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第 6章ダークさとは何か

第 6章 ダークさとは何か

1 「良い性格、悪い性格」とは何なのか

望ましい心理特性/注目を集めるグリット(やりぬく力)/自尊感情万能論への批判/自尊感情だけ伸ばすのは難しい 2 長所と短所は切り離せないギフテッド教育の難しさ/心理特性のネットワーク/行動の動機/七つの大罪 3 社会の中でのダークな性格ステータス・ゲームからは逃れられない/社会の中での攻撃/長期的な社会の変化/平和はいつまで続くのか/ダークな性格が残る理由/最後にあとがき注

1 「良い性格、悪い性格」とは何なのか マキャベリアニズム、ナルシシズム、サイコパシー、そしてサディズムという言葉を聞くと、「望ましくない」「倫理的ではない」「迷惑がかかりそう」「だまされそう」そして「悪い」など、さまざまな印象を抱くのではないでしょうか。 しかし、これらダークな性格の「ダーク」とは、何なのでしょうか。この章では、ここを掘り下げて考えてみたいと思います。†望ましい心理特性 アメリカの作家ポール・タフは、著書『成功する子 失敗する子──何が「その後の人生」を決めるのか』(英治出版、二〇一三年)の中で、イリノイ大学の性格心理学者ブレント・ロバーツについてのエピソードを紹介しています( 158)。 ビッグ・ファイブ・パーソナリティについてはすでに説明しましたが、五つの性格特性の中でも勤勉性は、もっとも社会の中で生活する上で「良い性格」「望ましい特性」だと評価されています。そしてロバーツは、勤勉性の研究でも世界的に知られています。 ところがロバーツが大学院を修了し、一九九〇年代に研究テーマを定めようとしていたときには、勤勉性に注目して研究をしようとする研究者は、世界中にほとんどいなかったそうです。大部分の研究者は、勤勉性は性格特性の中の「厄介者」だとも考えていました。勤勉性は、まじめで規則を守り、保守的で管理された生活につながり、宗教色のイメージも強い性格特性です。 その一方で、未知のことがらを受け入れ独創的で好奇心も強く、リベラルな思想にもつながる開放性は、「クールな(かっこいい)」イメージにもつながります。勤勉性は、あまり「クールではない」とイメージされていたのです。私自身、一九九〇年代後半に大学院生時代を送っていました。たとえ当時、ビッグ・ファイブ・パーソナリティの内容について理解していたとしても、確かにその中で勤勉性に興味を抱いて研究していこうと考えたかというと、そうはならなかっただろうと想像します。 さて、勤勉性につきまとうこのイメージを変えたのは、研究結果です。 数多くの研究結果が報告されてくると、ビッグ・ファイブ・パーソナリティに含まれる五つの性格特性(外向性、神経症傾向、開放性、勤勉性、協調性)の中で、勤勉性だけが学業成績にも学歴にも、職業パフォーマンスにも、飲酒や喫煙やドラッグなどの問題の少なさにも、そして長生きすることにも関連することがわかってきたのです。このような研究知見が報告されるごとに、研究者たちの勤勉性への注目が高まり、次第に勤勉性はとても重要な性格特性だと考えられるようになっていきました。 近年では、知能検査や学力試験では測ることができない心理的な働きを「非認知能力」や「非認知スキル」と表現することがあります。多くの研究が行われる中で、勤勉性は非認知能力の中でも中心的な位置を占めると言われるほどの地位を確立しています。その背景には、社会の中でのさまざまな結果、しかも社会的に「望ましい結果」を予測する研究結果の報告があるのです。†注目を集めるグリット(やりぬく力) 二一世紀に入ってから、「望ましい心理特性」として確固たる地位を築いていった心理特性の一つが、「やりぬく力」とも称される性格特性であるグリット( Grit)です( 159)。 グリットという概念を提唱したのは、中国系アメリカ人の心理学者ダックワースです。彼女はオックスフォード大学で神経科学の修士号を取得後、経営コンサルタントに従事しますが退職し、数学の教師となります。この教師の経験の中で、知能以外の心理的な特徴に興味を抱いていったようです。 グリットとは、長期的な目標に対する継続的な情熱と忍耐力のことです。グリットを測定する心理尺度には、数カ月以上にもわたる計画に集中することや、別のことへと興味が移らないことなどを特徴とする「興味の一貫性」と、試練に打ち勝つために困難を乗りこえることや、始めたことを最後までやり遂げる「努力の粘り強さ」という要素が含まれています( 160)。 グリットという概念の有用性を検討する中では、学業成績の高さ、退学率の低さ、スペリングコンテストでより高い地位までたどり着くことなどが示されてきました( 161)。研究の中でグリットは、厳しい競争を繰り返す環境の中で、最後までやりぬいた結果生じる状態を予測することがくり返し報告されてきたのです。しかも、知能検査で測定された知能よりもグリットのほうが成績を正確に予測することも報告されています。 性格特性は、現実世界の結果を予測することが報告されると、一気に価値が認められます。グリットの論文を読むと、最初からその点が意図されていたかのように思えます。†自尊感情万能論への批判 第 4章で、自尊感情について説明しました。自尊感情は、世の中に広まっているいわゆる「自己肯定感」に近い意味をもつ概念です。そして、世の中で「自己肯定感を高めよう」という動きがあるように、自尊感情も「望ましいもの」だと考えられてきました。これはきわめて直観的な判断です。いま世の中で多くの人々が、「自分に自信を持つことはよいことに違いない」と信じているのではないでしょうか。そして、学校の中でも家庭の中でも、子どもたちの自尊感情を高めようと試みられるようになっています。 ちなみに、自己肯定感や自尊感情に関連する、さまざまな用語を日本語の中で区別しようとする試みも行われているようです。しかし、研究を行って心理学の論文を執筆する立場からすると、「どの日本語がどの英語に対応しているのか」という点が重要です。 自尊感情は self-esteem、自己効力感は self-efficacy、自己価値は self-worth、自己尊重は self-respect、自己受容は self-acceptanceなど、学問の世界で使われる用語として日本語と英語の対応がつけられています(ただし、必ずしも一対一で対応するとは限らず、揺らぎが見られる用語もあります)。一方で、いわゆる「自己肯定感」は、「これだ」という心理学の学問上の英語表現が存在しません。この言葉は、非常に「ふわっと」した日本語の意味を表しているに過ぎないのです。 自尊感情神話という言葉を耳にしたことはあるでしょうか。アメリカでは一九九〇年代に、自尊感情が高いことは「実生活に役立つ」「精神的な健康につながる」「学業成績も高まる」「友人関係もうまくいく」「仕事もうまくいく」「暴力の問題も少なくなる」など、自尊感情が高くなることでさまざまな「望ましいこと」が起きるはずだと考えられていました。日本でもこの動きは二一世紀に入ってから見られています。 ところが、二〇〇三年にアメリカの著名な社会心理学者バウマイスターらが発表したレビュー論文が、この流れに水を差すことになります( 162)。たとえば、自尊感情の高さと学業成績のよさとの間には相関関係があるのは確かです。しかし先にも触れたように、相関関係があることと因果関係があることとは一緒ではありません。身長と体重との間には高い相関関係がありますが、身長の原因が体重とか、体重の原因が身長といった明確な因果関係が成立するわけではないのです。 そして、自尊感情と学業成績との因果関係を検討すると、学業成績が良いから自尊感情が高まるという因果関係の方向性のほうがメインであって、自尊感情が高いから学業成績がよくなるという方向性はあまり見られないということが指摘されています。むしろ、自尊感情を高めることで成績が下がってしまうような報告もあるようです。 暴力に関しても、自尊感情の高さが抑制要因になるとは限らないようです。むしろ、高い自尊感情をもっており、その自尊感情が不安定な場合には、相手に対する敵意や暴力につながりやすいという指摘すらあります。これも、不安定で高い自尊感情をもつとされるナルシスティックな人物が、攻撃的な特徴をもつという点に共通します。 自尊感情と良好な人間関係との間については、相互の影響関係が報告されています( 163)。温かい関係、親密な関係、満足した関係、対人ネットワークの広さなどについては、自尊感情の高さから良好な関係への影響と、良好な関係から自尊感情の高さへの影響の両方が報告されています。ただしその影響力は、非常に小さな値だと言わざるを得ません。自尊感情を高めたら誰でも人間関係が良好になる、と言い切ることは難しいのです。 もちろんこれらの研究結果は、「自尊感情や自己肯定感は不要だ」という意味ではないので注意してもらいたいと思います。自分自身をより望ましい状態だと認識することは、自分を卑下して嫌悪した状態に比べれば、明らかに精神的に安定し、安心した状態でいられることを意味します。しかし、考え方を変えてでもとにかく自尊感情を高めようと試み、実際に成功したとしても、そのことで人生がすべてうまくいくというわけではないのです。†自尊感情だけ伸ばすのは難しい アメリカの心理学者トウェンギとキャンベルは、アメリカの子育てや教育の中で自尊感情を高めようとする試みが行われてきたことによって、近年になるにつれて実際に自尊感情の平均値は高まってきていることを報告しています( 164)。しかし同時に、アメリカの中で自尊感情だけでなく、ナルシシズムも高まってしまっていることが報告されているのです。自尊感情を高めようとするときに、褒めるだけでなく「あなたは特別な存在」であり「(ほかの人よりも)優れた存在である」というメッセージが子どもたちに伝わってしまっているのかもしれないのです。 この可能性は、私たちに大きな問題を提起します。それは、何かの心理特性を伸ばしたり抑制したりしようとしたときに、その特性「だけ」を操作することの困難さです。 自尊感情とナルシシズムは互いに関連しています。もちろん、厳密には異なる概念なのですが、ナルシシズムが高い人は自尊感情も高い傾向にあることは間違いありません。そして自尊感情を高めようとしたときに、自尊感情と同時にナルシシズムも高まってしまう現象を止めることは、現実的には非常に難しいことのように思えます。もちろん、より本質的な自尊感情を高めようとする試みは行われています( 165)。しかし、それはまだ検討しなければならない課題が多くありそうです。 2 長所と短所は切り離せない†ギフテッド教育の難しさ 同じような問題は、特別な才能を持って生まれた子どもたちを対象とする特別な教育である、ギフテッド教育の中でも指摘されています( 166)。若くして何らかの才能があり、何かの領域で特筆すべき能力を示す子どもたちに適切な教育を施すことは、その子たちにとっても社会の発展にとっても重要な意味があります。学校の勉強のように、広い範囲の科目にうまく適応することはできないけれども、ある一分野だけに特化して能力を発揮する子どもたちにとっては、ギフテッド教育は救いにもなりえます。 ギフテッド教育は、通常の教育の中では生きづらさを感じている子どもたちに光を当てて、能力やスキルを開花させる試みです。ある分野に突出していることで学校教育では浮きこぼれてしまい(落ちこぼれではなく)、突出した能力を発揮することなく成長してしまう子どもたちは、予想以上に数多く存在することでしょう。そのような子どもたちに焦点を当てていくことはとても重要な試みです。 しかし、子どもを能力によって選抜し、「あなたはこの能力がある」と自覚させ、その能力をギフテッド教育の中で伸ばしていくことは「特別な扱い」でもあります。このような特別な扱いの中で本人が「ほかの人がもっていない特別な能力の持ち主だ」という自覚をもってしまうと、ほかの人の助言に耳を傾けなかったり、失敗を避けて挑戦することを避けたりする行動が出てくるかもしれません。 どうして特別な能力を自覚すると、挑戦をしないことや失敗を避けることにつながるのでしょうか。 一つの考え方は、人々が能力に対してもつ暗黙の考え方である、マインドセットです。アメリカの心理学者ドゥエックらは、知能や能力などを生まれながらの固定化されたものと考えるか、動的で可鍛性(トレーニングすることができる可能性)があり発達や変化しうるものだと考えるかに注目しました( 167)。 能力が生まれながらだと考える固定的な能力観をもつ人が、自分の能力が発揮されるはずの課題で失敗することを想像してみましょう。するとその失敗は、自分の能力が不足しているせいであり、かつその能力の足りなさは生まれながらのものとなるのです。それは、その人物そのものや、人生自体を否定することにもなりかねません。固定的な能力観を持つ人にとって、失敗することは自分の存在そのものが否定されるリスクにつながるのです。ですから、失敗や挑戦を避けようとするのです。 一方で、能力はトレーニングや教育で変化するという可変的な能力観を持つ人にとっては、挑戦は学びの場であり、失敗は次への成長につながるチャンスでもあります。自分の能力は伸びていく可能性があるのですから、挑戦や失敗をいとわずさまざまなことにチャレンジし、ほかの人の助言を聞き入れる態度にもつながっていくのです。 ギフテッド教育という、子どもたちを救うことを意図した試みであっても、子どもたちの人生にとってはむしろ望ましくない結果をもたらしてしまう可能性があるのです。この欠点をうまく回避して教育を行うことは、はたしてできるのでしょうか。もちろん、工夫次第で可能でしょう。しかし、一歩間違えば長所が短所になってしまうような不安定さがあるということは、心にとどめておく必要があります。†心理特性のネットワーク どうして長所が短所とつながってしまうのでしょうか。一つの理由として、心理特性どうしがネットワーク上につながっている様子をイメージすると理解しやすいのではないかと思います(図 ③)。

ナルシシズムはサイコパシーやマキャベリアニズム、サディズムにもネットワーク状につながっており、サイコパシーとマキャベリアニズムとサディズムもお互いに結びつく形で、ダーク・トライアドやダーク・テトラッドとしてまとまっています。さらにナルシシズムは自尊感情にも外向性にもつながっており、これらダークな特性たちは攻撃性や衝動性など、他の心理特性へとつながっています。 加えて、ネットワークにはプラスのつながりとマイナスのつながりもあります。プラスのつながりは、ある心理特性とつながった先の心理特性が同時に高くなったり低くなったりする可能性がある関係です。一方でマイナスのつながりは、片方の心理特性が高いともう片方が低くなり、片方が低くなるともう片方は高くなるような関係性を持ちます。 ただしネットワークは因果関係ではありませんので、ある変数を高めたからといって、それが他へと波及するとは限りません。しかし、何かしら両者に対して同時に影響する要因が存在しており、同時に上がったり下がったりする可能性もあるのです。 これまでに、ダークな性格と多くの心理的な特性との間に関連が報告されています。それらをすべてネットワークに描くことは困難です。また、まだ見つかっていない変数間の関連もあり、思わぬところで新しい関連の様子が見出されることもあります。もちろん、この発見は、研究の中では一つの重要な観点になります。日々世界中の研究者が、新たな関連を発見しようと研究を積み重ねています。 このように考えると、ある心理特性だけに焦点を絞って変化させようと試みたとしても、実は他の心理特性にも影響が波及するということは十分に考えられるのです。図 ③のネットワークのどこかを持ち上げると、線でつながった他の部分もずるずると持ち上がってくるようなイメージです。過度なダイエットをすると、確かに体重は減少するのですが、冷え性になったり、運動能力に問題が生じたり、集中力が続かなくなってしまったり、心身によくない結果がもたらされる可能性がありますが、これとよく似た現象です。 たとえダークな性格が社会的に望ましくないからといって、それを抑制しようと試みることは、この過剰なダイエットと同じような副作用をもたらす危険性があります。ワクチンにも副反応があるように、心理面での介入を行うときにも、思わぬところでの副反応が生じる可能性を考える必要があるのです。†行動の動機「殺人」という言葉は通常、非合法による殺害の説明に用いられます( 168)。ここには、いわゆる犯罪に含まれない殺害行為が存在します。たとえば、正当防衛による殺害です。 犯罪が行われた時、精神科医に精神鑑定を依頼することがあります。そこでは、犯罪の動機が了解できるかどうかという点が一つのポイントになります( 169)。動機が了解できない、理解できないときには、無罪の一つの理由になりえるそうです。たとえば、明らかに「色、金、名誉」という動機が見られる場合には、裁判官や検察官、弁護士も、その犯罪の動機が「理解できる」と判断します。もちろん、誰もが「色、金、名誉」を理由にして罪を犯すわけではありません。しかし、これらが理由に挙げられれば、皆が「確かにあり得る」と納得するのです。 一方で、家の前を通りかかった人に殴りかかって怪我をさせた男性が、その理由を訪ねられたときに、次のような理由を言ったとしましょう。「実は、自分は重要人物のため某国の監視対象となっており、いつも犬を連れて家の前を散歩している男性が、自分を監視する某国のスパイだということが判明した。そこで、自分が殺される前に、家から飛び出て殴りかかった」。このような理由は、「色、金、名誉」とは大きく異なります。すると、「動機が理解できない」と考えられ、精神鑑定の対象となる可能性が出てきます。†七つの大罪 カトリック教会には、人間を罪に導く七つの大罪という欲求や感情が定められています。それは、憤怒、嫉妬、暴食、強欲、色欲、傲慢、怠惰です。ちなみに、それぞれの罪を犯した者は、死後に地獄で次のような罰を受けることになっているそうです。憤怒は生きたまま身体を切断される、嫉妬は凍りつく水の中に入れられる、暴食はネズミ、カエル、ヘビを無理やり食べさせられる、強欲は煮えたぎる油の入った大釜に入れられる、色欲は地獄の責め苦を味わわせられる、傲慢は車裂きの刑、そして怠惰はヘビ穴に投げ込まれる、という対応です( 170)。そしてこの罰は、無限に続いていきます。 このような一種の脅しが語られるように、七つの大罪は抑制すべき欲だとされていたのです。また、七つの大罪の反対となる特徴もあるそうです。これは「美徳」と呼ばれています。憤怒には「忍耐」、嫉妬には「感謝」、暴食には「節制」、強欲には「慈悲」、色欲には「純潔」、傲慢には「謙虚」、怠惰には「勤勉」が対応します。 さて、これらはすべて、心理学の研究対象となる現象です。たとえば、憤怒は怒りや敵意、攻撃性を測定する心理尺度が適用できそうです。嫉妬については妬み傾向の尺度が作成されていますし( 171)、過食に関しては摂食障害を測定する心理尺度で把握することもできそうです( 172)。強欲は、より多くのもの(資源や金銭)を求める飽くなき欲望とされており、「ものが多すぎて困るなんて、私には想像できない」などの質問項目が含まれる心理尺度が開発されています( 173)。 色欲に関しては、性欲の個人差を測定する心理尺度はどうでしょうか( 174)。傲慢は、ナルシシズムにもよく似ていますが、自分が特別だという感覚をもつ傾向である特権意識を測定する心理尺度も開発されています( 175)。怠惰は、物事を達成しようとする動機づけの低さで測定することができそうです。このように考えると、七つの大罪についてもまとめて心理学の研究対象にすることができそうです。 これも何年前だったでしょうか。とある海外の学会で、ポスター発表(一つひとつの発表がパネルに掲示されており、その前で研究者が説明する形式の学会発表)の会場をぶらぶらしていたときに、たまたま次に紹介する研究を見つけたのを覚えています。タイトルを見た瞬間、「心理学で七つの大罪の研究をしている人がいるのか」と驚きを感じたのでした。 カナダの心理学者ヴァーノンたちは、七つの大罪に相当する内容を測定する心理尺度を用意し、ダークな性格との関連を検討しています( 176)。全体的に、マキャベリアニズムもサイコパシーも、七つの大罪全体とプラスの関連を示します。一方でナルシシズムはやや関連が小さめで、「怠惰」との間の関連は統計的に有意なものではありませんでした。 七つの大罪は、きわめて人間らしい欲求を表しています。そして、これらの欲求に基づいて反社会的な行動をとったり、罪を犯したりすれば、多くの人はその理由を「それらしい」と納得することでしょう。 ダークな性格に関連する欲求は、それだけわれわれにとって理解しやすいものだと言えるのかもしれません。ダークな性格が表す行動の理由というのは、少し見方を変えてみれば、とても我々にとって身近で人間らしいものだとも考えられるのです。 3 社会の中でのダークな性格†ステータス・ゲームからは逃れられない イギリスの作家ウィル・ストーが『ステータス・ゲームの心理学──なぜ人は他者より優位に立ちたいのか』(原書房、二〇二二年)の中で指摘するように、人生の中では年齢や美貌など、さまざまなステータスが目の前に出現し、私たちは意識するしないにかかわらず、それを競っています。そして、特に

支配、美徳、成功という三種類のステータスとそれらを追求するゲームが人生の中では大きな位置を占めます。 支配ゲームでは、ステータスは権力や恐怖心によって強制的に達成されます。美徳ゲームでは、義理や人情、従順さ、道徳などに秀でた人物にステータスが与えられます。成功ゲームでは、スキルや才能を背景として勝利することや、それだけでなく特定の細かく決められた結果を示したときにもステータスが与えられます。 あくまでもイメージに過ぎず大まかな類型ではありますが、反社会的な勢力や軍隊の中では支配ゲーム、宗教や王室制度の中では美徳ゲーム、企業やスポーツの場面での競争は成功ゲームが中心になると考えられます。 しかし、これらは厳密な分類ではありません。多くのステータス・ゲームは支配と美徳と成功の三つの要素が混合します。異種格闘技戦のような試合は支配ゲームと言えそうですが、何らかのルールがあり、ルールを遵守する美徳ゲームの要素を含み、激しいトレーニングと才能を背景とした成功ゲームの要素も見られます。 研究者が競う世界も、明らかにステータス・ゲームです。基本的にはどのような研究を行ったのか、どのような論文や著書を書き、どのような研究発表を行ったのかという研究成果を背景としたステータスが意識されます。「あの研究をした人ですよね」と言われることで、研究者のステータスは上昇していくのです。 加えて近年、数字の上での競争も激しくなっています。 Google Scholar(グーグル・スカラー)や ResearchGate(リサーチゲート)、 Scopus(スコーパス)といった論文・研究者データベースを通じて、各研究者が関与した論文数、各論文がどれだけ引用されたか、そして各研究者の研究への貢献度を表す指標を知ることが可能になっています。たとえば被引用数は、ある論文が他の論文に何回引用されたかを表します。心理学の世界でも駆け出しの研究者だと数十回、数百回の被引用数ですが、世界的に知られる研究者となると数万回、数十万回の数字を誇るようになっていきます。 また h-index( h指数)は、 h回の被引用数をもつ論文が h本以上あるという条件をみたす最大の数値のことを言います。これまでに二〇本の論文をもっているある研究者が、一〇回以上引用された論文を一〇本もっており、それ以外の論文はすべて九回以下の引用回数であれば、 h指数は「 10」となります。この研究者の論文の被引用数が増え、一一回以上引用された論文が一一本になれば h指数は「 11」となります。また、同じ二〇本の論文をもっている研究者であっても、一〇回以上引用された論文が五本だけであり、それ以外の論文は一回ずつしか引用されていなければ、 h指数は「 5」となります。 さて今や、まるでロールプレイングゲームや戦闘もの漫画のキャラクターのように、それぞれの研究者は数値で表現され、あたかもこれが研究能力であるかのような扱いを受けています(ただし、このゲームとはまったく異なるルールの下で競争している研究分野も存在します)。明らかに研究者の世界は成功ゲームが行われているのですが、研究者としてのキャリアから支配ゲームが行われたり、研究者としての姿勢が評価されたりする美徳ゲームの要素が含まれることもあります。 さらに、明確にステータスを求めるゲームに参画していないように見えても、私たちは個々に、何らかの形でステータス・ゲームに参加しています。そして、支配、美徳、成功のどこにどの程度の重きをおくのかについても、人によって異なります。これらは「三つのうちのいずれかのゲームだけを行う」というものではありません。バランスが問題になるのです。また、場面場面でどのゲームを行うのか、モードを変えることも行います。「自分ではステータスを求めていない」と考える人もいるとは思うのですが、ステータスを求める欲求は、私たちの心の奥底にもともと備えられているようです。そして、ダークな性格とくにマキャベリアニズムやナルシシズムは、支配や成功に重きを置いたステータスの希求に密接に関連していると考えられます。ステータスを求めることは社会生活を営む私たちにとって根源的な欲求であり、この観点からもダークな性格というのは、とても人間らしく私たちに身近なものだと考えられるのです。†社会の中での攻撃 とはいえ、ダークな性格の持ち主が身近にいることによって、被害を被っていると感じている人もいるのではないかと想像します。 日常生活の中で相手から面と向かって攻撃を受けたり、迷惑行為を受けたりするような機会は、昔よりも少なくなっていると言えるのではないでしょうか。現在では誰もがスマートフォンを携帯しており、自動車にもドライブレコーダーが当たり前のようにつけられていますので、トラブルはすぐに録音録画されて記録に残されます。玄関に設置する監視カメラも安価で、何か動きがあればすぐにスマートフォンに通知が来ます。現代の世の中で、あからさまな迷惑行為は衆人環視のもとで抑制される傾向があり、もし行ったとすれば自分の評価を下げてしまうリスクが非常に高くなっているのです。 もちろんその一方で、インターネット上では匿名アカウントによる嫌がらせや攻撃的な書き込みなどが後を絶ちません。ここまでに説明してきたように、ネット荒らしを楽しむ人々も存在しますし、学校の裏アカウントでは陰湿なやりとりが行われているかもしれません。自分の評価を下げるリスクが低い匿名のもとでは、これらの行動に対する抑制があまり利かなくなってしまいます。 しかし、たとえそれでも、 SNS上の攻撃的な書き込みに対して、発信者情報開示請求を行う動きも増えてきたように思います。個人がそれを行うことはハードルがまだ高いですが、個人からの依頼を受ける弁護士の情報もインターネット上では比較的簡単に見つかるようになっています。 現代の社会は、ダークな性格の持ち主が自分の欲求をそのまま表に出して行動することが難しい環境が増えてきているのです。†長期的な社会の変化 ここまでに見てきたように、ダークな性格は遺伝的な影響も受けるのですが、厳しい環境の中でさらに培われる可能性があります。そして、厳しい環境の中でこそ、ダークな性格が有利な結果をもたらすとも考えられます。しかしその一方で現代の環境は、ダークな性格にとって不利な要素が多くなっています。 さらに、もっと長い人類の歴史から考えてみても、時代が下るほどにますます厳しい環境は少なくなっています。 ジャーナリストのスティーブン・ピンカーが『暴力の人類史』(上下巻、青土社、二〇一五年)で描き出しているように、人類の長い歴史(地球の歴史から見ればとても短いとも言えますが)の中で、暴力行為の深刻さや頻度、広まり具合は次第に低下してきています。これはおそらく、ネット上の行為についても同じことが言えるでしょう。誰しも、他者から攻撃を受けることは望んではいません。その中で、より多くの人が望む方向へと社会のシステムが構成されていく傾向があるのでしょう。 長い時間の視点で見ると、現代の社会はこれまでの人類の歴史の中でも例外的に暴力が少なくなっています。加えて、医療の発展、科学技術の発展によって、これまで人類が経験してこなかったような健康と長寿の可能性が最大限高まってきているのが現代の社会だと言えます(もちろん、これからさらに発展することが期待されますが)。 このような安全で平和な世界の中では、ダークな性格がそこから浮き上がってくるように見えます。私たちが安心して生活することができる世界で暮らしているからこそ、この世界の秩序を乱すような人々への興味が高まり、理解しようと試み、なんとかそのような人たちから逃れようとするのではないでしょうか。

†平和はいつまで続くのか ただし、現代のような文明の繁栄が未来永劫続くのか、と問われれば、それに疑問を呈する人も出てくることでしょう。 これまでの人類の歴史を見ても、文明の繁栄と崩壊、国家や社会の繁栄と崩壊は繰り返されてきました。「繁栄」と「崩壊」といっても、そのレベルは様々です。本当に国や地域社会そのものが失われてしまったことも何度もありますし、発展期と衰退期を経験する国も珍しくありません。 言うまでもなく、日本は太平洋戦争後、一九五〇年代から七〇年代にかけて急速な経済発展を遂げ、八〇年代後半には土地を中心としたバブル経済に沸き、九〇年代に入ってからは長期的な低迷期に入ります。これは日本だけではありません。どの国も力強く経済発展を行う時期があり、また低迷する時期があります。 毎年のように、気候変動のニュースが報道されます。ハリケーンや台風、ゲリラ豪雨、大規模な山火事、一方でブリザードのような大雪など、気候の振り幅は年々大きくなっていることを実感します。アメリカの進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは、著書『文明崩壊──滅亡と存続の命運を分けるもの』(上下巻、草思社、二〇〇五年)の中で、人類の文明がこれまでに何度も崩壊する中で、その原因となったパターンについてまとめています。それは、環境被害、気候変動、近隣の敵対集団、友好的な取引相手との断交、環境問題への社会の対応です。このうち、環境問題への社会の対応は、文明の崩壊に大きく関係するとされています。私たちの世界は、ますます厳しさを増す環境の問題にうまく対応することができるのでしょうか。 また、二〇二〇年の新型コロナウイルス感染症の世界的な流行は、世界がこのまま崩壊するのではないか、という危険性を感じさせる出来事でした。しかしパンデミックの混乱の中でも、各国の迅速な対応やワクチンの開発プロセスは、私たちに希望をもたらしました。しかし同時に、もっと毒性や感染力が強いウイルスがいつ広まるかわからないという不安は、払拭されないままとなっています。 そしてロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、そこから世界中が戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を私たちに感じさせます。 スタンフォード大学の歴史学者ウォルター・シャイデルは、著書『暴力と不平等の人類史──戦争・革命・崩壊・疫病』(東洋経済新報社、二〇一九年)の中で、人類が社会の中で不平等が拡大したとき、何かをきっかけにして社会が崩壊するというパターンを繰り返してきたことを描いています( 177)。人類の歴史を通じて、社会が安定化すると人々の間の貧富の格差が次第に大きくなっていきます。その格差が蓄積して広がっていき、どこかでティッピング・ポイント(転換点)を迎えます。多くのケースで崩壊のきっかけとなる出来事は、大規模な戦争、支配層が入れ替わるような革命、国家の崩壊、そして伝染病のパンデミックというパターンをとります。 昭和初期頃の様子を描いた小説を読むと、大学教授の家には当然のようにお手伝いさんがいたり、若い書生が住み込みで家事を手伝いながら勉強したりしています。また当時の東京の大学に勤める教授は、当然のように軽井沢に別荘を持っていたりもします。今の大学教授の給与水準からは、なかなか考えられません。実は、太平洋戦争前の日本は、世界でも類を見ないほど経済格差が拡大した社会だったのです。 この格差社会を終結させたのは、誰もが想像するとおり、戦争です。日本で権勢を振るっていた財閥の上位 1%の価値は、一九三六年から四五年の戦争期の間に 90%以上も下落します。また三〇年代後半の日本において、所得格差の大きさを表すジニ係数は 0・ 45から 0・ 65という数値でした。ジニ係数が 0・ 4を超えると警戒ラインと言われており、 0・ 6を超えるといつ暴動が起きてもおかしくないと言われるほどのレベルです。それが、日本が戦争を経たあとの五〇年代半ばまでには、 0・ 3前後にまで低下したのです( 178)。 格差が大きく広がったとき、戦争、革命、崩壊、疫病が社会の中で猛威を振るい、一時的に社会全体が大混乱に陥ります。そこからまた平和で平等な社会がスタートし、社会は復活していきます。しかし再び訪れた平和な社会は、次第に格差を拡大させていくものなのです。 第二次世界大戦以降、局所的な戦争や紛争は何度も起きており、その地域で大きな被害が発生しているのは確かなのですが、世界を巻き込んだ戦争は起きていません。基本的に世界的に見れば平和な世の中が続いており、やはりこの間、ジニ係数は大きくなってきているようです。日本の二〇二一年のジニ係数は、当初所得で 0・ 57、年金や医療など再分配後で 0・ 38となっています。一九六二年の調査開始以降、この数字は過去最大の水準であったことが報道されました( 179)。 現代の世の中は、 VUCA(ヴーカ)時代と呼ばれます。これは、 Volatility(変動性)、 Uncertainty(不確実性)、 Complexity(複雑性)、 Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った言葉で、目まぐるしく変化し予測が困難な世界を表現しています。今後、私たちの世の中がますます想定外の混乱へと進んでいく可能性は、常に残されています。 混乱した世界は、ダークな性格が形成され、またそのような性格の持ち主が活躍する可能性を高める場所でもあります。はたして、平和で繁栄した世界は、いつまで続くのでしょうか。もちろん、自分が生きている後残りの期間も、子どもたちの世代も孫の世代も、ずっと平和な世の中が続いてほしいと願っています。しかし、人類の歴史の中で混乱なく経過した時間というのは、それほど長いわけでもなさそうだというのも確かです。†ダークな性格が残る理由 さて、このような問題を考えるときには、どの立場から考えるかを明確にすることが重要だと思います。 個人の立場からすれば、ダークな性格の持ち主だけでなく、自分に対する攻撃、悪意、犯罪から逃れることが重要です。また、実際に被害が生じたときには何らかの対応や措置を行うシステムが整備され、利用できる状況になっていることも重要な点です。 もしも自分自身にダークな性格の要素があると自覚するのであれば、自分の目標や欲求に目を向けてみてはどうでしょうか。ダークな性格の特徴の一つであり、さまざまな問題を引き起こす背景には、自分個人の利益を最大化しようと試みることがあります。しかし、自分がどこかの組織に所属しているのであれば、その組織の利益の最大化と、自分の利益の最大化が一致するように調整することができないかを考えてみるのも、ネガティブな結果を回避するための一つの方法です。 ときにダークな性格が有利に働くのであれば、ダークな性格が低い人はむしろ「高くしたい」と思うかもしれません。もちろん、無理にそのようなことを試みる必要はありません。しかし、課題の解決に至らず煮詰まってしまった場合、ときには他の人のことを気にすることなく、ダークな性格の部分的な特徴を真似しながら自由に振る舞ってみることで、何かしらの打開策が生まれる可能性があります。もちろん、必ず成功するという保証はないのですが、試みてみる価値はありそうです。 あるいは、もっと大きな目標を掲げてみることも意味がありそうです。経営者の例として挙げた、ジョン・ダンラップとスティーブ・ジョブズ、そしてイーロン・マスク、さらに架空の人物ですがシャーロック・ホームズの比較から浮かび上がってくるのは、同じように周囲の人々にとっては厳しい印象を与える人物であっても、私利私欲に走るか問題解決をするか、世界を変えようとするのかという点で、目標が大きく異なるという点です。 社会の中で大きなことをなし遂げるためには、ときに他者の意見を無視したり、勝手に行動したり、うまく周囲を利用したり、感情に動かされずに冷静に判断したりすることが有利に働く場合があります。自分自身の利益だけでなく、社会に目を向けたとき、ダークな性格の一部の特徴が目標に向けた行動を推し進める大きな原動力へとつながる可能性があるのです。 集団を取りまとめる立場から見てみましょう。ダークな性格の持ち主は、集団内の人間関係をかき乱す要素になる可能性がある存在です。この点で、組織からダークな性格の持ち主を排除しようと考える人がいてもおかしくはありません。しかしそれは、組織の構成員の画一化を招きます。組織の画一化は意見や対処の画一化を招き、何か問題が生じたときに回復へとつながる、組織のレジリエンスを阻害する可能性があります( 180)。組織が大きなダメージを負ったとき、思わぬところから回復への道筋が生じるためには、ある程度の複雑さと多様性を備えた組織であることが必要だからです。 第 2章で見たように、ダークな性格の持ち主にはそれぞれ得意な課題領域があると考えることもできます。また、人々の注目を集める可能性があり、自らの行動が名誉や評判などの見返りを得ることができる場合に、ダークな性格の持ち主たちは他者のためになるような向社会的な行動をする可能性があることも指摘されています( 181)。ダークな性格が常に他者や集団のためを思う行動に結びつくわけではありませんが、うまく工夫することで組織や集団に役立つ仕組みを考える余地は存在すると言えるでしょう。 組織が直面する課題は、多様です。多様な課題にうまく対応するためには、組織の構成員の多様性を一定の範囲で維持することも重要です。もちろん、ここで私はリスクを軽視した非常に楽観的な議論をしていることを自分で認識しています。 仕事をする上で、人間関係の良好さや居心地のよさが何ものにも代えがたいものだということは、私自身がこれまでに仕事をしてきた中でも実感するところです。組織の多様性を維持しながら、その一方で一定の心理的安全性を維持し、居心地をよくする方法については、多くの組織にとって大きな課題だと言えます。これが唯一の解決法ではないのですが、第 2章で見たように、ダークな性格の持ち主は制限が少なく自律性が高い職場、また周囲から評価されるような職場で満足度が高くなる傾向があります。しかしこのような職場は、ダークな性格の持ち主ではなくても、満足度が高くなる職場でもあるように思われます。 もっと超越的な立場から俯瞰して、人類の営みを見てみましょう。どうして私たち人間の集団の中には、一見して問題を生じさせるような性格が残っているのでしょうか。しかも、一定の範囲で遺伝要因もこの性格の形成に影響するのです。もしも、この性格が社会の中で生存に不利であり、婚姻や子どもを残すことに影響するようなことがあり、かつその社会が何世代にもわたって継続するのであれば、この性格を形成する遺伝子は淘汰されていくはずです。しかし、実際にはそのようなことは生じていません。 地質的な年代からすれば人類の歴史などは一瞬の出来事に過ぎませんが、私たち人類がこれまで生存してきた歴史の中で、ダークな性格が何らかの形で他の性格よりも有利になる場面が、何度も訪れてきたのだろうと想像できます。超越的な観点からすれば、人類が生き残ることに対してダークな性格が寄与してきたという可能性もあるのです。もしも今後、時代の流れのどこかで私たちにとって厳しい世界が訪れたとき、ダークな性格の持ち主が一定数存在することで、人類という集団がなんとか生き残っていく場面に出くわすかもしれません。これも、集団の多様性を維持することのメリットの一つです。†最後に さて、少し議論の風呂敷をひろげすぎたようです。 ダークな性格は、決して「自分には無関係なもの」というわけではありませんし、自分の中にダークな性格の要素が存在しないわけではありません。ダークな性格は広範囲な性格の領域を表しており、誰もが部分的に、たとえ要素の一部だけであっても、もっている可能性があるのです。また、自分がダークな性格をもっていないとしても、周囲の人から被害を被ってしまう場合もあります。 どうしてこのような性格が、私たちの中に残っているのでしょうか。進化的なスケールで見れば、このような性格に影響する遺伝的要素が淘汰される前に、環境が激変し、厳しくダークな性格に有利な時代が来るということが繰り返されたのではないかと想像します。長い歴史や進化の観点からすると私たちの人生はあまりに短く、ダークな性格がもつ意義が見えにくくなってしまうのです。 個人の観点からすれば、ダークな性格をもつことで悩み、またダークな性格をもつ人物に悩まされるかもしれません。しかし、それもまた人間の営みであるということを忘れないようにしたいものです。

あとがき 学部生の頃、図書館にこもって研究雑誌をめくりながら卒業研究で何に取り組もうかと悩んでいました。当時はネットで PDFを検索するシステムもなく、一日じゅう図書館にこもって雑誌をめくりながら、論文を探していたものです。 もうどのようなきっかけだったかは忘れてしまいましたが、ナルシシズムに関する研究を見つけたときに、興味が惹かれました。いや、正直なことを言うと、いくつか気になった研究テーマはあったのです。図書館でやみくもに研究雑誌のページをめくりながら、自分が研究できそうなネタを集めようとしていたのでした。その中でナルシシズムの研究は、海外では研究が盛り上がりつつある一方であまり日本国内では研究が進んでおらず、研究すべきことがたくさんありそうな印象でした。 結果的に、その後、博士論文を執筆するまで(そしてその後も)ずっと、ナルシシズムの研究を続けることになりました。これも予想しなかった未来です。 心理学では、華々しく始まった研究領域が、あまり注目されずにしぼんでいってしまう経緯をたどることがよくあります。ナルシシズムという概念も、私が研究を始めた頃は一種の「キワモノ」のようなものであり、いつか研究する人がいなくなるだろうと当の私自身が思っていたのです。しかし海外でその後、さらに多くの研究者が参画してナルシシズムの研究が続いていく様子を見て、正直言って驚きました。 さらに、本書でも扱ったダーク・トライアドの枠組みに、ナルシシズムが加わることになります。この流れも予想外でした。このことで、さらにナルシシズム自体の研究も海外では発展していきます。ダーク・トライアドの枠組みのインパクトは大きかったのですが、第 1章で書いたように、測定ツールの開発は研究を爆発的に増加させました。 いったん研究が増えていくと、ネット上で動画や記事がバズるのとまったく同じ現象が研究の中でも生じます。海外のパーソナリティ学会に行くと、ダーク・トライアドだけの研究発表が集まったセッションが一部屋で行われており、興味を抱いた多くの研究者が集まっている様子を目にすることが増えていきます。これも本書で書いたことですが論文も増えていき、パーソナリティ心理学以外の雑誌にもダーク・トライアドの研究がちらほら見られるようになっていきます。 自分がなんとなく興味を抱いて始めた研究が、形を変えながらどんどん広がっていく様子を目の当たりにできたのは、よい経験でした。このような経験から、研究という営みそのものについても、あれこれと考えさせられたものです。「性格が悪い」ということについて考えることは、まさに私たち自身について考えなおすきっかけになります。本書を通じて、自分自身について、社会について、また人類全体について思いを馳せていただければ幸いです。 本書で説明したように、ダークなパーソナリティの研究は多領域に広がっていきました。取り上げることができなかった論文も研究成果も数多くありますし、本書が刊行されるまさにこの瞬間、この領域の研究の流れを大きく変える論文が刊行されるかもしれません。それくらい、この領域の研究は流れが速く、多くの研究者が取り組んでいるのです。このような中で、本書は独断と偏見で研究を選択し、少し無理をしながらまとめた部分もあります。本書の内容が不十分なところは、すべて著者である私の力不足によるものです。 本書は、多くの方のご協力があって完成までこぎ着けることができました。一緒に研究しながら多くの刺激を与えてくれる、共同研究者や大学院生の皆さんに感謝します。また、なかなか執筆に取りかかることができず、執筆が始まっても遅々として進まない筆(キーボード)を辛抱強く待ち、励ましていただいた、筑摩書房編集部の羽田雅美氏にも心より感謝申し上げます。

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