相を呈し、二日目を終え、三日目を迎えても議論は依然平行線をたどり、激しいやり取りが続きました。
昼近くになって、松下が応対した時間は計十時間以上に及びました。
そんななかで松下は、互いのこれまでの主張を静かにふり返り、〝責任の大半が松下電器にあるのではないか〟と思いいたります。
そして、壇上から語りかけるように話し始めました。
「これまでお互いに言いたいことを言いました。皆さん方が言われる不平、不満はもっともだと思います。よくよく考えてみますと、結局は松下電器が悪かったのです。ほんとうに申しわけありません。
今日、こうして松下電器があるのは、ほんとうに皆さんのお蔭です。私どもはひと言も文句を言える義理ではないのです。これからは心を入れ換えて出直します」
話しているうちに、松下の目には涙が溢れ、言葉が途切れ途切れになりました。会場はいつしか静まり返り、やがてあちこちで嗚咽の声が聞こえてきたのです。
当時のその瞬間の心持ちを、ある講演会の質疑応答で松下はこう述懐しています。
私もちょっと目がしらを熱くしたんです。
これはまあそんなことが起こるとは思わなかったけれども、そうなったんです。
そしたらみんなハンカチで涙をふくんです。みんな泣いているんですね。
それで、私は、〝人の性というのは善やなあ〟と思った。
三日間不足ばっかり言いあってきた。
最後になって結論は松下電器が悪いということで、私は、小さい町工場から今日にまでなったということを顧みて、目がしらを熱くしたわけです。
それがうつったんですね。
「今まで不足言うたけれど、やっぱり松下だけ責めるわけにいかん。われわれも悪かったんだ」ということで、みんな泣いたんですよ。
これは私の五十年の生涯のうちで初めてでしたな。やむにやまれぬ思いで動いた。あらんかぎりの熱意をもって議論をした。
そうして決断をしたのち、松下は積極果敢に動きました。
みずから営業本部長を代行し、半年にわたる検討の末、「一地区一販売会社制」や「事業部・販売会社の直取引」、月販会社の商品販売の廃止、現金決済への移行を旨とした「新月販制度」など、新しい制度を考案、実施します。
熱海会談後の日本経済は、東京オリンピックによる、いわゆる〝五輪特需〟が去り、さらに金融引き締めも重なって、一挙に不況感が高まりましたが、松下電器はこの販売制度の改革によって危機を切りぬけただけでなく、その後の著しい発展を見ることになったのです。
松下の〝カン〟が結果的に効を奏したわけです。
もちろんそうした松下の行動だけが、飛躍的発展の要因だったとはいえないかもしれません。
しかし、販売会社、販売店を含む全社が一丸となって危機突破に向かっていったのは紛れもない事実でしょう。
会長職にありながら、会社の数字を見、社会状況を見て、不穏なものを感じ取り、熱海会談を開いた。
この決断なくしてその後がどうなったか、それを知る由はありません。
社長みずからが先頭に立ち社員を率いてこそ真の「飛躍」がある
好況よし、不況もまたよし――という松下と同じ思いで、昨年末からの危機と対峙してこられた経営者・経営幹部の方々は、今、何を考えておられるのでしょうか。
現在のような危機の時代には、社業に真剣であればあるほど、決断の際に迷いや苦悩が生じ、それを吹き消すために何かに頼りたくなる、愚痴の一つもこぼしたくなる、だがそうした姿を社員に見せるわけにはいかない、そんな状況なのではないかと思います。
「経営者は孤独な存在である」とよく言われますが、常に決断を迫られ、それを回避すれば社業が回らなくなる。最高責任者である以上、当然といえば当然のこととはいえ、それにしてもほんとうに過酷な職業です。
国家全体、業界全体が高度の経済成長期にあるのなら、その決断も少々の延滞が許されるのかもしれませんが、現実として今の日本経済はそうではありません。
危機の突破口を見いだし、みずからがその突破の先頭に立ち、社員を率いる。
そして、「飛躍」を期す。
そんな孤独で厳しい闘いの日々において、何を指針としていけばよいのか。
そうした思いに参考になるものを、本書において提供したいと弊社では考えました。
したがって、本書では、主に企業経営者の方々の真摯な質問に対して、松下が直接お答えしたもの、また経営者向けの講演録などの発言の中から厳選し、その要点をまとめて編集構成を行いました。
本書が、厳しい闘いが続くなかで道を切りひらかれんとする多くの経営者・経営幹部の方々にとって、励ましの書となることを切に願います。
さらに、次代のリーダーたち、いわばこれから「社長になる人」たちにとって資するところがあれば、たいへん幸甚に存じます。
二〇〇九年八月 PHP総合研究所 経営理念研究本部 取締役本部長 佐藤悌二郎
熱意の章
1最高の熱意はあるか
絶対に必要なのは熱意である。社員が百人いて皆が熱心だとしても、社長は熱意にかけては最高でなければならない。
――親父の後を継ぐことになりました。
しかしまだ若いため経験も乏しく、うまくやっていけるかどうか心配です。
経験不足というハンデを背負うなか、経営者として成功するためには、どのようなことを心がけていけばよいでしょうか。
松下 そうむずかしい問題やないと思いますな。
ぼくはもうあと八十年生きて天寿を全うし、もっと儲けようと思って今一所懸命やってますねん。若い人はぼく以上にそういう意欲を強くもって、希望を膨らまして、成功を信じて仕事に取り組んでいくことですな。小利口に儲けることを考えたらあきません。
世の中にぼろいことはないから、結局流した汗水の量に比例して成功するわけですわ。汗もかかずして、成功するということもたまにはありますけど、それはきわめて僥倖な人で、普通はない。だからいちばん熱心にやる。
そうすると部下が熱心にやっている社長の姿を見て、なんとかわれわれもやってあげないといかんというて、期せずして皆がよく働くようになる。若い経営者はそれで成功すると思います。
だから成功を信じて、自分が先頭に立って率先垂範してやる。
考え方ややり方はいろいろありましょうけれど、原則としては、働かざる者は成功しないでしょう。知恵を働かすか、体を働かすか、何か働かさないといかん。その働く量に応じて成功するということやと思います。きわめて簡単やと思いますな。
そして窮状に陥っても悲観しないことです。(戦争で)自分は財産が一瞬にしてなくなったことがありました。しかも莫大な個人負債ができたんです。しかしこれでも死んでいる人よりましや、弾に当たって死んだ人もたくさんあることを思えば、ありがたいことや、そう思ったら悲観することはない。それで歓喜をもってこの困難に取り組んでいこうと考えてやってきたと思うんですよ。
普通は首でも吊ってしまわなければならないほどの困難な状態ですわ。けれども首も吊らなかったということは、もっと不幸な人のあることを知って、ぼくは恵まれている、こんなに恵まれている自分は幸せや、こういうことを考えたと思うんです。それで悲観せずに働いたことがやはり成功したんやと思いますな。
だから働かずに経済学を習い、学問してうまく経営をやってやろうということも悪くないけども、それだけでなく、もっと手近にやるべきことがあると思いますな。若い青年の人は希望に溢れて、成功してやろうと思ってやっているのやから、それはそれでいいと思います。
それをムダなくやりなさい。ムダなことはやっちゃいけません。いくら熱心でもムダなことやったらいけませんで。それがムダかどうかはあなた自身で考えなさい。これはムダなことかどうか、一つひとつ検討しなさい。必ずムダなことをやっているにちがいない。一度ですむ電話を三度もかけているようなことではいけませんな。一度ですむ電話のかけ方を研究しなさい。
そして熱意がなければいかんと思います。熱意があれば、たとえ黙っていても説得できる。滔々としゃべる必要はない。熱意が込められていれば、無言でもものが売れると私は思うんですよ。
絶対に必要なのは熱意や。まず経営者であれば、社員が百人いて皆が熱心だとしても、社長は熱意にかけては最高やないといかん。
知恵や知識がすぐれた人はいる。けれどもこの商売をやっていこう、この店を経営していこうという経営に対する熱意というものは、だれよりもいちばん強くなければいかん。経営者が熱意に欠けたならば、社員はみな動かないということをぼくは何べんも言うてきたんですよ。
したがって自分は、知識は最近、だんだんとなくなってきたけれども、この松下電器を経営していこうという熱意だけは、何万という人がいても、いちばん最高のものをもっていないといかんと考えています。
もしこれに欠けたら、自分はもう松下電器を辞めないといかん。熱意のない者が最高の地位にいたらあかん、ということを思っています。口がうまく、知識もある。しかし真の熱意が欠けているという人はめったに成功しないですよ。私はそう思いますな。
〔一九七八〕
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