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第 3章 作物、都市、王様──農業シフトがうながした心の進化

農業はおよそ一万二〇〇〇年前に中東で始まり、すぐに中国とアメリカ大陸に伝わり、それから数千年のあいだに世界各地へと広がっていった。農業が出現するまえの一 ~二万年のあいだ、ヨーロッパ、中東、中国に住む人々は野生の穀物を集め、それを挽いて粉にしていた。植物性食物とその収穫に必要となる農機具への依存度が高まるにつれて、狩猟採集民だった祖先たちは遊牧民としての生活様式からゆっくりと離れていった。この移り変わりとともに彼らの生き方は大きく変わった。テントの代わりに家に住むようになり、ヒョウタン容器の代わりに土器が作られ、臼と杵のような石器が発明された。それらの道具は穀物を挽くにはとても便利だったが、遊牧民にとってははた迷惑なものでしかなかった。 農業を始めた祖先たちは、すぐさま槍と弓を手放したわけではなかった。採集と狩猟が並行して行なわれていた先例にしたがい、(今日の多くの農業共同体と同じように)農業と並行して狩猟も続けた。現代の視点から見ると、農業の発明は一大転機だった。しかし、ひいひい……ひいおばあさんにしてみれば、集めた種の一部を地面に蒔いてみようと決めただけで、さして大げさな話ではなかったのかもしれない。むしろそれは、次の季節がやってきたときに好きな作物がどこに育つかを知るための便利な方法であり、種を蒔いてみる価値はありそうだとただ彼女は漠然と考えただけだったにちがいない。わたしが思うに、彼女は自分が実際になんの作物の種を蒔いていたのかも知らなかったのではないだろうか。 農耕によって、食糧を手に入れる予測可能性と安定性はいくらか増した。一方で、狩猟採集民としての遊牧生活から農民としての定住生活への移行は、多くの犠牲がともなうものだった。なかでも、わたしならいちばん困りそうなものから見ていこう──適切な配管の不備だ。一万二〇〇〇年前には誰もが屋外で排便していたが、狩猟採集民には害が及ぶまえにほかの場所に移動できるという利点があった。しかし農民はその場にとどまって生活するため、時間がたつにつれて飲み水が自分たちの糞便によってひどく汚れてしまった。この大腸菌汚染の広がりは人々の健康に大きな打撃を与えた。 現代でも同じような状況に悩まされている場所も少なくない。たとえばインドの一部の地域ではいまだ屋外での排泄率が高く、胃腸疾患や子どもの栄養不良のおもな原因となっている。初期の農民たちが向き合うことになった状況も同じくらい悲惨なもので、定住という生活様式によって彼らは新たな病気の感染源にさらされることになった。この点に関連して、農業によって人間がアルコールへの嫌悪ではなく耐性を進化させていったと主張する科学者もいる。なぜなら、農民たちが意図せず飲み水に混入させていた細菌の多くをアルコールが殺してくれたからだ。言い換えれば、ビールは水よりも安全だった。自分たちの排泄物から感染する病気にくわえ、農民たちが飼っていた動物もまた病気を引き起こす大きな原因になった。たしかに、人間界における伝染病は家畜から広がるものも多い(たとえば、豚インフルエンザや鳥インフルエンザ)。 トイレと病気の状況に次いで農民たちが向き合うことになった大きな問題は、農業によって得られる食べ物の質に関するものだった。現代の工業化された社会のほとんどの住人は、一年をとおして多種多様な食べ物を手に入れることができるが、それは前例のない画期的な出来事だといっていい。狩猟採集民の祖先たちは、概してバランスのとれた食生活を送っていたものの、彼らは長い時間をかけてそれを達成していった。ベリー、果物、木の実がなると、狩猟採集民たちはそれで腹を満たし、土地の資源を利用し尽くしたら次の場所に移った。対照的に、初期の農民たちの食生活ははるかに貧しいものだった。自分たちが育てる穀物から得られるのは、季節ごとの変化もデンプン質も少ない食べ物だけだった。その結果、農業を始めたことで祖先たちが口にする食事の栄養の質と多様性はより低くなった。 農業は、人類のさまざまな口腔細菌のバランスを根本から変えた。残念な結果として、新たに砂糖が入り込んできたせいで、より意地の悪い細菌が増殖することになった。歯ブラシもデンタルフロスも持ち合わせていなかったにもかかわらず、狩猟採集者はめったに虫歯や歯周病にならなかった。ところが、初期の多くの農民の歯は虫歯だらけで、中世になると不潔さはさらに増した。高デンプンで多様性の低い食生活は、歯の健康状態を悪くしただけではなく、以前の狩猟採集民時代よりも低い身長や短い寿命へとつながった。人間が狩猟採集民の身長を上まわったのはここ数世代の話でしかなく、わたしたちの寿命が延びたのも近代医学が生まれたからにすぎない(対照的に、暴力的な死は増えた)。 最後に、労働時間という面において、季節によって農業は大惨事にもなった。その日に得たものを当日中に食べる〝その日暮らし〟の生活を送る狩猟採集民たちの多くは、一日に六時間を狩猟、採集、食事の準備、道具の修理に費やす。それ以外の時間、彼らは暗くなるまで人づき合いを楽しみながらのんびりと過ごし、日が暮れたあとはきまって火のまわりに集まって会話や踊りに興じる。一方の伝統的な農民は、農閑期には一日に一 ~二時間しか働かないことも多いものの、植えつけや収穫の農繁期になると日中はひたすら働きつづけ、ゆっくりできるのは夜の短い時間だけになる。水の手に入れやすさ、一年のあいだの種まき時期の回数、そのほかのさまざまな要因によって伝統的な農民の一日の労働時間は変わり、狩猟採集民より長いこともあれば短いこともある。しかし全体として、農民が長期にわたってより懸命に働かなければいけないことはたしかだ。 たしかに、農耕によって祖先たちが飢餓を避ける手立てを得たのは大きな利益だった。しかし、大きな損失もあった。さまざまな新しい病気、身長と寿命の低下、耐えがたい口臭、はるかに長い労働時間……。初期の農民らは狩猟採集民の先祖たちよりも熱心に働いたにもかかわらず、待っていたのはより水準の低い生活だった* 1。 農耕は農民一人ひとりにとってはやっかいなものだったが、人口という観点では大きな成功をもたらした。それまで狩猟採集民の小さな集団しか存在していなかった土地に、農業の普及によってより多くの人が住むことができるようになり、出生率も上がった。出生率と人口密度が増したことで農業を営む集団がより大きくなり、最終的に狩猟採集民は立ち退きを余儀なくされた。ここ一万年にわたるヨーロッパやアジアへの農民の移住、そしてアフリカへと戻る動きは──個々の狩猟採集民は個々の農民よりも健康的な肉体をもっていたにもかかわらず──農業共同体が狩猟採集民の共同体を支配することができるという事実を証明するものだ。 農業による支配は一夜にして起きたわけではない。実際のところ、天候の変動や旱魃などの災害は狩猟採集民のほうに有利に働くことが多かった。眼のまえの土地に住むことができなくなったとき、彼らは容易に移動することができた。結果として、少なくとも二〇〇〇年以上のあいだ、農民と狩猟採集民はしばしば密接に協力しながらヨーロッパで共存していた。農民の心理 農業をするには、ホモ・エレクトスがはじめに獲得した精神的能力が必要になる──分業、道具の入念な準備、将来のための計画。しかし、狩猟採集民から農民へと移行するために必要だった心理的変化は、これらの能力以上のものを人間に求めた(そもそも分業などの能力は、農業が始まる以前から何千年にわたって存在した)。農業を行なうにはさらに、新しい必要性や機会に合わせて態度や価値観を変える必要もあった。ここで、熱帯雨林に暮らす一般的な狩猟採集民と農民の生活様式を比べてみたい。 熱帯雨林の狩猟採集民の多くは、〝その日暮らし〟社会で生活している。熱帯地域で生肉を保存するのはほぼ不可能であり、最高の腕前の狩人でさえ手ぶらで帰ってくることも少なくない。そのため、その日暮らしの狩猟採集民たちはすべての獲物を集団の残りの仲間たちと共有する。全体での共有という

第 3章 作物、都市、王様──農業シフトがうながした心の進化 農業はおよそ一万二〇〇〇年前に中東で始まり、すぐに中国とアメリカ大陸に伝わり、それから数千年のあいだに世界各地へと広がっていった。農業が出現するまえの一 ~二万年のあいだ、ヨーロッパ、中東、中国に住む人々は野生の穀物を集め、それを挽いて粉にしていた。植物性食物とその収穫に必要となる農機具への依存度が高まるにつれて、狩猟採集民だった祖先たちは遊牧民としての生活様式からゆっくりと離れていった。この移り変わりとともに彼らの生き方は大きく変わった。テントの代わりに家に住むようになり、ヒョウタン容器の代わりに土器が作られ、臼と杵のような石器が発明された。それらの道具は穀物を挽くにはとても便利だったが、遊牧民にとってははた迷惑なものでしかなかった。 農業を始めた祖先たちは、すぐさま槍と弓を手放したわけではなかった。採集と狩猟が並行して行なわれていた先例にしたがい、(今日の多くの農業共同体と同じように)農業と並行して狩猟も続けた。現代の視点から見ると、農業の発明は一大転機だった。しかし、ひいひい……ひいおばあさんにしてみれば、集めた種の一部を地面に蒔いてみようと決めただけで、さして大げさな話ではなかったのかもしれない。むしろそれは、次の季節がやってきたときに好きな作物がどこに育つかを知るための便利な方法であり、種を蒔いてみる価値はありそうだとただ彼女は漠然と考えただけだったにちがいない。わたしが思うに、彼女は自分が実際になんの作物の種を蒔いていたのかも知らなかったのではないだろうか。 農耕によって、食糧を手に入れる予測可能性と安定性はいくらか増した。一方で、狩猟採集民としての遊牧生活から農民としての定住生活への移行は、多くの犠牲がともなうものだった。なかでも、わたしならいちばん困りそうなものから見ていこう──適切な配管の不備だ。一万二〇〇〇年前には誰もが屋外で排便していたが、狩猟採集民には害が及ぶまえにほかの場所に移動できるという利点があった。しかし農民はその場にとどまって生活するため、時間がたつにつれて飲み水が自分たちの糞便によってひどく汚れてしまった。この大腸菌汚染の広がりは人々の健康に大きな打撃を与えた。 現代でも同じような状況に悩まされている場所も少なくない。たとえばインドの一部の地域ではいまだ屋外での排泄率が高く、胃腸疾患や子どもの栄養不良のおもな原因となっている。初期の農民たちが向き合うことになった状況も同じくらい悲惨なもので、定住という生活様式によって彼らは新たな病気の感染源にさらされることになった。この点に関連して、農業によって人間がアルコールへの嫌悪ではなく耐性を進化させていったと主張する科学者もいる。なぜなら、農民たちが意図せず飲み水に混入させていた細菌の多くをアルコールが殺してくれたからだ。言い換えれば、ビールは水よりも安全だった。自分たちの排泄物から感染する病気にくわえ、農民たちが飼っていた動物もまた病気を引き起こす大きな原因になった。たしかに、人間界における伝染病は家畜から広がるものも多い(たとえば、豚インフルエンザや鳥インフルエンザ)。 トイレと病気の状況に次いで農民たちが向き合うことになった大きな問題は、農業によって得られる食べ物の質に関するものだった。現代の工業化された社会のほとんどの住人は、一年をとおして多種多様な食べ物を手に入れることができるが、それは前例のない画期的な出来事だといっていい。狩猟採集民の祖先たちは、概してバランスのとれた食生活を送っていたものの、彼らは長い時間をかけてそれを達成していった。ベリー、果物、木の実がなると、狩猟採集民たちはそれで腹を満たし、土地の資源を利用し尽くしたら次の場所に移った。対照的に、初期の農民たちの食生活ははるかに貧しいものだった。自分たちが育てる穀物から得られるのは、季節ごとの変化もデンプン質も少ない食べ物だけだった。その結果、農業を始めたことで祖先たちが口にする食事の栄養の質と多様性はより低くなった。 農業は、人類のさまざまな口腔細菌のバランスを根本から変えた。残念な結果として、新たに砂糖が入り込んできたせいで、より意地の悪い細菌が増殖することになった。歯ブラシもデンタルフロスも持ち合わせていなかったにもかかわらず、狩猟採集者はめったに虫歯や歯周病にならなかった。ところが、初期の多くの農民の歯は虫歯だらけで、中世になると不潔さはさらに増した。高デンプンで多様性の低い食生活は、歯の健康状態を悪くしただけではなく、以前の狩猟採集民時代よりも低い身長や短い寿命へとつながった。人間が狩猟採集民の身長を上まわったのはここ数世代の話でしかなく、わたしたちの寿命が延びたのも近代医学が生まれたからにすぎない(対照的に、暴力的な死は増えた)。 最後に、労働時間という面において、季節によって農業は大惨事にもなった。その日に得たものを当日中に食べる〝その日暮らし〟の生活を送る狩猟採集民たちの多くは、一日に六時間を狩猟、採集、食事の準備、道具の修理に費やす。それ以外の時間、彼らは暗くなるまで人づき合いを楽しみながらのんびりと過ごし、日が暮れたあとはきまって火のまわりに集まって会話や踊りに興じる。一方の伝統的な農民は、農閑期には一日に一 ~二時間しか働かないことも多いものの、植えつけや収穫の農繁期になると日中はひたすら働きつづけ、ゆっくりできるのは夜の短い時間だけになる。水の手に入れやすさ、一年のあいだの種まき時期の回数、そのほかのさまざまな要因によって伝統的な農民の一日の労働時間は変わり、狩猟採集民より長いこともあれば短いこともある。しかし全体として、農民が長期にわたってより懸命に働かなければいけないことはたしかだ。 たしかに、農耕によって祖先たちが飢餓を避ける手立てを得たのは大きな利益だった。しかし、大きな損失もあった。さまざまな新しい病気、身長と寿命の低下、耐えがたい口臭、はるかに長い労働時間……。初期の農民らは狩猟採集民の先祖たちよりも熱心に働いたにもかかわらず、待っていたのはより水準の低い生活だった* 1。 農耕は農民一人ひとりにとってはやっかいなものだったが、人口という観点では大きな成功をもたらした。それまで狩猟採集民の小さな集団しか存在していなかった土地に、農業の普及によってより多くの人が住むことができるようになり、出生率も上がった。出生率と人口密度が増したことで農業を営む集団がより大きくなり、最終的に狩猟採集民は立ち退きを余儀なくされた。ここ一万年にわたるヨーロッパやアジアへの農民の移住、そしてアフリカへと戻る動きは──個々の狩猟採集民は個々の農民よりも健康的な肉体をもっていたにもかかわらず──農業共同体が狩猟採集民の共同体を支配することができるという事実を証明するものだ。 農業による支配は一夜にして起きたわけではない。実際のところ、天候の変動や旱魃などの災害は狩猟採集民のほうに有利に働くことが多かった。眼のまえの土地に住むことができなくなったとき、彼らは容易に移動することができた。結果として、少なくとも二〇〇〇年以上のあいだ、農民と狩猟採集民はしばしば密接に協力しながらヨーロッパで共存していた。農民の心理 農業をするには、ホモ・エレクトスがはじめに獲得した精神的能力が必要になる──分業、道具の入念な準備、将来のための計画。しかし、狩猟採集民から農民へと移行するために必要だった心理的変化は、これらの能力以上のものを人間に求めた(そもそも分業などの能力は、農業が始まる以前から何千年にわたって存在した)。農業を行なうにはさらに、新しい必要性や機会に合わせて態度や価値観を変える必要もあった。ここで、熱帯雨林に暮らす一般的な狩猟採集民と農民の生活様式を比べてみたい。 熱帯雨林の狩猟採集民の多くは、〝その日暮らし〟社会で生活している。熱帯地域で生肉を保存するのはほぼ不可能であり、最高の腕前の狩人でさえ手ぶらで帰ってくることも少なくない。そのため、その日暮らしの狩猟採集民たちはすべての獲物を集団の残りの仲間たちと共有する。全体での共有という

習慣は、不猟や飢餓につながりかねない諍いや問題を集団から取りのぞき、全員にとって都合がいい〝保険〟を作りだしてくれる。 熱帯雨林の狩猟採集民は、獲物の動きや植物を収穫するタイミング(たとえば、ベリーや果物がいつ熟すか)に合わせて移動する必要があるため、簡単に携帯できるものしか持たない。遊牧的なライフスタイルを軸とする狩猟採集民の社会は、互いに連携し合う集団によって成り立っている。野営地を撤収し、別の場所に移って運試ししようと人々が決めるたび、集団はいったん分割され、また再編成される。集団のなかに気に入らないメンバーがいたとしても、その人物が家族とともに東に行くと決めたとき、自分は家族をつれて西に行くと決断すればいいだけだ。新しい野営地の集合体が生まれるとき、全体をひとつの集団として見れば誰もが互いにつながっており、よく見知った人々に囲まれて生活を送ることになる。しかし、それを構成する個々のサブグループの動きはじつに流動的だ。 その日暮らしを送る狩猟採集民とは対照的に、農民は明日に眼を向ける。彼らの労働の核となるのは収穫のための準備であり、収穫は大きな労力を要する一大イベントとなる。一般的な農民たちは、たくさんの農機具を所有する。農業の大部分は、そのような装置──畑を耕し、種を植え、作物を収穫し、作物を食べられる商品に変えるための道具──の助けを借りて行なわれる(農業の誕生よりずっと以前から存在していた石臼などが一例)。農民がひとつの場所に定住するのは、土地は持ち運べないからだ。いったん道具を手に入れ、土を耕し、作物を植えると、その土地を離れることには大きな損失がともなう。自分の農業共同体のなかに気に入らない住人がいたとしても、どちらもその場にとどまることがほとんどだ。 農業における労働の成果をどう分かち合うかについては世界各地でルールが異なるものの、家族や収穫を手伝ってくれた人以外に作物が与えられることはきわめてまれだ。カール・マルクスは「人々は能力に応じて生産し、必要に応じて分け合うべき」だと提唱したが、この行動原則は狩猟採集民の生活様式に当てはまる。しかし共産主義の歴史は異なる結果へとつながった──農民は家族以外の人々と作物をほとんど共有しない。 マルクス主義的な理想郷の問題は、人々が他者の努力にただ乗りできるという点だ。たとえば、わたしとあなたが成果を共有するとする。あなたが一生懸命働けば自分にも充分な報酬が与えられるとわかっているわたしは、なんとか楽をしようという誘惑に駆られる。しかし、わたしの怠ける姿を見たあなたは、自分だけが損をするのはごめんだと考えて怠けだし、そのうちどちらも一生懸命働かなくなる。ただ乗り問題はこのような悪循環を生みだし、全員が貢献するように取り締まるなんらかの手段がなければ、共同体の生産性は一気に低下する。 わたしたちの祖先が、ただ乗り問題にはじめて直面したときのことを思いだしてほしい。アウストラロピテクスが集団で協力しながら石を投げつけて捕食者を倒そうとしたとき、貢献するのではなく逃げた仲間がいた。そのようなただ乗りは簡単に見つかってしまうため、怠け者は追放や懲罰の脅威にさらされ、協力せざるをえなくなった。ホモ・エレクトスとホモ・サピエンスの狩猟採集民の祖先も、わりと簡単にただ乗り問題を解決することができた。その日の捕獲物が自動的にその日の夕食になったため、各々の貢献の量が一目瞭然だったからだ。成果を上げられない狩人は、なんとか集団のために役に立つ方法を見つけないかぎり、孤立することも多かった。しかし農業は結果が出るまでに時間がかかるので、それぞれの働き手が一生懸命がんばっているかどうか、ある特定の日のあいだに見きわめることはむずかしい。たとえば、収穫期が終わったとき、わたしの畑の収穫量がほかの家よりも少ないことが判明したとする。それが怠けた結果であれば、ほかの人に作物を恵んでくれなどと乞うことは許されない。しかしそれは、わたしの畑の土が貧弱だったからかもしれないし、作物が害虫に襲われたせいかもしれない。 ただ乗り農民を見抜くという問題は、農業によって必然的に共同体の規模が大きくなったせいでさらに複雑化した。狩猟採集民はわずか数時間で引っ越すことができたし、属する共同体もたびたび変わったため、人々は家族や友人(少なくとも味方)だけの少人数の集団で一生を過ごした。集団が大きくなりすぎて言い争いが始まると、狩猟採集民は小さな集団にまた分かれて自分たちのやり方を貫いた。 一方、農業に適した肥沃な土壌はかぎられており、土地の生産性がとりわけ高いところに農村が生まれる。そのような農業共同体はわずか数世代のうちに、狩猟採集民の共同体よりもはるかに大きく成長した。現在の基準と比べると初期の農業共同体は小さく、持ちつ持たれつの人間関係によってつながっていた。しかし規模の拡大によって、自分の共同体のメンバー全員を把握できない状態が生まれた。そのような大きな集団のなかでは働き者と怠け者の区別がむずかしく、人々はたんに共有することをやめた。〝伝統的な共有〟には最終的な成果だけではなく生産手段も含まれていたため、農民のあいだでこれらの問題はさらに大きなものになった。しかし、狩猟採集民は肉だけでなく、武器や道具も共有する。余分なナイフ、弓、ヒョウタンの器を持つ人がいれば、友人や家族はそれを貸してほしいとたびたび頼んでくる。しかしこのような考え方は、最低限の家畜、土地、設備が必要不可欠な農民には現実的ではなかった。 同じような矛盾は、狩猟採集から市場経済へと移り変わりつつある今日の共同体のなかにも存在する。たとえば、アフリカ南部のカラハリ砂漠に住むクン族やサン族の狩猟採集民たちは商取引、遊牧、近くの農村での日雇い労働などによって生計を立てており、その報酬は家畜で支払われることが多い。彼らのような集団の個人にとっては、新しくやってきた家畜を育てて乳や卵を手に入れるというのが長期的に効果的な戦略となる。が、家族や友人たちはすぐさま新たな富を分かち合えとせがんでくる。要求を断われば、彼らは〝ケチ〟の烙印を押され、共同体のなかでひどい立場に置かれることになる。要求にしたがえば、苦労の末に得た報酬は眼のまえで雲散霧消する。私有という概念そのものが共同体の文化と矛盾するため、家畜を所有するということは、ときに彼らの生活の質を豊かにするどころか悪化させてしまう。 農業に対するさまざまな必要性に後押しされ、人間の心理は「共同体による共有」から「私有財産」へと少しずつ変わっていった。そのような移り変わりは必ずしも新たな心理的適応を必要とするものではなかったが、文化的な大変動は避けられなかった。わたし自身、オーストラリア北部の奥地にあるアボリジニの共同体と協力したときに、この変化のむずかしさを目の当たりにした。環境モニタリングと浄化チームの担当責任者は、参加した原住民の手際の良さと勤勉さに感銘を受け、はじめの契約終了時に報酬額を増やすことを提案した。しかし責任者が驚いたことに、原住民はその提案に関心を示さなかったどころか、なかには昇給をはっきり断わる者さえいた。 背景を探ると、ある理由が明らかになった。政府の環境モニタリングに協力していた原住民のメンバーたちは、一週間の仕事を終えて大家族のもとに戻ると、稼いだお金をすべて出すように全員に要求されたという。報酬が上がることにメリットなどなく、さらに多くのお金が消えていくのを見るのはいっそう腹立たしくもあった。チームの責任者はこの問題を解決するために、報酬を上乗せする代わりに、作業現場で高級な食事をごちそうした。家族や共同体からケチだと咎められる心配をすることなく、勤勉な労働から恩恵を受けられる機会を得た原住民たちは大喜びした。私有財産 個人で財産を所有することには多くのプラス要素があるものの、人々が自分の力で成果を上げるべき世界では、能力、努力、機会における先天的なちがいが不平等へとつながることになる。一方には、利口で、才能豊かで、勤勉で、あるいは運が良く、あるいは親に恵まれ、多くのものを手にする人がいる。他方には、それほど多くのものを手にできない人がいる。今日の世界ではこれは疑いようのない事実となった。が、狩猟採集民の先祖たちの心理のなかでは、この新たな現実を受け容れるためには劇的な変化が必要だった。 不平等に適応することは、狩猟採集民の祖先たちが農場生活に移行するときに向き合った大きな挑戦のひとつだった。が、それは越えなくてはいけない壁だった。農業には所有権と備蓄がつきものであり、必ず不平等が生まれる。現代では、その日暮らしの狩猟採集民の生活から、自宅の庭でも作物を育てる狩猟農耕民の生活へと移るときに不平等の兆候が現われはじめる。前者には最高指導者という概念はほとんど存在しないが、後者の社会には世襲制の首長がいることが多い。同じように古代の世界でも、農耕に移行しはじめた狩猟採集民のあいだで不平等が根づいていった。とはいえ人類が作物を栽培するようになるまえから、大きな家屋をもつ者もいれば、小さな家屋をもつ者もいた。手の込んだ衣服や装身具とともに土葬される人もいれば、裸のまま地中に埋められる人もいた。 ある場所では不平等が生まれ、別の場所では生まれなかった──。研究者たちは、不平等がなぜ、どのように生まれるのか不思議に思った。これらの問題を解き明かすためには、生態学や生物学の文献、とくに動物の縄張りについての研究が役立つことがわかった。縄張りは動物版の不平等といっていい。縄張り意識をもつ動物のあいだでは、縄張りをもたないオスは交尾相手を惹きつけることはできず、良い縄張りをもつほど交配の機会も増える。しかし、すべての動物が縄張り意識をもつわけではない。一部の動物は、同じ種のほかの仲間に乗っ取られないように積極的に縄張りを護ろうとする(あるいは、ディズニー映画『ライオン・キング』での絶え間ないライオンとハイエナの争いのように、ほかの種が縄張りを奪おうとしてくることもある)。その一方で、縄張りをもたない動物もいる。 生物学者たちは、縄張り意識をもつかどうかを左右するもっとも明確な要因が、資源の密度と信頼性であることを突き止めた。集中的かつ予測可能な資源だけが、縄張りの維持にともなう犠牲を相殺するのに充分な利益をもたらしてくれる。たとえば、草はあまりに一般的で利益も少なく、サバンナの至るところに繁茂しているため、多くの草食動物はサバンナの一角を縄張りとしてわざわざ護ろうとはしない* 2。対照的に、草食動物が高い密度で集まるサバンナの一角は捕食動物にとって恰好の餌場となるため、ライオンはほかのライオンから自分たちの縄張りを護ろうとする。 毛皮、羽毛、鱗に覆われた遠い親戚たちがこのような賢明な意思決定をしたことを考えれば、ヒトもほかの動物たちを見習って資源獲得・保護のための方法を考えだしたとしてもなんら驚きではない。その日暮らしの狩猟採集民にとっての資源は往々にして予測不可能でその密度も低いため、彼らが縄張りを護ろうとすることはほとんどない。実際のところ、条件のよりすぐれた猟場があるとき、土地を巡って狩猟採集民の集団同士が対立することもある。しかしそのようなケースでさえ、土地は広く資源の密度も低いので、一個人や一家族が独り占めすることはできない。猟場の差は集団同士の不平等につながることはあっても、集団内での不平等にはつながらない。 とはいえ、それは熱帯地域の話であり、別の環境──食糧の貯蔵が可能で、高密度の予想可能な資源がある場所──に住む狩猟採集民もいる。たとえば、太平洋岸北西部でサケを釣って生活していたアメリカ先住民は、遡上の季節のあいだに自分たちだけでは消費できないほど多くのサケを捕獲し、冬用に一部を乾燥させて保管した。この種の生態環境は不平等を生みだし、サケの遡上の季節のあいだにはそれぞれの家族が良い漁場を占領して縄張りを護ろうとした。各家族は魚を報酬として他者を自分たちの集団へと引き入れ、収穫、防衛、準備、獲物の貯蔵を手伝わせた。このような取り決めはじわりじわりと人々のあいだに広まり、それまでの明確な平等主義ではなく制度的な不平等にもとづく社会習慣へとつながった。 予測可能で密度の高い資源が見つかるたび、似たような取り決めが結ばれた。たとえば狩猟農耕民は、採集の場である森の野生植物を護ろうとはしないものの、自宅の家の庭に植えた作物は必死で護ろうとする。本格的な農業へと社会が移り変わるまでのあいだに、財産の所有と権利という概念を軸に規範ができあがっていく。これらの規範の影響力はとても大きい。現代でさえも、法律で定められた規則が脆弱で、国家が財産権を保護してくれない状況になると、社会がうまく機能しなくなることがある。そのような社会に暮らす人々は、将来的に充分な見返りを期待できなくなるため、財産の維持と改善に大きな努力を注ごうとしなくなる。対照的に、財産所有権がしっかり保護された社会に住む人々にとって、自身の将来に投資して設備、土地、家を改善することには明らかな価値がある。 農業を始めた祖先たちの場合、一 ~二万年におよぶ農耕への移行期間とそのあいだの比較的移動の少ない生活様式が、私有財産と不平等を支える心理的変化のための土台を築くうえで重要な役割を果たしたにちがいない。ほぼすべてのものを共同体全体で共有する遊牧民から、生産の源を個人で所有する定住農民へと変わるあいだ、不平等に対する不満、財産権にまつわる対立、数多くの社会規範も何世代もかけてゆっくりと形を変えていった。私有財産と男女不平等 私有財産の登場とともに、家族に食糧を供給するルールが大きく変わった。狩猟採集民の社会では、子どもたちに食事を与えるためには母親と父親の協力が必要になる。多くの場合、父親たちは大きな獲物の狩りに出かけ、高カロリーではあるものの入手しにくい低タンパク質と脂肪を探した。一方の母親は、低カロリーではあるものの入手しやすい植物栄養素を集めた。狩りの成果は共同体全体で共有されたため、ほとんどの人のニーズはほとんどの場合において満たされた。腕利きの狩人が集団にひとりでもいれば大きな安心材料にはなったものの、腕利きの狩人の妻と子どもたちも、腕の悪い狩人の妻と子どもたちもほぼ大差ない生活を送っていた。 人々が私有財産を溜め込みはじめると、多くの財産をもつ者のほうが、もたない者よりもはるかに有利な立場から家族を食べさせることができるようになった。その人物がどれほどの富と所有権をもつかは誰の眼にも明らかであり、すぐさまこれらの資産の存在が配偶者を惹きつける要因になった。当然といえば当然ながら、富が繁殖成功率に与える影響は、女性よりも男性に対してのほうが大きい。一夫多妻制の社会では言わずもがな、男性が秘密で愛人を作る共同体(つまり世界のすべての地域)でも、貧しい男性よりも裕福な男性のほうが多くの子どもをもうける可能性は高くなる。単純な問題として、その日暮らしの社会に生きる狩猟採集民たちは、数人の子どもがいるひとつの家族しか養うことはできない。しかし私有財産をもつことによって、裕福な男性は膨大な数の子どもを養うことができるようになる。 歴史上の数多くの王子や王には何百人もの子どもがいたが、おそらく強欲なチンギス・ハーンが世界記録を保持していることはほぼまちがいない(アジアの人口の八パーセントが彼の子孫である可能性もあるといわれている* 3)。一方、女性の生殖能力は、惹きつけることのできる相手の数には左右されない。二〇人の妻をもつ男は二〇〇人の子どもをもうけることができるが、二〇人の夫をもつ女性が二〇〇人の子どもを産むことはできない。富によって子どもが生き残る確率が上がるため、それは女性にとっても大切なものだった。しかし、生き残りに必要な適度なレベルを超える追加の資源があったとしても、女性がより多くの子どもをもてるようになるわけではない(しかし、息子の女性を惹きつける能力が増すため、大きな富を有する女性はより多くの孫をもつようになる)。 これらの性差によって、富が繁殖成功率に与える影響は女性よりも男性に対してのほうが強く、一般的に男性は女性よりも富の追求により意欲的になった。特別な事情がなければ、母親と父親たちも、娘ではなく息子により多くの富を渡そうとした。その理由は同じ。裕福な息子に与えられる繁殖成功の恩恵は、裕福な娘に与えられる恩恵よりも大きいからだ。これらの性差を背景に、私有財産の概念とともに世界じゅうに男女不平等が広がっていった。 その日暮らしの狩猟採集民の社会では、通常、男性は女性より強い権力をもっている。とはいえ農業をもとにした社会と比べると、女性の地位はより男性と平等に近い。農業では畑の耕起や収穫において力作業が必要になるので、男女平等の精神が損なわれていった。とくに鋤を多用する農業では畑作がさらに重労働になるため、男性が畑で働き、女性が家で食事を作るという性にもとづく分業が生まれた。 そのような習慣の文化的な〝しつこさ〟に呼応するように、鋤を多用する農業を行なう社会では、女性が家を出て労働に参加する割合は減りつづけた。ほかの形態の農業社会では、男女の不平等はそれほど顕著ではなかった。たとえば鍬を多用する農業では、女性が男性とほぼ同条件で畑仕事をすることが

できる。あるいは農業をしない社会では、男性が狩猟、女性が採集を担当する。このように、その日暮らしの狩猟採集民の社会にもともと存在していた不完全な(しかし広く行き渡っていた)男女平等は、農業によってぶち壊されていった。政府だけでなく、階級、搾取、奴隷を生みだした農業 私有財産と不平等を受け容れることを決めた人類は、あらゆる不幸へとつながる滑りやすい斜面を転がり落ちていった。 Aさんが Bさんよりも多くのモノを所有することが許されるとすれば、たとえ Bさんが眼のまえで飢えに苦しんでいたとしても、 Aさんはただ生き残るどころか、富をさらに増やしてもいいということになる。結局のところ、今日の段階で余裕があるからといって Aさんが Bさんに財産を分け与えてしまったら、大盤振る舞いをしてしまった結果として充分な蓄えがなくなり、 Aさんは明日にでも困難な状況に陥ってしまうかもしれない。狩猟採集民の心理は、この論理をよしとしなかった。彼らにとっては今日が最優先事項であり、明日はあとで渡るべき橋だった。しかし所有権と長期計画に重きを置く農業的な心理には、この論理がぴったりとハマった。とはいえ、集団の仲間が苦しんでいる姿を悠々と傍観することは、それまでの人類の数多くの心理的変化──六〇〇万年にわたって育まれてきた協力と相互依存の精神がもたらした変化──と矛盾するものだった。結果、この矛盾が引き起こした不協和音を和らげるために、新たな思考パターンが必要になった。 農業の登場による心理的な変化においてなにより要となるのは、ある人間はほかの人間よりもすぐれている、あるいは他者よりも価値があるという考えだった。狩猟採集民の社会では、知力や狡猾さなどといった性格に個人差はあるものの、全体として平等主義的であり、偉そうな態度をとる他者をひどく嫌う傾向がある。実際、とりわけ優秀な狩人は自分をどこまでも卑下しようとするため、まわりの人々はその狩人たちの有利な立場を羨むこともなければ、相手が威張り散らしているという感覚も抱かない。すぐれた著書『森のなかの階級』( Hierarchy in the Forest)[未訳]のなかで人類学者のクリストファー・ボームが説明するとおり、この心理は興味深いコミュニケーション様式へとつながる──獲物が大きいほど、狩人は控えめな態度に徹しようとする。たとえば、こんな具合だ。シド 今日の成果はどうだった?リチャード それほど運は良くなかったよ。ただ、ちょっとした獲物の死体を村まで引きずっていくのを、手伝ってもらえると嬉しいんだけど。シド (むむむ、どうやら大物を捕まえたらしい……)ほかの人も何人か連れてこようか? それとも、おれたちふたりだけで運べるのかい?リチャード いやいや、ほかの人たちの手を煩わせるのはちょっと……身体もとても小さくて、健康状態も悪そうだったから、このまま放置して帰ったほうがいいかもしれないな。シド (なんてこった! こいつはキリンを仕留めたぞ! 村の全員を呼んでこなきゃ……) 先祖たちが狩猟採集民の生活様式から遠ざかるにつれて、才能豊かで勤勉な者はより立派な家を手に入れ、より多くのモノを溜め込むようになった。その流れのなかで、財産所有権は獲得するものであり、よりよい人にはよりよいモノが与えられるべきだと人々は自然と結論づけた。しかし時間がたって世代間でモノが受け継がれていくと、能なしの怠け者でも寛大な両親から恩恵を受けることができるようになった。この時点で、財産所有の関係バランスが崩れてもおかしくはなかった。しかし問題は、ある〝血統〟がほかよりもすぐれていると定めることによって心理的に解決された(人々がむかしの王族に憧れを抱くのは、いまだこの概念が強く残っている証拠だ)。 狩猟採集民の生活様式から遠ざかる心理的な第一歩は、一部の人がほかの人よりもすぐれており、不平等は致し方ない結果だと進んで同意するというものだった。いったんこの〝自然の事実〟が受け容れられてしまえば、富裕層と貧困層の差などもうどうでもよくなくなるのでは? 王様と小作人、主人と奴隷という関係が生まれるのでは? 当然、まさにそのとおりのことが起きた。世界じゅうで平等主義が脇へと追いやられると、生まれながらの優劣という新たな信念があらゆる種類の苦しみを人間にもたらすようになった。はじめの段階でこのプロセスがどのように展開していったのかをくわしく知ることはむずかしいものの、ヨーロッパ帝国主義の記録がさまざまなヒントを与えてくれる。不平等が新たな場所や人々へと広がっていった当時の議会での討論、新聞、公の場での議論に関するさまざまな資料をひもとくと、根底にある心理を追うことができる。 そのような記録が教えてくれるのは、ヨーロッパ各国が搾取と隷属化の機会に飛びついた直後から、〝わたしたち〟と〝彼ら〟の区別だけでなく、〝人間性〟の区別にもとづく正当化が行なわれていたことだった。イギリス人小説家ラドヤード・キップリングの詩集『白人の責務』やアメリカ入植者の「明白な天命」はどちらも、先住民に対する搾取や虐殺を植民地主義者がいかにして肯定的かつ道徳的にとらえることができたのかを示す典型例だ。もちろん、この種の論理立てを誰もが認めたわけではなく、これらの問題はしばしば激しい議論の的になった。しかしながら歴史が教えてくれるのは、少なくとも宗主国の(言葉ではなく)行動を見るかぎり、搾取と虐殺に賛同する人々がほぼ確実に勝利を収めていたということだ。 同じように、ヨーロッパ各国はアフリカと南北アメリカを支配下において搾取する過程のなかで、地元住民に不平等を強制しようとした。そのような強要は、地元民がすでに農業に取り組み、不平等の心理に慣れている場合にはより楽に進んだ。一方、相手が狩猟採集民で、不平等に強い嫌悪感を示す場合はよりむずかしくなった。農業共同体を征服しようと試みたときには、住民が新しい主人たちにそそくさと黙従することも少なくなかった。そういった社会にはすでに貴族階級が存在し、小作人たちには重い税が課され、ひどい扱いを受けていた。誰が手綱を握ろうが、農民の生活にたいした差はなかった。それとは反対に、狩猟採集民の社会の多くは植民地主義者と必死に闘った。より高性能の武器をもつ大規模なヨーロッパ軍に征服されるまで、何世代にもわたって闘いが続くこともあった。 啓蒙的な著書『国家はなぜ衰退するのか』のなかで、著者のダロン・アセモグルとジェイムズ・ A・ロビンソンは、この現象に関する数多くの歴史的な例を示した。たとえばスペイン人が南米を征服しはじめたとき、彼らの初期の入植地のひとつが現代のブエノスアイレスの一角にあった。しかし地元の狩猟採集民たちは、いくら脅迫されてもスペイン人のために働くことを拒んだ。そのため入植地の植民地化は失敗に終わり、すぐに撤退を余儀なくされた。対照的に、スペイン人がさらに内陸へと進み、パラグアイの農業共同体に遭遇したときには、簡単に地元住民を支配することができた。彼らは既存の貴族を打ち負かして取って代わりつつ、強制労働の制度をそのまま引き継いだのだった。 農業と不平等の広がりによって複雑な社会組織が必要になった。食糧を溜め込む能力をもっていた人々は共同体のなかで団結することを学び、外部の侵略者や泥棒と闘う姿勢をあらわにし、所有権と商取引のルールを作りだした。そのようなルールは当初、誰に対しても平等に適用されていたのかもしれない。しかし初期の統治体制の多くは、敵対する派閥間の権力闘争そのものであり、結果として搾取による支配体制ができあがっていった。一八世紀後半のアメリカ独立革命より以前には、住民に仕えるというスタンスをもつ統治体制はほとんどなかった。その後の啓蒙思想の普及と個人の権利の再発見(狩猟採集民が強く意識する概念)はまちがいなく、統治体制の改善に大きな役割を果たした。しかし、いまだ多くの民主体制が不完全な状態にあるという事実のみを見ても、自らの利益のために地位を利用しようとする誘惑が政治エリートたちのあいだにつねに存在することがわかるはずだ。 第 7章ではこの点についてさらに深く突きつめていくが、いまの時点で理解しておきたいのは、国家を寡頭制から議会制民主主義へと移行させる心理は、きわめて複雑であるということだ。おそらく、ここで注目すべきは「利益の多様性」という要素だろう。エリートの誰もが同じ一連の規則(たとえば、外国との競争を防ぐための高い輸入税)から恩恵を受けるとすれば、エリートの利益が大衆の利益よりも優先されるという大きな危険が生まれる。しかし社会に高度な多様性があり、エリートの利益がそれぞれ相反するとき(エリート階層が農業従事者、製造業者、商人、サービス業者といったさまざまな業種で構成される場合など)、現実的な妥協案は「基本的に公平な規則体系」を作るということになる。 子どもたちのあいだで公平性に対する好みが生まれる際にも、同じような心理の流れが見て取れる。まだ幼い子どもたちは、まわりの人より多くを受け取ることを好む。しかし幼児期の中期に差しかかるにつれて、今日の利益が明日にはいとも簡単に不利益に変わる可能性があることに気づきはじめる。必然的に他者は自己よりも数が多いため、そのうち子どもたちは、不公平な状況は自分よりも相手に有利に働く場合が多いという事実を知り、自己と他者のあいだで比較的平等な結果になることを好むようになる。心理的に安全なのは公平な分配に徹することであり、それこそが長期的に自己に確実に利益をもたらすことになる。 わたしのふたりの子どもたちは、兄のほうが妹よりも公平性を重視しているように見える。しかし現実には、兄が妹よりもさきに確率を計算しているにすぎない。キャンディ・ランドやモノポリーをして遊んでいる最中、まだ幼い妹が別のカードを引きたいと駄々をこねたとき、それがズルだと気づいた兄は強く抗議した。じつに驚くべきは、兄に有利になるようにわたしたちがルールを曲げようと提案したときにも、彼が同じように頑として撥ねつけたことだ。わたしは愚かにも、息子が強い正義感をもつことを誇らしく感じたものだ。ところが実際には息子は、公平こそが長期的な自己利益につながることをそれまでの経験から学んでいたのだ。 自身が属する集団を支配できず、長期的に優位な立場を保つことがむずかしいと感じたとき、人は息子と同じ心理状態となり、公正なルールを強く求める。わたしたちの多くは、公平を好む傾向が自己利益から生まれたものだとは気づいていないかもしれない。しかし、イギリスの思想家アクトン卿の有名な格言を思いだしてほしい──「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」。これは、信用できる人などいないと本心では全員がわかっているという証だろう。村から都市へ ホモ・エレクトスは分業という制度を生みだし、多くの恩恵を受けた。しかし、人々が専門家となって特定の関心事や才能を一生をかけて追い求めたときにこそ、分業の真の可能性が発揮される。そのような専門化が実現したのは、ほどほど大きな集団がほどほど小さな空間に集まるようになってからだ。つまり、作物の収穫や洗濯物の取り込みについて心配することなく、自らの利益に集中できるようになったあとのことで、それを可能にしたのは都市だった。小さな村に住んでいたら、誰も鍛冶職人になろうとは思わないかもしれない。あるいは、村で唯一の鍛冶職人が別の村の女の子と恋に落ち、遠くに引っ越してしまう場合に備え、村人は自分で馬の蹄鉄を修理できるようにしておくのが無難だろう。しかし都市には多くの人がいるため、あらゆるモノやサービス──必要ではあるものの、自分だけでは実現できないこと──を提供してくれる誰かが必ず存在する。 ミケランジェロは小さな村社会で同じ成果を上げることはできなかっただろうし、それはニュートンやシェイクスピアも同じ。わたしのお気に入りのバリスタは自身を芸術家とは呼ばないものの(れっきとした芸術家だと思うが)、彼女の作る華麗なカフェ・マキアートもまた、村社会には存在しなかったにちがいない。つまり都市がなければ、人々はほかのすべてを排除してひとつの技術に力を注ぐことなどできるはずがなく、画期的で新しいものを作りだす専門性を磨くことは不可能だった* 4。 都市と真の専門知識が生みだされたことによって世界は、それまでずっと続いていた生産性の低い状態から離れ、〝ゼロ和ゲーム* 5〟からついに解放されることになった。古い世界では、他人の不幸を代償にしなければ幸運を手にすることはできなかった。しかし専門知識によってパイ全体のサイズが大きくなり、全員に恩恵を与えるような新しい技術が生みだされた。イラク南東部にあるウルクこそ、六〇〇〇年前にパイが大きくなりはじめた場所かもしれない。「ローマは一日にして成らず」ということわざがあるが、ウルクも同じだった。五〇〇〇年前の時点でこの街にはすでに数万人もの人が住み、書物、陶器、貿易品が古代ウルクから中東じゅうにじわじわと広がっていった。ウルクの繁栄、それに引きつづくほかのすべての都市の出現とともに、世界はより豊かでよりよい場所になっていった。 代償のともなわない変化などあるはずもなく、都市への移り変わりも例外ではなかった。史上はじめて、われわれの祖先たちは顔見知りや赤の他人に囲まれて生活することになった。もしあなたが都市の住人として見ず知らずの他人と毎日顔を合わせているとすれば、たいした変化には思えないかもしれない。しかし、慣れていない人にとっては恐ろしいことだ。わたし自身、二〇年ほどまえに上海を訪れたときにそのような混乱を経験した。ぜひ訪れてみたかった有名な市場に着くと、そこが人間版イワシ缶のような場所であることがすぐにわかった。とんでもない数の人がごく小さな空間に集まり、まさに押し合い圧し合いの状態だった。そのロックライブの会場のような市場に入ることを決めたわたしは、両腕を身体の横にぴったりつけ、群衆のなかを恐る恐る進んでいった。わずか数分のうちに、精神が崩壊するかのような感覚に襲われた。見知らぬ人々の顔、腋の下、そのほかさまざまな身体の部位が、四方八方からわたしに押しつけられ、どんなに逃れようとしても自力では何もできなかった。最後にはなんとか抜けだすことができたものの、わたしの上海の思い出はその経験にすべてかき消されてしまった。狩猟採集民や初期の農民にとって、はじめて訪れた都市で遭遇した見知らぬ人々の群衆は同じように心を惑わせる光景だったにちがいない。 小さな村では全員が全員と知り合いであり、実際に話したことはなくても相手の評判くらいはたいてい知っているはずだ。誰が信頼できるのか、信頼できないのか、誰がかんしゃくもちで、誰がやさしい性格なのか、誰が有能で、誰が無能なのかをみんなが知っている。しかし、見知らぬ人だらけの都市の住人たちは、店やバーで互いに出会ったときにどうなるかを知ることができない。この新たな展開に、人類はふたつの大きな心理的変化を利用して対応した。 まず、見知らぬ他人に対処する際にとるべき安全な戦略は、礼儀正しく接することだ。たしかに、暴力レベルの高い文化では、礼儀正しさのレベルも高いことが多い。たとえば、アメリカ南部の人々は礼儀正しく親しみやすいことで有名だが、同時に彼らは、とくに無礼な態度をとられたときに相手に暴力で反応する割合もきわめて高い。高いレベルの礼儀正しさや親しみやすさと、高いレベルの暴力は互いに矛盾するようにも思える。が、実際のところこのふたつは表裏一体だ。怒りっぽい暴力的な人々に囲まれたとき、その状況を切り抜けるための賢明な戦略は、全員に対して(知らない人にはとりわけ)礼儀正しく接することだろう。 都市への移動にともない、わたしたちの祖先は見知らぬ人に無条件で礼儀正しくするという戦略をとるようになった。狩猟採集民の社会では互いの関係に合わせて相手に対応するため、このような習慣は存在しない。しかし、見知らぬ人がひしめき合う都市の住人たちは、一定のレベルの礼儀と敬意を相手に求め、自分も同じような態度で応対しようとする。歩いている途中で滑って転んでしまったとき、まわりの通行人は身体をまたいでそのまま進むのではなく、避けて歩いてくれるものだとわたしたちは考える。くわえて、その無様な姿にげらげら笑ったりはしないはずだ。地面の上に食料品の袋を落としてしまったら、きっと周囲の見知らぬ人たちは拾い上げるのを手伝ってくれるはずだ。少なくとも、食べ物を盗んで逃げたりはしない。 さらに都市の生活では、相手を外見で判断する傾向が強くなった。「本の中身を表紙だけで判断してはいけない」という格言は、狩猟採集民の社会では使われたことがなかったはずだ。そもそも外見で中身を判断する理由などなく、交流する全員が知り合いだったからだ* 6。すべてのページを読んだこと

があるのに、表紙で本を判断する必要などあるだろうか? ところが都市での生活では、出会った相手の能力や性格についてほとんど情報がないため、その見かけに大きく頼らざるをえなくなる。 たとえば、赤の他人が語る大きな獲物についての話には真実味があり、誇張癖のある親しい仲間の話よりもずっと印象的だ。同じように、友人や隣人による思い上がった自慢話には多くの人が顔をしかめるのに対し、見知らぬ人による自信過剰な態度は一般的に能力の徴だと判断される。第 7章でさらに深く検討するとおり、都市生活によって生まれる外見への過度の信頼はじつに疑わしいものだ。なぜなら、その主張について判断するときに、本人の普段の行動を基準とすることができないからだ。 とはいえ、外見で人を判断することがまったく不可能というわけではない。それどころか、人間は驚くほどそのような判断を得意としている。しかし「驚くほど得意」というのは、誰が友好的なのか、誰が有能なのか、誰に悪意があるのか、〝偶然〟よりはましな確率で判断できるというだけだ。実際のところ、不親切な人の多くが第一印象では友好的に見えるし、無能な人の多くが有能な雰囲気を醸しだしている。さらに、かなりの数の社会病質者が言葉巧みに信用を勝ち取り、気づかぬうちに人から金を巻き上げている(あるいは高い地位に就いている)。 幸いなことに、一見すると些細な情報を使い、わたしたちは他者を正確に判断することができる。たとえば、好きな曲目リスト、大学の寮の部屋、住んでいる部屋を見れば、その人物の性格について一定の情報を得ることができる。外見も同じようにたくさんの情報を与えてくれる。服装、髪形、身だしなみの多くの側面が、人の性格と気質を明らかにする。 わたし自身の例でいえば、妻とはじめてのデートに出かけるまえから(つまり、オハイオ州祭りで少年に負かされたことを妻に慰められるまえから)、彼女と性格が合うかもしれないとすでに予感していた。過去の交際相手と比べてそう感じたわけではなく、将来の妻の外見や話し方のどこかに、この人とは絶対に気が合うと思わせるなにかがあった。研究によれば、そういった些細な態度が驚くほど他者に影響を与えることがあり、香りのような一見すると無関係と思われる要素がきわめて大切な役割を果たしている可能性もあるという。しかしながら、そのプロセスがどう機能するかについてはほとんど解明されていない。インターネットによる回帰 おそらく、都市への移り変わりによってもたらされるもっとも大きな犠牲は、人間性の邪悪な部分がより前面に出てくる状況が生まれるということだろう。見知らぬ人がいない小さな共同体では、噓、騙し、盗みはもちろん、他者を利用することは容易ではない。狩猟採集民の祖先たちが不正を働いたとき、その影響から逃れることなどできるわけもなく、噂話によって悪い評判が立つのは免れなかった。しかしながら都市では、友好的で信頼できる人々を利用し、不誠実さがバレるまえに逃げだすのは簡単なことだ。現代では家や職業をたびたび変えることができるため、ソシオパスが噂話から一生逃げつづけるのも不可能ではない。 ソーシャル・メディアの普及によって、わたしたちはこの問題に真っ正面から対峙することになった。それにともなって現代の社会は、互いに密接に結びついた先祖の世界へと押し戻されようとしている。多くのウェブサイトは、評判を伝えることを大きな目的として設計されている。たとえばトリップアドバイザーは、あるホテルの設備が清潔かどうかを教えてくれるだけではなく、利用したあとに不満や喜びを不特定多数の人に伝える機会をユーザーに与える。そのようなウェブサイトは、本来であれば無力な消費者に、巨大企業と闘う武器をもたらしているのだ。 多くのウェブサイトは、見知らぬ人の評判を個人的に知る術を提供することによって人気を得ている。たとえば誰かの前科をネットで調べることもいまでは珍しい行為ではなくなった。一方、ウーバー、 Airbnb、 eBayはみな、双方向への評判の伝達というビジネスモデルのうえに成り立っている。相手のことをまったく知らなければ、その人物を車に乗せたり、家に宿泊させたりするのは不安かもしれない。しかし過去にその人を車に乗せたり、家に宿泊させたりしたことのあるほかの多くのユーザーの評価があれば、相手がどんな人物なのかをだいたい把握することができる。 評判を広く伝えることによって、これらのウェブサイトは人々が搾取されるリスクを最小限にとどめる。すべてのやり取りは両方の当事者によって評価されるため、購入者と販売者のどちらにも互いに公正かつ誠実に取引しようという意識が働く。相手の車や家をぞんざいに扱ったら、次にタクシーを呼んだり民泊先を予約したりするとき、自分の行動に対して大きな代償を支払うことになる。われわれの先祖たちがなるべく公正かつ誠実に互いに対応しようとしたのは、そうしなかったときの社会的犠牲があまりに大きかったからだ。同じように、これらのウェブサイトで不正を働けば、ユーザーにとっての社会的( =経済的)犠牲はきわめて大きなものになる。 評判を共有することを目的に作られたこれらの方法にくわえて、フェイスブックなどのウェブサイトを使えば、一市民でも搾取された事実を世界に知らしめることができる。たとえば、オーストラリア人の詐欺師ブレット・ジョセフについて考えてみよう。彼はたびたび女性を誘惑し、金を巻き上げた。ところが初期の被害者のひとりが、ほかの女性たちへの被害を防ぐためにウェブサイトを起ち上げ、ジョセフの写真、名前、詐欺の手口を公表した。彼は引きつづき詐欺を働こうとしたものの、被害に遭いそうになった女性たちが賢明にもグーグル検索をしたため、試みは何度も阻止された。その後ジョセフはアメリカに移り住み、自分の評判からなんとか逃れようとした。しかし結婚許可証を申請したときに当局から指摘を受け、偽名を使っていたことを婚約者に告白せざるをえない状況に追い込まれた。不思議に思った婚約者がジョセフの正体を突き止めるのに、時間はかからなかった。狩猟採集民の祖先たちの社会と同じように、ブレット・ジョセフはどこに行っても自らの評判から逃れることはできなかった。 この意味でいえば、わたしたちが自由に使うことのできるソーシャル・メディアとさまざまな〝評価ボタン〟は、他人の親切心につけ込もうとするソシオパス、ならず者、詐欺師、たかり屋に抗うための大きな武器になる。しかし当然ながら、代償のない恩恵など存在しない。なかでも目立つ代償は、ソーシャル・メディアによって人々が袋だたきに遭うケースがあるということだろう。多くのユーザーは実際には犯人を知らないため、同情心をもって態度を和らげようなどとは考えない。行儀の悪い人物に対する過剰反応や炎上がたびたび起こり、客観的に見ると軽微な違反行為にもかかわらず、多くの人の人生がめちゃくちゃにされてきた。愚かで無神経なツイートによって、あるいは内輪の冗談だと思って投稿したコメントによって、いまや数時間のうちに人々は職を失うようになった。 ここではジンバブエでセシルという名のライオンを撃ち殺したミネアポリス在住の歯科医、ウォルター・パーマーの物語を例として挙げたい。パーマーは知らなかったものの、セシルはワンゲ国立公園に棲む人気のライオンであり、オックスフォード大学の野生動物保全調査ユニットによって行動が観察されていた。パーマーはライオンを弓で狩るために五万四〇〇〇ドルを支払い、国立公園近くの農場を借りていた。セシルのような威風堂々としたライオンが農場の敷地内にさまよい込んできたとき、パーマーはぞくぞくしたにちがいない。彼は弓矢でセシルを一発で仕留めることに失敗したが、一一時間後にパーマーのチームが負傷したライオンを見つけて銃で殺した。その段になってはじめて彼らは、ライオンの首に監視装置がついていることを知った。 この悲劇は、いくつかの良い結果へとつながった。ライオンの個人的な輸入が多くの国で禁止され、四〇以上の航空会社が狩猟された動物の輸送を拒否することを発表した。アフリカの数カ国でライオン保護の規則が強化され、野生動物保護団体への寄付も増えた。その一方で、パーマー本人への人々の反応は残酷なものだった。多くの人が戦利品目的の狩り(トロフィー・ハンティング)を痛烈に批判したが、パーマーは法律を破ったわけでも、観察中のライオンを故意に殺したわけでもなかった。彼の行動は、スリルを求めて合法的に動物を殺すほかの幾千の狩猟愛好家たちのものとなんら変わりなかった。

にもかかわらず、帰国したパーマーは国際的な非難にさらされ、経営する歯科医院の前では抗議活動が行なわれ、家や車が壊され、動物愛護運動家から殺しの脅迫を受けた。危険を感じたパーマーと妻は身を隠し、ボディガードを雇うことを余儀なくされた。一年たってもメディアによる批判は収まることがなく、一部の報道機関は彼の顔や居場所の写真を公表した。 自業自得だと感じる人も多いだろうし、そのとおりかもしれない。しかし、もしパーマーと個人的に知り合いで、ライオン殺し以外の彼の側面を知っていたとしたら、怒りや嫌悪感は和らぐのではないだろうか。インターネットの普及によってわたしたちは評判を広めるという先祖代々の知恵を取り戻したが、それは過剰反応というあまりに大きな代償をともなうものだった。見知らぬ人々は、たったひとつの悪事のみをとおして犯人を知り、彼らのほかの長所には眼を向けようとしない。ソーシャル・メディアは小さな共同体──人類が進化を遂げてきた環境──の恩恵の一部をわたしたちに与えてくれた。しかしそれは、先祖の暮らし全体がひとつの〝パッケージ〟だったことを証明するものかもしれない。そして、評判を広める現代版の方法がもたらす恩恵は、見知らぬ人々の過剰反応に圧倒されてしまった。 七〇〇万年前の東アフリカの熱帯雨林から今日の都市への人類の旅は並外れたものだった。何度絶滅してもおかしくない環境のなかで人々は生き残り、繁栄を続けてきた。この旅のあいだに人類の性格と能力は進化し、チンパンジーのような生き物から現在の人間へとゆっくり変わっていった。しかし、生き残りと繁栄は全体の物語の一部でしかなく、進化に対してより大きな影響を与えるのは繁殖のほうだ。次の章では、先史時代の最後の大切なポイントに注目したい──先祖たちの繁殖習慣は、現代の人間の心理にどのような影響を与えたのか?

*1 デジタル時代の幕開けは人類にとって似たようなやっかいな状況を作りだしたのではないか、と考えている人もいるかもしれない。つい最近まで電話は固定回線に接続されており、誰かに文字で何かを伝えたければ手紙を送る必要があった。そのころのわたしのもとには、友人から一日に一度か二度ほど電話がかかってきた(相手が外出している可能性が高いときには、誰も電話をしようなどとは思わなかった)。毎日、一 ~二通の手紙も届いた。携帯電話、インターネット、電子メールの普及によって、誰もがつねに連絡を取り合うことができるようになったが、そのような接続は犠牲がともなうものだった。わたしとしては家族、友人、同僚、学生にこれほど簡単に連絡をとれるのはとても喜ばしいことでもある。しかし、世界じゅうと瞬時につながるというのは、携帯電話やノートパソコンに一日に一〇〇回も仕事の連絡が入ってくることを意味する。初期の農民たちと同じように、三〇年前に電子メールのアカウントを作ったときのわたしは、将来何が待ち受けているのかまったくわかっていなかった。人生をより楽にしてくれるはずだと当時は確信していたが、いまではそれも疑わしい。そして、その世界から抜けだすことは非常にむずかしくなった。 *2 もちろん、このルールにはさまざまな例外がある。たとえば一年の特定の時期、オスのヌーは草地の一角を縄張りにしてほかのオスのヌーを追いだし(シマウマやインパラのようなほかの草食動物は追いださない)、その土地を使ってメスを誘惑する。 *3 アジア全域への征服の途中でチンギス・ハーンは多くの女性を強姦した。くわえて、ハーンやその子孫たちにも膨大な数の愛人がいた。これらの行ないが真実だとすれば、モンゴルや周辺地域で彼の遺伝子がより大きな比率で発見されてもおかしくはない。この仮説について調査を進めた遺伝学者たちは、 Y染色体の特定の遺伝子の並びに注目した。その並びはモンゴルが征服した地域では一般的だったが、ほかの場所ではまれであり、およそ一〇〇〇年前に由来するものだと推測された。歴史的な記録と照らし合わせた結果、その遺伝子は八〇〇年前に生きていたチンギス・ハーン本人から引き継がれたものである可能性が高いと結論づけられた。 *4 しかしながら、以下の点も指摘しておきたい。都市どころか農業が存在しなくても、高度かつ明確な分業を生みだし、人々が専門家になることを可能にした社会もあった。ところが、そのような文化的習慣は真の専門技術こそ生みだすことはできるものの、専門分野についての選択肢や多様性の幅はほとんどない。その種の社会では、ただ情熱があるからという理由だけで芸術家やレンガ職人になるという道を選ぶことはできない。むしろ、ある役割に対するニーズの存在が不可欠であり、文化的ルールによってその人物がその仕事に適していることが示されなくてはいけない。くわえて、かつては都市が形成されなければ個人的に選んだ専門分野の技術を学ぶことはできなかったが、現在では専門知識を身につけるために都市に住む必要はなくなった。近代的な交通機関が利用できるようになると、人々はどこにいても自分の興味を追求する機会を得られるようになった。 *5 ゼロサムゲームとは、報酬の量が事前に定まっている闘いや交渉のことで、ある人の利益はつねに他者の損失を意味する。たとえばパイの共有もゼロサムゲームのひとつであり、 Aさんが全体の二分の一以上の大きさの一切れをとったら、 Bさんはより少ない量しかもらえないことになる。 *6 もちろん、未知の集団と遭遇したときに見知らぬ人々と出会うことはあったが、そういった状況は危険に満ちたものであり、今日のような他人同士の社交辞令は必要とされなかった。

*1 デジタル時代の幕開けは人類にとって似たようなやっかいな状況を作りだしたのではないか、と考えている人もいるかもしれない。つい最近まで電話は固定回線に接続されており、誰かに文字で何かを伝えたければ手紙を送る必要があった。そのころのわたしのもとには、友人から一日に一度か二度ほど電話がかかってきた(相手が外出している可能性が高いときには、誰も電話をしようなどとは思わなかった)。毎日、一 ~二通の手紙も届いた。携帯電話、インターネット、電子メールの普及によって、誰もがつねに連絡を取り合うことができるようになったが、そのような接続は犠牲がともなうものだった。わたしとしては家族、友人、同僚、学生にこれほど簡単に連絡をとれるのはとても喜ばしいことでもある。しかし、世界じゅうと瞬時につながるというのは、携帯電話やノートパソコンに一日に一〇〇回も仕事の連絡が入ってくることを意味する。初期の農民たちと同じように、三〇年前に電子メールのアカウントを作ったときのわたしは、将来何が待ち受けているのかまったくわかっていなかった。人生をより楽にしてくれるはずだと当時は確信していたが、いまではそれも疑わしい。そして、その世界から抜けだすことは非常にむずかしくなった。 *2 もちろん、このルールにはさまざまな例外がある。たとえば一年の特定の時期、オスのヌーは草地の一角を縄張りにしてほかのオスのヌーを追いだし(シマウマやインパラのようなほかの草食動物は追いださない)、その土地を使ってメスを誘惑する。 *3 アジア全域への征服の途中でチンギス・ハーンは多くの女性を強姦した。くわえて、ハーンやその子孫たちにも膨大な数の愛人がいた。これらの行ないが真実だとすれば、モンゴルや周辺地域で彼の遺伝子がより大きな比率で発見されてもおかしくはない。この仮説について調査を進めた遺伝学者たちは、 Y染色体の特定の遺伝子の並びに注目した。その並びはモンゴルが征服した地域では一般的だったが、ほかの場所ではまれであり、およそ一〇〇〇年前に由来するものだと推測された。歴史的な記録と照らし合わせた結果、その遺伝子は八〇〇年前に生きていたチンギス・ハーン本人から引き継がれたものである可能性が高いと結論づけられた。 *4 しかしながら、以下の点も指摘しておきたい。都市どころか農業が存在しなくても、高度かつ明確な分業を生みだし、人々が専門家になることを可能にした社会もあった。ところが、そのような文化的習慣は真の専門技術こそ生みだすことはできるものの、専門分野についての選択肢や多様性の幅はほとんどない。その種の社会では、ただ情熱があるからという理由だけで芸術家やレンガ職人になるという道を選ぶことはできない。むしろ、ある役割に対するニーズの存在が不可欠であり、文化的ルールによってその人物がその仕事に適していることが示されなくてはいけない。くわえて、かつては都市が形成されなければ個人的に選んだ専門分野の技術を学ぶことはできなかったが、現在では専門知識を身につけるために都市に住む必要はなくなった。近代的な交通機関が利用できるようになると、人々はどこにいても自分の興味を追求する機会を得られるようになった。 *5 ゼロサムゲームとは、報酬の量が事前に定まっている闘いや交渉のことで、ある人の利益はつねに他者の損失を意味する。たとえばパイの共有もゼロサムゲームのひとつであり、 Aさんが全体の二分の一以上の大きさの一切れをとったら、 Bさんはより少ない量しかもらえないことになる。 *6 もちろん、未知の集団と遭遇したときに見知らぬ人々と出会うことはあったが、そういった状況は危険に満ちたものであり、今日のような他人同士の社交辞令は必要とされなかった。

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