第6章マネジメントの技能
27意思決定
意思決定の力点をどこに置くか
日本について見解の一致があるとすれば、それは合意(コンセンサス)によって意思決定を行っているという点であろう。
欧米では、意思決定の力点は、問題に対する答えに置く。意思決定についての文献も、答えを得るためのアプローチに重点を置く。
ところが日本では、意思決定で重要なことは問題を明らかにすることである。そもそも意思決定は必要か、そもそも何についての意思決定かを明らかにすることが重要とされる。
この段階でのコンセンサスの形成に努力を惜しまない。この段階にこそ、意思決定の核心があるとする。
欧米で意思決定そのものとされているところの問題への答えは、問題の明確化に続いて出てくるべきものとする。
アメリカでは、ライセンス契約の日本側の交渉相手が数カ月ごとにチームを送りこみ、交渉のごときものを始めからやり直す理由を理解できない。
一つのチームが克明にノートしていく。ひと月半後には、同じ会社の別のセクションが、初めて話を聞くという態度で克明にノートしていく。
信じられないであろうが、これこそ日本側が真剣に検討している証拠である。日本では、契約の必要を検討する段階で、契約締結後に関わりを持つことになる人たちを巻き込んでおく。
関係者全員が意思決定の必要を認めたとき、初めて決定が行われる。このとき、ようやく交渉が始まる。その後の日本側の行動は迅速である。
こうして、われわれが決定と呼ぶ段階に達したとき、日本では行動の段階に達したという。日本では、この段階で意思決定の責任を「しかるべき人間」に任せてしまう。
誰がこのしかるべき人間であるかを決めるのはトップマネジメントである。そして誰に任せるかによって問題に対する答えも決まってくる。
コンセンサス形成のプロセスで、誰がどのような考えを持っているかが明らかになっているからである。
このような日本流の意思決定のエッセンスは五つある。
何についての意思決定かを決めることに重点を置く。
答えではなく問題を明らかにすることに重点を置く。
反対意見を出やすくする。
コンセンサスを得るまでの間、答えについての論議は行わない。
あらゆる見方とアプローチを検討の対象にする。
当然の解決策よりも複数の解決案を問題にする。
いかなる地位の誰が決定すべきかを問題にする。
決定後の関係者への売り込みを不要にする。
意思決定のプロセスのなかに実施の方策を組み込む。
日本流の意思決定は独特のものである。
日本社会特有の仕組みや組織の性格を前提とするものであって、どこでも使えるものではない。
だがその基本は、日本以外でも十分に通用する。
それどころか、これこそ効果的な意思決定の基本である。
問題を明確にする
何についての意思決定かを明らかにするには、問題に対する見解からスタートしなければならない。問題に対する答えは人によって違う。
しかし答えの違いの多くは、何についての意思決定かについての認識の違いから生ずる。問題の認識の違いが、答えの違いをもたらす。
したがって、どのような認識の仕方があるかを明らかにすることが、効果的な意思決定の第一歩となる。
まちがった問題に対する正しい答えほど、実りがないだけでなく害を与えるものはない。意思決定は見解からスタートしなければならない。
異なる見解を奨励しなければならない。同時に、見解を出す者に対し、その妥当性について徹底的に考えることを求めなければならない。
意見の対立を促す
マネジメントの行う意思決定は、全会一致によってなされるようなものではない。
対立する見解が衝突し、異なる見解が対話し、いくつかの判断のなかから選択が行われて初めて行うことができる。
したがって、意思決定における第一の原則は、意見の対立を見ないときには決定を行わないことである。
GMのアルフレッド・P・スローン・ジュニアは、会議の席上「それでは、この決定については全員の意見が一致していると考えてよいか」と聞き、全員がうなずくと、「では、意見の対立を生み出し、問題の意味について理解を深めるための時間が必要と思われるので、次回また検討することにしたい」と言ったという。
意見の対立を促すのには理由がある。意見の対立を促すことによって、不完全であったり、まちがったりしている意見によってだまされることを防げる。
代案を手にできる。
行った意思決定が実行の段階でまちがっていたり、不完全であることが明らかになったとき、途方に暮れなくともすむ。自分自身や他の人の想像力を引き出せる。
意見の相違を重視する
ある案だけが正しく、その他の案はすべてまちがっていると考えてはならない。自分は正しく、他の人はまちがっていると考えてもならない。
なぜ他の者は意見が違うのかを明らかにすることからスタートしなければならない。明らかにまちがった結論に達している者がいても、それは、何か自分と違う現実を見、自分と違う問題に関心を持っているからに違いないと考えなければならない。
行動すべきか否か
常に「意思決定は必要か」を検討しなければならない。何もしないことを決定するのも、一つの決定である。何もしないと事態が悪化するのであれば、意思決定を行わなければならない。
このことは機会についてもいえる。迅速に行動しないと大切な機会を失うのであれば、行動しなければならない。そうして初めて変革も可能となる。
逆に、強いて楽観的でなくとも自然にうまくいくと期待できることがある。「何もしなければどうなるか」との問いに対して、「うまくいく」との答えが出るときには手をつけてはならない。多少頭痛の種ではあるが、たいした問題ではないときも手をつけてはならない。
しかし、多くの問題は中間にある。何とかなるというわけではないが、危険に陥るというわけでもない。大きな機会ではあるが、変革の機会というよりは改善のための機会にすぎない。
そのようなときには、行動したときのコストと行動しないときのコストとを比較する。公式はない。指針は明らかである。具体的な問題において、行動すべきか否かを決めるのが本当に難しいことはまれである。
その指針とは、次の二つである。行動によって得られるものが、コストやリスクよりも大きいときには行動する。行動するかしないかいずれかにする。
二股をかけたり妥協したりしてはならない。扁桃腺や盲腸を半分切除しても、全部切除したときと同じ化膿やショックの危険を冒す。多くの場合それは治療というよりは悪化である。
外科医は手術するかしないかいずれかである。意思決定も、行動するかしないかいずれかである。
意思決定の実行
ここまでくると、誰もが効果的な意思決定を行うことができると考える。しかし、まだ一つだけ重要な段階がある。
効果的な意思決定とは、行動と成果に対するコミットである。決定を行った後でその決定を売り込む必要があるのでは、行動は起こされないし、成果も得られない。
結果として意思決定はなかったと同じである。後で売り込むのでは、せいぜいうまくいったとしても、実行に手間どり、せっかくの決定も陳腐化する。
したがって、意思決定の実行を効果的なものにするには、決定を実行するうえでなんらかの行動を起こすべき者、逆に言えば決定の実行を妨げることのできる者全員を、決定前の論議のなかに責任を持たせて参画させておかなければならない。
これは民主主義ではない。セールスマンシップである。意思決定のなかに実行の手順や責任を組み込んでおくことも必要である。
具体的な実行の手順が仕事として割り当てられ、責任として割り当てられないことには、決定はないに等しい。
よき意図が存在するにすぎない。決定を実行に移すためには、次の問いに答えなければならない。
「この決定を知らなければならないのは誰か」「とるべき行動は何か」「それはなぜか」「行動をとるべき者が行動できるためには、その行動はいかなるものでなければならないか」「決定を知らなければならないのは誰か」との問いの大切さについては、経営科学の専門家の間でよく引き合いに出される例がある。
ある大手のメーカーが、工作機械の生産を中止した。スペア用機器は向こう三年だけ生産販売を続けることとした。工作機械の生産中止を発表すると、その日に備えてスペア用機器の注文がかなり来た。
だが、「決定を知らなければならないのは誰か」を考えていなかった。部品購入担当者には何も知らされなかった。担当者は、機器の売上げに応じて一定の割合で部品を購入するよう指示されていた。
こうしていよいよ生産中止の日が来たとき、倉庫には八年分から一〇年分の部品があった。それらの部品は、かなりの損失のもとに処分された。
フィードバックの仕組み
最後に、意思決定の前提となった予測を現実に照らして検証していくうえで必要なフィードバックの仕組みを考えなければならない。
決定後の状況が、想定したとおりに進展することは少ない。最善の意思決定さえ思わぬ障害にぶつかり、あらゆる種類の意外な事態に出会う。
しかも、もっとも優れた意思決定さえ結局は陳腐化する。したがって、実行の成果からのフィードバックがないかぎり、期待する成果を手に入れ続けることはできない。
したがって第一に、意思決定の前提となった予測をはっきりさせなければならない。書面をもって明らかにしておかなければならない。
第二に、決定の結果について体系的にフィードバックしなければならない。
第三に、このフィードバックの仕組みを、決定を実行する前につくりあげておかなければならない。
意思決定は機械的な仕事ではない。リスクを伴う仕事である。判断力に対する挑戦である。
大事なのは、問題への答えではなく、問題についての理解である。意思決定とは知的な遊戯ではない。効果的な行動をもたらすために、ビジョン、エネルギー、資源を総動員することである。
28コミュニケーション
四つの原理
今日、コミュニケーションの試みは、いたるところで見られる。そのための手段も豊富である。
組織内のコミュニケーションは、企業、軍、政府、病院、大学、研究所のいずれを問わず、今日あらゆる組織において最大の関心事となっている。
それにもかかわらず、明らかになったことといえば、コミュニケーションは一角獣のように未知のものであるということだけである。
コミュニケーションについての議論は多い。しかるに、実際のコミュニケーションはまだまだ不足している。
すでにわれわれは、コミュニケーションについて四つの基本を知っている。すなわち、コミュニケーションとは、知覚であり、期待であり、要求であり、情報ではない。
それどころか、コミュニケーションと情報は相反する。しかし、両者は依存関係にある。
コミュニケーションは知覚である
仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの神秘家の公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。
今日われわれは、答えが「否」であることを知っている。音波は発生する。だが音を感じる者がいなければ、音はしない。
音波は知覚されることによって音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。この答えは目新しくない。神秘家たちも知っていた。
「誰も聞かなければ、音はない」と答えていた。この昔からの答えが、今日重要な意味を持つ。コミュニケーションを成立させるものは、受け手である。
コミュニケーションの内容を発する者、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。
聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波しかない。
現存する最古の修辞論であるプラトンの『パイドン』によれば、ソクラテスは「大工と話すときは、大工の言葉を使え」と説いた。
コミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しない。受け手の経験に基づいた言葉を使わなければならない。
言葉で説明しても通じない。経験にない言葉で話しかけても理解されない。知覚能力の範囲外にある。
コミュニケーションを行うには、「受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受けとめることができるか」を考える必要がある。あらゆる事物に複数の側面があることを認識することは至難である。
経験的に身をもって確認ずみのことにも、他の側面つまり裏側や別の面があること、しかもそれらの側面の様子が自分の見ている側面とは違うこと、したがって、それらの側面を見るかぎり、自分とは違う理解をせざるをえないことを認識することは至難である。
しかしコミュニケーションを成立させるには、受け手が何を見ているかを知らなければならない。その理由を知らなければならない。
コミュニケーションは期待である
われわれは期待しているものだけを知覚する。期待しているものを見、期待しているものを聞く。
コミュニケーションに関する文献の多くも、期待していないものは反発を受け、その反発がコミュニケーションの障害になるとしている。
だが反発は、さして重要ではない。重要なのは、期待していないものは受けつけられることさえないということである。
見えもしなければ、聞こえもしない。無視される。あるいはまちがって見られ、まちがって聞かれる。期待していたものと同じと思われる。
人の心は、期待していないものを知覚することに対して抵抗し、期待するものを知覚できないことに対しても抵抗する。期待に反しているであろうことをあらかじめ警告しておくことはできる。
しかし警告を発するには、そもそも期待されているものが何かを知らなければならない。
さらに、期待に反しているかもしれないことをまちがいなく伝える方策、つまり連続した心理状態を断ち切るショックが必要となる。
受け手が期待しているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。期待するものを知って、初めてその期待を利用することができる。
あるいはまた、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知ることができる。
コミュニケーションは要求である
新聞では、紙面の余白を埋めるために、ニュースにならない些事を二、三行にまとめて埋め草に使う。
この埋め草がよく読まれ、よく記憶される。誰も知らないある公爵の城で、左右色違いのくつ下が流行し始めたなどという記事を誰が読みたいと思うか。
いわんや、それを記憶したいなど論外である。あるいは、初めてふくらし粉が使われたのは、いつどこであったかとの記事も、読みたいとも覚えたいとも思わない。
しかるに、それらの埋め草はよく読まれ、よく記憶される。これは、それらの豆記事が何も要求していないからである。読者の関心と関係がないからである。
コミュニケーションは受け手に何かを要求する。受け手が何かになること、何かをすること、何かを信じることを要求する。
それは常に、何かをしたいという受け手の気持ちに訴えようとする。コミュニケーションは、それが受け手の価値観、欲求、目的に合致するとき強力となる。
逆に、それらのものに合致しないとき、まったく受けつけられないか抵抗される。
もちろんそれらのものに合致しないときでも、コミュニケーションが力を発揮したときには受け手の心を転向させることができる。
受け手の信念、価値観、性格、欲求までも変える。だがそのようなケースは、人の存在に関わる問題であり、しかるがゆえにまれである。
人の心は、そのような変化に対し激しく抵抗する。キリストさえ、迫害者サウロを使徒パウロとするには、サウロをひとたび盲目にする必要があった。
受け手の心を転向させることを目的とするコミュニケーションは、受け手に全面降伏を要求する。
コミュニケーションは情報ではない
コミュニケーションと情報は別物である。ただし依存関係にある。コミュニケーションは知覚の対象であり、情報は論理の対象である。
情報は形式であって、それ自体に意味はない。情報には人間はいない。人間的な要素はない。
むしろ情報は、感情、価値、期待、知覚といった人間的な属性を除去するほど、有効となり信頼度も高まる。
しかし情報は、コミュニケーションを前提とする。情報とは記号である。情報の受け手が記号の意味を知らされなければ、情報は使われるどころか受け取られることもない。
情報の送り手と受け手の間に、あらかじめなんらかの了解、コミュニケーションが存在しなければならない。
しかるにコミュニケーションは、必ずしも情報を必要としない。実際いかなる論理の裏づけもなしに経験を共有することこそ、完全なコミュニケーションをもたらす。
コミュニケーションにとって重要なものは、知覚であって情報ではない。
上から下へ、下から上へ
それでは、コミュニケーションについてこれまで得られてきた知識や経験は、組織内のコミュニケーションについて何を教えているか。
過去の失敗の原因や将来の成功の前提について何を教えるのだろうか。まず、われわれはこれまで数百年にわたって、コミュニケーションを上から下へ試みてきた。
しかし上から下へでは、いかに懸命に行おうともコミュニケーションは成立しない。「何を言いたいか」に焦点を合わせているからである。
コミュニケーションを成立させる者は発し手であると前提しているからである。とはいっても、はっきりものを言ったり、書いたりする努力が必要ないわけではない。逆である。
しかし、どのように話すかという問題は、何を話すかという問題が解決されて初めて意味を持つ。
どのように上手に話しても、一方的に話したのでは話は通じない。同様に、下の者の言うことを聞いたからといって、問題の解決にはならない。
いまから四〇年ほど前、エルトン・メイヨーは、それまでのコミュニケーションに対するアプローチの欠陥に気づき、上に立つ者は下の者が言わんとすることに耳を傾けなければならないと指摘した。
部下に理解させたいことからではなく、部下が知りたがっていること、興味を持っていること、すなわち知覚する用意のあることから着手しなければならないとした。
今日でもこの考えは、あまり実地には応用されていないものの、ヒューマン・リレーションズ派による古典的な処方箋として生きている。
耳を傾けることは、コミュニケーションの前提である。だが耳を傾けるだけでは効果的なコミュニケーションは実現しない。
耳を傾けることは、上の者が下の者の言うことを理解して初めて有効となる。ということは、下の者にコミュニケーションの能力があって初めてコミュニケーションが有効となるということである。
上の者にできないことが、どうして下の者にできるか。保証はない。耳を傾けることが悪いわけではない。
それは、上から下へのコミュニケーションが不毛だからといって、上の者が下の者にわかりやすく話し書くことが悪いわけではないのと同じである。
耳を傾けることを強調する考えの根本には、コミュニケーションは下から上へ向かうとの認識、受け手からスタートするとの認識がある。この認識自体は重要な意味を持つ。
しかしそれでも、耳を傾けることがすべてではない。スタートにすぎない。たとえ情報が多くなっても、その質がよくなっても、コミュニケーションに関わる問題は解決されない。
コミュニケーション・ギャップも解消されない。情報が多くなるほど、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になる。
情報が多くなるほど、コミュニケーション・ギャップは縮小するどころか、かえって拡大する。
コミュニケーションの前提となるもの
ではここで、コミュニケーションについて何か建設的なことがいえるか。われわれには何ができるか。
ここにおいて、目標管理こそコミュニケーションの前提となる。目標管理においては、部下は上司に向かい、「企業もしくは自らの部門に対して、いかなる貢献を行うべきであると考えているか」を明らかにしなければならない。
こうして明らかにされる部下の考えが、上司の期待どおりであることはまれである。事実、目標管理の最大の目的は、上司と部下の知覚の仕方の違いを明らかにすることにある。
もちろん、上司と部下の知覚が違っていたとしても、それぞれにとっては、それが現実である。
実は、こうして同じ事実を違ったように見ていることを互いに知ること自体が、コミュニケーションである。
コミュニケーションの受け手たる部下は、目標管理によって、他の方法ではできない経験を持つ。この経験から上司を理解する。
意思決定というものの実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの間の選択、そして何よりも意思決定の責任など、上司の抱える問題に接することができる。
それでも彼は、問題を上司と同じようには見ないかもしれない。事実、ほとんどの場合、同じようには見ない。
そのように見るべきでもない。だがそれでも、上司の立場の複雑さは理解する。
さらには、その複雑さこそマネジャーの立場に固有のものであり、何も上司が好き好んでつくりだしているものではないことを理解する。
これらのことは、それ自体あまり意味のないことに思われるかもしれない。
しかしそれは、これまでのコミュニケーションに関わる経験の数々や、学習、記憶、知覚、動機についての研究が、われわれに教える結論をはっきり示しているはずである。
すなわちコミュニケーションが成立するには、経験の共有が不可欠だということである。コミュニケーションは、私からあなたへ伝達するものではない。
それは、われわれのなかの一人から、われわれのなかのもう一人へ伝達するものである。組織において、コミュニケーションは単なる手段ではない。それは組織のあり方である。
これこそ、われわれがこれまでの失敗から学んできたことであり、コミュニケーションを考えていくうえでもっとも重要な基本とすべき結論である。
29管理
管理手段の特性
今日、企業及びその他の組織における管理手段の設計能力が急速に向上しつつある。しかし、この管理手段の設計能力の向上は、管理能力そのものの向上にいかなる意味を持つか。
管理手段の設計能力の向上を、管理能力そのものの向上に結びつけるには、何が必要とされるか。
組織における管理手段には三つの特性がある。管理手段は純客観的でも純中立的でもありえない。岩石の落下速度を測定するとき、われわれは現象の外にいる。
測定という行為によって現象が変化することもなければ、測定者が変化することもない。物理的な現象の測定は、純客観的かつ純中立的たりうる。
組織においてわれわれが扱う人間社会、すなわち複雑な知覚の世界においては、測定という行為は客観的でも中立的でもありえない。
主観的な行為であり、何がしかの偏りを持たざるをえない。しかも、それは測定の対象を変えるのみならず、測定者をも変える。
なぜなら、測定することによって、新たな知覚を得るわけでなくとも、知覚の経験が大きく変わるからである。
人間社会においては、測定される対象のほうも、測定のために取り出され注目されるという事実のために、新たな価値が加えられる。
いかに科学的に処理しても、管理のために特定の現象を抽出するという行為そのものが、現象の重視を表明したと同じ効果を持つ。
管理のための測定を行うとき、測定される対象も測定する者も変化する。測定の対象は新たな意味と新たな価値を賦与される。
したがって管理に関わる根本の問題は、いかに管理するかではなく何を測定するかにある。管理手段は成果に焦点を合わせなければならない。
組織は、社会、経済、個々の人間に対して、なんらかの貢献を行うために存在する。活動の成果は組織の外に表れる。
社会、経済、顧客に対する成果として表れる。企業のあげる利益にしても、それを生みだすのは顧客である。
内部にあるものはコストセンターにすぎない。すなわち管理的な活動の対象となっているものはコストにすぎない。
これに対して、組織の成果は起業家的な活動の対象である。しかも、必要な外部情報がない。信頼するにたる外部情報などまったくない。
外部情報を手にすることは難しいのみならず、その労力たるやきわめて大きいといわざるをえない。
価値ある外部情報を収集するためのメカニズムはまだない。そもそも起業家的な活動のコンセプトが確立されていない。
少なくとも今日のところ、起業家的な活動について考え尽くされたことがない。これまで管理的な仕事、すなわち組織の内部の現象、事象、データについては惜しむことなく分析が行われ、優れた研究が行われてきた。
しかし起業家的な活動については、それらの分析や研究に比肩するものはほとんど行われていない。
効率すなわち努力を記録し、これを定量的に把握することは容易である。だが、成果すなわち外の世界に表れるものを記録し、定量的に把握する手段はほとんどない。
しかしながら、いかに効率的であろうと、馬車のムチだけをつくっている企業はつぶれる運命にある。
管理手段は、測定可能な事象のみならず、測定不能な事象に対しても適用しなければならない。組織の内部にさえ、きわめて重要でありながら定量化しえないものがある。
優秀な人材を惹きつけ引きとめることができないばかりに、死に向かって歩みつつある企業や産業がある。
優秀な人材を惹きつけ引きとめることは、前年度の利益よりも重要である。測定できるものは、すでに発生した事実、過去のものである。
未来についての事実はない。しかも測定できるものは、ほとんどが外部ではなく内部の事象である。
外部に発生する重要な事象、たとえば馬車のムチをつくる産業が衰退していく原因や、IBMが大企業に成長した理由や、キューバにあるアメリカ系企業が没収されるにいたった経緯は、少なくともそれらのことについて何かできた時期においては、変化を測定することは不可能だった。
そのうえ測定と定量化に成功するほど、それら定量化したものに注目してしまう。したがって、よく管理されていると見えれば見えるほど、それだけ管理していない危険がある。
管理手段の要件
あらゆる管理手段が七つの要件を満たさなければならない。管理手段は効率的でなければならない。必要とする労力が少ないほど優れた管理である。
管理手段が少ないほど管理は効果的である。管理手段を多くしても、よりよく管理できるわけではない。かえって混乱する。
管理システムの設計と利用にあたってまず検討すべきは、管理のために最小限必要な情報は何かである。
管理手段は意味あるものでなければならない。管理の対象として測定するものは、重要なものでなければならない。
市場シェアのように現在重要な意味を持つもの、あるいは人の補充や出勤状況など将来重要な意味を持つものに限らなければならない。
瑣末なことを測定してはならない。成果に影響を与える事象だけを対象とすることによって、初めて本当の管理が可能となる。
成果にとって意味のない事象を管理することは、本当の管理を放棄することを意味する。もちろん、定量化できるということだけでは測定の理由にはならない。
管理手段は測定の対象に適していなければならない。
これは、管理手段の要件として重要でありながら、その設計にあたってもっとも守られていない要件である。
従業員からの苦情は、一カ月につき一〇〇〇人当たり五件という数字で報告されてくる。この報告は表面的には有効である。
しかし、工場のほとんどの部門からは一つの苦情も出ていないことがある。ごくわずかの小さな部門から集中的に苦情が出ている。
もしその部門が、工場の全製品が必ず通らなければならない最終組立部門であって、しかもそれらの苦情を無視するならば、ストライキが起こりかねないとする。
そのようなときには、企業そのものがつぶれることさえありうる。管理手段の精度は、測定の対象に適していなければならない。
哲学と論理学の大家アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、偽りの正確さの危険を警告した。誤差二〇%でしか言えないことについて、小数六位まで測定しても正確になるわけではない。
これこそ、まさに偽りの正確さの見本である。人を大きく誤らせる。正確な測定が困難であり、幅をもってしか評価できないという情報こそ重要である。
市場シェア二六%という数字は、正確であるかのような響きを持つ。だがそのような言い方は、まったく不正確であって何の意味もない。
大ざっぱな数字のほうが、かえって本当の姿を伝える。一見根拠があるかのごとき細かな数字こそ不正確であることを知らなければならない。
管理手段は、時間間隔が測定の対象に適していなければならない。精度と同じことは、時間間隔についてもいえる。
頻繁な報告がよりよい管理を意味するわけではない。かえって管理を無効にする。連続的かつ同時的に、つまりリアルタイムに管理することが流行している。それが必要なケースもある。
発酵槽のなかの抗生物質が、温度や圧力のわずかな狂いで駄目になるのであれば、リアルタイムの監視が必要である。
しかしこの種の管理が、生産プロセス以外の分野で必要になることはまれである。大根の種を蒔いた子供は、芽が出ると抜いて根の育ち具合を見たがる。
まちがったリアルタイムのよい例である。多くの場合、研究開発活動に間断なく評価を加えることも成果に悪い影響を与える。
管理手段は単純でなければならない。ある銀行役員は次のように言う。
「家に二〇前の娘が二人いるが、どちらも銀行のことは知らないし数字に強いわけでもない。頭はよい。そこで私は、銀行業務について新しい手続きの素案ができると、娘たちに説明することにしている。次に、彼女たちにその新しい手続きの目的や内容について説明させる。彼女たちがうまく説明できる程度に簡単になったとき、銀行で使うことにしている。ようやく単純になったといえる」
管理手段は、複雑であっては機能しない。事態を混乱させるだけである。肝心の管理の対象ではなく、管理の方法のほうに関心が移る。
管理手段は行動に焦点を合わせなければならない。管理の目的は情報収集ではなく行動である。ここにいう行動が検討や分析であることもある。
「何か知らないが、何かが起こっている。それが何であるかはぜひ知らなければならない」との観点から行う管理もある。
しかし、「何か面白いことが起こっている」というだけで管理を行ってはならない。
したがって、報告、調査結果、数字など管理手段となるものは、すべて管理のための行動を起こすことのできる者にまで到達しなければならない。
真の管理とは何か
さらに重要なことがある。人間社会としての組織では、管理手段には基本的かつ根源的な制約がある。
この制約は、組織というものがそれ自体実体であると同時に、人間社会の擬制にすぎないことに起因する。
実体としての組織は、それ自体の目的を持ち、活動を行い、それ自体の成果をあげる。生き、あるいは死ぬ。これが前者の実体としての組織である。
しかし同時に、組織は人の集合である。人には、それぞれの理想、目的、欲求、ニーズがある。いかなる組織であっても、メンバーの欲求やニーズを満たさなければならない。
この個人の欲求を満たすものこそ賞や罰であり、各種の奨励策、抑止策である。給与のように定量的なものもある。
しかし、個人の欲求に応えるための環境そのものは定量的ではない。定量化は不可能である。
ここにこそ、組織の本当の管理、すなわち一人ひとりの人間の姿勢と行動の誘因となるべきものがある。
人はいかに賞され罰せられるかによって左右される。彼らにとって、賞罰こそ、組織の目的、価値観、そして自らの位置づけと役割を教えるものである。
いかにコンピュータ、オペレーションズ・リサーチ、シミュレーションなどの道具立てを用意しようとも、定性的な管理手段としての賞罰、価値とタブーに比較すれば、第二の地位に甘んじなければならない。
30経営科学
経営科学への期待
経営科学(マネジメント・サイエンス)は大きな貢献を果たしうる道具である。しかしマネジャーは、自ら経営科学者である必要はない。
医者が血液化学者や細菌学者である必要がないのと同じである。だが、経営科学に何を期待でき、いかにそれを使いこなすかは知らなければならない。
それは、医者が血液化学や細菌学に何を期待でき、いかにしてそれを使いこなすかを知らなければならないのと同じである。
まず、経営科学なるものが何をするか、何をしなければならないを理解する必要がある。経営科学にいかなる役割を期待すべきかを知る必要がある。
そもそも、今日経営科学を使いこなしているマネジャーがほとんどいない。経営科学が登場したとき、マネジャーは歓迎した。その後、経営科学という新しい職業が確立された。
自らの学会と定期刊行物を持ち、大学、ビジネススクール、専門学校において、独立した学部や学科を持ち、さらには産業界において恵まれた職場を持つ新しい専門家集団が誕生した。
今日のところ、経営科学は期待を裏切っている。その約束を果たしていない。マネジメントの実践に革新をもたらしていない。今日では、経営科学に関心を持つマネジャーはほとんどいない。
それでは、経営科学という強力な潜在力を持つ道具をまちがって使い、あるいは使いこなせないでいる原因は何か。
経営科学誕生の経緯
この疑問に対する答えの鍵は、経営科学の誕生の経緯にある。それはまことに特異なものだった。あらゆる学問が対象の定義からスタートする。しかる後に、その対象の研究に必要なコンセプトと方法論を生む。
ところが経営科学は、他の学問が開発したコンセプトと方法論を借用することからスタートした。
経営科学は、物質を研究するための数学的な手法のいくつかが、企業活動の世界にも適用できるかもしれないという発見に有頂天になったあげくにスタートした。
その結果、経営科学の仕事のほとんどが、企業とは何か、マネジメントとは何か、企業とそのマネジメントに必要なものは何かに関心を払わずに進められた。
関心はもっぱら、この見事な手法を適用できるのはどこかだった。すなわち、家を建てるなどという大それたことではなく、またもっと下のレベルの釘を打つということでもなく、単に道具としての金槌に関心を払ってきたのだった。
これは、今日の経営科学者の間に、科学的であるということはどういうことかについて重大な誤解があることを示している。
彼らの多くは、科学的であるということは定量化することであると単純に考えている。科学的であるためには、その対象とする領域を定義し、包括的かつ一貫した公準を形成することを必要とする。
この作業は、対象とする領域に対し、いわゆる科学的な方法論を適用する前に行わなければならない。
しかるに経営科学は、自らの対象とする領域を定義することをいまだなおざりにしている。経営科学は、真の貢献を果たすつもりであるならば、まず初めに、その対象を定義しなければならない。その定義には、企業とは、人から成るシステムであるとの理解が含まれる。
したがって経営科学にとっては、現実のマネジメントの前提、目的、考え、あるいはまちがいまでが、基本的な事実とならなければならない。
それらの事実の研究と分析こそが、経営科学が意義ある成果をあげるために、まず取り組むべきことである。
経営科学が公準とすべきもの
経営科学が行うべきは、自らの公準とすべきものを確定することである。この公準には、次の五つの事実が含まれる。
企業は、最強最大のものであってさえ、社会や経済の力によって容易に消滅させられる存在である。それは、社会の下僕にすぎない。だが最弱最小であっても、社会や経済に直接の影響を与える。それは、社会や経済に順応するだけでない。
言い換えるならば、企業とは、社会的、経済的な生態システムの一員である。企業は、単に物や考えを生み出す存在ではない。人が価値ありと認めるものを生み出す存在である。
見事に設計した機械といえども、顧客の役に立たなければ廃物である。企業は測定の尺度として特有のシンボル、すなわち金を使う。
それは抽象的であるとともに、驚くほど具体的な尺度である。経済的な活動とは、現在の資源を不確かな未来に投入することである。
事実ではなく期待に投入することである。企業にとって、リスクは本源的なものであり、リスクを冒すことこそ基本的な機能である。企業の内外で、後戻りのできない変化が常に起こっている。
と同時に、企業は、産業社会における変化の主体でもある。新しい状況に適合する進化の能力を持つと同時に、周囲の状況に変化をもたらす革新の能力を持つ。
これらのことは、経営科学の文献の序文にはよく出てくる。ただし、序文だけで終わる。
経営科学が科学となるためにはもちろん、貢献を行うためにも、これらの公準をもって自らの基盤としなければならない。
経営科学にとってもっとも必要なことは、独立した真の学問としての自覚を持つことである。
科学としての姿勢
経営科学がなぜまちがって使われているかを解くもう一つの鍵は、リスクに対する態度にある。
経営科学は、その文献においても、企業活動への適用においても、最終目標としてリスクをなくすことや最小にすることに力を入れている。
企業活動からリスクをなくそうとしても無駄である。現在の資源を未来の期待に投入することには、必然的にリスクが伴う。
まさに経済的な進歩とは、リスクを負う能力の増大であると定義できる。
リスクをなくす試みはもちろんのこと、リスクを最小にする試みさえ、リスクを非合理的で避けるべきものとする考えが底にある。
だがそのような試みは、最大のリスクすなわち硬直化のリスクを冒しているといわざるをえない。
経営科学の主たる目的は、正しい種類のリスクを冒せるようにすることでなければならない。
マネジメントのために、いかなるリスクがあり、それらのリスクを冒したとき何が起こりうるかを明らかにしなければならない。言葉の遊びのように聞こえるかもしれない。
しかし、経営科学の文献に見られるリスクの最小化という言葉は、リスクを冒したり、リスクをつくりだすことを非難する響きがある。
すなわち、企業という存在そのものに対する非難の響きがある。それは、ひと昔前のテクノクラートという言葉の響きを思い出させる。
なぜなら、リスクの最小化という言葉は、企業を技能に従属させようとするものだからである。
経済活動を、責任を伴う自由裁量の世界としてではなく、物理的に確定した世界と見なしている。
これはまちがっているというより、最悪というべきである。経営科学がその対象を軽んじていることを意味している。
このように研究対象を軽んじてしまっては、いかなる学問も学者も存立しえない。
したがって経営科学にもっとも求められていることは、その対象を真面目にとりあげる姿勢である。
マネジャーの責任
マネジャーもまた、経営科学の潜在能力と現実とのギャップについて責任がある。むしろ彼らの責任のほうが大きい。
マネジャーは、経営科学や経営科学者が必要としているものを与えることができ、しかも与えなければならないにもかかわらず、今日のところそれを与えていない。
だが、経営科学者のマネジャーに対する典型的な苦情、すなわちマネジャーは経営科学を知らず勉強しようともしないとの苦情は、的はずれもはなはだしい。
そもそも道具の使用者は、その道具がよくできてさえいれば、道具の仕組みなど知る必要はないし、かえって知ってはならない。
経営科学を生産的にするためには、次の四つのことを期待し、あるいは要求しなければならない。
仮定を検証する正しい問題を明らかにする答えではなく代替案を示す問題に対する公式ではなく理解に焦点を合わせるこれらの要求は、経営科学が、計算の道具ではなく分析の道具であるとの前提に立っている。
経営科学の目的は、あくまでも診断を助けることにある。経営科学は、万能薬でないことはもちろん、処方箋でもない。
それは、問題に対する洞察でなければならない。経営科学の潜在的な力を引き出すのはマネジメントである。
マネジャーたるものは、経営科学とは何であり、何をなしうるかを理解しておかなければならない。
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