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第7章作業の意味論

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作業の意味を壊すな

人間は、能動的に計画し行動するようにしない限り、作業に失敗しがちである。自分では何も考えず、他人から指図されるままに、手を動かすだけの作業誘導方式は、非常に問題が多い。

我々は、メカニズムを納得できない作業手順を習得できない。電卓の計算回路は、引き算を全廃するという革命的な方式で作られている。

「93-56=?」という引き算の計算では、まず56の補数(この場合は足した時に100になる数)を対応表で調べて44だと見つけ、93に44を足して137を得て、そこから基数の100を除去して答えの37を導いている。

この手順は単純この上ないので、小学校で教えられている方式の引き算は全廃するべきという過激な考えが浮かぶ。

だが、何でこの計算手順で正しいのか、子どもにはなかなか納得させることができないので、教育には適していない。

ともあれ、引き算であれば、作業効率は悪くとも意味が納得できる手順があるからよいが、分数の足し算や割り算では、抽象的で意味不明な作業手順しか教えてもらえないので、生徒はいよいよ困る。

やれ「分母の最小公倍数を見つけなさい」とか「分子と分母を取り替えなさい」と指示され、「そうすれば正しい答えになるんだから」と教え込んだところで、作業が何の目的を持ち、どういうメカニズムで稼働するのかを納得できていなければ、手が動かないのだ。

意味を感じ取れない作業は苦痛である。

ドストエフスキーは『死の家の記録』の中で、最もきつい刑罰は、無意味な作業であると述べている。桶の水を別の桶に移させ、また元の桶に戻す。

あるいは、土の山を別の場所に移動させ、再び元の場所に戻すといった、明らかに無意味な作業が、一番精神的に辛いという。

メカニズムを納得できていない作業を唯々諾々とこなすことはできたとしても、その結果の善し悪しを自分で判断できない。

「新宿から、恵比寿、広尾、日比谷を通って、巣鴨へ行け」という行程は、馬鹿馬鹿しいほど無駄な回り道である。

しかし、地理に明るくない人は言われたままにやるしかなく、能率の悪い行程であるとは気付かない。

作業結果の善し悪しを感じられない状態では、上流工程から不良な部品が到来しても排除しないし、自分がミスをしても放置する。ミスが連発している職場は、大抵はこの問題を抱えている。

ミスを発見できるように、作業は意味を感じやすく、やりがいのあるスタイルで実行させたい。

そのためには、作業を細切れにせず、起承転結を感じ取れる程度の幅で任せる方式がある。セル生産や屋台生産と呼ばれる方式である。流れ作業方式(ライン生産方式)とは真逆の方式に当たる。

自動車のエンジンを組み立てる作業ならば、1人の熟練工が、全ての部品がバラバラの段階から、全てが組み上がった段階まで、最初から終わりまでを担当する。

熟練工は、固定された自分の作業場(セル、屋台)にいて、そこで作業の全てをこなす。

エンジンが組み上がった姿を見るとやりがいを感じるし、出来の善し悪しにも自然と思いが至る。ミスに敏感になる。流れ作業方式ならば、何人かの作業員で手分けするところである。

ある人はピストンをはめるだけ、またある人はネジを締めるだけと、作業を細切れにして、各自はその部分だけを受け持つ。

加工品はベルトコンベアに乗って生産ラインを流れていく。

これならば、各員は一つの工程だけに慣れればよいから、教育と訓練が楽であるし、作業も能率的であると思われがちだ。

しかし実際は、日がな一日、1種類の作業を大量に繰り返すことは、意識が呆然としてくるし、精神的に辛い。

最後の工程の人以外は完成品を見ないので、その出来の善し悪しを感じるチャンスもない。流れ作業方式は、この心理学上の問題点はあるものの、作業効率の点では優れている。

よって、流れ作業方式を採用したり、セル生産方式と流れ作業方式を折衷した体制を選ぶ場合もある。

また、流れ作業方式ではあっても、作業があまりに細切れで単調にならないようにするために、ある程度は意味が感じられる程度に複雑さを持たせる工夫がなされている。

◆単調な作業は、心理的に辛い。

コンピューターに足りないのは常識

マニュアルは、論理的に完全無欠で書けるわけではない。自然言語は論理的に隙なく厳密に書こうとしても書けない。書かれてない部分は常識で埋めるのである。

「お客様にお茶を出す」という指示は、「お茶をお客様の顔に浴びせるのではなく、湯飲みに入れて出すのだろうな」と常識を足して理解するのである。

2019年になってすら、米国のコンピューター学会の雑誌で、人工知能の権威であるヤン・ルカン博士は「コンピューターは未だもって、とても、とても、馬鹿である。

最新、最良の人工知能であっても、猫ほどの常識も持ち合わせていない」と述べている。

コンピューターを使う仕事は非常に多い。

常識を持たないコンピューターと、常識が働いて当たり前だと信じている人間との二人三脚は、時にとんでもない事故を引き起こす。

これを防ぐには特殊な配慮が必要である。

事例を挙げてみよう。

ある案件のデータを入力中、その案件では全く無関係の欄に出くわした。

それは数量の欄だったので、「0」を記入した。

つまり「無い」という意味である。

すると、コンピューターは「0個」のための見積書を印刷し、客先に送りつけた。

ある市役所のシステムは、該当しない欄は「9」の字で埋めなければならないという、古い流儀だった。

そんなシステムだからついに、ある人に生活保護費として999,999円を振り込んでしまった。

1980年代に、セラック25という放射線治療器で死亡事故が相次いだ。

この装置はキーボードを使って操作するのだが、そこに問題があった。

電子線モードを表す「E」と入力すべきところを、間違えてX線モードの「X」と打った場合に、矢印キーを押してカーソルを戻し、「X」を「E」で上書きし修正したという事例があった。

画面上は「E」に直ったように見えて、実はコンピューター内部での設定は直らず、相変わらず「X」のままだった。

そして、強すぎる放射線を患者に浴びせてしまったのである。

株や為替の大量誤発注事故は、世界中で起きていて、年に一度ぐらいは新聞沙汰になる。

日本で起きた事故では「1株を61万円で売れ」という指令の入力を間違えて「61万株を1円で売れ」と打ってしまった。

61万円の価値のあるものを1円で売り払うことを61万回繰り返すという、常識はずれの破滅的動作を、システムは恬として恥じずに実行してしまったのだ。

2001年の米国同時多発テロの実行犯は、事件中に自爆して死亡した。

事件後しばらくして、米国政府から実行犯の住所宛てに米国滞在ビザの延長を認める書類が郵送された。

本人が死亡届を出すわけもなく、名簿データベースから実行犯の名前は消されず、システムが機械的に送ったのである。

これらの事故は、常識を備えないコンピューターだけに責任があるのではない。

仕事のルール自体が曖昧だから、コンピューターは正しいのだが、うまく働けないという場合もある。

人工知能同士が対戦する囲碁の競技会では、人工知能が自滅してしまった事例がチラホラ見受けられる。

囲碁のルールはいくつか存在するが、日本式ルールと中国式ルールがよく用いられる。

両者はだいたいは同じで、普通はどちらでプレーしてもゲーム内容に差を意識することはない。

まれに点数計算の細かい部分で違いが出る程度である。

日本式ルールで強い人なら、中国式ルールでプレーしても同じように強いはずだ。

人工知能はルールの器用な切り替えが苦手だ。

中国式ルールで稽古を重ねた人工知能が、日本ルールで運営される大会に出場すると、まれにではあるが、ルールの違いを乗り越えることができず判断に迷う。

人間なら、迷ったら平凡な手を打ってとりあえずその場をしのぐ。

小さなミスをするかもしれないが、無意味な手は打たない。

しかし、人工知能は、よりにもよって自滅の手を選んでしまうことがある。

囲碁の実力は人間のプロ以上なのに、ルールの細かい部分でつまずいてしまうのだ。

囲碁用の人工知能は、機械学習、つまり経験に基づいて最善の手を見抜くように作られている。

経験の無い想定外の状況に対してはノーアイデアであり、全く当てずっぽうの行動を取りかねないのである。

◆常識があることを当てにしてコンピューターを使うな。

論理的に完全無欠なマニュアルは作れない

ルールが曖昧だから人工知能が困るというのならば、ルールを論理的に隙のないように厳格にすればよいという意見もあるだろう。

しかし、論理的にいっさい粗がないルールは、おそらく作ることができないと思われる。

銀行では、顧客から現金を受け取る時には、必ずその場で互いに見えるところで数えて、金額を確認せねばならない。

「現金その場限り」の原則である。

しかし、この原則を破る場合がある。

初詣の賽銭は、膨大な量の小銭の山である。

これを何日もかけて全て数え上げてから銀行が引き取るわけにはいかない。

まずは銀行が持ち帰り、金額は神社仏閣に事後報告することになる。

顧客が視力に障害のある人ならば、現金を互いに見て確認というわけにもいかない。

大規模な自然災害が起きたときには、通帳も身分証明書もないが、現金が必要で預金を下ろしたいという顧客が殺到する。

このように実社会には、大原則を曲げるべき特殊な事例が必ずあるのだ。

論理的厳格性を徹底的に要求する数学や物理学ですら、ルールの曖昧さの問題はある。

たとえば、「選択公理を認めるか否か」という選択を迫られることがある。

これは、「0以上1以下の数を、ダブりなしで何個でも例を思いつけることにするか、しないか」という、一見すると「できる」に決まっている話である。

だが、「できる」にしてしまうと、バナッハ・タルスキーのパラドックスという、奇怪な現象を認めることになる。

これは、一つの球を数個のパーツに切り分け、それらをうまい向きに回して組み合わせると、球が2つに増えるという命題である(やり方をユーチューブで解説している人もいる)。

これは現実世界の常識とは合わないので却下したいところだが、それでは数を思いつけないという異常な仮定を認めることになる。

この論点は、微小な世界の現象では実際に差し障りがある問題であるので、まじめに検討せねばならない。

そういう分野の教科書は、まず選択公理をどう扱うかから話を始める。

論理的に厳格であるからといって、深い意味があるとは保証できない。

農機具に関する行政は、農林水産省と経済産業省が関わる。

この役割分担について農林水産省設置法は、農林水産省の担当範囲は、「経済産業省がその生産を所掌する農畜産業専用物品の生産に関することを除く」と定めている。

経済産業省設置法は、経済産業省の受け持ち範囲は「農林水産省がその生産を所掌する農機具を除く」としている。

これなら論理的に完璧であるが、実際にどう区分けしているのかは分からない。

ヴィトゲンシュタインの言うように「トートロジーは無意味」である。

囲碁は深遠なゲームであり、曖昧性のないルールを作ることは難しい。

たとえ作れたとしても実用に適するかという問題もある。

膨大な条文が並んだルールブックでは使い物にならない。

一般の契約書も、あまりに例外的な事項は条文を用意せず、「双方、誠意をもって解決に努める」の文に織り込んでしまう。

重箱の隅はつつかない方式で済ませ、常識を持っている人間様がお裁きを下す方が合理的である。

結局、厳格にマニュアルを書いたつもりでも、それでカバーしきれない事例が残ってしまう。

そこで下手をすれば暴走するのが人工知能であるが、常識のある人間であれば、何とかうまくまとめることができるだろう。

論理的に厳密なマニュアルが存在したとしても、それで作業がスムーズになるとも、読者の疑問にちゃんと答えられるとも言えない。

よいマニュアルは妥当さを目指す。

論理よりも分かりやすさ、百点満点ではなく合格範囲内の仕上がりを目指す。

◆マニュアルは妥当を目指せ。

簡素さを取るか、精密さを取るか

仕事は簡単であるに越したことはないが、まれに簡素さが弊害を呼び寄せることがある。シンプル・イズ・ベストとは限らない。

課税制度は簡素さと複雑さの間で揺れ動いてきた。誰から、いつ、どこで、いくら、納めさせるかというルールを作り、それを実施することは、かなり難しい。

所得税の制度は、証拠の提出から控除の算定などがかなり複雑であるが、この事務コストにひるまずに断行されている。

例外的に簡単な税は、塩税や、酒税、印紙税など、ものにかけるものである。これならば、事務能力が貧弱な昔の政府でも運営できた。明治時代の政府の財政は酒税にかなり頼っている。

戦争などで財政が悪化すると、必ずこれらの税が引き上げられた。中国の王朝は、塩税の引き上げにたびたび手を染めたが、塩は生活必需品なので、重税を課すと民衆反乱が起きた。

イギリスは、アメリカの植民地に印紙税をかけたが、これがもとでアメリカは独立戦争を挑んできた。

シンプルな税制度は、庶民に重く、また安直に増税されがちで、それが民衆の反発を招いて危険である。

所得税は、事務上は面倒くさい制度であるが、累進課税によって庶民の負担を相対的に減らしたり、各種の控除によって国民の行動を誘導できるといった大きなメリットがある。

「配偶者控除」や、「地震保険料控除」「政党等寄付金特別控除」といったあの手この手の控除によって、我々のライフスタイルは操られている。精密な事務作業は、コストはかかるものの、それだけの効果はあるのだ。

簡素さと精密さの両方を兼ね備える制度も存在する。近代的な郵便制度は19世紀にイギリスで発足した。

送料を国内均一にして料金計算の事務コストを撤廃するという、大幅な作業効率改革によって、一大事業として確立したのである。

均一料金ならば、切手を使って料金を前もって受け取ることができる。料金が細かく変動するのであれば、この手は使えない。

この効率改革によって、支払い事務と受付事務は分離できることになり、使用者はいつでも郵便物をポストに入れさえすればよいという利便性も生まれた。

しかし、時代の変化によって状況は変わりうる。

ある時代においては、シンプルで効果的な制度だったのに、時が移ると、効率が落ち、下手をすれば複雑怪奇なものに変貌することがある。一度、成功を収めたからといって、制度の改革をしなくて済むとはいかない。

印紙税は、昔は単純明快であったが、ややこしくなっている。

印紙税法を読んでみると、領収書のように一回ごとに発行する書類と、通帳などの何回か使いまわす帳簿型書類とでは、税額の計算方式が違う。

契約内容に対する税ではなく、書類に対する税なので、同じ契約内容であっても書類の形式が違うと、税額が異なることもある。

どことなく釈然としないし、印紙税の節税テクニックを説く人もいる。

ある銀行は、顧客に送る住宅ローンの審査結果の手紙には印紙が不要だと考えていたが、2014年に税務当局は文書の内容からして課税対象だと判定した。

納付漏れは総額2億円強である。

節税の意図はなくとも、印紙税法はよく研究しないといけない。

細かくて複雑な規則が多く、忘れると脱税となるし、税額も馬鹿にならないからだ。

最近では、自然災害を被った人向けに、建物の立て直しや土地の取引等に関する書類に非課税措置が取られている。

このようなマイナーな規則がいろいろある。

また、「営業に関しない受取書」は非課税とされている。

ここでの「営業」とは、通常の日本語の意味とは違うからややこしい(結論だけを大まかにいえば、弁護士などの「士業」は「営業」の扱いを受けず、彼らが発行する領収書のようなものは、印紙を貼らなくてよいのである)。

印紙を貼り忘れたり、消印を押すのを忘れるミスも多い。

2017年には、消印の押されていない印紙を剥がすという手口で、法務局局員が4億7千万円強を稼いでいたとして刑事告発されている。

印紙のストックが切れると買いに行かねばならない。

高額の印紙は保管に気を使う。

という具合に、日本中の事務作業員の頭を悩ます印紙税法である。

印紙税は、徐々に改革されつつあるものの、時代に合わない。

根本的に廃止する方が、日本社会の生産性向上のためになるだろう。

あえて作業を煩瑣にする場合もある。

朝令暮改ではあってはならない事項は、手順を増やし、時間がかかるようにしてある。

大臣の任命においては、皇居で親任式を開催せねばならない。

総理大臣だからといって、儀式を軽々しく即興で開催するわけにはいかず、大臣を安易にころころとすげ替えることができなくなっている。

株式会社の取締役も、解任するには株主総会の議決が必要となる。

重要人事の急変を防ぐために、事務上の不便をブレーキとして利用しているのだ。

とはいえ、大切な儀式であっても、手順は簡素にするべきと考える。

司馬遷は「大礼必簡」(重要な儀式は必ず簡素である)と述べている。

無駄のない手順は、機能美を持ち、緊張感を演出する。

茶道の作法は、無駄を省いた簡素の極みであるが、事務的で退屈ということにはならない。

◆効率的な作業も、時代が移れば不効率になる。

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