第6章渡る世間に品はなし
陣取り合戦◆偉い人に挨拶する姿を周囲に見せつける人それほど親密な間柄でないにもかかわらず、くだけた雰囲気の中で隣り合わせになって酒を飲んだりするとき、人の椅子の背に手を回したりする人がある。すぐにではないが、話が弾んでくると、そのようにして二人の間の距離を縮めようとして、徐々に近づいてくるのである。初対面の相手であっても、自分よりも目下であると判断したら、同じように相手の椅子に手を掛ける。もちろん、男性に多く見られる振る舞いだ。相手が女性であったら、セクハラに近い行為である。椅子の背から手をちょっとずらすだけで、すぐに相手の背に触れることになるからだ。その場面だけを第三者が見たら、二人はかなり親しい仲であると考えたとしても不思議はない。横にいる当人との関係自体を急速に近くしようとして働き掛けるだけではなく、客観的にも親しく見える状況をつくり出している。ちょっとずるいやり方ではあるが、人間関係づくりに長けた人のすることだ。こういう人は、レセプションなどの場でも、臆面もなく偉い人のところに近づいていって、挨拶をする。周囲の人にとっては、その親密の度合いは判断できない。とにかく挨拶を交わしたり話をしたりすることのできる仲であることを、皆に見せつけるのである。そのようにして、人間関係の中における自分の地位を確立し確保していく。一種の陣取り合戦をしている。自分の陣地の中に人々を囲い込んでいくことによって、自分の陣地の拡張を図っていく。平和で落ち着いている文明社会では、土地の所有権ははっきりと確定されている。しかし、原始社会や大混乱の極みに陥った世界では、最初に行って縄を張って所有を宣言した者の勝ちだ。先着順で縄張りが決まってしまうのだ。このような考え方ないしは心理を上手に利用しているのである。さらに、椅子の背に手を置いた、当の相手との関係においては、自分のほうが上であるというメッセージも発している。自分が相手に対して支配権があることを、曖昧なかたちであるとはいえ、相手に向かって示している。相手の椅子の背に手を置くというだけの、単純な行為であるが、さまざまな意図が込められている。したがって、その手を早く払っておかないと、自分が相手と親密になると同時に、相手の支配下に身を置くことを了承したものと解釈されてしまう。もちろん、物理的に手を払ったのでは、闘争を仕掛けたにも等しく、乱暴過ぎる。「気になるから」といって、手を引いてくれるように、丁重に頼むのである。または、用を思い出した振りをして、急に立ち上がって席を外す。そのとき、自分の肩で相手の手を振り払ったのと同じような結果になれば、このうえない。その意図は、相手も敏感に感じとるはずだ。品の悪い人の隣に座っていたら、以上のようにさまざまに不利な状況に置かれることとなる。もし席を替えるのが可能な座り方になっているのであったら、できるだけ早い機会に、その席を立ってほかのところに行ったほうがよい。勝手に品の悪い人の「子分」にさせられたのでは、自分までも同類、すなわち品が悪いと思われてしまう。◆乗り物で人を押しのけて「席」を手に入れ、「品」を失う対象が人であれ物理的な場所であれ、自分勝手に自分の所有権ないしは利用権を手に入れようとするのは、完全なルール違反である。必ず相手、ならびに同じ権利があると思われる、周辺にいる人たちの了承を得てからにする必要がある。また、皆が納得する方法に従って、公正な競争をしたうえでなくてはならない。たとえば、公共の乗り物や建物の中で席を確保しようとするようなときだ。先着順が大原則であるが、我勝ちに走るのは欲が表にはっきりと出ているだけに、品に欠ける。人を押しのけるようにして走れば「席」は手に入れることができるかもしれないが、そのときは「品」を失っている。席は一時的なものでしかない。だが、品は一度失ってしまったら、それを取り返すためには、多大な時間とエネルギーを必要とする。一時的な便利さと楽を求めるために品を犠牲にするのは、到底、割の合うことではない。その点の損得勘定をすることを忘れてはならない。品を落としたら、人々の批判を恐れ、悪い評判にビクビクしながら生きていかなくてはならない。それは精神的にはおよそ楽とは縁遠い環境である。楽や便利を求める欲を一時的に抑える努力をしてみる。慣れてくれば、それは癖となるので、楽にできるようになる。
有名人と一緒の写真◆有名人と会ったことで自分の価値を高めようとする人華やかなレセプションやパーティーに行くと、有名人の姿もよく見掛ける。テレビなどにも時どきは出ているが、スター的存在でない人の場合は、つい自分の知人ではないかと錯覚することがある。見て知っている人だと思うのだが、誰であったかが即座には思い出せないからである。後になってから、テレビに出ていた人だったと気づく。立食形式の場合であれば、参加者は誰に近づいて行って話し掛けてもよい。礼儀正しく挨拶したうえであれば、臆することなく会話を交わす。もちろん、相手が困惑するような話題を持ち出したり、興味本位の質問をしたりするのを避けるのは、いうまでもないマナーだ。万一、自分がそのような話を仕掛けられたときは、「そんな話をするために来ているのではない」と明言したうえで、「失礼します」といって去っていくのだ。低次元の話に対しては、最初にノーをいうことが必要だ。曖昧な態度をとって適当な応対をしていると、徐々に深みにはまっていく。そうなってから防御的な話をしたり逃げたりしたのでは、卑怯だといわれ軽く見られるだけである。いずれにしても、その集まりの趣旨を大きく逸脱するような言動はルール違反であることを肝に銘じておく。したがって、ちょっとした記念写真くらいは許されるが、よく知らない人を強制して一緒に並んだ写真を撮るのは問題だ。有名人を見つけると、一緒に写真を撮ろうとして走り回っている人がいる。政治家であれば、選挙のときの票につながるかと考えるので、ノーという人はいない。そのうえに、自ら進んで握手をしようとする。政治家の握手戦術はかなり効果的であるようだ。一方の有権者の側としても、握手をすることによって、親近感を感じて相手に対して好感を抱く。しかし多くの場合、政治家の握手はリップサービスならぬ、単なる「ハンドサービス」であるので、それに惑わされてはならない。握手はお互いに近づきたいという気持ちが一致したときにするものだ。一方的に手を差し出されたら、何か魂胆があるものと考えて、まずは間違いない。相手の目を注視して、心の奥深くを読みとろうと神経を集中する。すると、心からなる握手かどうかの見分けはつく。有名人と一緒に写った写真をほしがる人は、自分自身の記念や記録というよりも、人に見せるためである場合が多い。その有名人と会ったことがあるという事実を、証明しようとする。特別な人たちが集まる会に自分も参加したことを示して、自分自身の重要性も高めたいと思っている。◆自分を高く見せるのではなく、高めていくことどのような人であれ、その人と「同席」するということは、その人と「同列」であるということである。すなわち、まったく同じではないが同じような程度や地位にあることを意味する。「末席を汚す」という表現がある。同じ席に連なっていることをへりくだっていっているのであるが、実際には、その「席」自体が高い地位を示すものである点を、それとなく誇示するという心理状態も見え隠れしている。いずれにしても、有名人と一緒の写真に写っていることは「名誉」であると考える。自分の格が多少でも上がる結果になるからである。その点をフルに利用しようとする人は、そのような写真をアルバムに入れて、機会あるごとに人に見せようとする。写真立てに入れて飾っている人までいる。有名人との一時の遭遇を奇貨として、それを自分の格上げに役立てようとしている。皮肉な見方をすれば、本人に実力がないので、ほかの人の力を借りて、自分を実力以上に見せようとしている。それは自信がないことの表明でもある。有名人であれ実力者であれ、その人と自分が親しい間柄であったら、わざわざ一緒に並んでいる写真を見せる必要はない。ちょっとした背景を説明すれば、親友であることはすぐにわかる。写真を見せびらかしたり、もらった名刺を見せたりするのは、自分の心の貧しさをさらけ出しているだけだ。中身がないので上辺をつくろおうとする虚飾のにおいがプンプンする。有名人や実力者に自分がはるかに及ばないことを強調している結果にもなっている。自分は自分であり、自分以上になれない点を忘れてはならない。自分自身の実力を積み重ねていって、明日の自分を今日の自分以上へと高めていく以外には方法がない。自分を高く見せるのではなく、高めていくのである。有名人との写真などを人に見せたら、自分を自分以下に見せる結果にもなりうる。下手な小道具は使わないことだ。
ものを粗末に扱う◆八つ当たりは知性と教養の欠如映画やテレビドラマなどの中で、憤懣やるかたない人が、部屋の中の物を手当たり次第に投げつけて壊してしまう場面を見ることがある。特に欧米の場合は、派手に掴んだり持ち上げたりして投げるので、部屋の中がメチャメチャになる。インテリアとしては半壊ないしは全壊といった惨状を呈する。撮影のためとはいえ、家具や什器をまたたく間に廃品にしてしまうのは、やはり気になる。物不足の時代に育ち、ものは大切にするようにと教わった私たちの年代にとっては、見るに耐えない。フィクションの世界であるとはいっても、実際にものが壊されているのであるから、もったいないと考えざるをえない。怒髪天を衝くばかりに怒ったり自暴自棄の極限状態に陥ったりしている気持ちを表現しようとしているのはわかる。だが、現実には皿の一つや二つを投げつけることはあっても、あそこまで徹底的にする人を見ることはないと思っていた。私がこれまで実際に目撃した光景の中で最も激しかったのは、あるアメリカのビジネスマンの場合だ。自分の秘書が、急いでいる仕事をすぐに片づけていないことに腹を立てた。秘書のところに行って催促したが、彼女は取引先と電話中であったので、ちょっと待ってくれと目で合図をした。しかし、彼には待つことのできる余裕はまったくなかった。暴君のように怒り狂ったボスは、秘書の手から電話のハンドセットを取り上げると、それを電話機の上にガチャンと置いて通話を遮断してしまった。その手で電話機の全体を持ち上げ、引っ張ってコードを引きちぎってから、床の上に力いっぱい叩きつけた。さらに、壊れた電話機を足で何度も情け容赦なく踏みつけたのである。本来であれば、気に食わないのでやっつけたい相手は秘書である。しかし、彼女に対しては、怒りの言葉をぶつけることしかできない。物理的に殴りつけることなどは到底できないので、近くにあって仕事を遅らせる一因ともなっている電話機に当たり散らしたのである。八つ当たりは理不尽な行為であって、知性と教養の欠如を示している。腹が立ったら、その原因を究明して解決を目指す。その元凶と思われる人がいるときは、その人に直接働き掛けて善後策を講ずるのが、賢明な人のすることだ。ものには責任能力がないので罪もない。ものに八つ当たりをするのは、道理に反するだけではなく、罪がない弱者を攻撃するという意味において卑怯な振る舞いである。ものに対するとき、ものにも命があり心があると思って接してみるのだ。そうすれば、乱暴な使い方をしたり粗末な扱い方をしたりすることはないはずである。◆ものの「人生」を全うさせる人は常にものを使うというかたちで、ものと「つきあい」、接している。ものを丁重に扱うことができれば、立ち居振る舞いも自然にエレガントになる。まず、ものを置くときに、ゆっくりと音を立てないように置くことを心掛けてみる。投げたり放ったり落としたりしない。赤ん坊を下ろすときのように、優しく丁寧に扱ってみるのだ。重力に逆らって、ソフトランディングを図るのを忘れないことである。さらに、自分のものであっても、人から借りているものである、と考えながら使ってみるのも一つの方法かもしれない。いずれは返さなくてはならないので、乱暴に扱うことはできない。壊したり傷をつけたりして、元通りのものを返すことができなかったら、親切に貸してくれた人の自分に対する信頼を裏切ることになる。また、ものを使ったり利用したりするときは、その元々の用途に従って、上手に扱っていくことも重要である。ものの機能を十分に発揮させ、ものの「人生」を全うさせるという考え方だ。自分だけではなく、自分の周囲にいる人たちや自分が接していくものと一緒になって、楽しく生きていこうとしてみる。それは調和に満ちた世界になり、すべてがスムーズに流れていく。滞りがない動きは機能的である。機能性を追求していけば、そこに現れてくるのは、簡素な美の世界である。それは高尚で磨きの掛かったものが、すっきりとしたかたちで完成されているかに見える。ものをあらゆる意味において大切に扱っていけば、自分の立ち居振る舞いだけではなく、周囲の環境にも無駄がなくなってくる。垢抜けて洗練された世界で生きていく結果になるのだ。
肌を人目にさらす◆いい年のオジサンの「タフガイ気取り」は下品テレビの番組に出演している女性タレントたちは、魅力的な身なりをして艶を競っている。娯楽番組として人々を楽しませるのが目的であるから、それなりに人々の関心を惹くためには当然のことである。ただ、肌の露出度が過ぎると、子供たちも見る可能性がある時間帯の放映については、批判的な意見も出てくる。ニュース番組など、いわゆる「真面目」な類の放送の場面に出てきている女性のアナウンサーやキャスターの中にも、肌をかなり見せている人たちがいる。女らしさを前面に出していくことには賛成であるが、色気を売ろうとする意識が露骨に感じられるときは、やはり疑問を感じる。色気は振りまくものではなく、出さないように抑えようとしても自然に出てくる風情がよい。プンプンとにおう色気は下品であり、そこはかとなく感じられるのが、上品な色気である。才能と同じで、これみよがしに見せびらかしたのでは、人々は辟易すると同時に、受けつけるのを拒否しようとする。テレビは見せるものであるから、そこで目に入るものはすべて、見せびらかしていると解釈されても仕方がないであろう。それだけに、「特別に」控え目にしなくては、品よく振る舞う結果にはならない。また、若さがはち切れんばかりの女性であれば、多少の露出も自然であり、それほどの違和感はない。しかし、ベテランの域に達しそれなりの年齢にもなっている女性が、「ヤング」と競うように、胸の大きく開いたシャツを着たり、二の腕をあらわにしているのを見ると、ちょっとした抵抗を感じる。男性についても同じようなことがいえる。いい年をしたオジサンが、シャツのボタンを気前よく外して、胸の部分を大きく見せている。ルールに束縛されない自由の気概を示しタフガイを気取った男らしさの演出をしているつもりである。だが、視聴者としては、行儀の悪い男が出てきて、下品に振る舞っているとしか見えない。テレビは氷山の一角にも等しく、このような風景は街中やビルの中などあちこちで見られる。肌を露出している度合いが激しいときは、目の遣り場に困ることも少なくない。超という形容詞がつくほどのミニスカートや、水着に近く布の部分が少ないシャツ、それに体の線がはっきりとわかるズボンなど、男性にとっては「挑発的」な結果になる身なりを目にしないことはない。プールサイドや海水浴場にいる人と見紛うばかりである。◆「女らしく」「男らしく」は挑発的・誘惑的にならない程度に男女ともに異性に対する関心は強く、あらゆる生活の場で、お互いを意識しながら振る舞っている。小さい子供から高齢者に至るまで、同性に対するときと異性に対するときとでは、考え方や行動様式が明らかに異なっている。異性を意識する度合いは、時と場合によって違ってくるが、極端な緊急事態に直面している場合を除き、その意識がゼロになることはない。異性に対しては、好感を抱いてもらいたいとか魅力をアピールしたいとか、さまざまに考えて接している。ただ、表向きに色気を出すか出さないかとか、その程度とかに関しては、人によってまちまちである。しかしながら、心の中では常に何らかの働き掛けをしようと思っている。女性が女らしく男性が男らしくするのは、男と女との間では歓迎すべきことであるが、挑発的かつ誘惑的になると、人前では行き過ぎである。理性の働きの弱い人の場合には、いたずらに肌を見せられたりしたら、簡単に劣情を刺激されてしまう。『今昔物語集』などに出てくる「久米の仙人」の話がある。寺にこもって仙人となったが、空を飛んでいるときに、吉野川で衣を洗っている若い女の白い脛を見た途端に神通力を失って墜落してしまったという。仙人でさえ女性の足の素肌を見て、理性を失ってしまったのであるから、普通の人が女性の肌を見たら、よからぬ考えを抱いたとしても責められることはないであろう。肌を見せるのは親しい間柄になってから、というのが大原則である。それも「こっそり」、すなわち、ほかの人に見られないように隠れて見せるのだ。それでこそ、その価値もいやがうえにも増してくる。軽々しく公開したのでは安っぽくなるだけである。要は限度を超えないことだ。時と場所と場合をよく見極めて、そのときにどのような人たちの目に触れることになるかを考えたうえにする。異常に興味を持つ人がいる可能性があるかどうかが、露出度に関して品の有無を判断する分岐点になる。
不特定多数に媚を売る◆大勢の前での媚びる演出は逆効果テレビのレギュラー番組である。始まるときに音楽が流れてくるが、軽快な生演奏が気分を浮き立たせてくれる。画面に次々と演奏する人たちの映像が映し出される。バイオリン、フルート、チェロ、それにキーボードを演奏しているのは、全員が若くて魅力的な女性たちである。音楽に合わせて全身を躍動的に動かしているのであるが、そのエネルギーが直接に気持ちよく伝わってこない。何かが不調和であって、そこに抵抗感を感じるので、心から楽しむことができない。一人ひとりの動きをよく観察してみると、その理由がわかる。身体を必要以上に揺り動かしているのだ。大きく首を振っていたり、横を向いて笑ったり、手の動きを誇張して振り回さんばかりにしたり、足で大きく拍子をとっていたりと、身体の各部分がフルに活動している。しかも、故意に大袈裟に動かしているので、目障りであると感じるくらいである。目を閉じて聞いていると、心が弾むような音楽が耳に入ってくるので、快い感じを受ける。だが、目を開いて画面を見ると、バラバラな体の動きが押し寄せてくる感じで、目の前に迫ってくる。「騒がしい」動きとしか見えないので、せっかくの音楽までが騒音の様相を帯びてくる。笑顔も振りまいているのだが、それもわざとらしい営業用の笑顔である。体の動きにも自然さがなく、必要以上にくねらせている感じがする。女の魅力を故意に演出しているのである。音楽は軽快でも、演奏者たちの表情や動きには、媚びるような意図が強く出ている。したがって、音楽と体の動きがマッチしていないのである。シナをつくろうとしている分だけ、演奏に対する集中度を欠いているので、その点で「視聴者」に対する働き掛けが弱くなっている。音楽は視ではなく聴に訴えるのが一義的な目的である。視に訴えようとするのは邪道であり、聴に対する部分のよいところまでも台無しにしてしまう危険性がある。演奏は腕で勝負すべきものであって、顔や体の動きは単に結果的ないしは補助的なものでしかない。シナをつくって媚びようとするなどは、以ての外の愚かな考え方だ。演奏に心を込めて、そこで奏でられて出てくる音楽を通してコミュニケーションを図ろうとする心掛けが必要だ。テレビなどという不特定多数の人たちを相手にする手段を使うときに、シナをつくるのは品がよくない。女性が男性に相対するときは、その時と場合によっては、媚びるのも許される。男と女との仲を促進するための触媒のような働きとなったり、雰囲気づくりの一助になったりする。だが、それは特定の女性が特定の男性に対する場合である。大勢の人たちを相手にした公開の場では、不適切な振る舞いとなる。大勢の人たちの中には、男性だけではなく女性も多い。演奏者たちと同年配の人たちばかりではなく、高齢者もいれば少年少女や子供もいる。つくられたシナに対する反応は千差万別である。◆過剰なプレゼンテーションは訴える中身が見えなくなる自分の目の前で媚を売られたら喜ぶ人でも、テレビというメディアを通じて間接的に見せられたときは、それだけ冷めた目で見ることができるので、嫌らしさのほうを強く感じるかもしれない。女性にとっては、ほかの女性の媚は薄汚いものでしかない。さらに、真っ昼間の放送であれば、女っ気を売るにはふさわしくない時間帯であることには異論がないはずだ。芸術を人々に訴えようとするときは、そのプレゼンテーションの仕方にも神経を使う。その美しさや制作の真意が人々の心の中にストレートに入っていくためには、極めて必要なことである。まず人々の興味を惹こうとして工夫を凝らす。だが、凝り過ぎてはいけない。その小細工のほうに目を奪われて、肝心の本体のほうが軽視されてしまう危険性が高くなる。本末が転倒する結果になってしまうのである。プレゼンテーションについては、あくまでも補助的な手段であることを、その計画段階でも実行段階でも決して忘れないようにする。プレゼンテーションが前面に出るあまり、人々に訴えようとしている本体が霞んできたのでは、プレゼンテーション自体も失敗である。引き立て役が主役を食ってしまったのでは、その引き立て役も下手な役者である証拠だ。
上品ぶった言葉◆「ございます」より「です」「ます」のほうが心が伝わる「ざあます言葉」といわれる話し方があった。「ございます」という丁寧な言葉遣いが転じた「ざあます」を頻繁に使った話の仕方である。東京の高台にある屋敷町の区域である山の手に住む、上品といわれる有閑婦人が使っていたものだ。丁寧な言い方を略した下品さと、自分が上品な部類に属することを誇示しようとする嫌らしさが感じられた。上品ぶるのは下品である。上品になろうと努力するのはよいが、それは自分の心構えから出発しなくてはならない。言葉遣いや身なりなどについて品をよくしようとしても、心が伴っていなかったら、単に上滑りに終わってしまう。逆に、カタチとココロとのアンバランスがはっきりと見えてくるので、鼻持ちがならない下品さになる。「言葉は心の使い」といわれているように、心に考えていることが自然に言葉に表れてくる。人生に対して真剣に立ち向かおうとする姿勢に基づいて、人々に対して礼儀正しく振る舞おうと思ったら、言葉遣いもきちんとしたものになる。単に言葉遣いに対する知識だけを増やしたのでは、テクニックに頼ることになる可能性も高い。そうすると、言葉だけが滑っていって、心を込める内容の部分がついていけなくなる。「ございます」は丁寧な言葉遣いである。しかし、ところ嫌わず使っていたのでは、場合によっては、丁寧過ぎるという感じを与える。丁重ないい方さえしておけばよいというニュアンスを感じとる人がいるかもしれない。むやみやたらに丁寧にすると、慇懃無礼になることも多い。慇懃は冗長につながっていく危険性がある。冗長は無駄なもの、すなわち不必要なものがあることだ。それは相対的に心の部分が少なくなっていることでもある。本来であれば、心が凝縮されたかたちで入っているだけの言葉遣いが理想的である。そうすると、時と場合によっては、「ございます」というよりも「です」とか「ます」とかいったほうが、すっきりする。それだけ会話の全体の中に実質的な心の部分を多く入れた結果になるのではないだろうか。◆大切なメッセージに美辞麗句は邪魔政治家の言葉遣いを詳細にチェックしてみれば、慇懃無礼の典型的な例を見ることができる。壇上から有権者の人たちを見下ろしているが、言葉遣いだけはやたらに丁寧、というよりも丁寧過ぎる。口が上手な分だけ心がこもっていないと感じる。『論語』に「巧言令色鮮し仁」とある。言葉遣いが巧みで愛想のよい人には、人の道を心得ている者は少ない。逆にいえば、口が下手な人には真実がある、という場合もある。言葉を飾らなければ、それだけ言葉は短くなる。大切なメッセージを伝えようとするときに、美辞麗句は邪魔でしかない。単刀直入にいったほうがよい。恋を告白するときに、「私はあなた様をお慕い申し上げております」とか「好きでございます」とかいったのでは、恋する思いの激しさは伝わらない。時代錯誤的な表現でしかない。「好きです」とか「好き」とかいうだけで十分である。というよりも、そのほうが思いの丈が通じる。「簡潔は知恵の神髄」である。ポイントだけを簡単にいう。修辞も最小限にする。礼を失しない程度であれば十分だ。ただし、簡潔は省略ではない点を忘れてはならない。略するのは言葉の重要性に対する認識を欠いている証拠である。言葉を粗末に扱うので、当然のことながら、そこに心を込める余裕もなくなる。「おはようございます」を「オッス」というのは、仲のよい者同士であればよいが、ほかの人に対していうのは許されない。また、「なんつっても」などという言い方は、多くの人たちが頻繁に使っている。しかし、下品に聞こえるのは否定しようがない。略さないで「なんといっても」といったほうが、耳にも優しく聞こえる。言葉は生き物である。いろいろに変化もすれば、成長したり衰退したりもする。「俗」にいわれている言葉や表現を利用したほうが、感情を的確に伝えられる場合も多々ある。しかし、俗に慣れれば俗になってしまう。俗は高雅とは相容れない。また、発音しやすい音に変わる音便についても、言葉によっては通俗性の強いものになるので、それだけ品位に欠けるものとなる可能性がある。慎重に言葉を選んでいかなくてはならない。いつも話している言葉や表現を時どきチェックしてみるのだ。それらがそのまま書くことのできるものであればよい。書くのが躊躇されるようなものであるときは、多少は品が悪くなる傾向があるものと考えて、ほぼ間違いない。
自己宣伝をする◆宣伝は人がしてくれてこそ効果がある自己主張の時代である。自分の意見は、誰に対しても胸を張って、臆するところなく述べていかなくてはならない。もちろん、時と場所と場合によって、主張の仕方や強度は調整する必要はあるが、自分の考えを曲げたのでは自分を見失ってしまう。自己主張によってのみ自分のアイデンティティーの確立が可能になる。だが、自己主張が行き過ぎになると、自分のことについて自分がいいたいことばかりいう傾向が出てくる。自分勝手なことをいうようになる。自分にとってマイナスになることはできるだけいわないで、プラスになることだけいうのである。そうなると、自己主張というよりも自己宣伝の色彩が濃くなる。宣伝の目的は、人々の理解を喚起して、自分の思う方向へ向かって人々が動いてくれるようにすることである。それは、自分の考えを表明し、その是非についての判断は人に任せるという姿勢ではない。人の心を多少とはいえ操作しようとする意図が隠されている。その点に関しては、人間は敏感に反応する。ちょっとでも自己宣伝のにおいを感じたら、警戒心をつのらせる。信憑性について疑問を抱くのである。そのことを百も承知のはずの、世の識者たちが、この自己宣伝の愚を犯しているのをよく見る。有名な作家がテレビに出たときなどに、自分の書いた本を宣伝するような場合だ。そのときに話題になったことに深く関連する本の紹介であれば、当然のことながら、自分の主張を補強する手段の一つである。しかしながら、あまり関係のないテーマについての本を宣伝したのでは、ただ単に「売りたい」というメッセージを発しているにすぎない。また、新聞や雑誌などの定期刊行物にエッセイ風の文章を書いているときに、突如として最近自分が上梓した単行本の紹介をすることもある。そのような紹介の仕方は、本質的にも効果的にも、広告と変わるところはない。広告はメディアに金を支払って宣伝をしてもらうものである。一方、メディアに寄稿するときは、それなりの原稿料を受け取っているはずだ。すると、広告料を払わないどころか、広告とまったく同じ内容の文章を書くことに対して、その部分の行数に対しても、原稿料を支払ってもらっている結果になる。すなわち、「二重取り」をしている結果になっている。やはり、自分の筆という武器を上手に利用して自分の利を図っている、といわざるをえない。ケチくさいずるさが感じられるので、せっかくの美文もみすぼらしくなってしまう。人生に対する鋭い観察眼に基づいた言葉の流れが、突如として生臭いものになるので、興醒めだ。自己宣伝の押しつけを感じるので、ちょっと辟易する。有名な作家であれば、多くの読者がついているので、黙っていてもある程度の部数は売れるのがわかっている。小さなスペースや少しの時間を利用して自己宣伝をすることによって、自分を安っぽくする結果になっている。宣伝はほかの人がしてくれてこそ、信憑性も高まり効果も大きい。◆個人的な判断基準に従う限りは偏見に過ぎないその点に関連して、売れっ子作家たちが、自分の書く文章の中で、特定の商品や店などの実名を挙げてほめるのも、気になる。もちろん、軽い雑文的な読み物の中においてであるから、事々しくあげつらうのが間違っているかもしれない。自分がひいきにしていたり好感を抱いたりした店については、読者に紹介したいと思う気持ちは理解できる。しかし、同じカテゴリーの店を専門的にチェックした後ではないので、公正な情報であるとはいえない。あくまでも自分の個人的な判断基準に従っているので、その限りにおいては偏見である。ほかにもっとよい店があっても無視された結果になっている。したがって実際には、自分が持ち上げて宣伝することによって、その店からよく思われようとしている、という要素も感じられなくはない。やはり、そのままストレートに読めないのである。何か暗黙のうちに店と馴れ合っているという感じを払拭することができない。もちろん、最初から取材記事という企画の下になされた場合は例外である。そのときは読者も初めから色眼鏡を掛けて読んでいるので、ある程度の公正さが保たれている。普通の雑文の中では、実名を避けたほうが公平無私の姿勢を堅持することになる。大体の場所とか特徴とかを記述するに留めておく。知っている人が読めば、どの店であるかがわかるし、多少の知識のある人であったら、大体の見当ぐらいはつけることができる。宣伝臭をなくそうとして、「婉曲」な表現をするほうが奥床しくスマートだ。
郷に入っても我を通す◆フランス料理店で「おしぼり」は出ないかなりの昔、友人が田舎からやってきたので、夕食を一緒にすることになった。本格的なフランス料理のレストランが東京にも進出してきていたころであったので、そこへ連れて行った。真夏の暑いときであったので、冷房の効いた室内に入っても、すぐに汗の引くことはない。顔見知りのマネジャーが席に案内してくれた。まず挨拶をしたり、ありきたりの話題について話をしていた。すると突然、友人がおしぼりを持ってきてくれというのだ。マネジャーは「ここはフランス料理店なので、おしぼりは出していない」という意味のことをいった。それに対して友人は、タオルか何かはあるはずだからそれをおしぼりにして持ってこられないものか、と反発していた。確かに、おしぼりは日本のよい習慣である。しかし、西洋料理の席では客に出す習慣はない。いくらよいことであるからといっても、その場で相手に強制するのは、相手の方式を無視することであるから、礼を失する振る舞いである。もちろん、お客様は神様であるから、そのくらいのサービスはしてもよいではないか、という議論もあるだろう。しかし、いくら誰でも入っていくことのできる店であるといっても、店の人たちにとっては自分たちの「城」である。他人の家の中では、その家の人のいうところに従い、その家のルールに従うのが根本的な原則だ。どうしても手や顔を拭きたかったら、洗面所に行って洗ってくるなどすればよい。そのようなこともいったのだが、友人は不平たらたらで、私にまで盾突いてくる有様であった。残念ながら、そのときの友人は文字どおりの田舎者であると断じざるをえなかった。習慣を知らなかった点ではなく、ほかの世界のルールを無視する点において、洗練されていないのである。これは店や人の家に行ったときだけではなく、外国に行ったときにも注意しなくてはならない点である。他国を訪問するときは、その国の風俗習慣や言葉なども含めた文化体系の全体に対して敬意を表し、できるだけそれに従う。自国の常識に従って振る舞おうとするのは、井の中の蛙のすることである。その国が開発途上国であったとしても、そのルールを守らなかったら、文明国からやってきた者のほうが「田舎者」なのである。自分には主権のない国に行くのであるから、大きな顔をして闊歩する権利はないことを、まず知っておく必要がある。そうすれば、多少なりとも謙虚に振る舞う結果になるはずだ。自分が入っていくことを認められ、客として遇されることに対しては、感謝の念を持ち続ける。そうすれば、現地の人に迷惑を掛けたり違和感を感じさせたりすることはない。「郷に入っては郷に従う」のであり、「ローマではローマ人がするようにする」のである。旅行中だからといって、はしゃぎ過ぎたり羽目を外したりするのは、品位に欠ける行動である。特に外国にあっては、日本人はどのような言動をするのかと、皆が一挙手一投足を観察している。したがって、日本人の代表であるという矜持を持って、品よく振る舞う必要がある。そこで日本人の評判が決まってくる。◆異なる生活様式を学ぶ態度は品格を高める外国から来た人であるからといって特別扱いをされることがある。それに対しては感謝するが、そこで調子に乗ってはいけない。また、その国の人には許されないことも、大目に見てもらえる場合もある。その国のことについて詳しい知識がないと考えられているからである。しかし、そのような知識を勉強して身につけておくのは、その国を訪れる前にしておくべき義務だ。外国人という地位に甘えたり、それを利用したりして、楽をしたり利を図ったりしようとするのは、いやらしくずるい了見である。現地の人たちの行動様式をよく観察したうえで、できるだけ真似をしてみる。たとえば、神社仏閣や教会など宗教的な建物を訪れるときだ。自分にとっては単なる観光名所の一つにすぎないかもしれないが、現地の人にとっては重要度の極めて高い信仰の対象である。その人たちと同じような形式に従って礼拝をしてみる。単にかたちを真似ているだけであり、幼稚な拝み方であるかもしれない。だが、人と気持ちを共有しようとする真摯な姿勢は必ず伝わる。率直な考え方をして、知らない国についても学ぼうとする態度には、品格の高さが滲み出てくるかのようである。どんな国にもどんな人にも、学ぶべきところがどこかにある。それを謙虚に追い求める心構えが肝要だ。
あとがき品が悪いと思われる例を挙げながら、どのようにしたら品がよくなるかについて考え、書きつらねてきた。人の下品な言動についてとやかくいうこと自体、品がよいカテゴリーには入らないので、ちょっと忸怩たる感じを抱きながらの作業ではあった。だが、これも自分自身を少しでも高めていくために必要な過程である。少しでも品よく振る舞って生きていくためには、「人のふり見て我がふり直せ」をモットーとして研鑽に励むのがよい。人の言動に接して、嫌だとか気になるとかネガティブな印象を受けたとき、なぜ不快になったかを分析して、そのような言動を自分でしないようにする。逆に、気分がよかったり嬉しかったりしてポジティブな印象を受けたときは、その理由を考えて、同じような言動を真似てしてみる。品よく振る舞うためには、まず人のことを考えなくてはならない。自分勝手に考えていれば、すべてわがままな言動となって、自分のエゴをさらけ出す結果となる。そこには礼節の要素が感じられないので、反社会的だとして、人々の反感を買うことになる。礼儀は品よく振る舞うための、言動の律し方を教えている。したがって、心を込めて礼儀正しい言動をするように心掛けていれば、上品な世界に属する人として認められるようになるはずだ。礼もカタチだけでは十分でない。常に相手のことを考えながら、というココロの部分が備わっていないと、礼としては中途半端なものとして終わってしまう。結局、自分のことばかり考えている人は下品な人となり、人のことも考えながら振る舞う人が上品な人となるのである。人のことを考える出発点は、人も自分と同じような「欲」を持っているという事実を、真っ正面から明確に認識することにある。そのうえで、自分自身の「欲」を意識的に浮かび上がらせる。そのような基盤の上に立って、人と自分の双方の欲について折り合いをつけるのである。その際に、人の欲のほうを優先させれば、それだけ品のよくなる度合いが高くなる。見せびらかすよりも隠そうとするほうが、また出しゃばるよりも控え目にするほうが上品に見える所以だ。上品とは自分の欲を抑えることである。そのうえで自分自身に自信を持って、毅然たる姿勢に徹していく。人のことを考えるときも、その範囲を広げ度合いを高めていけばいくだけ、品のよい度合いも高くなっていく。自分の欲を抑えるための理由が見つからないという人がいるかもしれない。冷静になって自分の周囲や社会の仕組みや動きを、注意深く観察し考察してみるとよい。不満足に思ったり反感を覚えたりすることもあるが、自分が毎日つつがなく生きているのは、人々や社会のお陰であることに思い至るはずだ。そこで人々に対する感謝の念が湧いてくる。そこにエゴを抑えなくてはならない理由がある。本書の出版については、PHP研究所新書出版部の佐々木賢治さんに貴重な助言をしていただいた。同氏に深甚なる感謝の意を表明する。二〇〇五年十一月山武也
上品な人、下品な人著者:山武也TakeyaYamasaki電子書籍はPHP新書『上品な人、下品な人』二〇〇六年一月九日第一版第一刷発行を底本としています。電子書籍版発行者:江口克彦発行所:PHP研究所東京都千代田区三番町三―十〒1028331webmaster@bookchase.com製作日:二〇〇七年八月一日本書の無断複写(コピー)は著作権法上での例外を除き、禁じられています。
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