MENU

第7章 新しい時代の新しい仏教

かつてヨーロッパで恐れられた仏教

その点について、詳しくは、私たちが2002年に翻訳したロジェ・ポル=ドロワ『虚無の信仰―西欧はなぜ仏教を怖れたか』(島田裕巳・田桐正彦訳、トランスビュー)に書かれている。そもそも、19世紀以前の段階では、仏教のことは、ヨーロッパにおいてほとんど知られていなかった。

それも考えてみれば当然のことである。インドは19世紀にイギリスによって統治されるようになるが、その時代には、仏教はインドから完全に消滅していた。したがって、当初の段階では、仏教はインドの土着の宗教であるバラモン教よりも古いと見なされた。仏教が滅んだ後にバラモン教が広がったというとらえ方がされたわけである。そうした誤解は次第に解けていったものの、今度は、仏教が「涅槃」を説くことから、恐ろしい宗教であるという受け取り方をされるようになる。ヨーロッパの研究者は、涅槃を「魂の消滅」としてとらえた。それは自我を破壊するものであり、虚無をめざすものとして受け取られたのだ。魂が存在しなければ、あるいはそれを破壊すれば、救いなどあり得ない。ヨーロッパの人々は、仏教をすべてを無にしてしまう恐ろしい宗教ととらえ、それを恐れたのである。なぜそんな事態が起こったのか。その謎解きは『虚無の信仰』を読んでいただきたいが、その時代の仏教は現在のイメージとはまるで違うものとして受け取られていたのである。現在では、そのような誤解が生まれることはなくなり、無という考え方にしても、禅を通して、それが精神を解放する究極の営みとして積極的に評価されるようになってきている。日本で深刻な仏教離れの傾向しかし、世界に向かって禅を発信したところの日本では、近年になると、仏教が衰退する傾向を見せている。宗教団体の信者数については、それぞれの教団の自己申告だが、文化庁の宗務課が刊行している『宗教年鑑』に掲載されている。その平成元(1989)年版と平成30(2018)年版とを比較してみると、既成仏教教団の信者数は8650万人から4800万人に激減している。そこには、日蓮宗の一派である日蓮正宗が、その在家組織であった創価学会を破門したことも影響している。日蓮正宗の信者数は、この間、1705万人も減少した。ただ、その分を差し引いても、31年に及ぶ平成の時代が過ぎていくなかで、既成仏教教団は2145万人も信者の数を減らしている。これは、驚くべき変化である。そのなかで、浄土宗と浄土真宗から構成される浄土系は、信者の数がかえって増えたとされている。ただ、浄土宗の場合には30年のあいだにまったく信者数が変化していないので、実情を反映しているとは考えにくい。浄土真宗の場合にも、浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)が競って信者数を増やしているようなところもあり、どこまでそれを信じていいのか難しい。他の宗派が相当に信者数を減らしていることからすれば、浄土系もまたその例外ではないはずである。つまり、既成仏教教団の信者数はもっと減少している可能性があるのだ。実際、各宗派の本山に参詣に来る人の数は相当に減っていると言われている。人口が減少することで、信者数が減るのは当然だが、そうした事態が起こる以前の段階で大幅な信者数の減少が起こっている。日本の既成仏教の場合には、第6章でふれたように、「葬式仏教」として社会に定着してきた。葬式仏教ということばには、仏教が、生きている人間の救いには積極的ではなく、死者を弔う葬式や法事にばかり力を注いできたという批判的な視点が示されている。だが、宗教が社会に定着するということは、葬式を担うということでもある。ヨーロッパのキリスト教の場合にも、死後、教会墓地に葬られることを保証することで定着してきた面がある。北欧のように「国教会」の制度がある国々では、どの教会墓地に葬られるかが生まれたときから決まっている。その点では、「葬式キリスト教」なのである。日本の仏教が葬式仏教の性格を持つようになった背景には、江戸時代の寺請制度の影響がある。寺請制度自体は近代に入ることで廃止されたものの、菩提寺と檀家の関係は、その時点で解消されず、その後も受け継がれた。そこには、日本の社会において家という存在が重要性を持っていたことがかかわっている。家の先祖を祀る「先祖崇拝」が仏教と深く結びついてきたのである。しかし、家が重要となるのは、そこが家族の経済基盤になり、家を受け継いでいく必要があるからである。戦後になると、産業のあり方が大きく変わり、企業などに雇われる人間が急速に増えた。それによって家の重要性は失われた。少なくともそれは、是が非でも受け継いでいかなければならないものではなくなった。そうなると、先祖崇拝の意義は薄れ、菩提寺との間で檀家関係を維持する必要もなくなる。そこに、「仏教離れ」が生まれる最大の要因がある。しかも、地方では少子化や高齢化の影響で、地域共同体の力が失われ、それも仏教離れを引き起こす要因になっている。本山に参詣する人間の数が減ったのは、これまでならそれぞれの村で参詣講を組み、集団で参詣していたのがなくなってきたからである。ヨーロッパの先進国でも、キリスト教離れはかなり進んでいる。それも、これまでのキリスト教のあり方が時代に合わなくなったからで、日本の仏教も同じ傾向を示している。

そもそも、日本を含めた先進国では、宗教が求められなくなってきた。そこには、コンピュータやインターネット、あるいはスマートフォンの普及ということもかかわっている。情報を得るためなら、そうした道具の方が便利である。宗教の一つの役割としては、信者に対して人間関係のネットワークを与えるというものがあるが、それもSNSで代行されるようになってきた。これは仏教にとっては危機的な事態である。仏教離れの傾向は、これからも続いていくことが予想されるし、時間が経てばより深刻なものになっていく可能性が高いのだ。仏教をめぐる新たな動きただ一方で、文化としての仏教ということになると、決して人々の関心は失われていない。仏教関係の書物を読む人たちは少なくないし、有名な寺院を訪れ、仏像を鑑賞する人たちはかなりの数にのぼる。仏教関係の展覧会には多くの人たちが集まる。「はじめに」でも述べたように、若い頃は、仏教を含め、宗教に対して関心を持っていなかった人間でも、年齢を重ねるにつれて変化していく。50代、60代になって急に仏教に対する関心が生まれてきたという人たちはかなりの数にのぼる。葬式仏教の場合には、菩提寺との檀家関係が基盤になっているので、そこには宗派ということがかかわってくる。どの寺院も必ずや特定の宗派に属しており、そうした寺院の檀家であるということは、その宗派の信者であることを意味する。ところが、文化としての仏教への関心ということになると、そこには宗派の影響は少ない。特定の宗派の信仰にだけ関心を持つような人もいないわけではないが、多くの人たちは宗派を超えて仏教全般に関心をむけるようになる。そこには、これから求められる仏教のあり方について、一つのヒントが示されている。宗派の枠を超えた仏教。日本人は、そうした仏教のあり方に関心をむけつつあるのではないだろうか。宗派の仏教ということになると、どうしてもそれぞれの宗派を開いた宗祖が中心になる。宗祖の教えこそが、それぞれの宗派の教義であり、仏教そのものの開祖とされる釈迦への関心は薄くなる。果たしてそれで仏教と言えるのか、その点は大きな問題である。日本でテーラワーダ・ブディズムが関心を集めるのも、そうしたことが関係する。宗祖の教えよりも、釈迦の教えに近づきたい。そうした願望が日本でも生まれてきているのである。仏教関係者の危機感このような形で状況が変化してきたことに対して、宗派は対応が難しい。釈迦の教えを強調するようになれば、宗祖がその陰に隠れてしまうからである。釈迦の仏教への関心は、歴史のなかでいろいろと仏教に付け加えられてきた要素をできるだけ排除したいという思いを伴う。となると、日本で仏教と強く結びつくことになった葬式などは余計なことにもなってくる。実際、最近では、葬式をしない方向にむかいつつある。一時は華美な葬式が問題になった。とくに1980年代後半から1990年代前半にかけてのバブル経済の時代には、派手な葬式が流行し、葬式には金がかかるという風潮が生まれた。高額の戒名料が問題になったのも、バブルという時代状況と密接に関係している。その後、経済の停滞ということもあり、葬式は簡素化が進み、規模も縮小している。身内だけで済ませることが多くなり、葬式に招かれる機会も大幅に減った。もっとも規模が小さい葬式が、火葬場に直行する「直葬」で、都市部ではこれがかなり増えている。直葬の場合には、火葬することが第一の目的になっていて、一般には、僧侶を導師として呼び、読経してもらうことはない。葬式については、長く仏教式を選ぶことが続いてきた。それは、戦後になっても変わらなかった。けれども、ここに来て、仏教式を選択しないケースが増えている。都市では、特定の菩提寺と檀家関係を結んでいない家も大幅に増え、菩提寺の住職に葬式のときの導師をつとめてもらう必要がなくなってきたからだ。葬式仏教はその役割を終えつつある。今やそうした事態が起こっている。各仏教宗派においては、そうした事態に対して危機感を抱き、死者の供養ではなく、生きている者の悩みや苦しみに寄り添う仏教のあり方を模索する動きも生まれている。しかし、急に方向を転換しようとしても、これまでとは異なる方向をめざしても、それは簡単にはうまくいかない。目立った実績が上がっていないのが現状である。今の時代に求められる仏教とは仏教の大きな特徴は、「原理主義」にはなりにくいことがあげられる。この場合の原理主義とは、原典を最高のものとして重視し、それに従うことを理想とすることである。その傾向がもっとも明確なのがイスラム教の場合で、信者が従うべきイスラム法は、コーランという聖典を基盤にしている。コーランこそが神のメッセージであり、それに従うことが、イスラム教徒としての務めとなっているのだ。それはキリスト教の場合にも共通している。キリスト教では、新約聖書に記されたイエス・キリストの教えがもっとも重視され、それにかなった生き方をすることが信者に求められてきた。それに対して、仏教の場合には、膨大な仏典が生み出され、それは、基本的に釈迦の教えを書き記したものとはされているものの、実際には、後世になって作られたものである。それは、釈迦の教えが歴史のなかで次々と刷新されてきたことを意味する。仏教では、釈迦が悟りを開いたという出来事を出発点におき、その悟りが何かを解明し、それを追い求めていくことが後世の信者に委ねられている。そのために、膨大な仏典が作られてきたのである。原理主義の考え方からすれば、そうした仏教のあり方はおかしなものに思えるかもしれない。だが、絶えず教えが刷新されることで、仏教は活力を保ってきた。逆に、刷新が行われなくなることは、仏教から活力を奪うことにもつながる。日本では、中国から最新の仏教を取り入れることが続いた。日本人は、仏教が絶えず変化を遂げていくところに関心を抱き、もっとも新しい動きを取り入れようと、中国に渡るなど、必死の努力を続けてきた。しかし、インドで仏教が消滅してしまったことも影響しているのであろう、中国でも、途中から仏教の刷新は止まり、停滞することとなった。そうなると、日本の仏教界も新陳代謝が進まず、結果的に活力が失われることになった。

寺請制度がなくなるとともに、近代の日本仏教は、廃仏毀釈の影響で苦しい時代を経験することとなった。そのなかで、新たな仏教の運動を起こそうという試みもなされた。仏教を近代化する「新仏教」という試みも生まれたが、大きな広がりを持つには至らなかった。日蓮の信仰を、次第に力を持つようになっていった皇国史観と結びつける「日蓮主義」が注目を集めたようなこともあった。しかし、近代の日本仏教が、根本から刷新されるということはなかった。本来なら、仏教を革新するということは、大乗仏教が誕生したときのように、新しい仏典を作り上げることを意味するはずだ。「如是我聞」という形式から外れなければ、それはインド以外で作られた偽経ということにはなるものの、一つの仏典が生まれたことを意味する。新たな仏典を生み出すことで、仏教を変えていく。今求められているのは、そうした徹底した改革かもしれない。それは簡単なことではないだろう。だからこそ、新時代にふさわしい、新たな仏典が生み出されてはいないのである。だが、新しい仏典を作り出すという観点から、現在の仏教のあり方を見直すことは決して無駄なことではなく、意味のあることではないだろうか。仏教では、人間の根源的な苦を、生老病死の「四苦」としてとらえてきた。人間には、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬことがつきまとうため、苦から逃れられないというのが、仏教の基本的な認識である。現在でも、四苦がすべて消滅したわけではない。だが、社会が大きく変化するなかで、四苦のありようも変わってきた。平均寿命は延びて、多くの人が長寿を享受できるようになったし、多くの病が治療可能になった。逆に今は、長く生きなければならないということが苦に結びついていたりする。苦のあり方が変わってきたということは、死生観が変化してきたことを意味する。現在の私たちは、どういった死生観を持つべきなのかで悩み、苦しんでいる。そうしたなかで、仏教が果たすべき役割があるとするなら、それは、現代という事態にふさわしい死生観を確立し、人々に対して提供することである。根本的な苦を四苦としてとらえていいのか、それが今や問われているのだ。仏教の考え方、仏教の思想を基盤に、現代にふさわしい死生観を確立していくこと。それが、仏教を刷新し、革新していくことに結びつくはずである。よりつきつめて考えるなら、いったい私たちはどういった死を理想としているのか、それを考えることがもっとも重要な宗教的な課題である。少し前までは、家族に見守られながらあの世に旅立つということが、理想的な死と見なされていた。できれば、自分が生まれ育った家で死にたい。そうした希望を抱く人たちもいた。しかし、今や単身者の世帯が増えたし、亡くなる場所も、病院か施設になってきた。自宅で家族に見守られながら大往生を果たすということは、一部の人間にしか可能ではなくなってきた。一人で病院や施設で亡くなることは、究極の孤独を意味するのだろうか。亡くなってすぐに発見されない孤独死や無縁死は、好ましい死と言えるのか。理想とする死の姿は、どんどんと見えにくくなっている。そうした状況のなかで、仏教は新たな死生観を説くことができるのか。それが一つの重要な課題であることは間違いない。釈迦が現在の世界に姿を現し、そのなかで悟りをめざしたとしたら、いったいどういう方向にむかうのか。今や私たちはそれを考えるべきときに至っているのかもしれないのだ。

おわりに法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、そして一遍が関心を集めてきたのは、多くの信者を抱えている宗派の宗祖だからである。鎌倉時代ではなく平安時代に活躍した最澄や空海も宗祖という点では変わらない。宗祖は、独自の教えを説き、救いの仕組みを作り上げていった。最澄は、『法華経』に対する信仰を説き、空海は密教を実践した。法然と親鸞は浄土教信仰を信奉し、栄西と道元は禅の実践を積み重ねた。日蓮は、最澄を受け継ぐ形で『法華経』信仰を強調し、一遍は全国を遊行するなかで浄土教信仰を説いた。たしかに、こうした宗祖が登場することによって、それまで主に国家鎮護の役割を果たし、朝廷や公家など、社会の上層階級だけが関心を寄せていた仏教が、より広い階層に伝えられた。その意義は大きい。国家を救う仏教から民衆を救う仏教へ、そこで大きな転換がはかられたのである。だが、果たしてそうした救済論は現代の社会において依然として有効なのであろうか。その点になると、かなり難しい問題をはらんでいる。たとえば、浄土教信仰の場合である。浄土教信仰においては、念仏を唱えることによって西方極楽浄土への往生がかなうということが説かれてきた。こうした教えが魅力あるものとして受け入れられたのは、かつての日本社会においては、生きること自体が難しく、そこには数々の苦難が待ち受けていたからである。そもそも人々の寿命は短く、長く生きることはできなかった。苦しい現世に生きるよりも、死後に極楽浄土に生まれ変わることを望む。昔の社会状況が、浄土教信仰を必要とした。そこには、時代的な必然性があったのである。しかし、現代において状況は根本から変わった。もちろん、地震が起こったり、風水害に見舞われたりといったところは変わらない。急な病によって幼い、あるいは若い命が奪われることもある。だが、地震や風水害の後に飢饉が訪れ、流行病によって多くの人の命が奪われるということはなくなった。社会環境は整備され、そこに医療の発達が加わることによって、流行病の発生は抑えられ、難病もまた治療が可能になった。その結果、多くの人たちが長寿を享受できるようになった。社会のあり方も大きく変わり、生きていくこと自体が苦であるという感覚は相当に薄れてきた。それは、極楽往生することに切なる期待を抱く必要がなくなったということである。現世よりも来世に希望を託したい。そうした思いを抱くことはほとんどなくなっている。現代の社会において浄土教信仰に有効性はあるのか。それはかなり難しい問題になってきている。葬式の簡略化が進む背景にも、そうしたことが深く関連しているに違いない。仏教に救いを求めること。それ自体、現代の社会では難しくなっている。そこにリアリティや切実さを感じることがなくなってしまったのだ。では、この先の仏教はどうあるべきなのだろうか。日本の仏教のあり方を考える上で、宗派の形成以前に立ち戻る必要があるのかもしれない。いま、宗教が果たせる役割平安時代に最澄の天台宗や空海の真言宗が生まれる以前にも、日本には宗派は存在した。「南都六宗」と言われる、法相宗、三論宗、華厳宗、律宗、成実宗、倶舎宗の六宗である。ただ、こうした南都六宗は後の宗派とは異なり教団を形成するものではなかった。それはむしろ学派としての性格を持っていた。しかも、一つの宗派の教えだけを学ぶのではなく、六宗全体を学ぶ「六宗兼学」が基本だった。平安時代に、天台宗と真言宗が生まれてからも、「八宗兼学」ということが説かれていたので、依然として宗派は学派としてとらえられていたことになる。学派であるということは、学問の流派ということであり、仏教の教えを学問的に追究していくことを意味する。かつての日本仏教は必ずしも救済の手段を与えるものではなく、世界を哲学的に探求していく試みだったのだ。それぞれの学派で行われていたことは、世界の原理を探求する哲学的な営みであり、「仏法」を明らかにしていくことであった。たとえば、法相宗の場合には、「唯識」の考え方をもとにしていた。唯識は、今日の深層心理学に通じるものを持っており、人間の意識の根底に「阿頼耶識」の存在を想定する。この阿頼耶識は、深層心理学で言えば無意識にあたるもので、そこからさまざまな意識現象が生み出されると考えられた。三論宗で説かれたのは、「空」の考え方であった。この世界に生み出される現象は、すべて因果によって生じてくるものであり、その本質は実体を持たない空だというのが、三論宗の認識だった。もちろんそこには、世界のあり方を正しく知ることが人々を解脱に導き、苦からの解放を実現するという認識があった。その点では、救済論との結びつきはあった。一神教の世界では、この世界を創造したのは唯一絶対の神とされる。ところが、仏教は、そうした創造神を想定しない。そうなると、世界がどのように生み出されてきたか、神による創造とは異なる形で、それを説明しなければならない。唯識も空も、それを説明するための試みであり、哲学的な営みだった。唯識や空の考え方が、日本に次々と宗派が生まれることで否定されたわけではない。ただ、哲学的な営みを続けることよりも、いかに救いの手段を与えるか、関心がそちらに移ったのである。そこには、仏教がより広い層に受け入れられるようになったことが関係していた。では、唯識や空の考え方は有効性を失ったのだろうか。決してそうではないだろう。私が30年以上前に翻訳に参加したものに、フリッチョフ・カプラの『タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』(工作舎)という本がある。著者は素粒子物理学の専門家で、その観点から、最先端の素粒子物理学と東洋の宗教哲学との間に世界を認識する仕方に共通性があることを指摘したものであった。この翻訳が出た当時は、そうした試みは「ニュー・サイエンス」と呼ばれ、かなりの注目を集めた。もちろん、東洋の宗教哲学が、西洋において発展した物理学の探求を先取りしていたというわけではない。ただ、物質の究極的なあり方を解明していこうとすると、東洋の哲学が切り開いた世界観に似た世界が立ち現れてくるということである。現代の社会では、とくに先進国においては宗教の衰退という現象が起こっている。ヨーロッパでは、キリスト教離れが進み、アメリカでも徐々にではあるが自分は無宗教であるとする人たちが増えている。

日本でも宗教は衰退している。それは宗教全般に及んでおり、戦後に急拡大した新宗教だけではなく、既成の神道や仏教においても、各教団は信者数を減らしている。これから、人口の減少という事態が起これば、その傾向はさらに強くなるものと考えられる。そこには、宗教による救済に、人々が期待をしなくなったことが影響している。浄土教信仰に対する期待が薄れたことについて述べたように、現代の社会においては、宗教が果たす役割が見失われてきているのである。ただ、宗教が時代遅れのものとなることで、いったい私たちの生をいかなる形で支えるのか、その基盤も失われてしまったという問題がある。宗教は、救済とともに、生きることの意味を与える役割も果たしてきた。その役割を、宗教以外が果たすことは難しい。人生の意味を探るためには、哲学的な探求が必要になる。日本人が、宗派仏教以前の時代に立ち戻って仏教のあり方を考えていかなければならないのも、そのことが深く関係している。日本では、キリスト教は広がりを見せなかった。キリスト教を信仰するなら、神という存在に究極の根拠を求めることができる。神を求めないのであれば、存在の究極的な根拠をどこに求めればいいのか。本来、仏教はその点を明らかにすることを試みる必要がある。事実、宗派仏教成立以前にはそうしたことに関心が寄せられていたのだ。激動する現代世界のなかで、私たちは、人生を支える究極的な根拠をどこに見出していけばいいのか。今、仏教はそれを果敢に果たしていくべき時を迎えているのではないだろうか。

島田裕巳(しまだ・ひろみ)宗教学者、作家。東京大学文学部卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程修了(専攻は宗教学)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。現代における宗教現象、新宗教運動、世界の宗教、葬式を中心とした冠婚葬祭など、宗教現象については幅広く扱う。

教養として学んでおきたい仏教2019年4月30日電子版V1・00著者島田裕巳発行者滝口直樹発行所株式会社マイナビ出版〒101―0003東京都千代田区一ツ橋2−6−3一ツ橋ビル2F電話03―3556―2735(編集部)電子メールpcbooks@mynavi.jp(質問用)URLhttp://book.mynavi.jp/●本書をお読みになったご感想、ご意見等ございましたらアンケート用URLにお寄せください。https://book.mynavi.jp/quest/all(アンケート用)●本書は、著作権上の保護を受けています。本書の一部あるいは全部を著者、発行者の承認を受けずに無断で複写、複製することは禁じられています。●内容への電話によるお問い合わせには一切応じられません。ご質問等がございましたら右記質問用のメールアドレスにご送信ください。●本書によって生じたいかなる損害についても、著者ならびに株式会社マイナビ出版は責任を負いません。ⓒ2019SHIMADAHIROMI/MynaviPublishingCorporation

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次