第5章若者にシカトされる下品なオヤジ
人をジロジロ見る◆中年男性の強引さが「いやらしさ」を増幅する電車など公共の乗り物の中で、若い女性をジロジロと眺めている人がいる。特に傍若無人な態度で見続けているのは、中年の男性に多い。恥ずかしそうに見るという風情もないのが、その図々しさを一層際立たせている。周囲にいるほかの乗客たちも、その無遠慮な視線が気になり、不愉快な思いをすることになっている。もちろん、誰もが振り向くような美人や色気の感じられる魅力的な女性を見れば、一度だけではなく二度、三度と視線を注ぎたくなるのは、男性の自然な性向である。一瞥しただけで、後はまったく無視するというのは、その女性に対しては失礼である、という意見さえある。イタリアの男性は、街で女性を見掛けたら、魅力的であれば当然だが、そうでなくても声を掛けたり言い寄ったりする、といわれている。それは女性を女性として遇するエチケットであるという。イタリアの男性全員が、そのように振る舞うのではないが、イタリア人らしく人生を楽しく生きていこうとする話ではある。そのような行為は、あまりにも唐突で人を混乱させるが、そのストレートに言葉を掛けて近づいていく明るさには救いがある。それに反して、自分の意思表示は何もしないで、自分勝手に視線だけを相手に浴びせ続けるのは、無気味だ。その陰湿な執拗さが、相手の気分を害するのである。夜のバーやクラブに行ってホステスを見るのとは事情が異なる。客の相手をするのが仕事である女性は、色気も売り物の一つであり、女性らしい魅力を見せようとしている。せっかく飾り立てた装いに対して、それほど関心もないようで何の反応も示さなかったのでは、ホステスとしても張り合いがない。だが、公共の乗り物の中にいるのは全員が乗客であって、同等な立場に立っている。礼儀をわきまえた紳士淑女として行動することが期待されている。人に迷惑を掛けたり人が不快に思ったりする言動は、厳に慎まなくてはならない。特に、中高年といわれるくらいの、大の大人の場合は、それなりに品位を保った行動に徹する必要がある。若い女性を同世代の男性が見るのは、多少しつこく見ていたとしても、それほどには気にならない。お互いの意思が一致すれば、もしかすると友だち同士になる可能性が感じられるからかもしれない。若い者同士という相互関係が推測されるので、違和感がないのであろう。中高年男性は若い女性に相手にもされないというのが明らかであって、それにもかかわらず強引に一方的に振る舞っているので、いやらしさが増幅されるのだ。◆自分の欲をストレートに出さないのが紳士ただ、場合によっては、女性側にも責任の一端がある。超という形容をせざるをえないミニスカートや胸や背中の部分を大きく露出するような洋服は、男性に限らず人の目を惹く。実際に、人目を惹くために露出度を大にしているのは間違いない。挑発的にしているのであれば、普通の人が強い刺激を受け、それに対して好奇心を満たそうとする振る舞いに出るのも当然である。やはり、公共の場では、あまりにも性的に目立つような身なりは控えるべきだ。女性としての特徴は強調するとしても、男性の欲情を直接的にそそるような「姿態」を見せるべきではない。「健康的」という視点を忘れないで個性を打ち出す服装を心掛けなくてはならない。いずれにしても、相手や自分が男性であるか女性であるかには関係なく、また老若にも関係なく、人を興味本位にジロジロ見るのはエチケットに反する。普通の格好をしているにもかかわらず、そのような見方をされたら、顔に何かついているのではないか、衣服のどこかが破れているのだろうか、などと考える。もし実際にそうであったら、できるだけほかの人に知られないようにして、その事実を本人に教えてあげなくてはならない。人を自分の欲や興味の対象として見るのではなく、その人の身になって考えるのである。人と人とが真摯に相対しようとするときは、お互いに目と目を合わせるのが大原則である。一方のみが一方的に相手を盗み見したり嘗め回すように見たりするのは、相手の人格を無視している証拠である。人の品定めをするような態度を示してはいけない。いくら相手が目下であっても許されることではない。興味を惹かれた人を見掛けても、一瞥したら後は自制して見ないことだ。紳士は自分の欲をそのままストレートには出さない。自分の振る舞いについて、「はしたない」ことではないかどうかを必ず考える余裕がある。
規律なき団体行動◆団体になると行儀が悪くなるのはなぜか明らかに老後を楽しもうとしている年配の人たちが、団体で街中を闊歩している。ファッションの華が開いているような店舗が建ち並んでいる区域でも、カジュアルな装いをして歩き回っている。皆一様にスニーカーをはき帽子をかぶっているので、異様な光景である。自分勝手な内容の話をしながら、前を歩いている人の後をついていっている人も多い。流行の先端をいくと自負している街の雰囲気とは、およそ似つかわしくない団体に見える。道の一部も占領するかたちになっているので、ビジネスで走り回っている人たちは迷惑そうな顔をしている。年齢的に大きな違いがあるだけで、幼稚園や小学校の遠足にも似ている。だが、遠足のほうが先生のいうことを守って動いているので、多少は整然としたところがある。人の迷惑にならないようにして生きてきた年配の人たちであるが、同じ仲間たちと一緒に行動したとたん、行儀が悪くなっている。だが、このような傾向は、高齢者に限らず、分別盛りの人たちにも見られる。皆が一緒になって同じように行動するので、軽い群集心理に陥るのである。自分を大勢の同じような人たちの中に埋没させるかたちになるので、自分の言動に対する責任感が薄れてしまう。それは同時に、大勢の力を頼んで、多少の無理は通してみようとする姿勢にもなる。俗にいわれている「赤信号も皆で渡れば怖くない」という心理と同じである。数人以上が一緒になって旅行をしたり飲食をしたりするときは、普段は謹厳実直な行動様式の人たちが、突如として喧騒に満ちた雰囲気をつくり出す。たわいのないことをいって騒ぎ立てるのである。酒の酔いが回ってくると、その度合いは一段と増す。大声でふざけ合っている。下らない話題について無責任な考え方を述べて、大笑いをしている。周囲にいる人にとっては、面白くも何ともないことについて笑っているので、どのように考えても分別のある大人には見えない。人生にとって笑いは重要である。昔から「笑う門には福来る」といわれている。笑いはストレスを解きほぐしてくれると同時に、人生に対する姿勢を積極的なものにしていく効果がある。将来に望みを抱かせる結果になる。しかしながら、人前でバカ笑いをしたのでは、その幼児性がまともに表面化するので、人々の信頼感を裏切る結果になる。◆「自分の子供に見られている」と思えば振る舞いも変わるやはり、若者たちの前では、多少は格好をつけた言動を心掛けるべきである。人生の先輩として、毅然たる態度をとる。範を示すのである。もちろん、気取るのは行き過ぎだ。体面だけを考えて、わざと重々しく振る舞ったのでは、逆効果である。その中身のなさ、ないしは浅薄さはすぐに見破られてしまい、軽蔑されるだけだ。自分自身を素直にさらけ出してみせる。長所を強調して、短所については恥ずかしそうにすればよい。そのような基本的な姿勢さえ堅持していれば、若い人たちには慕われる先輩としての地位を確保し続けることができる。たとえ、社会的には人に賞賛されるような業績もなく、人が羨むようなライフスタイルを確立していなくても、立派な人生の先駆者として、一目置かれる存在になる。若い人たちよりも長い年月にわたって、生きてきている。人にさしたる迷惑を掛けないで、つつがなく生きてきたという事実だけに対しても、自信を持ってよい。威張る必要はないが、胸を張って誇りに思ってよい実績である。人間は真面目に生きてきていれば、年とともに経験を積み、そこから人間味が身についてくる。きれいな年輪を重ねてきているのだ。自分勝手なことばかりして人に迷惑を掛けたり、年甲斐もなく幼稚な言動をしたりしていれば、その乱れは年輪にも表れてくる。たまには羽目を外してバカ騒ぎをしてもよいが、やはり時と場合を考えてからにする。旅の恥はかき捨て、という軽い気持ちがあってはならない。見知らぬ人ばかりだからといって、軽はずみな言動をするのは、不名誉なことであると考える。確かに、人生という旅では、知っている人より知らない人のほうが多い。だからといって、軽率なことも許されるということにはならない。常に自分自身の子供がそばにいて見ていると思っていれば、人に笑われたり嫌がられたりする言動をすることはなくなる。幼児的な考え方に基づいて振る舞うので、若者からオヤジとかオバサンとか呼ばれるのである。それは、身体は大人であっても頭の中は子供である証拠だ。「半大人」としか見られていない。
見下した言葉遣い◆年下にも威儀を正し、丁寧に礼をいう相手が自分より年下であると思ったら、ぞんざいな口の利き方をする人は多い。上司と部下とか先輩と後輩とか、お互いに上下関係が明確にわかっている場合は、言葉遣いにも決まったパターンがある。上から下へは多少は乱暴な言い方になり、下から上へは丁寧な言葉を使う。上から下への話し掛けが丁寧過ぎたら、逆にその人間関係がしっくりいっていない証拠でもある。目上の人が目下の人を重用したりかわいがったりしているときは、無造作な話し方をする傾向がある。お互いに気心が知れている間柄になっているので、会話を修飾したりする必要はない。言葉が少なくても、間違いなく意思の疎通ができるからである。しかしながら、知らない者同士のときは、相手が目上であれ目下であれ、話し方に違いがあってはならない。お互いに平等な人間同士として、礼に則った話し方をしなくてはならない。それが自分自身の品をよくする振る舞いの基本でもある。たとえば人に何かをしてもらって感謝しようとするとき、相手がかなり年下の若者であったら、つい軽く「ありがとう」といいそうになる。無意識のうちに相手を見下しているので、あなどり気味の言い方になるのだ。きちんと威儀を正したうえで、「ありがとうございます」と丁重に礼をいうべきである。もちろん、街角や公共の乗り物の中などでちょっとした親切な行為に触れたときに、深々とお辞儀をして丁重過ぎる言葉を使ったのでは、相手もとまどってしまう。軽くもなく重くもなく、さらりと礼儀正しい言葉遣いをして丁寧な姿勢を示せばよいのである。さらに、相手が若いからと思って目下に対する態度をとったとしても、実際には社会的地位においては目上であるかもしれない。自分や家族が足を向けて寝ることはできない、大恩のある人ないしはその家族の一人であるかもしれない。また、身分のある人が身なりを変えて、お忍びで街中を歩いているのかもしれない。そのように考えてみれば、どんな人に対しても丁重な言動に徹することになるはずだ。そのような接し方をされた若者は、自分に自信を持ち、世の中で積極的に生きていこうとする気構えになる。世の中の先輩である年配者が礼儀正しい振る舞いをしてみせれば、若者も自然にそれを真似するようになる。頭ごなしに若者に説教を垂れても、その本人に礼を失する言動があったのでは、実効性はない。要は、不言実行である。手本を示してみせるのが、最も効果が期待できる教育方法だ。◆若者を自分と同じ大人として扱う礼儀正しい接し方に対して、小さい子供はもっと敏感に反応する。大人が立ったままで上から見下ろして話し掛けても、大人に反抗する力のない子供は、それなりの応答をする。だが、大人がしゃがみ込んで子供と同じ目線の高さになって話し掛けると、反応が積極的になる。少しずつ饒舌になってくる。同じ仲間として認め、心を開いてくるのである。相手が幼児の場合は、幼児言葉で話したほうがコミュニケーションをとりやすい。大人が幼児の世界に入っていこうとする姿勢を、幼いなりに評価しているのかもしれない。しかし、幼児期を抜け出して「一人前の子供」になろうとする時期になると、幼児扱いをされるのを嫌がるようになる。ましてや、子供の域を脱して青少年になると、一人前の人間である。少なくとも一人前の大人になろうとして懸命に努力をしている。そのような若者たちに対して、ちょっとでも子供扱いをするような言動をしたのでは、完全に嫌われてしまう。特に、親の場合には細心の注意を払う必要がある。親は、わが子が赤ん坊から幼児になり、子供から若者になる段階を連続的に見てきている。親にとっての子供は大きくなっても依然として子供なのである。そこで、いつまでも子供扱いをするという間違いを犯してしまう。子供としては、自分も親と同じ大人の領域に近づいてきたと思っている。しかし、親が自分を子供扱いするのは、大人の仲間入りをさせないようにしていると考えざるをえない。大人になろうとする、せっかくの努力を認めてくれないので、むくれるのである。自分を近づけようとしないのであれば、自分のほうから親を遠ざけてやろうと考える。そこで、実際は一世代しか離れていないオヤジやオフクロを、二世代も違うジジイやババアと呼ぶことによって、親密さの結びつきを遠いものにしようとしているのかもしれない。自分の子供であれ知らない若者であれ、自分と同じ大人として扱えば、彼らも自分を仲間として認めてくれ、一緒につきあってくれる。人間同士として接していけば、相手も自分の人格を認めてくれるのである。
説教をしたがる◆自分の若いときの無茶を忘れている人何気ない会話の中では、最近の世相について話すことがよくある。そのようなとき、すぐに「最近の若者たちは」と、若者たちの考え方や行動様式について話し始める人は多い。大抵は批判的な意見である。世の中のルールを無視して、自分勝手に振る舞うといって非難するのである。もちろん、若者たちの行動には行き過ぎたことも多いが、それは経験不足のために自分の行動の結果がはっきり見えないからである。そこで、つい、無謀だと思われることもしてしまう。だが、それは若者の特権である。社会的に非常に深刻な結果がもたらされるようなことがない限りは、目くじらを立てるべきではない。温かい目で見守る姿勢をとったほうがよい。ドイツの諺に「老牛は自分も子牛だったことを忘れる」というのがある。大人は、自分も子供だったことを忘れているのだ。自分も若いときには無茶なことをしたり、社会に反抗的になったりしていたはずだ。それは、人間社会に対して自分を慣らしていくと同時に、多少は自分の「我」を通していく余地はないかと「打診」をする姿勢でもあった。そのころの自分を思い出してみれば、若者たちの無軌道ぶりも理解できる。その勇気をほほえましく思い、陰ながら応援しようという気にもなる。また、長い人生を通じて、ずっと杓子定規に生きていくのは、ロボットのようなもので人間味に欠ける。人間はどこかで多少は羽目を外したり横道に逸れたりするのが「正常な」生き方だ。それが若いときであれば、未熟という理由の下に許してもらえる。二度とない青春時代を多少は奔放に生きてみるべきであろう。若いときにバカなことをしない者は、年をとってからする。成熟した大人になって、バカなことをしたのでは、世の笑い者になる。それに、その取り返しをするのも難しくなっている。年をとった分だけ先が短くなっていて時間的な余裕がないのと、エネルギーも若いときほどにはないからである。無謀なことやバカなことは、人が「仕方がない」といって許してくれる、若いときにしておく。それには免疫的な効果も期待できる。◆若者の失敗に「だからいっただろう」は禁句自分たちが若いころにはしなかったことを最近の若者がするかもしれない。時代は移り変わっていくのであるから、それも当然の成り行きである。その点について不審に思ったり理解ができなかったりしたら、若者たちに直接聞いてみればよい。それも詰問するような口の利き方をしたのでは、反発を買ってストレートな答えは返ってこない。あくまでも「教えてほしい」という姿勢に徹しなくてはならない。そもそも自分が理解できないことについて聞くのは、自分の知的能力を超えているか、その範囲を逸脱しているかであるはずだ。したがって、頭を低くして教えを請うのが礼に適っている。自分の知識や経験から納得できないからといって、最初から「なぜか」と相手を責めるようないい方をするのでは、傲慢のそしりを免れることはできない。さらに、頭ごなしに「君たちは」といって見下すようなかたちで「説教」をするのは、最悪の結果しか招来しない。まず相手と自分との間に壁をつくってしまうので、自分のほうからコミュニケーションを拒否する姿勢になっている。それだけで若者に、物わかりの悪い頑固ジジイやうるさいババアと決めつけられてしまう。説教が効果的に行われるためには、まず相手が自分を「師」として認めることが必要である。そうでないと、いくら立派なことを説いても、聞いてはくれない。師として仰がれてもいないのに、上から下に向かったいい方をしたのでは、何も聞いてはもらえないと思っておいたほうがよい。それよりも、同じフロアにいて、自分なりの感想や考え方として述べ、それに対して相手の意見を聞こうとする姿勢をとってみる。人に意見を求めるのは、その人にすぐれた見識があることを想定している。考え方を「拝聴」しようとするアプローチに対しては、誰でも好意的な反応を示すものだ。そのような状況の下であったら、お互いに意見の交換がなされる。コミュニケーションが行われるので、説教というかたちでいったら無下にされたはずの考え方も、考慮し理解しようとしてくれる。若者が意見を無視して失敗したようなときでも、「だからいっただろう」という台詞は禁句だ。人の失敗に追い討ちを掛けることになり、恨まれるだけだ。その台詞をいってよいのは、意見に従って成功したときだけである。
評論家を演ずる◆いっぱしの口を利く街角の評論家耳目を引くような大事件が起こると、新聞やテレビをはじめとするメディアは、その事件を集中的に報道する。しかも、その詳細に関して、同じ内容の事実や論評などを繰り返し伝えている。特にテレビの場合は、同じ映像を何度も見せられる結果になる。ニュース番組であれば、ニュースはまだ一般には知られていない「新しい」ことを教えてくれるのが役目であるはずだ。まったく同じ内容や画面を報道するときは、二番煎じであることを断ったり、「再放送」であることを示す表示をしたりしてくれたほうが親切ではないだろうか。もちろん、皆にニュース番組を頻繁に見る時間があるわけではない。忙しくてテレビの前に座る時間がなく、半日遅れや一日遅れのニュースを見る人も少なくない。もっとも一日単位の前の映像については、日付の表示がしてあるものもある。いずれにしても、テレビのニュースなどというものは、時々刻々の出来事を報道することに意義があるはずだ。そうであれば、ニュースの新旧を正確に示すために、撮影したときと最初に放映したときの年月日と時間を画面に表示してくれるべきであろう。それが、視聴者の立場に立った姿勢ではないだろうか。鮮度が売り物の一つであるから、製造と「封切り」の日時を明確に示してくれたほうが、視聴者の価値判断もしやすくなる。「賞味期限」を明示するのと同じような考え方である。さて、事件に関してのニュースの内容についてであるが、まず概要の説明があり現場からの報道がある。次に、急遽インタビューされたり招集されたりした、その分野の専門家や識者たちの意見や見方が紹介される。そのほとんどは、大体において「なるほど」と納得させられる考え方になっている。もちろん、芸能人など単なる有名人の意見で、的外れであったり笑止千万といわざるをえなかったりするものもある。しかし、それも一つの見方であると思えば、問題を考えるうえで参考にならないこともない。ただ、有名人というのは、たとえ専門家ではなくても、メディアを通じて一般の人々に与える影響力は大きいので、その人たちの意見を報道するのは慎重にしなくてはならない。大事件に関しては、連日報道されるので、一般の人々の会話の中でも、大きな話題になる。事実について驚いたり悲しんだり、また憤慨したりした後で、それぞれに感想や所見の一端を述べる。街角のあちこちにいるオジサンやオバサン全員が、いっぱしの評論家になったかのような口を利いている。だが、その内容は新聞やテレビなどで報じられている考え方や見方に沿ったものばかりである。それをあたかも自分の意見であるかのようにしていっている。人間誰でも考えるところは同じようなものである。自分が考えているのとまったく同じ考えを人が表明する場合もあれば、人がいったことに一〇〇パーセント同調する場合もある。◆市井の人としての考え方を述べるに留める公共の報道機関で広く伝えられた意見は、そのメディアやそこで意見を述べた専門家の「卓見」である。それを「偉そうに」自分自身の考え方であるかのように人にいうのは、ちょっと大人気ない。若い人たちが、そのような行動様式と姿勢に対して幼児性を感じて、バカにするのも当然だ。ほかの人の意見を人の意見であるとして紹介し、自分も同じように考えるというのであればよい。だが、それを自分自身の意見として示すのは、「盗作」にも等しい行為である。人がつくったものを自分のものとして使うのであるから、恥ずべき行為である。たとえ、当初から自分も同じ考え方をしていたとしても、人がいったん先に公表したら、それはその人の考え方である。早い者勝ちで、「著作権」はその人のものになる。それを剽窃するのは、人の権利を侵害する「犯罪者」であるといわれても仕方がない。街中などで、話題の事件などについて会話を交わすときは、最初にニュースに接したときの自分自身の反応や感想だけに留めておいたほうがよい。評論家のような口の利き方をしたのでは、偉そうにしていると思われて、逆に軽蔑されるだけである。市井の人、すなわち庶民の一人としての考え方だけを述べるのだ。そのような謙虚な姿勢は皆から好感を持って迎えられるはずである。若い人たちは、大人に対して落ち着いた大人らしさを望んでいる。評論家並みに専門的な物のいい方をするのは、無理して背伸びをしている証拠である、と見破っているのだ。若い人に疎まれる行動様式を慎まないと、たとえ正しいことをいっても信用されなくなる。
若づくりをする◆気力・体力が充実していると思っているのは本人だけ子供のときは早く大人になりたいと思っていた。行儀よくするようにとか、もっと勉強をするようにとか、早く寝るようにとかいわれて、自分の好きなようにできない場合が多かった。行動や時間についての制約だらけであると感じ、大人になったらそれらの束縛から逃れられると思っていたのである。大人になると、自由の度合いは大きくなったものの、それだけ自主的に行動しなくてはならず、また責任もすべて自分自身が負わなくてはならない。しかし、若いときは一所懸命に努力する限りは、自由奔放にしても、ある程度の成果は上がる。人生に対して真摯に取り組んでいれば、それなりに満足できる生活も期待できる。ところが、いわゆる中年期に入ってくると、自分自身について現実を意識せざるをえなくなってくる。仕事の世界における自分の将来も見えてくる。上昇していくにしても限度が予想できるのだ。企業などの組織に属していれば、管理職になっていても、上からの命令に右往左往したり下からの突き上げに抗しなくてはならない。ほかの企業との競争と企業内の競争とに明け暮れて、神経をすり減らしている。また家庭内でも、子供が完全に巣立ちをするまでには、精神的にも金銭的にも苦労は絶えない。これからの社会では、従来よりも激しい変化が起こる傾向にあるので、子供の将来についても不安感がつきまとう。両親も年老いてくると、身体のあちこちに支障が出てくる。そのような両親の面倒もみなくてはならない。家庭でも上と下との間に立って苦慮している。したがって、中年の悩みは中間の悩みであるということができるだろう。しかしながら、中年期にある人は、自分は最盛期にあると思って頑張っている。仕事の場も含めた人生の場について、かなりの経験を重ねているので、自分にはノウハウが備わっていると思っている。確かにそうだが、体力に関しては完全に下降傾向にあることを認識しておかないと、失敗する危険性が高い。気力と体力がともに充実していると思っているのは本人だけだ。実際には、衰えていく体力を気力でカバーしている。気力についても、新たに湧き出てくるものではなく、それまでの気力の惰性を駆っているのである。したがって、エネルギーに満ちていると思っているのは錯覚だ。惰性は外からの力が影響しない限りにおいてのみ続いていく。急に大きな力が立ちはだかったりしたら、駄目になってしまう。そのような不安定さをよく認識しておく必要がある。それを忘れたときに、アンバランスな言動をとることになる。その典型は、若者と同じように無理をすることである。「まだ若い者に負けない」といって若さを演出しようとするのは、「年寄りの冷や水」にも等しい。年齢相応に振る舞ったほうがよい。肉体の「衰退」に対しては、無理をしないで自然に対応していくのが、知的人間としては「成長」する道である。◆若づくりは限度を超えると茶番劇もちろん、トレーニングをして心身を鍛えて体力を保とうとするのはよい。だが、身体の老化を隠そうとするのは、年を取るという自然の過程に対して、いわれのないコンプレックスを抱いていることを示している。老化を防ごうとする試みまでは許せるが、それを人為的に隠したり変えたりするのは、非常に見苦しい。よく見れば、そのからくりがわかるので「不自然」だからである。老化を隠すための整形手術などを受けるのは、その人の精神の、このうえない弱さを露呈している。人生に対して積極的に立ち向かっていく勇気がない人であるといわれても仕方がないであろう。一般的に、限度を超えた若づくりは、若者たちの顰蹙を買う。本来は若者たちの仲間ではないにもかかわらず、若者たちと同じような格好をしたりして、あたかも仲間であるかのように振る舞うからである。若者たちとしては、勝手に仲間入りされては困るのだ。その図々しさと若さに対する執着には、スマートさのかけらも見ることができない。年を取った者が若さに対して羨望の念を抱くのは当然である。しかし、自分にも若いときがあったのだから、それ以上に望むのは欲張り過ぎだ。「夢よもう一度」と夢見るのはよいが、それを現実のものにしようとすれば、茶番劇になるだけだ。口先では「お若いですね」といわれるかもしれないが、喜んではいけない。陰では、少なくとも苦笑いをされているはずであるから。
昔語りをする◆「昔のよい時代」も若い人には単なる「昔」昔話の多くは「むかしむかし、あるところに」などという文句から始まる。子供が小さいころには、何度も話したり読んだりしてやったものだ。仕事で疲れ切って帰ってきたときでも、乗り物に乗っていて窓の外の景色を眺めたいと思っていたときでも、子供にせがまれたら昔話をしてやらなくてはならなかった。だが、同じ話であっても、一所懸命になって心を込めて話せば、素晴らしい反応が返ってきた。目を輝かせて聞き入る姿には、新しいエネルギーを感じ、頼もしい思いをしたものである。次の時代を担っていく世代のひたむきさを見て、明るい前途を予感し、喜んでいた。そのときの思いが頭に残っているので、自分の子供をはじめとする、若い人たちに対しては、つい話をして聞かせるという姿勢になる。そこで、自分の経験などを話して聞かせることになるのだが、それは若い人たちにとっては迷惑なことである場合が多い。自分自身に関して昔語りをするのは、それも特に問わず語りであるときは、単なる押しつけでしかない。自分にとっては非常に興味があることでも、時代が変わってくれば、その新しい時代の中にいる人には何の感興も催させることはない。同じ時代を生きてきた人に対しては、共感に訴えるところがあるので、懐かしいという思いを起こさせる。共通の経験がある人たちにとっては「昔のよい時代」でも、世代の異なった人たちにとっては、単に「昔」でしかない。そのような話を若い人に押しつけるのは、昔の人の独りよがりな繰り言になってしまう。◆失敗談であればホンネのつきあいができる若い人に対して昔語りをするときは、あらかじめその旨を断ったり了承を得たりしたうえでする必要がある。話一つをするにしても、世代が上の人が下の人たちに向かってするときは、どうしても押しつけであると受け取られる。押しつけであると感じた途端に、たとえ聞いているふりをしていても、耳を傾けることはない。馬耳東風とばかりに聞き流されてしまう。相手が聞く耳を持たなかったら、コミュニケーションは成り立たない。何か独りでわめいている結果になっている。若い世代の人から見れば、「うるさいオヤジ」とか「おしゃべりオバサン」でしかない。特に、自分に関する話題で成功した話をするのがよくない。本人は得意になって話しているが、昔のことであるから、本当かうそかを確かめる術もない。自慢話になるだけで、聞く側としては、面白くない。内容によっては不愉快な思いをすることもある。そのうえで、その信憑性についても疑問が生じるような話であったら、誰でも耳を塞いで逃げ出したくなる。その話が本当であることを証明する証拠があれば、多少は救われた思いがする。そうでなかったら、そのような話をしただけで、うそつきというレッテルを張られる危険性があると考えて、昔の成功談はしないことだ。そのほうが評判を落とさなくてすむ。昔の話をするのであれば、失敗談をするに限る。自分にとってマイナスになる内容について話をするのであるから、自分の自尊心を捨てなくてはならない。相手の若者の側から見ると、目上の人が自分を卑下した姿勢で接してきたかたちになっている。気分は悪くない。それに、へまをした話であるから、聞いていても面白い。自分を笑いの種にしている人柄に対しては、人間味を感じるので親近感を抱く。「過つは人の常」である。間違いを犯したことがない人間はいない。したがって、自分の失敗談をしないのは、失敗をしたことがないふりをしているともいえる。それは見栄っ張りである証拠だ。それに反して、自らの失敗について話すのは、ホンネでつきあえる人であることを示している。さらに失敗談には大きなメリットがある。具体的に人々の参考になるという点だ。成功した話であれば、話の内容のとおりにしたとしても、必ずしも成功するとは限らない。話していない部分に、成功への重要な要素が潜んでいるのかもしれない。それに、「する」ということに関しては、人によっては難しい場合が多々ある。ところが、失敗した話の場合は、その人が失敗したことを繰り返さなければよい。何かを「しない」というのは比較的簡単であるし、そうしなければ少なくとも同じ失敗はしないですむ確率が非常に高い。失敗談が人に役立つ所以である。
一点のみのはやり物◆首をかしげるチグハグなファッション私が社会人になった一九五〇年代の終わりごろは物不足の時代であった。衣食住の全般にわたって、皆、貧しい生活をしていた。住むところも、小さな部屋に何人もがひしめき合っている状態であった。それだけに、お互いに我慢をし合って仲よくするという結果にもなっていた。生活の場に限らず仕事の場でもそうだが、大部屋主義の下では、自然にコミュニケーションが図られ、皆が協力する態勢が整ってくる。なぜなら、現実との対決を避け、独りで一息つくことのできる逃げ場がない。ほかの人と自分との間に調整を図らざるをえない環境になっている。ところが、個室主義の下では、嫌なことがあれば避けて、自分独りになることができる。ほかの人に干渉されないで勝手気ままな時間を過ごすことのできる場所がある。家庭内においてさえ、引きこもりの人たちが増える傾向にあるのも当然だ。食生活についても、昔に比べると豊かになった分だけ、それぞれがわがままな食べ方をするようになった。自分の好きなものを選択して食べることができるので、偏食の傾向も強く見られる。ファストフードの店やコンビニの普及などによって、手軽に食事ができる環境になったので、規則的に食事をとる習慣も崩れつつある。飢えることはないという意味では豊かになったといえるが、心身にとってよいことかどうかは疑問だ。衣に関しても今昔の感がある。色とりどりで、あらゆるシルエットの衣服が街中に溢れている。個人のクローゼットの中もいっぱいで、入りきれない衣服が部屋を狭くしている結果になっている人も、多いのではないだろうか。特に女性の場合は、アクセサリー類も大量の在庫を抱えているはずだ。私が働き始めたころは、スーツはもちろん、女性が会社に着てくる洋服類も、ほとんどの人は一張羅であった。毎日、同じものを着てくるのが普通であった時代だ。ワイシャツでさえ、同じものを何日も着ている人がいたくらいである。おしゃれをしようと思っても、まず「先立つもの」がないのでできなかった。スーツを新調するとか新しい靴を買うとかは、ボーナスをもらったときとかに、それも清水の舞台から飛び降りるつもりにならないとできないことであった。同僚の女性が新調したスカートをはいてきたときのことを今でも覚えている。一目で上質とわかる素材であったので、皆からほめられて嬉しそうにしていた。もちろん、当分の間は毎日はいてきていた。その値段について彼女に聞いたのであるが、月給の七割くらいを支払ったといっていた。よいもので気に入ったものがあっても、それを買おうと思えば、生活のほかの部分を切り詰めなくてはならなかった。アンバランスな生き方であったが、豊かな生活に向かっていこうとする過程においては、必要な手段の一つでもある。過渡期の不安定な状態を経なくては、新たな時代はやってこない。しかしながら、物質的には間違いなく豊かになっているといえる現在でも、まだ過渡期的な不安定さがあちこちに見られる。ファッション華やかな世の中になっているが、チグハグな光景を見て、首をかしげることは多い。◆取ってつけたような一点豪華主義は「ダサイ」はやりのブランド商品のバッグを持ち歩いている人は多い。格好がよいと思うものを人が持っていて、自分もほしいと思うのは自然な心情である。しかし、有名なブランドのものを一点だけ後生大事に持ち歩いているのは、見ていてもアンバランスでおかしい。洋服など、ほかに身につけているものにセンスがないので、その落差が激し過ぎるのだ。これは年配の人たちに多く見られる点である。ファッションで重要なのは、全体的な調和やコントラストを利かせた美しさである。若い人たちは豊かな時代に生まれて、バラエティーに富んでいるものに囲まれている。したがって、選択をして組み合わせるのに慣れていると同時に上手である。だが、物がなかったり不足気味であったりした時代に育った人たちには、そのような余裕がなかった。調和のある組み合わせが下手なのだ。全部を高級にしろといっているのではない。一点豪華主義でもよいのだが、取ってつけたような物が一点だけ孤立している状況は、いかにもバランスを欠いている。けちくさく見すぼらしい雰囲気が「ダサイ」のである。不安定感が不安感を醸成していき、特に若者たちの美的感覚に違和感を与える結果になっている。身なりについては、一つのアクセサリーについても、全体の調和を考えたうえで選んでいく心構えが必要だ。
コメント