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第3話マニュアルという名の鉄棒

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地図を作ろう!

スーパーバイザーの篠山は、複雑な心境でいた。空模様で言うなら、例年よりも少し早く梅雨入りした今日の天気のようにモヤモヤしていた。

1つは、京南大学前店のツバメの巣のことだった。なぜか、本部がツバメの巣についてのマニュアルの見直しをするという。

「ケース・バイ・ケースで対応するので、それは各スーパーバイザーに任せる」というのだ。「任せる」と言われても困る。それはマニュアルではない。

もう1つ。

なぜか、京南大学前店の売上がジリジリと上がっているのだ。もちろん、自分の担当店舗だから、うれしいに決まっている。

しかし、その要因にさっぱり見当がつかないのだ。できることなら、「オレの指導がいいからだ」と思いたい。

しかし、どうやらそうではないらしい。

あのオバチャンが来てから、そして、オーナー店長の娘が副店長を務めるようになってから変わったようなのだ。

「キヨシ~元気ないぞー」ケータイの向こうから、能天気な声が聞こえた。「いや、別に悪いことがあったわけじゃない」「それなら、そんなに暗くなるな。なんくるないさ~」沖縄地区担当で同期のスーパーバイザー、田沼雄一郎はいつも上機嫌だ。

「沖縄の方言でな、なんくるないさ~ってのは、『なんとかなるよ人生は』って意味だよ。なんくるないさ~」(相変わらずなヤツだ)「なんともならんよ」「でも、この頃、変なオバアのいる店の売上が伸びてるって言ってたじゃないか」オバアとは、沖縄の言葉でお婆さんのことだ。

「まあな。なにがどうって、特別なことをしてるようには見えないんだがな」「いいじゃないか、なんくるないさ~」「うるさい、もう切るぞ!」

なんのために働いているのか?

ユカリは、今、コンビニの仕事が面白くて面白くてたまらなくなっていた。毎晩、離れ家の泰造にその日あったことを報告に行く。

「今日は、こんなふうにお客さんに喜んでもらった」と、息せき切って夢中でしゃべる。そして、2人で缶ビールを飲む。この前、教えられたように、ずっとオバチャンの背中を見て仕事をしている。そして、盗む。

あの後も、何度か「教えてほしい」と頼んだ。そのたびに、「私は、ただのオバチャンだから」と言って取り合ってくれないのだから、盗むしか仕方がない。

そして、マネできることは、すぐにやってみる。

泰造も、最初のうちは口が重かったが、いつの間にか、自分の経験を踏まえて「商いの心」とはなにかについて教えてくれるようになった。

夕べのことだった。いきなり訊かれた。

「ユカリは、なんのために働いているんじゃ?」「え?」「お金か?」もちろんお金は欲しい。でも、それがすべてではなかった。

たしかに、アメリカに留学していたとき、就活をしているときには、それを一番に考えていた。スキルを身につけ、実績を上げる。ステップアップして高い報酬をもらう。

しかし、今は、コンビニにどっぷりと浸かり、「どうしたら店を立て直せるか」で頭がいっぱいなのだ。

「あまり考えたことがないよ、おじいちゃん」「そんなことはない。最近のユカリは、その答えをよく口にしているぞ」「え?」「気がつかんかな。さっきもなぁ、言っておったぞ」「なんて?」「『お客さんに喜んでもらった』って。それがうれしくて働いているんじゃないか、ユカリは」言われて初めて気づいた。

その通りだった。どうしたら、お客さんに喜んでもらえるだろうか。ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも四六時中、そればかり考えていた。

「難しいことじゃないじゃろ、ユカリ。きっと、『商』の国の人も、同じ思いだったと思うんじゃ」「うん……」そんなある日のことだった。

「ねえ、この辺にガソリンスタンドなかとですか」「ありますよ」スーツを着た、中年のサラリーマンだった。

ユカリは、店の前のバイパスを指して答えた。

「これを左に真っ直ぐ行って、2つ目の信号を……」道を尋ねたサラリーマンが出ていくと、オバチャンがユカリに話しかけた。

「ねえねえ、副店長さん」「なんですか、水野さん」「ガソリンスタンドってよく訊かれるわね」「はい、私も3回目かな、それでパッと答えられたんですよ。

今の人、ちょっと手前のところでガス欠になっちゃったらしくて」「地図があると便利よねぇ~」ユカリは、ハッとした。

なんでそんな簡単なことに気づかなかったのか。よく訊かれる所を書き込んだ地図。それを、道を訊かれたら渡す。この周辺のだいたいの地図さえ作っておいたらいい。載っていない場所を訊かれたら赤ペンで印をしてあげればいい。

ちょっと前の自分なら、こう考えていただろう。

「ホテルのフロントじゃあるまいし。今みたいに教えてあげたらいいじゃないか」でも、お客さんに喜んでもらいたい。

それを一番に考えるなら、迷うことはないはずだ。でも、でも……。そんなことをしても……。オバチャンが言う。

「でも、そんなの渡しても、経費倒れよね~。マニュアルにもないし……。さっきのガソリンスタンドを訊いた人だって、なんにも買わずに帰っちゃったものね~。普通、買うでしょ!ジュースかなにか。それが義理ってものよねぇ~」「……」「それに、あの人、九州の訛があったし。ひょっとすると、たまたま営業でこっちへ来ただけかもしれないしねぇ。そうしたら、いくら親切にしたって二度と来てくれないものねぇ」

オバチャンは、ユカリの心を見透かしたかのようにそう言い、けっして不満そうな様子もなく、菓子パンの消費期限のチェック作業を始めた。

仕事をするって、お金をもらうことだと思っていた

そのとき、店の前に1台のタクシーが乗り入れてきた。ドアが開くと、運転手が飛び出して店内に駆け込んでくる。かぶっていた帽子を取って、軽くお辞儀をした。

「すみませ~ん」レジのユカリのところにやってきた。「あのあの……この辺に、安藤治療院ってありませんか?」50代後半の男性運転手。

ツルツルの頭に噴き出した汗をハンカチで拭っている。

「安藤?」「カーナビでは、この辺らしいんですけど。ぐるぐる回ってもわかんなくて」「治療院って病院ですか?内科かなにか?」「いえ、鍼灸です。お客さんが車で待ってて急いでいるんだけど、困っちゃって。予約時間に間に合わないらしくて」「シンキューって?」「あ、はい。鍼とかお灸の鍼灸です」「ああ!」ユカリは思わず頷いた。

ついこの前も、同じところまでの道を尋ねられたことがある。

「それだったらですね……」ユカリは、レジから出て、運転手に教え始めた。

「あのですね。ちょうど、うちの店の裏手になるんです。店を出て、一旦、左に曲がってください。近いけど、一方通行なので右に行くと遠回りになっちゃいますから。左に曲がったらね……ええっと細い路地があって……」そこへ、そばで聞いていたオバチャンが口をはさんだ。

「副店長さん、連れてった方が早いわよ。あそこ、看板が出てないからわかんないのよ。普通の家で、一人暮らしのおじいさんがやってるから」「え?……でもお店が……」「いいから、行ってらっしゃい」「はい。運転手さん!助手席に乗せてくれる?案内するから」「え?いいんですか?」「早く、早く。お客さん怒っちゃうわよ」そう言うと、ユカリはもう店の外へと飛び出していた。

オバチャンの声が聞こえた。

「帰りは走って帰るのよ~!店長に叱られちゃうから~」それから、ほんの5分後。ユカリは、あの運転手のタクシーに乗せてもらって店に帰ってきた。送ってきた運転手は、店に入ってくるなり奥のドリンクコーナーに足を向けた。

そして、レジに戻ったユカリに微糖ブラックの缶コーヒーを差し出した。

「ホントにありがとうございました」「いいえ……」ユカリはポッと顔を紅らめた。

「仕事柄、よく道を尋ねるんです。でもね、その場所まで付いて行ってもらったのは初めてで。せめて……これくらいしか……」「いいんですよ、別に買ってもらおうと思って案内したわけじゃないですから」ユカリは、ドキッとした。

今、自分はなんと言ったのか。たしかに「別に買ってもらおうと思って案内したわけじゃない」と言った。以前は、仕事をするって、お金をもらうことだと思っていた。

なにかをしたから、対価としてお金をもらう。そういうものだと思っていた。いや、今だって、そう思っている。なのに……。

買ってもらえなくても、運転手さんに喜んでもらいたいと思った。役に立ちたいと思った。間違いなく、自分の中で、なにかが変化している。

自分の頭をなでながら、真面目な顔をして運転手は言った。「近くを通ったら、今度は弁当を買いに来ます」「気にしなくても……」「気にするんです。ううん、そうじゃない。気に入ったんです、ここが。絶対に来ますからね!」

そう言うと、鼻歌を歌いながら手を振ってバーイというポーズを取り、車に乗り込んだ。ユカリは、心に決めた。今夜、地図を作ろうと。表に出て、車を見送った。

ツバメが、頻繁に巣へとエサを運んでいる。卵がかえったのだ。ときおり、下からでも子ツバメの口が巣からはみだしているのを見ることができる。

「そうだ!デジカメの望遠で撮って、若葉幼稚園の子供たちに見せてあげよう」

「待たせてごめんね~」

桜木鉄也は、子供の頃からの鉄道マニアだった。

最近では「鉄ちゃん」と呼ぶらしいが、昔はクラスの友達には「ただの変わり者」「ネクラ」だと思われていた。それだけに、今の鉄道ブームは誇らしくもある。

それだけではない。鉄道マニアが高じて、鉄道会社に就職してしまったのだ。好きなことを仕事にできる喜びは、何物にも代えがたかった。

就職試験にパスしたときには、「ヤッタゾー!」と大声で叫んでしまったものだ。ところが……。

駅のクレーマー

今、鉄也は入社2年目。駅の切符売場の窓口に座っている。もちろん、自動券売機は設置されている。

しかし、自販機では、当日利用の切符しか買うことができない。

窓口では、先付のチケットの販売のほかにも、レンタカーやホテルの手配、イベントチケットの案内もしている。

今までは「お客さん」として楽しんでいた鉄道だったが、「お客様」をもてなす側に立つと、想像以上にたいへんであることがわかった。それは、クレームだ。

この前も、「納得できん!払い戻しするまで動かんゾー」と、年配のサラリーマンに10分近くもごねられた。100%相手が間違っている。特急の座席指定のチケットを買ったお客さんだった。

駅まで来るのに道路が渋滞して、その電車に乗れなかったのだ。それを全額払い戻せと言う。

「お客様、申し訳ございません。発車する前でしたら、次の特急に座席指定を振り替えるか、払い戻しさせていただくことができるのですが……」と説明したのだが、「電車は、俺を乗せてないんだぞ。俺は64キロある。それだけ軽いまま、走ってるんだ。電気代もその分安く済むはずだ。お前んところは、俺を乗せないことで儲けてるんだゾ。それを返せって言うんだ。わかったか、コノヤロー!」もうメチャクチャな理屈だ。

コノヤローとまで言われて、大声を出しそうになった。窓口には社員は鉄也一人。誰にも助けを求められない。ただただ同じ説明を繰り返す。後ろには、3人、4人とお客さんが並び始めた。すぐ後ろの若い女性はイライラしている様子。

しかし、「危険人物」と察してか、ちょっと後ずさりして窓口から距離を置いた。そのうち、諦めて列から離れてどこかへ行ってしまった。

「いいですか、お客様。もし映画の前売券を買ったとしましょう。なにかの都合で見に行けなくなってしまった。それでもお客様は映画館に、払い戻してほしい、と頼まれますか?」「そんなことできるわけないだろう」「はい、それと同じなんです」「バカヤロー、子供じゃないんだ。わかってるよ、そんなこと。ダメモトで、言ってみただけだよ」「へ?」それまで大声で怒鳴っていたお客は、プイッと窓口を離れて改札を通って行ってしまった。

気づくと、次の特急がホームに入ってくる時刻だった。脱力。鉄也は落ち込む暇もなく、次のお客さんの対応に追われた。

その3日後の非番の日のこと。鉄也は、会社の寮の近くのコンビニに昼ごはんを買いに出かけた。夜勤明けだったので、目が覚めたのは午前11時過ぎだった。洗濯を済ませて時計を見ると、12時半になっていた。

お腹がグーと鳴った。2つのレジとも、お客さんの列ができている。それは、目の前の大学の学生たちだとわかった。午前中の講義が終わって、一斉にやってきたのだ。

鉄也は、チェッと舌打ちした。急いで棚に行き、あまり考えることもなく「黒毛和牛のピリカラ焼肉弁当」を手に取った。パッと2つのレジの列を数えた。一つは5人、もう一つは6人。迷わず、5人の方の列の最後尾に並んだ。

その瞬間だった。前の方から大きな声がした。

「ごめんね~、お待たせしてま~す!」ふと見ると、レジのおばさんが、こっちを向いて言ったのだと気づいた。目が合うと、一瞬ニコッとして、袋詰めの作業に戻った。

小太りで背の低い、どこにでもいそうな典型的な「オバチャン」だった。鉄也は、おや?と思った。65歳くらいだろうか。

コンビニの店員といえば、高校生や大学生のアルバイトだと思い込んでいた。なにしろ、大学の前のコンビニだ。(なんで、オバチャンが……)首を傾げた瞬間に、またまた同じオバチャンの声が店内に響いた。

「みなさ~ん!待たせてごめんね~」下を向いたり、ボーッとしたりして並んでいた全員がパッと顔を上げた。

「お弁当を温めたい人、先に言ってね~。今なら電子レンジ空いてるからね~」すると、鉄也の2人前に並んでいた背の高い男子学生が、幕の内弁当を右手で高く掲げて言った。

「僕の、お願いします」レジのオバチャンが言う。

「ラジャー!」歳に似合わぬ、「ラジャー」などという返事に反応してか、鉄也のすぐ前の女の子がクスリと笑った。

「水野さ~ん!こっちのお客様のも、次にお願いできますか~」隣のレジの、背の高い若い女子店員の声だった。

まつ毛が異様に長い。まるでモデルのようなスタイルだった。鉄也は一瞬、(あっちへ行けばよかったなぁ)と思った。

明日の勤務が待ち遠しい

オバチャンの名前は、どうやら「水野」というらしい。隣の列に目を向けると、一番後ろに並んでいた、メガネをかけて色白の、気の弱そうな男の子が、弁当を前に差し出そうとしているところだった。

オバチャンは、その青年から弁当を受け取り、電子レンジの上に置いた。

「次ね」と微笑む。

店内隅々にまで聞こえるほどの声で言った。

「みなさ~ん。待たせてごめんね~。一番後ろのお客さん、あと1分37秒フラットお待ちくださ~い」列に並んでいた全員が、あきれたような顔をして笑った。

みんな常連客なのか。「わかってるよ」という雰囲気が漂っている。どこかズレている感じ。それが妙におかしい。そのとき、鉄也は思った。(何者なんだ、このオバチャンは……)コンビニのレジ前に並んでいて、「待たせてごめんね」なんて声をかけられたのは生まれて初めてだった。

せいぜい、自分の順番が来たときに「お待たせしました」とおざなりに言われるくらいだ。買う前に、先に弁当を温めてくれるコンビニも見たことがない。

たったそれだけのこと。それだけのことが心の琴線に触れた。そして、さらに心の奥底に、鉄也を突き動かすものが生まれたことに気づいた。(俺は、なにもしてこなかった。窓口で、並んで待っていてくれるお客様に、一度も声さえかけたことがなかった。昨日も……)

鉄也は、自分の仕事の中でできることが、いくらでもありそうな気がした。

そのときだった。隣のレジからも、店内に響くような大きな声が聞こえた。今度は、背の高い、まつ毛の長い女性店員だった。

「お待たせしてごめんなさ~い、みなさ~ん。お腹空いたでしょ!急いでやってますからねぇ~」(オバチャンだけじゃないんだ、この店は……)鉄也の順番が来た。

ピッピッと、バーコードが読み取られる。

お勘定を済ませるやいなや、鉄也は、オバチャンが「ありがとうございました」と口を開く前に、目をジッと見つめて言った。

「水野さん、ありがとう」(お客様をイライラさせないために、オレにもできることがあるはずだ)そう思うと明日の勤務が待ち遠しくなった。

気がつくと、鉄也はオバチャンの手をギュッと握りしめていた。ついさっきまで、パワフルで剌としていたオバチャンは、キョトンとして鉄也を見つめ返した。

マニュアルは諸刃の剣

ユカリは、日課のようになった泰造との深夜の酒盛りをしていた。これが楽しくて、一日頑張れる。

「今日ね、びっくりしちゃった。若い男の人がね、水野さんの手をギュウって握るのよ」「え?」「レジでよ。それでさあ、水野さん、よっぽどびっくりしたのか、口を開けてポカーンとしてるの」「ほほう、そりゃワシも見てみたかったのう」「でしょ!」ユカリは、このわずか数日で、多くのことを学んだ。

オバチャンの背中を見て。たかが挨拶だ。

しかし、どうしたら相手に喜んでもらえるのだろうか。その気持ちを、どうしたら言葉に込めることができるか。それを考えて仕事をしている。その模範が、オバチャンだった。

弟子にはしてもらえなかったが、そばにいるだけで、たくさんのことを吸収できた。そして、毎晩、それを泰造に報告する。それが復習にもなった。

マニュアル嫌い

「ところで、おじいちゃん」「うん、なんじゃ」「おじいちゃんはさ、こんなにお客さんの気持ちがわかるのに、なんでコンビニにするのを反対したの?そんなにコンビニが嫌いなの?」「おじいちゃんもな、コンビニは大好きじゃよ。たまに、おつまみを買いに行く。いろいろ新商品が出るのが楽しみでなぁ。今は、北海道の秋ジャケ味ピーナッツにはまっててな」

「だったら……」「いやいや、ワシが嫌いなのは、コンビニじゃなくてな……」「……え?」「ワシが嫌いなのは、マニュアルなんじゃ」「なんで……?」と訊き返しながらも、ユカリにはなんとなく泰造の気持ちがわかる気がした。泰造は、ちょっと天井を見上げながら、こんな話を始めた。

「酒屋をやってた頃なぁ、組合の仲間でな、コンビニに衣替えした奴がいたんじゃ」「エンジェルマート?」「い、いや、……よく覚えとらんが」「……独立系?」

「そうそう、とにかく、大手スーパーが参入したコンビニ・チェーンではなかったな。もう30年、いや35年くらい前のことじゃ。組合の源さんが、何人かの仲間に声をかけてな、共同で商品を仕入れてコンビニにすることになった。ワシにも『参加しろ』と言ってきたんじゃが、どうしても気がすすまんかった。あいつ、『時代に乗り遅れるぞ』なんて言いやがって。ちっと淋しかったな、ワシとしては。

よくお互いの家を行き来して、うちの婆さんと、源さんの奥さんも仲が良くてな、家族ぐるみの付き合いをしておったからなぁ……いかんいかん、ついつい昔が懐かしくて」ユカリは、泰造がめったに口にしない昔話に引き込まれた。

「当時はな、まだ24時間営業の店は少なかった。朝7時から夜11時のところが多かったな。ユカリの生まれる前のことじゃな……。ある日、源さんの奥さんが店のシャッターを下ろそうとしてたらな、1人のサラリーマンが駆け込んできたそうじゃ。

明日の朝食のパンを買いにな。源さんの奥さんはな、それを見て、一度締めたレジを立ち上げた。そのとき、源さんは、嫌な予感がしたというんじゃ」「なに?嫌な予感って」

「まあ、聞きなさい。それから1週間くらい後のことじゃ。そのコンビニの本部にな、こんな文句の電話が入ったというんじゃ。

そのコンビニ・チェーンの他の店に夜11時5分くらいに入ろうとしたらな、『本日は閉店しました。明日は7時から開店しますので、明朝お越しください』って冷たく追い帰されたっていうんじゃ……源さんの店では入れてくれたのに、どういうことかって」「……?」「コンビニっていうのは、全国どこででも同じサービスをしなきゃならんというんだな。

そのために、誰がフランチャイズ・オーナーになっても経営できるマニュアルがある。そのマニュアルさえあれば、アルバイトでもちゃんと仕事ができる。

そのマニュアルには、『午後11時を過ぎたら、お客さんを店に入れてはならない』って書いてあるからだというんじゃ」ユカリには、その話がよく理解できた。

フランチャイズは、どの店でも均一のサービスを提供しなくてはならない。こちらはオーナーが別でも、お客様からすれば看板が同じ店のうちの1つなのだ。

ある店が11時5分までお客様を入れるとする。次に来たとき、11時10分だった。いや、シャッターを閉める寸前だったとしよう。

そこで断ったとすると、きっとお客様は「この前は入れてくれたじゃないか」と怒るだろう。

「源さんはな、それ以降、厳密に11時ジャストにシャッターを下ろすようになったんじゃよ。でもな、源さんの奥さんはどうしても納得できんかった。あんまり腹が立ったので、源さんの目を盗んで、ちょくちょく11時半くらいまで店を開けていたらしい。

それが原因で夫婦ゲンカをやってなぁ~。ウチへ遊びに来てもよくチャンチャンバラバラやってよ。奥さんはずっと言ってた。

『だからコンビニなんて嫌い』だって」「わかるわ、それ。源さんの奥さんはマニュアル違反をしてでも、喜んでもらいたいと思った。でも、他の店には迷惑だった。スタンドプレーというか身勝手なヤツだと思われたのね」

「そういうことだな。それがフランチャイズとやらのマニュアルなんじゃ」「おじいちゃんは、源さんの奥さんの肩を持ってあげたのね。本当に、痛し痒しね。悪いけど、私は、今でもマニュアルは大切だと思っているの、おじいちゃん」

「いいよ、ユカリを責めているわけじゃない」「うん。でもね、全国のものすごい数のスタッフがね、できるかぎりクレームなくスムーズに働くにはマニュアルは必要不可欠なものなのよ。

でも、源さんの話みたいにマニュアルの弊害もある」「ワシだってな、まったくわからんことはない。

でも、マニュアルは、諸刃の剣だってことを肝に銘じておく必要があると思うんじゃよ……。MB……なんとかのユカリにエラそうなこと言ってごめんな……」

「ううん」「ワシだってな、マニュアルそのものが悪いとは思わん。きっと、江戸時代だって似たようなものはあったはずじゃ。

でもな、マニュアル、マニュアルって言うとな、知らないうちに、マニュアルが天井になってしまう気がするんじゃ」「天井?」「ああ、天井というか……上限じゃな。

人に喜んでもらうためには、『ここまでやればいい』ということはないはずじゃ。

それが、マニュアル、マニュアルって言っていると、いつの間にかマニュアルが『ここまでやればいい』という上限になってしまう。

マニュアルって、本当はそういうもんじゃないじゃろう。天井じゃなくて、床……というか……最低限のもんで『ここからなにができるか』ってもんじゃないのかなぁ」ユカリは耳が痛かった。

たしかに泰造の言う通りだった。マニュアルは最低限の決まりのはずだ。でも、マニュアルを設けたと同時に、人はついつい、それがゴールだと思い込んでしまう。

「『ここまで』じゃなくって、『ここから』なにができるか、か……」「そうそう、そういうことじゃ」

サービスは鉄棒の懸垂

「でも、口で言うのは簡単なのよね」「そうじゃな、アルバイトの子も大勢いるんじゃろうからな」「うん」「ワシはな、源さんからこんな話を聞いたことがある。参考になればいいんじゃが」「なに?おじいちゃん」「源さんはな、コンビニのレジに立つとき、いつも、こうイメージしてたというんじゃ。今日も、鉄棒の懸垂を頑張ろうってな」「え!?なに、それ?」

「鉄棒に、ヒョイッて飛びついてな、懸垂をするじゃろ。ググッて腕を曲げて身体を引き上げる」泰造は、そこに鉄棒があるかのように両腕を真上に上げ、歯を食いしばる演技をした。

「懸垂をするにはな、首から上を鉄棒よりも上に出さなきゃならん」「……?」「その鉄棒がマニュアルだというんじゃ。仕事をする前には、鉄棒という横棒を心の中に引く。

つまり、その横棒が上限じゃなく、下限になるように……もっともっと上へと顔を突き出せないかとな。

源さんは、その後、もっとスゴイことを言っておったな。懸垂じゃなくて、よじ登って身体全体を鉄棒の上に上げることだってできるはずじゃとな」

ここまで言い、泰造の瞳が潤むのをユカリは認めた。

「おじいちゃん……源さんって……今は……」「早くに死んじまったよ、奥さんと子供を残して……あのバカヤローが」ユカリは、手元の缶ビールを飲み残したまま、自分の部屋に戻った。

その晩、ユカリはなかなか寝つけなかった。今は24時間営業だからそんな心配はない。でも、自分だったらどうしていただろうか。

オバチャンなら、きっと、「決まりでね、ホントはシャッター下ろさないといけないの。でもね、あなたイケメンだから特別よ。内緒ね、今日だけ」なんて言うのだろう。

自分なら……、「ごめんなさい……祖父が病気で、今から看病に行くんです」なんてウソでもつくだろうか。

とっさに、そんな機転が利くだろうか。心の中に、マニュアルという名前の鉄棒をイメージしてみた。1回、2回、3回……何度両腕に力を入れても、アゴまで届かない。

いつの間にか眠りについていたユカリは、夢の中で、高い高い空を見上げていた。

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