トマス・エジソンの姿をできるだけ具体的に思い描いてみよう。
「どこで何をしていますか」「ひとりですか」──そう尋ねると、たいていこんな答えが返ってくる。
「作業場で装置に囲まれて蓄音機を作ろうと奮闘しています。あっ、音が出ました![エジソンはひとりですか?]はい、何を作りたいのかがわかっているのは彼だけですから」「ニュージャージーのどこかにある、実験室のような部屋で、白衣を着て電球の上にかがみこんでいます。
あっ、明かりが点きました![エジソンはひとりですか?]はい、ひとり部屋にこもって機械をいじりまわすのが好きな人ですから」実際はどうだったのだろうか。
記録を調べてみると、想像とはまったく異なる人物で、仕事の進め方もまるで違っていたことがわかる。
エジソンはひとりでいるのを好む人ではなかった。
白熱電球の発明のために、熟練科学者を含めた助手を30人も擁し、企業が資本提供する最新技術の実験室で、24時間通して研究を続けることも珍しくなかった。また、ある日突然、成功を手にしたわけでもない。
白熱電球の発明は、素晴らしいアイデアがひらめく瞬間の象徴となったが、実際には発明成功の「瞬間」など存在しない。
白熱電球は単一の発明ではなく、多数の発明を組み合わせてできあがったもので、その1つひとつが化学者、数学者、物理学者、技師、ガラス吹き職人たちの努力のたまものなのである。
エジソンは、無邪気に機械をいじくりまわす人でも、浮き世離れした研究者でもなかった。
この「メンロパークの魔法使い」は、自分の発明の商業的価値を知り尽くしていた抜け目のない企業家だった。
マスコミに取り入るのもうまく、自分の売り込み方を十分に心得ていたので、競争相手を押しのけて単独発明者におさまることもあった。
彼はたしかに天才だった。けれど、最初からそうだったわけではない。
入手できる限りの資料を精査した伝記作家のポール・イスラエルによると、エジソンはあの時代のあの地域に暮らす、まあ普通の少年だったらしい。
幼い頃の彼は実験や機械が(たぶん並みはずれて)好きな子ではあったが、メカいじりなら当時の中西部の少年がだれでもやっていたことだ。
彼を最終的に、その他大勢から引き離したもの──それは並みはずれたマインドセットと意欲だった。
機械をいじくりながら次々と新しいことに挑戦する少年の好奇心をいつまでも失わなかったのだ。
同世代の若者たちがみな就職してしまった後もずっと、列車に乗って町から町へと移動しながら、電信についてとことん学んでいった。
独学と工夫を重ねるうちに電信係に引きたてられるが、それから後も彼の向上心と発明への情熱は尽きることがなかった。
輝かしい能力や業績は神話化されやすい。
並みはずれた才能の持ち主が、単独で、突然、驚くべきものを作りだしたように語られる傾向がある。けれども実際にはそうではない。
ダーウィンは名著『種の起源』を書き上げるまでに、チームを組んで何年間もフィールド調査を実施し、同僚や指導者たちと何百回となく議論を交わし、草稿をいくたびか書き直しているのであって、そうした努力がようやく実を結ぶまでに半生を捧げている。
モーツァルトは、10年以上の苦しみの末にようやく、今日たたえられているような音楽を生みだすにいたった。
それ以前の作品には、あのような独創性も魅力もなく、他の作曲家のフレーズを借りてきて継ぎはぎしたような曲ばかりだった。
本章では、輝かしい業績を生みだす本当の要素は何なのかを探っていく。
周囲の期待ほど能力を伸ばすことができずに終わる人もいれば、予想以上のことをやりとげる人もいる。その違いはいったいどこにあるのだろう。
マインドセットは成績に影響する
モーツァルトだのダーウィンだの、雲の上の人の話はこのあたりで切り上げて、もっと身近なところでマインドセットと成績との関係を考えてみよう。
マインドセットがしなやかな生徒がぐんぐん伸びていく様子を見ると、モーツァルトやダーウィンの話を聞く以上に感銘を受ける。
自分のことに重ねやすいからだろう。今の自分を考え直してみる参考にもなるし、子どもの可能性を引き出す手がかりにもなる。
私たちは、これから中学に進学するという生徒たちを対象に、マインドセットと成績の関係を調査した。
頭の良さは生まれつきだと思っているか、努力しだいで頭は良くなると思っているかを尋ねてマインドセットを判定し、そのあと2年間にわたって、生徒たちの成績や行動を追跡調査したのである。
小学校から中学校への移行期は、多くの生徒が試練を経験する時期だ。学習内容がぐんと難しくなり、成績のつけ方も厳しくなって、手取り足取り教えてはもらえなくなる。
同時に、思春期を迎えて大きく変化する自分の身体や役割にうまく対処していく必要にも迫られる。
成績の下がる子が少なくない。といっても、みんながみんな下がるわけではない。
私たちの調査で成績が落ちたのは、最初のマインドセットの評価で「硬直」と判定された生徒たちだけだった。
中学入学直後から成績が下がりはじめ、2年間にわたって、徐々にだが着実に低下していった。
一方、「しなやか」と判定された生徒たちは、2年間ずっと成績がアップし続けた。中学入学の時点で両群の成績に差はなかった。
つまり、小学校の環境では成績にも試験の点数にも違いはなかったのに、中学で難しい問題にぶつかったとたんに、両群の成績に差が現れはじめたのだ。
硬直マインドセットの生徒たちは、成績低下の理由をどう説明しただろうか。
「ぼくはバカだから」「私は数学がダメだから」と自分の能力をなじる生徒が多かった。
また、そのような気持ちを隠して、「数学の教師はデブでいやなやつ、英語の教師はカッコつけてばかり」「先生の教え方がへたくそだから」と責任を転嫁する生徒も少なくなかった。
そんな言い訳をしても道は開けてこないのに。
それに対し、しなやかマインドセットの生徒たちは、同じような不安に苛まれながらも、全力で課題と向きあった。
もうダメかと思うときもあったが、やるべきことから逃げずに勉強に励んだのだという。
努力しない病硬直マインドセットの生徒たちは、小学校から中学への移行期を「脅威」と感じていた。
実際、硬直マインドセットの生徒にとって、思春期は自分の優劣が決まってしまう審判のときだ。
自分は頭が良いか悪いか。美しいか醜いか。スマートかダサいか。勝ち組か負け組か。
しかも、マインドセットがこちこちだと、敗者になったら最後、ずっと敗者のままでいるしかない。
当然、思春期の子どもの多くが、あの手この手を使って、学ぶのではなしに自我を守ろうとする。よく使われる手のひとつが努力をしないこと。
この年頃には、ナージャ・サレルノ・ゾネンバーグのように、優れた才能があっても努力を止めてしまう子が出てくる。
こうした「努力しない病」は、思春期の子どもが大人からの自立を主張する手段だと考えられているが、それは硬直マインドセットの子どもの自己防衛策でもある。
「さあ、おまえを秤にかけて能力の程度を調べてやろう」と言ってくる大人に、「そんなことされてなるものか」と抵抗しているのだ。
しなやかマインドセットの生徒たちは、そんな手を使ったりはしない。努力をやめても何の意味もないからだ。しなやかマインドセットの生徒にとって、思春期はまさにチャンスのとき。
新しいことを学んで、自分の好きなこと、将来なりたいものを見つける時期なのだ。
私たちは中学生にしなやかマインドセットを植えつけて、その生徒がどうなるかを調査する研究を行なった。
それについては後ほどくわしく述べるが、ここでは、マインドセットがしなやかになった生徒に、学習への意欲がよみがえってきたことを伝えておきたい。
ある日、研究に参加してくれる生徒たちにしなやかマインドセットについて説明していると、突如、ジミーという、どうにも無気力で投げやりな生徒が目に涙を浮かべてこう言ったのだ。
「ぼくはバカだと決まったわけじゃないんだね」その日を境にしてジミーはがらりと変わった。夜遅くまで宿題と格闘するなんて、生まれて初めてのこと。
そうやってきちんと早めに宿題を提出するようになったので、返されてから間違いを見直すこともできるようになり、ジミーはめざましい進歩をとげた。
それまでジミーは、必死に頑張らないとついて行けないのは恥ずかしいことだと思っていたのだが、頭はそうやって賢くしていくものだとわかったのだ。
高校から大学へ高校から大学への移行期もまた重大な転機となる。大学には高校の秀才たちが集まってくるので、昨日までのお山の大将が、その他大勢になる。
とりわけ厳しいのが医学生だ。不安と希望が渦まく中、初めて化学を受講する学生たちを追跡した研究のことはすでに前章で紹介した。
化学の成績には進学の可否がかかっているので、絶対に落とせない。
学期の初めに学生たちのマインドセットを評価した後、受講中ずっと、成績の推移を追いながら、どのように学習しているかを尋ねた。
この調査でもやはり、しなやかマインドセットの学生の方が成績が良かった。試験で一度失敗しても、すぐに立ち直って次の試験に備えることができたのだ。
一方、硬直マインドセットの学生は、一度失敗するとなかなか立ち直ることができなかった。どの学生もよく勉強したが、勉強方法に違いがみられた。
大多数の学生がやっているのは、まず教科書と授業ノートを読んで、わかりにくければもう一度読み返し、掃除機さながらに片っ端から丸暗記していく方法である。
硬直マインドセットの学生の勉強法はまさにこれだった。それで良い点が取れないと、化学は苦手だと思いこんでしまう。
「やれることはすべてやったんだから」と。とんでもない。しなやかマインドセットの学生の勉強法を知ったらびっくりするのではないか。私ですら驚いたのだから。
しなやかマインドセットの学生は、学習意欲をかきたてる方法を自分で工夫していた。
やみくもに丸暗記するのではなく「講義全体のテーマや基本原則をつかむ」努力をし、「ミスしやすいところは完全にマスターできるまで反復学習」した。
試験で良い点を取ることにではなく、しっかりと理解することに目標を置いていた。
じつは、これこそが良い成績をとれた理由なのであって、もともと頭が良かったわけでも、予備知識が豊富だったわけでもない。
味気ない授業やわかりにくい授業のときでも、「興味を持とうとした」「前向きな気持ちで授業に臨んだ」「勉強する意欲を失わないようにした」。
教科書が退屈であっても、講師の話がつまらなくても、やる気を失わず、その分よけいに自分を発奮させようとしていた。
しなやかマインドセットの学生は、「学ぶ」ことに重きを置いているので、効果的な学習方法をいろいろと試して工夫する。
それに対し、硬直マインドセットの学生は、良い成績を取ることばかりに気を取られて、どうしても学習のプロセスをおろそかにしがちなのだ。
だれでもみな「やればできる」のかマインドセットさえしなやかならば、だれにでも素晴らしい成績が上げられるのだろうか。
たとえば、もし地域の底辺校で大学レベルの微積分法を教える機会を得たとしたら、本人のマインドセットと教師の教え方しだいで常識を覆すことも夢ではない、ということになる。
ガーフィールド高校は、ロサンゼルスで最低レベルの高校だった。生徒たちにはやる気のかけらもなく、教師たちは疲れはてていた。
ところが、このメキシコ系が多いスラム街の高校に赴任してきた教師、ハイメ・エスカランテは、ためらうことなく大学レベルの微積分法を教えはじめたのだ(映画『落ちこぼれの天使たち』で有名な実話)。
しなやかなマインドセットを持つこの教師は、「教えられるだろうか」ではなく「どのように教えたらよいだろう」と考え、「生徒たちに理解できるだろうか」ではなく「どうすれば理解しやすくなるだろう」と考えた。
さらに、同僚のベンヤミン・ヒメネスとも協力して、彼はこの高校の数学のレベルを全米のトップレベルにまで高めた。
1987年、数学のAP(大学単位認定)テストの受験者数が全米の公立高校中、第4位となる。
これは、スタイベサント高校やブロンクス高校など、理数教育に力を入れているニューヨークのエリート校に次ぐものだった。
しかも、ガーフィールド高校生のほとんどが、大学単位認定を受けられる高得点をあげたのだ。
この年、メキシコ系アメリカ人で認定を受けられた者は全米で数百名にすぎない。
これは裏を返せば、潜在能力を過少評価され、知能を開花させられずにいる生徒がいかに多いかということでもある。
マーヴァ・コリンズの教育法通常の教育では、みんなに遅れをとった子──たとえば落第した子──には、レベルの低い内容しか教えようとしない。
高度なことなど理解できるはずもないし、頭が鈍いのだから同じことを繰り返したたきこむしかないという、硬直マインドセットの考え方からである。
けれども、新しいことを学ぶのではなく、すでに習ったことを丸1年かけて繰り返したところで、思わしい結果など得られはしない。
マーヴァ・コリンズのやり方は違っていた。
公立学校で落第したシカゴのスラム街の子どもたちを引き取って、才能豊かな子どもと同じように教育したのである。
その多くが「学習障害」「発達遅滞」「情緒障害」などのレッテルを貼られた子どもたちで、コリンズのもとに来た当初は何事にも無関心。眼に輝きはなく、表情もどんより暗かった。
小学2年生のクラスを受けもったコリンズが最初に用いたのは、これ以上簡単なものはないというくらい簡単な読み物だった。
けれどもその後、アリストテレス、イソップ、トルストイ、シェークスピア、ポー、フロスト、ディキンソンと進んで、学年末には5年生用教科書の半ばにまで到達した。
コリンズはやがて、自ら学校を創設する。
『シカゴ・サンタイムズ』のコラムニスト、ザイ・スミスがその学校に立ち寄ってみると、4歳児が「おいしゃさんにみてもらいなさい」「いそっぷのかいたおはなしです」といった文を書き、「二重母音」だの「発音記号」だのとしゃべっているではないか。
また、小学2年生の教室では、シェークスピアやロングフェロー、キプリングの一節を暗誦していた。
スミスがつい最近訪れた裕福な郊外の高校には、シェークスピアなんて聞いたこともないという生徒がぞろぞろいたのに。
「えっ、その高校の生徒たちは、シェークスピアが1564年に生まれて1616年に死んだことも知らなかったの?」とコリンズの教え子のひとりが言った。コリンズの学校の子どもたちは夏休み中にも膨大な量の本を読んだ。
6歳で「発達遅滞」と診断されて入学してきた子が、4年後には、『二都物語』や『ジェーン・エア』など、夏期休暇中に23冊もの本を読破。
読み方も深く、よく考えながら読んでいた。
3〜4歳児たちがダイダロスとイカロスの物語を読んでいるとき、4歳児のひとりが大きな声で言った。
「コリンズ先生、ぼくたちもちゃんと勉強しないと、イカロスみたいにどこかわからないところに飛ばされちゃうよね」。
『マクベス』についての熱い議論もごく普通に行なわれていた。
アルフレッド・ビネーは、人の頭脳の質は変えられると信じていたが、それはどうも本当らしい。
この子たちは、知識の幅広さから見ても、標準テストの成績から見ても、頭脳の質が完全に変化していた。
著名な教育心理学者、ベンジャミン・ブルームは、ピアニスト、彫刻家、オリンピック水泳選手、世界的テニスプレーヤー、数学者、神経学者など、ずば抜けた実績を持つ120名についての調査を行なった。
それによると、その大多数が幼少時には凡庸な子で、本格的な訓練を受けるようになるまで、きわだった才能は見られなかったという。
思春期初期の段階でもまだ、将来の成功を予見するのは難しかった。
さまざまな人びとに支えられながら、たゆみない努力と精進を重ねてはじめて、頂点にまで上りつめることができたのである。
ブルームはこう結んでいる。
「米国および他の国々の学校教育について、40年間にわたる綿密な調査を行なった結果、まず第1にわかったのは、学習できる環境があるかぎり、世界中のほとんどだれでも能力を伸ばすことが可能だということである」。
この中には、重症の障害を持つ2〜3パーセントの子どもと、何もしなくてもできてしまうような1〜2パーセントの子どもは含まれていない。
けれどもそれ以外の子はすべて、やればできる、と彼はいう。
現在のレベルと将来の伸びでもやはり能力差はあるのでは?テストの点数や成績はその子の能力レベルを示すものでは?そう思われる方も多いだろう。
でも思い出してほしい。
テストの点数や成績は、その生徒の現在のレベルを示すものであって、将来どこまで伸びるかを予測するものではない。
ドイツの研究者、ファルコ・ラインベルクは、教師のマインドセットの影響が生徒にどう現れるかを比較検討した。
教師の中には、クラスがスタートした当初の学力差がずっと続くと信じている、硬直マインドセットの教師もいる。
「私の経験では、生徒の成績は1年を通してほとんど変わらない」「生徒の知能がわかれば、学校での成績が正確に予測できる」「生徒の知的能力に、教師としての私が影響を及ぼすことはない」こうした教師たちは、硬直マインドセットの考え方で生徒たちを指導していた。
そのクラスの生徒はどうなっただろうか。学年の初めに成績良好群にいた子は、学年末にも良好群に、学年の初めに成績不振群にいた子は、学年末にも不振群にいた。
それに対し、どんな子でも学力を伸ばすことができると信じている教師たちは、しなやかマインドセットの考え方で生徒たちを指導した。すると、そのクラスでは不思議なことが起こった。
学年の初めに成績良好群、不振群のいずれにいたかに関係なく、どの子もみな学年末には成績良好になっていたのだ。このような結果を見るととても勇気づけられる。
やればできるという信念を持って指導にあたった教師のもとでは、生徒の学力差がなくなっていった。
それは、その教師たちが「できない」生徒の心をとらえて動かす方法を心得ていたからである。
芸術的才能は天賦のものか?
知能は生まれつきだと思っていても、訓練しだいで伸ばせますと言われれば、そうかなとも思う。
知能には言語能力、理数能力、論理的思考能力などいろいろな側面があるので、どれか1つくらいは伸ばせるような気がしないでもない。
けれども、芸術的才能はやはり天賦の才ではないだろうか。たとえば、絵を描くのが生まれつき上手な人と下手な人とがいるのではなかろうか。
『脳の右側で描け』(河出書房新社)を読むと、そんな思いは吹き飛んでしまう。
この本には、著者ベティ・エドワーズの短期デッサン講座に参加した人たちの受講前と後の自画像が、掲載されている。
左側が講座初日に描いたもので、右側が5日後の講座終了時に描いたものだ(次の絵を参照)。驚くべき進歩ではないだろうか。
初日の絵を見るかぎりでは、それほど芸術的才能に恵まれた人たちには思えない。
ところがほんの数日間の訓練で、全員がこんなに腕を上げるとは!上手な作品だけを選んで載せたわけではない、とエドワーズは念を押している。
それにしても、こんなに上達するものなのだろうか。
エドワーズも認めるように、大多数の人が、デッサン力は選ばれたひと握りの人だけが操れる、または操れるようになる魔法の力だと考えている。
けれどもそれは、デッサン力の要素を──それが習得可能なものだということを──理解していないからなのだ。
それは描くスキルではなく、見てとらえるスキルなのだとエドワーズは言う。線の角度、空間、位置関係、陰影明暗、そして全体をとらえる力。
そういった個々のスキルを習得した上で、それらを同時に働かせることができてはじめて絵が描ける。
日々の暮らしの中でこうしたスキルを自然に身につけてしまう人もいれば、努力して学びとって、統合しなければならない人もいる。
けれども、受講後の自画像を見ればわかるとおり、それはだれにでもできることなのである。
つまりこういうことだ──訓練をほとんど、あるいはまったく受けなくてもできてしまう人もいるが、だからといって、それ以外の人は訓練を受けてもできないというわけではない(場合により、もともとできた人よりもはるかにうまくできるようになる)。
この点をしっかり心に留めておく必要がある。
なぜなら、初期の作品を見ればもう、その人の才能や将来性までがわかると思いこんでいる、硬直マインドセットの人があまりにも多いからである。
危険なほめ方──優秀というレッテルの落とし穴
「やればできる、自分にはそれだけの潜在能力があるのだから」という気にさせるにはどうすればいいのだろう。
「頑張ってみよう、自分にはそれだけの価値があるのだから」と思わせるにはどうすればいいのだろう。
ほめればいいのだろうか。
私たちの調査では、8割以上の親が、子どもに自信をつけさせて成績を伸ばすには、子どもの能力をほめる必要があると答えている。
その考え方にはたしかに一理ある。けれども本当にそれでいいのだろうか。
これまで見てきたとおり、硬直マインドセットの子はすでに、自分の能力に関心が向きすぎるくらい向いている。
「自分は頭が良いだろうか」「賢く見えるだろうか」と。
もしここで能力をほめたら、ますますそこに関心が集中してしまうのではないだろうか。
「重要なのは能力があるかどうか」「成績から潜在能力までもわかる」とわざわざ告げているようなもの。
それはとりもなおさず、硬直マインドセットを刷りこむことではないだろうか。
作詞・作曲家のアダム・ゲッテルは、ブロードウェイ期待の新星と呼ばれてきた。
彼は『オクラホマ!』や『回転木馬』のような名曲を残した作曲家、リチャード・ロジャーズの孫にあたる。
息子の才能をほめちぎる母親をはじめ、だれもがこぞってゲッテルをほめそやす。
『ニューヨーク・タイムズ』の論評でも「大型新人の才能を見せつけてくれる」と絶賛された。
だがはたして、このような賛辞によって人は勇気づけられるものなのだろうか。この疑問に答えるべく、思春期初期の子どもたち数百人を対象に実験を行なった。
まず生徒全員に、非言語式知能検査のかなり難しい問題を10題やらせた。ほとんどの生徒がまずまずの成績。終わった後でほめ言葉をかけた。
ほめるにあたっては生徒を2つのグループに分け、一方のグループではその子の能力をほめた。
「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頭がいいのね」といったぐあい。
そう言われた子どもたちは、アダム・ゲッテルと同じく、有能というレッテルを貼られたことになる。
もう一方のグループでは、その子の努力をほめた。
「まあ、8問正解よ。よくできたわ。頑張ったのね」といったぐあい。
自分には何か優れた才能があると思わせないように、問題を解く努力をしたことだけをほめるようにした。
グループ分けをした時点では、両グループの成績はまったく等しかった。
ところが、ほめるという行為をおこなった直後から、両グループの間に差が出はじめた。
懸念されたとおり、能力をほめられた生徒たち(〈能力群〉と呼ぶことにする)はたちまち、硬直マインドセットの行動を示すようになったのだ。
次に取り組む問題を選ばせると、新しい問題にチャレンジするのを避けて、せっかくの学べるチャンスを逃してしまった。
ボロを出して自分の能力が疑われるかもしれないことは、いっさいやりたがらなくなったのである。
努力をほめられた生徒たち(〈努力群〉と呼ぶことにする)は、その9割が、新しい問題にチャレンジする方を選び、学べるチャンスを逃さなかった。
次に、生徒全員になかなか解けない難問を出した。
〈能力群〉の生徒たちは、自分はちっとも頭が良くないと思うようになった。頭が良いから問題が解けたのだとすれば、解けないのは頭が悪いからということになる。
〈努力群〉の生徒たちは、当然のように、なかなか解けないのだから「もっと頑張らなくちゃ」と考えた。解けないことを失敗とは思わず、自分の頭が悪いからとも考えなかった。
ところで、生徒たちは問題を解くことを楽しいと感じていただろうか。問題がうまく解けたあとは、全員が楽しいと答えたが、難問を出されたあと、
〈能力群〉の生徒たちは面白くないと答えるようになった。自分は頭が良いという評価が崩壊の危機に瀕しているときに、どうして楽しいなんて思えるだろうか。
〈努力群〉の生徒たちは、難問を出されてもいやになったりせず、むしろ難しい問題の方が面白いと答える子が多かった。では、問題の出来はどうだっただろうか。難問が出されてから、
〈能力群〉の生徒の出来はガクンと落ち、その後ふたたびやさしい問題が出されても成績は回復しなかった。自分の能力に自信が持てなくなり、スタート時よりもさらに成績が落ちてしまったのだ。
一方、〈努力群〉の生徒の出来はどんどん良くなっていった。
難問に挑戦したことでスキルに磨きがかかり、その後ふたたびやさしい問題が出されたときにはすらすら解けるようになっていた。
この調査は知能検査の問題を用いて行なっているので、能力をほめると生徒の知能が下がり、努力をほめると生徒の知能が上がったことになる。
ところで、このほめ方の影響力の調査から、もうひとつショッキングな事実が明らかになった。
生徒全員に「私たちはこれから他の学校に行きます。その学校の生徒に、どんな問題が出たかを教えてあげてください」と言って紙を配った。
その紙には自分の得点を書きこむ欄も作っておいた。信じがたいことに、〈能力群〉の生徒の4割近くが、得点を高めに偽って書いていた。
硬直マインドセットの子にとっては、間違えるのは恥ずかしいことなのだ。頭が良いのなら、なおのこと。それで点数をごまかしたのである。
「頭が良い」と言われると、普通の子どもでもウソをつくようになったことに不安を抱かざるをえない。
子どもに「あなたは頭が良い」と言ってしまうと、その子は自分を賢く見せようとして愚かなふるまいに出るようになる。
私たちはそんなことを望んで「頭が良い」「優秀」「才能がある」とほめるわけではない。
子どもからチャレンジ精神を奪い、成功への道を閉ざしてしまおうなんて、そんなつもりは毛頭ない。
けれども、実際にはそういう結果につながる危険をはらんでいるのである。私の研究を読まれた方からお便りをいただいた。
ドゥエック先生先生の論文を読むのはつらかった……まさに私のことが書かれていたからです。
子どものころ、私は英才児協会の会員で、いつも頭が良いとほめられていました。能力への期待に応えられないまま、はや49歳。でもようやくひとつの仕事に打ち込めるようになってきました。
失敗しても自分をダメな人間と決めつけず、それを糧にして技能を磨いていけばよいのだということもわかってきました。
新たな角度から自分を見られるようになったのは、先生のおかげです。セス・アブラムズ優秀な子というレッテルの落とし穴について述べてきたが、それにはまらないようにする方法もある。のちほど、第7章でもう一度、この話題を取り上げる。
ネガティブなレッテルほど強くはびこる
私は昔、数学がものすごく得意だった。高校時代には代数で99点、幾何で99点、三角法で99点を取り、数学クラブにも所属していた。
空軍の視空間能力試験で男子をしのぐ成績をあげたものだから、それから毎年、私のもとに空軍の募集要項が送られてくるようになった。
ところがちょうどその頃、ヘルマン先生という、女子に数学はできないと信じている先生に教わるようになって、私の成績は落ち、以来ずっと数学から遠ざかっている。
苦手のレッテルを貼るのが良くないことはだれでも知っている。けれども、その影響力の根深さはあまり認識されてない。
たとえば、アフリカ系アメリカ人は知能が低いと思われ、女性は数学や理科が苦手とされている。
このような型にはまった一般通念は、本人が気づかないうちに心の中に忍びこむらしい。
クロード・スティールとジョシュア・アロンソンの研究によると、人種や性別のチェック欄に印をつけただけでも、心に染みついたステレオタイプが呼びさまされて、試験の成績が下がるという。
自分は黒人(あるいは女性)であると意識させるようなことはすべて、黒人(あるいは女性)には苦手とされる科目の試験成績を大幅に下げてしまうのだ。
しかし、ステレオタイプが喚起されなければ、黒人と白人、女性と男性の試験成績に差は生じないことが多数の研究から明らかになっている。なぜこのようなことが起こるのだろう。
ステレオタイプが呼びさまされると、その通りになるのではという不安が生じて心が動揺する。
通常、本人はそのことに気づいていないが、もはや試験でベストを尽くせるほどの精神力は残されていない。
といっても、だれもがこうした影響を受けるわけではない。影響されるのはだいたいが硬直マインドセットの人たちだ。
「おまえは一生、能力の劣った集団の一員だ」というメッセージに、硬直したマインドセットの人だけが共鳴してしまうのである。
つまり、マインドセットがこちこちだと、どんなレッテルを貼られても平静ではいられないわけだ。
優秀というレッテルを貼られたら貼られたで、それがはがれたらどうしようかとおびえ、ネガティブなレッテルを貼られたら貼られたで、その通りだったらどうしようかと恐れる。
これが、マインドセットがしなやかならば、そうしたレッテルに振りまわされることはない。一般通念などはね返してしまえるからだ。
しなやかマインドセットの人は、自分は一生ダメだなんてけっして考えない。たとえ今はダメでも、努力すればきっと苦手や欠点を克服できると信じている。
しかも、マインドセットがしなやかならば、不利な立場におかれても、そこから吸収できること、吸収すべきことを吸収して成長の糧にすることができる。それを示す実験結果もある。
私たちはアフリカ系アメリカ人の学生に、論文コンテストに出す小論を書いてもらって提出させたあと、それを審査するのはアイビーリーグの有名教授で白人体制派の代表格、エドワード・コールドウェルであることを知らせた。
コールドウェルの審査評は辛辣だがたいへん示唆に富むもので、学生たちの反応はさまざまだった。
硬直マインドセットの学生たちは、彼の評価を脅しや侮辱あるいは攻撃だと見て、まったく受けつけようとしなかった。
たとえば、ある硬直マインドセットの学生はこう述べている。
「偏見に満ちていて、公正に見てくれない。私を嫌っているんです」こう述べた学生もいる。
「もったいぶったいやなやつ……ケチをつけたくてアラ探しをしたのだと思う」評価に難癖をつけた学生もいる。
「論旨明快な私の主張を理解してくれない。じっくり読んでくれないから曖昧だと感じるんじゃないですか。彼は独創的な意見を嫌ってますよ」コールドウェルの審査評から何かを学びとろうとした者はひとりもいなかった。
一方、しなやかマインドセットの学生たちは、やはり彼のことをうっとうしく思いつつも、その審査評には一目置いていた。
「評価をもらうまでは、横柄で押しつけがましい人かと思っていました。[評価を受けてからは?]まず思い浮かぶのが『公明正大』という言葉……新たな課題を提示されたような気がします」「傲慢で威圧的で、相手を見下すような人だという印象を受けた。
[評価については?]評価は正当で的確だと思う。より良い小論を書くための刺激になります」「尊大なまでにプライドの高い人らしい。
[評価は?]辛辣きわまりないけれど、明快でとても参考になるし、学ぶところが多いと思います」マインドセットがしなやかなアフリカ系アメリカ人の学生たちは、エドワード・コールドウェルをも目標に近づくための戦力にしていた。
教育を得るために大学に来ている以上、評者の人柄がどうであれ、吸収すべきものは吸収しようとしたのである。
帰属感と疎外感ステレオタイプの見方は、人の能力を損なうだけではなく、「ここは自分のいるべき場所ではない」という疎外感で人をつぶしてしまう。
大学を中途退学するマイノリティや、理数科目についてゆけなくなる女子学生の多くは、能力そのものにではなく、疎外感や違和感にドロップアウトの原因がある。
どうしてだろうか。それを突きとめるために、微積分コースを取っている女子学生の意識を追跡調査した。
この講座の成績は、数学や数学にかかわる職業の適性を判断する材料に使われることが多い。
受講中、女子学生たちに、数学に対する感情(数学のことを考えると楽しくなるか、不安になるか、数学を得意だと思っているか、苦手だと思っているか)や帰属感(クラスに溶けこんでいるか、浮いている気がしているか)を報告してもらった。
努力しだいで数学の力は伸びると信じているしなやかマインドセットの女子学生たちは帰属感がかなり強くて安定していた。
周囲から、女子は数学が苦手だと思われているのを感じても、その帰属感が薄れることはなかった。ある学生はこう語っている。
「新しい解法を用いて解いているのに、女子だからと、不正解にされてしまいました。どうも納得がいかず、論証の正しさを認めてくれない講師に不満を感じました。
でも、仲間同士で励ましあい、斬新なアイデアを出しあっては議論したので、楽しく学ぶことができました」ステレオタイプの見方をされて不愉快な思いはしても、それが疎外感や自信喪失につながることはなかった。
一般通念をはね返すことができたのである。
ところが、硬直マインドセットの女子学生たちは、授業が進むにつれてますます帰属感が薄れていった。
授業中に女子は数学が苦手だと思われているのを感じれば感じるほど、学習意欲がしぼんでいった。その理由について、ある学生はこう述べている。
「授業で正解するといつも教授に『よく当たったねえ』と言われるので、何だかバカにされている気がしました」マインドセットがこちこちだと、一般通念に引きずられて、自分はこんなものと思ってしまい、その結果、やる気や自信がそがれていったのだ。
一般通念に引きずられる本人が悪いと言うつもりはない。
偏見は、根の深い社会的問題であり、その犠牲になっている人たちを責めようとは思わない。
ただ、マインドセットがしなやかならば、周囲からどう見られていようとも、それをありのままに認めた上で、自信や能力を損なうことなくその偏見に立ち向かっていくことができるのだ。
他人の評価を真に受けてしまう女性の多くはステレオタイプの見方に影響されているだけでなく、他人の評価を真に受けやすいという欠点をも抱えている。
能力が高く、成績優秀な女性には、叩かれるとすぐにへこんでしまう人が多い。なぜだろう。
こうした女性たちほど幼い頃、だいたいがお利口さんで、みんなからほめられて育ってきた。
お行儀がいいわね、なんて可愛いんでしょう、よくお手伝いするのね、ものわかりのいい子だ、等々。
こうした女の子たちは他人の評価を疑うことを知らずに育つ。
「いつもみんながほめてくれるのだから、もし批判されたら、私が悪いにちがいない」と思ってしまうのだ。
米国の一流大学の女性たちでさえ、他人の評価は自分の能力をはかる良い目安になる、と述べている。
男の子はしょっちゅう叱られたり、お仕置きされたりしている。小学校の教室で観察したところ、男の子が叱られる回数は女の子の8倍に上った。
男の子は仲間同士でもしじゅうバカだのアホだのと言いあっていて、それに慣れっこになっている。
私は以前に、男性の友人から「バカ」と言われてショックを受けたことがある。
彼を夕食に招いたとき、食事中、ブラウスに食べ物をこぼした私を見て、彼が「バカじゃないの」と言ったのだ。
そのとき初めて気づいたのだが、それまで私にそんなことを言う人はひとりもいなかったのである。
男同士ではいつもそういう言葉をぶつけあっている。
冗談とはいえ、言われて嬉しかろうはずがない。
けれどもそのおかげで、他人の評価をそのまま真に受けたりせず、自分でよく考え直すようになる。
成功の頂点をきわめた女性でさえ、他人のちょっとした言動がもとで自己不信に陥ることがある。
フランシス・コンリーは世界的な脳神経外科医で、米国のメディカルスクール(医学部大学院)の脳神経外科で終身在職権を得た初の女性でもある。
そんな彼女でさえ、男性の同僚や助手たちがふともらす言葉のせいで自己疑念に駆られることがある。
ある日、手術中に男性スタッフから「ハニー」と呼ばれた彼女は、言葉につまって考えこんだ。
「ハニーだなんて、しかもこんな場で。
私は執刀医としての技量を認められているのだろうか」マインドセットがこちこちで、ステレオタイプに影響されやすい人が、他人の評価を真に受けるとどうなるか──女性が男性より理数科目に弱い理由はこのへんにあるのかもしれない。
こうしたハンデが如実に現れているのがハイテク業界である。
コンピューター技師を志すジュリー・リンチは、中学生の頃からコンピューターのプログラムを書いていた。
父親も2人の兄もテクノロジー業界で活躍しており、自分もそうなるのが夢だった。
ところが、プログラミングの講師にさんざん難癖をつけられる。
彼女の書いたプログラムは支障なく動いたのに、ショートカットを用いたことが講師の気に入らなかったのだ。
彼女のコンピューターへの関心は消え失せてしまい、結局、レクリエーションやPRの道に転向していった。
数学や科学の世界は、女性にもっと門戸を広げていく必要がある。
一方、女性の側も、このような分野で正当な職を得るためには、できるかぎりしなやかなマインドセットで臨むことが求められる。
マインドセットをしなやかにするには?
▼あこがれの人物を思い浮かべよう。
その人は、ほとんど努力せずに、何でもできてしまう、驚異的な能力の持ち主だと思ってはいないだろうか。
実際はどうか?その業績の陰にとてつもない努力があったことを知ろう。
そして、その人をいっそう素晴らしいと感じよう。
▼人が自分より優れた業績をあげたときのことを思い出そう。
その人は自分よりも頭が良くて才能が豊かだから、そうしたことができたのだと思ったのでは?次からは、才能の差ではなく、やり方が優れていたから、研究熱心だったから、懸命に練習したから、つまずいても挫けなかったからできたのだと考えよう。
あなたもやる気を出せば同じことができる。
▼どうせダメだとあきらめて、頭を働かせるのをやめてしまうことはないか?今度そういう気持ちになったら、しなやかマインドセットに切り替えてみよう。
結果を気にするのではなく、学んで向上していくことに関心を向けよう。
▼わが子にレッテル貼りをしてはいないだろうか?この子には芸術的才能がある、この子には科学者の素質がある、などとほめることが必ずしも良い結果をもたらすとは限らないことに注意しよう。
私たちの研究では、子どもの能力をほめると知能検査の得点を下げる結果になった。
子どものマインドセットをしなやかにするようなほめ方を考えよう。
▼ネガティブなレッテルを貼られた集団のメンバーが、世の中の半数以上を占めている。
まず女性しかり、何かの能力が劣るとされる集団のメンバーはみなそうだ。
そのような人たちにとって大きな力となるのが、しなやかマインドセットである。
マインドセットがしなやかならば、ステレオタイプな見方をされても、学習への意欲は損なわれない。
大人、子どもを問わず、周囲の人びとがみな、しなやかなマインドセットで暮らせる環境を作っていこう。
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