運命を切りひらくために
雨がふれば人はなにげなく傘をひらく
この自然な心の働きにその素直さに
私たちは日ごろあまり気づいてはいない
だがこの素直な心自然な心のなかにこそ
物事のありのままの姿真実をつかむ
偉大な力があることを学びたい
何ものにもとらわれない伸びやかな心で
この世の姿と自分の仕事をかえりみるとき
人間としてなすべきこと国としてとるべき道が
そこにおのずから明らかになるであろう
運命を切りひらくために
道
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。
広い時もある。
せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。
坦々とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。
素直に生きる
逆境──それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯にきたえられてきた人はまことに強靱である。
古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。
まことに逆境は尊い。
だが、これを尊ぶあまりに、これにとらわれ、逆境でなければ人間が完成しないと思いこむことは、一種の偏見ではなかろうか。
逆境は尊い。
しかしまた順境も尊い。
要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。
謙虚の心を忘れぬことである。
素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚を生む。
逆境、順境そのいずれをも問わぬ。
それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。
ただその境涯に素直に生きるがよい。
素直さは人を強く正しく聡明にする。
逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。
おたがいに、とらわれることなく、甘えることなく、素直にその境涯に生きてゆきたいものである。
志を立てよう
志を立てよう。
本気になって、真剣に志を立てよう。
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。
志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
志を立てるのに、老いも若きもない。
そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。
今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。
しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。
つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。
過ぎ去ったことは、もはや言うまい。
かえらぬ月日にグチはもらすまい。
そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。
大事なことは、みずからの志である。
みずからの態度である。
千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。
実行力である。
志を立てよう。
自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。
手さぐりの人生
めくらさんは目が見えないのに、なかなかケガをしない。
むしろ目の見える人のほうが、石につまずいたり、ものに突き当たったりしてよくケガをする。
なまじっか目が見えるがために、油断をするのである。
乱暴になるのである。
目の見えないめくらさんは手さぐりで歩む。
一歩一歩が慎重である。
謙虚である。
そして一足歩むために全神経を集中する。
これほど真剣な歩み方は、目の見える人にはちょっとあるまい。
人生で思わぬケガをしたくなければ、そして世の中でつまずきたくなければ、このめくらさんの歩み方を見習うがいい。
「一寸先は闇の世の中」といいながら、おたがいにずいぶん乱暴な歩み方をしているのではなかろうか。
いくつになってもわからないのが人生というものである。
世の中というものである。
それなら手さぐりで歩むほか道はあるまい。
わからない人生を、わかったようなつもりで歩むことほど危険なことはない。
わからない世の中を、みんなに教えられ、みんなに手を引かれつつ、一歩一歩踏みしめて行くことである。
謙虚に、そして真剣に。
おたがいに人生を手さぐりのつもりで歩んでゆきたいものである。
自然とともに
春になれば花が咲き、秋になれば葉は枯れる。
草も木も野菜も果物も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実をむすぶ。
枯れるべきときには枯れてゆく。
自然に従った素直な態度である。
そこには何の私心もなく、何の野心もない。
無心である。
虚心である。
だから自然は美しく、秩序正しい。
困ったことに、人間はこうはいかない。
素直になれないし、虚心になれない。
ともすれば野心が起こり、私心に走る。
だから人びとは落着きを失い、自然の理を見失う。
そして出処を誤り、進退を誤る。
秩序も乱れる。
時節はずれに花が咲けば、これを狂い咲きという。
出処を誤ったからである。
それでも花ならばまだ珍しくてよいけれど、人間では処置がない。
花ならば狂い咲きですまされもするが、進退を誤った人間は、笑っただけですまされそうもない。
自分も傷つき、人にも迷惑をかけるからである。
人間にとって、出処進退その時を誤らぬことほどむつかしいものはない。
それだけに、ときには花をながめ、野草を手に取って、静かに自然の理を案じ、己の身の処し方を考えてみたいものである。
さまざま
春が来て花が咲いて、初夏が来て若葉が萌えて、野山はまさに華麗な装いである。
さまざまの花が咲き、さまざまの草木が萌え、さまざまの鳥が舞う。
さまざま、とりどりなればこそのこの華麗さである。
この自然の装いである。
花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけ。
それはそれなりの風情はあろうけれども、この日本の山野に、もしこれだけの種類しかなかったとしたら、とてもこの自然のゆたかさは生まれ出てこなかったであろう。
いろいろの花があってよかった。
さまざまの木があってよかった。
たくさんの鳥があってよかった。
自然の理のありがたさである。
人もまたさまざま。
さまざまの人があればこそ、ゆたかな働きも生み出されてくる。
自分と他人とは、顔もちがえば気性もちがう。
好みもちがう。
それでよいのである。
ちがうことをなげくよりも、そのちがうことのなかに無限の妙味を感じたい。
無限のゆたかさを感じたい。
そして、人それぞれに力をつくし、人それぞれに助け合いたい。
いろいろの人があってよかった。
さまざまの人があってよかった──。
真剣勝負
剣道で、面に小手、胴を着けて竹刀で試合をしている間は、いくら真剣にやっているようでも、まだまだ心にスキがある。
打たれても死なないし、血も出ないからである。
しかしこれが木刀で試合するとなれば、いささか緊張せざるを得ない。
打たれれば気絶もするし、ケガもする。
死ぬこともある。
まして真剣勝負ともなれば、一閃が直ちに生命にかかわる。
勝つこともあれば、また負けることもあるなどと呑気なことをいっていられない。
勝つか負けるかどちらか一つ。
負ければ生命がとぶ。
真剣になるとはこんな姿をいうのである。
人生は真剣勝負である。
だからどんな小さな事にでも、生命をかけて真剣にやらなければならない。
もちろん窮屈になる必要はすこしもない。
しかし、長い人生ときには失敗することもあるなどと呑気にかまえていられない。
これは失敗したときの慰めのことばで、はじめからこんな気がまえでいいわけがない。
真剣になるかならないか、その度合によってその人の人生はきまる。
大切な一生である。
尊い人生である。
今からでも決しておそくはない。
おたがいに心を新たにして、真剣勝負のつもりで、日々にのぞみたいものである。
若葉の峠
峠から峠に移る旅路かな──いつ聞いたのか、どこで読んだのか、もうすっかり忘れてしまったが、このことばだけは今も忘れずに、時折の感慨にフト頭をかすめてゆく。
一つの峠を越えてホッと息をついたら、また次に峠が控えていて、その峠を越えると、やっぱり次にまた峠がつづいていて、だからとめどもなく峠がつづいて、果てしもない旅路である。
これもまた人生の一つの真実である。
真実であるかぎり、これは誰も避けられない。
避けられなければ、やはりただ懸命に歩むほかないであろう。
高い峠、低い峠、荒れた峠、のんびりした峠、さまざまの起伏の中に、さまざまの人生が織りこまれて、それで一筋の歩みのあとがついてゆく。
時には雨に降られ、風に吹かれ、難渋の重い足を引きずらねばならぬこともあろうが、また思わぬ暖かい日射しに、チチと鳴く小鳥の声をなつかしむこともあろう。
それでも元気で懸命に、越えられるだけの峠を越え、歩めるだけの旅路を歩みたい。
若葉の峠に、また新しい意欲をおぼえるのである。
是非善悪以前
この大自然は、山あり川あり海ありだが、すべてはチャンと何ものかの力によって設営されている。
そして、その中に住む生物は、鳥は鳥、犬は犬、人間は人間と、これまたいわば運命的に設定されてしまっている。
これは是非善悪以前の問題で、よいわるいを越えて、そのように運命づけられているのである。
その人間のなかでも、個々に見れば、また一人ひとり、みなちがった形において運命づけられている。
生まれつき声のいい人もあれば、算数に明るい人もある。
手先の器用な人もあれば、生来不器用な人もある。
身体の丈夫な人もあれば、生まれつき弱い人もいる。
いってみれば、その人の人生は、九〇パーセントまでが、いわゆる人知を越えた運命の力によって、すでに設定されているのであって、残りの一〇パーセントぐらいが、人間の知恵、才覚によって左右されるといえるのではなかろうか。
これもまた是非善悪以前の問題であるが、こういうものの見方考え方に立てば、得意におごらず失意に落胆せず、平々淡々、素直に謙虚にわが道をひらいてゆけるのではなかろうか。
考え方はいろいろあろうが、時にこうした心境にも思いをひそめてみたい。
病を味わう
病気になってそれがなおって、なおって息災を喜ぶうちにまた病気になって、ともかくも一切病気なしの人生というものは、なかなか望みえない。
軽重のちがいはあれ、人はその一生に何回か病の床に臥すのである。
五回の人もあろう。
十回の人もあろう。
あるいは二十回、三十回の人もあるかもしれない。
親の心配に包まれた幼い時の病から、不安と焦燥に悶々とする明け暮れに至るまで、人はいくたびか病の峠を越えてゆく。
だがしかし、人間にとって所詮死は一回。
あとにも先にも一回きり。
とすれば、何回病気をしようとも、死につながる病というのも一回きり。
あとの何回かは、これもまた人生の一つの試練と観じられようか。
いつの時の病が死につながるのか、それは寿命にまかすとして、こんどの病もまた人生の一つの試練なりと観ずれば、そこにまたおのずから心もひらけ、医薬の効果も、さらにこれが生かされて、回復への道も早まるであろう。
病を味わう心を養いたいのである。
そして病を大事に大切に養いたいのである。
生と死
人生とは、一日一日が、いわば死への旅路であると言えよう。
生あるものがいつかは死に至るというのが自然の理法であるかぎり、ものみなすべて、この旅路に変更はない。
ただ人間だけは、これが自然の理法であることを知って、この旅路に対処することができる。
いつ死に至るかわからないにしても、生命のある間に、これだけのことをやっておきたいなどと、いろいろに思いをめぐらすのである。
これは別に老人だけにかぎらない。
青春に胸ふくらます若人が、来るべき人生に備えていろいろと計画するのも、これもまた死への準備にほかならないと言える。
生と死とは表裏一体。
だから、生の準備はすなわち死の準備である。
死を恐れるのは人間の本能である。
だが、死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れた方がいい。
人はいつも死に直面している。
それだけに生は尊い。
そしてそれだけに、与えられている生命を最大に生かさなければならないのである。
それを考えるのがすなわち死の準備である。
そしてそれが生の準備となるのである。
おたがいに、生あるものに与えられたこのきびしい宿命を直視し、これに対処する道を厳粛に、しかも楽しみつつ考えたいものである。
この日本の国に活力にみちた青春をもたらさねばならない勤労者も学生も経営者も家庭の主婦もあらゆる職業のあらゆる人びとが自分の殻をぬぎすててみずみずしい光のなかへ躍り出よう日本人すべての平和と幸福と繁栄の道を躍動する心で今こそ真剣に考えるのだ
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