はじめに「あの人の本心がわからない」「何を考えてあんなことを言ったのだろう」―私たちは、対人関係で悩まされることが多い。
職場で、学校で、地域での対人問係でストレスが生じることも多々ある。
そんなとき、自分に他人を見る目、相手の心を知る手がかりがあれば悩まなくても良いことが多い。
本書では、シチュエーションごとに、人間関係の対応について考えてみた。
参考にしていただきたい。
目次・人の心を見抜く 69の方法はじめに
第 1章/気がきかない人と思われないためにホンネとタテマエの見分けかた
1 自慢話を聞いてあげることも大切である 2「結構です」に秘められた日本人的心理のウラ 3 お茶を濁されたら引き際が肝心 4 知識披露のトークショー、楽しいのは本人ばかり 5 女性が自分を卑下するのは否定して欲しいサイン! 6 言い訳よりも非を認めたほうが潔く見える 7 失敗談を話すのは打ち解けようとしている証拠 8 毒舌家はかっこよくもなんともない! 9「気にしないで」をそのまま受け取ってはダメ 10 叶いたるは良し、叶いたがるは悪し 11「今日は都合が悪くて……」の断わりは明日も明後日も悪い? 12 人の期待を裏切ったと思ったら誠意を見せよう 13 人のコンプレックスは極力刺激しないことだ 14 無責任にうらやましがることなかれ 15 自分を多忙に見せるのは人に認めてもらいたいから 16 ありがとうが素直に言えるのは素晴らしい人 17 自分を「特別な存在」だと思いたい人がいる
第 1章気がきかない人と思われないためにホンネとタテマエの見分け方
1 自慢話を聞いてあげることも大切である 酒の席などで人が集まると、誰が聞いたわけでもないのに「うちの息子はよくできていて……」「うちは主人が社長をやっているから……」などと自慢話をしはじめるタイプの人がいる。
こういう場合、周りの人間は当然面白くないのだが、あまりあからさまに無視もできないので、とりあえず「へぇ ~!」「すごいですね」と無難な相槌を返していることが多いはずだ。
しかし当の本人は、周囲が嫌々聞いてくれているのだという事実には気がつかず、ますますいい気分で自慢話を続け、さらに場をしらけさせる……。
このように、自慢話を長々と聞かされるのは、実に鬱陶しいものである。
しかし、そうやって「自慢話は嫌われる」とわかっているにもかかわらず、つい自分でも話したくなってしまうことはないだろうか。
仕事で手柄をたてたときや、恋人に素敵なプレゼントをもらったときなど、自慢話になるとわかっていつつも、どうしても我慢できず、さりげないふりで人に話してしまった経験はきっと誰にでもあるはずだ。
では、なぜ人は自慢話をしたくなってしまうのだろうか。
また、なぜ私たちは自慢話を鬱陶しいと思うのだろうか。
自慢話は、心理学的に私たちが本能的に持っている「自己愛」を満足させるためのものだと言われている。
人は誰しも自分がかわいい生き物であり、その自己愛を満たすために、自分のみならず周囲からも褒めてもらいたい、認めてもらいたいと欲する。
その手っ取り早い方法が自慢話なのである。
自分の優れたところや価値を言葉として口に出すことでそれらを確認し、また、他人からも認めてもらえるからだ。
一方、なぜ他人の自慢話を鬱陶しいと感じるかと言えば、それは、話を聞いている間は自分の自己愛が満たされないからだ。
つまり、話の内容が嫌なのではなく、他人の自己愛ばかりを一方的に満たしている状況が嫌なのである。
そう考えると、人間というのは随分と自分勝手なものに感じられる。
自分の自慢話は聞いて欲しいのに、他人の自慢話は聞きたくないというのだから。
それでは、私たちは自慢話とどのようにつきあっていけばいいのかといえば、それは、ギブアンドテイクの精神である。
もし相手がなにか自慢話をしてきたときは、「うんうん」と聞いてあげよう。
そしてその話が終わったときに、自分もなにか聞いて欲しい話があれば、素直に言えばいい。
相手は自分の話を聞いてもらった後なので、あなたの話もきちんと聞いてくれるはずだ。
これで、あなたの自己愛も相手の自己愛も、平等に満たされることになるのである。
逆にギブアンドテイクを理解せず、ひたすら自分の自慢話ばかりする人は、 次第に周りから疎まれ、話し相手を失っていくだろう。
もちろん、全員が持ち回りで自慢話をしているだけの会合になってしまうのは困るので、引き際はわきまえなくてはいけない。
しかし、度を越さなければ、自慢話は自己愛を満たし、精神を安定させてくれる「精神安定剤」の役目をするものなのである。
2「結構です」に秘められた日本人的心理のウラ たとえば、 Bさんという人がひと仕事終え、くたくたの腹ぺこになって Aさんのもとを訪れたとする。
Aさんはとても美味しそうなケーキを出して Bさんを迎えてくれた。
以下はその時の Aさんと Bさんの会話である。
Aさん「お疲れさまでした。
さあケーキでも召し上がってください」 Bさん「いや、お気持ちだけで結構です」 Aさん「そんな、遠慮なさらずに、どうぞ」 Bさん「そうですか? それではありがたく……」 この場合、 Bさんはお腹が空いているのだから、最初からケーキを喜んで食べるつもりでいたに違いない。
それにも関わらず、口では「結構です」と遠慮している。
一方 Aさんは、断られたにも関わらず、再度ケーキを勧めている。
そして Bさんはようやく「それでは」とケーキを口に運ぶ……。
Bさんが最初から食べるつもりだったことを考えると、このようなやりとりは実に時間の無駄だと感じられる。
しかし、日本ではこういったやりとりはごく当然に行われており、それどころかこの呼吸がわからないと、「場の雰囲気の読めない人」という烙印を捺されてしまうのだ。
ベストセラー『「甘え」の構造』(土居健郎著・弘文堂)では、「口に出さずに他人の好意をアテにすること」を「甘え」と呼び、日本社会で生活していくために必要な「能力」であるとしている。
右のようなケースはまさしく「甘え」の典型例だと言えるだろう。
Bさんは、本当はお腹が空いていたのに「日本人らしく」遠慮して、ケーキを断った。
しかし内心で Bさんは、断っても Aさんはきっともう一度ケーキを勧めてくれるはずだと想定していた。
つまり、他人の好意をアテにしていた =「甘え」ていたのである。
そして、もしも Aさんが Bさんの言葉通りにケーキを下げてしまったら、 Bさんはアテが外れたことになり、 Aさんを「なんて気のきかない人だ」と思うに違いない。
( Aさんは Bさんの言葉に従っただけにも関わらず!) だから Aさんは、 Bさんの言葉が建前であるということを察して、もう一度ケーキを勧めなくてはいけない。
それでこそ、円満な日本的人間関係が築けるのである。
近年はアメリカ的なはっきりしたものの言い方が良いとされる傾向もあり、自分の意見や要望をはっきり相手に伝えることこそが大事だ、とも言われる。
しかし実際には、長年つちかわれた日本的土壌、日本的社会がそう簡単に変わるわけではない。
私たちは依然として日本的な社会の中に生きているのであり、この社会で他人と上手くやっていきたいと思ったら、このような「甘え」の構造を無視してはいけないのである。
3 お茶を濁されたら引き際が肝心 たとえば、新しい企画を思いついたとする。
あなたは自信満々にその企画を職場の上司や仕事先に持ち込んだ。
そして一通りのプレゼンテーションを終えて、相手の反応をうかがうと、「よくわかりました。
考えておきますよ」 だけだったとする。
こういう場合、相手は一応「考えておく」とは言っているものの、おそらくその企画は企画だおれに終わるだろう。
相手はあなたの企画に対し、まったく興味がないと思っておくのが無難だと言うことだ。
もしも興味があるのなら、もっとつっこんだ質問や、「〇日までに書類をそろえて持ってきてください」などと具体的な要望が出るはずだからだ。
また、プライベートで、気になる異性や仲良くなりたい相手などに対して遊びに行こうと誘ったとする。
そういうときに相手から返ってきた返事が、「そうね。
そのうちスケジュールが合ったらぜひ行きたいわね」 というようなものだったら、これもやはり、脈なし。
相手にはあなたと遊びに行く気がないと思っておこう。
もし本当にあなたと遊びたかったら「そのうち」などとは言わず、そのために積極的にスケジュールを調整してくれるはずだからだ。
こういう反応を「お茶を濁す」と言う。
相手の立場や気持ちを慮ってはっきりとは言わないが、ものごとを曖昧にぼかすことで自然消滅を狙う、実に日本的な話法である。
日本人は「相手に嫌われたくない」という感情が強いと言われている。
その意識がこういった「お茶を濁す」という言い回しを生んだのだ。
謙遜や遠慮も同様に相手を慮って生まれたものである。
お茶を濁すのは、相手があなたの提案や誘いをはっきり断ることであなたに嫌な思いをさせ、それによって自分が悪者になりたくないから、また相手にマイナスの感情を抱かせたくないからだ。
相手にお茶を濁されたときは、まず自分があまり歓迎されていないということに気づくことが必要だ。
「考えておく」という言葉を本気にして待っていても、相手からはなんのアクションもないだろう。
じっと待っていては恥をかくだけだ。
こういうときは、潔く身を引くか、もしくはなにがだめだったのかをよく考え、他のアプローチで再チャレンジしてみよう。
もっとも、ビジネスの場では明確な返答を求めることはかならずしも悪いことではない。
日本的社会とはいえ、はっきりしたことがわからなければ実際に身動きが取れず、ビジネスチャンスを逃してしまうことになる。
そのため、相手がお茶を濁すつもりだなと感じたときに、自分からはっきりと返事を求めてもいい。
はっきりと要求を口にすることで、相手に「こいつはいいかげんには対応できないぞ」と思わせることもできるだろう。
相手をよく観察してケースバイケースで対応するのが良い。
4 知識披露のトークショー、楽しいのは本人ばかり 好きなものや得意なものに関しては、誰もが饒舌になるものだ。
これは決して悪いことではない。
物事に関して持っている知識や得た知識をいろいろなところでいろいろな人間と話し、論議を交わしていっそう造詣を深めることは素晴らしいことである。
しかし、相手にその気がないのに延々とうんちくを語るのは問題だ。
人は、自分がよく知っていて好きなものの話となると、頼まれてもいないのについ細かく説明して、それがいかに素晴らしいかを周囲の人間に理解させようとしてしまう。
これは別に趣味や専門の話に限ったことではない。
昨夜見たドラマが面白かったとか、レストランの料理がとても美味しかったとか、そういった話をつい熱っぽく人に語ってしまった経験は誰にでもあるのではないだろうか。
これは自分が好きなものや感動したものを相手にもわかって欲しい、その気持ちを共有して欲しいという感情から出る行動だ。
つまり、悪気のない行動である。
むしろ相手に素晴らしい世界を提供しようという、純粋な好意から熱弁をふるう人もいる。
しかしこういう話となると、聞いている相手は、最初こそ熱心に聞いてくれていても、あまりにもあなたの話が長くて説明的なものだから、次第にうんざりしはじめ、そして「はやく終わらないかなぁ」と考えるようになる。
まるで退屈な授業を受けているような気分になるのだ。
自分の知識を披露したい気持ちはわかるが、一方的に専門知識や具体的すぎる説明を並べ立てても、聞いているほうは半分くらいしか理解できていないと思っておいたほうがいい。
いや、理解しようという気も失せるのだ。
また、たとえそうであっても相手を責める権利はない。
会話とはキャッチボールである。
自分が好きなものを人に話したいのであれば、相手が興味を持ち、発言を返せるような話し方でなくてはいけない。
たとえばお気に入りの画家について、「代表作の △ △は A国の × ×美術館にあって、この絵は ○ ○を描いて高い評価を受けているんだけれど、僕としてはちょっと色味が気に入らないんだよね。
それより B国の C市ってところにある □ □美術館の特別展示室に……」 のようにいくら語ったところで、目の前に絵があるわけでもなし、聞いている側の心に響くはずがない。
そこで、話題の提供の仕方を変えてみよう。
絵にまつわる面白いエピソードや画家に対しての人物評など、なんでもいいので絵に興味のない人でも話に参加できるような「一般性」を持った話にするのである。
それを面白く話せれば言うことなしだ。
それでも相手が乗ってこないようであれば、あまり長くならないうちに話題を変えてしまおう。
専門的な話は、別の機会に、共通の趣味を持った人とすればいいのだ。
自分の好きなものを人にすすめたいと思っても、ひとりよがりのトークショーになった挙句、自分まで鬱陶しがられてしまってはばかばかしい。
5 女性が自分を卑下するのは否定して欲しいサイン!「私って太ってるから、今時の服って着られないのよね」「近頃、肌が荒れちゃって……」 などとすぐに口に出す女性。
あなたの周りにもいないだろうか? そしてこのようなセリフを女性に言われると、「全然そんなことないよ!」「なに言ってるの。
キレイな肌してるよ」 と返すしかないのが現実である。
実際にちょっと太めの女性であったとしても、本人が「太ってる」と言えば、周りはそれを否定するしかない。
「そうだね」などとはなかなか言えるものではないし、もし言ってしまったら、相手の女性は大きなショックを受け、あなたを恨むだろう。
また、誰が見ても太っている女性が「私は太ってる」と言った場合に、「美味しいものを我慢してダイエットするよりいいよ」 などと、苦しいセリフを言わされることもある。
なんにせよ、女性が自分を卑下したセリフを言う場合は、それを否定して欲しいから言うのである。
否定どころか、「スタイルいいくせに、なに言ってるの」と褒め言葉すら期待しているのである。
女性ばかりが輪になって話していると、「最近、体重増えちゃって、ダイエットしてるの」「えっ! 十分細いじゃない。
私のほうがダイエットしなくちゃ」「あなたこそ痩せる必要ないわよ、羨ましい。
私こそ……」 と、延々とお互いを褒めあっているときがある。
なんともばかばかしいと思うかもしれないが、女心のデリケートなところなのである。
職場でもプライベートでも、女性を敵にまわすのはあまり喜ばしくない。
さわらぬ神にたたりなし、と思い、余計なことは言わないのが吉。
6 言い訳よりも非を認めたほうが潔く見える 汚職事件を起こした政治家や、安全管理を怠って問題になった企業、浮気を大々的に報道された芸能人など、不祥事というものは後を絶たない。
さて、そのようなトラブルそのものは見習うべきではないが、事件を通して学ぶべきものがある。
それは、「自分の非は潔く認める」ということである。
古くは昭和 51年のロッキード事件の際の「記憶にございません」、少し前では秘書給与問題で議員辞職に追い込まれた女性議員、最近では職員の厚遇問題が起きた大阪市役所などがいい例だが、もはや誰の目から見ても明らかな事態に陥っても素直に非を認めず、言い訳や責任逃れを続けると、世評は厳しくなる一方である。
すでに起こしてしまった不祥事による批判はもとより、「潔くない人物だ」というマイナスイメージまでついてしまうというわけだ。
たとえばスポーツ選手が試合で負けたとき、たとえケガや病気でベストコンディションでなかったとしても、それを負けた言い訳には使わず、負けたという事実のみを厳粛に受け止めていれば、その姿は見ている人々の気持ちを爽やかにしてくれるだろう。
そして次の試合ではぜひ勝って欲しいと思わせる。
逆に、ケガを言い訳にされると、たとえそれが事実でも「見苦しい」と人の目には映るのである。
これと同じことだ。
あなたがなにかミスを犯してしまったら、まずは自分の非を認め、謝るべきところは謝ってしまおう。
いくら言い逃れをしようと言葉を重ねても、ミスを犯したという事実はそう簡単に覆るものではない。
ならば先に潔く謝罪をしてしまったほうが、相手の心象は格段に良くなるはずだ。
もし自分なりになにか言い分がある場合は、非を認めた後でも遅くはないので、冷静に話してみよう。
最初に謝られている分、相手は冷静にあなたの話を開いてくれるだろう。
7 失敗談を話すのは打ち解けようとしている証拠 仲が悪いというわけではないけれど、そこまで親しくもない人とふたりっきりで会話をするのは緊張するものだ。
しかし、そういうときに相手が自分の失敗談を話しはじめると、少しだけ緊張が解けたような気がしないだろうか。
実はそれは、相手があなたを気遣い、あなたと仲良くなりたいと思っているサインなのである。
自分の内面を他人にさらけ出すことを心理学では「自己開示」と言う。
この自己開示には自分と相手の心理的距離を縮める効果がある。
失敗や弱点など、本来なら他人からは隠そうとするものをあえて打ち明けることで、自分が相手に対して敵意や警戒心を持っていないことを知らせるのである。
そして、自己開示されたほうも相手が自分に近付きたいと思っている空気を感じ取るので、双方向から気持ちが近付き、結果として親密度が上がるというわけだ。
失敗談はなんでもいい。
「昨日、電車で 3駅も寝過ごしちゃったんだよ」などという些細なものでも、「情けないことに、実は犬が苦手なんだ」といった弱点の話でも同じ効果がある。
相手がこういう話をしはじめたら、あなたに対して好意を持っていると思ってまず間違いない。
肩の力を抜いて会話を楽しもう。
会話が終わるころには、最初に比べてお互いずいぶんと打ち解けていることに気づくだろう。
また逆に、あなたが誰かと仲良くなりたいと思ったら、わざと自分の失敗談を話してみてはどうだろうか。
ただし人生相談ではないのだから、あまり深刻な打ち明け話をされても相手は困るだけ。
そういった話はもっと気心が知れた関係になるまでしまっておいて、明るく笑い飛ばせる失敗談をなにげなく披露することが重要だ。
8 毒舌家はかっこよくもなんともない! テレビのワイドショーなどで、毒舌なタレントやコメンテーターが人気を呼んでいる。
舌鋒鋭く、普通の人にはちょっと言えないような手厳しいコメントを言って、それによって笑いをとっているのである。
現代の日本には、毒舌がかっこいい、面白いと思われる風潮があると言えよう。
しかし、それを日常生活で真似してみたらどうなるだろうか。
おそらく周りの人たちに顰蹙を買うのがオチだろう。
キツイ言葉は確かにインパクトがあり、人の注意をひきつけることができる。
多くの人が遠慮をして口に出さない言葉をあえて使ったり、大袈裟な表現を使うことで、意見を際立たせることが可能だからだ。
しかしそれを実際に口にするのは単なる一個人である。
テレビの中の毒舌家は、視聴者にとっては番組の一部であるため気づきにくく、また彼らはコンメテーターなり評論家なり、一応の肩書きを持っているが、日常生活の中で直接、面と向かって毒舌でばかりものを語られては、気分がいいはずがない。
(もちろん、テレビであっても度を越したものは視聴者に不快感を生じさせている) 一言で言ってみれば、「何様だ」ということである。
「毒舌な自分」がかっこいいと自分に酔っている人が増えているようだが、本人が思っているほど周囲は彼(彼女)のことを良く思ってはいないだろう。
ただ「毒舌家」ではないからはっきり言わないだけで、「毒舌」を聞かされるたびに内心ため息をついているのだ。
毒舌というのは悪口や痛烈な批判と紙一重であり、また場合によっては他人を貶めることで優越感や笑いをとろうとする行為だと言える。
そのため非常にリスキーであり、なにかあったときに責任をとる覚悟をもって臨むべきものなのである。
自分を一段高い場所に置いて、他者をけなして喜んでいるような「にわか毒舌家」は今すぐに廃業したほうがいい。
9「気にしないで」をそのまま受け取ってはダメ 頼みごとをしたとき、迷惑をかけたとき、優しい相手なら「気にしないで」と笑って返してくれるだろう。
いや、特別優しくなくても、それなりに社会性のある相手なら、大抵の場合はそう言ってくれるかも知れない。
しかし、この「気にしないで」をそのまま受け取り、甘えっぱなしにしていてはいけない。
そもそも、誰でも他人に面倒をかけられることが喜ばしいはずがない。
そんなに親密というわけではない間柄ならなおさら、口では「気にしないで」と言いつつも、心の中では面白くないと思っているだろう。
逆に親しい間柄ならば、多少の面倒くらいどれほどのものでもないかも知れないし、そういう場合は「気にしないで」という言葉も本当に本心からのものと言えるだろう。
しかし、どれくらいの間柄であろうとも、「面倒をかけた」という事実だけを見れば、同じなのである。
相手になにかしてもらったときは、相手の厚意に感謝するべきである。
相手はあなたのために自分の時間なり労力なりを割いてくれるのだから、「やってもらって当然」という態度は言語道断。
相手が「気にしないで」と言っていても、それに甘えて「じゃあいいか」と、なあなあで済ましてしまっては相手に対して失礼というものだ。
多くの人は「気にしないで」の言葉の裏では「気にして欲しい」「感謝して欲しい」と思っているものだし、本当に心から「気にしないで」と思っている人であっても、感謝されて悪い気はするはずがない。
人になにかしてもらったときは、きちんと言葉にして感謝を伝えよう。
誰だって、自分が人になにかをしてあげたとき、相手から感謝されれば気持ちが良いし、それでこそ次もその人の役に立ってあげたいと思うものなのである。
10 叶いたるは良し、叶いたがるは悪し
内海好江さんが著書の中で千利休の言葉を紹介している。
「叶いたるは良し、叶いたがるは悪し」というものだ。
これは利休が弟子の茶事に招かれて彼のもとを訪れたときの話で、その家の庭には立派な実のついた柚の木があり、それを見た利休はきっと弟子は柚味噌でもてなしてくれるだろうと期待したのだそうだ。
しかし翌日の茶事には柚味噌ではなく、かまぼこが出た。
当時のかまぼこは高級品で、弟子は師の利休をもてなすために、わざわざとりよせたのだろう。
だが当の利休にしてみれば、かまぼこなどよりも旬の柚子でもてなされたほうがよっぽど嬉しかったのだ。
これが「叶いたる」 =客人が喜ぶものが良く、「叶いたがる」 =もてなす側が喜ぶものは悪い、ということである。
弟子にしてみれば、師をもてなすのに恥ずかしくない高級品を出して、利休に喜んでもらおうと思っていたはずである。
しかし利休にとっては嬉しいことではなかった。
では、弟子に多大な非があるかといえば、そうでもないだろう。
彼は彼なりに大切な客人のことを考えて、かまぼこを振る舞ったのだから。
それが利休の望みとすれ違ってしまったために、利休を喜ばせることができなかっただけの話である。
さて、この話からなにを学ぶべきであるかというと、それは「相手のことを思いやる」ということだ。
もしこの客人が利休でなかったら、高級品のかまぼこを出されて感激したかも知れない。
しかし利休の好みをよく考えれば、高級なものよりも、庭に生えている季節のもののほうが喜ばれるだろうことがわかっただろう。
客人をもてなすのはひとりよがりではいけない、ということだ。
相手の好物や人となりをよく考え、その人にあったもてなしをしてこそ、相手に喜ばれ、また気のきく人だと思ってもらえるのである。
11「今日は都合が悪くて……」の断わりは明日も明後日も悪い? 飲みに行こうと誘ったとき、「ごめんなさい。
今日は都合が悪くて……」 と断られる。
男女間の誘いに限ったことではなく、職場の飲み会や知り合い同士の集まりでもよく使われる言葉だ。
これは、実にていのいい断り文句である。
「都合が悪い」というのは、他に用事が入っているように思わせながら、その実「気分が乗らない」というだけのことだったりするからだ。
さらに、本当は「あなたと一緒に飲みになんて行きたくない」ということもある。
しかしそんな言い方はできないので、「今日は」都合が悪いと言うのである。
この断り方を一度ならず二度、三度と続けられたら、もう誘わないほうがいいだろう。
説明できるような事情があるならともかく、なんの説明もなしにこう言われ続けるのは、どう考えてもあなたを避けている証拠である。
こういう相手は「今日は」都合が悪いのではなく、明日も、明後日も、その先もずっと都合が悪いと思ったほうが無難だ。
逆に、そんなに嫌でもないが本当に「今日は」気分が乗らない場合に、面倒だからとこの断り文句を使ってしまうと、誤解されることがある。
「あの人は自分とは一緒にいたくないらしい」と思われて、今後一切、誘ってもらえなくなる可能性があるからだ。
それが嫌ならば、きちんと行けない理由を説明したり、正直に「今日はそんな気分じゃない」と告げることが必要である。
もしくは、次回、自分から誘ってみるのもいい方法だ。
人づきあいはデリケートなもの。
便利な断り文句にばかり頼っていて、いつの間にか周囲から人がいなくなっていた……なんてことにならないようにしたい。
12 人の期待を裏切ったと思ったら、誠意を見せよう たとえば、恋人と食事の約束をしていた日に 10年ぶりの同窓会が入ってしまった。
また、子どもの授業参観に行くと約束したのに仕事のトラブルで呼び出された……。
自分はそんなつもりはなかったのに、結果として先約を断らなければならなくなるというケースは意外と多いものだ。
このように、自分はちゃんと最初の約束を守るつもりであったのに、どうしてもその約束を破るしかない状況に陥ったとき、人は「自分は悪くない」と思いがちだ。
恋人や家族、友人同士のように、また後日にいくらでも約束し直せる間柄の相手との約束であれば、罪悪感はいっそう薄れるだろう。
たしかに、多数の予定が優先される同窓会のような集まりや、思いがけず舞い込んだ仕事などは、なにも好き好んで入れたわけではなく、不可抗力と言えるだろう。
しかし、だからといって「仕事だから仕方ない」などと当然のように予定をキャンセルすれば、されたほうは決して気分の良いものではないことは肝に銘じておかなくてはいけない。
キャンセルされたほうにしても、どうしてもはずせない用事ができたことは理解している。
そこを無理しても、約束は守られるべきだ、と思っているわけではないはずだ。
それでも、自分との約束がキャンセルされれば悲しいことには変わりないのである。
その約束を楽しみにしていたならなおさら、顔では笑っていたとしても、心では泣いているに違いない。
改めて約束をしなおしたとしても、それは最初にしていた約束とは別物なのだ。
どれだけ仕方のない理由があったとしても、約束をキャンセルするということは、人の期待を裏切る行為なのだということを忘れてはいけない。
そのときは誠意をもって謝ろう。
13 人のコンプレックスは極力刺激しないことだ ときに人は、悪気はなくても相手のコンプレックスを刺激してしまうことがある。
そういった場合はたいてい、事実を述べているだけであり、言っている本人はそれを悪いと思っていないから困ったものだ。
しかし、事実だからこそ相手の劣等感を刺激するのである。
たとえば、とある大学に入りたかったが受験に失敗してしまい、泣く泣く他の大学に行った人の前で、その大学を卒業した人が「うちの大学は……」 と話し出す。
話しているほうは、単に自分の出身大学の話をしているに過ぎず、なんの意図もない。
しかし、相手が自分の学歴にコンプレックスを持っている相手だった場合、相手はその話が終わるまでずっと劣等感を感じていなければならないのである。
それは話しているほうにはなんの責任もないことだ。
しかし、実際に相手は傷ついている。
「被害者がいなければ加害者なし」と言われるのはこういうことだ。
被害者が「自分が傷つけられた」と感じることで、加害者は生まれるのである。
こういう場合、もし相手が傷ついていることに気付いたら、その話はフェードアウトしてあげたほうがいいだろう。
「こっちは自分の話をしたいだけなのに、なんでそれを我慢しなくちゃいけないんだ」と思うかもしれないが、そこは我慢のしどころ。
大学の話をしたいなら、また別の場所で別の人を相手にすればいいのだ。
それに、「本当のことを言っているだけ」と言いつつ、そこに絶対に優越感がないとあなたは言い切れるだろうか? たとえば、美人でスタイルが良く、異性にモテる女性が、「このあいだもしつこくナンパされて困っちゃった」「私は全然その気はなかったのに、ちょっと食事に行っただけで相手が勝手に本気になっちゃって怖かった」
と、あまり異性に縁がない女性を前にして、事細かに聞かせるとき、それは全く自慢話でないと言えるだろうか。
確かに事実なのだろうが、それを人に話して聞かせる態度から、周囲は自慢げなオーラを感じ取るのである。
先ほども言ったように、加害者をつくるのは被害者なのだ。
そして大学に落ちた彼も、恋人のいない彼女も、事実だからなにも反論できないし、その話題をやめて欲しくてもなにも言えない。
「そういう話は聞きたくない」と口にすることは、ますます自分をみじめにさせるだけだからである。
いくら本当のことでも、相手のコンプレックスに触れるような話は極力避けたほうが無難だということだ。
14 無責任にうらやましがることなかれ 人は他人の持っているものが無性に良いものに見え、うらやましくなってしまうことがある。
「となりの芝生は青い」というやつだ。
大学を卒業して事務職についている Aさんと、同じ大学を卒業して、一度は就職したが、その会社を辞めて他の大学に入りなおした Bさんがいるとする。
2人は高校からの友達で、気心が知れた仲だ。
しかしそんな間柄でも行き違いは発生する。
「Bはいいわね、また大学生にもどって。
勉強はあるけど毎日ラッシュの中を通勤するとか、上司に嫌味を言われるとかがないんだもの」 Aさんがこう言うと、 Bさんはいつも困ってしまう。
確かに社会人としての苦労はないが、だからといって自分がものすごく楽をしているとは思えないからだ。
「でも Aはちゃんと仕事をしていて、えらいと思うわ。
それに働いた分お給料が出るから、好きなもの買えるじゃない。
私なんてお金なくって……」 そこで Bさんがこう言うと、 Aさんは負けずに言い返すのである。
「お金がなくても時間があるじゃない。
自分の好きなことをやっていられるんだから、毎日楽しいでしょ? 会社勤めじゃそうはいかないもの」 そう言われてしまうとまた Bさんは憂鬱な気持ちになる。
なぜなら、 Bさんだって少し前までは Aさんと同じく社会人として働いていたのだ。
その会社を退社し、必死に勉強して、やっと今の生活を手に入れたのである。
会社を辞めるのは一大決心だったが、どうしてももう一度勉強したいと思い、悩みに悩みぬいて出した結論だった。
それを「楽しそうでうらやましい」と無責任にうらやましがられると複雑な心境になるのだ。
それでつい、きつい口調で、「うらやましいなら Aも会社辞めて勉強しなおせばいいじゃない」 と言ってしまい、 Aさんと Bさんは気まずい思いをすることになった。
この場合、悪いのは Aさんである。
Bさんは努力をして今の自分を手に入れたというのに、その過程を無視して今の学生生活を「楽しそう」という理由でうらやましがっている。
しかも「自分は社会人として苦労しているのに」と言っているが、 Bさんだって社会人としての苦労は知っているのである。
また、社会人でいることの利点もわかっている。
そういったものを秤にかけ、大学に戻ることを選んだ Bさんが、何の行動も起こさずに、自分を「恵まれた環境にいるうらやましい人」と評価する Aさんに腹を立てるのは当然のことである。
「となりの芝生は青い」と言うが、実際に芝生が自分の家のものよりも青かった場合、隣人が芝生を青くするために努力をしていると気づく人はどれくらいいるだろうか。
他人からうらやましがられるのは、プライドを満足させることにも繋がるが、その陰にある努力を無視していかにも運がいい、恵まれていると評価したうらやましがられ方は、決して歓迎できないものだと覚えておこう。
15 自分を多忙に見せるのは人に認めてもらいたいから いつも忙しそうにしている人があなたの周りにもいないだろうか。
「来週までにこんなに仕事があるんだよ」「明日は昼まで友人と会って、夕方は彼女とディナー、それから会社に戻らないといけないんだよなぁ」 などと、やけに自分が多忙であることをアピールするタイプだ。
こういう人は、実は口ほどには忙しくないことが多い。
それなのになぜ多忙をアピールするかというと、それは「自分はこんなに忙しいんだ」、「こんなに忙しくなるくらい仕事を任されているんだ」ということを周りに言って回りたいからである。
それによって自分の有能さを認めてもらいたいと思っている。
「今日は朝からなにも食べていないんだよね」「昨日なんて 2時間しか眠れなかったよ」 などと、食事の時間も取れないだとか、睡眠不足を強調するのもこのタイプに多い特徴だ。
しかし、先ほど言ったとおり、実際には口ほど忙しくない人が多いし、きちんと要領良く仕事をすすめ、スケジュールを組めば、もっと時間に余裕ができるはずなのだ。
「忙しい」を連発しているわりには仕事が進んでおらず、その焦りがまた新しい「忙しい」を口にさせる。
忙しければ仕事がなかなか終わらないことの理由になるからだ。
「自分はこんなに忙しい中で、こんなに一生懸命やっている。
だから、仕事が終わらないのは忙しすぎるせいなんだ」と、誰に聞かれているわけでもないのにアピールしているのである。
16 ありがとうが素直に言えるのは素晴らしい人 人になにかしてもらったら「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えるべきである。
これは誰でもがわかっていることである。
しかし、実際に行動に移そうと思うと、これがなかなか難しい。
手紙やメールの礼状ではサラリと書けても、面と向かっては気恥ずかしさが先に立って言いづらいものである。
何か形のあるものをもらったときならばともかく、形のないものをもらったときはとっさに「ありがとう」が出てこない。
形のないものとは、相手の気遣いや助言、ときには忠告などである。
誰でも、自分に厳しい言葉をかけられると嫌な気分になるものである。
しかしそれを素直に受け止め、自分を省みることができる人間は素晴らしい。
反省によって人は成長するからである。
そういう謙虚な人間であればこそ、忠告をくれた相手にも素直に「ありがとう」と言えるものなのである。
こういう人は、小さいころからのしつけが良かったに違いない。
道徳的に当然と思われることをてらいなく実行できるというのは、まっすぐに育ってきた証拠であるからである。
また、何かミスをして相手に怒られたときに、「申し訳ありませんでした」 とスルッと出てくる人も、「ありがとう」が言えるのと同じくらいしつけの行き届いた人である。
こういった人は相手に与える印象も良い。
逆に意固地になっていつまでも謝罪の言葉を口にしない人は「ひねくれている」と言われる。
あなたがもし、いま素直に「ありがとう」、「すみません」が言えないようなら、意識して口に出すようにするといいだろう。
最初はぎこちなくても、次第に自然なものとして身についてくるはずだ。
17 自分を「特別な存在」だと思いたい人がいる「変わった人」、「変な人」というのは、どちらかというとけなし言葉のように感じられるだろう。
しかし、世の中には好んで「変わった人」と言われたい人もいるのだ。
「私、変わってるねって言われるの」「周りからは変人扱いされてるんだよね」 などと、妙に嬉しそうに言う若者に出会ったことはないだろうか。
このタイプは思春期に多く、「変わった人」、「不思議な人」と言われることで自分を周りから浮き立たせ、それによってアイデンティティを確立させようとする。
それは、自分を周り(大衆)とは違った、特別な存在とみなしたいからだと言われる。
学校や会社に入り、大勢の中に放りこまれると、自分という存在が非常にあやふやになってしまうことがある。
人はそんな中で自分を見失うのを恐れ、なんらかの方法で他者と差別化を図り、自我を保とうとすることがある。
そこで自分は同じ年頃の友達とは趣味が合わないとか、みんなと同じことを考えていられないとか、そういった思いこみで「変わっている自分」をセルフプロデュースするタイプが出てくるのである。
マイノリティ(少数派)に属することを好み、マジョリティ(多数派)を俗なもの、ミーハーなものとして軽視し、自分はそれらよりも一段高い場所、もしくはまったく別の次元で世の中を見ていると思いこむ。
それによって自分が大衆とは違う人間だ、という図式が成り立つのである。
確かに、そういう面に注目すれば、彼(彼女)らは「変わった人」と見られるだろう。
少なくとも同年代から見るとそう思われることも多く、それによって彼(彼女)らは自己愛を満たすのである。
しかし、その「変わった人」というのはどちらかというと良い感情から出た印象ではないことが多く、それによってマイノリティはますますマイノリティになっていく。
こういうタイプにとって、否定するような発言はタブーである。
「べつに、どこも変わってないじゃない」 などと言ってはいけない。
ましてや、「変わってるほうがいいの? 他の人と一緒が嫌なの?」 と核心を突いてしまうと、相手はかなりのダメージを受けるはずだ。
もちろん、いつか人は自分がそんなに特別な存在でないことに気づかなくてはいけない。
もしくは、人間はみなそれぞれ違うのだから、自分だけが「変わっている」のではなく、みんながそれぞれ少しずつ「変わっている」のだと認める日が来るだろう。
それが大人になる階段のひとつである。
だがもし、いい大人になってもそんなことを言っている相手がいたらどうするか。
おそらくその人は周囲からも煙たがられているか、本当に「変わった人」、つまり社会不適応者であるかのどちらかだろう。
そんな人と本気でやりあっても時間の無駄というものだ。
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