第8章先代創業者から後継社長へ、一倉イズムの承継
先代創業者と後継社長の埋まらない溝
一倉先生の著書の中でも「後継者問題」に関しては、親子、親族の情においては息子さんに引き継がせたいのは理解するが、経営者としての能力、力量の問題だけは譲れないと、至極真っ当な見解があるだけで多くを語っていない。
時代が昭和であろうと平成、令和であろうと、オーナー社長が事業を起こした以上、永遠に避けることのできない難事業として、また最後の社長の仕事として正面から対峙しなければならない問題として決断を下さなければならない。
父親から長男へと何の問題もなく事業承継がなされる会社は実は多いと思っている。子供のときから家族の毎日の会話は会社のことばかり。社員の問題、お金の問題などを、父親が家族相手に延々と話す姿が目に焼きついている後継社長も多いと思う。自然といつかは父親の後を継ぐ気で、「それ以外は考えたことがない」という長男もいる。仕事ができる、できないは別にして「覚悟」だけはしっかりしているのである。
乱暴な意見かもしれないが、覚悟さえブレなければ子息を後継者にするほうが良いと思っている。覚悟を持っていれば、奢ることなく真面目に一生懸命仕事をし、勉強すれば、そうは道を外れることはないはずだ。
私は多くの後継社長を10年も20年も見続けているが、皆立派に経営している。
問題は、子息が社長として後を継ぎたいと思っているのかどうか。また、父親の人格を嫌っていないかどうかである。もし、そこに感情的なもつれがあり、「親子問題」を抱えている場合はなかなか厄介なことになる。
もう1つは覚悟なく、社長を継いでしまった場合である。失礼ながらこれは問題外である。ただし、何かの事件をきっかけに、本人が見栄を捨て、本気で取り組めば取り返しがつくものである。
見栄、虚栄心というものは、経営にとって何の意味もない。お客様にとっては見栄、虚栄心のような全く価値のないものを捨てきれれば、お客様の信頼を勝ち得て活路は開ける。
残っている幹部や社員も、跡取り息子が本気で社長業に取り組んでくれることを内心待ち望んでいるというのが実際のところなのである。
なかなか厄介な親子関係は、経営問題というよりは家庭問題であることが多い。実際に話を聞く機会もあり、「先代をどう思っているか」と尋ねてみると、「経営者としては凄いと思っているし、尊敬もしている」という答えが返ってくる。
ただし、父親としては「嫌い」「許せない」という感情が全面に出て根深いものがある。父親が創業者であればなおさらであるが、個性は強いし、家で一緒に晩ご飯を食べたことがほとんどないはずだ。接待で深酒はするし、休日はゴルフ、育児にかかわったことがない。学校も母親任せで、家庭によっては母親も共働きで、さみしい幼少期を過ごしていた子息も数多くいる。
少しステレオタイプかもしれないが、どこも同じような父親像、家庭環境だと思う。
暴力的な父親もいれば、子供として頑張っているのにダメ出しする父親、子供の唯一の理解者である母親を悲しませることを繰り返すヤツが、父親なのである。
それでいて商売は上手いし、外に対しては立派な社長として振る舞っているのが子供心に許せない、そんな構図になっている。
事業承継の橋渡し役
正解となる解決策はないし、過去30年、40年の親子としての積み重ねでもあるし、今さらどっちが良い悪いと言っても始まらないのである。親子が会社で直接ぶつかれば、業績どころではなくなる。互いの感情が全面に出て、社内では誰も止められない状態になる。
あるとき、旧知の社長から電話が入った。「工場を新設しなきゃいけないが、1度相談に乗ってもらえないか」という内容だった。
約束の日に朝から会社内を案内してもらって、息子を紹介されたのだが、初対面でも社長と息子がしっくりいっていないことは感じ取れた。
確かに工場は古くはなっていたが、今すぐ建て直すほどではない旨を伝え、「環境整備、5Sの徹底をまずやらないと」という結論で着地したが、真の狙いはそこからだった。
毎月来たときに、「3人でいろいろ話す時間を取ってくれ」ということになり、工場問題はそこそこに親子間の会話の仲介役みたいなことになってしまった。
互いに遠慮があるのか、ケンカになるのが嫌なのか、社長から「息子にこう言っといてくれ」と頼まれたり、「息子はどう思ってるのかな~」と気持ちを聞き出してほしいとお願いされたり、最初は不思議に思っていた。
この会社の親子だけではなく、思った以上に親子で本音丸出しの意思疎通がないのが普通なのかもしれない。
父親は遠慮し、息子は父親からいちいち細かく指示されたくないし、意見を否定されると経営者として失格の烙印を押されたような気になる。
ましてや、息子の心の奥底では、「自分のほうが父親より仕事ができる、見返してやりたい」と、対抗心というよりは敵愾心で臨んでいたのである。
一方、父親も父親で、息子を頼むという意味で人を呼んでおきながら、「まだまだ息子には負けない」「俺のほうが商売のことはわかっている」とばかりに息子にダメ出しをするのである。
それでも第三者が間にいるだけで直接対決は避けられるし、揉め出すと息子に苦言を呈することもできる。親子の間に入る人物が年齢的に息子の上、オヤジの下であればちょうどいい。利害関係のない第三者、できれば人格者、さらに欲を言えばお金に困っていない人が最高である。
人が動けば費用が発生するが、その費用がその人にとって大事な金額に相当すれば、その人だって自分の信じる道を言わなくなる。お金がある人はお金になびかない。
親子で意見が対立、それは当たり前
そもそも親子は30歳ぐらいの世代差があるのだから、2人の価値観、意見が一致するほうが不思議なのである。
先の親子であれば、会長になった先代は一倉先生に直に接した世代であり、日本中インフレ、高度経済成長の時代に30代、40代を過ごしている。一方、数年前に社長に就任した息子は社会人としてスタートしてすぐにバブル崩壊に直面した。
1991(平成3)年3月から崩壊の予兆が表れて、1993(平成5)年10月頃までに景気は大幅に後退したのである。
息子は結局、バブルの恩恵を享受することなくデフレ市場の中で仕事をして、後継者として実家の商売を継ぐために戻ってきたのである。
会長は、基本的にはイケイケドンドン売上至上主義。現社長は慎重に手堅くキャッシュフロー経営に徹するから、自ずと意見は対立するのである。
根本的には「いい会社にしたい」という目的は一緒であっても、アプローチの仕方がインフレ体験とデフレ体験だから真逆であり、会長は成功体験が強烈だから「環境が変わったんだ」と言っても納得してくれないのである。
息子から「会長、その考え方は古いんだよ」と言われようものなら、会長は論理を超えて「経営はそんなもんじゃないんだ!」と理屈にならない理屈を言い返す。
もちろん不易流行の言葉通り、経営の変わらないところもたくさんあるが、ここ10年、20年のインターネットの急速な浸透や技術革新、金融情勢、社員の仕事に対する意識、何よりもお客様の価値観の変化など外部環境の変化は過去の比ではない。
「経営は変転する外部環境に合わせて会社を作り変え続ける」という一倉先生の教えに従えば、残念ながら息子さんに軍配が上がることも多い。そのときに、私が一番気にしていることは「お客様の視点」から考えて間違っていないかどうか、という点である。
しかし、これさえも仮説でしかない。実際に新しいことをやってみてお客様に買っていただいて売上利益が伸びれば正解。伸びなければ失敗、再挑戦である。
だから、会長にも現社長にも、「とにかく小さくやってみて結果を見て判断しましょう」と両者の勝負なしにもっていき、審判はお客様にお願いするのである。
一倉先生の考え方の根幹は、「会社の支配者は株主でもなければ社長でも会長でもない」「お客様が会社の支配者である」、この1点である。これさえ共有できれば、多くの問題は枝葉の問題となってしまうのである。
社長リレーのバトンゾーンは5年から10年
「社長業は決断業である」と先輩経営者が口を揃えるし、一倉先生も決断の重要性を説いているのであれば、「後継者として決断する状況に追い込まなければ」後継教育にならない。
K社長のバトンタッチの手腕は見事だった。後継候補は子供が娘だけであったので、長女になってしまった。彼女もその気だったので問題はなかったが、まだまだ男社会の業界で跡を取っていくのは大変なことだった。
社長からの命令は、「大阪に行って店を作ってこい」という乱暴なものだった。確かに、これを乗り越えられなければ、その先はない。東京から大阪に行って、ゼロから拠点を築くのは並大抵ではない。気力体力の充実した若い時期でなければできない。
若い時分から仕事で鍛えられて、現業の仕事はドンドンやっていくが、社長が考えていたことはもう一段厳しいものであった。
ここからが本当の後継教育だったのである。似たような業種の小さな会社をいきなりM&Aしてきたのである。
2年くらいは前任のオーナー社長が、「社長」として経営を任されてきたが、娘の父親である社長は娘を呼んできて「お前が行って、会社を黒字にして来い」という命令だった。
グループ会社といえども社長である。経営の勉強もやってはいたが、代表取締役社長の名刺、肩書は重みが違う。一国一城の主として、店舗にも、人事にも、仕入先、商品構成、そして資金にも目を配らなければならない。一緒に着任した社員は、将来の幹部候補生1人だけである。
さすがに最初の1年目は苦労の連続で、少し泣きが入っていたが、もともと負けん気は人一倍強いし、何より覚悟があるので少々の失敗ではへこたれない。
社長として経営上の問題を決断すれば、すぐに業績、社員の行動という形で結果が帰ってくる。
2年目の途中あたりから、言い訳をしなくなってきたのに正直驚いたのを覚えている。
やはり、「椅子が人を育てる」のだと確信するとともに、父親の厳しさとともに凄さをしみじみ感じたのである。
あっという間に3年が過ぎ黒字基調、4年目も順調に決算を締めたところで、本体に戻ってきたのである。戻ってからの肩書は、「専務取締役」。本社の後継準備を2年経て、社長に就任した。
経営は、全て結果である。どんなに理にかなった方法を採ろうとも、利益が出なければ事業継続できない。
自分の決断で利益が出ることが、後継者にとって最大の自信になる。
社員の見る目も、実績を上げて戻ってくると、ガラリと変わって信頼を置くようになる。
事業承継に5年から10年かけるとは長いように思えるが、実際にはあっという間の10年だった。年配の経営者であれば体験済みだと思う。
55歳から始めても65歳、60歳から始めれば70歳になってしまう。
その間に、嫌なことから逃げない。失敗があっても他人のせいにしない。奢らない。
金の使い方が後継者としてふさわしいか、しっかり見ておいていただきたいのである。
小さくても一国を任せるのは、勇気が要るが最高の教育だと思う。一国を経営することは大企業のナンバー2を務めるより個人的には遥かにタフな修養の場となる。
事業経営の根幹は変わらない~お客様第一と社員第一~
極まれに意地悪な質問が来る。
「お客様第一と社員第一。どちらが優先順位が高いですか」確かに、書店に行けば「お客様第一」関連の本は溢れているし、社員満足関連や「社員第一、お客様第二主義」というインパクト大のタイトルの書籍まである。
どちらを読んでも納得してしまうので、社長が迷って、誰かに聞きたくなるのもよくわかるが答えは明確である。
私はモノゴトを考える際に、極端な状況を想定して原点を考えるようにしている。
社長が1人で起業し商売を始めたとすると「最初のお客様」が全ての始まりである。たとえば、5人で起業しても「最初のお客様にお買い求めいただかなければ」経営は継続できないのである。どんなことがあっても、「お客様が第一」である。
ずるいと言われるかもしれないが、「顧客基盤がある程度固まり始めたところで、社員の大切さが頭を持ち上げてくるので社員第一を考えるのは経営が安定してからです」と答えるようにしている。
そして、社員数が10名を超え20名近くになり始めたら、もう社長1人でお客様への対応も仕事全部も見切れるわけはなく、社員への責任が急激に重くなってくると理解している。
そうすると、最初のような質問になるのであるが、ここで1つ確認しておかなければならないことがある。「我社のお客様の定義」の再確認である。
お客様という言葉は絶対的な重みを持っているが、経営計画書の中でお客様定義を明確に打ち出している会社はまれである。
超富裕層向けの金融サービスをしているような特殊な仕事では「資産○○億以上~」という表記が見られるものの、普通の中小企業では文章で表記することはない。
その分、価格帯などで顧客セグメントをする場合は多い。また、社内の共通認識で何となくお客様のイメージを持っているのが実情である。
「社員第一」で迷われた社長の会社でこんなことがあった。ある施設にテナントで店舗を出していて、大繁盛とまでは言わないが堅調に売上は出ていた。ところが、異動でテナント施設の責任者が代わってしまい、その後、状況は一変したのである。何かにつけ執拗なクレームが来るのである。
この会社の社長は一倉門下であり、経営理念に「お客様第一」を掲げているほどである。
そのため、そのつど対応していたのだが、状況は一向に変わらないのである。ほんの些細なことでも大騒ぎだし、そのうちアルバイトスタッフが辞めだしたのである。
店長は随分頑張ったのだが、半分ノイローゼ気味になってしまい、店長から辞表が提出される始末だった。そこで、社長が最終決断を下すに至った。
これまでは、一倉先生の「お客様第一」を前面に押し出して業績を伸ばしてきただけに、社長方針を自分で覆すようにも思われた。
経営理念の2行目にある「社員の物心両面の幸福を実現させる」に照らし合わせて、テナント退店を決めたのである。
売上利益の面から見れば正直もったいないが、当然の判断だと思うし、逆に他の顧客基盤がしっかりしていて財務も安定していればこその決断でもある。
社員の自尊心、さらに健康まで犠牲にして、事業を伸ばして何の意味があるかということである。
営業マンにしても、営業部長にしても、目標数字は高いし目標達成に対するプレッシャーもあるから、注文があれば誰にだって売りたくなるし、新規開拓ノルマだってあるのが現実である。
だからこそ、お客様にしてはいけない定義(未訪問、訪問禁止、取引不可)を明確にしておけば、お客様になっていただいている方々の優先順位は当然「第一」であり、全社員にはそのことを徹底しておくべきである。
加えて、社長が「社員第一」と思っていても、この言葉をいったん公で使うと、社員の中には勘違いする社員もいて、けっこうリスクが高くなる恐れがあると思っている。
相当に社員教育をしても「人間は自己中にできている」から、社長が「お客様第一」と叫び続けながら、心の中で「社員が一番大切なんだ」と手を合わせているくらいがちょうどバランスが取れているのではと考えている。
どんな時代になっても「信用第一」
「経営は生きた総合芸術である」とは、松下幸之助氏の経営観として今日に語り継がれている。
しかし、人間を探求し続けた経営の神様の心の内は知る由もない。
「総合」であるだけに、どれも重要で1つとして欠けてはいけないのであるが、最後の最後に残るものは何だろうか。
松下幸之助氏と戦後すぐから一緒に仕事をし、松下電送(当時)の社長を務め、今も現役で仕事をしておられる「木野親之先生」とご縁をいただき、生前直に幸之助翁に接した神様の話をインタビューさせていただきCDを制作したことがある。
松下経営史の中でも、特に有名な熱海会談に向かった松下幸之助氏を東京駅で見送ったときも、木野社長が同伴されたようで、「そのときの覚悟の一言」も伺ったが、お客様である当時の販売店様を思う心はオーナー経営者にしかできない腹のくくり方だと感じ入った。
木野先生も齢90を超え、今も当時のことを鮮明に語られるのも、それだけ人生を賭けたギリギリの決断だったんだろうと想像するしかない。
3日間の紛糾した熱海会談の最後の最後に、「松下会長が言うなら」と全得意先が賛同したのも、「一個人の信用」が全ての根源だと思うのである。
なぜここで急に松下幸之助氏のことが出てくるのか、不思議に思われる社長もいるかもしれないが、一倉先生の書籍を読んでいるとピーター・ドラッカーとともに松下幸之助の研究を相当にされていたと思える節がたくさんあるのである。
現実の経営現場でひたすら業績向上を念じ、試行錯誤を重ねれば、規模の大小、洋の東西を問わず同じような結論になるのかもしれない。
お客様であっても、仕入先様であっても、社員であっても、「社長一個人」が信用を失ってしまえば、心ある人は誰もついていかない。
「言行一致」、それも会社の存続が懸かるような状況下での社長の決断、言行一致こそが信用の大本である。
活き金を使える社長になる
会社の存続を懸けた決断をしなくていいように、常日頃から経営するのが社長にとって大事なことになるが、その中で信用を築き上げることは簡単ではない。
ましてや後継社長は先代の信用の上で仕事をしてきているから、自分の代で再構築をしていかなければならないし、嫌でも先代と比較されて苦悩しているはずである。
経営も一生懸命やらなければ業績を維持できない中で、社員も取引先様も何に注目しているかを観察していて気づいたことがある。それは、お金と時間の使い方である。
お金も時間も経営にとって貴重な資源だが、毎日忙しく仕事していてそんなことを考えて生活している社長はそんなに多くいない。
普通にお金も時間も消費しているだけに、「そこに本来の自分」「もしくは意識して行動している自分」が出てくると分析している。
素の自分ではなく、意識して行動し、それが習慣化すれば、それは凄い力になる。習慣は第2の天性という先哲の言葉もあるくらいだ。
ではどういうお金の使い方をしているか。基本は自分にお金を使う、人にお金を使う、の組み合わせである。
両方お金を使えば、すぐになくなってしまうし、そんなに大きなお金を使う必要もない。後継者で人のために、小さなお金を使っているのを見ていると将来が楽しみになる。
困っているときの支援であったり、地域のためであったり、日頃の感謝の気持ちであったり、応援している後輩のためだったり、活き金といわれるお金を何気なく、目立たず、す~っと出せるようになりたいものである。
「活き金」の定義は極めて俗人的で決定打がないのだが、先輩経営者の中から尊敬できる人に素直に聞いて、その使い方をマネするのが一番近道だと思っている。
「活き金」を「粋金」として使える先輩は絶対に身近にいるはずである。そのときに、誰に使ってはいけないかも教わることが大事だと思っている。
別に見返りは期待してもいないが、使ってはダメな人に使えば「死に金」になってしまい、自分の運気まで下がってしまう。
お金にすり寄ってくる人はいつの世もいるし、最後は金の切れ目が縁の切れ目になるのは誰の目から見ても明らかなのに、後継社長に驕りが出てしまうと自分自身が見えなくなってくる。
時間だって全く同じことである。人は見ていないようで、人のことはよく見ているし、微妙な機微まで感じているし、思った以上に正しい判断を下している。
先代もしくは先々代が活き金を使ったり、本当に大変なときに親身に相談に乗ってあげたり、経営のピンチのときに支援したことが、世代を超えて自分の窮地を救ってくれたというエピソードは平成、令和の時代になってもよく見聞きすることである。
会社の信用は、社員一人ひとりの行動で形作られるが、社員の行動も社長の人生哲学が鏡となって表に出てくるのであり、「会社のらしさ」「社風」を形成していくのだと思う。
そうして、お客様だけでなく社員にも社会にも必要とされる存在となれば、後継社長も、会社も長い命を保つことができるのである。
やっぱり99%、社長の責任
日本は世界に類を見ないほど、長寿企業が多いと言われている。
200年以上の社歴を持つ同族企業の集まりである、世界的に有名なエノキアン協会のメンバーにも日本企業は8社(世界で47社)加盟している。
有名な和菓子の虎屋、清酒の月桂冠、メンバー最古の法師温泉に至っては1300年余の歴史を持つほどである。
創業300年を超えるだけでも、江戸時代を終え、明治の動乱を乗り越え、戦禍の中から復活して今日の隆盛を実現しなければならないのである。
その長く繁盛する秘訣は、同族、ファミリービジネスに徹するとともに、皆さん一様に「時代時代に合わせて革新し続ける大切さ」を説いておられる。
では、その革新の内容は具体的に何をすることだろうか。
先代から後継社長、自分の代に替わって実際に社長として直接経営する時間は20年~25年、30年もあるかもしれないがそこまで長い人はそう多くはいない。
65歳~70歳前後を自分の次の後継時期とするからである。
その間に「商品・事業」「お客様」「幹部」この3つを自分の代で付け加えるか、入れ替えていくことが革新だと思い、若い後継社長に会うたびに言い続けている。
全国的に有名なカステラを製造販売している老舗社長が、「商品」が圧倒的な競争力を持っているので、主力商品の品質を素材の段階から磨き続けつつ、次の主力商品を育てることに人生を賭けているのである。
強力な商品を持っていることは大変な強みであり祖先に感謝しつつも、「最大の弱点」であることをよく知っているからこその経営判断なのである。
今どんなに好調な事業でも、売れている商品でも、消費環境は変わりやすく、ライバルの参入、業界の規制ルールの変更さえ起きる。
油断せずに、自分たちの時代を支える商品開発、事業創造こそが第1の革新である。それにともない「新しいお客様」の創造が第2の革新となる。
一般の消費者をお客様にしている事業では、お客様の生涯価値の最大化を図るために、離脱率をはじめ、さまざまな指標で管理し、固定化にまい進するが、新規開拓を怠れば業績は必ず低迷してしまう。
法人をお客様にしているならば、自社の主力技術をヨコ展開し、他業種に新規を求め、海外の法人取引を狙いリスク分散を図りつつ、自社の競争力を世界レベルに上げていかなければならない。
それと同時に、既存法人顧客内の新しい発注担当者の獲得に全力を注ぎ、自分の代の顧客基盤を築くことである。法人顧客といえども、社内の一個人が最終的に決定し、発注権限を握っているのである。
定年もあれば人事異動もある。新規引き継ぎ、継続取引の営業努力を怠れば、ライバル企業に塩を送るようなものである。
主力の得意先を訪問し、相手の担当者および上司、役員から、「会長、元気?」と聞かれなくなったら、お客様も自分の代に替わったと思ってもらえばいい。
最後、3番目が「自分の幹部が揃う」である。会社組織は社歴が長ければ当然、役員クラスは、後継社長より年上の人たちが多くいる。
父親から子息への社長交代であれば一気に25歳、30歳と社長は若返ることができるが、役員クラスも一気にというわけにはいかない。皆、生活が懸かっているし、会社も戦力が一気に下がる危険性があるからだ。
「忠臣は二君に仕えず」という中国故事があるが、特に創業社長とともに今日の繁栄を支えてきた幹部には今でも当てはまるのではないか、と考えている。
何といっても創業初期から苦楽をともにしている幹部は、将来どうなるか見えない中で、創業者の無茶苦茶な要求を何とかこなし、スタートは安い給料で頑張ってここまで来たのである。
今でこそ、皆、いい車に乗り、立派な家を建てて、それなりにしているが、先見の明があったわけでもなく、会社に入ったというより、とにかく社長が好きでついてきた人がほとんどだと思う。まさに忠臣である。苦労も他の社員の何倍もしている。
だからこそ後継社長は、忠臣を大事にしなければならないが、彼らの心の中にあるのは先代との思い出であり、その心を塗り替えていくことは正直難しい。
自分の時代の忠臣は、社長に就任する5年も10年も前から、現場で苦楽をともにした同僚、部下の中から見極め育て、引き上げていかなければならないのである。
この3つの重要事をやり遂げることが会社を継ぐ、暖簾を引き継ぐ革新の中身だと思っている。誰もやってくれないし後継社長自ら意識し手を打ち続けなければ実現できない。
そして、最後に金融機関の方々が、後継社長といろいろな交渉をする中で、ここでも「会長はお元気ですか?」と聞かれないようになったら自分の代に移行した証しである。
逆境に直面、そのときの後継社長の言葉と態度と行動
この3つの革新をやり遂げることはとても難しいことだ。どれをとっても極めて難しい難事業である。後継社長だからといって簡単にできる訳ではない。
だから私は後継社長に「1・5次創業」という言葉をよく使っている。創業者は確かに「0」→「1」を成し遂げ、経営基盤をつくってくれたが、後継社長は現業を守りながら、さらにその上に自分の事業を積み上げて発展させなければならないという宿命を持っている。
会社に入る前から決まっていることだし、ほぼ確定未来だから、これが後継社長本人に見えていないようでは先行きが心配になる。
社長本来の難しい仕事であるから一刻も早く着手しなければならないし、全部が首尾よく成功するわけでもないから、あきらめずに何度でも挑戦し続けなければならない。
若い時期から社内外の多くの人が自分に協力していろいろやってくれたと思っても、先代の影が見えるからの所業であることが大半である。
自分でやり始めてみて、壁にぶつかったり失敗したとき、うまくいかなかった理由、原因を他人のせいにしたり、言い訳したり、怒鳴ったりしても何も解決しない。
命令では社員は本気で動かない。強く命令すればするほど、人心が離れていくだけである。
『貞観政要』にある「守成は創業より難し」はまさにその通りだと思うが、変化のゆっくりしていた唐の時代より、グローバル化し、情報革命が起きている現代のほうがはるかに「守成」が難しい時代だと認識している。
一倉イズムの継承といっても、経営手法は時代とともに変化し進化するから、大切ではあるが、決め手にはならない。
一番引き継がなければならないのは、「起きることは全て社長の責任」という覚悟であり、「自分以外は全てお客様である」という地動説の経営観である。
経営者から教育者へ
後継社長が全社の指揮を執り始めると、会長の立場からの発言が極めて難しくなるし、現場からすれば二頭政治になってしまうことが一番困るのである。
社長も困るが、社長の頭越しに指示命令が来ると、古参幹部や中堅幹部はもっと困って板挟みになり、身動きが取れなくなってしまう。
会社のことは少し社長に任せ、細かいことには目をつぶり、いろいろな会長の生き方を参考にこれからの人生をデザインしていただきたい。
趣味を極める人、公職、業界活動の人、新しく新事業に挑む人、地域の後輩社長の面倒を見る人、宗教活動の人、旅行三昧の人など、元々のめり込みやすい性格だし、お金は使えるからライフワークと言えるまで高めていただきたいのである。
ただし、結局のところ会社のことが頭から離れないので2つのことをお願いしている。先日、80歳を迎えた会長には「会長の一代記」を書き残しておいてください、とお願いしたばかりである。
会長も二代目で、今は同じ敷地内に家を建てた長男が立派に三代目として会社を盛り立てているが、孫である四代目には、お爺ちゃんとしては接していても、大先輩の凄腕経営者としての顔は見せていない。
だからこそ会社の歴史の社史ではなく、一経営者として、数十年の間に起こった良いこと悪いこと、そのとき助けてくれた人、逆に裏切った人、また自分自身がどう考え、行動し上手くいったこと、失敗したことをノートに書き残して、生きた経営の教科書を残していただきたいのである。
ひょっとしたら、自分の子供である三代目が、晩年ピンチを迎えたときに読んで窮地を脱するかもしれないし、そんな目に遭わないかもしれない。
ただよく聞くのは、「もっとオヤジと経営について腹を割って話しておけばよかった」という後継社長の言葉である。その意味でも、会長の経営ノートは子孫への最大の財産になっていく。
それとともに、会長直々の「若手社員の教育機会」を設けることである。
中小企業は少ない人数で仕事を回しているので、思った以上に時間がないし、地方に行けば全員車通勤で先輩後輩のコミュニケーションも希薄になっている。
その結果、特に若手社員は会社の創業時の話や、事業の転換点、経営危機、会社にとっての大恩人など知っておかなければならないことを聞く機会もないし、自ら調べることは絶対にない。
それとともに社会人としての心構えや姿勢を会長の口を通して教育していただきたいと思っている。
会社が大きくても小さくても、社員が自社の名刺を持ってお客様に会えば、お客様は一社員を通して我社の姿勢を判断するのである。
社員教育は時間と手間と忍耐力が必要なことは誰もが認めることであるが、最も大切なことは会社を一番愛している人が教官を務めなければならないことだ。
一倉先生の教育論も経営計画書と社長自らが教育することを説いている。会長、社長以上に我社を愛している人はこの世にいないと確信している。
あとがき~我が生涯の師を持つ~
一倉先生には、冗談が通じなかった。真っすぐな性格で、社長教育一筋、仕事一筋で贅沢な遊びも全くなかった。仕事以外といえば、ゴルフが唯一の楽しみくらいだったと思う。
あるとき「先生、そんなに仕事ばかりしてないで箱根でも行って温泉でゆっくりされたら」と言ったことがある。
晩年の頃である。先生の答えが面白かった。
「冗談じゃない。あんな所へ行ったら、サービスの悪さが気になって文句言いたくなる」「ちっとも休みになんかなるか!」「家で原稿でも書いているほうがよっぽどいい」と。
30年以上前になると思うが、経営計画の合宿をバンクーバーで行い、その帰りの飛行機で先生の隣に座らされた。先生がお酒でも飲んで寝てくれたら、私も寝れると考え勧めたが、原稿用紙を取り出し執筆を始めてしまった。成田まで遠かった。
何事も真正面から向きあうから、冗談が理解できないのかもしれない。こんなこともあった。
済州島で合宿をやっていたとき、ホテルのプールサイドでパーティーを開くことになった。ちょうど中間の休日でお昼である。酒の勢いもあって、社長たちが仲間をプールに投げ飛ばし始めたのである。
他のお客さんたちも見ていて大笑いになったが、そのうち社長連中が冗談で「先生も落としてしまえ」とひそひそ話を始めたのが耳に入って大剣幕。その場でこっぴどく叱られた。誰も本気でやろうなんて思ってもいないが、先生だけは大真面目。
全て直球勝負なのである。後で、皆でさらに大笑いになった。
なんでもそうかもしれないが、策を弄することなく、表裏なく、信念をもって大真面目にやる人は人から愛される。
若造が大先生を評論するのは僭越だが、一倉先生の魅力の根源は、この愚直なまでの真面目さだったと今になって改めて思う。
実際に仕事以外で食事をしているときも、ゴルフのときも、お客様目線で不備に気づくと、我慢ならないのである。すぐに支配人、社長を呼べと、怒りだして説教が始まってしまう。
指導料がもらえる訳でもないのにと、こっちは思ってしまうが、先生は大真面目で指導してしまうのである。もう職業病である。
社長も支配人も一倉先生を知らないから、「なんだ、このクレーマーおじさん」くらいの気持ちだから、お供のこっちはおろおろするのである。
先生にはサービスを良くしなければ「潰れるぞ!」という純粋な思いしかないから、本気なのである。
そこには業に徹する凄味があった。
社長人生の早い時期に「こんな師匠」に出会えた人は幸せだとつくづく思う。
多くの社長から「噂には聞いていたが、もっと早く聞いていれば失敗しなかったのに」とか、「今まで俺は全部反対のことをやっていた」とか、いろいろな声を聞いてきた。
そして今でも、「判断に迷ったときに一倉先生の本を開くと、答えが1行目からぱっと飛び込んでくる」という社長もいらっしゃる。
事業経営は日々刻々とカタチを変えて、社長に決断を迫ってくる。社長は「欲」と「恐怖」の狭間で決断し行動し、社員に実行させ続けることが宿命である。
現役社長として重責を担っている人、これから社長になる人は、自分自身の思考の原点、事業経営の中心軸、人間学を早い時期に固めていくことが「強い社長になる」王道だと思うのである。
「勉強」「実体験」「半確信」「再勉強」「実体験と再現」「確信」の繰り返しが、一見遠回りに見えるが、一番の近道だと確信している。禅語に「冷暖自知」とある。
知ってはいても体験してみないと本当のところはわからないし、納得できないことばかりだと思っている。身体で覚えたものは忘れないが、全てを体験できるわけでもないし、窮地の体験はできればしたくないのが本心である。
だからこそ、先人の知恵が役に立つのである。中国古典を紐解いても人間の犯す過ちは今も変わらないし、大成功を遂げた経営者が晩年全てを失う今日の姿も変わらない。
また、その教訓を我がものとし、経営者人生を全うする知恵者も多い。
どうか自分自身の師匠に「書」と「実際に相談できる人物」として出会ってほしい。
20歳のときにこの世界を垣間見て、最初の師匠が日本経営合理化協会の創業者であり、現会長の牟田學であった。後に一倉定、高島陽、井上和弘、東川鷹年、小林剛、大竹愼一、佐藤肇各氏をはじめ各界一流の師匠にご縁をいただき多くを学ばせていただいた。
本当に感謝の気持ちでいっぱいであるとともに、浅学非才の私に無理難問を押し付けてくる全国の会長、後継社長に修養の場を与えていただいたことを光栄に存じます。
ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いいたします。
2019年9月作間信司
作間信司ShinjiSakuma1959年生まれ。
山口県出身。
1981年、明治大学経営学部卒業後、大手インテリア会社にて販売戦略など実務経験を積んだ後、1983年、日本経営合理化協会入協。
事業の企画・立案を担当するかたわら、会長牟田學の薫陶を受け、全国の中堅・中小企業の経営相談に携わる。
以来20余年の豊富な指導経験からオーナー経営者との親交も非常に深く、その親身のコンサルティングに多くの社長が全幅の信頼を寄せる。
メーカー・商社・小売・サービス業など、現在まで300余社を指導する気鋭のコンサルタント。
協会主催の社長塾「地球の会」「事業発展計画書作成合宿セミナー」などの講師を歴任し、現在「佐藤塾~長期計画~」副塾長、「JMCA幹部塾」塾長を務める。
田中道信氏の「会長業の実務と心得(CD)」の聞き手、社長のための〝声〟の経営情報誌「月刊CD経営塾」の番組ナビゲーターとして活躍中。
執筆中の協会のメルマガ、社長のための経営コラム「経営無形庵」も好評。
共著「事業発展計画書の作り方」、解説「執念の経営」。
「伝説の経営コンサルタント一倉定の社長学」特設サイトhttps://www.jmca.jp/pre01/
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