自得する獅子はわが子をわざと谷底につきおとす。はげしい気迫である。きびしい仕打ちである。だがそのきびしさのなかで、幼い獅子は決してへこたれない。必死である。真剣である。そして、いくたびかころび落ちながらも、一歩一歩谷底からはい上がる。はい上がるなかで、はじめて自立を会得する。他に依存せず、みずからの力で歩むことの大事さを、みずからの身体でさとる。つまり自得するのである。そこから獅子本来のたくましさが芽生えてくる。自得するには、きびしさがいる。勇気がいる。ときには泣き出したいような、途方に暮れるようなこともあろう。泣くもよし。嘆くもよし。しかし次の瞬間には、新たな勇気を生み出さねばならない。きびしさこそ、自得への第一歩ではないか。たくましい自立への道を、みずからさとる貴重な道しるべではないか。勇気を出そう。元気を出そう。激動する世界のなかで、日本の国も容易でない。だから、おたがい一人ひとりも、決して容易でない。自得へのきびしい日々を覚悟したいものである。
虫のいいこと人間はとかく虫のいいことを考えがちで、雨が降っても自分だけはぬれないようなことを、日常平気で考えている場合が多い。別に虫のいいことを考えるのがいけないというのではないが、虫のいいことを考えるためには、それ相応の心がまえが必要なのである。雨が降ったらだれでもぬれる。これは自然の理である。しかし傘をさせばぬれないでもおられる。これは自然の理に順応した姿である。素直な姿である。だから、自然の理をよく見きわめて、これに順応する心がまえを持ったうえならば、どんなに虫のいいことを考えてもかまわないけれど、傘も持たないで自分だけはぬれないような虫のいいことを考えているならば、やがてはどこかでつまずく。つまずいてもかまわないというのなら何もいうことはないけれど、人はとかく、つまずいたその原因を、他人に押し付けて自分も他人も不愉快になる場合が多いから、やはり虫のいいことは、なるべく考えないほうがいい。おたがいに忙しい。忙しいけれど、ときには静かに、自分の言動を自然の理に照らして、はたして虫のいいことを考えていないかどうかを反省してみたいものである。
恵まれている人間というものはまことに勝手なもので、他人をうらやみ、そねむことがあっても、自分がどんなに恵まれた境遇にあるか、ということには案外、気のつかないことが多い。だからちょっとしたことにも、すぐに不平が出るし不満を持つのだが、不平や不満の心から、よい知恵も才覚もわきそうなはずがない。そんなことから、せっかく恵まれた自分の境遇も、これを自覚しないままに、いつのまにか自分の手でこわしてしまいがちである。恵みにたいして感謝をし、その感謝の心で生き生きと働いたならば、次々とよい知恵も生まれて、自他ともにどんなにしあわせな暮らしができることか、思えば愚かなことである。だが恵みを知ることは、そう容易なことではない。古来の聖賢が、恵みを知れ、と幾万言を費やしてきても、実感としてこれを受け取る人はどれだけあるのだろう。頭で理解はしていても、心に直接ひびかないのである。そこに人間の弱さがある。おたがいに修業をしよう。自分は恵まれているということを、直接、自分の心にひびかすために、日常の立居振舞に、今一度の反省を加えてみよう。
こわさを知るこどもは親がこわい。店員は主人がこわい。社員は社長がこわい。社長は世間がこわい。また、神がこわい。仏がこわい。人によっていろいろある。こわいものがあるということは、ありがたいことである。これがあればこそ、かろうじて自分の身も保てるのである。自分の身体は自分のものであるし、自分の心も自分のものである。だから、自分で自分を御すことは、そうむつかしいことでもないように思われるのに、それが馬や牛を御すようには、なかなかうまくゆかないのが人間というもので、古の賢人も、そのむつかしさには長嘆息の体である。ましてわれわれ凡人にとっては、これは難事中の難事ともいうべきであろう。せめて何かのこわいものによって、これを恐れ、これにしかられながら、自分で自分を律することを心がけたい。こわいもの知らずということほど危険なことはない。時には、なければよいと思うようなこわいものにも、見方によっては、やはり一利があり一得があるのである。
あぐらをかく一日の精いっぱいの働きを終えて、わが家の居間にゆったりとあぐらをかけば、心もくつろぐ、身もくつろぐ。だから、身を動かすのがついおっくうになり、家人から、とかく小言の一つも言われやすい。わが家の居間ならそれもよいけれど、やたらにあちこちであぐらをかかれたら周囲の人が迷惑する。じゃまになる。ましてや、自分の地位や立場にあぐらをかいて、仕事の本来の使命を忘れ、自分自身のことにとらわれて、なすべきこともなさぬようなことがあったとしたらじゃまや迷惑ですまなくなる。与えられた仕事が進まないだけでなく、周囲の働きを遅らせて、ひいては社会の発展をも阻害することになる。人それぞれの地位や役割というものは、それぞれに担当している仕事を、周囲の人びとと相協力して、よりすみやかに、より高く進歩させ充実させてゆくことによって、社会の発展、人みなの繁栄に資するために与えられているのである。そんなところであぐらをかいていて、いいはずがない。おたがいに自分の仕事を、自分の役割を、もう一度よくかえりみたいものである。
乱を忘れず景気がよくて、生活も豊かで、こんな姿がいつまでもつづけば、まことに結構である。しかし、おたがい人生には、雨の日もあれば、風の日もある。景気にしても好況のときもあれば、不況のときもある。いつも平和な、いつも豊かなときばかりとは限らない。それが人生である。世の中である。ところが、世の中が落ちついて、ある程度景気もよくなり、生活も向上して、いわゆる安穏な毎日がつづくようになると、いつしか、この世の中の実体を忘れ、人生のあり方を忘れて、日を送る。それですむなら、それでもよかろう。しかしいつかは台風が来、あるいは不景気の波が立つ。そのときになっても、はたしてきのうに変わらぬ泰然の心境でいられるか、どうか。いついかなる変事にあおうとも、つねにそれに対処してゆけるように、かねて平時から備えておく心がまえがほしいもの。「治にいて乱を忘れず」である。それがわかっていながら、しかもおたがいに今ひとつ充分でないのも、これも人間の一つの弱点であろうか。
後生大事賢い人が、賢いがゆえに失敗する、そんな例が世間にはたいへん多い。賢い人は、ともすれば批判が先に立って仕事に没入しきれないことが多い。だから、せっかくの知恵も生かされず、簡単な仕事もつい満足にできないで、世と人の信用を失ってしまう。ところが、一方に「バカの一つ覚え」といわれるぐらい仕事に熱心な人もいる。こういう人は、やはり仕事に一心不乱である。つまらないと見える仕事も、この人にとっては、いわば後生大事な仕事、それに全身全霊を打ちこんで精進する。しぜん、その人の持てる知恵は最上の形で働いて、それが仕事のうえに生きてくる。成功は、そこから生まれるという場合が非常に多い。仕事が成功するかしないかは第二のこと。要は仕事に没入することである。一心不乱になることである。そして後生大事にこの仕事に打ち込むことである。そこから、ものが生まれずして、いったい、どこから生まれよう。おたがいに、力及ばぬことを嘆くより先に、まず、後生大事に仕事に取り組んでいるかどうかを反省したい。
己を知る戦いはまず敵を知ることから始めよ、とはよくいわれることである。太平洋戦争においてわが国が負けたのも、米国の力をよく認識していなかった、相手をよく知らなかったからだといわれている。それもたしかに一理であろう。大事なことである。しかし、敵を知る前に、本当は、もっと大事なことがあるのではなかろうか。それはつまり、まず〝己を知る〟ということである。己をかえりみるということである。敵を知ることもむつかしいけれども、己を知るということは、もっとむつかしい。しかし、敵を知らなければ、勝負は定まらないとしても、己を知らなかったら、戦いには必ず敗れる。連戦連敗、その敗因はわが身にありである。世事万般、これと全く同じことがいえると思う。みずから不都合を生み出している場合が、案外に多いのである。敗因われにありという悔いをおたがいに残さないために、己を知る心がけを、いかなる場合も失いたくないものである。
身にしみる一生懸命にやっていたつもりでも、何かのキッカケで、身にしみる思いをしたときには、今までの一生懸命さが、まだまだ力足りぬことに気がつくことが多い。身にしみるということは、尊いことである。ありがたいことである。ものごとをキチッと誤りなくなしとげるためには、事の大小を問わず、そこにやはり身にしみる思いというものが根底になければならないのである。今日、小さなビル一つを建てるのに、文明の利器をフルに利用しても、一年半はかかる。ところが、あの豪壮華麗な大阪城が、諸事不便なあの時代に、わずか一年半で築造されたという。その大業の根底には、築造に従事した人びとに、ヘタをすれば首を切られる、やり通さなければ首がとぶという生命をかけた真剣さがあったのである。そのことのよしあしは別として、生命を失うかもしれないということほど、身にしみるものはない。おたがいにともかくも、きょう一日の仕事をつづけている。ともかくも一生懸命であろう。しかし今一度、ほんとうに身にしみる思いで、自分の仕事をふりかえってみたい。
正常心火事になればだれもがあわてる。たいへんな非常事態で、だからなりふりもかまわず、他人の足をふんででも、まず火を消さねばならぬ。物を持ち出さねばならぬ。人の助けもかりねばならぬ。非常の場合には、非常の措置もやむを得ないのである。戦後数年のわが国は、この火事以上の非常事態であった。だから非常のなかの非常の振舞方や考えが、次々とあらわれてきた。やむを得なかったともいえよう。しかし、これはあくまでも非常のなかでのことである。火事がおさまれば、やはり他人の足をふむことはゆるされぬ。人の助けをかりることを、当然と考えるわけにもゆかない。正常にかえれば、正常の心がやはり求められるのである。わが国の人心は、現在、はたして正常にかえったかどうか。生活は正常にかえったのに、〝非常〟に甘えた振舞や考え方が、なお根強く残っていはしないか。正常心にかえるためには大きな勇気がいる。勇気をもって反省してみたい。ふりかえってみたい。そこに人としての道のはじまりがあるといえよう。
わが身につながる何でもかんでも、わるいことはすべて他人のせいにしてしまったら、これほど気楽なことはないだろう。すべて責任は相手にあり、都合のわるいことは知らぬ存ぜぬである。だがしかし、みんながみんなこんな態度で、責任の押しつけ合いをしていたならば、この世の中、はたしてどうなることか。理屈はどうにでもたてられる。責任をのがれる理屈は無数にあろう。また法律上は、無関係、責任なしということもあり得ることである。しかしこれは理屈や法律だけのこと。人と人とが相寄って暮らしているこの世の中、どんなことに対しても、自分は全く無関係、自分は全く無責任──そんなことはあり得ない。一見何の関係もなさそうなことでも、まわりまわってわが身につながる。つながるかぎり、それぞれに深い自己反省と強い責任感が生まれなければならないであろう。すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人情の常ではあろうけれども、それは実は勇気なき姿である。心弱き姿である。そんな人びとばかりの社会には、自他ともの真の繁栄も真の平和も生まれない。おたがいに一人前の社会人として、責任を知る深い反省心と大きな勇気を持ちたい。
教えなければ人間はえらいものである。たいしたものである。動物ではとてもできないことを考えだして、思想も生みだせば物もつくりだす。まさに万物の王者である。しかしそのえらい人間も、生まれおちたままに放っておいて、人間としての何の導きも与えなかったならば、やっぱり野獣に等しい暮らししかできないかもしれない。古来、どんなにすぐれた賢者でも、その幼いころには、やはり父母や先輩の教えを受け、導きを受けてきた。その上に立っての賢者であって、これらの教え導きがなかったら、せっかくの賢者の素質も泥に埋もれたままであったろう。教えずしては、何ものも生まれてはこないのである。教えるということは、後輩に対する先輩の、人間としての大事なつとめなのである。その大事なつとめを、おたがいに毅然とした態度で、人間としての深い愛情と熱意をもって果たしているかどうか。教えることに、もっと熱意を持ちたい。そして、教えられることに、もっと謙虚でありたい。教えずしては、何ものも生まれてはこないのである。
学ぶ心自分ひとりの頭で考え、自分ひとりの知恵で生みだしたと思っていても、本当はすべてこれ他から教わったものである。教わらずして、学ばずして、人は何一つ考えられるものではない。幼児は親から、生徒は先生から、後輩は先輩から。そうした今までの数多くの学びの上に立ってこその自分の考えなのである。自分の知恵なのである。だから、よき考え、よき知恵を生み出す人は、同時にまた必ずよき学びの人であるといえよう。学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児、先輩のきびしい叱責、後輩の純情な忠言、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらのすべてに学びたい。どんなことからも、どんな人からも、謙虚に素直に学びたい。すべてに学ぶ心があって、はじめて新しい知恵も生まれてくる。よき知恵も生まれてくる。学ぶ心が繁栄へのまず第一歩なのである。
もっとも平凡な朝起きたら顔を洗う。家の前をはいて水を打つ。しごくあたりまえのこと。ものをもらえばありがとう。お世話になったらすみません。とりちらかしたら、あとかたづけ。別にむつかしい理屈も何もない。犬や猫ならいざ知らず、人間としてなすべき、もっとも平凡な、もっともあたりまえのことである。ところがこれに理屈がつく。手前勝手な理屈がつくと、いつのまにやらあとかたづけ不要。顔も洗わず水も打たず。平凡なことが何やらむつかしいことになって、何をなすべきか右往左往。そんなことが、きょうこのごろはあまりにも多すぎはしないか。それもこれも、つまりは自分なりの都合のよい道を求めてのことであろうけれども、自他ともの真の繁栄への道は、本当はもっとも平凡なところにある。みんなが納得するしごくあたりまえのところにある。別にむつかしく考える必要はないのではないか。もう一度考え直してみたい。水が低きに流れるように、夏がすぎたら秋がくるように、自然の理にかえって、もう一度素直な心で考え直してみたい。
敬う心学校の先生を軽んじ、師と仰ぐ気持ちがなかったら、先生も教える張合いがないし、生徒も学びが身につかない。社会にとっても大きな損失である。やはり聖職の師として先生を敬い、謙虚に師事する姿から、一言一句が身につき成長する。親を大事にし、上司に敬意をはらう。先輩に礼をつくし、師匠に懸命に仕える。親や師にたいするだけではない。よき仕事をする人を心から尊敬し、一隅を照らす人にも頭を下げる。天地自然、この世の中、敬う心があれば、敬うに値するものは無数にある。犬や猫には敬う心の働きはない。だが人間には、ものみな、人みなのなかに敬うべき価値を見いだす能力が与えられている。本質として与えられている。その本質を生かしつつ、敬うべきものを敬うことによって自他ともの心をゆたかにし、高めることのできるのは人間だけではなかろうか。その人間の特性を素直に生かしたい。敬う心を高めて、おたがいのゆたかさをはかりたい。
身につまされる一つのことを聞いても、一つのことを見ても、わが身につまされる思いがあったなら、その見たり聞いたりしたことが、そくそくとわが身にせまってきて、いろいろさまざまの感慨が生み出されてくる。身につまされてもらい泣きというけれど、つまりは人の世の喜びも悲しみも、その味わいも、身につまされた思いのなかで、無限に深まりゆくのである。ただ事なかれの日々をすごして、生命をかけて打ちこむほどの思いも体験もなく、従って何を見ても聞いても身につまされず。何もかもが他人事で、何もかもわれ関せず焉。それも一つの生き方ではあろうけれど、見方によってはまことに味わいうすき人生とも言えるであろう。人間にとって、人生を歩む上において、身につまされるということは、やはり大事である。そしてこれは何も個人の身上のことだけではない。身につまされる思いで、おたがいのまわりを、もう一度よく見まわしたい。おたがいのこの国日本のことも、わが身につまされる思いで、もう一度よくよく考えてみたい。反省してみたい。
それは夢にすぎないだろうかただおたがいおなじ国に生きる人間として素直に心と心を寄せあい手と手を握りあってこの国日本の繁栄と平和と幸福とをひとすじに探し求めることができないだろうか真剣になれば意見の対立もおきるに違いないだが私たち日本人としての願いが一つならかならずそこに高い調和と力が生まれようそれは決して夢ではないはずだ
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