お腹の中にいる赤ちゃんに話しかけたり、歌を聴かせたりすると、赤ちゃんがお腹の中で動くことがある。すると両親は、こちらの呼びかけに反応したと思って大喜びする。
しかし、喜んでいる両親には言わないほうがいいだろうが、実際のところお腹の中の赤ちゃんはいつもぐっすり眠っている。だから両親の呼びかけはだいたい聞こえていない。
呼びかけに応じるように動いたとしてもそれは偶然であり、レム睡眠中の脳の急激な活動が原因だ。
生まれる前の睡眠
大人は胎児と違い、眠っているときにいきなり手足を動かしたりしない──または、動かさないのが普通だ。その理由は、レム睡眠のときに筋肉が麻痺するメカニズムが働いているからだ。しかし胎児の場合、脳の発達が未熟なので、このメカニズムが確立されていない。
そして妊娠期間の 3分の 2(およそ 23週)がすぎるころには、ノンレム睡眠とレム睡眠を発生させるために必要な神経の大部分が完成する。
このミスマッチのせいで、レム睡眠時の脳の活動がそのまま筋肉に伝わり、お母さんのお腹を蹴ったりすることになるのだ。
お腹の中の赤ちゃんはたいてい眠っている。24時間のうち、ノンレム睡眠とレム睡眠がおよそ 6時間ずつ、そして残りの 12時間はノンレムともレムとも言えない中間の眠りだ。
胎児が覚醒のような状態を経験するのは、妊娠期間の 3分の 2を過ぎてからになる。しかし、起きている時間は思っているよりもずっと短く、 1日に 2時間から 3時間ほどだ。
妊娠後期になれば、トータルの睡眠時間は減ってくるが、それに逆行するようにレム睡眠だけは爆発的に長くなる。妊娠の最後の 2週間になると、胎児のレム睡眠は 1日に 9時間近くにもなる。そして最終週になると、レム睡眠は生涯最長とも言える 1日 12時間だ。
母親のお腹の中にいるときから死ぬまでの間で、ここまで長いレム睡眠を経験する時期は他にない。子宮の中での発達には、それぞれ決まった段階がある。家を建てるのに似ていると言えるかもしれない。
壁や柱をつくらずに、いきなり屋根を載せることはできない。そして家の基礎がなければ、壁や柱もつくれない。家のたとえを使うなら、脳は屋根のような存在だ。発達の段階の最後のほうでつくられる。
そして同じ脳の中でも、さらに発達の段階が分かれている。ここでも家のたとえを使うなら、まず屋根の枠組みをつくって、その上の瓦を載せていくということだ。
脳の発達は、妊娠の 3分の 1を過ぎてから急ピッチで進んでいく。これはレム睡眠の時間が爆発的に増える時期と一致している。もちろん、この一致は偶然ではない。
胎児の脳は、レム睡眠という電気刺激を養分にして成長するからだ。レム睡眠時に発生する活発な電気信号が刺激になり、脳内の神経の通り道が続々と築かれていく。
ここで、レム睡眠はインターネットのサービスプロバイダーだと考えてみよう。
このプロバイダーは、脳内の新しくできた地域に、光ファイバーケーブルのネットワークを構築する。このネットワークに電気を通して、高速インターネットを始動させているのだ。
脳内に無数のつながりが生まれるこの段階は、「シナプス形成」と呼ばれている。シナプスとはニューロンとニューロンの接合部のことだ。この脳のメインフレームを構築する段階では、あえて余分なつながりもたくさんつくっている。
再びインターネットのプロバイダーの例で考えると、地域全体のすべての家に、高速インターネットがつながっている状態だ。
脳内に神経のハイウェイと横道が縦横無尽に張りめぐらされ、そこから思考、記憶、感情、決断、行動が生まれてくる。
この構造を建築するのは重労働であり、だからこそこの時期の脳は、ほぼレム睡眠に支配されているのだ。これは人間だけでなく、他のすべての哺乳類に共通している。
レム睡眠がもっとも増えるのは、脳の発達がもっとも活発になる時期だ。生まれる直前から生まれた直後までの時期は、脳の発達がもっとも活発になる。
この時期の赤ちゃんからレム睡眠を奪うと、いったいどんな結果になるのだろうか。
自閉症スペクトラムとレム睡眠
1990年代、生まれたばかりのラットの研究が始まった。
彼らのレム睡眠を阻害したところ、神経の屋根、つまり脳の皮質がつくられなくなった。脳の建設工事そのものが完全に中断してしまったのだ。
どんなに日がたっても、レム睡眠を奪われた脳は、もうそれ以上の発達を見せることがなかった。同じような現象は、他のさまざまな哺乳類でも報告されている。つまり、すべての哺乳類で共通していると考えていいだろう。
先ほどのラットの赤ちゃんの場合、レム睡眠を復活させると、皮質の建設工事も再開された。しかし建設のペースが上がるわけではなく、脳が完全な発達を遂げることはなかった。
生まれたばかりの時期に睡眠を奪われると、脳の発達の遅れは一生残るということだ。
また最近の研究では、レム睡眠の不足と自閉症スペクトラム( ASD)の関係も指摘されている( ASDと ADHDを混同しないように。後者についてはまた後で詳しく見ていこう)。
自閉症にもいろいろな種類があるが、基本的には発達の初期の段階で現れる神経の疾患のことを言う。だいたい 2歳か 3歳で発症する。主な症状は、社会的なコミュニケーションが困難であることだ。
自閉症の原因は、まだ完全にはわかっていない。
しかし大まかな原因は、発達の初期段階で、脳の配線に誤りがあったからではないかと考えられている。具体的には、シナプスの形成で誤りがあったということだ。つまり、シナプス形成の異常だ。自閉症の人は、シナプスのつながりに偏りがあることが多い。
脳のある部分では多すぎるほどつながりが形成され、そして他の部分ではつながりが少なすぎる。
そこで科学者たちは、自閉症と睡眠の関係に目をつけた。
自閉症の人は、眠り方も普通の人とは違うのだろうか? 研究の結果、自閉症の症状を見せる、または自閉症と診断された乳幼児は、睡眠パターンも、睡眠の量も、普通とは異なっていることがわかった。
それに自閉症児は、概日リズムも同年代の他の子どもに比べて弱い。
概日リズムが力強く働いているのであれば、夜になると大量のメラトニンが分泌され、日中には体内からほとんどメラトニンがなくなるのだが、自閉症児の場合は 24時間メラトニンの量はあまり変わらない。
つまり自閉症の人は、生物学的に昼と夜の明るさの差をあまり感じていないということになる。その結果、眠りを促すサインも、覚醒を促すサインも、普通の人に比べて弱い。
それに加えて、おそらくメラトニンの分泌とも関係があるのだろうが、自閉症児は健常児に比べてトータルの睡眠時間が少ない。
中でもいちばん目を引くのは、レム睡眠の短さだ。自閉症児は、健常児に比べ、レム睡眠の長さが 30 ~ 50%も短くなっている。
レム睡眠が脳の発達で果たす役割の大きさを考えると、レム睡眠の不足が、自閉症と何らかの関係があるのではないかという可能性が浮上してくる。
現在、この点に関する研究が進んでいるところだ。
しかし、観察されている現象はすべて相関関係であり、因果関係が証明されたわけではない。自閉症児にレム睡眠の異常が多いからといって、一方がもう一方の原因になっているとは限らない。それに、たとえ因果関係があったとしても、どちらが原因で、どちらが結果かはわからない。
レム睡眠の不足が自閉症の原因になっているのか、それともその逆なのか? とはいえ、興味深い実験結果がある。
生まれたばかりのラットからレム睡眠を奪うと、脳内のシナプス形成で異常が生じるのだ。
それに加えて、乳幼児期にレム睡眠を奪われたラットは、思春期から大人になると、社会を避けて内にこもるようになるという。
因果関係の問題はあるが、睡眠異常を追跡することで、自閉症の早期発見につながるかもしれない。
アルコールがお腹の赤ちゃんのレム睡眠を奪う
もちろん、お腹の中にいる赤ちゃんは、実験台にされたラットのようにレム睡眠を奪われることはない。
しかしアルコールには、どうやら実験と同じようにレム睡眠だけを奪う力があるようだ。アルコールは、現在わかっているかぎり、もっとも手強いレム睡眠の敵だ。母親が摂取したアルコールは、胎盤を簡単に通過して胎児にまで届く。
そこで科学者たちは、まずは極端なシナリオから検証することにした。
母親が妊娠中にアルコール依存症だった、または大量にアルコールを摂取したというケースだ。
出産直後から新生児の頭部に電極をつなぎ、脳波を観察する。
すると、妊娠中に大量に飲酒した母親から生まれた子どもは、妊娠中に飲酒しなかった母親から生まれた同年代の子どもに比べて、レム睡眠の時間がかなり短くなっていた。
この脳波の測定で、さらに心配な事実も明らかになった。
妊娠中に大量に飲酒した母親から生まれた新生児は、レム睡眠中に発生する電気の質にも違いがあったのだ。
第 3章でも見たように、レム睡眠の大きな特徴は脳波が不規則に激しく動くことだ。
そうやって電気が活発に活動するのが健全な状態である。
しかし、妊娠中に大量に飲酒した母親から生まれた乳児は、そうでない乳児に比べ、この電気の活動量が 200%も少なくなっていた。脳波の動きがなんともおとなしかったのである。
最近の疫学研究により、妊娠中に母親が大量に飲酒すると、生まれてくる子どもは、後に精神神経障害を発症する確率が高まるのではないかと考えられるようになった。
精神神経障害の中には、自閉症も含まれる。幸いなことに、妊娠中に大量に飲酒する母親はほとんどいない。
しかし、たまにワインをグラスに 1 ~ 2杯飲むといった状況はどうなのだろう? 最近では、胎児の心拍数と、身体、目、呼吸の動きを計測することによって、胎児のノンレム睡眠とレム睡眠を見分けることができるようになっている。
ある研究チームが、この技術を使って、生まれる数週間前の胎児を対象に、睡眠状態の調査を行った。
母親がアルコールではない飲料を飲んだときと、グラス 2杯ほどのワインを飲んだとき(母親の体重によってアルコールの摂取量を制限している)にわけて、胎児の睡眠を観察する。
すると、アルコールを摂取した母親の胎児は、アルコールを摂取していない母親の胎児に比べ、レム睡眠がかなり少なくなることがわかった。アルコールはまた、胎児が経験するレム睡眠の質にも影響を与えた。
この計測は、レム睡眠中の胎児の激しい目の動きを基準にしている。
それに加えて、アルコールを摂取した母親の胎児は、レム睡眠中の呼吸が極端に少なくなった。通常の呼吸は 1時間に 381回のペースだが、それがなんと 1時間に 4回にまで減ったのである。
アルコールは妊娠中だけでなく、授乳中も控えたほうがいい。欧米諸国では、授乳中の女性のおよそ半数がアルコールを摂取している。母親がアルコールを飲むと、母乳にもアルコール成分が含まれるようになる。母乳のアルコール濃度は、母親の血中アルコール濃度とだいたい同じくらいだ。
そして最近の研究によって、母乳に含まれるアルコールが乳児に与える影響がわかってきた。
新生児はたいてい、おっぱいを飲んで寝ると、すぐにレム睡眠に入る。母親なら気づいている人も多いだろう。おっぱいを吸うのをやめると、またはときにはやめる前から、赤ちゃんは目を閉じ、まぶたの下で眼球が激しく動くからだ。
母親がアルコールを摂取してから授乳したほうが赤ちゃんがよく眠るという俗説があり、ビールがとくにすすめられているが、これはまったくの間違いだ。
いくつかの研究によると、アルコール成分を含んだミルク(母親が 1杯か 2杯飲んだときの母乳と同じくらいの割合)を飲んだ乳児は、むしろ眠りが断片的になるという。目を覚ましている時間が長くなり、レム睡眠が 20 ~ 30%減少する。
そして体内からアルコールがなくなると、赤ちゃんは失われたレム睡眠をとり戻そうとすることもあるが、まだ脳がしっかり発達していないのでそれも難しい。
これまで紹介してきたような研究でわかるのは、レム睡眠は人間の早期の発達に欠かせないということだ。すべてのレム睡眠に意味がある。
その証拠に、レム睡眠を奪われた赤ちゃんは、なんとかしてとり戻そうとする。
現在のところ、胎児や新生児の時期にレム睡眠を奪われると、成長してからどのような影響が出るか、完全にはわかっていない。
アルコールが関係ある場合も、ない場合も同様だ。
わかっているのは、新生児の時期にレム睡眠を妨害された、または奪われた動物は、大人になってから社会性に異常が見られるということだけだ。
なぜ子どもはなかなか寝てくれないのか
子どもの眠りと大人の眠りのもっとも大きな違いは、眠る回数だ。新米の親なら、日々その違いに翻弄されているのではないだろうか。
工業化された社会では、大人は夜に 1回だけ眠るが、新生児や小さな子どもは多相睡眠だ。つまり、眠りがこま切れで、 1日のうちに何度も寝たり起きたりする。
そして起きるたびに、大声で泣くのだ。
アダム・マンズバックの『とっととおやすみ』(辰巳出版)は、そんな親の嘆きをユーモラスに描いた大人のための絵本だ。
執筆当時、マンズバックは新生児の父親だった。そして多くの新米の親と同じように、彼もまた、夜に何度も目を覚ます子どもに手を焼いていた。娘が起きて泣くたびにあやし、それが毎晩続く。マンズバックはすっかり参ってしまった。
そしてついに、この本を書いて思いの丈を吐き出したのである。この本は、マンズバックが娘に読み聞かせる物語という形式になっている。
新生児を抱える親の多くは、「このお話が最後だからね、コンチクショー。いいからとっとと寝てくれよ」という彼の心の叫びに共感できるだろう。
(個人的には、オーディオブックのバージョンのほうをおすすめしたい。サミュエル・ L・ジャクソンの語りが最高だ)。
ありがたいことに、子どもは成長する。いずれこま切れの眠りではなくなり、大人の眠りに近づいてくる。この変化が起こる理由は、概日リズムの存在だ。
眠りを発生させる脳の部位は生まれる前からすでにできあがっているが、概日リズムをコントロールする 24時間単位の時計(視交叉上核)は、完全に発達するまでにかなり時間がかかる。
概日リズムの兆しが見えるのは、生後 3ヵ月か 4ヵ月たってからのことだ。
視交叉上核は、日光、気温の変化、授乳の時間(授乳が定期的であると仮定して)など、定期的に送られてくる刺激を頼りに、概日リズムの信号を少しずつ発していく。
そうやって 24時間のリズムが確立されていくのだ。そして生後 1年がすぎると、視交叉上核が概日リズムを完全にコントロールするようになる。
つまり、昼は起きていて(多少の昼寝はするが)、夜は眠るようになる。生まれたばかりのころのような、不規則でこま切れの睡眠は、もうほとんどしなくなる。
そして 4歳にもなると、完全に概日リズムに支配された生活を送るようになる。昼は起きていて、夜は眠り、昼寝はたいてい 1回だけだ。子どもはこの段階になると、多相睡眠から二相睡眠に移行する。
そしてもう少し大きくなると、工業化社会の子どもであれば、大人と同じ単相睡眠になる。しかし、この一見すると順調な移行の裏では、ノンレム睡眠とレム睡眠が激しい戦いをくり広げている。
トータルの睡眠時間は成長とともに減っていき、眠りも安定してくるが、ノンレム睡眠とレム睡眠の割合はなかなか安定しない。
生後 6ヵ月の赤ちゃんは、 1日にトータルで 14時間ほど目を閉じて眠っている。ノンレム睡眠とレム睡眠の割合は半々だ。
しかし 5歳になると、 1日の睡眠時間は 11時間で、ノンレム睡眠とレム睡眠の割合は 7対 3になる。
つまり、発達の初期においては、トータルの睡眠時間が減るなかで、レム睡眠の割合が減り、ノンレム睡眠の割合が増えるということだ。この傾向は小児期の初期から中期にかけて続いていく。
そして十代の後期になると、ノンレム睡眠とレム睡眠の割合は 8対 2で安定し、それが中年期まで維持される。
成長期に睡眠の質が激しく変化する
胎児や新生児のころはレム睡眠のほうが圧倒的に多いが、幼児期から思春期にかけてパターンが代わり、今度はノンレム睡眠のほうが圧倒的に多くなる。
その理由はどこにあるのだろうか。
深い睡眠の脳波の強度を数値化すると、まったく同じパターンが見えてくる。
生まれてから 1歳になるまでの間にレム睡眠の強度が下がり、小児期の中期から後期にかけてノンレム睡眠の強度が飛躍的に上がり、思春期の直前でピークを迎え、そこから先は下降していく。
成長期とノンレム睡眠の間には、いったいどんな関係があるのだろうか? 生まれる直前と直後の時期は、脳内を走る神経のハイウェイを大量に建設するという重労働が待っている。
すでに見たように、レム睡眠は、この脳の建設で大きな役割を果たしている。脳内の神経のつながりを増やし、できあがったつながりに適切な量の情報を流している。この発達の最初の時期で、脳内のハイウェイは一気に増える。
すると次の段階で必要なのは、増えすぎたハイウェイを整理することだ。この段階が訪れるのは、小児期の後期から思春期にかけてだ。
この段階の目標は、規模を大きくすることではなく、むしろ規模を小さくして効率性を高めることだ。レム睡眠の力を借りてハイウェイを増やす段階はもう終わりだ。
これからは、ハイウェイの整理が主な仕事になる。そこに登場するのが、深いノンレム睡眠だ。
ここでもまた、インターネットのサービスプロバイダーの例を使って説明しよう。
最初にネットワークを構築するとき、その地区にある家はすべて同じ帯域が割り当てられる。しかし、これは長い目でみると効率的ではない。インターネットをたくさん使う家もあれば、ほとんど使わない家もあるからだ。
家庭ごとのインターネット使用量を推測するには、実際の使用状況のデータを集める必要がある。そしてデータが集まったところで、それぞれの使用状況に応じて帯域の割り当てをやり直す。あまり使わない家は細い線でつなぎ、たくさん使う家は太い線でつなぐのだ。
これはネットワークを最初からつくり直すのではなく、手直しを加えただけだ。元のネットワークのほとんどは残っている。
そもそもプロバイダーはネットワークの構築をこれまでに何度もやっているので、最初からだいたいの予測はついている。
しかし、ネットワークの効率性を最大化したいのなら、実際の使用状況に基づいて手直しを加えることは必須だ。
人間の脳もこれと同じだ。小児期後期から思春期にかけて、実際の使用状況に基づいたネットワークの手直しが行われる。乳幼児期に構築された初期のネットワークも、その大部分はまだ残っている。
母なる自然も、進化の過程という長年にわたる経験を積んでいるので、最初からある程度正しいネットワークを組むことができるからだ。
しかし、それだけではやはり不十分なので、後から修正を加えられるようにもしてある。成長期における個々の経験が、実際の使用状況として記録される。
その使用状況を青写真にして、脳に最後の修正が加えられるのだ。汎用性の高かった脳が、個人用にカスタマイズされるとも言えるだろう。
脳内のつながりを減らしてより洗練させる過程で、深いノンレム睡眠の力が大きな助けになっている。
ノンレム睡眠の役割はさまざまだが(ノンレム睡眠のすべての役割については、次の章で見ていこう)、思春期においてはシナプスを整理するという役割がいちばん大切になる。
睡眠研究の先駆者であるアーウィン・ファインバーグは、画期的な実験によって、シナプスの整理を行っている思春期の脳についてとても興味深いことを発見した。
彼の発見を知れば、思春期の子どもが危ないことをしたり、まずい決断をしたりする理由がわかるだろう。
思春期の心はなぜ不安定なのか?
ファインバーグはまず、 6歳から 8歳の子どもをたくさん集め、睡眠中の脳波を詳細に記録した。半年から 1年ごとに研究室に来てもらい、脳波の記録をくり返す。調査は 10年以上におよび、記録した眠りは 3500日分にもなる。
時間にすると 32万時間分の睡眠記録だ! それらの記録を見れば、思春期から大人へと移行する子どもの脳で、深い睡眠の強度がどのように変わっていくかを読みとることができる。
これは神経科学における定点観測のようなものだ。
自然の同じ景色を長期にわたって観測すると、春になると木々が芽吹き(幼少期)、夏になると葉が生い茂り(小児期後期)、秋になると葉が色づき(思春期)、そして冬になると葉が落ちる(思春期後期から青年期の始め)。
小児期の中期から後期にかけて、脳内では最後の大きな成長が見られる。季節にたとえるなら、晩春から初夏にかけてだ。
そしてファインバーグの観察によると、その後は深い眠りの強度が急激に高くなる。
ちょうど、脳内のつながりを増やす時期から、増えすぎたつながりを整理する時期に切り替わるタイミングだ。季節で言えば秋になる。
そして秋の次は冬がやってくるように、脳内でも木の葉がすっかり落ちて、つながりの整理がほぼ完了する。
ファインバーグの記録によると、この時期に深いノンレム睡眠の強度が落ち、以前のレベルに戻っている。子ども時代の終わりだ。
最後の木の葉が落ち、思春期の脳内では、ネットワークがほぼ完成する。この子どもから大人への移行で大きな役割を果たしたのが、深いノンレム睡眠だ。
ファインバーグの見解では、思春期の不安定さは、深い眠りの強度が変化することと関係があるという。
そして最近の発見でも、彼の説が裏づけられた。
思春期の間、深いノンレム睡眠は、脳の最後の総仕上げを行っている。この段階で、認知スキル、合理的思考、批判的思考が成長を始め、それにつれてノンレム睡眠の割合も変化する。
この切り替わりのタイミングをさらによく見てみると、より興味深い事柄が浮かび上がる。
深いノンレム睡眠の変化は、つねに脳内での認知力の飛躍的な成長につながっているのだ。その間の開きは、数週間から数ヵ月になる。つまり深い眠りが脳の成熟を促しているのであり、その逆ではないということだ。
ファインバーグの画期的な発見は他にもある。
深い眠りの強度が変化するタイミングを、頭部につないだ電極ごとに測定したところ、頭部の位置によってタイミングが異なることがわかったのだ。
脳の成熟につながる強度の変化は、つねに後頭部で始まっていた。ここは視覚と空間認識を司る部位だ。そして思春期を通して、一定のペースで前方へ広がっていく。
もっとも興味深いのは、この脳の成熟過程の終点が、いつでも前頭葉の先端だったことだ。前頭葉は、合理的な思考や批評的な意思決定を司る。
つまり思春期の間は、後頭部は大人だが、前頭葉は子どものままだということだ。
ファインバーグの発見によって、十代の子どもに合理性を求めることができない理由が解明された。合理性を司る前頭葉は、脳の中で大人になるのがいちばん遅いからだ。
もちろん、脳の成熟を促す要素は睡眠だけではないが、大人の理性を身につけるうえで重要な役割を果たしていることは間違いなさそうだ。
ファインバーグの研究は、ある大手保険会社の広告を思い出させる。
「なぜ 16歳の子どもは、まるで脳の一部が欠けているような運転をするのだろうか。それは、実際に欠けているからだ」と、その広告は言っていた。
脳が完全に成熟するには、深い眠りと時間が必要だ。
子どもがやっと 20代半ばになり、自動車保険の保険料が下がったら、睡眠のそれまでの働きに感謝しよう。
ファインバーグが発見した深い眠りと脳の成熟の関係は、現在は世界中の子どもたちの間で実際に観察されている。
しかし、両者の間に因果関係があるということは証明できるのだろうか? 深い眠りと脳の成熟は、たまたま同時期に起こっているだけなのかもしれない。
この疑問に対する答えは、人間の思春期に相当する年齢のネコとラットを使った実験で見つかった。実験でネコとラットから深い睡眠を奪ったところ、脳内のつながりの整理が行われず、成熟が止まったのだ。
このことから、深いノンレム睡眠が、脳の健全な成熟を後押ししているとわかる。この実験では、さらに気がかりな発見もあった。
思春期のラットにカフェインを与えたところ、深いノンレム睡眠が阻害され、その結果として多くの面で脳の発達に遅れが見られたのだ。
それに社会的な行動、他のラットとのグルーミング、外界の探求といった能力も損なわれた。最後の外界の探求は、自発的な学習意欲を測る基準になる。
思春期とうつとノンレム睡眠
子どもの健全な発達を考えるうえで、深いノンレム睡眠の重要性を認識することは欠かせない要素になっている。またそれだけでなく、発達の異常の原因を探るときも、ノンレム睡眠は大きなヒントを提供してくれる。
統合失調症、双極性障害、大うつ病、 ADHDは、小児期や思春期に発症することが多いために、発達異常が原因だと考えられるようになった。
睡眠と精神病の関係については、本書を通して何度か触れることになるが、ここでは統合失調症について少し詳しく見ておこう。
数百人の十代初めの子どもを対象に、脳スキャンを使って神経の発達を追跡するという研究が、これまでに何度か行われている。
彼らが思春期を経験する間、 2ヵ月ごとに脳のスキャンを行うのだ。彼らの中の一定数は、思春期の終わりから青年期にかけて統合失調症を発症した。
統合失調症を発症した人は、脳の発達パターン、具体的には余分なシナプスを削除する過程で異常が認められる。とくに合理的思考を司る前頭葉の異常が顕著だった。そして合理的思考ができないのは、統合失調症の大きな特徴だ。
また別の研究でも、統合失調症を発症するリスクの高い若者と、すでに発症した若者を観察したところ、ノンレム睡眠の長さが通常の 2分の 1から 3分の 1しかなかった。
それに加えて彼らは、ノンレム睡眠中の脳波にも、波形と数という点で異常が見られた。
睡眠の異常が原因で脳の余分なシナプスの削除ができなかったことと、統合失調症の関係は、現在もっとも注目を集める精神病研究の一分野だ。
思春期の夜更かし、朝寝坊は当然のこと
思春期の子どもが十分な睡眠を確保するのに苦労する理由は、他にも2つある。1つは、概日リズムが変化すること。そしてもう1つは、学校の始まる時間が早すぎることだ。
学校の始まる時間が早すぎるという問題は、前者の概日リズムの変化とも密接に関係している。
あなたも記憶にあるだろうが、小さい子どもはできるだけ遅くまで起きていたいと思っている。
それはテレビを見るためであり、または大人や年上のきょうだいと一緒に起きていたいからだ。とはいえ、遅くまで起きていることを許されても、眠気には勝てず、ソファの上や床の上で寝てしまう。
そして自分でも気づかぬまま、両親や上のきょうだいにベッドまで運んでもらうのだ。
小さな子どもが早く寝てしまう理由は、ただ単に上のきょうだいや大人よりも睡眠を必要としているからではない。小さな子どもは、概日リズムのスケジュールが大人よりも早いのだ。
そのため、大人よりも早く眠くなり、そして大人よりも早く目が覚める。しかし、それが思春期になると概日リズムに変化が起こる。視交叉上核にある時計が先に進むのだ。
この変化は、文化や地域に関係なくすべての思春期の子どもに共通している。
むしろ進みすぎて、両親の時計を追い越すほどだ。
9歳児の概日リズムであれば、午後 9時ごろには眠くなる。メラトニンの分泌量がこの時間になると増えるからだ。その同じ子どもが 16歳になると、概日リズムの時計が一気に進む。
そのため、午後 9時になっても、メラトニンが増えないので一向に眠くならない。むしろまだ覚醒のピークの状態だ。
そして午後 10時か 11時になると、そろそろ両親はメラトニンが増えて眠くなる時間だが、 16歳の子どもはまだまだ元気いっぱいだ。
10代の子どもの脳が眠くなるのは、それからさらに数時間後になる。この現象は、関係するあらゆる人を困らせる。
両親は、 10代の子どもが朝なかなか起きないと腹を立てる。しかし当の子どもは、概日リズムに従えばまだ寝ている時間だ。それをむりやり起こすのは、冬眠中の動物を春が来る前に起こすのに似ている。
それでもまだピンと来ないという親御さんのために、こう説明しよう。
10代の子どもにとって、夜の 10時に寝るというのは、あなたにとって夜の 7時か 8時に寝るのと同じことなのだ。
だから、あなたがどんなにガミガミ言っても、または子どものほうでもどんなに親の言う通りにする気持ちがあっても、それだけで子どもの概日リズムが奇跡のように変化することはない。
ちなみに、子どもにとって朝の 7時に起きることは、あなたにとっての 4時起きか 5時起きと同じことだ。そんな時間にすっきり起きて、朝から元気で機嫌良くするのはなかなか難しいだろう。
悲しいことに、大人も社会も、 10代の子どもが大人よりたくさんの睡眠を必要とすること、そして睡眠をとる時間が大人とずれていることを理解していない。
子どもの夜更かしや朝寝坊にイライラする親の気持ちもよくわかる。親の目から見れば、子どものだらしなさがすべての原因であり、まさか身体のしくみのせいだとは思いもよらないからだ。
あなたが 10代の子どもをもつ親であるなら、生物学的な事実を受け入れてしまうのが賢い選択だろう。むしろ自然なリズムの眠りを子どもに推奨しよう。
脳の発達異常や、精神病のリスクを高めるぐらいなら、夜更かしと朝寝坊のほうがずっといいではないか。10代の子どもの概日リズムも、年齢を重ねるにつれてまた時計の針が巻き戻される。子ども時代まで巻き戻されることはないが、親たちと同じくらいにはなる。
そして今度は自分が親になり、概日リズムの違う 10代の子どもにイライラするのだ。しかし、そもそも思春期の脳は、なぜこのような概日リズムになるのだろうか。そして大人になると、なぜ概日リズムの時計が巻き戻されるのか。
この点についてはまだ研究が続いているが、ここでは社会進化論的な観点から1つの答えを紹介したい。
思春期における発達でいちばん大切なのは、両親に依存した状態から、独立した状態に移行することだ。それと並行して、友人関係などの複雑な人間関係についても学んでいかなければならない。
思春期になると親よりも寝る時間が遅くなるのは、おそらく自然が授けてくれた、親と離れる手段でもあるのだろう。自然は賢いので、親よりも数時間だけ遅くまで起きているという安全な方法で、独立する道を用意してくれた。
親の庇護から完全に離れるわけではない。ただ完全に大人になる前に、親の目を離れる経験をするだけだ。
もちろんそこにはリスクもある。しかし、依存から独立への移行を避けることはできない。そして独立の第一歩は、夜の時間に踏み出されるのだ。
中年期から老年期の睡眠と寿命
中年以上の人なら悲しいほど実感しているだろうが、眠りの問題は年をとるほど増えてくる。とはいえ、中年以降であっても、若い人と同じくらい睡眠は必要だ。
その科学的な根拠については、また後で見ていこう。
しかしその前に、中年の睡眠を阻害する主な要因を指摘しておきたい。それは、睡眠の量と質が低下すること、睡眠の効率が低下すること、そして睡眠のタイミングが妨害されることだ。
思春期が終わり、 20代の初めになると深いノンレム睡眠が安定するが、この安定もそれほど長くは続かない。睡眠の大規模な後退期は、あなたが思っている(または、望んでいる)よりも早くやって来る。とくに大きな打撃を受けるのが深い睡眠だ。
レム睡眠は中年期になってもずっと安定しているが、深いノンレム睡眠の減少は、 20代の終わりから 30代の初めですでに始まっている。そして 40代になると、ノンレム睡眠中に発生する電気の量も質も低下する。
深い眠りの時間が短くなり、深いノンレム睡眠の脳波も小さくなる。パワーを失い、回数も少ない。40代の半ばから終わりになると、 10代のころに比べて、深い眠りが 60 ~ 70%も減少する。そして 70歳になるころには、 80 ~ 90%の減少だ。
当然ながら、当の本人は寝ているときも、または朝起きたときでさえ、睡眠中の電気信号の質まではわからない。それはつまり、年をとって深い睡眠の質が低下したことに、本人は気づいていないということになる。これは大事な点だ。
中年期以降の睡眠の悪化が健康の悪化につながることは、専門家の間では何十年も前から知られていたが、本人はその 2点を結びつけることができないのだ。
彼らは身体の不調を訴えて病院に行くが、睡眠の不調を訴えることはない。そのため医師のほうも、高齢者の睡眠の問題を放置してしまうのである。
加齢による睡眠の変化には、もう1つ大きな特徴がある。睡眠がこま切れになることであり、これは自覚している人も多いだろう。年をとるほど、夜中に目を覚ます回数が多くなる。考えられる原因は、服用している薬や病気も含めてたくさんある。
しかしいちばんの原因は、膀胱が弱くなることだ。トイレが近くなるせいで、夜中に何度も起きることになる。夜に水分を摂るのを控えればある程度の効果はあるが、完全に解決できるわけではない。睡眠がこま切れになると、睡眠の効率性も低下する。
睡眠の効率性とは、寝床で横になっている時間の何%実際に眠っているかということだ。寝床で横になるのは 8時間で、寝ている時間も 8時間なら、睡眠効率は 100%だ。しかし 4時間しか寝ていないのなら、睡眠効率は 50%にしかならない。
健康な十代の子どもであれば、睡眠効率はだいたい 95%だ。質のいい睡眠の基準の1つに、睡眠効率が 90%かそれ以上という数字があげられる。そして 80代の高齢者の睡眠効率は、 70 ~ 80%だ。悪くない数字だと思うかもしれない。
しかし寝床で横になっているのが 8時間なら、そのうちの 1時間から 1時間半は寝ていないということになる。睡眠効率の低下は、軽く扱っていい問題ではない。
数万人の高齢者を対象にした調査でもそれは明らかだ。BMI、性別、人種、喫煙歴、運動の頻度、飲んでいる薬などの条件で調整を加えても、睡眠効率が低くなるほど死亡率が高くなるという結果になった。病気やうつ病のリスクが高く、エネルギーが低く、認知力が低く、物忘れも多い。
年代に関係なく、慢性的に睡眠がこま切れになっている人は、心身の不調、頭がぼんやりする、物覚えが悪いといった症状を訴える。
高齢者でこういった症状が出ることの問題は、それを見た身近な家族などが、すぐに認知症だと思い込んでしまうことだ。睡眠が原因かもしれないとは考えない。
睡眠に問題のある高齢者でも、そのすべてが認知症を発症しているわけではない。とはいえ、睡眠と認知症の間には深い関係がある。
そのことについては第 7章で詳しく見ていこう。
高齢者のこま切れ睡眠には、もっと直接的な危険もある。夜中にトイレに行くときに、転んだりして骨を折ることだ。夜中に起きたときは、たいていの人が頭がぼんやりして、身体もうまく動かない。それに加えてあたりは真っ暗だ。さらに、さっきまで寝ていたのに急に立ち上がると、頭から血が下がって立ちくらみのような状態になる。
とくに高齢者は血圧のコントロール機能が下がっているので、立ちくらみの危険は大きい。
以上のような理由により、高齢者ほど、夜中にトイレに起きると転んで骨折する危険が高まるのだ。骨折すると身体を動かせないので、そのまま寝たきりになり、ひいては死期を早めることになる。
なぜ年をとると朝が早くなるのか
加齢による睡眠の変化の3つ目は、概日リズムだ。思春期の子どもとは対照的に、高齢者は寝る時間がどんどん早くなる。その原因は、年をとると、メラトニンの分泌が始まる時間と、ピークを迎える時間が早くなることだ。
高齢者が多い街のレストランは、昔から高齢者のこの睡眠パターンを考慮して、朝早くから開店して「モーニングスペシャル」を用意している。
加齢による概日リズムの変化に、とくに害はないと思うかもしれない。しかし、高齢者が睡眠(と覚醒)でさまざまな問題を抱えるようになるのは、たいていこれが原因だ。ほとんどの大人は、夜遅くまで起きていたいと思っている。
舞台や映画に出かけたり、社交の集まりに出たり、読書をしたり、テレビを見たりしたいからだ。しかしそうは思っていても、劇場の椅子やカウチの上でいつの間にか寝てしまう。
概日リズムの変化によりメラトニンの分泌が早くなったからであり、本人の意思ではどうにもならない。居眠りぐらいは大した問題にならないと思うかもしれないが、そんなことはない。夜の早い時間に居眠りをすると、そこで貴重な睡眠圧を無駄づかいしてしまう。
せっかく 1日かけて蓄積してきたアデノシンが一掃され、眠気が消えてしまうのだ。その数時間後、今度は本格的に寝ようと思ってベッドに入っても、睡眠圧がまだ高まっていないので寝つきが悪くなり、眠ってもすぐに目が覚めてしまう。そして「自分は不眠症だ」という間違った思い込みが生まれるのだ。
どうやら宵の口の居眠りは、本人の中で眠りに入っていないようだ。しかし、その居眠りこそが夜よく眠れない原因であり、この症状を不眠症と呼ぶことはできないだろう。そして、朝になると、問題はさらに悪化している。
前の晩になかなか寝つけず、すでに睡眠負債ができているのに、概日リズムの力で朝の 4時か 5時には目が覚めてしまう。
第 2章でも見たように、概日リズムは睡眠圧システムの影響を受けないので、実際の眠気とは関係なく、決まった時間になったら目覚めるようになっているからだ。
そして高齢者の場合、その時間は朝の 4時か 5時になる。そのため高齢者は、朝は概日リズムの命令で早く目が覚めてしまい、睡眠負債を返すために二度寝することはできない。
さらに悪いことに、年齢を重ねると、概日リズムの強さも、メラトニンの分泌量も減少する。以上のすべてを合わせると、睡眠負債が雪だるま式に増えていくサイクルのできあがりだ。
宵の口にうとうと居眠りし、そのために夜になっても寝つけず、そして朝は概日リズムのせいで早く目覚めてしまう。高齢者は朝が早いので、午前中に活動することが多い。しかしこれでは、早寝早起きの生活リズムが確立してしまう。
とはいえ私は、高齢者が午前中に身体を動かすことに反対しているわけではない。運動はいい眠りにつながり、高齢者の場合はとくに効果が大きい。
そこで私から2つのアドバイスがある。
1つは、午前中に外で運動するときにサングラスをかけること。こうすれば、脳内の視交叉上核に届く光が抑えられる。もう1つは、夕方近くに外に出て、サングラスをかけずに日光を浴びること。
帽子などの紫外線対策は必要だが、サングラスは家に置いていこう。午後の遅い時間にたっぷり日光を浴びると、メラトニンが生成される時間が遅くなり、夜に眠くなる時間を遅くすることができる。
また高齢者は、医師に相談して、夜にメラトニンのサプリを摂取することを検討してもいいかもしれない。
中年までの年代であれば、メラトニン・サプリを摂取しても時差ボケ解消以外でほぼ効果は期待できないが、高齢で概日リズムが弱くなっている場合は効果的だ。
メラトニンを摂取したことにより、寝つきがよくなった、ぐっすり眠れるようになったという効果が報告されている。
高齢者が抱える睡眠の問題は大きく分けて3つあり、そのうちの寝る時間が早くなる、睡眠がこま切れになるという2つの問題は、加齢によって概日リズムが変化すること、そして夜中にトイレに起きる回数が増えることで説明できる。
しかし、深い睡眠の長さと質が損なわれるという、根源的な問題についてはまだ謎のままだ。高齢になると深い睡眠が阻害されるという現象は、かなり前から専門家の間で指摘されていた。しかしその原因となると、まだはっきりわかっていない。
どうして人は年をとると、この貴重な眠りを失ってしまうのだろうか? もちろん科学的な探究心もあるが、それ以上に、これは高齢者医療にとって喫緊の課題でもある。
深い眠りには、学習や記憶を司るという大切な役割があり、心血管や呼吸器から、代謝、エネルギーバランス、免疫機能まで、全身の健康にとっても必要であることは言うまでもない。
加齢によるもの忘れと睡眠の関係
私は数年前、きわめて優秀な若手研究グループの助けを借りて、この問題の解決に乗り出した。そのとき私は、加齢による脳の劣化が、睡眠の質の変化に関係があるのではないかという仮説を立てていた。
第 3章でも見たように、深いノンレム睡眠が出す力強い脳波は、脳の前方から出ている。ちょうどおでこの真ん中あたりだ。
研究開始の時点で、加齢による脳の衰えは、すべての部位で同時に進行するわけではないということはわかっていた。ニューロンの減少が早く始まり、減少のペースも速い部位もあれば、そうでない部位もある。このニューロンの減少は、脳の萎縮と呼ばれている。
脳のスキャンを数百回行い、合計して数千時間もの睡眠の記録をとった結果、私たちは明確な答えを発見した。答えは、大きく3つのパートに分けられる。
第 1のパートは、加齢による劣化がもっとも大きな部位が、不運にも深い睡眠が生まれる部位だったということだ。
加齢によって劣化した部位を記した脳の地図と、深い眠りが生まれる部位を記した若い人の脳の地図を重ねると、2つの部位はほぼぴったりと同じ場所になる。
第 2のパートは、若い人と比べると、高齢者は深い睡眠の 70パーセントを失っているということ。これはとくに驚くような結果ではないだろう。
そして最後の第 3のパートが、もっとも重要な発見だ。これらの変化は別々に起こるのではなく、互いに深く関連しているのだ。
おでこの真ん中あたりにあたる脳の部位の劣化が激しいほど、深いノンレム睡眠の喪失も大きくなる。
悲しいことではあるが、この発見によって私の仮説の正しさが証明されてしまった。
健全な深いノンレム睡眠を生み出すまさにその場所が、加齢による萎縮がもっとも激しい場所でもあるのだ。新しい記憶を脳に刻みつけるうえで、深い睡眠が重要な役割を果たすということは、この実験を始める前からすでに解明されていた。
そこで私たちは、この事実を踏まえたうえで、高齢者の脳の研究にひねりを加えることにした。
就寝する数時間前に、被験者の高齢者のすべてがいくつかの新しい情報を学習し、その直後でテストを受け、どれぐらいの新情報が定着したかを判定する。
その日の睡眠の脳波をとり、そして翌朝、また前の晩と同じテストを受ける。
2度目のテストで判定するのは、睡眠中にどれだけの新情報を維持できたかということだ。テストの結果、高齢者は若い人に比べると、睡眠中に維持できる新情報の量がかなり少ないことがわかった。その開きは 50%にもなる。
それに加えて、高齢者は深い眠りが少なくなるほど、寝ている間に失われる記憶も増えるということもわかった。高齢になって眠りが浅くなり、物忘れが激しくなるのは、無関係な現象ではなかったということだ。
この実験のおかげで、人の名前が思い出せない、病院の予約を忘れるといった高齢者によくある物忘れを、新しい角度から眺めることができるようになった。
ここで大切なことを指摘しておきたい。
高齢による脳の劣化は、深い睡眠が失われる理由の 60%でしかないのだ。これはもちろん重要な発見だが、残りの 40%にも注目しなければならない。40%の正体はまだわかっていないが、研究は盛んに行われている。
最近、私たちの研究でも、1つの要因が発見された。
アミロイド βと呼ばれる、毒性のあるネバネバしたタンパク質が脳内で増えることが、アルツハイマー病の大きな原因になっているのである。
この発見については、後の章で詳しく見ていく。
高齢者ほど睡眠を必要としている
このように、高齢になって認知力が低下したり、病気が増えたりするのは、睡眠の質の低下が大きな要因になっているのだが、その事実はまだまだ広く知られていない。
糖尿病、うつ病、慢性的な痛み、脳卒中、心血管疾患、アルツハイマー病などは、睡眠と深い関係があると考えられている。
そのため私たち専門家にとっての急務は、高齢者が質の高い睡眠を回復する方法を見つけることになるだろう。
開発中の方法の中で有望なのは、睡眠中の脳に電気的な刺激を与えるという方法だ。加齢によって減少した脳内の電気を、人工的な電気で補うことを目指している。こうして深い睡眠時の脳波を強化すれば、記憶力の維持につながると考えられる。
研究はまだ始まったばかりだが、これまでのところ希望の光は見えている。
しかし、道のりはまだまだ遠い。
私たちの発見が他の研究によっても確認されれば、高齢者の睡眠時間は少なくていいという根強い誤解を解くことができるだろう。この誤解が生まれたのは、単純な観察の結果でしかない。
たしかに 80歳の人は、 50歳の人よりも睡眠時間が少ないが、だからといって高齢者の睡眠が少なくてもいい理由にはならない。
この説を信じる科学者は、たいてい次のような根拠を主張する。
第一の根拠は、高齢者の睡眠時間を少なくしても、基本的な反応速度は、若い人に比べてそれほど落ちないということ。つまり、高齢者は、若い人よりも睡眠時間が少なくてもいいということだ。
第二の根拠は、単純に高齢者は若い人よりも睡眠時間が少ないということ。睡眠時間が少ないのは、きっと若い人ほど睡眠を必要としないからだと考えられる。
そして第三の根拠は、高齢者は一晩徹夜しても、若い人ほど睡眠リバウンドが大きくないということ。失われた睡眠をとり戻そうとする力が弱いということは、そもそも睡眠をそれほど必要としていないと考えられる。
しかし、以上のような根拠がすべてではなく、他の説明も考えられる。
まず、高齢者の場合、反応速度を判定の基準にするのは危険だ。というのも、高齢者は睡眠に関係なく、元から反応速度が下がっているからだ。冷たい言い方になるかもしれないが、若い人と違って、もうこれ以上落ちようがないということになる。いわゆる「床効果」と呼ばれる現象だ。
反応速度の落ちる余地があまりない状況であれば、睡眠不足の影響を測ることは難しいだろう。
次に、高齢者の睡眠時間が少ないからといって、または睡眠を奪われた後のリバウンドが弱いからといって、必ずしも睡眠への「ニーズ」が減ったという意味にはならない。
むしろ、睡眠はまだ必要としているが、身体の機能の衰えによって、必要な睡眠を生み出せないだけかもしれない。
ここで、骨密度を例に考えてみよう。
骨密度は若い人のほうが高く、加齢とともに下がっていく。しかしだからといって、高齢者は骨が弱くてもかまわないとは考えないだろう。または、高齢者の骨が弱いのは、単に骨折からの回復が若い人に比べて遅いからだとも考えないはずだ。
睡眠の質の低下も、骨密度の低下と同じように扱われるべきだ。高齢者も、若い人と同じように睡眠を必要としているのである。
そして最後に、私たちが行っている脳に電気刺激を与える実験では、むしろ高齢者こそ睡眠を必要とすることを示唆する結果が出ている。
たとえ人工的な刺激のおかげであっても、睡眠が改善することによる利益は大きいからだ。もし高齢者に質の高い睡眠は必要ないのなら、すでに現状で満足しているはずだ。人工的な刺激の恩恵もそれほど大きくならないだろう。しかし実際のところ、恩恵は大きい。
つまり、高齢者、中でも何らかの認知症の症状を見せている高齢者は、睡眠が足りていない状態だと考えられる。
そしてそこから、認知症の治療で新しい可能性が見えてくるのではないだろうか。この点については、後でまた見ていこう。
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