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第 6章記憶力と睡眠──シェイクスピアは眠りの効果をすでに知っていた

世紀の大発見! 寿命を延ばす画期的な方法がついに開発された。しかも、効果は長生きだけではない。記憶力と創造性も向上する。外見も魅力的になる。余計な食欲がなくなり、スリムな身体を維持することもできる。ガンや認知症とも無縁になれる。風邪やインフルエンザも撃退してくれる。心臓発作と脳卒中のリスクも下がる。もちろん糖尿病にもならない。幸福感まで高まり、抑うつや不安は消える。

どんな方法か、興味はあるだろうか? そんなうまい話、あるわけがないと思うかもしれない。しかし、この架空の広告に書かれていることはすべて本当だ。これが薬の広告であったら、多くの人は信じないだろう。

そして信用した人は、どんなに大金を積んででも欲しいと思うはずだ。実際、この薬の効果が科学的に証明され、発売されることになったら、とんでもない高額になるだろう。もちろんこれは、魔法の新薬の広告ではない。

「画期的な方法」とは、一晩ぐっすり眠ることだ。睡眠にこれらすべての効能があることは、現在までに発表された 1万 7000以上の科学論文でも証明されている。

しかも、睡眠はお金がかからない。それなのに私たちは、毎晩処方される睡眠という魔法の薬をきちんと飲んでいない。睡眠の驚くべき効果を知る人が少ないのは、専門家の責任でもある。一般に広める努力をしてこなかったからだ。

そこで第 6章、第 7章、第 8章で、その埋め合わせというわけではないが、睡眠の効能を詳しく説明していきたいと思う。

今のところはっきりしているのは、睡眠こそが万能薬だということだ。身体の不調も、精神の不調も、必要なのは睡眠という薬だ。

この章を読み終わるころには、どんなに熱心なショートスリープ信者も改宗していることを願っている。前にも見たように、睡眠にはいくつかの段階がある。ここからは、それぞれの段階について詳しく見ていこう。

皮肉なことに、 21世紀になって発見された睡眠の「新」事実は、 1611年に出版された『マクベス』の中ですべて語り尽くされている。

具体的には、第 2幕第 2場に登場する「睡眠は命の宴の主菜である」という言葉だ。

目次

眠りが記憶のスペースをつくる

睡眠をとると脳がリフレッシュされ、新しいことを学習する準備ができる。毎晩寝るたびに、このリフレッシュ作業が行われている。

起きているときの脳は、つねに新しい情報をとり入れている(意図的にとり入れる情報もあれば、勝手に入ってくる情報もある)。新しい情報をとり入れるのは、いつも同じ脳内の部位だ。

事実に基づく情報、たとえば人の名前、電話番号、車を停めた場所などを記憶するとき、脳の海馬と呼ばれる部位が入ってきた情報を理解し、互いに結びつけている。

海馬は長い指のような形をしていて、脳の奥深くに位置し、左脳と右脳で1つずつある。その役割は、新しい記憶を集めて一時的に保管しておくことだ。しかし残念ながら、海馬の容量も無限ではない。たとえるなら USBメモリースティックのようなものだ。容量がいっぱいになると、もう新しい情報を入れることができなくなる。

しかし、情報が入らないならまだいいほうで、へたをすると古い情報に新しい情報が上書きされてしまうこともあるのだ。この現象は「干渉忘却」と呼ばれている。

それでは、脳はどのようにしてこの容量の問題を解決しているのだろうか。

今から数年前、私の研究チームは、睡眠がこの問題を解決しているのではないかという仮説を立てた。

具体的には、ファイル移動のしくみを使っているのではないかと考えたのである。睡眠によって、海馬に保存された新しい情報が、どこか別の長期保管庫に移動する。そして海馬の容量が空き、次の日もまた新しい情報を仕入れることができるのではないか。

私たちは昼寝を使ってこの仮説を検証することにした。健康な若い大人を被験者に選び、無作為に2つのグループに分けた。一方のグループは昼寝をとり、もう一方のグループは昼寝をとらない。

正午になると、どちらのグループも新しい情報を覚えてもらう。具体的には、 100人の顔と名前だ。これで海馬を満杯にすることを目指している。予想通り、どちらのグループも、記憶できる量は同じくらいだった。

そのすぐ後に、昼寝をとるグループは研究室のベッドで横になり、頭に電極をつながれた状態で 90分間のシエスタを楽しむ。

昼寝をとらないグループは研究室でずっと起きていて、インターネットの閲覧やボードゲームなど、頭をあまり使わない活動をする。

そして同じ日の午後 6時に、どちらのグループも、先ほどとは違う 100人の顔と名前を覚える作業をする。ここで私たちが知りたかったのは単純なことだ。

起きている時間が長くなるほど、新しい情報を記憶する力は衰えていくのか? そしてもしそうなら、睡眠をとると脳内がリフレッシュされ、新しい情報をとり入れる余地ができるのか? 1日を通してずっと起きていた人は、時間がたつにつれて新しい情報を記憶する能力が落ちていく。

反応速度を測るテストも行ったところ、集中力は落ちていないことがわかった。つまり集中力はそのままでも、記憶力は落ちているということだ。

一方で昼寝をとったグループは、むしろ 2回目のテストのほうが、記憶力が向上していた。6時のテストの結果を見ると、2つのグループの間に大きな違いがあることがわかる。

昼寝をとったグループは、 20%も成績がよかったのだ。この実験によって、睡眠には脳の記憶容量を空ける効果があることがわかった。

そこで次の疑問は、容量を空ける具体的なしくみだ。その答えは、昼寝の最中に記録した脳波の中にあった。

なぜ睡眠で記憶力が高まるのか?

記憶のリフレッシュと関係があるのは、浅いノンレム睡眠、具体的にはノンレム・ステージ 2の睡眠だ。

中でも、第 3章に登場した睡眠紡錘波という脳波が大きな役割を果たしている。

昼寝の間に睡眠紡錘波の回数が多いほど、起きたときの記憶容量の空きも大きくなっていた。とくに重要なのは、生まれもった記憶力と、睡眠紡錘波の回数の間に、とくに関係はなかったということだ。ここで大切なのは、元々の記憶力ではなく、睡眠紡錘波がもたらす効果のほうだ。そして睡眠紡錘波が多いほど、記憶力の回復が大きいということも判明した。

しかし、もっと重要な発見は他にあった。

睡眠紡錘波の活動を観察しているときに、 100ミリ秒から 200ミリ秒ごとに一定の間隔で流れる電気の存在に気がついたのだ。その電流は、新しい記憶を保管する海馬と、もっと大容量で、長期の記憶を保管する部位の間を行ったり来たりしていた。

長期記憶を保存する部位は脳の皮質に存在する。海馬が USBメモリーだとするなら、この部位はハードディスクのようなものだ。

その瞬間、私たちは、睡眠の世界で人知れず行われている電気の活動を目撃していた。

新しく入ってきた情報を、一時的な小容量の保管庫(海馬)から、長期的な大容量の保管庫(皮質)に移動していたのだ。こうして睡眠中に海馬の中がきれいに掃除されるので、起きたときにまた新しい情報をとり入れることができるのだ。

私たちや他の研究チームは、昼寝ではなく夜の眠りでも同じ実験を行っているが、結果はやはり同じだった。

夜の睡眠の間に睡眠紡錘波がたくさん出るほど、翌朝の短期記憶容量は大きくなっている。この実験結果は、加齢との関係でも興味深い事実を教えてくれる。

60 ~ 80歳の高齢者は、若い人に比べて睡眠紡錘波の数が少なくなっているのだ。具体的には、 40%の減少だ。

そこで、こんな仮説が立てられるだろう。

高齢になり、夜の睡眠の間に発生する睡眠紡錘波が少なくなるほど、翌日の物覚えが悪くなる。なぜなら、夜の間に海馬の容量を空けることができなくなったからだ。

実験の結果、まさにこの仮説の通りになった。

夜の間の睡眠紡錘波が少ないほど、翌日に行う記憶力のテストの結果が悪くなる。この事実からも、医療関係者が高齢者の睡眠問題を軽く見てはいけないということがよくわかるだろう。

世界中の高齢者の睡眠を改善するために、私を含む専門家は、薬に頼らない方法を開発していかなければならない。

ちなみに、睡眠紡錘波がもっとも増える時間帯は明け方の時間であり、長いレム睡眠に挟まれている。睡眠時間が 6時間以下になると、睡眠紡錘波にきちんとした活動の時間を与えないことになってしまうのだ。

この発見と学校教育の関係については、後の章で詳しく見ていこう。

学校の始まる時間が早すぎるということは、子どもたちから睡眠紡錘波の活動を奪っている可能性があるのだ。

よく寝たほうがテストの成績がいい

学習における睡眠の役割は、学習する前だけではない。学習した後の睡眠も、大きな役割を果たしている。学習してから眠ることで、新しい記憶が脳に定着するのだ。

これは、パソコンでつくった新しいファイルを、「名前をつけて保存」することに似ているかもしれない。

睡眠が記憶を定着させることは、かなり前から確認されていた。おそらく睡眠の働きのうち、もっとも古くから知られているものの1つだろう。

最初にこの説を唱えたのは、古代ローマの学者クインティリアヌス( AD 35 ~ 100)だ。彼は次のように言っている。

一晩眠ると記憶が大きく強化されるというのは、興味深い事実だが、理由はまだわかっていない。(中略)

原因は何であれ、その場ではすぐに思い出せなかったことも、翌日には簡単に思い出せたりする。時間の経過は記憶を失う原因と考えられているが、実際は記憶の強化に役立っているのである。

そして 1924年、ジョン・ジェンキンスとカール・ダレンバックが、睡眠と覚醒のどちらが記憶の役に立っているか比較するという実験を行った。

「コカ・コーラ対ペプシ対決」の記憶バージョンだ。

研究の参加者に口頭でさまざまな情報を伝え、 8時間の間にどれくらい忘れるかを測定する。参加者は2つのグループに分けられ、一方は 8時間ずっと起きていて、もう一方は 8時間を寝てすごす。

その結果、寝てすごした人たちは、新しい情報を脳に定着させることができた。対して起きてすごした人たちは、新しい情報のほとんどを忘れていた。

ジェンキンスとダレンバックの実験は、他の研究者によって何度も再現されてきた。

たいてい、睡眠を挟むと記憶の定着は 20 ~ 40%上昇するという結果になっている。試験勉強のときに、睡眠でこれだけの効果があるのはかなりありがたい話だ。

そして 1950年代に入り、ノンレム睡眠とレム睡眠が発見されると、睡眠が記憶を強化するしくみもわかるようになってきた。当時の研究が目指していたのは、記憶の強化に関係している睡眠の段階を見つけることだ。

第 3章でも見たように、どの段階の睡眠が現れるかは時間によってだいたい決まっている。

深いノンレム睡眠は夜の前半で、レム睡眠(と浅いノンレム睡眠)は夜の後半に現れる。

そこで実験の参加者には、まず新しい情報を覚えてもらい、それから2つのグループに分け、1つには夜の前半だけ寝てもらい、もう1つは後半だけ寝てもらった。

こうすることで、どちらのグループも睡眠時間は同じで(いつもより短いが)、前半のグループは深いノンレム睡眠が多くなり、後半のグループはレム睡眠が多くなる。

これで、ノンレム睡眠とレム睡眠の戦いの舞台は整った。より多くの情報を脳に定着させたほうが勝ちとなる。事実に基づいた、教科書のような情報の場合、勝敗ははっきりしていた。

深いノンレム睡眠の前半グループのほうが、覚えていた量が圧倒的に多いという結果になったのだ。

2000年代の初めに行われた研究でも同じような結果になったが、今回は実験方法が少し違っていた。

実験の参加者は、新しい情報を覚えた後で、 8時間寝ることが許される。そして参加者の頭に電極をつなぎ、睡眠中の脳波を記録する。

そして翌朝になり、前の晩に習ったことをどれだけ覚えているかテストする。そして、睡眠中の脳波の記録と、テストの結果を照合する。

その結果、深いノンレム睡眠の時間が長いほど、翌朝のテストの成績がいいということがわかったのだ。

あなたがこの種の実験の参加者で、私がもっている情報があなたの深いノンレム睡眠の長さだけだとしても、私はあなたのテスト結果をほぼ正確に予測することができるだろう。

睡眠と記憶の定着の間には、そこまで強いつながりがあるということだ。

その後は MRIを使って、参加者の脳内をさらに詳しく見ることができるようになった。その結果、寝る前と後で、記憶を引き出す場所がどう変わるのかということもわかってきている。この2つの場所は、どうやら脳内でかなり離れた場所にあるようだ。

寝る前の記憶は、短期の記憶を保管する海馬から引き出されている。海馬は新しい情報を保管するのに最適の場所だ。しかし一晩眠ると、状況はがらりと変わる。

記憶を引き出す場所が、脳のてっぺんに位置する大脳新皮質に移動しているのだ。ここは長期の記憶保管庫であり、事実に基づく情報はここに保管される。ここに移動した記憶はほぼ安泰だ。

これまで見てきたように、私たちが毎晩寝ている間に、脳の中では記憶の引っ越しが行われている。

長波の電波が遠くまで届くのと同じように、深いノンレム睡眠のゆっくりした脳波も、荷物を遠くまで届ける役割を担っている。

記憶という荷物を、短期の保管場所(海馬)から、より安全で、長期にわたって住める家(皮質)に運んでいるのだ。そうやって睡眠は、記憶を脳にしっかりと定着させている。

深いノンレム睡眠の間、脳は睡眠紡錘波と徐波睡眠(ゆっくりした脳波の睡眠)を使って、海馬と皮質の間で情報の移動を行っている。

短期の記憶が長期の保管場所に移されることで、前日の記憶が脳に定着するだけでなく、新しい情報を入れるためのスペースも空けることができるのだ。

脳の中では、このサイクルが毎日くり返されている。前日の記憶のキャッシュを消去して新しい情報をとり入れながら、古い記憶のカタログをどんどん増やしていく。睡眠は毎晩、脳の記憶の構造に修正を加えている。

日中の昼寝にも同じように記憶を強化する働きがあり、十分なノンレム睡眠を含んでいるのであれば、たとえ 20分の昼寝でも効果が期待できる。

乳幼児から思春期までの子どもでも、ノンレム睡眠は同じような働きをする。むしろより大きな働きをすると言っていいだろう。

40 ~ 60歳の中年期でも、この働きは続いている。つまり、人間の発達のすべての段階で、ノンレム睡眠と記憶の定着の関係が観察されるということだ。

しかも人間だけでなく、チンパンジー、ボノボ、オランウータンも、睡眠をとった後のほうが食料の場所をよく覚えているということが、実験によって確認されている。

ネコ、ラット、それに昆虫まで範囲を広げても、ノンレム睡眠が記憶を定着させていることは明らかだ。

クインティリアヌスの先見の明と、その率直な表現には今でも感心しているが、それでも私は、時代は違えど同じくらい重要な存在である 2人の哲学者の言葉のほうが好きだ。

1964年2月、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、「サウンド・オブ・サイレンス」という歌をつくり、歌詞の中で眠りの効果を簡潔に表現した。

サイモンとガーファンクルは、歌の中で古い友人である暗闇(睡眠)に語りかける。なぜなら、眠っている間にあるビジョンが忍びより、彼らの頭の中に種をまいていったからだ。

これはつまり、起きている間の出来事が、睡眠の中にアップロードされたということだ。その結果、それらの経験は、目覚めたときもまだ残っている。

記憶を未来まで保存する睡眠の力が、 1曲の歌の中で簡潔に表現されている。しかし、最新の発見によって、サイモンとガーファンクルのこの名曲に、ほんの少しだけ修正を加える必要が生じた。

睡眠の役割は、眠る前に覚えた記憶を「残す」ことだけではなく(「脳の中に植えられたそのビジョンは、今でもまだ残っている」)、覚えてからすぐに忘れてしまった記憶を掘り起こすことでもあるようだ。

言い換えると、一晩寝た後では、寝る前にアクセスできなかった情報にも、アクセスできるようになるということだ。

ハードディスクの不具合で、あるファイルが開けなくなったとしても、一晩寝ればハードディスクのリカバリーが完了して、ファイルが開けるようになっている。

ぐっすり眠った後で、ずっと思い出せなかったことを急に思い出したという経験は、おそらく誰にでもあるだろう。

記憶力をさらに高める方法

事実に基づく記憶を定着させ、失われた記憶を回復するのは、深いノンレム睡眠の役割だ。それが特定できると、私たちはさらに、睡眠による記憶強化の効果を人工的に高める方法を探ることにした。

見つかった方法は2つある。「睡眠刺激」と「特定記憶の再活性化」だ。

この発見は、精神病、認知症を含む神経障害の治療に光をもたらすことになるかもしれない。睡眠は脳が発する電波によって表現されるので、睡眠刺激もまず電気を使うという方法で始められた。

2006年、ドイツの研究チームが、健康な若い人を対象にある実験を行った。

被験者の頭に電極をつなぐのだが、ここでは睡眠中の脳波を測定するのではなく、むしろ少量の電気を脳に送り込んだのである。

被験者が深いノンレム睡眠に入るまで待ち、入ったところでスイッチを入れ、脳に一定のリズムでゆっくりした電波を送る。

ごく弱い電気刺激なので、被験者はまったく気づかず、目も覚まさない。それでも、計測できるだけの刺激は睡眠に与えている。

刺激によって、ゆっくりした脳波の大きさも、睡眠紡錘波の数も増加した。就寝する前に、すべての参加者は新しい情報を覚える。そして一晩寝た後でテストを受ける。

睡眠中に電気刺激を受けて深い睡眠の強度を上げた被験者は、そうでない人たちに比べ、覚えている情報がほぼ 2倍になった。

しかし、レム睡眠中の刺激や、日中の覚醒時の刺激では、同じような結果は得られなかった。記憶力を上げる効果が得られたのは、ノンレム睡眠中に、脳波に合わせたペースの電気刺激を与えたときだけだ。睡眠中の脳波を増幅する方法は、新しいものが次々と開発されている。

たとえば、寝ている人の横にスピーカーを置き、静かな音を流すという方法だ。被験者の脳波に合わせてメトロノームのようなチクタクというリズムを流し、睡眠をより深めることを目指している。

何も聞かずに眠っている人たちと比較したところ、音を聞きながら眠った人はゆっくりした脳波が強くなり、翌朝の記憶力は 40%も上昇していた。

これを読んで、枕元にスピーカーを設置しようと考えた人、または脳に電気刺激を与える道具を買いに走ろうとした人は、ちょっと待ってもらいたい。どちらの方法も、「ご家庭では行わないでください」という注意をつけなければならないからだ。

自作の器具や、安全基準を満たしていない市販の器具で実験した人たちからは、火傷や一時的な失明が報告されている。

スピーカーでチクタクという音を流す方法なら安全かもしれないが、効果は期待できない。それどころか、かえって害になるかもしれない。

先ほど紹介した実験でも、脳波のリズムとずらして音を流したところ、睡眠の質はむしろ下がったという。

電気刺激や音を流すという方法でもかなり風変わりだと思うかもしれないが、スイスの研究チームは、さらに奇妙な実験を行っている。実験室のベッドを、天井から吊り下げたのだ。

そしてベッドの一方に滑車をつけて、ベッドを好きなリズムで揺らせるようにした。被験者はそのベッドで眠り、脳波を記録される。

被験者の半分は、ノンレム睡眠に入ったところで優しくベッドを揺らす。残りの半分は統制群で、ベッドは揺らさない。

その結果、ベッドの揺れによって深い睡眠がさらに深くなり、徐波睡眠の質が向上し、睡眠紡錘波の数も 2倍以上に増えた。

現在のところ、ベッドの揺れが記憶力の向上にもつながるかどうかについてはわかっていない。この実験で、被験者の記憶力のテストが行われたことがないからだ。

いずれにせよ、この実験からわかるのは、赤ちゃんを優しく揺すりながら寝かしつけるという昔ながらの方法は正しかったということだ。

覚えたいことだけ記憶する方法

睡眠刺激には大きな効果が見込まれそうだが、限界もある。刺激によって強化される記憶を選ぶことはできないからだ。

つまり、その日の寝る前までに学んだことは、翌日になってみな平等に強化される。

これはたとえるなら、自分で選べる余地のないレストランのセットメニューのようなものだ。好き嫌いに関係なく、メニューにある品はすべて提供される。この種のサービスを好む人はほとんどいない。

だからレストランのほうも、豊富なメニューを用意して、客が好きなものを選べるようにしている。

睡眠と記憶でも、同じような選択が可能になったらどうなるだろう? 寝る前にその日に新しく学んだことをふり返り、きちんと覚えておきたい記憶だけを選んで注文する。そして眠ると、夜の間に注文した品が届けられるのだ。

翌朝目を覚ましたとき、あなたの脳内には、注文した記憶だけが残っている。こうすれば、覚えておきたいことだけを覚えておくことが可能だ。

まるで SFのようだと思うかもしれないが、今では現実の話になっている。

これが「特定記憶の再活性化」と呼ばれる方法だ。

そして、事実は小説よりも奇なりということわざは、ここでも見事にあてはまる。

特定記憶の活性化を使ったある実験を紹介しよう。被験者を集め、寝る前にパソコンの画面でさまざまな画像を見てもらう。

右下にいるネコや、上部の真ん中にあるベル、上部の右のほうにあるヤカンなど、アイテムが現れる場所はそれぞれ違う。被験者は、見たアイテムだけでなく、それがあった場所も記憶しなければならない。

アイテムは全部で 100個だ。そして睡眠後、またアイテムがパソコンに画面に現れる。今度はすべて画面の真ん中にある。アイテムの中には、前の晩に見たものもあれば、見なかったものもある。

まず、そのアイテムを前の晩に見たかどうかを思い出し、そして見たと判断したのなら、今度はそのアイテムがあった場所を思い出し、マウスを使ってその場所に移動させる。

こうすれば、被験者がアイテムを覚えているかどうかということと、アイテムの場所をおぼえているかどうかということがわかる。

しかし、ここからがおもしろいところだ。

前の晩にパソコンでアイテムを見るときに、アイテムが現れるたびにある決まった音が流れる。

たとえば、ネコの絵が現れたら、「ニャー」という音がして、ベルの絵が現れたら「チリンチリン」という音がするという具合だ。すべてのアイテムが、意味的につながりのある音と関連づけられている。

そして被験者が眠り、ノンレム睡眠に入ると、ベッドの左右どちらかにあるスピーカーから、半分( 50個)のアイテムに関連づけられた音を静かに流す。

そして、翌朝目を覚ましたとき、被験者の脳内に残った記憶は、大きな偏りを見せていた。具体的には、睡眠中に聞かされた音と関連づけられたアイテムばかりを覚えているのだ。

睡眠前に見た 100個のアイテムは、すべて睡眠を経験している。

しかし音という刺激を使うことで、アイテムの記憶をすべて同じように強化するのではなく、恣意的に選んだ記憶だけを強化できるようになる。

この方法の使い道は、いくらでも思いつくだろう。しかしそれと同時に、倫理的な問題も心配になる。

自分の記憶でも問題だが、他人の記憶まで好きなように操れるようになったら、いったいどうなるのだろうか。まだこの種の倫理的ジレンマで悩む必要はないだろうが、特定記憶の再活性化というテクニックがどんどん洗練されていけば、いずれ真剣に考えざるをえなくなるだろう。

人は忘れるためにも眠りを使う

ここまでは、記憶を強化するという睡眠の役割について見てきた。

とはいえ、状況によっては、忘れることも記憶することと同じくらい大切だ。

日常生活のレベルでは、先週車を停めた場所は忘れたほうがよく、今日車を停めた場所を覚えておいたほうがいい。

また医療の面では、トラウマになるようなつらい体験や、依存している物質(アルコールやドラッグ)を欲しがる気持ちは忘れたほうがいい。

それに加えて、不要になった情報を忘れることの利点は、ただ記憶容量の空きをつくるだけではない。脳が必要な情報を探すときに、余分なエネルギーを使わずにすむという利点もある。

これはたとえるなら、ものがあふれた場所よりも、すっきりと片づいた場所のほうが、探し物を見つけるのが簡単なのと同じようなものだ。

つまり睡眠は、必要な情報をきちんと保管するだけでなく、いらない情報を捨てるという役割も果たしている。忘れるということは、覚えるために払う代償だとも言えるだろう。

1983年、 DNAの二重らせん構造を発見してノーベル賞を受賞したフランシス・クリックが、今度は睡眠の研究に乗り出した。

彼はこのとき、夢を見るレム睡眠の役割は、脳から不要な情報や重複している情報を削除することだという仮説を立てた。彼はこの種の記憶を「パラサイト記憶」と呼んでいる。

なかなかおもしろいアイデアだが、残念ながら提唱から 30年ほどたっても、ただのアイデア以上の存在にはならなかった。

そこで 2009年、私は若い大学院生に協力してもらい、この仮説を検証してみることにした。その結果、いくつかの興味深い事実が判明した。

私たちはここでもまた、昼寝を使って実験することにした。被験者たちは、正午ごろに、パソコンの画面に現れるたくさんの単語を覚える。単語は一度に1つずつ現れる。

ただし、1つの単語が現れて消えるたびに、緑色の大きな「 R」か、または赤色の大きな「 F」が現れる。Rの前に出てきた単語は覚えて、 Fの前に出てきた単語は忘れるようにという指示だ。

これはたとえるなら、教室で先生から「これはテストに出ます」と言われたり、または「今のは間違いだから忘れてください」「これはテストには出さないので覚えなくてもいいです」と言われたりするようなものだ。

この実験では、単語の直後に「 R」か「 F」を出すという方法でそれと同じことをしている。

学習が終わると、被験者を2つのグループに分け、1つのグループには 90分間昼寝をしてもらい、もう1つのグループにはずっと起きていてもらう。

そして午後 6時に、全員を対象に、単語をどれだけ覚えているかテストを行う。このとき、「 R」や「 F」は関係なく、とにかく思い出せる単語をすべて書いてもらった。

この実験で私たちが知りたかったのは、睡眠によってすべての単語の記憶が定着するのか、それとも寝ている間も、起きている間に受けた「 R」や「 F」といった指示に従うのかということだ。

結果は明白だった。睡眠によって、「 R」の単語が脳に定着する率が格段に上昇したのである。そして「 F」の単語は効果的に忘れられていた。

睡眠をとらなかったグループは、このような「 R」と「 F」の大きな違いは見られなかった。この結果には、重要な教えが隠されている。

それは、睡眠は私たちが思っているよりもずっと賢いということだ。

つい最近まで、睡眠の役割は新しい情報をすべて保存することだと思われていたが、むしろ覚えるべきことを巧みに選別していたのである。

この睡眠による賢い選別は、今ではたくさんの研究によって証明されている。昼寝であっても、夜の睡眠であっても、効果は同じだ。昼寝をとった被験者のデータを分析しているときに、私たちはさらに興味深い発見をした。

フランシス・クリックの仮説とは異なり、記憶の選別を行っているのはレム睡眠ではなかったのだ。記憶の選別はノンレム睡眠が行っていた。

その中でも重要なのは、もっとも素早く動く睡眠紡錘波だった。この種の睡眠紡錘波が多いほど、「 R」と「 F」に基づいた記憶の選別がより効率的に行われる。睡眠紡錘波がこの賢い選別を行うしくみについては、まだ完全には解明していない。

今のところわかっているのは、素早い睡眠紡錘波が現れるときに、脳内ではある決まった反復活動が行われているということだ。その活動は、短期記憶の保管庫である海馬と、意思決定を司る前頭葉の間を行ったり来たりしている。そして前頭葉にいるときに、「これはいる」「これはいらない」という判断を下しているのだ。記憶(海馬)と意思決定(前頭葉)という2つの部位の間を、 1秒につき 10 ~ 15回のペースで行き来している。

もしかしたらこの活動によって、ノンレム睡眠の記憶選別機能が説明できるかもしれない。

フィルター機能を使ってインターネット検索の対象を絞るのと同じようなもので、睡眠紡錘波が現れるときに海馬と前頭葉が交信し、本当に必要な情報だけを残しているのだろう。この脳がもつ記憶の選別機能は、つらい記憶や、問題のある記憶を忘れるためにも使うことができる。

それを聞いて、アカデミー脚本賞を受賞した映画『エターナル・サンシャイン』を思い出す人もいるかもしれない。

この映画の世界では、特別な脳スキャン装置で、いらない記憶を消去することができる。しかし、現実世界で私が望んでいるのは、そういう機械ではない。

私の目標は、特定の記憶を弱めたり、消したりできる確実な方法を開発し、医学的に必要が認められた場合(トラウマ、ドラッグ依存症、アルコール依存症の治療など)に活用することだ。

一晩寝たらなぜかできるようになっている

ここまで見てきたような研究は、すべて 1種類の記憶だけを扱っている。それは事実に基づく情報、たとえば教科書の内容や人の名前などを覚える記憶だ。

しかし、脳内には他にも記憶の種類がたくさん存在する。

たとえば、自転車に乗るといったスキルの記憶だ。子どものころ、あなたはどうやって自転車に乗れるようになっただろうか。おそらく本を読んで覚えたという人はいないはずだ。実際に乗って、練習するしかない。

楽器の演奏、各種のスポーツ、外科手術、飛行機の操縦など、いわゆる運動スキルは、すべて練習によって身につける。

「筋肉の記憶」、または「マッスルメモリー」という言葉があるが、じつはこの表現は間違っている。筋肉に何かを記憶する機能はないからだ。脳につながれていなければ、筋肉だけでは何もできない。つまり筋肉の記憶は、正しくは脳の記憶なのだ。

筋肉を鍛えれば、たしかにスキルを実施する能力は向上するだろう。しかしスキルそのものは、すべて脳の中に保存されている。

じつは私は、脳の記憶機能を調べる何年も前に、運動スキルの記憶について調べたことがある。

そのきっかけは、2つの出来事だった。

1つは、医学生のころに、脊椎損傷による運動障害について調べていたときに経験したことだ。当時の私が目指していたのは、切断された脊椎をつなぎ直し、脳と身体を再び結びつける方法を見つけることだ。残念ながら、この研究は成果が出なかった。

しかし研究の間に、さまざまな運動障害をもつ人たちと知り合うことができた。とくに脳卒中によって身体が不自由になった人が多かった。

そのときに印象深かったのは、彼らが同じ動作をくり返すことで、失われた機能をとり戻していったことだ。手足の動きでも、話すことでも、それは同じだった。

完全に元の機能を回復することはめったになかったが、それでも何ヵ月も続けるうちに、誰もが機能の向上を見せていた。もう1つは、それから数年後、博士号取得を目指していたときの出来事だ。

あれは 2000年のことで、科学界では「これからの 10年は脳の時代だ」と盛んに言われていた。神経科学の分野で大きな進歩があると予言され、後になってそれが正しかったことが証明される。

そういう時代だったので、私もとあるパーティに呼ばれ、そこで睡眠について講演をするよう依頼された。当時、睡眠と記憶の関係はまだそれほど解明されていなかったが、それでもわかっている範囲で話すことにした。

講演が終わると、一目で紳士とわかる男性が私に話しかけてきた。彼が着ていた上品なツイードのジャケットは、今でもはっきり覚えている。

とても短い会話だったが、私にとっては人生を変えるほどの出来事だった。彼は私の講演にお礼を言うと、ピアニストだと自己紹介した。

私の話の中でも、睡眠中の脳の活動に興味をもったという。脳は寝ている間に、前の日に覚えたことを見直し、記憶の内容を整理している内容だ。

「お話を聞いていて思い出したのですが、ピアノの練習でも同じようなことがよくあります」と、彼は言った。

「あまりにも頻繁に起こるので、とても偶然とは思えませんでした。夜中まで練習していても、どうしてもマスターできない箇所があるとします。いつも同じところで間違えてしまう。そしてマスターできないまま眠ってしまっても、翌朝になるとなぜか弾けるようになっている。完璧に弾けるのです」 私はこの言葉に衝撃を受けた。

そしてこれが、私にとって次の大きな研究テーマになったのだ。「なぜか弾けるようになっている」という言葉が、何度も頭の中でくり返された。そのとき私は、こう答えた。

「それはたしかに興味深い現象であり、睡眠が助けになっている可能性は大いにあるでしょう。しかし現在のところ、それを裏づける科学的な証拠は存在しません」 彼はただほほえんでいた。

科学的な証拠の有無など、まるで気にしていないようだった。そしてまた私の講演にお礼を言うと、レセプションホールのほうへ歩いて行った。一方で私は、講堂に残って呆然としていた。

あの紳士は、これまでの常識を覆すようなことを言ったのではないだろうか。

「練習が完璧をつくる」と昔から言われているが、もしかしたら「練習と睡眠が完璧をつくる」というのが、正しい表現なのではないだろうか? あれから 3年かけて研究を重ね、その内容の論文を発表した。

その後に行われた研究でも、あのピアニストの直感が正しかったことが証明された。またそれらの研究により、睡眠の他の効果も発見された。怪我や発作で脳が損傷した場合も、睡眠によって機能が回復するのである。

そのころになると、私はハーバード大学メディカルスクールで職を得ていた。

そこで、恩師であり、長年の研究仲間であり、今は友人でもあるロバート・スティックゴールドと共同で、脳が独自に学習する機能についての研究を開始した。

睡眠は運動スキルを高める

身体を動かす訓練をしていない間も、脳が独自にスキルを身につけることがある。どうやらカギは時間にありそうだが、その時間も大きく3つに分けられる。

ただの時間、起きている時間、そして寝ている時間だ。

そこで私は、被験者として右利きの人を集め、左手を使ってキーボードで数字を打ち込む練習をしてもらった。たとえば「 4- 1- 3- 2- 4」のような数字の列を、できるだけ早く、正確に打ち込めるようになることを目指す。

ピアノのスケール練習と同じように、被験者は数字を正確に打ち込めるように何度も何度も練習する。途中で短い休憩をはさみながら、トータルで 12分間の練習だ。練習の結果、被験者のスキルは向上した。これはとくに驚くようなことではないだろう。

次に、練習を終えて 12時間たってから、打ち込む技能のテストを行った。被験者の半分は、午前中に練習し、その日の夜にテストを受ける。練習からテストまではずっと起きたままだ。

そしてもう半分は夜に練習し、 8時間寝てから翌朝にテストを受ける。日中起きていてテストを受けたグループは、スキルに目立った向上はなかった。

しかし、一晩寝てからテストを受けたグループは、数字を打ち込むスピードが 20%上昇し、正確性は 35%も上昇したのだ。

練習とテストの間隔は、どちらも 12時間で同じだ。

ここでもっとも興味深いのは、朝にスキルを習って夜にテストを受けたグループ(スキルの向上がなかったグループ)も、 8時間睡眠を挟んださらに 12時間後に再びテストを受けると、同じようなスキルの向上を見せたということだ。

つまりスキルの練習をやめてからも、脳は独自に練習を続けているということだ。そしてこの脳の練習は、寝ている間しか行われない。

練習が完璧をつくるのではなく、練習し、その後で一晩ぐっすり眠ることが完璧をつくるのだ。この睡眠の効果は、スキルの難易度に関係なく発揮される。

たとば、「 4- 3- 1- 2」という数字の列であっても、「 4- 2- 3- 4- 2- 3- 1- 4- 3- 4- 1- 4」という数字の列であっても、または入力するのが片手であっても、ピアニストのように両手であっても、同じようなスキルの向上が見られた。

私はさらに研究を進め、「 4- 1- 3- 2- 4」のような数字の列を打ち込むときの動きを個別に分析することで、睡眠が独自に訓練を行うしくみを解明しようとした。どんなに練習を積んでも、被験者それぞれにどうしてもつっかえてしまう箇所があった。

入力のスピードを記録したデータを見ると、問題の箇所だけが目立って遅くなっている。止まっている時間が極端に長かったり、同じ間違いをくり返したりするのだ。

たとえば、「 4- 1- 3- 2- 4、 4- 1- 3- 2- 4」となめらかに入力するのではなく、「 4- 1- 3(休止)- 2- 4、 4- 1- 3(休止)- 2- 4」となったりする。

まるで、5つの数字を一気に入力するのは大変すぎるので、いくつかのパートに分けているかのようだ。休止が入る場所や回数は人によって違うが、ほぼすべての人が途中で指が止まっていた。

あまりにもたくさんの人に被験者になってもらったので、ついにタイプの音を聞くだけで、どこで止まっているかがわかるようになってしまった。

しかし、被験者が一晩寝てからもう一度入力してもらうと、まったく違うタイプの音が聞こえてくる。データを分析しなくても、何が起きているのかはわかっていた。

それは、スキルの習熟だ。

一晩寝た後のタイピングはなめらかで、どこにもつっかえる箇所がない。

ほぼ完璧に「 4- 1- 3- 2- 4」と一気にタイプする。

睡眠によって問題の箇所が洗い出され、問題が解決されたのだ。

この実験で、私はまたあのピアニストの言葉を思い出していた。「そしてマスターできないまま眠ってしまっても、翌朝になるとなぜか弾けるようになっている。完璧に弾けるのです」 一晩寝た後の被験者に脳スキャナーを装着し、タイプしてもらったところ、スキルが習熟したしくみを解明することができた。

ここでもまた、睡眠が記憶を移動させていたのだ。しかし移動する場所は、事実に基づく情報のときとは違っていた。短期の保管庫から、長期の保管庫に移動させるのではない。運動記憶の場合は、意識の下で活動している脳の回路に移動していたのである。その結果、意識しなくてもできるレベルにまで習熟したのだ。つまり、脳は睡眠の力を借りて、その動きを自動化させていたということだ。

意識しなくても自然にできる──オリンピック選手を教える多くのコーチは、まさにこのレベルを目指している。

そして研究を始めてからほぼ 10年後、ついに最後の発見にたどり着いた。

運動スキルの向上に役立つ睡眠の特定に成功したのだ。

スキル習熟の要であるスピードと正確性の向上は、ステージ 2のノンレム睡眠と直接的なつながりがあった。

8時間睡眠の場合、とくに最後の 2時間がカギになるようだ(たとえば夜の 11時に寝たのであれば、朝の 5時 ~ 7時の間だ)。

中でもとくに大切なのは、最後の 2時間の間に現れる睡眠紡錘波の数だ。

さらにおもしろいのは、運動スキルを学習した後の睡眠で睡眠紡錘波が増えるのは、脳の運動野と呼ばれる部位だけだったことだ。練習した動きを司る運動野で睡眠紡錘波が増えるほど、起きてからのパフォーマンスも向上する。

多くの研究チームも、同じような現象を観察している。

運動スキルの記憶に関しては、睡眠時の脳波が優秀なマッサージ師のような役割を果たしている。全身マッサージも受けることはできるが、いちばん凝っている箇所を重点的にマッサージしてくれる。

睡眠紡錘波もそれと同じで、脳の全体で現れるが、起きている間にいちばん鍛えた運動野に現れる数が飛躍的に多くなる。

おそらく現代人の生活にもっとも関係があるのは、その効果が現れる時間帯だろう。忙しい現代人は、睡眠の最後の 2時間を平気で犠牲にしている。その結果、午前 5時 ~ 7時に現れる睡眠紡錘波を捨ててしまっているのだ。

運動コーチの中にも、選手の睡眠時間を削ってトレーニングさせている人がいる。夜遅くまでトレーニングさせて、翌日も朝早くからトレーニングさせる。コーチ自身は気づいていないが、それによって選手は、運動記憶を発達させる貴重な機会を失っているのだ。

トップレベルになると、金メダルと最下位の違いはわずかしかないこともある。

それを考えれば、睡眠の力を借りるかどうかの違いが、スタジアムで国歌を流せるかどうかを分けるカギになることも十分にある。

つまり、「寝る子は勝つ」ということだ。

陸上 100メートルのスーパースター、ウサイン・ボルトは、レースの前によく昼寝をとっている。彼はそうやって何度も世界新記録を出し、そしてオリンピックで金メダルを獲得した。私たちの研究でも、彼の習慣の正しさが証明された。

十分な数の睡眠紡錘波が出現する昼寝は、エネルギーの回復と筋肉の休息だけでなく、運動スキルの記憶の向上に大きく貢献する。

NBA、 NFL……アスリートが睡眠の効果を続々証明

私たちがこの事実を発見して以降、睡眠がスポーツのスキルの向上に役立つことが多くの研究によって証明されてきた。

スポーツの種類は、テニス、バスケットボール、フットボール、サッカー、ボートなどと幅広く、選手のレベルもジュニアやアマチュアからエリート・アスリートまで多岐にわたっている。

ついに 2015年には、国際オリンピック委員会が睡眠の重要性を訴えるレポートを発表したほどだ。

睡眠は男女の別なく、すべてのスポーツで欠かせないものだと、そのレポートは報告している。プロスポーツも睡眠に注目している。

私は最近、アメリカのプロバスケットボール、イギリスのプロフットボールのチームに招かれてプレゼンテーションを行った。

監督、スタッフ、選手を前にして、もっとも強力で、安全で、効果が高く、しかも合法なパフォーマンス向上薬について説明した。それはもちろん、睡眠のことだ。

私の主張は、 750以上もの科学研究によって証明されている。しかもそれらの研究の多くは、プロやエリートレベルのアスリートを対象にして行われた。

夜の睡眠が 8時間より短くなる、とくに 6時間を切るようになると、さまざまな問題が生じる。たとえば、肉体が疲労するまでの時間が 10 ~ 30%短くなる。心肺機能も著しく低下する。四肢を伸ばす力と垂直跳びの高さも低下する。筋力のピークが下がり、筋力を維持する力も下がる。それに加えて、心血管、代謝、呼吸機能も低下し、筋肉に乳酸がたまるのが早くなる、血中酸素飽和度が下がる、血中の二酸化炭素が増えるといった悪影響が出る。また睡眠不足は、運動時に汗をかいて身体を冷やす機能までも下げてしまう。これはピーク・パフォーマンスを実現するうえで欠かせない機能だ。

さらには怪我のリスクもある。

怪我はすべてのアスリートとコーチが、もっとも恐れている事態だ。それにプロチームの経営陣にとっても、選手の怪我は投資の失敗を意味する。

怪我のリスクに備える保険が欲しいというのなら、とっておきのものをお教えしよう。それは睡眠だ。

2014年、若いアスリートを対象に調査が行われた。

図 10を見れば、シーズン中の慢性的な睡眠不足が、怪我のリスクを大きく押し上げていることがわかるだろう。

プロスポーツのチームは、優秀な選手を獲得するために大金を払っている。さらに最新の医療設備や栄養管理で、選手の能力をさらに引きだそうとしている。

しかし多くのチームが、睡眠というたった1つの要素を見落としているために、すべての努力をムダにしてしまうかもしれない。

試合前の睡眠の重要性をよく知っているチームでも、試合後の睡眠の大切さを知ると一様に驚く。

睡眠によって、体内の一般的な炎症が消え、筋肉の修復が進み、グルコースとグリコーゲンという形で細胞のエネルギーを回復することができるのだ。

これらのチームに実際の睡眠指導をする前に、私はアメリカの NBA(プロバスケットボールリーグ)が発表したデータを見せることにしている。

具体的には、強豪ゴールデンステート・ウォリアーズに所属するアンドレ・イグダーラの睡眠データだ。

図 11は、イグダーラの睡眠時間とパフォーマンスの関係を表している。

もちろん、私たちのほとんどはプロのスポーツ選手ではない。しかし、生涯を通じて身体を動かし、新しいスキルを学んではいるはずだ。人は生きていれば、つねに何らかの新しい動きを学習している。

それは新しいノートパソコンのキーボードに慣れることかもしれないし、またはベテランの外科医が新しい内視鏡手術の技術を身につけることかもしれない。

これらの新しい動きを身体に覚えさせるには、ノンレム睡眠の力を借りる必要があるのだ。

これは親にとってはとくに興味ある情報だと思うが、人間がもっとも運動スキルを習得するのは、生まれてから数年の間だ。

この時期に私たちは、初めて立ち上がり、歩くことを覚える。

現にハイハイから歩行に移行する時期の睡眠を観察すると、ステージ 2のノンレム睡眠と睡眠紡錘波が飛躍的に増えていることがわかる。

運動障害を研究していた医学生のころに気づいたことが、これですべてつながった。

脳卒中などで身体に麻痺が残った人が、日々のリハビリで機能を回復することができるのは、毎晩の睡眠のおかげでもあったのだ。

脳卒中の後で、脳はまだ残っているニューロンのつながりを再構成し、損傷した部位の周囲で新しいつながりをつくっていく。こうやって脳が修復されることで、運動機能もある程度までは回復する。

そしてさらに研究が進み、運動機能の回復と睡眠の間にも、大きな関係があることがわかってきた。現在の睡眠の質によって、運動機能の回復具合を予測することができる。また、さまざまな運動スキルを再び獲得できるかどうかも、睡眠の質によって決まるのだ。

このような発見がさらに報告されるようになれば、脳の損傷の治療に睡眠が積極的に使われるようになるだろう。さらには、前にも見たような睡眠刺激などの方法が採用されることもあるかもしれない。

現在の医療にはできないことでも、睡眠ならできることはたくさんある。

科学的にたしかな証拠があるのなら、患者の治療で睡眠をもっと積極的に活用していくべきだろう。

最後にもう1つ、睡眠の利点を紹介しておきたい。おそらくこれがもっとも驚くべき利点だろう。

睡眠は毎晩、不思議な舞台をくり広げている。そして脳は、その物語の中で、保存された膨大な情報の間で、さまざまなつながりを試しているのだ。

ここで使われるアルゴリズムは、グーグルの検索アルゴリズムとはまったく違う。あえてもっとも関係のなさそうな情報や、予想のしなかったような情報同士を結びつける。

寝ている脳は、起きている脳なら思いもよらないような発想で、難しい問題を解決する。夢の中では、さまざまな記憶が混ざり合っている。

夢を見るレム睡眠については、後の章で詳しく見ていく。

今のところは、レム睡眠が行う記憶の錬金術が、人類史上もっとも画期的な発想を生み出したとだけ言っておこう。

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