数々の科学的な証拠が出そろった今、ギネス世界記録は、ついに眠らない時間の世界記録を採用しなくなった。
かつてギネスは、宇宙服を着て熱気球に乗り、地上 3万 9000メートルの成層圏まで上昇すると、そこから身1つで地球に向かって飛び降りたフェリックス・バウムガルトナーの記録を正式に認めている。
記録の内容は、有人気球による最高高度到達と、フリーフォールによる最高落下速度(時速 1358キロ)だ。
それでも最長覚醒時間の記録は認めないということは、睡眠不足はバウムガルトナーの無謀な挑戦よりも、さらに危険だということになる。
それでは、睡眠不足の恐ろしさについては、具体的にはどんな証拠があがっているのか。この章では、睡眠不足が脳に与える影響を見ていこう。そして次の章では、身体に与える影響について見ていく。どちらも同じくらい恐ろしく、致命的な影響だ。
睡眠不足は真っ先に集中力を奪う
睡眠不足はさまざまな方法であなたを殺す。時間がかかるときもあれば、すぐに終わることもある。ほんの少しでも睡眠が足りなくなると、真っ先に影響を受ける脳の働きは、「集中力」だ。
そして、睡眠不足による集中力の低下が社会に与える影響のうち、もっとも深刻なのは、居眠り運転による死亡事故だろう。
アメリカでは、疲労が原因の運転ミスで、 1時間に 1人が亡くなっている。
居眠り運転による事故は、大きく 2種類に分けられる。
1つは、ハンドルを握りながら完全に眠ってしまうケースだ。じつはこのケースは多くはなく、運転者がよっぽどの睡眠不足( 24時間以上起きている)でないと起こらない。
もう1つは、集中力が一瞬だけ途切れるケースであり、こちらのほうが一般的だ。この現象は「マイクロスリープ」と呼ばれている。
長さはたいていほんの数秒で、その間まぶたは半分だけ閉じているか、または完全に閉じている。
マイクロスリープが発生する原因は、慢性的な睡眠不足だ。日常的に睡眠時間が 7時間に満たない人がこの状態になる。
マイクロスリープの間、脳は外界の情報をとり入れなくなる。視覚情報だけでなく、すべての知覚がシャットアウトされる。
ここで問題なのは、ハンドルを切る、ブレーキを踏むといった動作をコントロールする能力が、その一瞬は奪われてしまうということだ。
運転中に死ぬのに、 10秒から 15秒も寝ている必要はない。2秒で十分だ。
時速 50キロで走っているときに、ハンドルをほんの少し切った状態で 2秒間のマイクロスリープに入ると、寝ている間に車は完全に隣の車線に移動してしまう。
隣の車線は、もしかしたら対向車線かもしれない。これが時速 100キロで起こったら、おそらく人生最後のマイクロスリープになるだろう。
睡眠研究の権威であり、私の個人的なヒーローでもあるペンシルベニア大学のデーヴィッド・ディンゲスは、「人間のリサイクル率はどれくらいか」という問いに対して、歴史上のどの科学者よりも真剣にとり組んできた。
リサイクル率とは、つまりこういうことだ。
人間はどれくらい連続して覚醒していたら、パフォーマンスが目に見えて低下するか? 毎晩どれくらいの長さの睡眠を、どれくらいの期間にわたって失ったら、脳の重要な機能が働かなくなるか? 睡眠不足になっている本人は、自分の状態が悪化していることに気づいているのだろうか? 睡眠不足の状態になったら、完全に機能を回復するために、どれくらいの睡眠が必要なのか? この研究では、ごく単純なテストで被験者の集中力を測定した。
ボタンが光ったり、パソコンの画面が光ったりしたら、ある一定の時間内に対応するボタンを押すというテストだ。
反応の正確さと、反応速度の両方が測定される。光はランダムに点灯する。立て続けに点灯したり、数秒の間が開いた後で点灯したりする。簡単そうだと思うだろうか? このテストを、連続して 10分、 15日間、毎日受けてみよう。
それがディンゲスと研究チームがしたことだ。彼らは大勢の被験者を集め、研究室のコントロールされた環境で、このテストをくり返したのだ。
すべての被験者が、まずは前の晩に 8時間たっぷり寝た状態から始める。
次に、被験者を4つのグループに分ける。そして新薬のテストのように、それぞれのグループが違う量の睡眠不足を「処方」される。
グループ 1は 72時間ずっと起きている。3日間、まったく眠らないということだ。
グループ 2は、毎晩 4時間だけ眠ることが許される。
グループ 3は毎晩 6時間、そしてグループ 4は毎晩 8時間眠ることができる。
大きな発見は3つあった。
1つは、睡眠を減らされたグループは、全員がある程度の反応速度の低下を見せた。
しかしもっと興味深いのは、短い時間ではあるが、まったく反応しなくなることがあったということだ。睡眠不足でいちばん大きな問題は、反応速度が遅くなることではなく、まったく反応しなくなることだ。
ディンゲスはこの実験で、マイクロスリープを発見したのだ。
この反応しなくなる時間を現実世界に置き換えると、たとえば車を運転しているときに、目の前に子どもが飛び出してきたのを見ていないということになる。
ディンゲスはマイクロスリープの説明をするときに、よく心電図の例を使う。心臓に問題がなければ、一定の間隔でビープ音が聞こえてくる。
次に、テレビドラマで見る救急救命室の様子を思い浮かべてみよう。医師たちが必死になって患者の命を救おうとしているが、それも無駄に終わりそうだ。
最初のうちは、心臓の鼓動は安定していて、一定の間隔でビープ音が聞こえる。これが、ぐっすり眠って頭がはっきりしている状態だ。
次に、患者が心停止の状態になると、心電図は「ピッ、ピッ、ピッ、ピーーーーーー」となり、モニターにはまっすぐな線だけが現れる。
このまっすぐな線が、マイクロスリープだ。意識はなく、身体も動かない。
しばらくして、ありがたいことに心拍が復活した。
心電図は「ピッ、ピッ、ピッ」のリズムに戻るが、すぐに次の心停止がやってきて「ピーーーーーー」になる。またマイクロスリープだ。
マイクロスリープの回数を毎日記録し、4つのグループで比較した結果、ディンゲスは2つ目の発見にたどり着いた。
毎晩、 8時間睡眠のグループは、 2週間にわたって一貫してほぼ完璧なパフォーマンスを発揮した。そして 3日分の睡眠が足りていない計算になるグループは、成績が壊滅的に悪かった。
これはとくに驚くような結果ではないだろう。
24時間起きていた後でテストを行ったところ、ボタンの押し間違いや反応できないなどの失敗は 400%も増加した。むしろ驚いたのは、徹夜が増えるたびに、集中力も最初と同じペースで大幅に低下していったということだ。
おそらく 3日を過ぎても徹夜を増やしていたら、集中力の低下はさらにエスカレートしていったと考えられる。
どこかで低下のペースが頭打ちになるような気配は見られなかった。
しかし、もっとも懸念される結果を出したのは、徹夜続きではなく、慢性的に睡眠不足の状態にあるグループだった。
6日間、 4時間睡眠ですごしたグループは、 24時間起きていたグループと同程度のパフォーマンスの低下が見られた。
つまりマイクロスリープによるミスが 400%増加したということだ。
そして 4時間睡眠が 11日目に入ると、被験者のパフォーマンスはさらに低下し、 48時間起きていた人と同じレベルになった。
次に、ずっと 6時間睡眠を続けたグループについて見ていこう。社会的な観点では、このグループの結果がいちばん興味深い。というのも、多くの人が 6時間睡眠で生活しているからだ。
6時間睡眠を 10日間続けると、 24時間起きていた人と同じレベルにまでパフォーマンスが低下した。
そして、完全な徹夜を続けるグループと同じように、 4時間睡眠と 6時間睡眠のグループも、パフォーマンスの低下のペースが止まらなかった。
あのまま実験を続けていたら、数週間から数ヵ月にわたって悪化していっただろう。
同じころに行われたウォルター・リード陸軍研究所のグレゴリー・ベレンキー博士による研究でも、ほぼ同じような結果が出ている。
ベレンキーの研究チームも、被験者を4つのグループに分けたが、睡眠時間はそれぞれ 9時間、 7時間、 5時間、 3時間であり、その状態を 7日間続けた。
睡眠不足のときは睡眠不足に気づかない
いずれの研究にも共通している、ある重要な発見がある。個人的には、これが睡眠不足のもっとも大きな害だと考えている。
被験者たちは、自分の能力がどれくらい低下していると思うかと尋ねられると、全員が低下のレベルを過小評価していた。
これはたとえるなら、バーで飲みすぎた人がふらふらの足どりで車のキーを握り、「酔ってないから運転ぐらいできる」と言い張っているようなものだ。これと同じくらい懸念されるのは、基準がリセットされるという現象だ。
数ヵ月から数年にわたって慢性的に睡眠不足の人は、低下した自分の状態に慣れてしまう。反応が鈍く、ぼんやりしていて、エネルギーが低い状態が、自分の普通だと思ってしまうのだ。
そのため、慢性的な睡眠不足のせいで自分の能力が下がり、少しずつ健康がむしばまれていることに気づかない。この状態になると、睡眠不足と心身の不調を結びつけられる人はめったにいない。
平均睡眠時間に関する疫学的研究によると、数百万の人々が寝不足の状態にあり、心身ともに本来の機能を発揮できずにいる。
この現象は、 60年にもわたるさまざまな研究で証明された事実だ。
そのため「睡眠は 4時間か 5時間でも大丈夫だ」と言う人がいても、私はその言葉を信じない。ここでディンゲスの研究に話を戻そう。
睡眠不足でパフォーマンスが下がった被験者も、一晩ぐっすり眠れば能力を回復すると思うかもしれない。平日の睡眠不足を補うために、週末に寝だめするのと同じようなものだ。
しかし、睡眠不足の後で、寝たいだけ寝る生活を 3日も続けても、 8時間睡眠を続ける生活で発揮できる能力のレベルにまでは到達できなかった。
それに、どのグループの被験者も、実験で失った睡眠をとり戻すことはできなかった。すでに見たように、脳にそれは不可能だからだ。
オーストラリアでその後に行われた研究では、またもや懸念される結果が出た。
健康な大人の被験者を集め、2つのグループに分ける。
1つのグループは、法律で定められた血中アルコール濃度の基準値( 0・ 8%)になるまで飲酒し、もう1つのグループは一晩中起きている。
その後、どちらのグループも集中力を測るテストを受ける。ここで重視するのは失敗の数だ。
19時間連続して起きていた人たちは、法律上の酔っ払いに分類される人たちと同じくらいパフォーマンスが低下し、失敗が増えたのだ。
表現を変えると、こういうことになる。
朝 7時に目を覚まし、そのまま夜遅くまでずっと起きていると、たとえアルコールは一滴も飲んでいなくても、午前 2時に車を運転して帰宅するころは、飲酒運転と同じような状態になっているということだ。
むしろこの実験によると、パフォーマンスの急激な低下が始まるのは、起きている時間が 15時間を過ぎた時点だった。先ほどのシナリオを使うなら、夜の 10時ということになる。
世界の先進工業国では、自動車事故がつねに死因の上位を占めている。
アメリカのワシントン D・ Cを拠点とする A A A交通安全基金は、 2年間にわたって 7000以上のドライバーを対象にした詳細な調査を行い、その結果を 2016年に発表した。
中でも重要な発見は、図 12にもあるように、居眠り運転の恐ろしさだろう。

睡眠が 5時間未満になると、自動車事故を起こす危険は 3倍にもなる。さらに睡眠が 4時間以下になると、事故を起こす危険は 11・ 5倍だ。
睡眠時間の減少と、事故を起こす確率の上昇の関係は、ただの比例でないことに注意してもらいたい。
睡眠が 1時間失われるたびに、事故を起こす確率は飛躍的に増加している。
なぜ先進国では自動車事故が多発するのか
飲酒運転と居眠り運転は、それぞれ単体でも十分に危険だ。この2つが組み合わさったら、いったいどうなってしまうのだろうか。
飲酒運転は昼間ではなく夜中に発生することが多いので、飲酒運転のドライバーは、たいてい睡眠を奪われている状態だと考えられる。
だからこの問題を検証しておくのは、社会的に意味があるはずだ。安全に実験を行うために、ここではドライビングシミュレーターを使用した。実験の開始にあたり、まず被験者を4つのグループに分ける。
グループ 1は 8時間睡眠、グループ 2は 4時間睡眠、グループ 3は 8時間睡眠で、法定基準を超える血中アルコール濃度、そしてグループ 4は 4時間睡眠で、法定基準を超える血中アルコール濃度だ。
8時間睡眠でアルコールを摂取していないグループは、運転ミス(走行車線の外に出てしまう)がほとんどなかった。
4時間睡眠でアルコールを摂取していないグループは、 8時間睡眠で素面のドライバーに比べ、運転ミスが 6倍に増えた。
8時間睡眠でアルコールを摂取しているグループも同じような結果になった。
素面で睡眠不足のドライバーと、睡眠は足りているが酔っているドライバーは、同じくらい危険だということだ。それでは、グループ 4の、睡眠不足で酔っているドライバーはどうなのか。
寝不足だとミスが 6倍になり、酔っていてもミスが 6倍になるのだから、単純計算でミスは 12倍になると思うかもしれない。しかし、結果は 12倍どころではなかった。
運転ミスで走行車線の外に出てしまう回数が、 8時間睡眠で素面のドライバーに比べて、 30倍にもなったのである。
アルコールと睡眠不足の影響は、足し算ではなく、かけ算で増えていくということだ。
30年にわたる詳細な研究の結果、今では睡眠にまつわる疑問の多くで答えが出ている。
たとえば、人間のリサイクル率はおよそ 16時間だ。16時間起きていると、脳の機能が下がりはじめる。認知力を維持するには 1日に 7時間より長い睡眠が必要だ。7時間以下の睡眠が 10日続くと、脳の働きは 24時間起きていたときと同じレベルにまで低下する。
また、寝不足の状態が 1週間続いた後で、回復のための長時間睡眠を 3日続けても(つまり、週末の寝だめよりも長い)、脳の働きは通常のレベルまで回復しない。
そして最後に、寝不足の状態にある人は、自分がどれほど寝不足かわかっていない。能力の低下を自覚できない。
これらの結果から生じるさまざまな問題については、後の章で詳しく見ていく。ここでは、現実世界における居眠り運転の恐ろしさに少しだけ触れておこう。
今から 1週間の間に、アメリカでは 200万人以上のドライバーが居眠り運転をする。1日あたりでは 25万人以上であり、週末よりも平日のほうが多い。理由はわかるだろう。
1ヵ月に 5600万人以上のドライバーが、運転中に眠気に襲われたと認めている。その結果、アメリカでは、居眠り運転による自動車事故が、年間で 120万件も発生している。
表現を変えると、あなたがこの本を読んでいる間も、アメリカでは 30秒に 1件の頻度で、居眠り運転による自動車事故が発生しているということだ。
この章を読み終わるころには、誰かが居眠り運転で命を落としている可能性は十分にある。
意外に思うかもしれないが、居眠りによる自動車事故は、飲酒とドラッグによる事故を合わせた件数よりも、さらに多く発生している。
居眠り運転だけで、飲酒運転よりも多くの事故が起きているということだ。誤解しないでもらいたいのだが、私は飲酒運転の害を軽く見ているのではない。飲酒運転はとても危険であり、飲酒がとっさの判断を遅らせることは紛れもない事実だ。
酔っ払ったドライバーは、ブレーキを踏むのも、事故を避けるためのハンドル操作も遅くなる。しかし、居眠り運転の問題は、反応が遅れるどころか、まったく反応しなくなることなのだ。
運転中にマイクロスリープを経験したり、または完全に眠ってしまったりすると、そもそもブレーキを踏むことはない。それに事故を避けるハンドル操作もしない。
その結果、居眠り運転による事故は、飲酒運転による事故よりも、はるかに致命的な状況になる。
過激なたとえで申し訳ないが、ハイウェイで居眠り運転をするのは、 1トンのミサイルが時速 100キロ以上で暴走しているのと同じようなものだ。
居眠り運転による悲しい事故
居眠り運転がもっとも大きな問題になっているのは、自家用車ではなくトラックの運転手だ。アメリカのトラック運転手のおよそ 80%は体重過多で、 50%は病的な肥満に分類される。
太りすぎは、睡眠時無呼吸症候群のリスクが格段に高くなる。この病気は大きないびきをかくことが特徴で、患者は慢性的な睡眠不足を抱えている。
その結果、太りすぎのトラック運転手は、事故を起こす確率が 200 ~ 500%も上昇するのだ。そして、彼らが自分の居眠り運転による事故で死亡するとき、平均して 4・ 5人を道連れにしている。
疲労や居眠りによる事故は、厳密に言えば「事故(アクシデント)」ではない。居眠り運転による死亡事故は偶然ではなく、原因もはっきりしている。完全に予測できることであり、原因が睡眠不足であることは明らかだ。
つまり、起こる必要のない事故であり、完全に防ぐことができる。しかし残念ながら、先進国のほとんどの政府は、居眠り運転の危険を国民に教育する活動にほとんど予算を使っていない。
飲酒運転防止の教育にかける予算の 1%以下だ。たとえ危険をしっかり伝えようとしても、数字ばかりでは深刻さは伝わらない。たいていの人は、遺族の体験を聞いたりして、初めてこの問題を身近に感じることができる。私はこのような悲劇の例を何千と知っている。
読者が居眠り運転の悲劇に見舞われないことを願いながら、そのうちの1つの物語を紹介させてもらいたい。2006年1月、フロリダ州ユニオン郡で、 9人の児童を乗せたスクールバスが赤信号で止まった。
その後ろでは、 7人を乗せたポンティアック・ボンネビルも、同じように赤信号で止まった。そのとき、超大型トラックが 2台の後ろから近づいてきた。トラックは止まらなかった。
まずポンティアックに追突し、その上に乗り上げ、さらにスクールバスに追突した。トラックはそれでも止まらず、ポンティアックを引きずり、スクールバスを押しながら進んだ。ポンティアックは爆発して炎に包まれた。
スクールバスは反時計回りに回転して反対車線に押し出された。そのままバックするように 100メートルほど進み、大きな木に激突してやっと停止した。その衝撃で、バスに乗った 9人の児童のうち、 3人が窓から外に飛び出した。ポンティアックに乗っていた 7人は全員が死亡した。バスの運転手も死亡した。
トラックの運転手と 9人の児童はみな重症を負った。トラックを運転していたのは、きちんとした資格を持つドライバーだった。血中からアルコールもドラッグも検出されなかった。
しかし、後から判明した事実によると、その運転手は事故の時点で、 34時間連続で起きていた。事故の原因は居眠り運転だったのだ。
ポンティアックに乗っていて亡くなった 7人は、全員が小さな子どもか 10代の子どもだった。そのうちの 5人は家族だった。運転していたのは、 7人の中で最年長の 10代の子どもで、免許はもっていた。
いちばん若い犠牲者は、 12ヵ月の赤ちゃんだった。読者のみなさんに、この本から学んでほしいことはたくさんある。
その中でもいちばん学んでほしいのは、運転中に眠くなったら、絶対に車を止めるということだ。これは命に関わることだ。他人の命を奪うことになったら、その十字架を一生背負っていくことになる。
運転中に眠くなったときの対策はいろいろ言われているが、そのどれも信じてはいけない。
眠気は意志の力で抑えられると信じている人は多いが、残念ながらそれは間違いだ。
この嘘を信じていると、自分の命だけでなく、同乗している家族や友人、近くの車に乗っている人の命まで危険にさらすことになる。
人生でたった一度ハンドルを握りながらうとうとしただけで、命を落とす人もいるのだ。運転中に眠くなってきたら、または実際に眠ってしまったら、その夜はもう運転しないこと。
どうしても止まるわけにはいかず、命の危険があるという事実を考慮してもまだ運転するという判断をしたのなら、車を安全な場所に停めて、 20分 ~ 30分の仮眠をとる。そして目を覚ましても、すぐに運転をはじめないこと。
まだ寝起きのだるさが身体に残っているからだ(この状態を「睡眠慣性」と呼ぶ)。起きたままでさらに 20分 ~ 30分待ち、もしどうしてもというのならコーヒーの一杯でも飲む。運転するのはそこからだ。
しかし、それで完全に眠気がなくなるわけではない。またすぐに同じような仮眠が必要になるだろう。そして回を重ねるごとに、仮眠の効果は薄らいでいく。
結局のところ、疲れているときに命をかけてまで運転する価値はないということだ。
昼寝に効果はあるのか?
1980年代と 90年代、前にも登場したデーヴィッド・ディンゲスは、米運輸省道路交通安全局の現局長であるマーク・ローズカインド博士と共同で、再び画期的な発見につながる研究を行った。
今度のテーマは「昼寝の効用だ」だ。
2人はこの研究から「パワーナップ」という新語を生み出したが、私が思うに、おそらくこの表現は妥協の産物だったのだろう。この研究のほとんどは航空業界との協力で行われ、長時間飛行がパイロットに与える影響を主に検証している。フライトでもっとも危険なのは着陸時だ。
着陸はフライトの最後の段階であり、そのころには長時間起きていたことによる疲れがピークに達していることが多い。
夜に出発し、朝に到着するフライトに乗ると想像してみよう。飛行中にずっと起きていたら、到着するころにはぐったりと疲れているはずだ。
そのような状態で、あなたは乗客 467人を乗せたボーイング 747を着陸させることができるだろうか? 機体損失事故(つまり機体が壊れるような大事故)の 68%は、着陸に向かって降下を開始してから発生している。
2人の研究の目的は、米連邦航空局( FA A)の質問に答えることだった。
パイロットが 36時間の間に 40分 ~ 120分の仮眠しかとれないとしたら、仮眠の効果を最大化して認知力の低下を最小限に抑えるためには、どの時点で仮眠をとればいいのか? 1日目の夜のはじめか、夜中か、それとも翌朝の遅い時間なのか? ディンゲスとローズカインドは、生物学に基づいて仮説を立てた。
長時間にわたって睡眠を奪われる時間が始まるときに仮眠をとると、仮眠がたとえ一時的にでも緩衝材の役割を果たし、致命的なレベルまで集中力が低下するのを防ぐことができるのではないか。
彼らの仮説は正しかった。
フライトのはじめで仮眠をとると、夜中、または翌朝(つまり、すでにかなり疲れがたまっているとき)に仮眠をとるよりも、着陸時のマイクロスリープは少なくなる。
これは病気で言えば、予防と治療の違いということになるのだろう。フライトのはじめに寝るのが予防で、疲れがたまったフライトの後半に寝るのが治療だ。
予防の仮眠にはたしかに大きな効果があり、フライトでもっとも重要な最後の 90分間で、パイロットが居眠りする回数を減らすことができる。
パイロットの頭に電極をつないで観察したところ、睡眠の回数が減っていることが確認された。ディンゲスとローズカインドは、この結果を FA Aに報告し、合わせて「予防的仮眠」をとることを推奨した。
長距離フライトのパイロットに対して、フライトのはじめで仮眠をとることを義務づけるのだ。その時点で、多くの国の運輸航空当局が、この方針を採用していた。
しかし FA Aは、研究の結果は信じていたが、この命名には難色を示した。
「予防」という言葉が、パイロットたちに受けないと考えたのだ。そこでディンゲスは、代わりに「計画的仮眠」という呼び方を提案したが、 FA Aはこれにも難色を示した。お役所的でおもしろみがないからだ。
すると、今度は逆に FA Aのほうから、「パワーナップ」という名前を提案してきた。企業の CEOや軍の幹部といったリーダーにふさわしい響きがあるからだ。こうやって「パワーナップ」は誕生した。
6時間以下の睡眠で本来のパフォーマンスができる人はゼロに等しい
しかし、問題もあった。
人々、とりわけリーダーの地位にある人々は、 20分の「パワーナップ」だけで問題はすべて解決すると信じてしまったのだ。
「パワーナップ」という言葉の流行で、 20分の昼寝さえとっていれば、睡眠不足が続いても問題ないという誤解が広まった。加えてカフェインの助けも借りれば、睡眠不足でも最高のパフォーマンスを発揮できることになってしまったのだ。
テレビや雑誌で何を言っているにしても、睡眠の代わりになれるものは存在しない。それが科学的な事実だ。
どんなドラッグや器具でも、または強固な意志の力でも、睡眠不足に勝つことはできない。
パワーナップをとれば、長時間にわたって睡眠を奪われた状態で、一時的になら集中力を回復することはできる。
それにカフェインにもある程度までは同じ効果がある。
しかし、ディンゲスや他の研究者(私も含む)がその後に行った研究の結果、昼寝もカフェインも、学習、記憶、情緒の安定、複雑な論理的思考、意思決定といった高度な脳の機能を回復することはできないことが判明している。
もしかしたら、将来的には画期的な方法が開発されるかもしれない。しかし現在のところは、一晩ぐっすり眠ったのと同じ効果がある薬は存在しない。
世の中には「自分はショートスリーパーなので短い睡眠でも大丈夫だ」と豪語する人もいるが、ディンゲスは彼らに対しても、ぜひ自分の研究室に来て 10日間の実験を受けてもらいたいと呼びかけている。
彼らの普段の睡眠時間だけ寝てもらい、脳の認知機能をテストするという実験だ。これまでの志願者の中で、短い睡眠時間で健全な認知機能を維持していた人は 1人もいない。とはいえ、例外も存在する。
6時間という短い睡眠時間でも、認知機能の低下がほとんど認められない人たちだ。
彼らを研究室に招き、目覚ましをかけずに好きなだけ寝てもらうという実験を行っても、 6時間で自然に目覚めて、それ以上は眠らない。
理由の一部は遺伝的な体質にあると思われる。具体的には、 DEC 2遺伝子の突然変異だ。科学界では、この遺伝子の役割を解明し、それが短い睡眠時間とどのように関係しているかを探る研究が進んでいる。
ここまで読んで、自分もその遺伝的なショートスリーパーの 1人かもしれないと思った読者もいることだろう。しかし、その可能性はかなり低い。この遺伝子をもつ人は、全世界でもかなりの少数派だ。
それを納得してもらうために、研究仲間で、デトロイトのヘンリー・フォード病院の医師であるトーマス・ロスの言葉を引用しよう。
「5時間以下の睡眠でも眠くならず、脳の機能もまったく低下しない人の数を全人口に対するパーセンテージで表すなら、四捨五入してゼロということになる」
慢性的な睡眠不足でも脳の機能がまったく低下しない人もいるにはいるが、その数はきわめて少ない。自分がその 1人である確率は、雷に打たれる確率よりもはるかに低いだろう。(ちなみに一生のうちに雷に打たれる確率は 1万 2000分の 1だ)。
睡眠不足と感情のコントロール
「ついカッとなってしまって……」。これは、悲劇が起こってしまった後の言い訳でよく聞く言葉だ。
兵士が挑発的な民衆に向かって発砲してしまう、親が聞き分けのない子どもに向かって手をあげてしまうという状況は、すべて睡眠不足で感情のコントロールができなくなっていることが原因かもしれない。
多くの人が、睡眠不足によるイライラを経験しているだろう。他人が同じ状態になっているのも、見ればわかる。
ここで、また別のよくある場面を考えてみよう。
小さな子どもが泣きわめき、盛大にかんしゃくを起こしている。その子の親があなたのほうを向き、あきらめたようにこう言うのだ。
「この子はゆうべよく眠れなかったから」。寝不足の子どもは機嫌が悪くなることは、親であれば誰でも知っている。
睡眠不足でイライラするのはたしかによくある現象だが、最近まで科学的な根拠は発見されていなかった。
睡眠不足になると、脳の感情を司る部位は、いったいどのような影響を受けるか。
睡眠不足のイライラは、仕事でも、精神面でも、社会的にもマイナス要因だが、その原因はわからない。
そこで今から数年前、私の研究チームは、 MRIを使ってこの問題の解明に乗り出した。
私たちは被験者として健康な若い大人を集め、2つのグループに分けた。
1つのグループは、研究室のコントロールされた環境の中で一晩中起きている。そしてもう1つのグループは普通に眠る。
翌日、 MRIで脳をスキャンするときに、どちらのグループも 100枚の写真を見せられる。
感情的にニュートラルな写真(カゴ、流木など)から、ネガティブな感情を引き起こす写真(燃える家、こちらに襲いかかろうとしているヘビなど)だ。
こうして、ネガティブな刺激に対するそれぞれの反応を記録する。MRI画像を分析した結果、これまでの研究人生で最大の効果を観察することができた。
扁桃体と呼ばれる部位が、右脳と左脳に1つずつある。これは怒りの感情を生む部位であり、「戦うか、それとも逃げるか」のストレス反応とも関係している。
睡眠不足の被験者は、扁桃体の反応が 60%も増幅されたのだ。
一方で、一晩ぐっすり寝たグループは、まったく同じ写真を見せられても、扁桃体の反応は抑制されていた。
睡眠不足の脳は、あたかも原始的な感情がむき出しになってしまうかのようだ。状況を客観的に眺めることができず、ついカッとなって不適切な反応をしてしまう。
この発見から、さらに次の疑問が浮かんできた。
脳の感情中枢は、睡眠不足の状態になると、なぜここまで過剰に反応するのだろうか? 私たちは MRIを使ってさらに詳細な分析を行い、根本の原因をつきとめることに成功した。
一晩ぐっすり眠ると、前頭前皮質と扁桃体のつながりが強くなる。前頭前皮質は眼球のすぐ上あたりに位置し、合理性、論理性、意思決定を司る。霊長類の中でいちばん前頭前皮質が発達しているのが人類だ。
睡眠を十分にとった人は、この前頭前皮質が扁桃体と強く結びつき、感情をコントロールしているのである。感情のアクセル(扁桃体)とブレーキ(前頭前皮質)のバランスがとれている状態だ。
しかし睡眠不足の状態になると、前頭前皮質と扁桃体の強いつながりがなくなってしまう。原始の感情を抑制できない状態だ。感情のアクセル全開で、ブレーキはほとんど効いていない。十分に眠ることで理性を確保しないと、感情が暴走してしまうのだ。
最近、日本の研究チームによる実験でも、私たちの発見が再現された。
ただし彼らの実験の被験者は、 5時間睡眠で 5日間すごした状態で検査を受けた。
つまり、一晩中起きているタイプの睡眠不足でも、短い睡眠時間が何日か続くタイプの睡眠不足でも、脳の感情抑制機能は同じように影響を受けるということだ。
初めてこの実験を行ったときに印象深かったのは、被験者の感情や気分が振り子のように揺れ動くことだ。
睡眠不足の被験者は、さっきまでイライラしていたかと思えば、一瞬後にはハイになって騒いでいたりする。ネガティブから中立、そしてポジティブへと、感情の揺れがとても大きい。一瞬のうちに気分がコロコロ変わる。これは見逃せない現象であり、何か原因があるに違いない。
そこで、私は補足の実験を行うことにした。
睡眠不足の人を対象に、今度はネガティブな刺激ではなく、ポジティブな刺激への反応を調べたのだ。
Xスポーツなど激しいスポーツの写真を見せたり、仕事を完成させれば高額の報酬を出すという期待を与えたりした。そして私たちは、扁桃体とは違う感情中枢を発見した。
それは線条体と呼ばれる部位で、扁桃体のすぐ上と後ろにある。衝動や報酬を司り、その場所にはドーパミンと呼ばれる化学物質が豊富にあった。
睡眠不足の人が、報酬への期待や快楽を経験すると、その線条体が過活動の状態になったのだ。扁桃体のときと同じで、線条体の活動が活発になったのも、前頭前皮質とのつながりが失われたことが原因だった。
つまり、睡眠不足の脳は、ずっとネガティブな状態にあるわけではない。むしろポジティブとネガティブの間を激しく行ったり来たりしているのだ。
もしかしたらあなたは、ネガティブとポジティブがお互いに相殺され、結果としてニュートラルになると考えているかもしれない。しかし悲しいかな、感情はそのようには働かない。極端な感情は危険のサインだ。
たとえば、抑うつなどの極端にネガティブな感情に振れると、どうしようもない無力感に襲われ、自分が無価値だと感じ、人生は無意味だと感じるようになる。
子どもの自殺、いじめ、ドラッグ依存と睡眠の関係
思春期の子どもを対象にした調査によって、睡眠不足と自殺の関係が明らかになった。
睡眠不足の子どもは、自殺願望をもち、自殺未遂を起こし、そして悲しいことに自殺を完遂してしまう危険が高い。社会や親にとっては、子どもから睡眠を奪うのではなく、むしろ十分な睡眠を推奨しなければならない理由が、これでまた1つ増えただろう。
先進国における若者の死因で、自殺が自動車事故に次いで 2位につけていることを考えれば、なおさら睡眠の大切さが理解できるはずだ。
睡眠不足はまた、さまざまな年代の子どもで、攻撃性、いじめ、問題行動とのつながりが指摘されている。睡眠不足と暴力性の似たような関係は、大人の受刑者の間でも観察されている。
刑務所は受刑者の睡眠に気を配っているとはとても言えず、受刑者の攻撃性や暴力、精神疾患、自殺の一因になっている。これは人道的に問題があるだけでなく、納税者の負担を増やすことにもつながっていると言えるだろう。
極端にポジティブな感情も同じくらい問題だ。快楽に対して敏感になりすぎると、スリルを求めてリスクの高い行動をとったり、何らかの依存症になったりする危険がある。
睡眠不足と、ドラッグやアルコール依存の間に大きな関係があることは、今では広く認められている。睡眠不足はまた、各種の依存症治療で失敗の原因にもなる。
アルコールやドラッグを求める気持ちを抑えられず、理性を司る前頭前皮質のコントロールが効かないからだ。
また、依存症の予防という観点から見ても、幼少期に睡眠不足だった子どもは、思春期の後半ですでにアルコールやドラッグなどに手を出すリスクが高くなる。
不安、注意欠陥、親のドラッグ使用といった高リスクの要因を考慮しても、結果は同じだった。このように、睡眠不足によって感情が極端から極端に振れる状態になると、さまざまな問題を引き起こす。決して効果が相殺されることはないのである。
健康な人の脳をスキャンする実験を行った結果、睡眠と精神病の関係で興味深い発見があった。普通に睡眠をとっている人は、決して大きな精神病を発症しないのである。この発見は、うつ病、不安、 PTSD、統合失調症、双極性障害のすべてであてはまる。
精神医学の世界では、かなり以前から睡眠不足と精神疾患の関係が指摘されていた。しかし、精神疾患が原因で睡眠不足になるのであり、その逆ではないと考えられていたのだ。現在は私たちの実験により、健康な人でも睡眠不足の状態になると、精神病患者と同じような脳の活動を見せることが証明されている。
現に精神疾患の影響を受ける脳の部位の多くは、睡眠を統制する部位や、睡眠不足の影響を受ける部位でもある。それに加えて、精神病患者に多い遺伝子の異常は、睡眠や概日リズムをコントロールするのと同じ遺伝子で起きている。
睡眠不足でひどくなるうつ、睡眠不足で軽くなるうつ
私はここで、睡眠不足がすべての精神疾患の原因だと主張しているのではない。しかし、精神疾患の治療で、睡眠不足という要素があまりにも軽視されていることは指摘しておきたい。
睡眠をうまく活用すれば、新しい診断や治療の道が開ける可能性もある。私のこの考えを裏づける証拠は、すでに出始めている。まだ出てきたばかりだが、説得力のある証拠だ。その一例が双極性障害だ。
多くの人は、躁うつ病という昔の呼び方のほうがなじみがあるかもしれない。
双極性障害と大うつ病は、きちんと区別しなければならない。大うつ病は、感情がネガティブなほうだけに大きく傾く病気であり、ポジティブに向かうことはない。
双極性障害の場合は、極端にネガティブから極端にポジティブへと、感情が大きく揺れる。躁状態になると過度に快楽や刺激を求め、うつ状態になると大きく気分が落ち込む。
この2つの状態の間に、精神が安定して落ち着いた時期が挟まれることも多い。イタリアの研究チームが、この安定期にある双極性障害患者を対象に調査を行った。患者の状態を注意深く見守りながら、一晩寝ないですごしてもらう。
すると、安定期にあった患者のほとんどが、寝不足の直後に躁かうつのどちらかの状態になったのだ。
倫理的な観点からこの実験を容認することは難しいが、睡眠不足が双極性障害の症状が出るきっかけになることを証明したことは明らかだろう。
ありがたいことに、睡眠不足が症状悪化の原因になるということは、逆に考えれば、十分な睡眠をとれば症状の改善につながるということでもある。
後の章でも詳しく見ていくが、認知行動療法と呼ばれる手法を使うことで患者の睡眠を向上させると、症状の軽減や寛解につながる。
カリフォルニア大学バークレー校の同僚であるアリソン・ハーヴィー博士が、この分野のパイオニアだ。
ハーヴィーの研究チームは、睡眠の量、質、それに規則正しさを向上させると、さまざまな精神疾患で症状が改善することを多数の例で証明してきた。睡眠は、うつ病、双極性障害、不安、自殺願望など、多岐にわたる疾患や症状で大きな効果を発揮している。
規則正しく、質が高く、十分な長さの睡眠を治療に用いることで、ハーヴィーは多くの患者を救ってきた。
これこそがまさに、人道への偉大な貢献というものだろう。
前にも見たように、たとえ健康な人でも、睡眠が不足すると感情が不安定になり、極端にネガティブになったり、極端にポジティブになったりする。
その発見が、もしかしたら精神医学界を何十年も悩ませてきた問題の解決につながるかもしれない。大うつ病の患者は、極端にネガティブな状態に陥り、それが長期にわたって続くのだが、一晩徹夜することでなぜか症状が改善することがあるのだ。大うつ病患者のおよそ 30 ~ 40%が、睡眠不足で症状が改善するという。彼らの場合は、どうやら睡眠不足が抗うつ剤になっているようだ。
しかし、眠らないという治療法が採用されることはない。その理由は2つある。1つは、患者が眠ると抗うつ剤としての効果が消えてしまうこと。そしてもう1つは、睡眠不足が抗うつ剤にならない 60 ~ 70%の患者は、むしろ寝ないと症状が悪化するからだ。
以上を考慮すると、眠らせないという治療法は現実的ではなく、包括的でもない。とはいえ、興味深い現象であることに変わりはない。
なぜ睡眠不足で改善する患者と、悪化する患者がいるのだろうか? 私が思うに、その答えは、私たちの実験で明らかになった「両極端の変化」にある。
うつ病はネガティブな感情が極端に強く出る病気だと思っているかもしれないが、じつはそうではない。うつ病とは同時に、ポジティブな感情が存在しないということでもある。
ポジティブな感情の不在はアンヘドニア(無快楽症)とも呼ばれていて、食事、友達と会う、セックスといった、普通なら楽しいはずの活動で、まったく楽しさを感じなくなる状態だ。
つまり、うつ病患者のうちの睡眠不足で症状が改善するのは、すでに見たような脳の報酬回路が敏感すぎる人たちで、睡眠不足でこのポジティブな回路に過剰に反応し、アンヘドニアの症状が軽減して、楽しい体験を普通に楽しめるようになったのかもしれない。
反対に、睡眠不足でうつの症状が悪化した人たちは、ネガティブな回路のほうが過剰に反応するタイプなのだろう。その結果、うつが悪化する。
両者を見分けるカギがわかれば、うつ病の治療で睡眠を利用するときに、より個々の患者に合った治療法を開発することができるだろう。
睡眠不足が情緒の安定に与える影響については、後の章でも詳しく見ていこう。
いずれにせよ、私たちの発見は、次のような疑問に対する答えを与えてくれた。
睡眠不足の医師は、果たして正しい治療判断ができるのか? 睡眠不足の軍人に銃を持たせるのは危険ではないのか? 働きすぎの銀行家や株の仲買人は、ムダなリスクをとるような投資判断を避けることができるのか? 一般の市民が汗水たらして働いて貯めた年金基金を、正しい投資に回すことができるのか? 朝早くから始まる学校のスケジュールは、 10代の子どもの脳にとって害になるのではないか? 発達期にある脳から睡眠を奪うと、さまざまな精神疾患の種をまくことになるのではないだろうか? とりあえずここでは、アメリカ人起業家の E・ジョセフ・コスマンの言葉を紹介しておこう。
「絶望と希望を結ぶもっとも確実な橋は、一晩ぐっすり眠ることだ」
徹夜は成績を下げる
あなたこれまでに、徹夜をしたことがあるだろうか? 私は現在、カリフォルニア大学バークレー校で教えている。大勢の学部生たちを前に睡眠について講義するのは、目下のところ私の最大の楽しみの1つだ。私は講義の初回で、学生を対象に睡眠に関するアンケートを採ることにしている。
たとえば、平日の寝る時間と起きる時間、週末や休日の寝る時間と起きる時間、睡眠時間はどれくらいか、自分の睡眠と学業成績の間に関係があると思うか、といった項目だ。
アンケートは教室ではなくオンラインで行い、無記名なので、学生たちは本当のことを答えていると考えられる。そして私は、答えを読むたびに悲しい気持ちになってしまう。85%以上の学生が徹夜を経験している。
とくに気がかりなのは、徹夜をすると答えた学生のほぼ 3分の 1が、毎月、毎週、さらには週に何度も徹夜をしていることだ。学生が徹夜するもっとも一般的な理由は、試験前の一夜漬けだ。
2006年、一夜漬けの効果を MRIを使って検証したことがある。
徹夜の詰め込み勉強は、本当に効果があるのだろうか? 多くの学生を被験者として集め、眠るグループと、眠らないグループに分けた。どちらのグループも、実験の初日の昼は普通に起きている。
その日の夜、睡眠グループは普通に眠り、徹夜グループは、研究室のコントロールされた環境で専門家の監視を受けながら徹夜をする。
翌日の午前中は、どちらのグループもずっと起きている。そして正午ごろ、参加者の脳の働きを MRIで観察しながら、新しい情報を一度に1つずつ覚えてもらう。その後でテストを実施し、どれくらい覚えているかを判定する。
ただし、覚えた直後ではなく、 2日間たっぷり睡眠をとった後でテストを実施する。
どちらのグループも同じリフレッシュした状態で試験を受けられるように、 2日間の回復睡眠を挟むことにした。こうすれば、睡眠不足が学習時に与える影響だけを測定することができる。テストの結果を比較したところ、違いは明らかだった。
徹夜グループは、睡眠をとったグループに比べ、成績が 40%悪かったのだ。
これを現実の試験で考えると、トップの成績と落第ぐらいの差があるだろう!
それでは、惨めな結果になった徹夜組の脳内では、いったいどんなことが起こっているのだろうか? 私たちは、学習するときの脳の活動を記録し、とくに第 6章で登場した海馬の活動を中心に分析した。
すでに見たように、海馬の役割は新しい情報を一時的に保管することだ。前の晩に十分な睡眠をとったグループは、海馬が活発に学習している様子が観察された。
しかし徹夜組の海馬では、学習する活動がほとんど見られなかったのだ。まるで短期記憶の保管庫が、扉を閉じているようだった。そのため、どんな新しい情報がやってきても、すべてはね返されてしまう。徹夜までしなくても、寝ている間に音を出して睡眠を妨げるだけで、同じような結果になった。
深いノンレム睡眠を奪われて浅い眠りになると、たとえ睡眠はとっても海馬の学習能力は低下するのだ。
クリストファー・ノーラン監督の、アカデミー脚本賞にノミネートされた『メメント』という映画を観たことがあるだろうか。
主人公は脳に障害を負い、その後遺症で新しい情報を覚えることができなくなった。神経科学の世界では、彼の症状を「前向性健忘」と呼んでいる。原因は海馬の損傷だ。
睡眠不足も海馬に同じような影響を与え、新しい情報をまったく覚えられなくなってしまう。
教室でこの話をすると、これまで数え切れないほどの学生が講義の後で私のところにやってきて、自分の体験を話してくれた。
「すごく身に覚えがあります。徹夜で勉強していると、教科書を読んでも何も頭に入ってこないんです。翌日のテストまでなら覚えていることもあるかもしれませんが、 1ヵ月後に同じテストを受けたら、きっと1つも答えられないと思います」 この言葉には、科学的な裏づけもある。
睡眠が足りない状態で覚えたことは、あっという間に忘れてしまう。
ラットを使った研究によると、睡眠不足の脳は、新しい記憶を司るニューロンのつながりを形成することができなくなる。つまり、新しい記憶を脳にしっかり刻みつけることが、ほぼ不可能になるのだ。24時間ずっと起きていたラットも、ほんの 2時間か 3時間の睡眠を奪っただけのラットも、結果は同じだった。
シナプスの中で記憶の土台になるプロテインを形成するのは、学習プロセスの中でもっとも基本的な作業だが、睡眠不足の脳はそれさえもできなくなってしまう。
この分野の最新の研究によると、睡眠不足は DNAにも影響を与えるという。具体的には、海馬の脳細胞の中にある、学習に関連した遺伝子だ。つまり睡眠不足は、脳内にある記憶をつくる装置に、そこまで深いダメージを与えるということだ。
この状態で何かを記憶するのは、波打ち際に砂のお城をつくることに似ている。
結果は言わなくてもわかるだろう。
ハーバード大学で教えていたころ、学生新聞の『クリムゾン』に初めて記事の執筆を依頼された。
睡眠不足と学習、記憶の関係についての記事だ。執筆の依頼は、あれが最初で最後だった。私は記事の中で先ほどの研究を紹介し、学生の間に蔓延している睡眠不足の害をくり返し訴えた。
しかし私が攻撃したのは、睡眠に無頓着な学生たちではなく、むしろ教職員のほうだった。教職員の中には、もちろん私自身も含まれる。
もしわれわれ教職員が、生徒たちに最高の学習効果を望むのであれば、試験を学期の最後に詰め込むべきではない。試験前の学生は、勉強のために睡眠時間を削り、ときには徹夜までしている。これは、若者の知性を育てるというわれわれの目的に、真っ向から反しているではないか。
以上は科学的な根拠のある事実であり、われわれはこの事実を尊重し、これまでの教育慣習を改めるべきときに来ている。
教職員からの反応は、控えめに言ってもごく冷ややかだった。「すべて学生の自己判断だ」と切り捨てるメールをたくさん受けとった。「試験前に徹夜をしなければならないのは、普段から無計画でだらしないからだ」という反応もたくさん頂戴した。
実際のところ、私自身も、たった 1本の記事で、教育や試験のあり方を 180度転換できるとは思っていなかった。
大学のような厳格な組織では、物事が変わるのに膨大な時間がかかる。しかし、どこかの時点で議論を起こし、戦いを始めなければならないだろう。
あなたはおそらく、私自身はどうなのかと思っているだろう。
私は試験を学期末に集中させるのをやめて、新しい評価方法を採用したのだろうか? その答えは「イエス」だ。
私のクラスでは、年度末の試験は存在しない。代わりに講義を3つの学期にわけている。それに試験の範囲を細かく定めているので、学生はたくさんの知識を頭に詰め込む必要がない。このほうが学習効果が高いことは、心理学の研究で何度も証明されている。
高級レストランのコース料理と同じで、勉強もおいしい食事を一皿ずつ食べるほうが、より楽しめるのだ。
学習したその日に寝ないと記憶は脳に定着しない
第 6章でも見たように、睡眠は新しい記憶を脳に定着させるうえで、とても大きな役割を果たしている。
友人で、長年の研究仲間でもあるハーバード大学メディカルスクールのロバート・スティックゴール博士が、あるおもしろい研究を行った。
133人の学部生を対象に、くり返し同じ画像を見せて記憶してもらう。それから学生は研究室に戻り、画像の内容をどれくらい覚えているかテストを受ける。
その日の夜に十分に睡眠をとり、翌日にまたテストを受けるグループと、 2日間十分に睡眠をとり、 2日後にテストを受けるグループと、 3日間十分に睡眠をとり、 3日後にテストを受けるグループに分けた。
これまで何度も見てきたように、睡眠には新しい記憶を定着させる効果がある。この実験でも、結果は同じだった。それに加えて、学習とテストの間にある睡眠の回数が増えるほど、記憶の定着も強化されたのである。
しかし、例外のグループもあった。
先ほどあげた3つのグループの他に、博士はもう1つのグループを用意していた。
学習してから 3日後にテストを受けるという点はグループ 3と同じだが、この例外グループは、学習した夜は眠らず、翌日にテストも受けなかった。
その後 2日間は十分に眠り、そして 3日後にテストを受ける。その結果、睡眠による記憶の強化はまったく認められなかった。
つまり、何かを新しく学習したその日の夜に眠らないと、記憶を刻みつけるチャンスを失ってしまうということだ。その後でどんなにたくさん寝ても、最初の睡眠をとり戻すことはできない。
記憶に関して言えば、睡眠は銀行とは違う。一度借金をすると、後で返済することはできない。睡眠で記憶を刻みつけるチャンスは 1回しかない。
そのチャンスを逃すと、もう二度ととり戻すことはできないのだ。忙しい現代人の生活を考えると、また懸念材料になる事実が発見されたと言わざるをえない。これはもう一度記事を書くべきなのか……。
睡眠不足の人は、アルツハイマー病になりやすいか
アルツハイマー病が世界で初めて認識されたのは、 1901年のことだ。ドイツ人医師のアロイス・アルツハイマーが発見したことでこの名前がつけられた。
そして 21世紀になり、アルツハイマー病は公衆衛生の面でも、経済の面でも、大きな脅威になっている。現在、患者の数は 4000万人以上と考えられている。
人類の寿命が延びるにつれて患者数も飛躍的に増加したのだが、要因はそれだけではない。睡眠時間が短くなっていることも、同じくらい大きな影響を与えている。
65歳以上の高齢者で見ると、 10人に 1人がアルツハイマー病にかかっている。診断、予防、治療の面で大きな進歩がなければ、患者の増加は止まらないだろう。そして、診断、予防、治療のすべての面で、新しく注目を集めているのが睡眠だ。
その理由を説明する前に、睡眠不足とアルツハイマー病の関係について触れておこう。
第 5章でも見たように、睡眠の質(とくに深いノンレム睡眠の質)は加齢とともに低下する。この睡眠の質の低下は、記憶力の低下と関連がある。
そして、アルツハイマー病の患者を観察してみると、深い睡眠が普通よりもさらに阻害されていることがわかる。おそらくここで重要なのは、アルツハイマー病を発症する数年前に、睡眠の質の低下が始まっているということだろう。つまり睡眠の質を調べれば、病気の危険を発症前に察知できるということだ。
それにもしかしたら、睡眠の質の低下が、アルツハイマー病の一因になっているのかもしれない。そして発症してからは、病状の進行と睡眠の質の低下は並行して進んでいく。
この点からも、両者の間につながりがあることがうかがえる。
さらに深刻な問題は、アルツハイマー病患者の 60%は、最低でも1つの睡眠障害を患っているということだ。もっともよく見られるのは不眠症であり、これは患者の介護をしている人なら身にしみて知っているだろう。
しかし、わりと最近まで、睡眠障害とアルツハイマー病の間に因果関係がありそうだとは考えられていなかった。まだ解明されていないこともたくさんあるが、少なくとも今の時点で、この2つがお互いに悪い影響を与え合っていることはわかっている。
一方がもう一方の引き金になり、互いに症状を悪化させているのだ。アルツハイマー病の原因の1つは、アミロイド βと呼ばれる毒性のタンパク質が脳内に蓄積することだ。
アミロイド βが集まり、脳内にネバネバしたかたまりをつくる。このアミロイドのかたまりには毒性があり、周囲の脳細胞を殺してしまう。
しかし、ここで奇妙なのは、アミロイドのかたまりに影響を受ける脳の部位が限定されているということだ。その理由は、まだわかっていない。
私がこの現象でとくに興味をもったのは、アミロイド βのかたまりが形成される場所だ。病気の初期と末期で、とくにたくさんのアミロイドが集まる場所がある。それは、前頭葉の真ん中だ。そして前にも見たように、ここは本来なら深いノンレム睡眠が発生する場所でもある。
当時はまだ、アルツハイマー病と睡眠障害の詳しい関係についてはわかっておらず、ただ2つは同時に起こるということだけが観察されていた。
そこで私は考えた。
アルツハイマー病患者の深いノンレム睡眠がここまで阻害されるのは、病気によってその眠りを生み出す脳の部位が破壊されるのも、一因になっているのではないだろうか? そこで私は、アルツハイマー病の権威であるウィリアム・ジャガスト博士の研究チームに加わるために、カリフォルニア大学バークレー校に移籍した。
私たちの研究の目的は、ノンレム睡眠とアルツハイマー病の関係についての仮説を検証することだ。
多くの高齢者を対象に特別に開発した PET検査を行い、脳内のアミロイド βの蓄積量を調べ、その蓄積量に応じて睡眠に関するさまざまな調査を行った。そして数年後、私たちは答えを発見した。
前頭葉の中央にアミロイド βが蓄積するほど、深い睡眠の質は損なわれる。高齢になると誰でも眠りが浅くなるが、これはまた別の問題だ。アミロイド βに奪われる睡眠は、ゆっくりとした力強い脳波が特徴の、もっとも深いノンレム睡眠だったのだ。
加齢が原因の浅い眠りと、アミロイド βの蓄積による浅い眠りを区別することはとても重要だ。後者の眠りは、「年のせいだから」で片づけることはできない、特殊な眠りだ。
現在私たちは、この深いノンレム睡眠の減少が、アルツハイマー病の早期発見につながるかという検証を行っている。睡眠の検査は MRIや PET検査と違ってお金がかからず、検査を受ける人の身体の負担も少ない。睡眠による早期診断が可能になれば、早期の医療介入も可能になるだろう。
以上のような発見をもとに、私たちはアルツハイマー病というジグソーパズルを組み立ててきた。そしてつい最近も、カギとなるピースを発見したばかりだ。
アミロイド βの蓄積が、もしかしたら加齢による記憶力の低下に関係しているかもしれない。これはアルツハイマー病の研究で、今までずっと見過ごされてきた点だ。
前にも触れたように、アミロイド βの蓄積は脳内のすべての場所で起こるわけではない。たまりやすい場所と、そうでない場所がある。
アルツハイマー病の大きな特徴は物忘れだが、新規記憶の保管庫である海馬は、どういうわけかアミロイド βが蓄積しない。
科学者たちは、以前からこの現象に頭を抱えてきた。
脳の記憶を司る部位はアミロイド βの影響を受けていないのに、アルツハイマー病で記憶力が低下するのはアミロイド βが原因だと言えるのだろうか? もちろんこの病気の他の側面も関係しているだろうが、私が思うに、脳内にはまだ発見されていないつながりがあるのだろう。
アミロイド βのかたまりから生まれた毒が、何らかの仲介者を通して、記憶を司る部位に影響を与えている。
そして、ここで欠けているパズルのピースは、睡眠障害なのだろうか? この仮説を検証するために、脳内のアミロイド βの蓄積量が異なる高齢者を集めて実験を行った。
まず、夜に新しい情報をいくつか覚えてもらい、その日の夜は研究室で寝てもらう。寝ている間、脳波を記録する。そして翌日、覚えた新情報をどれだけ覚えているかテストする。
その結果、ある種の連鎖反応が観察された。前頭葉のアミロイド β蓄積量がもっとも多かった人は、深い睡眠がもっとも少なく、その当然の結果としてテストの成績がいちばん悪かった。
このことからわかるのは、深いノンレム睡眠の不在が、アミロイド βと記憶力の低下をつなぐ、なぞの仲介者だということだ。
とはいえ、これらの発見も物事の半分しか説明していない。むしろもう半分の説明のほうが重要だといえるだろう。
今のところわかっているのは、アルツハイマー病におけるアミロイド βの蓄積は、深い睡眠の喪失と関係があるかもしれないということだ。
しかし、これは双方向に影響を与えているのだろうか? そもそも脳内にアミロイド βが蓄積されたのは、睡眠が失われたことが原因なのではないだろうか? そしてもしそうなら、若いころから慢性的に睡眠不足の人は、アルツハイマー病にかかるリスクが劇的に高くなるのでは?
睡眠が脳を掃除する
私たちの研究と時を同じくして、ロチェスター大学のマイケン・ネデルガールド博士の研究チームが、睡眠研究において近年で最大級の発見をした。
マウスを使った実験で、脳内に汚物を排出する下水システムのようなものがあることが判明したのだ。ネデルガールドのチームは、これを「グリンパティック系」と名づけた。
体内で同じように下水の働きをする「リンパ」と、このシステムを構成している「グリア細胞」を合わせた名前だ。グリア細胞は脳内のすべてに存在し、電気信号を出すニューロンの隣に並んでいる。
リンパ系が体内の老廃物を排出するように、グリンパティック系も、ニューロンの活動から生まれた脳内の老廃物を排出している。
エリート・アスリートのために働くサポートチームに似ているかもしれない。
グリンパティック系(サポートチーム)は昼間もそれなりに働いているが、活動の本番は睡眠中だ。深いノンレム睡眠のリズムが始まると、このサポートチームはにわかに活発になり、昼間の 10 ~ 20倍の老廃物を排出する。
グリンパティック系は、脳の体液である脳脊髄液の流れで、脳内の掃除を行っているのだ。
ネデルガールドは、さらに驚くべき発見をした。
今度の発見は、脳脊髄液が脳の掃除を行うメカニズムを教えてくれている。脳内のグリア細胞は、ノンレム睡眠の間に大きさが 60%まで縮むのだ。その結果、ニューロンの間の隙間が広くなり、脳内の掃除をする脳脊髄液が流れやすくなる。
これを大都市にたとえると、夜の間にビルや建物が小さくなり、広くなった道路にジェット水流を当ててきれいに掃除するようなものだ。
朝起きたときに頭がすっきりしているのは、この夜間清掃活動のおかげなのである。
それでは、この脳の掃除とアルツハイマー病は、いったいどんな関係があるのだろうか? グリンパティック系によって排出される老廃物の中には、アルツハイマー病の原因とされるアミロイド βも含まれる。
他にも、アルツハイマー病と関係があるとされる有毒な老廃物も、グリンパティック系によって排出される。
たとえば、タウ蛋白や、ニューロンが日中の活動で生み出したストレス分子などだ。
実験でマウスからノンレム睡眠を奪い、ずっと寝かせずにいると、脳内ではまたたく間にアミロイド βや、他のアルツハイマー病に関係ある毒素が蓄積する。
簡単に言うと、寝ないことは軽度の脳損傷で、睡眠は脳の掃除だということだ。ネデルガールドの発見によって、私たちの疑問も解消した。
睡眠不足とアルツハイマー病は、お互いを強化する悪循環の関係にある。睡眠が足りないと、脳内にアミロイド βが蓄積する。とくに深い睡眠を生む場所にたまりやすく、その場所を激しく攻撃する。
この攻撃によって深いノンレム睡眠が失われ、脳内の夜間清掃が行われず、さらにアミロイド βが蓄積する。アミロイド βが増え、深い睡眠が減り、そしてさらにアミロイド βが増える。そのくり返しだ。
この悪循環を見れば、容易に想像できることがある。
それは、若いころから慢性的に睡眠不足の人は、アルツハイマー病のリスクが飛躍的に高くなるということだ。
その証拠に、不眠症や睡眠時無呼吸症候群などを扱った数多くの疫学研究で、睡眠不足とアルツハイマー病との関連が指摘されている。
余談ではあるが、さらには科学的根拠があるわけでもないが、私は以前から興味をもっていたことがある。
マーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンという 2人の元国家元首は、いつも 4時間から 5時間しか寝ていないことを、自慢ではないにしても、声高に宣言していた。そして 2人とも、晩年はアルツハイマー病を発症している。
そして現アメリカ大統領のドナルド・トランプも、睡眠は 2 ~ 3時間で十分だと豪語している。おそらく彼も、 2人の先輩の例を心にとどめておいたほうがいいだろう。
この発見には、大きな希望の光もある。逆に睡眠を改善すれば、アルツハイマー病の予防につながるのではないか? または少なくとも、発症を遅らせることならできるはずだ。
いくつかの医学研究で、それを裏づけるような結果が上がってきている。
たとえば、睡眠障害を訴える中高年の睡眠が改善したところ、認知力の低下速度が格段に遅くなり、さらにアルツハイマー病の発症が 5年から 10年遅くなったという。
私の研究チームも、人工的に睡眠の質を上げる方法の開発を目指している。
深いノンレム睡眠を確実に増やすことができれば、高齢で脳内にアミロイド βが蓄積し、すでに記憶力が低下している人でも、新しい記憶を定着させる機能をとり戻せるはずだ。
低コストで、一度に大勢の人が何度も受けられるような方法が開発されれば、アルツハイマー病を予防することができるだろう。
中年期から深いノンレム睡眠を人工的に増やす対策をしていれば、アルツハイマー病を発症する心配がなくなるかもしれない。
たしかにこれは、壮大な野望だ。不可能だと言う人もいるだろう。
しかし、現に心血管病の分野では、リスクの高い 40代から 50代の人を対象に、予防的な措置としてスタチンという薬品を処方している。
アルツハイマー病でも同じことができるのではないだろうか。不十分な睡眠は、数あるアルツハイマー病を引き起こす要因の1つにすぎない。睡眠さえ改善すれば、アルツハイマー病が根絶できるわけではない。
それでもなお、あらゆる年代で睡眠を改善することが、アルツハイマー病のリスクを引き下げる大きな要因であることは間違いないと言えるだろう。
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