二〇年ほどまえのことだ。わたしは、大型船で世界を巡りながら勉強する「セメスター・アット・シー」というプログラムの講師を務めていた。インド洋上での月の出ていないある夜、星がよく見えるように船長が船外の照明を消してくれた。光害の影響がいっさいない状態での天の川をぜひ見たかったわたしは、寝るまえにいちばん上のデッキまで階段をせっせと上っていった。夜空は満天の星で輝いていた。その美しさに見惚れて五分ほど過ぎたとき、燃えるように目映く明るい流れ星が視界を横切り、眼のまえで燃え尽きた。 それは生涯のなかで見たもっとも驚くべき光景のひとつだったが、わたしが驚いたのは自分自身の反応のほうだった。その瞬間をゆっくりと味わったり、自分の幸運をひとり反芻したりするのではなく、わたしはすぐにまわりを見て甲板に誰かいないか確かめた。わたしが望んだのは、誰かのほうに向きなおって「すごかったですね、いまの見ました?」と言い、赤の他人から「ええ、きれいでしたね!」という答えを聞くことだった。相手は誰でもよかった。子どものころのわたしは、『くまのプーさん』に出てくるティガーが「この世にティガーはおれひとり!」と自慢する姿に憧れていた。しかし、このインド洋上での経験によって、自分の性格をまるっきり誤解していたのだと知った。その美しい光景を目の当たりにした地球上で唯一の人間であることを特別に感じるのではなく、むしろわたしは、流れ星がそれほど現実的ではなく、その経験がより意味のないものだと感じていた。なぜなら、わたしはそれを誰かと共有することができなかったからだ。 進化によって与えられたあらゆる傾向のなかでも、わたしが思うに、自分の心の内を他者と共有したいという願望こそが、人間を食物連鎖の頂点へと押し上げるうえでもっとも重要な役割を果たしたのではないだろうか* 1。わたしたちは精神力を武器に地球上でいちばん凶暴な捕食者の地位へと上りつめたが、その精神も単体ではさほど特別なわけではない。もし裸の人間がたったひとり未開の地に放たれたら、その人物は森に生きる動物たちの餌食となる。しかし、裸の人間一〇〇人が同じ場所に放たれたら、不幸にもその森のなかに新たな頂点捕食者が生まれることになる。 第 1章と第 2章では、人間の進化の成功物語のなかで社会的機能が大切な役割を果たしてきたことを説明した。先祖たちの生存と生殖になにより大きな影響を与えたのは社会的つながりであり、人間にとってそれ以上に重要なものはほかにはない。結果、わたしたちは集団とのつながりを保つための方法をいくつも進化させてきた。なかでも核となるのが、他者の考えていることを知るというものだ。他者の考えを知ることによって、人は集団により溶け込み、ほかのメンバーが次にどんな行動をとるかをより正確に予測することができるようになる。さらに人間は、集団に自分の考えや気持ちを知ってもらうことを望む。ほかの人の心に自分の考えを植えつけることは、集団を自分の好きな方向へとうながす絶好の機会を与えてくれるからだ。また、自分の考えや感情が他者に受け容れられると、集団内の自らの地位が確かなものとなり、将来について安心感を抱けるようになる。幸運にも、これらふたつの本質的に利己的な目標は、協力を成功させるためのレシピでもある。お互いの心の内を知っているとき、社会的な協調や分業はよりうまく進むものだ。 それらの理由から、進化は人間に心の中身を共有することへの果てしない欲求を与えた。たとえ眼のまえにメリットがなくても、その欲求が衰えることはない。自分の経験を共有したいという願望──あの夜、船の甲板にいたわたしが痛切に感じていた欲求──は、人生の早い段階で生まれる。人間の幼児は「共同注意」を惹くためだけに、人やモノを指差して延々とまわりの世界について語ろうとする。成長のどの段階においても、そんなことをする動物はほかにはいない。 理解と経験を共有したいという人間の願望の対象となるのはたんなる知識だけではない。わたしたちは感情的な反応をまわりと共有することも望む。脅威やチャンスに集団でうまく対処するには、メンバーはそれを同じようにとらえる必要があるため、進化の末に人間は感情的な合意を求めるようになった。感情的な物語を共有したときに、相手が無関心な態度や予想とは正反対の感情を示すときほどイライラとする経験はほかにはあまりないはずだ。たとえば、わたしが同僚の無礼な態度に腹を立てたとする。その出来事について話を聞いた妻が、たいした問題ではないと一蹴したり、それどころか「笑える」「あなたのほうが悪い」などと言いだしたりしたら、わたしはさらに腹を立てることになる。 感情的な経験を共有するというこの欲求は、ほぼすべての〝誇張〟の根底にあるものだといっていい。たとえば、釣りで捕まえた魚についてわたしが誰かに話すとき、相手がそれほど驚かないのではないかと不安になると、その魚は物語のなかでより大きくなっていく。同僚の態度が無礼だと相手が同意してくれないのではないかと不安になると、話を伝えるあいだに同僚の態度はより無礼なものに変わる。この欲求は、都市伝説──口コミで広まる極端な誇張──が生まれる要因でもある。 スタンフォード大学のチップ・ハース率いるチームによる都市伝説に関する研究のなかで、この現象のわかりやすい例が出てくる。彼らが突き止めたのは、都市伝説がより異様で悪趣味なほど、人々はその話を誰かに伝えたがるということだった。たとえば、実験のなかでハースの研究チームは、同じ内容の都市伝説をさまざまなバージョンに変えて被験者に伝えた。基本となるのは、「家族旅行から帰ってきて写真を現像したら、ホテルの従業員が家族の歯ブラシでイタズラしている姿が写っていた」という話だ。一部の被験者には、従業員が歯ブラシで爪を磨いている姿が写真に写っていたと伝えられた。腋の下に歯ブラシをこすりつけていたというバージョンもあった。極端だったのは、従業員が歯ブラシを尻の穴に突っ込んでいるというものだった。どの話を友人たちに伝えるかを決めるのに、それほど時間はかからないはずだ。自らの感情的な反応を聞き手とより深く共有することが目標だとすれば、従業員が尻の穴に歯ブラシを入れたという話が明らかな勝者となるにちがいない。 話を誇張したり、都市伝説を伝えたりするとき、わたしたちは聞き手の現実の理解を歪めていることになる。これは、感情を共有するという欲求の悪い副作用であるともいえる。だとしても、ほぼすべての社会的交流が感情の共有に支えられているという事実の価値を損なうものではないはずだ。いちばん最近交わした友だちとの会話を思いだし、自問してみてほしい。相手により多く伝わったのは、新しい情報だろうか? それとも感情だろうか? 有意義な会話に新しい情報はそれほど多く含まれていない一方で、きまって感情はたくさん含まれている。時事ネタに関する議論といった内容の濃い会話にもまた、感情がふんだんに含まれている。いっさいの感情が含まれていないのは赤の他人との会話くらいで、そのような会話はたいてい「退屈」「つまらない」と認識される。社会的知性 人が人生のなかで向き合う最大の挑戦は、他者を理解し、その相手に対応することだ。もし相手の目的をよく理解できていれば、向こうのとりそうな行動から恩恵を受ける立場に自らを置くことができる。それどころか、他者の思惑を操って自分の狙いを相手の頭のなかに植え込むことができれば、人生での成功はほぼ確実なものとなる。一方、相手をきちんと理解できなければ、まわりの人々の予測不能な計画に翻弄されることになる。たとえ、他者の考えや気持ちを理解できたとしても、それにしっかり対応できなければ意味はない。その場合、悪い知らせが舞い込んでくることまでは気づけても、状況を大きく変えることはできない。チンギス・ハーンのように力ずくで自分の思惑を押しとおせるとすれば、このような管理スキルはさして重要にはならない。しかし、わたしたちの多くにとっては、相手を説得できるかどうかが成功へのカギとなる。
社会的な成功を収める方法について、科学はわたしたちに何を教えてくれるのだろう? 残念ながら、あまり多くのことは教えてくれない。科学が出す答えがどこまでもあいまいなのは、社会的知性を測定するのがきわめてむずかしいからだ。この状況は、社会的知性を測るための包括的なテストがはじめて作られた一九二〇年代なかばからほとんど変わっていない。テストのある質問項目について考えてみよう──親戚を亡くしたばかりの知り合いにどう話しかけるべきか? テストの参加者には「亡くなった親戚についての思い出話をする」と「社会で関心を集めている最近の話題について話す」というふたつの選択肢が与えられた。自分の経験について少し振り返ってみれば、この選択肢のどちらか一方が正しい場合もあれば、どちらも正しくない場合もあることがわかるはずだ* 2。 当然ながらこの問題に対する〝正しい答え〟は、知人や故人と自分との親しさ、知人と故人の関係、そのほか数え切れない要因によって変わる。ある人にとっての失言が、別の人にとって慰めや励ましの言葉になってもなんらおかしくはない。愛する親戚の葬儀の場で、故人について冗談を言うのは一般的に得策とはいえない。ところが実際のところ、多くの人がそのような冗談で友人や家族を慰めてきた。同時に多くの人が、同じ冗談で友人や家族を不快な思いにさせてきたはずだ。発言者、聞き手、タイミング、声の調子などによって、まったく同じ発言が慰めの言葉になることもあれば、相手を怒らせてしまうこともある。 この問題について考えれば考えるほど、いかなる状況に対しても唯一の正しい社会的行動などめったにないことがわかってくる。感情的反応が文脈によって変わるという性質(つまり社会的妥当性)は、社会的能力を測ろうとする人間の試みをつねに妨げようとする。たとえば、社会的/感情的な知性を測るために現在もっとも広く使われているテストの項目のひとつでは、会社員 Aさんの次のような状況についての説明が出てくる。 Aさんは同僚よりも努力し、よりすぐれた結果を出している。にもかかわらず、社内政治の駆け引きが苦手なため、たいした成果を出していない Bさんのほうにいつも高い評価が与えられる。このテストの参加者には、まっとうな評価を受けることのできなかった Aさんが気を晴らすためにどんな行動をとるべきかが問われる。ひとつ目の選択肢は、不当に高い評価が与えられた同僚 Bさんの良い点と悪い点のリストを作るというもの。ふたつ目は、不当に高い評価が与えられた同僚 Bさんのこれまでの仕事ぶりについてまわりに話し、そのひどさを証明するための証拠を集めるというもの。正直なところ、そのような問いへのたしかな答えなどない。ある戦略から恩恵を受ける人もいれば、別の戦略から恩恵を受ける人もいる。さらに、さまざまな異なる要因や制約によって受けられる恩恵は変わる。後者の戦略は大失敗に終わりそうな予感が大いにするものの、大成功へとつながる可能性がないわけでもない。 このテストの開発者たちは、大多数の人がとる行動についての一致した意見が何かをまず突き止め、次に人間の感情の専門家の意見を参考にして〝正しい〟答えを導きだそうとする。しかし、これは「唯一の正解が見つかる」という誤った仮定にもとづいたものでしかなく、どちらのアプローチもまったく妥当なものではない。百歩譲ってそのような答えが存在するとしても、この方法論は「大多数の人がとる行動が最善の戦略」という仮定にもとづいており、社会的知性の高い人々の行動を平均的な反応(それどころか、心理学者の直感と偏見)へと落とし込んでしまっている。思うに、社会的に高度なスキルをもつ人々は、それぞれ部分的に異なるやり方をとおして目標を達成しているのではないだろうか。ほとんどの人が同じように反応するとしたら、繰り返しと予測可能性によって反応の力は弱まってしまうはずだ。社会的に熟練した人々はこの問題をしっかり認識しており、まわりとは少し異なる方法を見つけることによって、より効果的に意思伝達をしている。 この難題に正面から向き合っても答えを導きだせそうになかったため、わたしは別のアプローチから取り組んでみることにした。わたしと同僚たちは、状況に左右されやすいという社会的知性の性質を回避する方法を見つけようと試みるのではなく、社会的機能の核となるこの性質を利用してみることにした。言うまでもなく、人々を社会的な成功へと導く特性は数多くある。しかし、ある状況で機能するものが別の状況では機能しないという事実は、〝行動の柔軟性〟こそが熟練した社会的機能にとってもっとも重要な特性であることを指し示すものにちがいない。行動に柔軟性をもたらす要因はさまざまあるが(あとでくわしく解説する)、なかでも大切なもののひとつが人間の自制する能力である。自制心の進化 心理学の研究者のあいだで繰り返されるこんな冗談がある──この分野の研究を始めたのは自分自身の欠点を見つけるためであり、わたしたちはリサーチではなく〝自分サーチ〟をしている。わたし自身も隣の部屋にいる同僚の教授もこの件においては有罪となるにちがいない。わたしが社会的知性に興味を持つようになったのは、燃えたぎる知的好奇心からではなかった。むしろ、高校生のときに頭に浮かんだことを何気なくそのまま口にしてしまい、恥ずかしい失敗をしたのがきっかけだった。 反射的な言動によって、わたしはさまざまな状況でトラブルを起こしてしまう。なかでも市場やレストランがわたしにとって最大の弱点で、とくに生きたままの状態に近い動物にまつわる失敗が多い。眼のまえの夕食の食材がこの地球上をかつて歩きまわっていた──その光景が頭に浮かぶと、わたしは吐き気をもよおすとともに、肉好きであることへの罪悪感にさいなまれてしまう。その結果、動物の本来の姿が残っている料理が大の苦手になった。タパス・バルの天井の梁からぶら下がるブタの足、中華料理店のフックに吊るされて並ぶカモ、精肉店に並んだ肉の塊を見ると、背筋がぞっとする。魚の眼がこちらを見てくるのさえ好きではない。(明らかに弱い)脳内のフィルターがわたしを止めるまえに、店員の眼のまえで嫌悪感に満ちた表情を見せてしまったことが何度となくあった。この行動について友人や家族に白い目で見られてきたわたしは、自分のせいではないと証明しようとした。わたしは不完全な脳の構造の犠牲者であり、非難されるのではなく同情されるべきだ、と。 自制心について頭のなかで思い描く方法のひとつに、脳を戦闘用馬車にたとえるというやり方がある。あなたの〝衝動〟である馬は、大脳皮質の下の基部近くにある小さな領域(側坐核や扁桃体)でおもに活動する。食欲、性欲、攻撃性といったあらゆる欲望を満たすために、馬はなんとかあなたを前に引っ張ろうとする。血気盛んなオス馬が馬車を引いている場合、食べすぎ、飲みすぎ、浮気、あるいはムカつく男の顔面を殴りたいという誘惑に抗うのにひどく苦労する。一方、ふれあい牧場のポニーが馬車を引いている場合、衝動を管理するのはわりと容易になる。 外側前頭前皮質( LPFC)と呼ばれる前頭葉の一部にいる馬車の運転手(御者)は、時間、場所、あるいは目的そのものが不適切なとき、手綱を引いたり進む方向を変えたりしながら誘惑に抗わなくてはいけない。御者には運転を手伝ってくれる助手がいる。馬の上にある前帯状皮質( A CC)の内側やまわりに陣取る運転助手の仕事は、馬車がまちがったほうに進んだときに御者に警告を出すことだ。不注意な運転助手や気の弱い御者に操られる馬たちは、自由気ままに好きなほうに進んでいく。そのような人物には、「ワイルドな性格」か「衝動的なお人好し」という評価が与えられることになる(相手がその行動に同情的かどうかによって印象は変わる)。 わたし自身の場合、 A CCにいる運転助手はどうやらずっと休暇をとっているようだ。わたしの A CCは小さすぎるか、慢性的に酸素が不足しているか、あるいは警告音が小さすぎて運転手の耳に届きづらいのかもしれない。いったん、 LPFCが手綱を引きはじめると、わたしはしっかり自制することができる。その反面、自制する必要性そのものに気づけずに手遅れになってしまうことも少なくない。そういった衝動的な言動について、わたしは自分の A CCを非難するが、まわりの人々は当然のようにわたし自身を非難してくる。わたしがはじめに社会的知性に関する実験を行なうと決めたのは、自分の無実の罪を晴らすためだった。つまり、わたしの仮説──思ったことをつい漏らしてしまうのは、道徳的な欠陥ではなく不完全な前頭葉のせい──が正しいことを証明するためだった。
わたしたちの研究チームはこの実験のなかで、珍しい食べ物を見たときにたびたびわたしが犯す失態を再現することに決めた。そのためにはなんらかの口実を作り、生きたままの動物の姿に近い料理を被験者に見せる必要があった* 3。知恵を絞って相談した末、博士課程の学生だったカレン・ゴンサルコラーレとわたしは、彼女の中国人という民族のルーツと料理の腕前を利用することに決めた。研究室に白人の被験者を集めると、カレンは「食品用化学物質の記憶への影響を調べる実験」だと説明した(つまり、噓をついた)。 参加者の名前を訊き、クリップボードのリストを確かめるふりをしたあと、カレンは毎回同じ台詞を言った。「あなたは運がいいですよ! 今日は、わたしの大好きな料理を食べていただきます。これは、中国では郷土料理として広く知られている料理です!」(食品用化学物質の記憶への影響を調べる実験であるという偽の説明によって、研究室に来た被験者に自然な流れで珍しい食べ物を出すことができた。通常の状況下では不自然だったにちがいない)。カレンはその料理の個人的・文化的意義について説明したが、それはあるひとつの単純なメッセージを被験者に伝えることを意図したものだった──どんな料理が出されようと、あなたは少なくとも気に入ったふりをしなくてはいけない。 隠しカメラで様子を撮影しつつ、カレンは参加者の眼のまえでタッパーの蓋を開けた。なかに入っていたのは、爪がついたままの鶏の足が薄茶色のソースで煮込まれた料理だった。鶏の足を差しだされたとき、なかには礼儀正しく対応しなかった被験者もいた。わたしのお気に入りは、「おえ、気持ち悪っ!」とうっかり口走った被験者だ。この発言のあと、部屋は気まずい沈黙に包み込まれた。その被験者は沈黙を破るようにすまなそうに何かつぶやき、それからおどおどと鶏の足をつまみ上げ、つま先にかじりつく勇気を奮い起こそうとした。対照的に、いたって冷静な被験者もいた。ただし、彼らがみな鶏の足を口にしたわけではなかった。自分がベジタリアンであることを突如として思いだす人もいれば、ユダヤ教の戒律にしたがって調理されたコーシャー料理ではないから食べられないと言いだす人もいた。しかし、たとえ食べることを拒んだとしても、彼らはみな丁寧な態度を保とうとした。 実験の次の段階では、わたしたちはストループ検査を使い、この微妙な状況に冷静に対処できた人とできなかった人の差を突き止めようとした。ストループ検査で利用されるのは、文字を見た瞬間にそれを反射的に読まずにはいられないという人間の傾向だ。たとえば、次の言葉を読まずに見てほしい。 こんにちは おそらく、できなかったのではないだろうか? 文字を見たとき、あなたはそれを頭のなかで読んだはずだ。ストループ検査の被験者は、示された単語の文字のインクの色をなるべく早く答えるように指示される。紛らわしいのは、その単語自体も色の名前であるという点だ。たとえば、緑色のインクで書かれた「あか」という単語を見たときには、「みどり」と答える。被験者はこのとき、読んだ単語を反射的に報告する癖を抑え込み、書かれた文字のインクの色を報告しなければいけない。 ストループ検査中の被験者の脳を fMRI* 4で調べると、書かれた色名とインクの色が異なるときに、人々の頭のなかで正しい反応と誤った反応のあいだで競争が起き、運転助手である A CCの動きが活発になることがわかる。人々がまちがいを犯したとき、 A CCの動きはより活動的になる。このときに A CCから警告を受けた馬車の御者は、反射的に単語を読むという傾向を抑え込もうとする。 A CCの処理を活発化させるこのストループ検査を使えば、鶏の足を見たときの被験者の反応を予測することができるのではないかとわたしたちは考えた。敏感な A CCの持ち主は、はじめの反応(気持ち悪い!)を抑え込み、より社会的に適切なもの(興味深い!)に置き換えることが得意なはずだ。わたしたちの読みどおり、ストループ検査の成績優秀者は、成績が悪かった被験者に比べてより冷静さを保つことができた。これらの調査結果によって、自制心が強い人ほど柔軟で社交的に洗練された方法で問題に対応できるということがわかった。彼らは特定の反応──普段はそうするとしても、眼のまえの社会規範のなかでは不適切な反応──を抑え込むことができた。 その後のさまざまな研究によって、わたしたちが実験で見つけた「人がうっかり口走る現象」が氷山の一角にすぎないことがわかった。二年後、ミネソタ大学のクリストファー・パトリックと同僚たちは、静かな A CCが問題になるのは、人がまちがったことを言うときだけではないことを突き止めた。まちがったことをするときにも、 A CCが敏感に反応しないケースがあるという。パトリックらは、「過去に反社会的な行動をしたことがあるか?」という問いにイエスかノーではっきり答えた被験者を集め、電極で覆われた水泳帽を頭にかぶせ、ストループ検査に似たタスクを与えた。神経細胞は微量の電気を発生させるため、これらの電極をとおして、被験者がミスを犯したときに A CCがどう反応するかを観察することができた。 被験者に課されたのはコンピューター上の平凡なタスクだったが、些細なまちがいをしたときの A CCの反応を見るだけで、その人物が過去に反社会的な行動にかかわったかどうかは一目瞭然だった。タスクの設問でミスを犯したとき、より遵法精神の高い人の A CCは、反社会的な人に比べておよそ三〇パーセント大きな反応を示した。思いだしてほしい。運転助手である A CCの仕事はまえもって危険を察知し、まちがいが起こりそうなときに御者に警告することだ。この実験からもよくわかるとおり、鈍感な運転助手は、誤りの可能性に対して弱い反応しか示すことができない。おそらく、反社会的な人々が大切な決断を下そうとするとき(ムカつく男を殴るべきかどうか、誰かの家の窓に石を投げるべきかどうか)、彼らの A CCは実験時と同じように鈍い反応しか示さないにちがいない。そして「やろうとしていること」と「やるべきこと」のあいだの矛盾について運転手に警告を出すことを怠ってしまう。これらのデータから、運転助手である A CCの鈍感さが社会的機能の低下へとつながっている可能性があることがわかる。 このような実験の結果について知ったとき、ついに無実が証明されたことにわたしは飛び上がって喜んだ。わたしの数々の失敗は性格のせいではなく、脳の構造のせいだったのだ。しかし振り返ってみると、利己的な思惑ばかりに眼が行き、この調査が伝えようとするもっと大きなメッセージをわたしはうっかり見落としてしまっていた。これらの研究はもちろん、自制心が社会的機能において大切な役割を果たしていることを教えてくれる。ところが、わたしがしばらくたってから気がついたのは、そもそもはじめの段階で自制心の進化をうながしたのは社会的な必要性だったのではないかということだった。「クマが口にくわえたサケに手を伸ばすな」とわざわざ A CC運転助手から警告を受ける必要はない。馬車の御者がどれほど不注意だとしても、それが危険だと気づかないはずはない。むしろ A CCによる注意喚起が必要なのは、ケーキの最後の一切れに手を伸ばそうとしているとき、喧嘩っ早い男のガールフレンドといちゃついているとき、上司のことをどう思っているか本人に伝えたくなったときだ。社会的交流のなかには矛盾し合う誘因が満ち満ちており、そのようなときにこそ注意深い運転助手による手助けが必要となる。わたしとあなたの目的が一致することもあれば(たとえば、同じ映画を観たいとき)、相反することもある(たとえば、同じ女性を好きになったとき)。後者の状況になったとき、注意深い運転助手がとりわけ大きな役割を果たしてくれる。 これらの研究が真に示すものを見落としていたのは、わたしの自己中心的な考えのせいだけではなかった。ほとんどの心理学者は、自制心を働かせるという能力が進化したのは、長期的な目標を追い求めるためだと思い込んでいた。農民として成功するためには、種を食べるのではなく蒔かなければいけない。幸せな老後を送るためには、お金を使うのではなく貯めなければいけない。健康的な体重を保つためには、チョコレートケーキの二切れ目を食べるのではなく断わらなければいけない。わたしたちがいま住む世界は、狩猟採集民の祖先たちの世界とは似ても似つかないものに変わった。狩猟採集民は種を蒔くこともなければ、お金を貯めることもなかったし、食べすぎや飲みすぎについて心配することもなかった。祖先たちが眼を向けていたのは今日のことだけで、未来について考えるとしても、明日何をしようかときどき思いを馳せるくらいだった。彼らの生活は、将来の満足のためにつねに我慢を強いられる現在のわたしたちの生活とはちがった。おそらく狩猟採集民たちは、よりよい明日を迎えるために自制心に頼る必要などなかったのだろう。その一方で、隣人と仲よくしたり、ライバルにうまく対処したり、社会的な目標を達成したりするためには自制が必要だった。
先祖たちはまた、共同作業が必要な場面、とくに脅威と向き合ったときに自制心を働かせなければいけなかった。サバンナに移り住んだ遠い先祖たちは、ハイエナやライオンのおいしいお菓子のような存在でしかなかった。危険な獣が忍び寄ってきたことに気づいたとき、その場から逃げるのではなく団結して石を投げつけるという道を選ぶためには、とてつもない自制心を働かせる必要があった。みんなが共有する「生き残る」という目標を達成するには、協力という戦略がもっとも効果的な方法だったことは明らかだ。しかしあまりの恐怖におののき、集団を護る仕事を誰かに任せて逃げてしまいたいという誘惑に駆られた者もいたはずだ。負担を分かち合おうとせず、危険が迫ってきたときにそそくさと逃げだした人々は、すぐに集団から歓迎されなくなった。彼らは恐ろしい状況へと追い込まれ、子孫を残せる可能性も減っていった。すなわち、進化が先祖たちに自制心の発達をうながしたのは、さまざまな社会的目標を達成するためだった。 前述のとおり、 A CCと LPFCの共同作業によって人は自制心を働かせることができるようになる。しかしこの自制心には、誘惑に対して自身を抑え込むという以上の働きがある。大きな脳を手に入れて物質世界を抽象的な観点から見直せるようになった人間は、ただ抗うべき誘惑としてではなく、解決するべき問題として物事をとらえることができるようになった。この点についてさらにくわしく検討するために、オハイオ州立大学のサラ・ T・ボイセンとゲーリー・バーントソンがチンパンジーを使って行なった画期的な実験について考えてみたい。 まず、ボイセンはチンパンジーに一から九までの数字を教えた。次に、欲しいお菓子の数を選ぶというゲームのルールを教えた。このゲームでは、図 4のように二頭のチンパンジーが向かい合って坐り、どちらか一方(ここでは選択者と呼ぶ)にお互いいくつのお菓子をもらうかを決める権利が与えられる。選択者の役割は、異なる数字が書かれた二枚のカードのどちらかを選ぶというものだ。
このゲームの肝となるのは、選択者が指差したカードに書かれた数のお菓子を相手のチンパンジーが受け取り、選択者はもう一方のカードに書かれた数のお菓子を受け取るという点だ。チンパンジーはモノを共有することが得意ではないため、つねに自分が大きな数を手に入れ、小さな数が相手に行くことを望む。結果、実験に参加したチンパンジーたちは、小さな番号を指差してより多くの数のお菓子を手に入れることをすぐに学んだ(図 4を参照)。 この実験の目的は、数が書かれたカードではなく、実際にお菓子が載った皿をチンパンジーに見せたときに何が起きるかを調べることだった(図 5)。この場合、タスクはより簡単になり、より大きな数のお菓子を得る確率も上がるはずだった。チンパンジーたちはどの数字を選べばゲームに勝てるのかを覚える必要がなくなり、より少ない数のお菓子が載った皿を指差すだけでよかった。が、正反対のことが起きた。ゲームのルールを知っているはずのチンパンジーたちは、眼のまえに置かれたふたつの皿のうち、より多くのお菓子が載った皿を繰り返し指差した。すぐさま過ちに気づき、ひどくがっかりしたような様子を見せることも多かった。しかし驚くべきことに、彼らはその直後の回でもまた同じまちがいを犯した(その次の回も、またその次も同じで、一〇〇回以上繰り返しても結果は変わらなかった)。
これほど賢い動物が、なぜこのような単純な誤りを繰り返したのか? もっとも考えられる理由は、眼のまえに置かれたお菓子の誘惑から逃れられなかったというものだ。ボイセンが示した数字の助けを借りて、チンパンジーたちはお菓子を抽象的な問題へと変換した。彼らは頭のなかで一歩離れて状況を判断し、問題を客観的にとらえることができた。しかし、眼のまえの物理的なお菓子を抽象的な概念へと変換するほどの象徴能力は持ち合わせていなかったため、この場合には誘惑が勝った。チンパンジーの前頭葉にとってお菓子の魅惑はあまりに強く、とっさにブレーキを利かせ、より多くの数のお菓子が載った皿を指差すのを止めることはできなかった。 チンパンジーの前頭葉は比較的小さく、自制のための機能と抽象的に考える能力は人間ほど高いものではない。人間はお菓子の山をなんなく抽象的な問題に変換し、それをモノではなく数字として考えることができる。問題をいったん抽象的な概念に変えてしまえば、脳の自制機能が誘惑に負けることもなくなる。対照的に、チンパンジーがこの変換をできたのは人間の助けを借りたときだけだった。つまりボイセンは、実際のお菓子ではなく数字を示すことによって、変換を代わりに行なっていたのだ。ただし、チンパンジーよりも人間がはるかに利口だと早合点してはいけない。人間も子どものときはチンパンジーと同じようなもので、前頭葉の機能は弱く、抽象化の能力も低い。そのため、(幼い)人間もまた、チンパンジーと同じような行動をとることがある。この分野の研究でとりわけ有名なのがウォルター・ミシェルのマシュマロ実験だ。 ミシェルは幼い子どもを被験者として研究室の一室に招いて椅子に坐らせ、マシュマロがひとつ載った皿を机の上に置いた。「マシュマロをいま食べてもいいけれど、わたしが戻ってくるまで待てれば、マシュマロをふたつあげるよ」と彼は子どもに説明した。「待ちきれなくなったらベルを鳴らし、眼のまえのマシュマロを食べることもできる」。当然のことながら子どもたちはほぼ例外なくマシュマロをふたつ欲しがり、ミシェルが戻ってくるまで待つと誓った。説明を終えて部屋を出たミシェルは、ベルで呼ばれないかぎり、一五分待ってから子どものもとに戻った。 ミシェルが知りたかったのは、子どもたちがどれほど待てるのか、それぞれの自制心の強さを予測するためのポイントはなにかということだった。この研究から、いくつかの興味深い結果が明らかになった。第一に、待つことができる時間には大きな個人差があった。多くの子どもは決められた一五分の最後まで待つことができたが、なかにはわずか一〇秒ほどしか我慢できない子もいた。ミシェルが最初に行なった実験の録画映像を見ると、待てる子と待てない子を予測するうえで、あるひとつの要因がとくに際立っているのがわかる。もっとも長く待つことができるのは、マシュマロからなんとか注意を逸らそうとする子どもたちだった。彼らはひとり歌を歌い、皿に背を向け、ゲームをし、あるいは眠り込んだ。しかし、マシュマロを見つめたり、ましてや我慢できずに小さな手でマシュマロをつかんだりしたら一巻の終わり。そのような子はきまってパクリと食べてしまった。 前頭葉がまだ発達途上にある未就学児の自制能力は低く、眼のまえに置かれたマシュマロの魅惑に抗うことはとりわけむずかしくなる。しかし、ボイセンが物理的なお菓子を数字による抽象的概念に変換することによってチンパンジーを手助けしたのと同じように、一部の子どもは自分たちの弱点を回避する方法を見つけだした。ミシェルが十数年後に被験者を追跡調査すると、マシュマロ実験で長く待てた子どもたちのほうが、すぐに降参した子どもに比べて大学進学適性試験( SA T)でより高い点数をとっている傾向があることがわかった。つまり、眼のまえの誘惑を「解決できる問題」に変換する彼らの能力は、幼い子ども時代のあいだに誘惑に抗う手助けとなるだけでなく、その後の人生をとおして自制心を働かせる糧となりつづけたということだ。そのような強い自制心をもつ子どもたちはおそらく、ただ遊びまわるのではなく、より自発的に勉強するようになったにちがいない。自制心を超えて──大きな脳の社会的利益 およそ一五年前、わたしは社会脳仮説について知った。この考えは一九六〇年代から生物学や人類学の分野で活発に議論されていたものの、心理学の分野ではほとんど研究されていなかった。第 1章と第 2章で論じたとおり、この仮説の前提となるのは、霊長類の脳が大きく発達したのは社会的な挑戦──相互依存し合う集団のほかのメンバーに対処するときに欠かせない試練──に向き合うためだったという考えだ。研究を進めていくうちに、わたしはこう考えるようになった。人間の脳が身体的問題ではなく社会的問題を解決するためにこれほど大きくなったのだとすれば、純粋に認知的なものだと考えられている能力の多くも、大きな社会的役割を果たしているのではないか? たとえば、問題に対して異なる解決案を考えだす能力(「拡散的思考」と呼ばれる)を人間が進化させたのは、荒れ狂う川を渡る方法や腹を空かせたハイエナから逃げる術を見つけるためではなく、さまざまな社会的状況のなかでより柔軟に対応するためだったのかもしれない。拡散的思考を身につけることによって、はじめの解決案が失敗に終わったとき、人々は友人や敵により効果的に対処できるようになったはずだ。この考えにわたしが惹かれたのは、子ども時代のある個人的な経験にぴったり合うものだったからだ。とりわけ背が低く、とりわけ生意気だったわたしは、校庭での恐ろしい状況から自らを救いだすために拡散的思考の能力に大きく頼る必要があった* 5。 拡散的思考が社会的な成功を高めるという仮説について調べるために、わたしの研究室の博士課程の学生だったアイザック・ベイカーは、友人同士の集団を被験者として集めて一連のタスクを課した。彼はまず I Qテストと性格検査を行なってから、一般的なモノ(レンガや皿など)の異なる使用方法をなるべく多く考えだしてほしいと被験者に伝えた。この質問に答えるためには拡散的思考が必要になる。なかには、似通った使い方ばかりしか思いつかない人もいる(たとえば、レンガを使ってドアを開けておく、窓を開けておく、棚を支える)。あるいは、より多様な使い方を思いつく人もいるはずだ(たとえば、レンガを使ってレジャーシートの隅に置くおもりにする、釘を打つ、ムカつく人に投げつける)。 その後アイザックは被験者一人ひとりと個別で面談し、同じ友人グループのほかのメンバーたちの社交術の高さについて尋ねた。結果としてわかったのは、より多様なレンガの使い方を思いついた人のほうがより説得力、ユーモアのセンス、カリスマ性があるということだった。この関係性は IQが高いかどうかにかかわらず成り立ったため、拡散的思考がたんに頭の良さだけに左右されるものではないこともわかった。むしろ、拡散的思考はそれ自体が大切なスキルであり、その人の説得力(口のうまさ)、おもしろさ、カリスマ性を高める要因となる。 頭の回転の速さ、すなわち情報を手に入れて迅速に解決する能力は、世界への柔軟な対応をうながすもうひとつの認知能力である。社会的交流は次から次に展開していくことが多いため、考える時間をほとんど与えてくれない。あなたがわたしをネタにして何か冗談を言ったとする。わたしがすぐさま気の利いた受け答えができたら、この冗談の言い合いでわたしはうまく立ちまわれたことになる。しかしどう言い返すか手間取っていたら、すぐに会話はさきに進んでしまう。あとになって見事な言い返しを思いついたとしても、そのタイミングであなたのさきほどの冗談に言い返そうとすれば、わたしはまたバカにされるだけだ。思考のスピードが速ければ速いほど、対応を迫られたときに考慮できる選択肢の幅が広がる。 頭の回転の速さが社会的機能の高さを予測する物差しとなるかを調べるために、わたしたちの研究チームは友人同士の集団を被験者として集め、単純な一般知識のクイズにできるだけ素早く答えるよう指示した(たとえば、「高価な宝石といえば?」)。その後、各メンバーにどれくらいカリスマ性があると思うかを尋ねると、一般知識のクイズにより速く答えることのできた人物のほうが、友人たちからカリスマ性がより高いと評価されていることがわかった。拡散的思考と同じように、頭の回転の速さにもとづいたこれらの現象も知性の高さ( I Q)とは無関係のものだった。 過去一世紀の研究が教えてくれたのは、 IQがわたしたち人間の知的馬力であり、社会的知性はより大きな知的能力の集まりのほんの一部か派生物であるということだった。しかしながら、ここまで説明してきたような新たな研究の結果は、その反対が事実であることを指し示している──社会的知性こそがわたしたちの真の知的馬力であり、複雑な問題を解く能力(抽象的思考力をもとに測る I Q)は、進化した社会的能力が偶然生みだしたたんなる派生物
なのかもしれない。つまり社会脳仮説が正しいとすれば、 I Qのほうが社会的知性の副産物であるということになる。さらに、社会的知性がより幅広い知能を象徴するものだと考えると、 I Qの高さが必ずしも仕事の成功につながらない理由も明らかになってくる。 IQを測るとき、わたしたちは認知というパイのほんの小さな一切れを見ているにすぎない。一方の社会的知性は、複雑な社会を生き抜くための能力についてもっと多くのことを教えてくれる。 この時点で、こんな反論の声が聞こえてきそうだ。「ちょっと待ってくれ。ぼくが知っている賢い人の多くは、社会でうまくやっていけない人たちだ。その反面、じつに社交的な友人のなかには、食費の計算さえきちんとできない人もいる。もし I Qが社会的知性の派生物だというのなら、このふたつはもっと密接に関連しているべきでは?」。実際によくありがちなこの不一致によって、総合的な認知能力と社会的能力のあいだに一対一の結びつきがないことがはっきりしてくる。だからこそわたしたち研究者は、自制心、拡散的思考、頭の回転の速さといった特定の認知能力──柔軟性を高め、結果として人々の社会的スキルを向上させる能力──の謎を解き明かそうとしてきた。憲法の条文をやすやすと暗記することはできるのに、スーパーマーケットからの帰り道で迷う人もいる。同じように、数学が得意なのに、他者の理解と人づき合いのために必要な認知能力を持ち合わせていない人もいる。 最後に、社会的スキルはたんに認知能力だけによって育まれるのではなく、わたしたちの態度によっても大きく左右されるという点を忘れてはいけない。意外なことに、もっとも大切な社会的態度のひとつは、わたしたち自身がわたしたち自身に対してとる態度である。自信過剰の社会的利益 わたしの苗字の「フォン」の部分は、ドイツの祖先に由来するものだ。数世代前、わたしの父方の家族はプロイセン王国の地主だった。そんなわたしたち一家には、家紋(偶然にも、セント・パウリ・ガール・ビールの瓶のロゴマークに似ている)と「 Mehr sein als scheinen」という家訓がある。文字どおりに訳すと「見かけ以上のものがある」となるが、個人的には「人は見かけによらない」という意味だと解釈している。グーグルで検索してみると、プロイセンではそのような謙虚さは美徳だと考えられていたらしく、かつての隣人たちの多くが同じ家訓を共有していることがわかる。「人は見かけによらない」というモットーは、忍者やトランプ賭博師にとっては人生に対するすばらしい考え方となるにちがいない。しかしそれ以外の人々にとって、わが家の家訓はまったく反対の意味をもつことになる。つまり実際よりも大物に見えるほうが、わたしたちは人生のなかでより得をすることになる。事実、わたし(ウィリアム)は自分のことを「実際のウィリアムよりも二〇パーセント増し」で自分をとらえているのではないかと思うことがよくある。もう少し具体的に説明しよう。 まず、自信過剰についてのわたしのお気に入りの研究のひとつを紹介したい。エリン・ウィットチャーチとシカゴ大学のニコラス・エプリーはある実験のなかで、研究室に集めた被験者の顔写真を撮影した。その後ふたりは、それらの写真と同性の別人の写真を合成し、見かけを良くしたり逆に悪くしたり調整していくつか異なるパターンを作りだした。数週間後、エプリーとウィットチャーチは被験者を研究室に呼び戻し、さまざまな状況下で未編集の写真と合成写真を見せた。たとえばある被験者グループには、未編集の写真と合成写真がランダムに並ぶ組み合わせのなかから、自分の本来の姿が写っているものを選ぶよう指示が与えられた。このなかでもっとも頻繁に選ばれたのは、一〇~二〇パーセント魅力が上乗せされた合成写真だった。 別のグループには、他人が写る写真が何枚か示された。そのなかに被験者自身の写真──未編集の写真、二〇パーセント魅力を上乗せした合成写真、二〇パーセント魅力を下げた写真のどれか──が一枚だけ交ざっていた。被験者に自分の写真を見つけるように言うと、特定までにかかる時間は、魅力を増した合成写真が交ざっている場合がもっとも短かった。次に未編集の写真が見つかりやすく、魅力を下げた写真を見つけるのにいちばん時間がかかった。この調査結果が示すのは、自分の眼をとおして見ている自分の姿に近いのは〝美化された写真〟であるということだ。つまり、わたしたちの多くは自らの魅力について自分を騙していることになる。 この自己高揚効果の影響など自分には関係ないと考えている人がいれば、自らが写っているスナップ写真を最後に見たときのことを思いだしてほしい。多くの人はスナップ写真の自分の顔の写りがあまり良くないと感じるはずだ。わたしの場合、写真を撮った友人たちはただ撮影が下手なのではなく、どこまでも性格がひん曲がっているのだと確信している。残念ながら、友人たちの写真の腕が悪いのではなく、たんにわたしたちは自分が思っているほどルックスが良くないだけ。自分が写ったスナップ写真を好きになれないのは、そこに写るのが実際の姿であり、頭のなかで思い描く自分の姿ではないからだ。多くの人が気に入るのは、絶妙なアングルから絶妙なタイミングで撮られた自分の写真であり、フェイスブック、ティンダー(マッチング・アプリ)、社員名簿に載せられるのもそのような写真だと相場が決まっている。さらに、自分が嫌いな(削除した)写真よりも、これらのお気に入りの写真を見る機会のほうが多くなるため、この非現実的なほど写りのいい写真が現実の姿なのだと信じるようになる。多くの人が自分のルックスを「実際よりも二〇パーセント増し」で考えているのも無理のない話だ。 エプリーとウィットチャーチの研究は、人間がたびたび自分を騙そうとすることを証明する好例ではあるものの、なぜそのような自己欺瞞が起きるのかまでは教えてくれない。これは、少なくともソクラテスやプラトンの時代から議論されつづけてきた問題だ。ソクラテスは「汝自身を知れ」というあいまいな格言の大ファンで、「思っているほど自分のことを知らない」とアテネのお偉方に説くのが大好きだった。しかし仲間のアテネ市民たちは、人の欠点をやたらと強調するソクラテスを嫌い、最後には罪をでっちあげて彼に死刑宣告を言い渡した。わたしも心理学者として、自己認識はしばしば過大評価されがちだと感じている。思春期のころの自分の写真を一目見るだけで、自己認識がどれほど大きなダメージをもたらすのかを理解できる。九年生のときに自分がこれほどダサい見かけだと少しでも気づいていたら、わたしは学校に行くことさえもためらっていたにちがいない。ましてや、となりの席の女の子をデートに誘うなどもってのほかだ。 フロイトもまた自己欺瞞に価値を見いだし、ときに耐えがたいほど不快な世界からわたしたちを護ってくれるのが自己欺瞞だと信じていた。たしかに、これには一理あるかもしれない。友人や隣人が自分についてどう考えているか、真実をつねに知った状態では日々の生活はままならなくなるはずだ。しかし第 9章で論じるように、進化は人間を幸せにするのではなく、成功するように設計されている。さらに、誤った自己認識が成功の確率を大きく下げることは容易に想像がつく。自己評価二〇パーセント増しのウィリアムは、負けて当然の闘いに挑み、自分に興味のない女性(わたしの記憶が正しければ、嘲笑を浮かべる相手)をデートに誘おうとするにちがいない。では、そのような犠牲を相殺するほどの利益はどのように生みだされるのだろう? 多くの心理学者に四〇年近く無視されてきたものの、ハーバード大学の若い教授だったロバート・トリヴァースは一九七〇年代なかば、この問いに対する単純明快な答えを提示した。彼が主張したのは、「わたしたち人間はより効果的に他者を欺くために自分を欺く」という考えだった。九年生のころのわたしが自分はイケてると(誤って)信じ、生物学の授業で一緒になるかわいい女の子をデートに誘ったとしたら、彼女はむずかしい問題に直面することになる。見るかぎりたいした男には見えないのに、なぜこんなに自信満々の態度なのだろう? 見かけ以上の何かが隠れているのだろうか? つまり自分への過大評価をほかの人の心に植えつけられれば、自信過剰は大いに役立つ可能性があるということだ。くわえて、そのような過大評価を植えつけることがとりわけ得意だとすれば、さきほど触れた犠牲を払う必要さえなくなるかもしれない(不良に顔を殴られたり、女子にバカにされたりすることもなくなる)。たとえば、わたしを殴ろうとしていた不良の男はわたしが見かけよりも強いのではないかと感じ、今回の一件については水に流そうと考えるかもしれない。わたしよりももっといい男とつき合えるはずの女の子も、その「もっといい男」がわたしだと勘ちがいするかもしれない。結局のところ、わたしは彼らよりもずっと長く自分自身について知っている。だとすれば、わたし自身に対するわたしの意見を無視するのはそもそもバカげたこと
にちがいない。 この考えについての研究はごくわずかしか行なわれていないものの、これまでに出た結果はトリヴァースの仮説と一致するものばかりだ。たとえば、カリフォルニア大学バークレー校のキャメロン・アンダーソン率いる研究チームは、学生たちを少人数の作業グループに分けて行なった実験のなかで、多くの人は相手が「博識」なのか「自信過剰」なのかを区別できないことを突き止めた。結果として被験者たちは、自信過剰な人の言うことに誤ってしたがってしまう傾向があった。アムステルダム大学のリチャード・ローナイの研究チームは、プロの人事コンサルタントを被験者として使った実験のなかで似たような現象が起きることを発見した。どの応募者を管理職に昇進させるかを決めるというタスクを課したとき、的確に自己認識ができている志願者よりも、自信過剰の候補者のほうが推薦されることが多かった。キャメロン・アンダーソンの実験に参加した学生たちと同じように、経験豊かな人事コンサルタントでさえ、「現実的な自己認識」と「口から出任せ」を区別することができなかった。 わたしの研究室の博士課程の学生ショーン・マーフィーはさらに、自信過剰な人に騙されやすいというこの現象が、短期的なものには限らないことを突き止めた。ショーンが見つけたのは、自分の運動能力について過信する男子高校生は、高学年になるにつれて実際に人気が高くなる傾向があるということだった。これらのデータから、自信過剰な態度は親しくない相手に対して効果があるだけでなく、長期にわたる社会的ネットワークのなかでも好影響を及ぼすことがわかる。関連する結果として、別の実験のなかでショーンは、自信過剰な人々が成功しやすい理由のひとつを見つけた──自信満々の人はきまって競争のなかでより威圧的であり、まわりの人が直接対決を避けようとする傾向がある。 これらの研究から、自信過剰には対人関係に大きな利益をもたらす効果があることがわかる。さらに、自己欺瞞を防衛のためのメカニズムだと位置づけたフロイドの考えが誤りだったことも明らかだろう。むしろ、自己欺瞞を社会的な武器だと鋭く指摘したトリヴァースの主張のほうに分があることはまちがいない。自己認識が二〇パーセント増しのウィリアムは、見るからに荒れ果てた世界のなかで自身の精神状態をなんとか保とうとしているわけではない。彼はただ人に好かれることを望み、面倒事を避けようとしているだけだ。平たく言えば、自分を大きく見せようとするわたしの傾向は、より多くの社会的な結果──自分が何者かについてつねに正直な態度を貫いていたら生まれない結果──を出すことを後押しするために発達したものだった。自己欺瞞は自信過剰のためだけにあらず 自己欺瞞は社会的な影響力を生みだす武器であり、ただ気分を良くさせるための戦略ではない。このトリヴァースの洞察は自信過剰についてのわたしたちの理解をさらに深めてくれるが、自己欺瞞はそれをはるかに超える複雑なものだ。他者がすぐさま察知する要素は相手の自信だけではなく、ほぼすべての感情が社会的交流に影響を及ぼしている。では、わたしたち人間にとってもっとも重要な感情のひとつについて考えてみよう──幸福だ。人間が幸せを感じる仕組みについては第 9章と第 10章でくわしく説明するが、ここでは幸福が及ぼす社会的影響についての大切なポイントに注目してみたい。少し思いだしてみるだけでも、幸福に大きな社会的影響があることがわかるはずだ。なんといっても、わたしたちは幸せな人々と一緒に過ごすことをより楽しいと感じる。まさに、「笑う門には福来たる」という格言のとおり。 幸福が社会的影響を及ぼすという事実は、誰もが幸せそうな表情を浮かべたいと考える充分な理由であり、人々はさまざまな社会的交流のなかで自分の幸福を誇張しようとする。通りでばったり出くわした知り合いに「調子はどう?」と尋ねたとき、実際のところ、わたしは相手の外反母趾や痔の具合について聞きたいわけではなく、ただ「元気だ。きみのほうは?」という答えを期待しているだけだ。たとえ、ほんとうに外反母趾や痔の痛みに苦しんでいたとしても、簡単な社会的交流のなかでは誰もがほぼ例外なく「何も問題がない」と相手に伝える。この現象は、本心ではないことを人に伝える傾向があるというだけの話で終わるものではない。トリヴァースの説が正しいとすれば、わたしたち人間はこれらの主張が真実なのだと自身に言い聞かせ、他者を説得しようとする。顔の合成写真を使ったエプリーとウィットチャーチの研究でも、自信過剰の学生を調べたアンダーソンの研究でも、トリヴァースの説を裏づける結果が出た。さらにほかのさまざまな研究でも、人々が自分を過大評価し、潜在的に他者に同じ行動をうながしていることが明らかになっている。では、そういった人間の傾向は幸福にどのような影響を与えているのだろう? 過剰な幸福感についての研究でわたしがとくに好きなのは、カリフォルニア大学アーバイン校のショーン・ウォイチックのチームによるものだ。彼らは、社会科学者のあいだでよく知られるある現象──一般的にアメリカ合衆国では、政治的に保守的な人のほうがリベラルな人よりも幸福度が高い傾向にある──を下敷きに研究を進めた。この現象についての仮説はいくつも提唱されてきたが、ウォイチックらは異なるアプローチをとった。くわしく調べてみると、過去の文献のデータは「保守派はリベラル派よりも幸せだと主張している」という事実を示すものであり、実際に幸せが行動に表われているかどうかは定かではなかった。そこでウォイチックは、ツイッター、リンクトイン、連邦議会議事録をとおして公開されているさまざまなビッグデータに注目した。政治的に左右どちらかの思想をもつかはっきりしている連邦議会議員や一般市民を対象として、数百万の単語、数千のツイート、数百の写真がくわしく調べられた。言葉の使い方や笑顔の大きさに表われる幸福感に、ほんとうに差があるのか? こんな疑問がふと頭に浮かんだ人も多いかもしれない。保守派がほんとうは幸せではないとすれば、なぜリベラル派よりも幸せだと主張するのか? 現代のアメリカの保守主義と自由主義のイデオロギーを比べたとき、両者を隔てる明らかな差のひとつは、競争の場における公平性の考え方にある。保守派は、この世のなかが能力主義社会であるという考えをより強く支持する。一方のリベラル派は、社会での成功を阻むさまざまな構造的な障壁により注目するが、保守派はそのような障壁をさほど重要だとはとらえていない。たとえばリベラル派は、人種、性別、性的指向によって人々が不当な扱いを受け、チャンスを奪われる場面が多いと考える。しかし保守派は、人種、性別、性的指向の影響が誇張されすぎだと考える傾向がある。 このような信念から論理的な結論を導きだすとすれば、リベラル派に比べて保守派の人々は(意識的かどうかにかかわらず)幸せになるためにはより自分に責任があると考えるようになる。わたしが不幸せな保守派で、社会が実力主義だとすれば、わたしは自分の目標を達成することができなかったという意味になる。つまり不幸せなのは、自分自身の責任ということだ。対照的に不幸せなリベラル派だとすれば、わたしがコントロールすることのできない要因──人種、性別、社会階級など──が妨げになっている可能性も高い。だとすれば、わたしの不幸は必ずしも自身の失敗の徴とはかぎらない。このような理由のため、幸せだと報告することはリベラル派よりも保守派にとってより大きな意味をもつことになる。自分が幸せではないという事実は、保守派のあいだでは失敗だとみなされるが、リベラル派にとっては必ずしも失敗を意味するものではないからだ* 6。 この論理のとおり、ウォイチックが保守派とリベラル派の発言、ツイート、写真の表情を調べたときにも、保守派がリベラル派よりも幸せであるという証拠は出てこなかった。それどころか、まったく逆の事実がわかった。実際のところ、リベラル派はよりポジティブな言葉を使い、写真でもより大きな笑みを浮かべていた。笑顔はその大きさからだけでなく、眼のまわりに現われる皺によっても本物か偽物かを区別することができる。本物の笑みを浮かべているときはほぼ必ず眼に皺ができるが、作り笑いではできない。ウォイチックの研究チームが眼のまわりの皺の有無によって写真を選別したところ、保守派よりもリベラル派のほうが本物の笑み( =本物の幸せの証拠)を浮かべている割合が多いことがわかった* 7。自己欺瞞の効果 これらの研究から、他者が自ら作りだそうとする印象に人々がじつに騙されやすいということはわかるものの、そのような自己欺瞞に実際に効果がある
のかまではわからない。たとえば保守派はリベラル派よりも幸せだと主張しながら生きていくのを好むのだとすれば、彼らに通りで出会ったときには、きちんと挨拶して元気かどうか尋ねるのが無難だろう。しかし、保守派がその主張からほんとうに利益を得ているのかどうかははっきりしない。 そのような問いに答えるための手っ取り早い方法は実験を行なうことであり、わたしたち研究チームも実際にそうしてみた。自己欺瞞によってその人の説得力が増すというトリヴァースの仮説がほんとうかどうか調べることを目標として、わたしたちはこの仮説を三つの論理的要素に分けた。自分がありのままの真実を語っているのか確信がもてないとき、第一に、人々は自分の主張が正しいのだと自らを納得させようとする。第二に、人々は自分たちの主張を信じるようになる。第三に、自分自身を説得することによって、人々はより効果的に他者を説得できるようになる。この三つの可能性について調べるために、わたしは古くからの心理学者仲間であるピーター・ディトーが編みだした実験法を拝借することにした。 ディトーの実験は二〇年以上前に行なわれた古いものではあるが、人間の情報収集における自己欺瞞的な思惑の影響を調べる術としては、わたしはいまでもこの方法が効果的だと考えている。ディトーは大学生を被験者として研究室に集め、心理的な特徴と身体的な健康の関連性についての実験を行なうという偽の情報を伝えた。この表向きの目的に合わせ、彼は学生たちに対し、高齢になったときに消耗性疾患を発症する確率を調べる医学的な検査を受けてもらうと説明した。 言い換えれば、現在はいたって健康な大学生たちが、検査によって将来病気になる可能性が高いかどうかを知ることになる。この〝医学的な検査〟では、被験者が自ら唾液を試験紙に含ませ、眼のまえで色が変わるかどうかを観察した。一部の被験者には、色が変わるのは良い知らせだと伝えられた(すなわち、ずっと健康でいられる)。残りの被験者には、色が変わるのは悪い知らせだと伝えられた(すなわち、将来的に病気になりやすい* 8)。実際のところ試験紙はただの紙でしかなく、色が変わることはなかった。 あなた自身がこの実験に参加する姿を想像してみてほしい。あなたは試験紙を唾液で濡らし、色が変わるかどうかを待っているところだ。色が変われば、あなたは健康体でいられることを意味する。しかし一分ほどたっても紙の色が変わらないことに、あなたの心臓が早鐘を打ちはじめる。いったい何事だろう? 試験紙に何か問題があるのだろうか? 多くの被験者と同じように、この時点であなたは試験紙を捨てて別の紙でもう一度試そうとするかもしれない。 対照的に、色が変わることが病気になりやすいという意味の場合、あなたは何も起きないことを望み、少しばかりの不安感とともに試験紙を見つめる。三〇秒もすると安心しはじめ、もう一度確かめようなどと考えもせず、あなたは試験紙を容器に入れて実験者に渡す。自分もそうするだろうと直感したなら、あなたは実験の被験者の多くとまさに同じ行動をとったことになる。この実験から、「試験紙の色が変わらない =健康を保つ」と説明したときよりも「試験紙の色が変わらない =将来病気になりやすい」と説明したときのほうが被験者はより長く待ち、結果を再び確かめる頻度も増えることがわかった。 はっきりとした正解がわからないときにもう少し情報を得ようとすること、それ自体に問題はない。しかし、はじめの結果を好むかどうかに応じて選択的に集める情報量を変えることは、自己欺瞞の一種だといっていい。いわば、高得点を期待できないときに、あえて試験の結果を確かめようとしないようなものだ。重要な情報を避けるという行為は、他者を欺くのと同じように、自分自身を欺くことにもつながる(夕食の時間に遅れたことを妻に咎められたとき、仕事場の隣の席の美人の同僚と長話していたことを認めたくないばかりに、話題を変えるのがその一例)。いくら情報を避けようとしても、ときに現実がその醜い頭をもたげることもある。試験に落ちた場合、点数を知っているかどうかにかかわらず、あなたはいずれその影響を必ず受けることになる。しかしときに、情報を避けて現実を作りなおすこともできる。友だちから紹介された相手との最初のデートで、わたしが大失態を演じたとする。しかし、相手の女性と二度と連絡をとらなくていいのなら( =失敗の情報を頭から追いだすことができるなら)、わたしはより自信をもって別の相手との次のデートに臨むことができるし、結果としてそちらがうまく進む可能性も高くなる。 ディトーのさきほどの試験紙を使った実験の場合、どんな結果が待ちかまえているのかがはっきりとわからないため、情報を避けることは自分を欺くための便利な方法となる。もっと長く待てば、試験紙の色は変わるかもしれないし変わらないかもしれない。後者の場合、待った時間は無駄になる。概してこの種の選択的な情報収集の戦略では、自身が好む結論に合わせて答えが歪められる(もちろん、見つけた答えが正しい場合も充分にありえる)。要は、このような選択的な情報収集は望ましい現実感を人に与えてくれるが、それが歪んでいる恐れもあるということだ。 ディトーの実験が、自己欺瞞を評価するためのすぐれた方法論であることはまちがいない。しかし、わたしたちが研究を始めるきっかけとなった疑問についてさらに突きつめようとすると、この方法論にはいくつか大切な要素が欠けていることがわかってくる。まずなにより、実験の被験者たちが自らの将来について自身を騙そうとした理由がはっきりしない。フロイトの理論が示すように、彼らは自分たちの幸せと自尊心を、将来病気になるかもしれないという悪い知らせから護ろうとしたのだろうか? あるいは、トリヴァースの理論が示すように、被験者たちは自分の健康なイメージを保ちたかったのだろうか? そうやって自信を深めれば、恋人や仲間をうまく惹きつけることができると感じたのだろうか? ディトーの実験の場合、答えにはその両方の要素が含まれているのかもしれない。しかしながら、わたしたちの研究チームが望んでいたのは、トリヴァースが説いた対人関係の説──人は自己欺瞞を利用して他者をより効果的に説得する──を正確に調べることのできる実験だった。この説が正しいとすれば、ディトーの実験参加者たちが見せた偏った思考プロセスは、たとえ自分の幸せや自尊心を護る必要がないときにも同じように現われるはずだ。 その可能性について調べるために、同じ研究室の博士課程の学生メーガン・スミスがトリヴァースとわたしのチームに加わった。わたしたちが考えだした実験方法は、マークという男性が多種多様な行動をとる様子が映る一連の動画を被験者に見せるというものだった。まず被験者全員に、動画の情報だけにもとづいてマークという人物について感想を書くように伝えた。そのうえで一部の被験者のグループには、マークが「好ましくない人物」としてとりわけ説得力のある意見を書くことができれば、報酬を与えると説明した。別のグループには、マークが「好ましい人物」であると説得力をもって主張できれば報酬が与えられると説明した。動画を流す順番にはふたつのパターンがあった。ひとつ目のパターンは、はじめのほうでマークの「好ましい行動」ばかりを流し、後半で徐々に「好ましくない行動」を流すというもの。ふたつ目はその逆。動画をどこまで見るかは被験者にゆだねられ、好きなタイミングで中断して評価を書きはじめることができた。 この研究からいくつかの興味深い結果が導きだされた。まず、すべての動画をしっかりと見てから、自分の意見と一致する行動についてのみ議論することを選ぶ被験者は少なかった。むしろ多くの人は、ディトーの実験の参加者と同じように情報を集めた。はじめのほうで自分が求める意見(マークが「好ましい人物」か「好ましくない人物」か)と一致する行動の映像が流れると、参加者は動画を見るのを早めに中断する傾向があった。一方、冒頭の動画が自分の求める意見と矛盾する場合、説得力のある議論に必要な情報を得ることを願ったのか、彼らはより長く動画を見つづけた。これらの行動に驚くべきところは何もない。では、被験者たちは自分の行動を充分に理解したうえで、ただ効率的に時間を使おうとしていただけなのだろうか? その仮説について調べるために、課題の感想を書きおえた被験者にマークについて個人的な意見を訊いた。答えを分析してわかったのは、偏った情報収集をとおして、多くの人はマークが望むとおりの性格だと自分に言い聞かせていたということだった。つまりマークを「好ましい人間」だと主張すれば報酬がもらえる人々は、その反対の指示を受けた人よりも、よりマークを好ましい人間だと考える傾向が強かった。わたしたちの研究班はさらに、ほかの参加者が抱いたマークの印象を正確に予想することができたら、追加で報酬を与えると被験者に伝えた。すると、大多数は自分と同じ印象を抱いたはずだと答えた。この結果もまた、自らの偏った情報収集に影響を受けていることに多くの人が気づいていない証拠だろう。 最後に、より説得力のある感想を書いたのは、偏った情報収集をした被験者たちであることもわかった。より公平な立場から情報を集めた被験者が書い
た感想は、説得力が低いと評価されがちだった。情報収集が偏っていればいるほど、被験者は自分の意見を強く信じ込ませようとした。「偏った情報収集の中身」と「報酬をもらえると説明されたマーク像」が一致したとき、被験者はもっとも効果的に議論を展開することができた。 これは一実験にすぎないが、「他者をより効果的に欺くために人は自分を欺く」というトリヴァースの説にさらなるお墨つきを与えてくれることはまちがいない。この研究結果はまた、わたしたちが日々の生活のなかで目の当たりにするさまざまな行動の謎を解き明かす助けにもなる。たとえば二〇一六年のアメリカ大統領選挙のあと、〝フェイクニュース〟がトランプの勝利に一役買ったのではないかという懸念が広がった。たしかにその可能性はあるとしても、われわれの研究結果が正しいとすれば、人々は自分が信じたいことに見合った情報を偏って集める傾向があるというのも事実だ。この解釈のとおり、選挙後に行なわれた調査では、フェイクニュースの読者のほとんどは、フェイクニュースで書かれたような内容をすでに強く信じていた政党支持者だったことがわかった。 この調査結果にしたがえば、投票先をまだ決めていない有権者がフェイクニュースに影響を受け、トランプに一票を投じるというような効果はほとんどなかったと考えられる。しかし、すでにトランプ支持に傾いていた人々にとっては強い説得力があった。言い換えれば、自分のもともとの信念と一致した場合にのみ、人々はフェイクニュースを積極的に探し、その内容を信じた。だとすれば、フェイクニュースは有権者の二極化をさらに深めただけだった可能性が高い。わたしが思うに、フェイクニュースによってある有権者の政治思想がまるっきり変わるというケースはじつにまれだったはずだ。この分析は、前述のチップ・ハースの都市伝説の研究結果とも一致するものだ──人々が誇張した物語を伝えようとするのは、誇張によって他者が話し手の感情的な反応を分かち合うことができるようになるからでもある。この意味では、フェイクニュースに人々を結束させる効果があったことはまちがいない。敵対する政党の〝悪事〟への怒りを共有することによって、集団の仲間たちの団結はより深まった。 なぜそのようなバイアスの影響を簡単に受けてしまうのか、と不思議に感じる方もいるかもしれない。しかし、そもそも人間をこれほど賢くさせた進化の圧力について考えてみてほしい。社会脳仮説が提唱するように、われわれがこれほど大きな脳を進化させてきたおもな理由は、社会の荒波を進むためだった。物質的世界における価値とは異なり、社会的世界の価値は客観的な現実だけを反映するものではない。ベルボトムのズボンがお洒落だと決まったら、それがお洒落の定義になる。すぐにベルボトムを手に入れなければ、あなたはディスコの壁の花と化してしまう。社会的世界に存在する価値の多くは、客観的に見つけだされるのではなく、合意によって生みだされる。 その合意を自分に有利に傾くように影響を与えることができたら(つまり、わたしの行為がお洒落とみなされれば)、世界に対する客観的な理解が少しばかり偏っていたとしても、わたしは得をするはずだ。このような理由から、人間の認知機能が客観的現実に部分的にしか制約を受けないように進化してきたのも納得のいく話だ。わたしたちの信念の社会的な影響は、客観的な影響と同じくらい大きな意味をもつ。事実、こう主張してきた研究者もいる──人間の精神が論理的な議論を処理する能力を進化させてきたのは、世界情勢を見きわめるためではなく、自らの利己的な信念が正しいのだと他者を説得するためだ、と。 社会脳仮説はこう提唱する。人類の大いなる発見の数々は、自分たちの疑わしい主張について他者を説得するという先祖たちの行動から生みだされた進化の副産物でしかなかった。これを聞いたわたしの天文学者の弟は言った。「じゃあ NASAは、過去の進化のあいだに登場したすべての利己的な噓つきに感謝するべきだってことかい? そのおかげで、太陽系全体に無人宇宙船を送りだすことができるようになったって?」。この問いに対する答えは、イエス以外のなにものでもない。人間の信じがたい認知能力の進化において、社会性はそれほど重要なものだったのだ。
*1 心の内を共有したいという願望は、トーマス・ズデンドルフが著書『現実を生きるサル 空想を語るヒト 人間と動物をへだてる、たった2つの違い』のなかで定義した、人間特有のふたつの主たる特徴のひとつ。第 6章でくわしく説明する。 *2 正しいかどうかは別として、最初のテストの制作者たちは最近の話題について話すのが正しい答えだと主張した。そこでわたしは、グーグルで「葬式での正しい会話」と検索してみた。スクリーン上に出てきたはじめの四つの答えのうち、三つには「亡くなった親戚の思い出話をする」という内容が含まれていた(四つ目は「故人に祈りを捧げる」)。ここ九〇年のあいだに社会規範は少しずつ変わってきたが、ある社会的状況に対処するための普遍的に正しい方法などほとんど存在しなかった。これからもその状況は変わらないのだろう。 *3 ここで再び、わたしの研究の〝自分サーチ〟の側面が出てくる。 *4 脳のさまざまな領域での代謝活動を観察できる機器。 *5 いまとなっては懐かしい思い出だが、一九六〇年代から七〇年代にわたしが通っていたアラスカ州の学校の校庭をいま誰かが訪れたら、きっと『蠅の王』小学校に迷い込んだのではないかと思うにちがいない。誰かが校庭で鼻血を流していたとしても、多くの教師たちは、氷点下の寒さで休憩時間が終わるまでに固まって止まるだろうと考えていた。そのため、問題が起きても子どもたちのやりたいとおりに解決させた。学校生活は、狩猟採集民の生活について多くのことを教えてくれた──わたしたちもまた、公平な権力者による介入などほぼ望めない状況のなかで、機転を働かせてなんとかトラブルを切り抜けなければいけなかった。 *6 少なくとも、保守派とリベラル派双方の仲間内(同じ党や思想を支持する大切な仲間のあいだ)ではみなそのように考える傾向がある。 *7 リベラル派が保守派よりも幸せである理由はわからないものの、考えられる可能性はいくつもある。多くの保守派は世界が現状(あるいは過去)のままであることを好むが、わたしたちが住む世界は猛スピードで変化している。おそらく、それが彼らを不幸にしているにちがいない。ウォイチックがこの研究をしたときにはバラク・オバマが大統領を務めており、それがリベラル派をより幸せに感じさせていたのかもしれない。ほかにも数多くの可能性が考えられる。しかしここで注目すべきは、データが示す証拠とは裏腹に、保守派がリベラル派よりも幸せだと主張していることだ。自己欺瞞は人間の本質における根本的な一面であり、どれほど自分を偽ろうとするかについては保守派もリベラル派もたいして変わらないはずだ。しかし自分を騙して幸せだと思い込んだとき、リベラル派よりも保守派のほうが得るものは大きくなる。その結果として保守派のほうが、質問されたときに幸せに見せかけようとする傾向が少しだけ強くなるのだろう。 *8 ディトーらが被験者に不必要なストレスを与えているという点において、この実験を非倫理的だと感じる人もいるかもしれない。しかし特筆しておきたいのは、実験が終わるとすぐにディトーは研究の目的を被験者に伝え、病気名や検査はすべて偽だと説明したということだ。当然ながら、被験者は多少のストレスにさらされたが、それは実験中の短い時間だけだった。
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