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第 10章 進化の命令のなかに幸せを見つける

第 10章 進化の命令のなかに幸せを見つける 幸せの目的についてのここまでの議論を踏まえ、人間に幸せをもたらすものはズバリ何かという問いに眼を向けたい。進化がわたしたちの動機づけシステムを形作ったとすれば、〝進化による命令〟について考えることによって、よりよい人生を送るための手がかりが見つかるはずだ。 一部の命令について考えてみると、幸せへとつながる進化のガイドブックはごく短いパンフレットみたいなものにも思えてくる。たとえば、次のような単純な方程式で表現できるはずだと考える人もいるかもしれない。 食べもの +セックス =幸せ この方程式には一定の真実が含まれているとしても、ほんとうの物語はずっと複雑だ。進化の命令に応えてさえいれば、人は幸せになることができるのかもしれない。でも、これらの命令は互いに食いちがうことが多く、命令に応えながらうまく前に進むためにはかなりの知恵と自己認識が必要になる。そのむずかしさは、人間にとってもっとも重要な生殖と生存というふたつの目標の微妙な関係性に如実に反映されている。遺伝子を次世代に引き継ぐためには両方を達成しなければいけないが、生殖こそが進化の通貨であり、生存は生殖という目的に役立つという程度でしか大切ではない。 進化による衝動を管理するとき、人は多くの障壁を乗り越えなくてはいけない。それらの障壁を越えることは、ほかの数多くの複雑さによってよりむずかしいものになる。そのような複雑さには古代から続くものもあれば、現代的なものもある。古代に眼を向けると、進化の命令はすべての人間に共通するものにもかかわらず、達成するための戦略は人によって異なることがわかる。人間以外の多くの種にとって、成功を手にするための方法はひとつしかない。あなたがオスのフンコロガシだとすれば、体重の何倍もある糞の玉を転がす能力を身につけなければいけない。あなたがオスのヘラジカだとすれば、ほかのオスと角を突き合わせたときに相手を地面に倒さなくてはいけない。しかし人間にとって、戦略の数を制限するのは自分たちの想像力だけだ。髪をカールさせるか、ストレートにするか、あるいは切るか? 歯をホワイトニングするのか、歯列矯正のためにお金を使うのか? ティンダーに載せる写真を撮るとき、切手のコレクションと一緒に写るほうがいいのか、ボクシングのトロフィーと一緒のほうがいいのか? 幸せを手に入れる方法を知るためには、性格、気質、能力のそれぞれが成功をもたらしてくれる可能性があることを理解しなくてはいけない。すべての道が幸せにつながっているわけではない。しかし、人それぞれ歩むべき道はちがう。 現代的な複雑さのほうはどうだろう? 高度な技術に満ちた世界では、幸せの追求を邪魔する新たな罠が増えつづけている。その原因となるのが、ロバート・トリヴァースが〝表現型の贅沢〟と呼ぶものだ。表現型の贅沢は心地よいものではあるにしろ、人間の進化した好みの代用物でしかない。たとえば酒、ドラッグ、テレビ、さらにはポテトチップスも表現型の贅沢の一例だといっていい。こういった贅沢は古代の喜びによく似てはいるものの、望ましい結果を与えてはくれない。望ましい結果があったからこそ、古代のさまざまな活動は多くの人に広まり、結果として楽しいものになった(テレビでドラマ『フレンズ』を観ることと、実際に友だちを作ることのちがいを考えてみてほしい)。 わたしたちが進化の命令に支配されているという考えがあまりに決定論的だと思う方は、人間が同時に地球上でもっとも認知的に柔軟な種に進化したという事実を思いだしてほしい。第 2章で説明したように、人間は生存・繁栄するために膨大な量の情報を学ぶ必要がある。くわえて、ほかのいかなる動物よりも人間はどう生きるかを自ら決めなくてはいけない。すべての行動のなかに幸福を見いだせるという意味ではない(事実、多くの人は幸せを見つけられない)。しかしそれが意味するのは、人生における幸せの大切さ、幸せを追求するための効果的な方法を自分で決められるということだ。過去の進化圧をとおしてできあがった人間の本質を理解できれば、その知識こそが幸せを追い求めるための道標となり、さらには幸福そのものを理解する手助けとなるかもしれない。幸せへの進化的ガイド 進化にとってなにより重要なのは、ほかでもなく繁殖である。しかしこの事実によって、よくありがちなふたつの誤解が生まれた。ひとつ目の誤解は、自分の遺伝子を引き継ぐためには、自分自身の子どもをもうけなければいけないという考え。実際には、親戚の繁殖を後押しすることによって、進化的な成功を成し遂げることもできる。進化の圧力は、良い親になるよう人を導くのと同じように、良いおじやおばになるよう人を導いてくれる。親であろうとおじやおばであろうと、最終的な結果はほとんど変わらない。姪や甥を助けることによって、良いおじやおばの遺伝子のコピーが次世代へと引き継がれる確率は高くなる。 ふたつ目の典型的な誤解は、進化によって人間が繁殖への願望をもつようになったという考え。進化が繁殖に頼っているからといって、人間が子どもをもちたいという欲求が同じように進化したという意味ではない。進化の歴史のなかではつい最近まで、セックスが子どもを生みだすということに人間は気づいていなかった。よって、たとえ子どもを作るという欲求を人間に与えたとしても、進化は何も達成できていなかったにちがいない。むしろ進化が人間に与えたのは、セックスをしたいという強い欲求であり、(ヒトは両親による世話を必要とする種なので)生んだ子どもを愛おしく感じるという性格だった。性欲にくわえて面倒見の良さ(養護性)を進化させた人間は、結局同じ結果にたどり着いた。つまり子どもを欲するように進化していたとしても、子どもを作る方法をもともと知っていたとしても、結果は同じだった。セックスをしたいという気持ち、その結果として生まれた子孫に養護性を感じるという組み合わせは、人間とほかのすべての哺乳動物にとってうまく機能するものだった(あるいは少なくともほかのすべてのメスの哺乳動物にとっては機能した。両親による子育ては、人間の毛むくじゃらの親戚たちのあいだではあまり一般的ではない)。 子どもを作る欲求がないのに、セックスへの欲求がある。そんなのは非効率的ではないかという声が聞こえてきそうだが、まさにそのとおり。人間(とほかの霊長類)は、繁殖とは直接関係のない多種多様なムダなセックスをする。おそらく、手の進化のわずか四五分後には自慰行為が生みだされていたにちがいない。蹄があると自慰行為はできなかっただろうし、鉤爪がついた手では危険すぎた。いずれにせよ、繁殖へとつながる性的活動を充分に行なっているかぎり、生殖には関係のないセックスのためのムダなエネルギー消費による損失もそれほど大きなものにはならない。 繁殖において、セックスが中心的な役割を果たしているとすれば、頻繁に性行為をすること(とくに好きな相手とセックスできること)はよりよい人生へのカギとなる。しかし、たびたびの性行為だけでは繁殖の成功には不充分であり、それだけで幸せな人生を手に入れることはできない。人間の子どもが長期にわたって親に依存するという事実は、〝親であること〟もまた繁殖にとってこのうえなく大切であることを意味するものだ。実際、子どもを育てることは非常にむずかしく、両親のみの世話だけでは足りない場合もあるため、進化は祖父母という存在を生みだした。 本書の冒頭でも取り上げたとおり、ミルッカ・ラハデンペラらの研究チームは次のような事実を突き止めた。祖母の助けがある場合、祖先の子どもたちが幼少期を生き延びる確率が上がり、母親が次の子どもを産むまでのスパンがより短くなった。では、進化はどのように祖母を生みだしたのだろう? まだ充分な体力があるにもかかわらず、女性たちは途中から自身の子どもを産むことができないようになった。そうやって進化は、女性たちの眼を自分の子どもではなく、孫に向けさせることに成功した* 1。これこそ、ヒトの女性が閉経するようになった理由だ。 デューク大学のスーザン・アルバーツ率いるチームは、ある研究のなかでヒトの女性とほかの霊長類のメスが繁殖能力を失ったあとにどれくらい生き延びるかを比較した。図 14のグラフのとおり、ヒトは霊長類の親戚たちよりも飛び抜けて長生きすることがわかった。ほかの類人猿やサルはみなグラフ内の対角線上に位置しており、死ぬまで繁殖力があることがわかる。たとえば、チンパンジーのメスは四〇歳前後まで子どもを産む傾向があり、だいたい四〇歳前後まで生きる。このグラフの〝ヒト〟のデータは狩猟採集民のクン族を対象としたものだ。現代的な医療をほぼ利用できない彼らのデータは先進工業国で暮らす現代人のデータとは異なり、祖先たちがかつてどう生きていたかという大きなヒントを与えてくれる。グラフによると、クン族の女性たちは四〇代前半まで子どもを産む傾向があるが、その後も多くの人は七〇代なかばまで生きる。祖母による子育ての必要がなかったとしたら、女性が生殖能力を失ったあともこれほど長く生きるというのは、どこか奇妙な進化の流れだといっていい(進化は生存そのものについては関知していない点を思いだしてほしい)。

したがって、子どもや孫を世話・教育することは人生の満足度を高めるための大切な源となる。もちろん、子どもや孫と過ごすすべての瞬間を楽しめるように人間が進化したというワケではない。たとえばわたしの場合、子どもたちがまだ幼かったころ、月曜日になって学校に送りだす瞬間を週末のあいだずっと待ち望んでいた。しかし、子どもたちが人生で成功する姿から、わたしたちは大きな満足感を得る。子どもの高校の卒業式や結婚式が始まってわずか数分で、この事実はすぐに証明されるはずだ。 はじめに断わっておくが、次のポイントについては性差別だと考える方もいるかもしれない。しかし第 4章で論じたように、子どもを産んで育てるという点において、女性は男性よりもはるかに大きな生物学的投資をすることを強いられる。結果として、子ども(と孫)を育てることは、男性よりも女性の人生の満足度により大きな影響を与えると考えられる。仮にそうだとしても、自分や近親者の子孫の生存を手助けすることは、男性と女性の両方にとって利益となる。よって次世代の親族を養うことは、全員にとって幸福のための大切な源となるにちがいない。さきほども触れたとおり、子育てのために日々やるべきことが楽しいという意味ではなく(往々にして楽しくはない)、子どものために正しいことをしたという知識が人生の満足度を高める大きな源になるのだ。 ここまでの幸せのためのレシピ──セックスをして、子どもをしっかり育てる──は、誰にとっても自明の理のようなものだろう。しかし実際の生殖はもっと複雑であり、生殖が人生の満足度に与える影響ももっと複雑なものだ。人間の生殖におけるとりわけ複雑な側面のひとつは、はじめの段階で適切な相手を見つけるというプロセスだろう。長年のパートナーを選ぶためには、遠い将来まで見据えて自分の好みを予測する能力が必要になる。むかしの自分の服装や髪型について少し思いだすだけで、そのような予測がいかにむずかしいかがわかるはずだ。毎週わたしは果物市場に行き、どのバナナがすぐに茶色くならずにタイミングよく熟すのかを予測しようとするが、毎回ひどく苦労する。だとすれば、コートニーとキムのどちらと結婚したほうが今後四〇~五〇年にわたって幸せな生活を送れるかなど予測できるだろうか? 永続的な一雌一雄関係を築く人間のような種にとって、パートナー同士の連携は相互の決定となるため、この予測にまつわる問題はよりいっそうむずかしくなる。わたしたちがワライガエルだったとしたら、繁殖におけるオスの役割は卵を受精させることだけなので、すべてのメスはもっとも理想的なオスと交配することができる。しかし、人間は男女一緒に協力しながら子どもを育てるため、すべての女性がもっとも理想的な男性とセックスして子どもをもうけることはできない(その逆もまたしかり)。むしろ、出会いの機会や互いの選択肢はきわめて限られているため、結果として妥協する必要に迫られ、わたしたちは相手に求める条件のいくつかをあきらめなくてはいけなくなる。当然ながら、パートナー選びでどこを妥協するかという基準は人によって異なる。あなたは相手のやさしさにこだわるかもしれないし、わたしは価値観の一致に重きを置くかもしれない。頭の良さ、ルックス、経済力をとくに重視する人もいるだろう。 この相互関係の問題を解決するための最善の方法は、自分ができるかぎり魅力的な人間になり、愛する人が愛し返してくれる可能性を高めることだ。このような理由から、進化はわたしたちを次のように動機づけする──セックスをして子どもを作りたいともっとも強く感じる相手の気を惹き、自分のもとにとどまってくれる確率を上げるための行動をとる。言い換えれば、異性が求めている理想像に近づこうとする傾向があるということだ。 異性が何を求めているのか? この問いを人生最大の謎のひとつのように感じている人も多いにちがいない。しかし、実際にはそれほど謎めいたものではない。男性と女性がパートナーに求めることには多くの共通点がある。たとえば、やさしさと寛大さは全員のリストの上位にランクインしているはずだ。セクシーさ、おもしろさ、賢さも大きな武器になる。しかし第 4章で説明したとおり、ただ賢くセクシーなだけでは充分とはいえない。大切なのはまわりの人に比べてより賢くセクシーになるという点であり、さもなければあなたはパートナー候補リストの最下位に落ちてしまう。すべての特性は相対的なものだ。これは、あらゆる分野でいちばんになる必要があるということではなく、もっとも大きな見込みのあるところで抜きんでなければいけないという意味だ。わたし自身の例でいえば、一六八センチの身長と二三センチという垂直跳びの記録を見るかぎり、バスケットボールで活躍する見込みは低いことは明らかで、いままで真剣に取り組んだこともなかった。しかし、それに比べるとテニスのほうはまだ見込みがあったので、わたしはより多くの時間をテニスコートで過ごし、うまくなるように努力した(結局ダメだった)。 ここで強調しておきたいのは、わたしはけっして女子にモテるためにテニスの技を磨こうとしたわけではなかったという点だ(もちろん、高校のテニス部のロゴが入ったジャンパーを着て注目を浴びる姿が脳裏をよぎったことはたしかだとしても)。わたしがテニスを練習したのは、テニスが大好きだったからだ。しかし究極的にいえば、本人が考える動機などたいした問題ではない。大切なのは、行動がどのような結果につながるかということだ。すぐれたテニス選手になることが多くの人の眼に魅力的に映るとすれば、わたしの〝テニス愛〟はより大きくなる。なぜなら、それがわたしの繁殖の成功率を高めるからだ。 似たように、まわりよりも良くなりたいという思いはたびたび、専門的技能を身につけるという欲求につながる。専門的技能が大事なのは、独自のスキルで他者と自分を差別化し、より理想的なパートナーになることができるからだ。しかし同時に専門的技能を追い求めることには危険な一面もある。相対的な地位の根底にはつねに不安感がただよっており、わたしたちはいとも簡単に快楽適応の罠にハマってしまう。まわりに追いつき追い越そうと躍起になるあまり、達成感や幸福感はすぐに消えていく。さきほど出てきた架空の先祖クラッグのように、いったん誰かを負かしたら、わたしたちはすぐさま別の集団に狙いを定めることになる。財産のような成功の指標が幸福感に大きな影響を与えるのは、まわりの人々よりも財産を多くもっているときだけだ。だとすれば、人間がほんとうに追い求めているのは、お金ではなく地位だといっていい。この点については、次に挙げるふたつの研究結果を見るとよく理解できるはずだ。 サルを使った地位に関する研究では、階層の頂点に上りつめたサルの脳内のドーパミン(進化のための快楽ドラッグ)感受性が高まることが証明されている。ドーパミン感受性が高まった結果、群れのボスとなったサルはコカイン(ドーパミン系を乗っ取るドラッグ)に興味を示さなくなるという。コカインと食塩水を同時に与えられたとき、群れのトップに立つサルたちに好みの差はほとんどなかった。対照的に階層の下のほうにいるサルはドーパミン感受性が低く、コカインを好む頻度が増えた。このようなデータは、「高い地位が人を幸せにし、低い地位が悲しくさせる」という従来の常識を裏づけるものだといっていい。 お金に関する研究に眼を向けると、いったん貧困層から抜けだすと、富と幸福の関係は意外とそれほど強いものではないことがわかっている。より重要なことに、社会全体の富が平均的に増したときには、貧困層以外の人々の幸福度はまったく上がらない。図 15のように、アメリカ合衆国における過去五五年間の国民の生活満足度と購買力を比較すると、その傾向がはっきりとわかるはずだ。このグラフから明らかなように、(インフレ率を加味して調整された)実質所得が社会全体で劇的に上がっているにもかかわらず、それにともなって幸福度が上がっているわけではない。

これらのデータから次のようなことがわかる。わたしの自宅にホームシネマ、御影石のキッチンカウンター、オープンカーがあったとしても、それを所有するのがわが家だけでないかぎり、わたしをちっとも幸せになどしてくれない。言い換えれば、わたしがそれらの品々を手に入れることを望むのは、たんにほかの人よりも上に立ちたいからだ。さらに、自ら認識しているかどうかは別として、わたしが山の頂に立ちたいと思うのは、その地位に上りつめることによって心から望むパートナーを得るチャンスが増すからだ。テレビ、キッチンカウンター、車は些細な要素でしかない。ところがその事実を知らないわたしは、豪華な品を手にすることをずっと夢見つづける。そして努力の末にやっとのことで実際に手に入れると、やがて興味を失ってしまう* 2。 残念ながら、この快楽適応の罠から抜けだすのは容易なことではない。数百万年にわたって性淘汰は、人間の精神のもっとも深いところに地位への不安を刻み込んできた。わたしたちの多くはそれをオフにするどころか、無視することさえできない。だとしても、問題を意識することが何かの役には立つはずだ。たとえば意識すれば、より永続的な幸福を与えてくれる可能性のある人生の別の側面に注意を向けることができるようになる。このような意識は、自分がよりよい親や友人になるための後押しもしてくれる。上司とのランチ中、あるいはテニスの練習中、自身が心の奥底で地位の向上を求めていることに気づいてはいないかもしれない。しかし人間には他者の本質を見抜く能力が備わっている。友人や家族がほかの人との差に悩んでいるのを目の当たりにしたとき、他人のことなんていちいち気にするなと突き放すのではなく、わたしたちは彼らの不安感に寄り添って同情することができるはずだ。 深く根づく地位への不安を無視することはできないとしても、物質的なモノではなく活動にお金を使うことがひとつの解決策となる。言い換えれば、何かを所有するためではなく、何かをするためにものを買うということだ。あなたがわたしと似ている人間だとすれば、この提案は直感に反するものであり、お金のかかる経験は贅沢ではないかと考えているにちがいない。ここで、わたしの大学院時代のある経験を例として挙げたい。当時のわたしはとにかく貧乏で、部屋にあったソファーも道端から拾ってきた安物だった。にもかかわらず、なけなしの貯金を使ってスキー旅行に行くことを決めたわたしは、ひどい罪悪感に苛まれた。空港に向かう途中でさえ、わたしはまだ自問していた。アスペンへの旅行よりも、家具のほうがより長持ちする賢い買い物なのではないか? しかし結局、その反対が正しかったのだとわかった。つまりソファーよりもスキー旅行のほうが、より長持ちする買い物だったのだ。一九八七年に行ったそのスキー旅行のことをいまでもときどき思いだし、わたしは幸せな気持ちになる。友人たちと会うといまだ、旅行中の楽しい思い出を語り合っている。旅行に行く代わりに、購入を検討していた高級ソファーを買ったとしても、ずっとまえに妻に捨てられていたにちがいない。 コロラド大学のリーフ・バン・ボーベンとコーネル大学のトーマス・ギロビッチによる研究は、この点についてわたしが独りぼっちではないことを教えてくれる。図 16からわかるように、生活必需品だけでなく贅沢品を買える余裕が生まれたあとはとくに、体験型消費のほうが物質的消費よりも大きな満足感を人に与える。この関係は、同じ商品を物質的な理由(高級車が欲しい)によって買った場合と、経験型の理由(ジャガーの新車で曲がりくねった田舎道を走ってみたい)によって買った場合にも成り立つ。

次回、お金が使いたくなってうずうずしたときには、モノより経験を買うほうが大きな快楽へとつながる投資であることを思いだしてほしい。わたしたちが所有するモノの魅力は、地位に関する目標がリセットされたとたんに失われていく。しかし、わたしたちがするコトは肉体の一部に変わる。肯定的な経験は、友だちや家族に語る物語──もっとも貴重な思い出──を与えてくれるだけでなく、経験が終わったあともずっと満足感を生みだしつづける。幸せと生き残り 生き残るという目標はすべての生物にとっての基本であり、人間の感情的な反応の多くはそのなかに生存価値があるからこそ進化した。人間が脂、砂糖、塩を食べるのを楽しむのは、先祖の環境では手に入れることがむずかしかったものの、それが生き残りには欠かせないものだったからだ。夜に森を歩くとき、わたしたちは不安と恐れを抱く。耳や鼻よりも眼に大きく依存する人間はしばしば、まわりが暗くなったとたんに捕食者から被食者に変わってしまう。自分が属する集団から追放されることは先祖たちにとって生死にかかわる脅威だったため、人間は友人や隣人から拒絶されることに過度に敏感になる。祖先たちを自然の猛威や捕食者から護ったのは家庭の存在であり、だからこそ現在のわたしたちも家庭から慰めと安心を得ることができる。これらのあらゆる傾向は、人類がホモ・サピエンスになるずっとまえから続いていた。 生き残りのための目標には大きな意味があるにもかかわらず、ときに繁殖のための目標が優先されることも多い。この優先順位の交換のもっともわかりやすい例は、老化のプロセスそのもののなかに隠れている。人間が年老いて死ぬおもな理由は、貴重な生物学的資源を組織の維持や修復に費やすのではなく、生殖相手を惹きつけて関係を保ち、繁殖するために費やすからだ。生殖ではなく長寿をとおして遺伝物質を引き継いでいたとしたら、充分な資源が組織の維持に費やされるように人間は進化し、何十年どころか何百年も生きながらえることができていたにちがいない。理論上、そのような結末も大いに考えられることだった。寿命が延びれば生殖のための期間も長くなり、結果としてより多くの子孫を残すことができるようになる。しかし、捕食者と寄生虫が一気に増えたことによって、長寿にもとづく戦略の見通しは疑わしいものになった。先祖たちにとって、年老いてから死ぬというケースは珍しいものだったので(図 8を思いだしてほしい)、長く生きるための努力に大きな意味はなく、生物学的資源はより喫緊の目標である繁殖のために効率よく費やされた。そういった理由から、若いあいだに人間が生殖するのに役立つ特性は、(それが年老いたときに死を招くものだとしても)選択的な優位性をもっていることが多い。 そのような特性はアポリポ蛋白 E遺伝子の ε 4対立遺伝子にも見られ、これが高齢になってからアルツハイマー病を発症する大きな要因になっているといわれている。皮肉なことにこの対立遺伝子には、人生のより早い段階では認知機能の向上をうながす効果がある。つまり若いころに大きな利益をもたらすため、アルツハイマーを引き起こす破壊的な遺伝子が人々のあいだに広まっているというわけだ。進化が繁殖のために生き残りを犠牲にする傾向があるという事実は、アポリポ蛋白 E遺伝子の ε 4対立遺伝子と似たような自己破壊的な心理的傾向が人間のなかに数多くあることを示唆している。 この〝心理的な ε 4対立遺伝子〟のとりわけわかりやすい例は、危険をいとわない対立好きな男性の態度のなかに隠れている。ほとんどの先進工業社会において、人口統計的にもっとも大きな危険因子は「若さ」と「男性」の組み合わせだ(〝テストステロン中毒〟、あるいは単純に〝男子の愚かさ〟と呼ばれる)。インペリアル・カレッジ・ロンドンの生物学者イアン・オーウェンスは研究のなかで、一九九〇年代末のアメリカ合衆国における男女・年齢別の死亡率について調べた。図 17のグラフを見ると、思春期を迎えたあとの男性が他者との諍い、自動車事故、そのほかさまざまな事故で死ぬ割合が、同年代の女性と比べてはるかに高いことがわかる。

多くの人が気づいていないのは、実際のところ〝男性の愚かさ〟は〝女性のえり好みの激しさ〟に適応するために生まれたという点だ。要は、危険をいとわない対立好きな男性の態度は性淘汰の産物であるということだ。これは、多くの人の直感に反する考え方かもしれない。たしかに、「愚かな男性はタイプではない」と真っさきに指摘するのは、きまって女性のほうだ。では、ここからさらにくわしく見ていこう。 Y染色体(女性の場合は父親の Y染色体)をとおして、あなたは男性の先祖をたどることができる。さらに、母親からのみ受け継がれるミトコンドリア DNAをとおして、あなたは女性の祖先を追跡することもできる。これらの分析をある程度大きな規模で行なうと、あなたの祖先には男性よりも女性のほうが多くいることがわかるはずだ。一見すると、そのような不均衡などありえないことに思われる。どう考えても、タンゴを踊るには男女ふたりが必要だ。当然ながら、複数のパートナーと関係をもって多くの子どもをもうける男性もなかにはいるし、そうではない男性もいる。男性は女性より多くの子どもをもうける確率がはるかに高いものの、同時に繁殖ゲームから落ちこぼれる危険性も高くなる。 危険を冒すということは、修行僧から女たらしのカサノバに変わるチャンスを得るということだ。そこで男性は、繁殖の利益となりそうなときには、あえて危険を冒すという傾向を進化させていった。繁殖の成功については男性側により大きなばらつきがあるため(子どもをひとりも作らない男性もいれば、たくさんの子どもを作る男性もいる)、女性よりも男性のほうがリスクを冒す傾向は強くなる。それとは対照的に、女性が危険を冒すのはあまりに無謀だ。安全策をとろうが、風変わりな危険を冒そうが、女性たちはだいたい同じ数の子どもを産むことが多い。 危険を冒す行為そのものが男性の質を示す正直な信号となるため、男性の愚かさは輪をかけて増していく。第 4章で見てきたとおり、危険を冒すという行為には、その人物がいかに強く熟練しているかについてのたしかな情報をまわりに伝える効果がある。危険を乗り越えられたら、あなたは熟練した腕をもつことになる。失敗しても生き残ったとしたら、あなたは強靱な身体をもつことになる。失敗して死んでしまったとしても、そこにも何か意味はあるはずだ。そのため女性は、危険を冒す男性の態度を高い質の表われとして利用する。よって、女性を惹きつけるチャンスがあるとき、男性はあえて危険を冒す傾向が強くなる。この考えが動物界で正しいことは、これまでの研究で広く証明されてきた。しかし、同じ研究室の博士課程の学生リチャード・ローナイとわたしは、どうしても人間の世界でその証拠を見つけたかった。 新しいアイデアを試すとき、研究者はなるべく予算をかけずに検証を始めようとする。そこで最初の実験では、わたしたちは研究室に集まった男性たちにコンピューター上の架空の風船を膨らますように頼んだ。空気を吹き込むたびに被験者には賞金が与えられるが、空気を入れすぎて風船が割れると賞金は没収となる。事前の予想どおり、美しい女性の写真を見たあと、男性たちは電子風船をより大きく膨らまそうとした。ここまでの説明を聞いた読者の方は、おそらくわたしたちと同じことを考えているのではないだろうか──研究の第一歩としてはすばらしい展開だとしても、これをリスクテイクの科学的証拠とみなすのはいかがなものか? 次の実験のために、わたしたちは eBayで〝電気ショックボール〟をいくつか買った。ボールがピカピカ光り、ランダムなタイミングで持っている人に電気ショックが与えられるという楽しいゲームのためのおもちゃだ。わたしたちはこのショックボールを使い、電子風船のときと似たような実験を行なった。被験者の男性たちには、ショックボールを握りつづけた秒数にしたがって賞金が与えられる。しかし過度に長く握りつづけていると賞金は没収となり、同時に電気ショックの罰ゲームも与えられる。わたしたちの予測は、美しい女性の写真を見せると、男性たちはより長くショックボールを握るというものだった。たしかにそのような傾向はあったにせよ、このタスクから導きだされた結果は、危険を冒しやすい男性の本質を証明するにはほど遠いものだった。ショックボールを使って男性の技能や強靱さをうまく分析するのはむずかしかった。 わたしたちがぶち当たった問題は、実験室のなかで本格的なリスクテイクの研究をするのは容易ではないということだった。なぜなら、実際にケガをする危険のある状況に被験者を置くことは非倫理的だからだ。この問題についてあれこれ考えあぐねていたある日、リチャードがすばらしいアイデアを思いついた──すでに深刻な危険を冒しているスケートボーダーを研究するのはどうだろう? わたしたち研究者は、魅力的な女性を彼らの近くに連れていき、何か変化があるかを調べるだけでよかった。 そこで、わたしたちは容姿端麗な女性の研究助手を雇ってスケートボード場に向かった。実験の第一段階では、男性の研究者がスケートボーダーに近づき、まだ完全にマスターしていない練習中の技を一〇回連続で試すところを撮影させてほしいと頼んだ。実験の第二段階では、一度目の男性の研究者か(わたしたちに雇われた)魅力的な女性のどちらか一方がまた同じスケートボーダーのもとに行き、前回と同じ技を一〇回挑戦している姿を撮影したいと再び依頼した。スケートボーダーがこの二回目の一連の技を終えたあと、唾液を採取してテストステロンの分泌量を測定した。 予想どおり、女性の研究者が眼のまえにいるときのほうがテストステロンの分泌は増えた。さらに、テストステロンの濃度が上がるほど、スケートボーダーはより危険を冒した。より大きなリスクテイクの当然の結果として、転倒する回数は増えたものの、同時にうまく着地できる回数も増えた。どちらの結果も、スケートボーダーにとっては有利に働くものだ。着地の成功は技術の高さを意味し、転倒は身体の強さを示す。肘や膝をケガして血が出ることもあったが、被験者のスケートボーダーたちは歯牙にもかけなかった。倫理的な見地から、実験が始まるまえにヘルメットと膝パッドの着用をお願いしたものの、スケートボーダーたちはそれも断わった。 生き残りと繁殖のあいだのこの矛盾から、幸せについてどんなことがわかるのだろう? ひとつ目の教訓は、若い男性によるリスクテイクやほかの愚かな行動の数々は〝病的逸脱〟などではないということ。そのような行動は、現代社会からの断絶の徴でもなければ、評論家たちが貼ろうとするさまざまなレッテルに当てはまるものでもない。むしろ進化した戦略であり、先祖たちにとって理にかなっていたように、今日の人間の繁殖にとっても役立つものにちがいない。 ふたつ目の教訓は、息子、兄弟、友人たちが不必要な危険を冒すのを止めようとするのは、そもそも無意味であるということ。競争とリスクテイクの機会を若い男性から奪うことは妙案とはいえず、不愉快な展開につながる危険がある。若い男性たちはつねに、何百万年にもわたって続く進化圧が睾丸から沸き上がるのを感じており、その圧力が彼らを危険と競争へと駆り立てる。このような理由から、リスクをすべて取りのぞくのではなく、真に危険なリスクと対立をスリル探求と競争のための害の少ない機会に置き換えることが大切になる。まったく傷を負う危険性がないような安全なスポーツでは意味はないものの、大ケガをしない程度に激しいスポーツは立派な代用品となる。協力と競争 第 1章で説明したように、協力のための能力が強まったことは、先祖たちが熱帯雨林からサバンナに移り住むのを可能にした核となる適応だった。人間は互いに協力するように進化したため、不正者検出システムと〝ただ乗り〟への強い嫌悪感も同時に発達させた。わたしたちは誰もが、人に利用されたときの怒りと義憤の感情をよく知っている。この進化した反応は、生活保護制度に対して議論が尽きない理由を説明してくれる。受給者は、善良な市民から金を巻き上げようとする怠け者なのか、それとも同情と助けを必要とする恵まれない人々なのか? 騙されたときの憤りと怒りによって、集団のメンバー同士の協力体制はより強いものになる。同時に人間の感情は、協力するという潜在的な目標そのものによっても形作られてきた。過去の恩を返すためだけに協力する人、あるいは将来の見返りだけを求めて協力する人は往々にして嫌われる。むしろわたしたちは、友好的で、親切で、心が広く、下心なしに協力を楽しめる人を好む。当然ながら、外部の集団も同じ理由でこちらの集団を好きになる(あるいは嫌いになる)。心から協力し合うことを楽しんだ先祖たちには、進化上の大きな強みが与えられた。これこそ、見返りをまったく期待できないような他人とでさえも、わたしたちがたびたび資源を分け合う理由だ。 経済学者はときどき、人々が見知らぬ相手と資源を共有することに驚く。しかしこのような驚きは、人間の進化の歴史に対する誤解から生じるものだ。たしかに、寛大でお人好しの人は騙されやすい状況を自ら作っているようにも見える。しかしながら、実際に損する場面も多い一方で、長い目で見ると負けるよりも勝つことのほうが多い。世界のどこに行っても、ケチで計算高い人よりも寛大でお人好しの人のほうが人気は高い。タンザニアの狩猟採集民ハッザ族の人々が野営地を撤去して別の場所に移動するとき、寛大なメンバーが歩いていく方向には多くの仲間が一緒についていく。が、ケチなメンバーはつねにひとり取り残される危険と向き合うことになる。オーストラリア西部に住むマルトゥ族の人々が朝の狩りに出かけるとき、狩人としての才能はいちばんではなくても、寛大なメンバーはいつも誰かのパートナーに選ばれる。一方、ケチなメンバーはたびたび存在自体を忘れられ、置いてけぼりにされる。ペルーを中心とする中央アンデス地帯の牧畜民ケチュア族でも同じ現象が起こる。一定のデータが存在する地球上のすべてのほかの民族のあいだにも同じ傾向があることがわかっている* 3。 このような進化の圧力にさらされた結果として、人間はお人好しなほど人助けが好きな無意識の協力者になった。協力は人間にとって初期設定の反応であり、相手が助けを必要とするとき、わたしたちはためらうことなく協力しようとする。他者に協力するか逃げるかを選ばなければいけないというシチュエーションに被験者を置く実験では、たとえ逃げることが賢明な選択肢だとしても、多くの被験者はすぐに協力するほうを選ぶ。素早い決断を求められるときにも同じ現象が起こり、はるかに多くの人が協力することを選ぶ。 お人好しなほど人助け好きの傾向についてのこの研究結果がはじめて発表されたとき、わたしは心から嬉しく感じたことを覚えている。なぜなら、わたしの恐ろしくバカげた行動の理由を説明するものだったからだ。十数年前、わたしは四〇セントのアイスクリームのために子どもの命を危険にさらしてしまった。その日、わたしは妻とふたりの幼い子どもたちと一緒にショッピング・モールのエスカレーターに乗ろうとしていた。片手には、子どもたちのためにさきほど買ったマクドナルドのアイスクリーム。下りのエスカレーターに乗った直後、下のほうから女性の叫び声が聞こえてきた。声のほうに眼を向けると、上りのエスカレーターの手すりを握る幼い子どもの両手が見えた。が、子どもの身体は見えない。どうやら、エスカレーターの手すりを外側からつかんで遊んでいた男の子の身体がそのまま高いところまで運ばれてきてしまい、自力で飛び降りることができなくなったようだ。一刻を争う事態だった。エスカレーターは建物の二階の高さまで続いており、四分の三ほど上がったところのすぐ横には装飾用の支柱があった。男の子の握力はみるみる弱まっており、支柱に身体がぶつかったらそのまま落ちてしまう。 わたしは手すりをひょいと飛び越え、反対側の上りのエスカレーターに飛び移った。段を駆け下り、支柱まであとわずか一メートルほどのところにいた少年に手を伸ばした。その身体は軽かった。わたしはエスカレーターの内側から彼の腕をつかみ、身体をなんなく持ち上げた。しかし、ここから愚かな物語が始まる。一連の人助けはまったくの無意識の行動であり、わたしの身体は反射的に動いていた。が、わたしはあと一歩ですべてを台無しにするところだった。 エスカレーターを駆け下りたわたしは、アイスクリームを手すりの外に放り投げたりその場に落としたりするのではなく、小指へと移動させた。そして、それを手に持ったまま手すりから身を乗りだし、男の子の腕をつかんだ。アイスクリームを落とさないように手に持っていたことで、わたしの動きが遅くなり、少年の腕をつかむのもよりむずかしくなったのはまちがいない。さらに、あと少しでアイスクリームが自分の顔にぶつかりそうになる瞬間もあった。わたしは幼い少年を抱えつつ、もう一方の手でアイスクリームも持ったまま、上りのエスカレーターに突っ立っていた。 少年の父親が妻の叫び声に気づき、こちらに視線を向けているのがわかった。父親の頭にどんな考えが浮かんでいたのか、わたしにはわからない。しかしありがたいことに、彼は怪訝な顔もせずにただエスカレーターを駆け上がって近づいてきて、わたしの腕のなかにいた子どもを抱きかかえた。一連の騒動が終わると、わたしはその場に坐り込んで手に握ったアイスクリームを見やり、自分の愚かさを悔やんだ。いま振り返ってみても、少年を救うというわたしの行動はすべて無意識のものだった。とっさに認知力を発揮し、アイスクリーム・コーンを手に持ちつづけることの損失と利益を比較することなどできなかった。わたしは深く考えもせず、食べものを地面に投げつけてはいけないという標準的なマナーにしたがっただけだった。たしかに、人助けが失敗する事例は枚挙にいとまがない。多くの国(と米国の州)では「善きサマリア人の法」が採用されており、助けたことによって、たとえ事態が悪化した場合でも、救助者が罪に問われない仕組みができあがっている* 4。 協力したいという願望の力は非常に強く、このような進化圧の結果として、他者を助けることとうまく調和する動機づけシステムが生みだされた。わたしたちは、日曜日の昼食に孫たちが家に遊びに来ることを望み、家族や友だちを助けることから真の満足感を得る。一〇〇カ国近くを対象として近年行なわれた世界価値観調査( World Values Survey)では、世界じゅうの誰もが人生のなかでいちばん重要なものを「家族」だと答えた。進化という観点から見たとき、これは当然の結果だといっていい。しかし協力から得られる利他的な満足感は、家族や親戚どころか親友の枠も超えて共同体全体へと広がっていく。 第 3章で説明したとおり、わたしたち人間の共同体は、はじめに形成されたときよりもはるかに大きな規模になった。しかし、共同体とメンバーを結びつける心理的な効果の強さは、むかしもいまも変わっていない。その意味では、わたしたち人間は狩猟採集民だったころから根本的にはなにも変わっていないといってもいい。共同体に溶け込むことはかつて良い生活を送るための大切な要素のひとつだったが、それはいまも同じだ。でも残念ながら、より裕福になってテクノロジーに依存するようになると同時に、人々は互いに頼る度合いを減らした。そして、気づかぬうちに隣人や共同体とのつながりは薄れていった。 なかには、新たな共同体に容易に溶け込むことができる人々がいる。たびたびの移動も、彼らの生活の満足度に大きな影響を与えない。外向的な性格の人がその代表例だ。彼らはそれほど親しくない人との交流を楽しみ、新たな人との出会いを絶好のチャンスだとみなす。それとは反対に、内向的な人は見知らぬ人とたびたび出会うことを嫌い、それを不快だと感じる。新しい地域、都市、州への移動は、彼らの生活満足度に大きな影響を与える。共同体に溶け込むことは、すべての人の生活満足度を左右する要素であるのはまちがいないとしても、理想的な達成方法は人によって異なる。外向的な人にとって、それまで住んでいた土地を離れ、国や世界を股にかけて行き来することなど、たいした問題ではない。しかし内向的な人にとって、たびたびの移動は大きな犠牲がともなうものだ。そのような人々は新しい共同体の職場や学校に移るまえに、犠牲を補うだけの利益があるかどうか慎重に検討したほうがいい。 注意しておきたいのは、ここでいう「犠牲」とはたんに一時的な不幸の感情ではないという点だ。前章で説明したように、幸福は免疫システムがもっとも効率的に機能することをうながす身体への合図であり、逆に不幸な気持ちが続くと長期的な健康に悪い影響が及ぶ。共同体とのつながりが健康に大きな影響を与えることは、大石繁宏とウーリッヒ・シマックによる共同研究でまとめられた図 18を見ても一目瞭然だ。このグラフを見ると、子どものころに引っ越した回数が多いほど、内向的な人の健康へのダメージが蓄積されていくことがわかる。子どものころに受けたダメージだとしても、完全に回復することはない。子ども時代に頻繁に引っ越しをした内向的な人は、高齢になってからの死亡率が高くなる。一方、外向的な人は、子ども時代の引っ越しからほとんど影響を受けない。

これらのデータは、共同体とのつながりの崩壊に大きなリスクがあることを示している。実際のところ、多くの人々は共同体とのつながりを作って保ちたいと心から願っている。地域社会に溶け込み、困っている共同体メンバーを支援することによって人生の満足度は高まる。生活保護の制度に断固として反対する人物が、自らの共同体の虐げられた仲間への支援には驚くほど寛大になるのはそのためだ。それが真に必要とされた支援であり、自分が騙されているわけではないと確信すると、政治思想に関係なく誰もが仲間を助けようと努力する。 慈善活動には困っている人を助けるという目的がある。しかし、自身の共同体に貢献したという感情は、慈善活動に対する気持ちのより大きな表われだといっていい。誰もが、共同体にとって価値ある存在になる必要がある。前述のとおり、集団に価値をもたらすことのできなかった先祖たちは、追放と死の危機にさらされた。価値ある存在になるためのもっともわかりやすい方法は、自分が与える損失よりも多くのものを生みだすことだ。人々は、意識的にそのような計算をしているわけではないかもしれない。でも、そのような無意識の計算が、社会に貢献できる一員になるための後押しとなる。「死んだあと、どのように記憶されたいか」と誰かがあなたに訊くとき、それはじつのところ「共同体に対してどんな貢献をしてきたのか」を訊いているのだ。幸せと学び この本でたびたび触れてきたように、生き残りと繁栄のために知るべきことのほとんどを人間は自ら積極的に学ぼうとする。わたしたちはほぼ何も知らないまま生まれる。赤ん坊の脳はまだ半焼けの状態だが、火が最後まで通るのを待っていたら、大きく成長しすぎて母体の外に出られなくなってしまう。結果として、共同体に貢献する力を備えた一員になるまで人々はひどく長い開発期間をかけて努力を続けることになる。生まれてすぐに捕食者から走って逃げることのできるヌーの赤ん坊とはちがい、人間は生まれてから一〇年以上のあいだ、誰に食べられてもおかしくないような状態で生きなければいけない。 人間の長い開発期間のほとんどは、属する集団が用いる生き残りのための手段を学ぶことに費やされる。第 2章で取り上げたとおり、人間が惑星全体に入植することができたのは柔軟性のおかげだった。しかし、人間が柔軟性を身につけたという事実はまた、生まれながらにもつ生存のための知識や本能が役に立たないことを意味する。進化の末に、人間の動機づけシステムと学習が密接に関連するようになった。かくして、世界じゅうの人々は学ぶことが大好きになった。好奇心はわたしたち人間の根本的な動機のひとつであり、何か新しいことを学習・会得する満足感はすべての人間に共通する感情だ。 人間の動機づけにとって好奇心が大切なのは広く理解されているものの、学習にふたつの大切な形態があることを多くの人は見逃しがちだ。それが遊びと物語を伝えることで、人生の満足度を高めるふたつの大切な源でもある。哺乳類の親戚たちとまったく同じように、遊びは人間がみな共通して楽しむ行動である。成熟するまえの動物のあいだでとくに遊びが一般的に行なわれるのは、成長後の生活の規則や戦略を学ぶための方法となるからだ。遊びをとおして、人間やほかの動物たちは互いに協力することを学ぶ。成長の早い段階で相互関係を築くことには良い効果があり、誰が好意に報いてくれるのか、あるいはそうでないのかを知る術を与えてくれる。若いオスにとって遊ぶことは、メスをめぐる競争について学ぶ機会であり、成長後に階層のなかで出世するための戦略へとつながる。未熟な幼い動物たちは遊びをとおして、獲物を狩る方法や捕食者から逃げる術を学ぶ。小さなネコたちは、じゃれ合いの喧嘩のなかで互いに飛びかかるのがなにより大好きだ。幼い人間の男の子たちも同じことをして遊ぶ。すべての人間の子どもは、時間を忘れたように運動、ごっこ遊び、ゲームに没頭しつづける。人間ほど、膨大な量の情報を学ぶ必要のある動物はいない。そのため遊びの大切さは幼少期という枠を超え、大人になってからの生活にも大きな影響を与えつづける。遊びのない人生など、いまよりずっと退屈なものにちがいない。 遊びが大切なのはすべての哺乳類(と一部の鳥や爬虫類)に共通するものの、ストーリーテリングは人間特有の行為だといっていい。人間の学習には大きな利点がある──驚くべきコミュニケーション能力を駆使し、他者の学習や成果を自分たちの世界の理解に組み入れることができる。この種の学習のうちいちばん古く重要な形態が、人間の豊かな口頭伝承の伝統だ。世界じゅうのすべての人間文化にストーリーテリングの伝統が存在する。この伝統の起源はほぼまちがいなく、狩猟採集民の先祖たちが一日の終わりに焚き火のまわりに坐り、その日に経験したことを語って互いを楽しませたことだろう。狩猟採集民の共同体にとっては、今日でも、焚き火を囲むストーリーテリングは大切な活動のひとつとして続けられている。その時間、人々は眼のまえの経済的・社会的な心配事をいったん脇に置き、共同体での実りある生活を実現するための様式、規則、教訓に意識を集中させる。 すぐれた物語の話し手にはかつて、集団に娯楽と知識を与える存在として高い地位が与えられた。今日のわたしたちの世界でその役割をおもに担うのは、お笑い芸人、トークショーの司会者、映画制作者、聖職者、作家、学者、政治評論家などで、彼らは聞き手を楽しませ、情報を伝え、社会規範を広めようとする。人間はむかしから、物語を聞くことを楽しむ傾向を進化させてきた。他者の艱難辛苦についての話をとおして、自らはなんのリスクも負わずに、それらの経験から得られる貴重で珍しい教訓を学ぶことができる。さらに、共有の感情的経験、現実感、世界と向き合うための共通の知識をメンバーに与えてくれるストーリーテリングには、共同体の結束を強める効果がある。 ブルース・スプリングスティーンのコンサートに行ったとき、まちがって流し台で小便をしてしまった──。この失敗談を語り、聞き手と恥ずかしい感情を共有して一緒に笑うとき、わたしは自分が受容されたと感じ、属する社会的集団とのつながりがいっそう強いものになる。友人たちによる驚くべき経験、理不尽な経験、恐ろしい経験の話を聞いてその結末を知るたび、わたしたちは似たような状況になったときの対処法を学ぶ。物語を聞いて話すことは、幸福感と人生の満足度を高めるためのふたつの重要な源なのだ。幸福、性格、成長 さきほども述べたとおり、人間が成功を手にする方法はひとつではなく、幸福にたどり着く道にも複数のルートが存在する。もしわたしの身体が大きく強ければ、スポーツなどの肉体を使った競争をとおして女性の気を惹こうとするかもしれない。しかし小さくて弱ければ、やさしい性格やおもしろさに頼ったほうが無難だろう。そのような運動能力、頭脳、性格の差によって、わたしにとって理想的な職業も変わってくる。多くの人には自分の強みを活かせる活動にぴったりの戦略を選び、弱点に眼をつぶろうとする傾向がある。人間の動機づけシステムは、成功の確率と集団からの評価にとりわけ敏感に反応するため、さまざまな活動がさまざまな人を幸せにする可能性がある。運動よりも芸術のほうが得意な人は、アメフトよりも絵を描くことから大きな満足感を得られるにちがいない。 くわえて、このような個人差は人生が進むにつれて変わっていく。たとえば、子どもが自分の属する集団に貢献するのはそうたやすいことではない。よって子どもたちは、仲間との活動をとおして、あるいは両親や仲間に受け容れられることから、幸せの多くを得る。当然ながら、ありふれた特徴よりも、その子どもにしかない独自の特徴のほうが他者の眼にとまりやすい。結果として子どもたちの自己意識は、集団のなかで自身を肯定的に区別できる方法とより深く結びつくようになる。 幼少のころから人間は、大人になったときに最大の利益を生む独自の才能に注目しはじめ、それを成長させようとする。しかし言うまでもなく、子どもの世界観は未熟であり、その思いが奇妙な方向へと進んでしまうことも少なくない。むかし、わたしが息子の宿題を手伝っているのを横からのぞいていた幼い娘が、自然と文字を読めるようになったことがあった。驚いたわたしは、そのことを幼稚園の先生に自慢するよう娘をけしかけた。翌朝、教師と一緒に席に着くなり「昨日は何ができるようになったんだっけ?」とわたしは娘に訊いた。娘はいっとき戸惑い、それからパッと表情を輝かせて大声で言った。「先生、滑り棒をひとりで下りられるようになったよ!」。この例が示すように、人と異なるすぐれた個性や特徴がなんなのか、大人の優先順位のとおりに子どもが判断できるとはかぎらない。 成人期に達すると、共同体への貢献がより大きな意味をもつようになる。序列のなかの地位を押し上げ、集団のメンバーから高い評価を受けるために、わたしたちはそれまでに学んだスキルを活用しはじめる。このようなスキルは青年期から中年期にかけて安定的に効果を生みだしつづけるが、高齢期に差しかかると状況が著しく変わりはじめる。その時点からきまって肉体的なスキルが衰えていくが、高齢者は豊富な知識でそれを補おうとする。先祖たちの時代には、多くの知識をもつ高齢者は貴重な存在として扱われた。 残念ながら、猛スピードで変化する現代社会では、高齢者の知識は時代遅れだととらえられることも多い。とはいえ、集団への貢献をうながす進化圧は、ただ歳をとったからといって弱まるわけではなく、多くの高齢者は共同体に好ましい影響を与える方法をつねに模索している。歳をとるにつれて、伝統を引き継いで他者を助けることはますます大切になる。なぜならそのような行為こそが、高齢者が共同体とのつながりを保って貢献しつづけるための絶好の機会となるからだ。よりよい人生とはなんなのか、わたしたちは自問しなくてはいけない。脚を投げだしてソファーに坐り、ゆっくりくつろぐ人生も悪くはない。けれど、他者に貢献できる方法を見つけると、退職後の人生はより満足のいくものになるはずだ。仕事や日々の用事に圧倒されて自分の時間がもてないとき、〝永遠のお休み〟は甘い言葉に聞こえる。しかし、楽しい活動だけをやたらと強調する老後生活のためのパンフレットに騙されてはいけない。わたしたちの多くにとって、そんな生活は思っているほど楽しいものではない。現代世界の落とし穴 よりよい人生について考えあぐねることは、どこまでも現代的な時間の過ごし方かもしれない。しかしそれを実現するには、祖先を成功へと導いた古代の戦略にしたがうのがいちばんだ。セックス、食べもの、親であること、遊び、技術の習得、ストーリーテリング、友情、親戚、家庭、共同体、貢献……これが過去の人類の成功へのカギであり、今日に生きるわたしたちの幸せへのカギでもある。現代社会には、幸せを手にするための新しい機会が数多く存在する。ところが、その現代版の幸せが古代の幸せと同じくらい質の高いものだとはかぎらない。 たとえば、ストーリーテリングの多くの側面を置き換えてきた映画とテレビは、どちらもきわめて楽しいものであることはまちがいない。しかし、ストーリーテリングとはたんに一連の出来事を説明するためだけのものではない。映画とテレビは、実際の会話と同じように互いを結びつけてはくれない(もちろん、観たあとに語り合う場合はのぞく)。ある意味、映画やテレビは(ポテトチップスと同じような)〝表現型の贅沢〟だといえる。そう考えると、お気に入りの番組を心から愛している人は多いにもかかわらず、テレビ番組を人生の満足感を高める大切な源だと訴える人がめったにいないのも驚きではない。また、テレビよりも本のほうが永続的かつ大きな影響を人に与えるという事例証拠もある。それが正しいとすれば、ストーリーテリングの核となる部分は、自身では直接経験できない物語を誰かほかの人が語ったときに、頭のなかで起きる創造と生成のプロセスなのかもしれない。しかしそんな本でさえも、実際に人々によって語り語られる物語よりは記憶に残りにくく、影響力も弱い。なぜなら、読書はたいていひとりでするものだからだ。 先祖たちの大切な経験を模倣した現代世界のほかの多くの側面は、より薄っぺらなものしか人に与えてくれず、そこから大きな満足を得ることはむずかしい。おそらく、ドラッグと酒は表現型の贅沢のもっとも代表的な例だろう。酒やドラッグは、喜びを司る脳の領域に直行して刺激するだけのものであり、本来の喜びの感情から生みだされるはずの肉体的・経験的な土台を与えてはくれない。ドラッグと酒に次いで、贅沢ランキングの僅差の二位につけるのがジャンクフードだ。われわれの祖先が過去に必死になって探し求めていた砂糖、脂、塩は、今日では有り余るほど手に入るようになった。かつては、砂糖、脂、塩をできるだけ多く摂取することが健康になるための目標だった。しかし悲しいかな、現在はそれが不健康の徴になった。 良いことがあまりに多すぎると、代償も大きくなる──。この点こそが、進化の歴史からわたしが導きだした最後の教訓へとつながる。われわれの祖先にとって、長期にわたる性的関係は立派な子孫を残すための最良のレシピだった。結果として、わたしたち人間は長期にわたる関係をとりわけ価値のあるものだとみなすようになった。適切な人とパートナー関係を結ぶとき、永続的に幸せが増しつづける確率はとりわけ高くなる。しかし進化は人間に、目新しいパートナーを好む傾向も与えた。当然ながら男女双方にとって、たくさんのカゴに遺伝子の卵を入れたときのほうが生殖成功率は上がる。 祖先たちの環境のなかでは、同じ小さな集団のなかで一生を過ごすのが当たりまえだったため、目新しいパートナーを見つけるのはわりと珍しいことだった。しかし、現代のわたしたちは、目新しいパートナーが脂、塩、砂糖のように絶え間なく供給される世界に暮らし、甘い誘惑につねにさらされている──現在の関係を切り捨て、より刺激の強そうな新しい関係を試してみたら? もちろん、新しい関係もいずれ古くなる。目新しさの魅力は文字どおり一時的なものであり、そのうち満足感も薄れる。驚くべきことに、これほど明らかな事実をまえにしても、人々はたびたび一夫一婦制のルールを破ろうとする(先祖たちもまた、一夫一婦制という戦略を完全に徹底することはできなかった)。 多くの人は、誘惑に抵抗するより避けることのほうを得意とする。たしかに、目新しいパートナーの誘惑から逃れられる人はたいてい、その誘惑に自身をさらさないことによって目標を達成する。たとえば、人との出会いの多い都市部よりも、人の少ない農村地域でのほうが結婚は長続きする。さらに、あなたが有名な俳優やロックスターでなく普通の一般人であれば、結婚関係はより長続きする。ドイツの格言「楽しみにすることはいちばんの喜び」を思いだしてほしい。目標を達成したときには、必ず失望があとからやってくる。多くの人から崇拝されて名声を得ることは、世界じゅうでもっとも典型的な夢のひとつにちがいない。けれど、著名人の波瀾万丈の人生や度重なる離婚について少し振り返るだけで、有名にならないほうがはるかに幸せだとわかるはずだ。楽しい人生にたどり着くための「 10の簡単なステップ」 幸せになるための一〇個の簡単なステップがあると見知らぬ人が話しだしたら、あなたは騙されていると思ったほうがいい。ここまで見てきたとおり、幸せが永遠に続くことなどありえないし、幸せへのルートは人によって異なる。とはいうものの、進化という観点から幸せに近づこうと努力すれば、少なくともたまには幸せを手にするのが楽になるかもしれないし、幸せそのものを理解しやすくなるはずだ。必ず幸せになれる簡単なステップなどあるわけがない。しかし、幸せになるという目標の達成になんとか近づくために、ここまでの二章から得た教訓を一〇個の重要なポイントとしてまとめてみたい。 1 現在を生きる 人間には将来を生きようとする傾向があり、それが現在を楽しむという人間の能力を妨げる。現在が予期せぬ喜びを与えてくれているのに、それに気づけない人が多いのはそのためだ。あなたが日常生活の喜びのなかに幸せを見いだせないとしたら、マインドフルネスや瞑想が役に立つはずだ。将来について不安になりがちな人は、現在を生きることを学べば、ストレスレベルがおのずと下がっていくかもしれない。しかしながら、いまを生きることは想像よりはるかにむずかしいという点を心にとめておいてほしい。なぜなら、将来の計画を立てるために進化が与えてくれた能力のうち、とくに重要なスキルのひとつを一時的に停止させることになるからだ。 2 心地よいひとときを探す

永遠に幸せになりつづけることなどほぼ不可能だとしても、人生をもっと楽しんではいけないという意味ではない。進化の命令をやり遂げることは、満足や喜びといったさまざまな前向きな感情をもたらしてくれる。わたしたちはただ、そのような感情が長続きするわけではないと意識しておけばいいだけだ。しかし、幸せな瞬間がもっとたくさん訪れることを願わない人などいるだろうか? 3 幸せを護って健康を保つ 肉体的な健康を保つためには、幸せが不可欠となる。たいして重要ではないことのために自分の幸せを犠牲にしているとしたら、あなたは自問しなければいけない。その状況がどれくらい続いているのか? いつまで同じことが続きそうなのか? 短期的な犠牲がときに何かの役に立つことはあるとしても、長期的な犠牲はできるかぎり避けるべきだ。ほかの目標を達成するために幸せを犠牲にする必要がある場合、期限を決めて必ずそれを護るようにしよう。さもなければ、ある朝あなたは眼を覚まし、短期的な犠牲が何年も続いていることに気づく。そのとき、幸せと健康はすでに眼のまえから消えている。 4 モノではなく経験を蓄積する 実際に経験したすばらしい時間はあなたの肉体の一部となる。しかし所有したすばらしいモノは、埃をかぶったまま放置されるかゴミになる。とはいえ、実体験に対するあなたの記憶力がわたしと同じくらい悪いとしたら、すばらしい経験そのものを思いだすのに苦労し、記憶もほとんど消えて最後には何も残らない状況に陥ってしまうかもしれない。この問題に対する簡単な解決策は、写真を撮ることだ。くわえて、旅行や冒険に出かけたときに安っぽいお土産を買うのもおすすめ。このような思い出の品を自宅や職場の至るところに置けば、あなたはすばらしい時間を追体験し、失敗した冒険を振り返って大笑いすることができる。 5 食べもの、友だち、性的関係を優先する この三つは日々の幸せの基本となるものだ。ここに「お金」や「自由」が含まれていないことに注目してほしい。たくさんのお金や自由をもつことに害はないとしても、それを追い求めることが、セックス、おいしい料理、友だちとの交流を楽しむ機会の妨げとなってはいけない。これら三つによる幸せな経験が積み重なれば、生きる価値のある人生へとつながることはまちがいない。 6 協力する 共通の目標を達成するために家族、友人、同僚と協力し合うことは、人生の満足度を高めるもっとも大切な源のひとつである。自身が成し遂げた成果だけを頼りに、永遠に幸せでいつづけることはできない。しかし協力は本質的にやりがいのある行ないであり、満足のいく人生を築き上げるための基盤を与えてくれる。幸せは余暇や楽しい活動からだけではなく、生産性のある仕事から得ることもできる。とくに、他者と協力するという進化の命令にしたがうとき、人はさらに幸せになる。人生には単調な仕事がつきものなので、わたしたちのするすべての仕事に必ずしも意味があるわけではない。けれど、信頼かつ尊敬する人々とともに取り組めば、つらいことも少しは楽になるはずだ。 7 共同体の一員になる 現在の居場所を離れて別のところに行く決断をするときは、つねに慎重に考えたほうがいい。人間は好奇心旺盛な生き物へと進化したため、新しい人や場所はいつも魅力的に見えるものだ。しかし、新しい人と出会い、新しい景色を見るために、古い友人を見捨てる必要はない。たとえあなたに強い放浪癖があるとしても、自分が属する共同体とのつながりを保つよう努めるべきだ。 8 新しいことを学ぶ 学習は生涯にわたって続く幸せの源であり、遊びとストーリーテリングは学習のためのふたつの大切な源である。幼少期、若年期、成年期、中年期、老年期まで、人生のあらゆる段階で人間は楽しみながら新しいことを習得する。自分が取り組む活動を慎重に選びさえすれば、健康でいるかぎりいつまでも学ぶというプロセスを楽しむことができる。 9 強みを活かす 幸せをつかむためのルートはたくさんあるが、その道のほとんどは自分の強みを追い求めることによって見つかる。そのような強みは、時とともに変わることが多い。おそらく誰にとっても、変化は恐ろしいものだ。変化によってわたしたちは既知から未知へ、つまり予測可能な領域から予測不可能な領域へと移動しなければいけない。そんな不安があるからこそ、たとえいまの自分にはもう合わないものに変わったとしても、多くの人が同じ仕事や趣味にあまりに長く拘泥しようとする。かつて何かを愛したからといって、同じような感情を保ちつづけなければいけない運命にあるわけではない。つねに変わりつづける幸せの源は、「むかしの生活はもう合っていないよ」とあなたに伝えようとしているのかもしれない。 10 幸せの原型を探す わたしたちが暮らす現代社会は、幸せを手にする機会をたくさん与えてくれる。その多くは、もともとの古代の形態に似てはいるものの、まったく同じというわけではない。なかには無害なものもあれば(テレビや映画など)、むしろ害のほうが大きいものもある(酒、ドラッグ、ジャンクフードなど)。しかしどれも、先祖たちが生みだしたもともとの幸せほどすばらしいものではない。家族や友だちと一緒にくつろいで過ごす時間──。それは人間という種の確認リストのいちばん上にある項目であり、幸せになるための最良のレシピだ。

*1 当時、女性は生殖能力を自分で管理することはできなかった。 *2 人間に目立ちたいという強い欲求があるという意味ではない(実際、そんな欲求はない)。わたしたちは往々にしてまわりに溶け込むことを望むが、集団の下部ではなく、上部に溶け込むことを望む。 *3 過去何年にもわたって、わたしは幾度となく友人たちに助けられた。そのことを振り返ると、相手の寛大な行動にまったく計算がないときに、わたしはより大きな感銘を受け、その思い出をより鮮明に記憶していることがわかる。たとえば、大学時代に友人のシドを訪ねたとき、誤って所持金を使い果たしてしまい、帰りの交通費がなくなったことがあった。切符を買うためのお金を少しでもいいから貸してくれないかと頼むと、(年がら年じゅう貧乏だった)シドはポケットに手を突っ込み、持ち金をすべて手渡してくれた。彼はそれが何ドルなのかも把握していなかったが、金額を確かめようともしなかった。 *4 たとえば、そのまま少年が下に落ちてしまったとする。アイスクリームを離さなかった理由を知りたがる陪審員に、わたしはどう説明すればいいのだろう?

おわりに 進化は心温まる穏やかな概念などではない。目標達成の手段がなんであれ、もっとも多くの子孫を残した者が勝つ。だからこそ、そのプロセスがときに残酷なのも驚きではない。むかし、テレビで放送されていた自然ドキュメンタリーのある場面を見て、わたしは吐き気をもよおしたことがある。ハイエナの群れが、生きたままのシマウマの赤ん坊の脚を引き裂く場面だ。しかしハイエナにとって、それはただの午後のおやつの時間でしかない。最後の一口を食べおえたあとにも、ハイエナたちはなんの感情も抱かなかったにちがいない。問題に対する効果的な解決策を見つけた動物は、遺伝子をとおして解決策を子孫に引き継ぐ。ハイエナのような獰猛な殺し屋でも、その餌となるシマウマの赤ん坊のような愛らしい草食動物でも、進化の仕組みは変わらない。獰猛さと愛らしさ、善と悪、道徳と不道徳……それらはすべて人間の構築物であり、自然界には存在しない。進化は善悪の判断にとらわれるものではない。 わたしがこの点をとくに強調したいのは、自然界につきものの進化の圧力は人間をもっと悲惨な場所に導いていた可能性が大いにあったからだ。人間の親戚であるチンパンジーにはお互いに助け合う習性はほとんどなく、それは縁戚のヒヒも同じだ。サバンナで暮らすヒヒについてのロバート・サポルスキーのすばらしい著作『サルなりに思い出す事など』を読むかぎり、ボス以外のヒヒの人生はそれほど楽しいものではなさそうだ。ヒヒの社会では、階層の下にいるサルは上のサルにいつも意地悪される。サバンナでの生活のさまざまな問題に対して、人間がヒヒたちと同じ解決策を選んでいてもなんらおかしくはなかった。しかし幸運なことに、アウストラロピテクスは協力をとおして自分たちの身を護るように進化した。次にホモ・エレクトスが分業というシステムを編みだし、祖先たちが作り上げた緩やかな協力体制をさらに強めていった。その結果として生まれた相互依存は、効果的かつ親切な生活戦略を人間に与えた。 進化のいちばんやっかいな側面のひとつは、偶然が果たす役割がきわめて大きいという点だ。種としての人間の存在は数え切れないほどの〝時の運〟の結果であり、そのすべてが人間に有利に働かなければ現在のような状況は生まれなかった。過去のちょっとした混乱によって、すべてが変わっていたかもしれない。わたしたちの両親が別の夜に性欲を感じていたら、あるいは別の精子が競争に勝って母親の卵子を受精させていたら、わたしはいまこの本を書いていないだろうし、あなたもこの文章を読んでいないはずだ。そもそも、あなたとわたしのどちらか一方が生きるチャンスを得る確率はほぼゼロに近い。にもかかわらず、わたしたちはいまここにいる。リチャード・ドーキンスが名著『虹の解体』のなかで指摘したように、「私たちはやがていつか死ぬ。私たちは運がいいのだ。なぜなら、大半の生命は、生まれてくることもなく、したがって死ぬこともできなかったからである」。 しかし、生きることになったという事実だけが、わたしたちに幸運をもたらすわけではない。多くの動物の生き方は、むしろ生まれてこないほうが幸せなのではないかと疑いたくなるようなものばかりだ。それは、あのシマウマの赤ちゃんのように悲劇的な終わり方をするからではなく、終わりなき対立をとおした生き方をしているからだ。カモメとして生まれ、残飯を奪い合ってほかのカモメと生涯闘いつづけることを想像してみてほしい。人間をこれほど幸運たらしめるのは、わたしたちがお互いに(ほぼ)親切に接するように進化したというまったくの偶然のおかげなのだ。 人間の協力的な性質はさらに、脳が驚くべき進化を遂げるための土台を作った。その社会性によって個々の人間はより賢くなった。しかしはるかに重要なのは、社会性が人間の知識量と計算能力を飛躍的に高めたのと同時に、自身の心を他者の心に結びつけたということだ。結果として人類は、サバンナの捕食者を早い段階で制圧することができた。そしていまや、いかなる捕食者よりもずっと危険な病原体のほとんどを抑え込むことに成功した。人類史上はじめて、生まれてきた子どもたちの半分近くを大人になるまえに埋葬しなくて済むようになった。進化は残酷だ。けれど、しっかりとした民主主義体制のもとで生きるという幸運を与えられたわたしたちは、進化がもたらしたさまざまなツールを使い、かつてないほど安全で満足のいく生活環境を築き上げた。人間はよりよいものをつねに探しつづけるという心理を進化させた。しかし少し考えてみただけで、いま以上のものを求めるのはむずかしいことだとわかるはずだ。

謝辞 人類がサバンナで進化させた協調性は、わたしたちを食物連鎖の頂点へと導いただけでなく、科学的な活動も可能にした。この地球上のほかのすべての人と同じように、わたしという人間は多くの教師、指導者、協力者の産物であり、この本の完成は大規模な協力活動があったことを意味するものだ。わたしひとりで書き上げることなどできるはずもなく、協力者がいなければ書きはじめようとも思わなかったにちがいない。まず誰より、イーバイタス・クリエイティブ・マネジメントの担当エージェントであるローレン・シャープに感謝の意を表したい。彼女は、ハーバード・ビジネス・レビューで公開した十五分間のわたしのポッドキャストを聞いて連絡をくれ、この本を書くことを最初に提案してくれた。ローレンはまた、このプロジェクトを起ち上げる手助けもしてくれた。さらに、ハーパー・ウェイブの担当編集者の方々にも深くお礼申し上げたい。編集をとおしてすばらしいアドバイスをくれたハンナ・ロビンソン。わたしが認めなくないほど数えきれない量の文法や句読点のミスを指摘してくれたジェナ・ドーラン。異動になるまで本書に携わってくれたサラ・マーフィー。そして、わたしとこの本に投資することを決めたハーパー・ウェイブのカレン・リナルディにはとくに謝意を伝えたい。 エージェントや編集者たちはこのプロジェクトで中心的な役割を果たしてくれたが、友人や家族もまたかけがえのない存在だった。ローレンやハンナにまだ見せることができないほど恥ずかしい状態の準備段階の下書きを、友だちや家族たちは苦しみながらもたびたび読んでくれた。なかでも、もっとも苦しんだのはコートニーだろう(彼女がいなければ、わたしは大きなトラブルに巻き込まれていたはずだ)。コートニーは各章の第一稿を読み、退屈なところや不明瞭な箇所を指摘してくれた。そしてなにより、学術的な言い方(つまり無味乾燥で堅苦しい表現)を弱め、よりくだけた文章作りを手伝ってくれたのが彼女だった。コートニーが読んだあと、各章の原稿は友人や家族の長いリストを順にめぐる旅に出かけた。この場を借りて、以下の方々に心から感謝したい。ロイ・バウマイスター、ロブ・ブルックス、アダム・ブリー、スティーブ・フェイン、ミッキー・インズリット、パメラ・クローンズ、マット・リーバーマン、デイブ・マーシャル、エリザベス・マルクス、グレン・マクブライド、アマンダ・ニーハウス、サム・ピアソン、ティコ・シャー、トーマス・ズデンドルフ、メリス・バンデグリフト。そしてフォン・ヒッペル家のアーント、キャシー、フランク、カリン、マリアン、マヤ、ポール、テッド。さらに、ヘンリー・ウェルマン、ロビー・ウィルソン、マッティ・ウィルクス、ブレンダン・ジーチ。あなた方のおかげでこの本はより質の高いものになった。ありがとう。 クイーンズランド大学、とくに心理学・進化センターのすぐれた研究者グループの一員であることは、わたしにとってとても幸運なことだ。この本のもととなっているさまざまなアイデアの部分は、センターでの議論、プレゼンテーション、討論のなかで生まれたものだ。これまで十年のあいだにセンターに属したすべてのメンバー、訪問者、とりわけトーマス・ズデンドルフとブレンダン・ジーチにありがとうと伝えたい。最後に、本書のほとんどの内容のもととなる論文を書いた共同研究者たちには感謝してもしきれない(くわしくは参考文献に載せた論文を参照してほしい)。彼らがいなければ、この本が完成することはなかった。

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