なぜ組織には適材適所が必要なのか 組織というのは不思議なもので、素晴らしい才能や資質を持ち合わせた選手ばかりを集めたとしても、チームとして機能するとはいえない。
その典型が 90年代にフリーエージェント( FA)とトレードで 4番バッターばかりを集めた巨人だろう。
主力級の選手を集めたからといって、優勝回数を重ねて、黄金期を築くことにはならなかった。
FAでは広沢克実(ヤクルト)、清原和博(西武)、江藤智(広島)、トレードなどで石井浩男(近鉄)、ロベルト・ペタジーニ(ヤクルト)、タフィ・ローズ(近鉄)、小久保裕紀(ダイエー)といった、それぞれ所属したチームで 4番を打った経験のある選手をこぞって獲得したのだが、 1997年から 2006年までの 10年間で優勝したのは、 2000年と 02年のわずかに 2回だけだった。
野球には9つのポジションがある。
打順も 1番から 9番まであり、それぞれに役割や適性がある。
1番バッターでいえば、長打力はないものの、俊足で選球眼がよく出塁率の高い選手、 2番バッターならば送りバントやヒットエンドランなど、小技のうまい選手、という具合に適正な配置を考えるべきなのだ。
それを 1番から 8番まで、 4番バッタータイプをズラリと並べたからといって、そのチームが優勝できるとはかぎらない。
どんな組織であっても大切なのは、適材適所の考え方だ。
それぞれが組織内での自分の役割を認識し、それを徹底的に模索することで組織も強くなっていく。
チームは機能性と協調性である。
指揮官の視点に立てば本来、長距離バッターばかりで個々の特徴に差異がない戦力は扱いづらいものだ。
それよりも、走力がずば抜けた選手、強肩で守備力に長けた選手、左ピッチャーにはとにかく強いバッター……などといったように、さまざまな特徴をもった選手たちがいる組織のほうが扱いやすいし、そういった組織のほうが機能する。
私のこれまでのプロ経験からみて適材適所で理想的なのは、 V 9時代の巨人である。
1番は俊足巧打の柴田勲、 2番は堅実な守備と小技が得意な土井正三、 3、 4番に ONをはさんで末次利光、高田繁、黒江透修、森祗晶と並ぶオーダーはまさに適材適所だ。
当時の巨人は、「王と長嶋がいたから勝てた」、「あれだけの実力者がいたら V 9はできて当たり前」などという言われ方をされることもあるが、とんでもない話だ。
ONという真の中心的選手がいるなか、その前後を固める選手たちがそれぞれの特徴があって、首脳陣から求められる役割をきちんと理解していたからこそ、リーグ優勝、ひいては日本シリーズで 9連覇という前人未到の記録を成し遂げることができたのだ。
無論、適材適所の重要性を見抜いて 1番から 8番までつながりのあるオーダーを組み、それぞれのバッターに合った役割を徹底させた川上哲治監督の眼力と手腕も見逃せない。
これは何も野球にかぎった話ではなく、一般社会における組織においても同様のことがいえる。
人間にはそれぞれ異なった個性や才能がある。
それを指導者が正しく見抜いて、適したポジションに配置して、個々のはたすべき役割を明確にしてあげることが必要だ。
そうすれば、個々の人材は、明確になった組織内での自分の役割を徹底しやすくなるはずだ。
まずは指導者が部下の個々の特性を見抜く、このことが組織運営のスタートといってもいいのだろう。
動きたがる指揮官はヘボである 監督の試合での仕事は状況に応じた選手起用や、送りバント、ヒットエンドランやスチール、スクイズなどの作戦を決めることである。
監督によって、オーソドックスな戦術のタイプもいれば、奇策をよく用いるタイプもいるが、私がよく言ったのは、「動きたがる監督はヘボだ」ということである。
これは自分への戒めでもあるが、監督というものは、自分の作戦がうまくいった快感が忘れられず、何か策を実行したくなり、試合への参加意識が働くものだ。
しかし、そういった指揮官の自己顕示欲や思いつきで実行に移した作戦は、成功率が低く、チームの機能性を低下させる。
私はよく、「野村監督は何をしてくるかわからない」というように、策略家のイメージで取られることが多いが、実際には、それほど奇策を使ったりはしていない。
ただ、「何かやってくるかもしれない」と相手に警戒させるように、仕向けていたことは事実だ。
春季キャンプの中盤から終盤になると、各チームのスコアラーが視察に訪れて、戦力チェックを行なうものだ。
とくに新人選手や新外国人選手など、昨年まで所属していなかった選手が新戦力としてどれだけ活躍しそうか、あるいはウィークポイントはないのか、そうした点をつぶさにチェックして、自分のチームの首脳陣に報告する役割を担っているのだ。
そうした時期に私は、いままで一度もやったことがない特殊なサインプレーをあえてやってみることがあった。
それを見た他チームのスコアラーは当然チェックし、自分のチームに帰ったときに「今年の野村監督はこんな奇策をします」と報告することを狙う意味もあったからだ。
そしてオープン戦で 1試合でもその奇策をわざとやると、「シーズン中もこんな手を使ってくるかもしれない」と他のチームはこぞって警戒するようになる。
そうやって警戒させ、相手を惑わすだけでも十分な効果がある。
そして実際シーズンでは、「何かやってきそうだ」と思われながらも、私はあまり動く監督ではなかった。
とくに奇襲作戦などは、相手チームとの実力差を考えたときに自チームが圧倒的に劣っているときしか必要性がない。
実行に移しても、成功する確率は低くリスクは高い。
むしろ大切なのは、「動くと見せかけて、相手を混乱させること」にあると考えていたのだ。
リーダーは派閥をつくってはならない 私は南海、ヤクルト、阪神、楽天での監督時代、けっして派閥をつくらなかった。
コーチとも食事に行くことはないし、ましてや飲みに連れて行くことも一切しない。
これは私が南海時代に仕えた監督、「親分」と言われた鶴岡さんを反面教師にしたからにほかならない。
私が南海の選手だったある年の正月、鶴岡監督の家に挨拶に行ったことがあった。
玄関にはサイズの大きな靴がズラリと並べられ、部屋の奥から大きな声が聞こえてくる。
鶴岡さんが出てきて「あけましておめでとうございます」と私が言うと、「おお、ご苦労さん」と言ってくれたものの、その後は沈黙して妙な空気が流れた。
なんだか私が上がってもいいという雰囲気ではなかったので、「では失礼します」と言って、鶴岡邸をそそくさと後にした。
実に後味の悪い正月の挨拶回りだったが、しばらくしてから「あれは派閥だったんだ」ということに気がついた。
監督と選手が親分・子分の関係をつくると、そのなかにいる選手だけで結束する。
だが、派閥に入れなかった選手は疎外感をもつことになる。
そこからチームの結束力が崩れることもある。
私が南海の監督を退任した 1978年以後の 11年間、広瀬叔功、穴吹義雄、杉浦忠と鶴岡人脈の監督が誕生したが、誰一人として優勝はもとより、チームを Aクラスに導くことすらできなかった。
そして 88年を最後に南海はダイエーに身売りされ、 97年まで 20年連続で Bクラスという不名誉な記録をつくった。
これはプロ野球のワースト記録としていまなお残っている。
こういったことも、派閥人事の弊害だったと私は考えている。
とくに監督人事などは、派閥など情によって流されてはいけないものだ。
適性のあるものがその任に当たらなければ、組織は必ず腐っていくことになる。
南海と同様に阪神も派閥で固める人事で有名だった。
藤村富美男さん、別当薫さんに始まって、金田正泰さん、吉田義男さん、小山正明さん、村山実。
とくに吉田さんと小山さんと村山の 3人が選手食堂にいると、きっちり3つのグループに選手たちの輪が分かれていたそうだ。
1968年に法政大学から鳴り物入りで入団した田淵幸一にいたっては、入団直後にいきなり「お前は村山派か、それとも吉田派なのかどっちだ?」とチーム関係者から質問されたという。
これには田淵もただただ苦笑いするしかなかったようだ。
昭和 40年代は巨人が V 9を達成したが、その間阪神が一度も優勝できなかったのは、チームとしてまとまりが欠けていたという点も見逃してはならない。
このように過去の派閥人事の失敗を目の当たりにした私は、自分が監督になってからも、派閥を一切つくらなかった。
それにコーチや選手が、「彼は野村派の人間だ」という見られ方をされてしまうと、その人間にとっても不幸なことだ。
私も、そのコーチや選手とともに、永久に仕事ができるわけではない。
それなのに、野村派というレッテルを貼られてしまうと、どんなに能力が高くても他チームの監督などから敬遠されてしまうことだってあるかもしれない。
それではそのコーチや選手の未来の可能性を狭めてしまう結果となってしまう。
リーダーはそういった視点でも部下とのつき合い方を考え、派閥をつくることだけは慎まなければならないと私は考える。
野村門下生への大事な注意事項 手前味噌で恐縮だが、野球界にはいま、私が指導した人間たちが各球団の指導者として多数活躍している。
2014年時の状況だけをみても、古巣のヤクルトでは監督だった小川淳司を筆頭に多くの人間が、巨人では 1軍バッテリーコーチの秦真司や 1軍バッティングコーチの橋上秀樹、阪神では 1軍ヘッドコーチの黒田正宏や 1軍バッテリーコーチの山田勝彦、 1軍バッティングコーチの関川浩一ら、枚挙に暇がない。
世間では「野村門下生」と呼んでいるようだが、これだけ数多くの人材が球界でいま指導者として活躍できるのは、私がミーティングを通じて基本の部分をみっちり教えたからだと、ある教え子から聞かされうれしく思ったものだ。
私がミーティングで教えることは野球のノウハウだけではない。
一社会人として恥ずかしくないよう、「人生とは」、「仕事とは」といった部分も繰り返し問いかけ、考える機会を与えてきた。
野球のことに関しても、「野球とは」からはじまり「チームとは」、「ピッチャーとは」、「キャッチャーとは」、「内野手とは」、「外野手とは」、「バッターとは」、「走塁とは」といった具合に、根本的な部分をみっちり教えてきたつもりだ。
こうした基本の部分があるからこそ、私の教え子たちは指導者になっても、自分なりの考えをもつことができ、自信をもって選手たちに指導できるのかもしれない。
シーズンオフになると、指導者としての進路が決まったかつての選手たちが、毎年のように私のもとに挨拶にきてくれる。
とてもうれしいことではあるが、そのとき私はいつも、一つだけ彼らに注意することがある。
それは、「新しいチームで自分の考えを言うとき、オレの名前は出すな。
自分の考えとして話せ」 ということだ。
たとえば所属先のチームでバッテリーコーチに就任したとしよう。
何か意見を言うときに、「野村監督はこんなふうに考えていた」「野村監督は、こんなときこう言っていた」 などと言っていたら、いまのチームの監督はどう思うだろうか? また他の首脳陣はどう思うだろうか? そしてそれを聞いた選手たちはどう思うだろうか? 何もいいことはないだろう。
「野村さんはそう言ったかもしれないけど、ここではここのやり方がある」などと反発されるだけだ。
コーチとしてチームに在籍することになったときに、真っ先に考えなくてはならないのは、「所属したチームの監督の野球観」を順守するということだ。
それをないがしろにしたら、コーチなど務まらない。
どんなときも「自分はこう考える」と、自分の意見を伝えなさいと、新天地に赴く指導者たちに私は言っている。
キャッチャーの成長が組織の成長 昔の野球は「優勝チームに好投手あり」と言われていたが、近年は「優勝チームに名キャッチャーあり」と言われるようになってきた。
私から見たらまだまだ物足りないものの、 2013年日本一になった楽天の嶋基宏や巨人の阿部慎之助など、しびれるような修羅場を数多く経験したキャッチャーは、次第に観察力や判断力も向上してきている。
いまはバッターのバッティング技術が向上し、ウェイトトレーニングなども進んできて飛距離もだいぶ伸びてきた。
昔のようにピッチャーが力で、バッターをねじ伏せることは容易ではなくなってきたのだ。
一部の好投手を除き、多くのピッチャーが頭を使った配球とコントロールで勝負するようになってきており、まさにキャッチャーのはたす役割は大きくなってきたのだ。
そのため、どのチームにおいても優秀なキャッチャーの育成が急務なのであるが、キャッチャーを育てるというのは、他のポジションの選手を育てるより、何倍も難しい。
キャッチャーとは、さまざまな経験によって成長するポジションだからだ。
配球を組み立てたり、相手選手のちょっとしたしぐさから何かを読み取ったりするような作業は、さまざまな実体験を経て、積み上げられた経験則からはじき出されるものであって、練習したから身につくようなものでもなかなかない。
そういう理由から、キャッチャーの育成には時間と手間がかかる。
もし、優秀なキャッチャーを育て上げられれば、チームづくりの 5割はできたと思ってもよいだろう。
それくらい、チームにとってキャッチャーは大事だ。
試合中はグラウンド上で、監督とほとんど同じようなことをしているのがキャッチャーだからだ。
キャッチャーが成長していけば、チームも強くなっていくものだし、キャッチャー自身がその重要性を深く考えていないチームは、下位を低迷しているものである。
野球は知略の勝負だ。
天性の身体能力だけで勝負しているようでは、プロの世界では活躍する余地が少ない。
頭脳を駆使して状況を読み、相手の裏をかくような知恵を身につけているキャッチャーがいるチームは、間違いなく強いと断言できる。
天狗になる選手をつくらない指導 人間は「無視、賞賛、非難」という3つの段階で試されているとは第 1章でも述べた。
ここでは特に「非難」の段階について話したい。
「非難」とは、チームの中心として活躍するようになった選手に対する、指揮官のあるべき態度だと考える。
ようやく 1軍でも安定した力を身につけレギュラーを確保したとなると、たいていの選手は安堵し、ときには天狗になったりすることもあるものだ。
独りよがりの姿勢は、チームにとっても悪影響があるし、慢心すれば、現状維持の思考に流れ、その時点でさらなる向上心を失ってしまうこともある。
選手たちに、こんな勘違いをさせないようにするためにも「非難」をする意義はある。
現在、ニューヨーク・ヤンキースで活躍している田中将大がまさにそうだった。
高校からドラフト 1位で楽天に入団してきたとき、スライダーのキレとコントロールのよさに、「これがこの前まで高校生だった選手か」と私は内心驚いていた。
そのうえいざ試合で投げさせると、「彼を勝たせてやろう」と打線が奮起し、田中がノックアウトを食らった試合でも、同点に追いついたり、逆転したりして、負けを帳消しにすることがしばしばあった。
結果的に 1年目から 2ケタ勝ち、新人王にも輝いた。
普通、 18歳やそこいらで新人王を獲って、「マー君、マー君」といろんな人が寄ってきたら、勘違いしてもおかしくない。
だが、田中は有頂天になるような驕りは一切なかった。
その点は私も感心させられたものだ。
だが、彼が 3年目を迎えた 09年のシーズンは、 2年目までとは違って突き離し、厳しい言葉をかけ続けた。
田中が登板した試合中に、ベンチ内で立たせて説教することも多かったが、これは「もっともっとがんばってほしい」という期待の裏返しでもあった。
彼は「絶対に完投するぞ」という気概を常にもって投げていたのには感心していたが、最終回の最後のバッターになると、空振り三振をとりたい、ストレートで格好よくしめたいという思いが強くあった。
それはチームの勝利を二の次にした、慢心からくる自己顕示欲の現われでしかなかった。
そして、そこを狙い打たれ、試合の最後でもたつく場面が何度かあった。
これは本人に直接話して正さなくてはいけない、そう感じた私は、試合で勝利したあとに田中を呼んで叱ることが実際にあった。
「彼は将来、必ず球界を代表するエースになる」、そう感じていた私は、いまこそきちんと教育しておくべきだと考えての行動だった。
楽天は真面目で優等生タイプの選手が多く、そのうえ技術が他のチームの選手と比べて未熟だったことを自覚していたため、天狗になるようなタイプは少なかった。
だが、田中のように高卒 1年目から即戦力の働きを見せると、 3年、 4年とプロ生活が続いてきたときに、慢心が生まれることもあり得る。
「オレはこんなにすごいんだ」と錯覚し、まわりの支えの上に自分の成績が成り立っていることを忘れてしまうと、その後の野球人生にも大きな影響が出てしまう。
そのため私は、こういったチームの主力選手に対しては、常に「非難」をし続け、「チーム第一主義」を貫く高いレベルのリーダー像を求め続けた。
監督のタイプも一回りして昔のタイプに戻ってきた 私が南海でプレーしていた当時、監督は鶴岡さんだった。
太平洋戦争が終わった翌年の 1946年から 68年までの 23年もの間、監督を務められた。
リーグ優勝 11回、日本一に 4回輝き、監督としての通算勝利数の 1773勝は、歴代のプロ野球監督における最多勝利数である。
テスト生上がりで無名だった私は、 3年目のハワイキャンプで鶴岡さんに見出されて試合に出場し、それをきっかけにして数々の記録を打ち立てることができた。
私を世に送り出してくれたという点において、いまも感謝している。
しかし、鶴岡さんは太平洋戦争で兵役を経験した、いわば軍隊出身者である。
そのときに培われた精神論を野球の世界に持ち込み、試合中にミスをしたり、中途半端なプレーをするような選手がいたら、有無を言わさず鉄拳制裁を行っていた。
私は体育会系特有の精神論は好きではない。
殴って野球が上手くなるのであれば、いくらでも殴られて構わないが、実際に残るのは殴られた痛みと恐怖心だけである。
精神力さえあれば何事も可能になるというのは、合理的な工夫や努力をないがしろにする考え方であるに違いない。
どうすればバッティングが上手くなるのかと、かつて鶴岡さんにアドバイスを求めたこともあったが、「そんなもん、自分で考えろ」のひと言で終わってしまった。
技術論や戦術論などとはほど遠い、精神野球そのものであった。
その後、 70年に私が南海の監督に就任してからは、それまでの精神野球は一切捨て、シンキング・ベースボールをチーム内に浸透させようと懸命になった。
これには 67年から 3年間、同じチームでプレーしたドン・ブレイザーの影響が大きい。
ブレイザーは 177 ㎝という身長ながら、並居る選手を押しのけて、メジャーでレギュラーを務めている。
その身体でどうしてメジャーで通用したのかと本人に聞くごとに、卓越した野球理論をもつ彼の考え方に心酔していった。
私がプレイングマネジャーに就任すると、彼をヘッドコーチに置いたのは自然な流れであった。
その後、私のもとから数多くの指導者が輩出される。
ピッチャーの佐藤道郎、村上雅則、キャッチャーの柴田猛、黒田正宏、内野手の古葉竹識、藤原満、山本忠男、外野手の寺岡孝、島野育夫らだ。
中でも古葉はその後広島、横浜の監督となり、広島時代の 11年間でリーグ優勝 4回、日本一に 3回輝くなど、立派な成績を残した。
古葉は現役晩年の 70年から 2年間、私のもとでプレーし、引退後の 72年から 2年間はコーチとして修業していた。
74年に再びコーチとして広島に戻り、翌年から監督に就任すると、 1年目で球団創設以来初のリーグ優勝に導く。
後年、古葉は私の野球から学び取ったことを広島で活かすことができたと話していた。
その後、私がヤクルトの監督になってからは、 ID野球、データ野球の時代へと移っていく。
2000年代に至っては、一部のチームを除き、考える野球、データ野球が主流となった。
相手チームのデータを収集し、それを試合で活用する。
情報はたくさん集めれば集めるほど、相手がどういうふうに攻めてくるのか傾向がわかる。
試合展開を考えながら、確率の高い答えを選択するために、膨大なデータを分析しておく。
どのチームでも当たり前のようになっていった。
しかし 2013年、星野仙一監督率いる楽天が日本一になったとき、また昔の精神野球に戻りつつあると感じた。
星野監督の指導は、典型的な精神野球である。
怖い監督が、選手たちに、にらみをきかせながら組織運営するというタイプだ。
もしかすると時代に求められるリーダー像も、ぐるぐるとめぐって元に戻ってきたのかもしれない。
チームリーダーに必要な人間性とは チームリーダーとは、ただ実績を残している選手だったら務まるというものではない。
そこにはリーダーたる人間性も求められるもので、それはチームをよい方向に導くことができる人材でなければならない。
楽天での監督時代、ピッチャーの柱として活躍した岩隈久志は、低迷するチームにおいて抜群の成績を残した。
私が監督在任時はまだ 20代半ばと若かったが、日本国内だけでなく、 04年のシドニーオリンピックなど国際大会のキャリアも十分だったため、私は彼にピッチャー陣のチームリーダーになってもらいたいと、ひそかに期待していた。
だが、私が監督に就任した直後の岩隈は、「チームのためにがんばる」という気概が薄いように見えた。
それが証拠に、勝ち投手の権利を得ると、完投しようとはせずに 6回か 7回あたりで降板を申し出ることがたびたびあったのだ。
そして岩隈のあとを引き継いだリリーフ陣が打たれ、チームが逆転負けを喫することもあり、「エースがこれではチームに悪影響を及ぼす」と危惧した。
私が楽天の監督に就任した 1年目と 2年目当時、岩隈は肩の故障をもっていたことも事実だったが、私はあえて、「すぐマウンドを降りたがる」、「岩隈は百球肩なんだなあ」と、チームリーダーとしての期待に応えるよう厳しく言い続けた。
その甲斐があったのか、彼の意識も少しずつ変わっていったようだ。
08年は春季キャンプから飛ばしに飛ばし、最終的には 21勝 4敗、防御率 1・ 86という素晴らしい成績を残し、ピッチャーのタイトルを総ナメにした。
そして翌年もほぼ 1年間、ローテーションを守り、楽天の躍進に貢献するのだ。
なんといってもうれしかったのは、日本ハムとのクライマックスシリーズの第 4戦では、 2戦目に完投したにもかかわらずリリーフ志願し登板したことだ。
結果的にはターメル・スレッジにダメ押しの3ランホームランを打たれ試合には負けたが、チームのためにここ一番で体を張った姿勢には、岩隈は一皮むけたと感じさせられた。
このとき岩隈は、名実ともに楽天のエースとなったのだろう。
「チームのために」という自己犠牲の精神と責任感をもてる人間こそが、チームリーダーにふさわしいのである。
組織の力量は、監督の力量以上にはならない 組織はリーダーの力量以上に伸びない。
これは私が常々言い続けてきた言葉である。
チームを強化する一番のポイントは、監督の力量のレベルアップでもある。
監督がレベルアップすれば、それにつられて選手たちの力量もアップするし、組織としての力量もアップするだろう。
だからこそ、リーダーは常に知識や情報の吸収に努め、観察力や分析力、判断力、決断力や感性が向上するよう努力しなければならない。
リーダーが自分自身に対して厳しく、常に成長しようという姿勢を見せていれば、選手たちも自ずと同じような姿勢になってくる。
たとえばリーダーが自分には甘く、あまり努力せずにいい加減な取り組み方をしていると、その部下もそれを見習って、自然に取り組み方が甘くなっていくものだ。
このように、リーダーの力量と、組織自体の力量には相関関係があるのだろう。
だからこそ私は、自分自身の野球へ取り組む姿勢が、コーチや選手たちの模範となるべく、一切妥協せず、常に新しい知識や情報の収集に余念がなかった。
毎年キャンプのときに行なっていたミーティングも、大筋は同じ内容の講義となるが、適宜、新しい考え方や情報を取り入れてマイナーチェンジを行なっていた。
楽天の監督時には私はすでに 70歳を過ぎていたが、私が蓄積した野球学を少しでも進歩させようと努めていたつもりだ。
当然、リーダーの力量とは監督のことだけにとどまらない。
レギュラーで常時試合に出場しているチームの中心選手にもあてはまることで、年齢や実績、人格面でもチームを引っ張っていくような主力の選手たちの力量が伸びていかないかぎり、組織が伸びていくことは難しい。
その点でいえば、川上監督時代の長嶋茂雄や王貞治あたりは、常に向上しようと後輩選手たちにその姿勢を見せ続け、組織全体の底上げを図ったといえるだろう。
先入観をもって選手を見てはいけない チームを預かることになったとき、現場で私が真っ先に行なうことは、選手たちを徹底的に見ることだった。
その選手がどういう性格なのか、長所、短所はどこなのか、それをじっくり見極める。
これが選手を掌握する第一歩だった。
どのような心構えで野球に取り組んでいるかを知るために、ときには選手たちに作文を提出させることもあった。
こうして観察すれば、その選手をどのように指導すればいいか、チームとしてどのように使っていけばいいのかがわかってくる。
この際もっとも注意すべきことは、指導者は一切の固定観念や先入観を排除して選手を見なければならないということだ。
ヤクルト時代の飯田哲也が好例だろう。
飯田は 90年代のヤクルトの黄金時代を支えたセンターの名手だったが、私が監督に就任するまではキャッチャーをやっていた。
というのも、彼は高校 3年のときに春夏連続で甲子園に出場し、強肩強打のキャッチャーとしてスカウトの間で評判の選手だった。
そのためプロ入り後も当時のヤクルトの首脳陣は何も疑うこともなく、飯田をキャッチャーとして育成していたのだ。
だが、私がアメリカのユマでの春季キャンプで初めて彼を見たとき、お世辞にもキャッチャーに向いているとは思えなかった。
肩はたしかに強いのだが、キャッチャーにはあり得ないほどの俊足の持ち主で、他の選手と比較してもたぐいまれな運動能力の持ち主だったからだ。
他のポジションに変更させたほうが、彼の持ち味が生かせるんじゃないか、そんなことを考えていた。
そこで私は飯田に「キャッチャーは好きか?」と尋ねた。
彼は「好きです」と答えたものの、どうもためらいがあるように感じられた。
キャッチャー出身の私に対して気を使うあまり、「そんなに好きではありません」と答えられなかったというのが、当時の心境だったのではないか。
そんな気がしてならなかった。
そこで私は飯田をコンバートすることに決めた。
だが彼はキャッチャーミット以外のグラブはキャンプに持ってきていないと言う。
それならばと思い、「お前のミットはオレが買ってやる。
そのお金でグラブを買いなさい」 私は当然、「いえ、自分で買ってきます」と言うのだろうと思っていたが、彼は本当に私のところにキャッチャーミットを2つ持ってきて買い取ることになった。
たしか 4万円はしたと思う。
それはともかく、こうした経緯で飯田は晴れて野手に転向した。
当時はセカンドで起用していたが、センターが守れるということで獲得した新外国人選手が、「センターはほとんどやったことがない」と言ってきたので、飯田をセカンドからセンターに再度コンバートした。
その結果、 91年から 7年連続でゴールデングラブ賞、盗塁王とベストナインにも輝き、ヤクルトの不動の 1番バッターとしてチームを牽引していったのはご承知の通りだろう。
もし私に「飯田はキャッチャーである」という先入観があったら、ヤクルトでは飯田の居場所はなかったはずだ。
飯田の成功であらためて「先入観は悪である」ということを、私は思い知らされたのである。
鈍感人間が多くなった理由「昔はよかった」などと言うつもりはさらさらないが、いまの若い人たちを見ていると、実に鈍感人間が多くなったように思えて仕方がない。
私は 3歳のとき、戦争で父親を亡くした。
母と兄の 3人でつつましく暮らし、日々の食糧をどう確保していくか必死だった。
幸いにも父の両親が農家だったので、米や野菜などの食糧を分けてくれていたのだが、その父の実家までが、片道 20キロもある。
いまのように電車や車などの交通手段が発達していない時代のため、歩いて行くしか手段はない。
食糧を確保しに行くだけで 1日が終わってしまうのだ。
祖父母が住んでいた村はたった 8軒しかなく、隣の家との距離が 500メートルほどもある本当に田舎の村だった。
やっとたどり着いた祖父母であるが、祖父母からしたら私の母は赤の他人である。
それに父が戦死しているので、私に対する態度はとても冷淡なものだった。
祖父は私の顔を見るなり、ぶつくさと小声で文句を言っては「ほらよ」と米を分けてくれるのだ。
「よく来てくれたね」という優しい言葉をかけてもらったことは、ただの一度もなかった。
そのことがたまらなく寂しかった。
その反面、父の弟の子が来ると、祖父母はよく来たな、と最大限のもてなしをしてあげているのを見ていた。
同じ身内であるにもかかわらず、父がこの世にいないというだけでどうしてこんなにも扱いが違うんだろうと、私は不思議でたまらなかった。
けれどもお米がなければ、私の家は飢えてしまう。
背に腹は代えられないという思いで、私は嫌々ながらも祖父母の家に米をもらいに行っていた。
私が生まれ育った時代のように、戦争によって食べるものがないという経験をしていると、毎日生きることに必死だから、食べるもの、見るもの、聞くもの、すべてに敏感になってくる。
いまの若い人たちはよっぽどのことがないかぎり、「飢え」を経験することはないだろう。
そのことは昔に比べて日本人の生活水準が上がった証拠でもあるが、その一方で人間が本来もつべき大切な感性を鈍らせてしまったと思えてならないこともある。
「鈍感は悪である」とはこの本でもこれまで述べてきたが、 10年、 20年先の日本はどうなってしまうのだろうと考えると、心配でならないのは私だけではないだろう。
どんなリーダーも、自分の仕えたリーダーの影響を受けている 南海時代に仕えた監督の鶴岡さんは、私にとっては恩人である一方、どういうわけか、かわいがられた記憶はまったくない。
別に鶴岡さんに反抗していたわけでもなかったし、私を快く思っていなかった理由はいまだにわからない。
本来であれば、私は自慢の選手であるはずだ。
なぜなら私はまったくの無名のテスト生からレギュラーを勝ち取り、 4番バッターになった初めての選手だった。
その私を抜擢し、育て上げたのは鶴岡さんだ。
とすれば、鶴岡さんの功績として、私を自慢してもなんら不思議ではない。
しかしまったくそういうことが、なかった。
ほめられた記憶さえほとんどない。
ホームランを打っても「あいつは二流はよう打つけど一流は打てん」、「たまたま振ったところにボールが来たんじゃろ」とけなされ続けた。
もちろん私を発奮させるための方法だったかもしれないが、当時の私は「どうしてほめてくれないんだろう」と不思議で仕方がなかった。
だが後年、私がヤクルト、阪神、楽天で監督を務めたときに、知らず知らずのうちに鶴岡監督と似たような選手への対応をしていることに気づいてハッとさせられたことが何度もある。
ヤクルト時代、広澤克実、古田敦也や池山隆寛といった主力はもとより、控え選手にも私は厳しく接し、まずほめたことなどなかった。
ほめた選手といえばセンターの守備で数多くのスーパープレーを連発して、チームを救った飯田哲也くらいなものだろうか。
また、話し方までどこか鶴岡流になっていることもある。
よく鶴岡さんは、「グラウンドに銭が落ちている」、「お前らいよいよ銭にならんの」などと言っていたが、私も気づくと選手への話の中で「銭」と言っていたりする。
鶴岡監督は試合中でもよく相手チームのエースや 4番を引き合いに出し、「よく見ておけ。
あれがプロのボールや、バッティングや。
銭のとれる選手だ」と言って他チームの選手をほめて、自チームの選手を「それにひきかえ」と、けなしていたが、私もよく同じことを選手たちに話している。
これらすべては、知らず知らずのうちに私の口癖になっていたのだが、それだけ鶴岡さんの影響を私が受けていたという証拠だ。
唯一、鶴岡さんのマネをしなかったのは精神論である。
私は鉄拳制裁など選手に対して一度もしたことがないし、「根性見せろ」、「気合だ」などと言って選手を鼓舞させたこともない。
しかし私の中の監督像は、鶴岡監督の影響を大きく受けていることは間違いない。
これは私にかぎったことではなく、どの監督もみんな、自分が選手時代に仕えた監督の誰かの影響を強く受けているものだ。
わかりやすい例でいえば、森監督は川上監督の影響を大きく受けていたし、星野監督は明治大学野球部時代の島岡監督だろう。
しかし私は、こういったことは何も悪いことではないと考えている。
監督といえども、一つの手本があり、それをベースにしながら自分流の指導をつくっていくものだからだ。
バッティング、ピッチングなどの個々の技術もそうだが、一から十までオリジナルということは無理なのだ。
お手本を模倣するなかからしか、オリジナルは生まれないものだ。
構成・小山宣宏 cover design Billy Blackmon & Hiroki Sakaeyama for Flamingo Studio Inc.
詩想社新書発刊に際して 詩想社は平成二十六年二月、「共感」を経営理念に据え創業しました。
なぜ人は生きるのかを考えるとき、その答えは千差万別ですが、私たちはその問いに対し、「たった一人の人間が、別の誰かと共感するためである」と考えています。
人は一人であるからこそ、実は一人ではない。
そこに深い共感が生まれる──これは、作家・国木田独歩の作品に通底する主題であり、作者の信条でもあります。
私たちも、そのような根源的な部分から発せられる深い共感を求めて出版活動をしてまいります。
独歩の短編作品題名から、小社社名を詩想社としたのもそのような思いからです。
くしくもこの時代に生まれ、ともに生きる人々の共感を形づくっていくことを目指して、詩想社新書をここに創刊します。
平成二十六年詩想社
野村克也(のむら かつや) 1935年、京都府生まれ。
54年、京都府立峰山高校卒業。
南海ホークスへテスト生で入団。
3年目に本塁打王。
65年、戦後初の三冠王(史上 2人目)。
MVP 5度、首位打者 1度、本塁打王 9度、打点王 7度。
ベストナイン 19回、ゴールデングラブ賞 1回。
70年、南海ホークス監督(捕手兼任)に就任。
73年、パ・リーグ優勝。
のちにロッテ・オリオンズ、西武ライオンズでプレー。
80年に 45歳で現役引退。
90年、ヤクルトスワローズ監督に就任、 4度優勝(日本一 3度)。
99年から 3年間、阪神タイガース監督。
2002年から社会人野球・シダックスのゼネラル・マネジャー兼監督。
06年から 09年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督。
『野村ノート』(小学館)、『なぜか結果を出す人の理由』(集英社)など著書多数。
リーダーのための「人を見抜く」力発行日 2017年1月 20日著 者 野村克也発行者 金田一一美発行所 株式会社詩想社 東京都渋谷区笹塚 1- 57- 5 松吉ビル 302 http:// www. shisosha. com © 2017 Katsuya Nomura※この電子書籍は株式会社詩想社が刊行した『リーダーのための「人を見抜く」力』( 2014年 12月 20日発行)に基づいて制作されました。
※この電子書籍の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。
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