第4章正解のない時代を切り拓く読書
これからの時代に欠かせないのは「情報編集力」
第2章で、成長社会から成熟社会への移行を、「ジグソーパズル型思考」から「レゴ型思考」への転換だと述べた。
私はこの変化を、成長社会ではひたすら「情報処理力」が求められたのに対して、成熟社会には必須のスキルがだんだん「情報編集力」に移行するとも表現している。
重心が左から右に移動するイメージだ。
では、情報処理力と情報編集力の違いは何か?講演などで話をするときに、私は次のような図を書いて説明する。
情報処理力とは、決められた世界観のなかでゲームをするとき、いち早く正解を導き出す力のことを指す。正解を早く正確に当てる力だ。
すでにお話ししたように、これはジグソーパズルを早くやり遂げる力にたとえられる。ある1つのピースを置く場所=正解は、たった1つしかない。それをいかに早く見つけるかという、「アタマの回転の速さ」が求められる世界である。
情報処理力は、テストの採点で明確に点数がつけられるため「見える学力」と呼ばれている。英語では「Textbookproblemsolvingskills(教科書的な問題解決力)」という表現になる。
旧来の日本の教育は、この情報処理力を鍛える取り組みが中心だった。
たとえば、『走れメロス』を題材としたテストなどで、「帰り道のメロスの気持ちに近いものを、次の4つのなかから1つ選びなさい」といった設問が与えられるのが、20世紀型の成長社会におけるテストの典型的なものだ。
これに対して、21世紀型の成熟社会で求められるのが情報編集力である。情報編集力とは、身につけた知識や技術を組み合わせて〝納得解〟を導き出す力だ。
正解をただ当てるのではなく、納得できる解を自らつくり出すところがミソ。納得解を導き出す力というのは、ジグソーパズルでピースを置く場所を探すのではなく、レゴブロックを組み立てるイメージだ。
正解は1つではなく、組み合わせ方は無限にある。そのなかで、自分なりに世界観をつくり出せるかどうかが求められる。
情報処理力が「アタマの回転の速さ」だとすれば、情報編集力は「アタマの柔らかさ」といえる。
『走れメロス』を題材にテストを行なうとしても、選択肢のなかから正解を選ばせるのではなく、「メロスがもし間に合わなかったら、本当に王はメロスの親友を殺していたのだろうか、について論じなさい」といった具合に、自ら仮説をつくらせ、ディベートさせるようなかたちになるだろう。
明確に点数がつけられる情報処理力とは異なり、情報編集力はテストでの採点が難しい。したがって「見えない学力」とも呼ばれる。
情報編集力を駆使し、イマジネーションを働かせる力が、現実社会において、たとえばイスラム国や北朝鮮の将来を予測し、自分の仕事や生活とそうした世界の変化の関係性を想像する力にもつながっていく。
あるいは、子育てや教育問題といった身近なことを考えたり、ビジネスにおいて新商品や新サービスのアイデアを出したり、顧客からのクレームに対応したりするときにも欠かすことができない力となる。
成熟社会で、選択肢の幅を広げ人生を豊かに生きるには、柔軟でクリエイティブな発想をベースにした情報編集力が欠かせない。
私が「情報編集力」が重要だと考えるようになったきっかけ
私がこうした「情報編集力」の重要性に気づいたのは、リクルートで発行する情報誌で、何か新しい分野がないかと模索していたときだ。リクルートという会社は、さまざまな「情報誌」を創刊してきた。
就職の情報を大学生や高校生に提供する『リクルートブック』に始まり、大学進学に関する情報を提供する『リクルート進学ブック』など、草創期には就職と進学の情報を提供する会社だった。
その後、中途採用情報を提供する『ビーイング』、女性の就職情報を集めた『とらばーゆ』、アルバイト情報を集めた『フロム・エー』などにも裾野を拡大していった。
リクルートには、企画部門のようなものがなく、だれでも新しい情報誌を企画でき、プレゼンして、うまくいけば事業化できるという仕組みがある(これはいまだに続いている)。
だから、私はつねに「新たな分野の情報誌創刊のアイデアはないか」と模索するクセがついていた。そのようななか、経営者から「車は大きなマーケットだが、何かできないだろうか」との要請があった。そこで、車を扱った情報誌について本格的に考え始めた。
ただし、新聞に広告を打っているような新車の情報ではなく、中古車の情報である。当時、中古車の流通量(登録台数)は新車と同じぐらいか、それ以上に増えつつあり、多くの人が情報を求めているいっぽうで、その情報を集約して提供している媒体はなかった。
新車は、求める車種と仕様が決まれば、どこのディーラーでも同じものを大差ない価格で買える。それに対して、中古車というのは、同じ車種でも、年式や走行距離、色や前オーナーの使用状態によって価値が変わってくる。価格も一律ではない。その価値と価格の組み合わせは、人によって正解とするものが千差万別だ。こういう市場では、比較検討が可能なリクルート型の情報誌が機能する。
そこで、広告の集稿も期待できるとにらみ、創刊したのが『カーセンサー』だった。このネーミングは「車(カー)を検知する(センス)」というところから私が名づけたものである。
『カーセンサー』の事業計画をつくるにあたり、「情報誌」についていろいろと分析した結果を社内向けの論文にまとめることになった。
「情報誌の未来」と題し、「情報誌というものは、社会的にどのような機能を持っているのか」を明らかにしたものだ。
住宅や車にかかわらず、物理的に分散している個々の情報を1か所に集め、ユーザー視点で編集し、正確にタイミングよく提示することが大きな価値を持つこと。だから、リクルートの収益につながる可能性が高いということを体系的に示した。
じつは創業者である江副浩正さんをはじめ、当時はだれもそうした視点を持っていなかったようで、この論文は大きな反響を呼ぶことになった。
また、『情報選択の時代』(リチャード・ワーマン著/日本実業出版社〈絶版〉)という本に出合ったのもそのころだった。
TEDの創始者でもあるワーマン氏は、情報を「理解に結びつく形になったもの」と定義している。発信者として、情報を送り出す側のリクルートがユーザーの「理解に結びつく形にする」とはどういうことなのか。
そんなふうに考えていたタイミングで、この本の翻訳者の編集工学研究所・松岡正剛さんにお会いすることになった。
松岡さんは、私にこんなことをおっしゃった。「20世紀のうちに、要素はすべて出尽くしました。21世紀は、その要素の組み合わせでしかありません」20世紀後半の日本を牽引したのは、要素から正解を選び出す、情報処理力に優れた人だった。
しかし、要素がすべて出尽くしたのなら、これからの時代は、すでにある要素をどのように組み合わせて価値を生み出すかということが問われることになる。つまり、情報編集力に秀でた人材が社会をリードする時代になる。
『カーセンサー』の創刊と松岡さんとの出会いは、そう私に痛感させる契機となった。
大事なのは「情報処理力」と「情報編集力」の切り替え
情報編集力とは、要素を組み合わせて価値を出すことだから、別の言葉に置き換えれば「つなげる力」ということになる。
英語にすると「Imagin ative problem solving skills(創造的な問題解決力)」である。
通常、仕事の現場では、7割以上のビジネスパーソンや公務員が情報処理側の仕事をしている。最先端のIT企業でも、最初の発想段階を除けば、プログラミングそのものは処理的な仕事といえる。
人によっては日々の仕事の9割方が処理的な仕事に終始しているかもしれない。税理士や会計士や弁護士の仕事もそうだ。
教師の仕事も、児童・生徒に「正解」や「正解の出し方」を叩き込むことなので、速く確実に正解を教えるという情報処理の仕事に多くの時間を費やしている。
この習慣が染みついてしまうと、アイデアを出したり、柔軟なマネジメントをしたり、自分の人生の次の一手を考えたり、子育てをしたりといったクリエイティブになることが要求される局面でも、ついつい正解至上主義のモードのまま取り組んでしまい、うまくいかないことが多い。
大事なのは、情報処理力と情報編集力のアタマの切り替えだ。「アタマを切り替えろ」という場合、従来はオンとオフの切り替えのことを指すが、これからは、情報処理力と情報編集力の切り替えという意味が大事になるだろう。
正解が1つではない問題に直面したとき、正解を求めようとするアタマから、納得解を導き出そうとするアタマに切り替える必要があるのだ。
もっとも、これから情報編集力が大切になるとはいっても、情報処理力と情報編集力は車の両輪だ。
したがって、教育的な見地からいえば、子どもの発達段階に応じて割合を変えながら、両方の能力をバランスよく育くんでいかなければならない。
たとえば、小学校なら情報処理力に9割、情報編集力に1割をあてるようにして、まずは「基礎学力」をつける。
中学校では情報処理力側の暗記問題を7割程度まで下げ、3割を正解が1つではない問題のディベートや課題の探求、実験や実証に力を入れて情報編集力側へのシフトを始める。
高校で半々、大学では情報編集力に9割方集中させる。こんな流れで、大学を卒業して就職するころには情報編集力側の技術を身につけていることが好ましい。
先進的な企業においては、人材を採用するにあたって応募者の資質を見極めるときにも、情報編集力が重要視されるようになってきた。
象徴的な話としては、世界中の天才が集まる企業として知られるグーグルの入社試験だ。入社試験の問題はとてもユニークで、過去にはこんな問題が出たこともあると聴く。
「スクールバスのなかにゴルフボールを詰めるとすると、どれだけ詰められるでしょうか?」この問題に対して、グーグルが求めている答えは1つではない。
とてつもなく難解な数式を駆使して物理学的に証明する人が合格するいっぽうで、「スクールバスに乗っている子どもは詰めたボールを外に放り投げてしまうだろうから、結局、1つも入らない」といった文学的な答えをする人も採用されるそうだ。
ここでのポイントは、それぞれが自分の知識と経験を駆使し、与えられた設問に対して短時間で納得解をプレゼンすることだ。
アタマの回転の速さ(情報処理脳)だけでなく、アタマの柔らかさ(情報編集脳)が問われていることがわかる典型的な例だと思う。
バブル崩壊以降の日本社会においても、能力を活かして活躍している人は、アタマが柔らかく情報編集力の高い人が多いように見える。
暗記した知識というよりは知恵が働き、組織よりネットワークで仕事をしている人の周りに自然と仲間が集まるから、結果的によい成果を出すことができているのだ。
では、どのようにすればそうした情報編集力を高めていくことができるのだろうか。
私は、次に説明する5つのリテラシーと1つのスキルを磨くことで、その力を高めていくことができると考えている。
「コミュニケーションする力」を磨く読書
「情報編集力」を高めるのに役立つ5つのリテラシーの1つ目は、「コミュニケーションする力(異なる考えを持つ他者と交流しながら自分を成長させる技術)」である。
英語表記は「Communicationskills(skillsetneededtoachievepersonalgrowththroughinteractionswithdiversegroups)」となる。
まずは当然のことながら、聞いたり読んだりして、情報をインプットする技術が重要になる。旧来の学校の教科でいえば、国語と英語がこれに相当する。
ただし、情報処理力としての国語や英語の成績がよくても、それをもとにコミュニケーションする力がなければ、情報編集力を高めることはできない。
コミュニケーションとはお互いの意思を伝達し合うことだが、とりわけ人の話をよく聴くことが大切になる。人の話を聴くことで、自分の考えは進化し、相手と共感することもできる。
ヒアリングの技術が高くなければ、他人の脳が自分の脳につながらないから、自分のことを相手に伝えることもできない。したがって、まずは人の話を素直によく聴くこと。
相手の目を見て、うなずいたり、相づちを打ったりするだけでも相手は話しやすくなり、相手に対して自分のクレジットを高めることもできる。
どんな人でも、クレジットの高い相手には、新しい情報や自分のアタマのなかにある、とっておきのネタを伝えたいと思うものだ。
結果として、価値ある情報を手に入れやすくなる。「人の話をよく聴く」という技術は、読書をすることによっても高めることができる。どのようなジャンルの本にも素直に向き合ってみること。
先入観を排した「乱読」が大切だ。
さらにコミュニケーションする相手との「雑談」に必要な多様な分野の基礎的な知識も、読書によって増やしていくことができる。
「ロジックする力」を磨く読書
2つ目は「ロジックする力(常識や前提を疑いながら柔らかく〝複眼思考〟する技術)」である。
英語で表記すると「Reasoningskills(skillsetneededtothinkcriticallyandlogically)」となる。
成熟社会では、さまざまな価値観を持った人々と共存しながら生きていくことが求められる。共存していくためには、他人の納得解を理解したり、自分の納得解を他人に理解してもらったりする必要がある。そのために必要なのが、ロジカルに考えることである。
また、さまざまな価値観が共存しているなかで自分なりの価値の軸を見出すためには、何らかの法則を発見したり、社会的に受け入れられる対処法を見つけたりしなければならない。そのためには、さまざまな事象をロジカルに分析する力が必要不可欠になる。
この力に相当する学校の教科は、算数/数学である。ただし、これまでのような正確に、速く正解にたどりつく能力とは異なり、ロジカルシンキングは、さまざまな「仮説」を考え出す力だ。
ロジックする力を身につける第一歩は、自分の行動や思考に筋が通っているかをつねに意識することである。あるテーマに関する意見を持ち、他人とディベートしたり、理詰めで説明したりすることで、徐々に獲得することができる。
また、物事を相手の論理で考えてみることも有効である。自分の考えを主張するだけではなく、相手の話を受け、理解し、自分の考えを「進化」させることも、ロジックする力を身につける練習になる。
こうした訓練にも、読書が役に立つ。読書は、著者の論理を理解しようと努める行為の連続だからだ。
たとえば、大前研一さんの本を読めば、ある事象に対する大前さんの論理そのものを学ぶことができるだけでなく、論理の展開の仕方や分析手法も学べる。
まず、著者の論理を真似することで自分なりの考えを編集する努力を繰り返していけば、ロジックする力を高めていくことができるだろう。
「シミュレーションする力」を磨く読書
3つ目は「シミュレーションする力(アタマのなかでモデルを描き試行錯誤しながら類推する技術)」である。
英語では「Simulationskills(skillsetneededtomakeinferencesbycreatingmentalmodels)」となる。
この力に相当する現行の学校の教科は、理科である。理科につきものなのが実験だ。
実験とは、構築された仮説や既存の理論が実際に当てはまるかどうかを確認することや、既存の理論からは予測困難な対象について、さまざまな条件下で測定を行なうことである。
シミュレーションする力というのもこれに似ており、自分のアタマのなかでモデルをつくって、試行錯誤しながら確かめていく能力だ。
シミュレーションする力を体得するには、つねに先を予測して行動してみるクセをつけることだ。日常の些細なことに対する予測がよく当たる人というのは、一般的に「勘がいい」「運がいい」ということで済まされてしまうが、私はそうは思わない。
そういう人はシミュレーションする力が高いのだ。シミュレーションができていればいるほど、予測が当たる可能性は高くなるからだ。
自分がそういう人になりたいのであれば、つねに「これが起こったら、次はこうなるだろう」「こう言われたら、これもやっておいたほうがいいかな」といったことを予測しながら行動するクセをつけるとよい。
つまり、先を予測して行動するということである。あるいは、いま話題になっている事象について、次の展開を予測することをゲーム感覚で楽しんでみるのもいいだろう。
ここでも有効なのが読書だ。自然科学系の本は、多くの事象に対する判断材料を提供してくれるだろうし、SFや推理小説が好きな人は、予測を趣味としているようなものだと思う。
「ロールプレイングする力」を磨く読書
4つ目は「ロールプレイングする力(他者の立場になり、考えや想いを想像する技術)」が挙げられる。
英語表記は「Empathicskills(skillsetneededtoimaginehowothersthinkandfeelbyconsideringtheirviewpoints)」となる。
ロールプレイングする力は、ママゴトやヒーローごっこのように、他人の視点で世の中を眺めることで身につく。
かつて子どもたちは、幼稚園から小学校低学年のころ、ママゴトやヒーローごっこをたっぷり体験したはずだ。ママゴトは立派な学習活動である。
母親の役割を演じることで、その仕事を注意深く見たり、理解したりできるようになる。同様に家族それぞれの役割を演じることで、家族のなかにおける自分の居場所を確認することにもつながっているのだ。
ロールプレイングをすることは、このように、社会という複雑な世界をアタマのなかで整理して考えることにつながる。そうすることで、社会における他者の役割を効率的に学んでいくことができる。
他人の身になって考えるという行為は、自分の脳と他人の脳をつなげることになるからだ。実際に社会に出て働くようになると、再び、こうしたロールプレイングの技術が重要だということに気づくはずだ。
たとえば接客業であれば、お客さんの立場に立って物事を考えなければ大事なことが見えてこない。
雑誌の編集でも、テレビのディレクターでも、読者や視聴者をつねにロールプレイできなければ、部数や視聴率を上げることはできないだろう。
この技術に近い学校の科目は、社会科だ。ただし、年号や史実を覚えるということではない。
社会におけるさまざまな仕組みや役割を学びながら、「政治家ならどう考えるか」「経営者ならどんな手を打つか」「消費者は何を望んでいるか」など、自分と異なる人の立場でロールプレイングをすることによって、多様かつ柔軟な考え方が養われる。
物事を他人の視点からも見られるようになると、世界観が広がる。世界観が広がれば、考え方の幅が広がり、思考が柔軟になる。他者の視点を獲得するのは、「大人になる技術」ともいえるだろう。
それに適しているのも、やはり読書だ。良質なノンフィクションや伝記というのは、他人の人生を体験できる物語である。
事件や歴史上の登場人物の思考や気持ちを追体験することは、ロールプレイングする力を磨くのに最適なテキストだと私は思う。
たとえば、東日本大震災で続々と運び込まれる300人のご遺体を、ボランティアで復元した女性納棺師のドキュメント『おもかげ復元師』(笹原留似子著/ポプラ社)というノンフィクションがある。
このような経験は、本来、できることではない。しかし、本を読むことによって、そのときに置かれていた著者の状況や周囲の人々の感情を疑似体験することができるのだ。
さまざまな事象を自分自身ですべて体験できれば面白い人生となるだろう。
しかし、大事なことなので何度も言うが、一人の人間に与えられた時間は限られている。その限られた時間のなかで、自分以外の人生も疑似体験できるのが読書である。
「プレゼンテーションする力」を磨く読書
最後の5つ目は「プレゼンテーションする力(相手とアイデアを共有するための表現技術)」である。
英語では「Presentationskills(skillsetneededtoshareideasinadynamic,interactiveway)」と表記される。
コミュニケーションする力によって情報やイメージをインプットし、シミュレーションする力とロールプレイングする力でイマジネーション豊かに「仮説」を設定する。その仮説を、自分と異なる考え方の相手を説得するには、ロジックする力が欠かせない。
しかし、ロジカルな説明だけでは伝わらないこともある。いくら価値の高いものや考えがあっても、伝わらなければ価値は大きく毀損してしまう。自分の考えを論理だけでなく、情緒豊かに表現することで、他人に影響を与え、動かすのだ。
自分の考えを他人にもわかるように表現することは、さまざまな考え方が共存し得る成熟社会においては必須のリテラシーになる。
この技術に相当するのは、学校では、実技教科すべてだ。音楽、美術、体育、技術家庭などの実技教科は、自分の感性や考えを表現する手段である。体育は、身体のプレゼンだ。美術は、絵や彫刻やデザインで自己表現することだ。音楽も、音やリズムで自分を表現することである。技術家庭でさえ、料理や被服や工作物を通じて自分のイメージを表現する行為である。
プレゼンテーションする力は相手の脳に自分の脳のかけらを「つなげる」こと、ともいえる。自分の思いや考えをできるだけ率直に、わかりやすく、正確に伝える技術が必要になる。その際に大切なのは、まず「他者」をイメージすること。次に、その他者は自分とは違う世界観で生きているのを理解すること。
だから、プレゼンは、相手のアタマのなかに、自分のとは別の映写室があるつもりで、相手が理解できるイメージを映し出してあげなければいけない。
仮に、AとBというイメージしかアタマのなかにない相手に対し、いきなりCというイメージをプレゼンしても伝わらない。そんなときは、Cというイメージに代わる何かでCというイメージを伝えることがポイントになる。つまり、ある考えをプレゼンするには、数多くのイメージを編集して提示する能力が問われるということだ。
AとBというイメージしかアタマのなかにない相手には、AとBに関連した(相手が親近感を持つ)要素を組み合わせてCというイメージを表現できれば、そのプレゼンは成功する確率が高くなるだろう。
その際に問われるのは、どれだけ多くの脳のかけらに触れてきたかである。
多くの脳のかけらに触れる経験をしていれば、それだけイメージを編集して提示する選択肢を広げることができる。
プレゼンに必要な表現力もまた、読書によって養われる。「つなげる力」が高まることは、イマジネーションが豊かになることと同義だからだ。プレゼンの機会が圧倒的に多いテレビやゲーム業界の逸材がみな乱読家であるのは、よく知られた事実である。
「複眼思考(クリティカル・シンキング)」を磨く読書
以上の5つのリテラシーに加えて、情報編集力を高めるために、忘れてはならない1つのスキルがある。それは「クリティカル・シンキング」だ。
クリティカル・シンキングを直訳すると「批判的思考力」ということになるが、なんでもかんでも文句をつければいい、というわけではない。それでは単なる「あまのじゃく」に過ぎない。
英語の「critical」には「本質的」「鑑識眼がある」という意味がある。したがって、クリティカル・シンキングの本質は、「自分のアタマで考えて、主体的な意見を持つ」という態度、すなわち、本質を洞察する能力である。
その意味で、私はクリティカル・シンキングを「複眼思考」と訳している。物事を短絡的なパターン認識でとらえず、多面的にとらえてみるということだ。
「そこには、何か裏の事情があるのではないか」「反対の視点に立てば、まったく違った事実が見えるのではないか」テレビでニュースを見たときにキャスターの言葉を鵜呑みにするのではなく、新聞を読んだときにも各社の論調を無条件に受け入れるのではなく、さまざまな角度から多面的に考察するのだ。
スポーツ新聞は各社から出されているが、プロ野球の巨人対阪神戦が行なわれた翌日の紙面を見ると、巨人びいきのスポーツ新聞と、阪神びいきのスポーツ新聞では、見出しから内容までまったく違う。
同じ試合の結果だったにもかかわらずである。
それぞれのスポーツ新聞は、特定のチームに肩入れすることで、そのチームのファンをコアな読者にするという経営戦略を採用しているのだ。
そのため、論調や切り口が180度異なることになる。立場が変われば、同じ事実の表現の仕方がこうも変わってくるのかという目でみると面白い。
そのいっぽうで、日本新聞協会が定めた新聞倫理綱領にはこう書かれている。
「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである」
日本放送協会と日本民間放送連盟が定めた放送倫理基本綱領にも、同じような趣旨のことが書かれている。
「報道は、事実を客観的かつ正確、公平に伝え、真実に迫るために最善の努力を傾けなければならない」こう書かれているにもかかわらず、あらゆるメディアでは「だれかの考え」というフィルターを通じて発信される。
あらゆる記事や放送には、それぞれの団体や記者個人の「特定の方針」というフィルターがかけられ、その方針に則ったメッセージが発信されているということだ。
問題は、受け手である側が、報じられている内容をすべて公正で正確な事実と思い込んでしまうことである。
私たちが新聞で読んだりテレビで見たりしているものは、だれかがある意図をもって編集した情報であることを理解しなければならない。
だから、できるだけ多くの考え方に触れ、自分なりの意見を持つことが重要になる。
1つの意見に対する反論は必ず出てくるだろうから、それを咀嚼しながら自分の考えをブラッシュアップして(進化させて)いくのだ。
複眼思考をする姿勢を持つことで、自分の考えがはじめて厚みを増してくる。
逆に、複眼思考ができていない人の意見というのは、どうごまかしても、表面をなぞった感じがしてしまう。
自分の考えをブラッシュアップさせる作業は、多様な考えを持つ他者とのコミュニケーション(ブレストやディベート)を通じてもできるし、読書を通して他人の脳のかけらをつなげることでもできる。
複眼思考を磨くうえでも、読書が大きな役割を果たすことがおわかりいただけたと思う。
まずは、「道徳としての読書」から脱け出そう
読書を通じて複眼思考を磨いていくうえでは、「道徳としての読書」から脱することも重要である。日本の国語教育に多い、いい本イコール何らかの人生訓を教えてくれるものという通念を捨てる必要がある。
日本の国語の授業というのは、道徳の時間になってしまう傾向がある。思いあたる人も多いのではないだろうか。
なぜなら、特定の権威者が決めた課題図書を読み、「正しい感想文」を書かせるといったパターンが多いからだ。
いっぽうで、ほかの先進国では通常、国語の時間といえば、クリティカル・シンキングを養成するカリキュラムのことを指す。
したがって、国語の授業の中心は、議論をすることだ。国語の時間といえば、こんなエピソードがある。私が高校生のとき、同級生の一人にアメリカ帰りの帰国子女がいた。
彼は一方的に教師がしゃべる日本の国語の授業を聞いていて、だんだん耐えられなくなったという。そして、教師に直訴した。
「僕に授業をやらせてください」いま考えると、すでに定年間際の年齢に達していた国語の先生も肝が座っていたと思う。
やらせたのだ。
彼が行なった国語の授業は、アーネスト・ヘミングウェイの名作『キリマンジャロの雪』という短編をみんなに読ませ、クラスメート全員を巻き込んでディベートを仕掛けるというものだった。
さまざまな意見が飛び交うその授業の面白さに、私もふくめてクラスメートのだれもが興奮した。日本の国語の授業も教条的に正解を押しつける一方的な「道徳教育」から脱しないと、複眼思考は育たない。
読むべき本、あるべき答えではなく、本には多様な読み方があっていい。
「そういう考えもあるね」と寛容に受けとめながら「自分だったらどう思う?」と質問しながら読んでいく。多様な意見を戦わせることで、脳のシナプスが活性化される。それを繰り返せば、やがて自分の意見を持ち、他人の異なる意見も理解できるようになるだろう。
情報編集力は、子ども時代の「遊び」が鍵になる
ここまで情報編集力を高めるために大切な5つのリテラシーと1つのスキルについて触れ、それぞれを磨くために読書がどれほど役立つかについて書いてきた。
しかし、読書だけしていても情報編集力は高められないということに、ここであえて触れておこうと思う。
私は情報編集力を自分のものとして身につけるには、「予期せぬ出合い」が重要だと考えている。
それを日常的に体験できるのは「遊び」だ。遊びの定義について、自著のなかで対談した松岡正剛さんの言葉を借りると、次のようになる。
「遊びには『ルール』『ロール(役割)』『ツール(道具)』があって、それぞれを主客、つまり他者と自分が入れかわる可能性がありながら成立している」『情報編集力』(筑摩書房)より
松岡さんは、遊びでは必ず不測の事態が起こるという。遊びを始める前に意図していたことも、ルールかロールかツールのどれかに思い通りにならないことが出てくると、まったく違う展開になるものだ。場合によっては、すべての面に不確定要素が発生することもある。
たとえば二手に分かれる鬼ごっこで、せっかく大好きな女の子と一緒のチームになれて有頂天になっていても、途中からガキ大将が加わり、強権を発動されてお気に入りの女の子を敵チームに奪われてしまうことだってあるだろう。
あるいは、お母さんを驚かせようと思って、家で積み木を高く積んで遊んでいたとしよう。
お母さんが買い物から帰って来たら「東京スカイツリー」をつくったよ、と自慢したいから、ドキドキ、ワクワクしながら取り組んでいる。
ところが、慎重にそっと上のほうを積み上げていると、まだ小さな弟が昼寝から起きてきて、せっかく積み上げたタワーを怪獣みたいに、なぎ倒してしまう。十分ありえることだろう。
そんな不測の事態になったとき、どんな対応をするか。女の子を奪い返すために、仲間と協力してフォーメーションを構築する。
ガキ大将を何人かで追い込んで、その隙にガードが手薄になった女の子を取り戻す。積み木を崩した弟を泣かせて反省させる。
ほかの楽しいおもちゃを与えて別の部屋に閉じ込める。弟にも手伝わせてもっと高いスカイツリーにチャレンジする。対応は、人や状況によってさまざまに異なるだろう。
そこで、その場所で、そのタイミングで、しかも自分の持ち駒で、足りないものや限界がある条件下で最善と思われる策を実践するのが遊びの醍醐味だ。
逆にいえば、遊びというのは意図したように進んでしまうと、もはや遊びではなくなってしまう。状況が目まぐるしく変わるなかで、自分の出方を修正する能力が試されることが楽しいのだ。
子どものころ、私が住んでいた公務員住宅にはアパートとアパートの間に公園があった。そこには砂場と鉄棒とブランコと、決して広くはないが、ちょっとした広場もあった。私たちの世代の男の子たちは、何かといえば野球をやりたがった。
しかし、場所が狭いためにちゃんとした野球はできない。そこで考え出されたのが三角ベース(ホームベースと一塁、三塁を三角に結んで行なう野球を簡略化した遊び)である。
しかも、まともなベースがない。そこで、目印となるような木や石をベースに見立てていた。ボールだけはだれかが持って来たが、バットさえない場合もあった。
そんなときは、近くの工事現場に行って木の端切れをもらってバット代わりにしていた。遊びのなかで、足りない道具はいっぱいあった。
そこでは、何をその代わりにして、どんな役割に見立てて遊ぶかにイマジネーションが試されたのだ。だから、子どものころにどれだけ、こうした「ごっこ遊び」をやったかが、情報編集力の基盤(ベース)になる。
遊びというのは多様で、複雑で、変化に富んでいる。やってみなければわからない要素が強く、つねに修正をかけていかなければ楽しめない。正解主義で、遊びはできない。
だからこそ、遊びは、成熟社会に必須の情報編集力の土台になるのだ。お子さんのいる読者には、10歳までにどれほど思いっきり遊んだかが、その子のイマジネーションの根っこになる、と明言しておこう。
大人が情報編集力を磨くには
それでは、いまさら「ごっこ遊び」に興ずることができなくなった大人はどうすればよいのか。もちろん、大人になってからでも、情報編集力を鍛える方法はある。
そのひとつは「旅」に出ることだ。ただし、観光地を巡るお仕着せの「パックツアー」ではダメ。スケジュールと宿泊先、交通手段などをすべて自分で組み立てる「旅」にしなければ意味がない。
ある程度の期間、自分で旅を「編集」して体験すれば、危険な目に遭うこともふくめ、あらゆる事態に遭遇する。
そうした予定調和でない事態に、あえて自分を追い込むこと。自力で対処することで、子どもにとっての遊びに代わる体験ができるはずだ。
私は、学生のころにヨーロッパ旅行に出かけたことがある。アルバイトをしてお金を貯め、大学2年のときに47日間の旅に出た。
はじめて飛行機に乗る体験でもあった。
友人との二人旅だったが、ほとんどの旅程を私がコーディネートし、ユーレイルパスでヨーロッパ中を回った。
そして、あと1週間で旅も終わるころ、予期しない事件が起こった。ローマで鉄道のストライキに遭遇してしまい、移動に使うはずだった寝台車がホームに停まったまま動かなくなったのだ。ストライキで動いていないのだから、寝台車はガラ空きだった。
私と友人は疲れきっていた。その日はもう動く気になれず、停車していた寝台車で一夜を明かすことにした。そして、せっかくだから豪勢に寝ようといって、一人一部屋で寝ることにしたのだ。
その寝台車には、私たちのほかにアメリカ人のカップルが一組いた。疲れていたためにすぐに熟睡してしまったのだが、翌朝、目覚めたら、2つあったはずの私のバッグがすべて盗まれていた。
当然、バッグのなかに入れておいたパスポートとトラベラーズチェックもない。
旅を始めてからその日まで、私はパスポートとトラベラーズチェックを母がつくってくれた巾着のような袋に入れ、念には念を入れて腹巻のなかに入れて持ち歩いていた。
だが、寝台車ではぐっすり寝たいと思い、その日に限ってバッグに入れ直してしまったのが仇になった。完全に油断していたのだ。
隣のコンパートメントで寝ていた友人もバッグを盗まれたが、身につけていたパスポートだけは残っていた。アメリカ人のカップルに至っては、履いていたジーンズを切られてポケットに入っていたお金を持っていかれたという。
もし4人で1つのコンパートメントに寝ていれば、事無きをえたのかもしれないが、あとの祭りである。すぐに、パスポートの再発行をしてもらうために日本大使館に行った。
「よかったね、きみたち。もし起きていたら、殺されていたと思うよ」バッグを盗まれた状況を説明すると、大使館の人はそう言った。
そのときは何も知らなかったが、当時のローマは非常に危険な街で、殺人事件まで起こるような中央駅で寝るなど自殺行為に等しかったようだ。
日本から遠く離れた海外で、どうにもならない状況のなか、警察や大使館や旅行会社の駐在員や英語も通じないホテルのスタッフと破れかぶれで宿や帰国便の交渉をした。
当時は地獄だと思ったし、神様を恨んだが、そんな事件を体験できたことは、あとから考えれば、自分の成長につながったと思う。
命を奪われてしまっては元も子もないが、そうでなければ、ある程度の極限状況や未知との遭遇、そしてその結果としての「予期せぬ出合い」を体験することで、変化する状況に対処する技術を磨くことができる。
危機に際して人間は、アタマのなかのあらゆる知識と経験を結びつけて編集し、最善の対策を考えようとするからだ。
極限状況を体験するということに関しては、メディアファクトリーにいたころ、評論家の西部邁先生から面白い話を教えていただいたことがある。
「男が正気になるためには、病気になって死ぬ目に遭うか、独房に入って沈思黙考して哲学するか、戦争に行くしかない」西部先生が言おうとしたのは、人間がひと皮剥けるためには、それぐらい強いショックが必要だということ。
少しぐらいの仕事のきつさや「地獄の研修」に参加する程度のことでは、人間の価値観は激変しない。半日もしたら元の状態に戻ってしまうだろう。
いっぽう、死というのは生物である人間にとって、究極の極限状況である。癌を告知された人の体験談を読んでいても、死を間近に意識することで世の中がまったく違って見えるという。
もちろん恐怖はあるが、運よくそこから立ち戻ることができたなら、おそらくそれまで自分が持っていた知識体系とはまったく異なる編集が脳内で起こるのだと思う。
子どもにとっての遊び、大人の旅、そして極限状況に直面すること。
読書に加えて、こういう体験をすることによっても、情報編集力は強化されるのである。
コラムツールとしての読書③本は、孤独に耐えながら読むモバイル端末
本の著者は、滅多にできない経験をしたり、深く研究したり、テーマをずっと追いかけたりして、その道のエキスパートになった人である。
そのエキスパートが考え抜いて表現した1冊の本は、著者の脳のかけらにアクセスするための端末だ。しかも、本は持ち運び自由で、いつでもどこでも読める端末でもある。
充電切れの心配もいらないし、アクセスのスピードも読み手の自由だ。ざっと眺めることもできれば、じっくり思索を深めながら読むこともできる。行きつ戻りつしながら、途中から目を通すこともできる。
読者の脳内にもともとあった情報と、新たにインストールした著者の脳のかけらという情報が混じり合い、脳内で情報が編集されることになる。
つまり、著者の世界観と読者の世界観が化学変化を起こし、再編集されて新しい世界観が生まれるのだ。読書が世界に対する見方を広げ、味方を増やすことにもつながるというのは、そういうわけだ。
書籍が「モバイル端末」とも呼べる現在のような形になったのは、500年以上前のことだ。人間の頭部には前面に目があって、両手は前方に自在に動かすことができる。
そうした人間の構造から、片手で持ったまま、片手でページが繰れる現在のような形がベストだということになったのだろう。
言語の違いから、縦書きと横書き、右開きと左開きなどの違いはあるものの、最も合理的だと思われる形は、世界中でいまでも変わっていない。
電子書籍は、線を引くことができたり、わからない言葉の意味を即座に辞書で引けたりするなど、年々高スペックになっている。
しかし、いまだに紙の本がなくなっていないということは、著者の脳のかけらを吸収する道具という視点に立てば、紙の本も十分に高スペックだということではなかろうか。
アマゾンで電子書籍「キンドル」開発の現場責任者だったジェイソン・マーコスキー氏も、著書『本は死なない』(講談社)のなかでこう述べている。
「本は、顔を隠したいときや、椅子や机の下支えに使えるだけではない。まず価格、製造コスト、情報伝達の効率性のバランスが非常に優れている。小型のノートパソコンやタブレットなど、重さが同程度のほかの情報ツールと比べても、本の価格と製造コストの低さは抜きん出ている」こんな高度で合理的な本という端末を、だいたい1000円~3000円の間で手に入れることができる。
たとえば、200ページ前後に詰まった膨大な知識の塊がたった1500円で手に入ると考えれば、その投資効率は非常に高い。また、本は、物理的なものであるがゆえに、読み終わったあとの達成感がある。
とくに紙の本だと、しおりや本の背表紙についているスピン(しおり紐)をページとページの間に挟むことで、ここまで読んだという達成感を自分の目で確かめ、実感できる。あるいは、5、6冊の本を読んだそばから机の片隅に積み上げていけば、物理的な感覚で読んだ量を味わうこともできる。もちろん、それが大部の著作であれば、読み切るには相応の忍耐が必要になる。
たとえば、塩野七生さんの『ローマ人の物語』(新潮社)のような壮大なシリーズものは面白いけれども、すべて読もうと思えば相当な覚悟がいる。
しかし、だからこそ忍耐力がつくのだ。私は、読むことに対する忍耐という面では、電子書籍よりも紙の本のほうが、実感が持てると感じている。
かつて、私はフランスに住んだことがある。そのときに感じたのは、フランス人には絶対的に孤独な人生観が深く横たわっていることだった。
「人は生を受け、死を迎えるまで、結局、他人と完全にわかり合うことはできない」これこそが、21世紀型の成熟社会に通底する基本認識だと私は思う。
だから、四六時中ネットにつながるのではなく、ネットから切れて「スタンドアローン」になることが重要になる。孤独に耐える訓練にもなるからだ。
私は、仕事をするときとは別の場所で本を読んでいる。そこにパソコンはない。スマホも携帯も使わないので、本を読むときは完全にスタンドアローンの状態だ。
本は、このようにスタンドアローンになることに適した端末だ。ただそこに黙ってあるだけ。逆の見方をすれば、本は、孤独に耐えながら読むに限るということ。そこから生まれる達成感は、次の本へ向かわせる原動力になる。
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