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自信を失ったときに

転んでも「七転び八起き」ということわざがある。何度失敗しても、これに屈せずふるい立つ姿をいったものである。人生は長い。世の中はひろい。だから失敗もする。悲観もする。そんなとき、このことわざはありがたい。だが、七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、これはいささか愚である。一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと。一度で気のつく人間になりたい。そのためには「転んでもただ起きぬ」心がまえが大切。このことわざは、意地きたないことの代名詞のように使われているが、先哲諸聖の中で、転んでそこに悟りをひらいた人は数多くある。転んでもただ起きなかったのである。意地きたないのではない。真剣だったのである。失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたほうがいい。真剣ならば、たとえ失敗しても、ただは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。おたがいに「転んでもただ起きぬ」よう真剣になりたいものである。

失敗か成功か百の事を行なって、一つだけが成ったとしたら、これははたして失敗か成功か。多くの場合、事の成らない九十九に力を落とし、すべてを失敗なりとして、悲観し意欲を失い、再びその事を試みなくなる。こうなれば、まさに失敗である。しかし、よく考えれば、百が百とも失敗したのではない。たとえ一つであっても、事が成っているのである。つまり成功しているのである。一つでも成功したかぎりは、他の九十九にも成功の可能性があるということではないか。そう考えれば勇気がわく。希望が生まれる。そして、事の成った一つをなおざりにしないで、それを貴重な足がかりとして、自信をもって再び九十九にいどむことができる。こうなれば、もはやすべてに成功したも同然。必ずやその思いは達成されるであろう。どちらに目を向けるか。一つに希望をもつか、九十九に失望するか。失敗か成功かのわかれめが、こんなところにもある。繁栄への一つの道しるべでもあろう。

紙一重天才と狂人とは紙一重というが、その紙一重のちがいから、何という大きなへだたりが生まれてくることであろう。たかが紙一重と軽んじてはいけない。そのわずかのちがいから、天才と狂人ほどの大きなへだたりが生まれてくるのである。人間の賢さと愚かさについても、これと同じことがいえるのではなかろうか。賢と愚とは非常なへだたりである。しかしそれは紙一重のちがいから生まれてくる。すなわち、ちょっとしたものの見方のちがいから、えらい人と愚かな人との別が生まれてくるのである。どんなに見ようと、人それぞれの勝手である。だからどんな見方をしようとかまわないようではあるけれど、紙一重のものの見方のちがいから、賢と愚、成功と失敗、繁栄と貧困の別が生まれてくるのであるから、やはりいいかげんに、ものの見方をきめるわけにはゆくまい。考えてみれば、おたがいの生活は、すべて紙一重のちがいによって、大きく左右されているのではなかろうか。だからこの紙一重のところをつかむのが大切なのであるが、これにはただ一つ、素直な心になることである。素直に見るか見ないか、ここに紙一重の鍵がひそんでいる。

絶対の確信この世の中、この人生、人はすべからく絶対の確信を持って力強く歩むべしといわれる。それはまことにそうだけれども、よく考えてみれば、この人の世に、絶対の確信などあり得るはずがない。持ち得るはずがない。刻々に変わりゆくこの世の中、あすをも知れぬ人の世で、神か仏でないかぎり、絶対にまちがいのない道など、ほんとうはないのである。だからこそ、おたがいに過ち少なく歩むために、あれこれと思い悩み、精いっぱいに考える。その果てに、どうにもほかに道がなさそうで、だからこの道がいちばんよさそうで、そう考えて、それでもまだ心もとないけれども、心もとないままではしかたがないから、そこに勇気をふるって歩みつづけるのである。みずからを励まし励まし歩みつづけるのである。確信ありげに見えても、ほんとうは手さぐりの人生で、まことにつつましやかなものである。たよりないといえばたよりないかもしれないが、持てもしない絶対の確信に酔うよりも、この心がまえで謙虚に歩むほうが、われも他人も傷つくことが少なくて、結局は最良の道になるのではなかろうか。

心を定めて嵐が吹いて川があふれて町が流れて、だからその町はもうダメかといえば、必ずしもそうではない。十年もたてば、流れもせず、傷つきもしなかった町よりも、かえってよけいにきれいに、よけいに繁栄していることがしばしばある。大きな犠牲で、たいへんな苦難ではあったけれど、その苦難に負けず、何とかせねばの思いにあふれて、みんなが人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きをつみ重ねた結果が、流れた町と流れなかった町とのひらきをつくりあげるのである。一方はただ凡々。他方は懸命な思いをかけている。そのひらきなのである。災難や苦難は、ないに越したことはない。あわずにすめば、まことに結構。何にもなくて順調で、それで万事が好都合にゆけばよいのだが、そうばかりもゆかないのが、この世の中であり、人の歩みである。思わぬ時に思わぬ事が起こってくる。だから、苦難がくればそれもよし、順調ならばさらによし、そんな思いで安易に流れず、凡に堕さず、いずれのときにも心を定め、思いにあふれて、人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きをつみ重ねてゆきたいものである。

懸命な思い人生は坦々たる大道を行くが如し、という人もあれば、嶺あり谷あり起伏の連続、という人もある。いずれが真実か見る人によってそれはさまざまであろう。しかしおたがいに、まずは坦々たる大道とはいいかねるこの日々ではなかろうか。峠を越えればまた峠がある。仰ぎ見つつ息つく間もなく、また登り始める。つまりこれが人生なりとの諦念も、そこにおのずからわいてくるような日々である。しかし、もしこれを神のような立場から見たならばどうなるか。おたがいに起伏の連続と見ているこの人生も、実はそれは起伏でも何でもないのであって、坦々たる大道ではないかということになるかもしれない。つまり、坦々たる大道として与えられているこの人生を、わが心至らず、わが心眼ひらかざるために、嶺あり谷ありと観じているのかもしれないのである。いつの日か、この真実が見きわめられるであろう。けれども、今はただおたがいに、懸命にわが道を歩むほかないであろう。懸命な思いこそ、起伏があろうと、坦々としていようと、ともかくもわが道を照らす大事な灯なのである。

窮屈はいけない窮屈な場所に窮屈にすわっていると、血のめぐりも悪くなって脚もしびれる。身体が固くなって自由な動作がとれないのである。無作法は困るけれど、窮屈はなおいけない。やっぱり伸び伸びとした自由自在な姿が欲しいものである。どんな場合でも、窮屈はいけない。身体を窮屈にするのもいけないが、心が窮屈になるのはなおいけない。心の働きが鈍くなって、よい知恵が出てこないのである。ものには見方がいろいろあって、一つの見方がいつも必ずしもいちばん正しいとはかぎらない。時と場合に応じて自在に変えねばならぬ。心が窮屈ではこの自由自在を失う。だからいつまでも一つに執して、われとわが身をしばってしまう。身動きならない。そんなところに発展が生まれようはずはない。万物は日に新たである。刻々と変わってゆく。きょうは、もはやきのうの姿ではない。だからわれわれも、きょうの新しいものの見方を生み出してゆかねばならない。おたがいに窮屈を避け、伸び伸びとした心で、ものを見、考えてゆきたいものである。

ものの道理人間おたがいに落着きを失ってくると、他人の庭の花が何となく赤く見えてきて、コツコツまじめにやっているのは自分だけ、人はみなぬれ手でアワ、ラクをしながら何かボロイことをやっているように思えてならなくなる。だから自分も何か一つと思いがちだが、そうは世間はゆるさない。人情として、ときにこんな迷いを持つのもムリはないけれど、この世の中に、決してボロイことはないのである。ラクなことはないのである。あるように見えるのは、それはこちらの心の迷いで、本当は、どなたさまも、やはり一歩一歩地道につみ重ねてきた着実な成果をあらわしておられるのである。だから、努力もせずにぬれ手でアワみたいなことをやってみても、それは虫がよすぎるというもの。一時はそれですごせても、決して長つづきはしない。結局は失敗ということになる。これが、ものの道理であって、この道理をはずれた望みを持つというのは、それこそ欲が深いというものである。欲が深いは失敗のもと。やはり、ものの道理に適した道を、一歩一歩あゆんでゆきたい。

一人の知恵おたがいに神さまではないのだから、一人の知恵には限りがある。それがどんなに偉い人であっても、やっぱりその人一人の知恵には限りがある。こんな限りのある知恵で長い人生を歩み、広い世の中を渡ろうとするのだから、ともすればあちらで迷い、こちらでつまずく。自分一人ですむことならそれでもまたよいかもしれないが、この世の中に住む限り、人びとはみなつながっているから、自分がつまずけば、他人も迷惑をする。他人に迷惑をかけるくらいなら、一人の知恵で歩まぬほうがいい。わからないことは聞くことである。知らないことはたずねることである。たとえわかっていると思うことでも、もう一度、人にきいてみることである。「見ること博ければ迷わず。聴くこと聡ければ惑わず」という古言がある。相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持ちがあるならば、思わぬ知恵が与えられる。つまり一人の知恵が二人の知恵になるのである。二人が三人、三人が四人。多ければ多いほどいい。衆知を集めるとは、こんな姿をいうのである。おたがいに、一人の知恵で歩まぬよう心がけたいものである。

一陽来復ひろい世の中、長い人生、いつも心楽しいことばかりではない。何の苦労もなく何の心配もなく、ただ凡々と泰平を楽しめれば、これはこれでまことに結構なことであるけれど、なかなかそうは事が運ばない。ときには悲嘆にくれ、絶体絶命、思案にあまる窮境に立つこともしばしばあるであろう。しかし、それもまたよし。悲嘆のなかから、人ははじめて人生の深さを知り、窮境に立って、はじめて世間の味わいを学びとることができるのである。頭で知ることも大事だが、身をもって知るということが何よりも大事。塩の辛さはなめてみてはじめてわかる。知るということにも、いろいろあるのである。窮境に立つということは、身をもって知る尊いチャンスではあるまいか。得難い体得の機会ではあるまいか。そう考えれば、苦しいなかにも勇気が出る。元気が出る。思い直した心のなかに新しい知恵がわいて出る。そして、禍いを転じて福となす、つまり一陽来復、暗雲に一すじの陽がさしこんで、再び春を迎える力強い再出発への道がひらけてくると思うのである。

おたがい自分ただ一人の立場にこだわることなく二十年後三十年後の日本に大きく目をひらこう人と人団体と団体がともにその独自性を生かしつつのびのびと活動できる秩序正しい自由の中にこそ人間と社会の限りない生成発展が約束されるのだ補うべきは補い助けるべきは助け合って日本と世界を思う高い立場で自由闊達の道を歩もう

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