洞察25変化するときは「ゼロ」からの勝負
守るだけの自衛隊——。野村克也監督にそう評されていた私に転機が訪れたのは、入団から5年目を終えた1999年のオフのことだった。
宮崎県西都市で行った秋季キャンプで臨時コーチを務めた中西太さんの下で打撃改造に取り組むことになった。5年目の打率は2割4分8厘である。
自分なりに試行錯誤を重ねていたが、30歳を目前にして、このままでは数年のうちに選手生活が終わってしまうという危機感が強くなっていた。
プロ野球は入れ替わりの激しい世界だ。いつまでもチャンスを与えられるわけではない。今の形で続けていても、自分より若く、同じ程度の成績を残せる選手が出てくればすぐに定位置を奪われてしまう。
それならば、たとえ打撃改造に失敗して1割しか打てなくなってもいいから、3割を目指そう。
そう考えて取り組んだのが、今まで積み重ねてきたものを捨てて「ゼロベース」にすることだった。丁か半かの勝負に挑むのなら、それまでの感覚が変化の邪魔になってしまうと考えたからだ。
現役時代は首位打者に2回、本塁打王に5回、打点王に3回輝き、指導者としても多くの打者を育てた中西さんの打撃理論は、下半身を重視してボールを呼び込み、強くたたくというものだった。
「しっかり呼び込んで打てば、打球は飛ぶ。詰まることを恥ずかしがるな」打者は本来、打球が詰まることを恥ずかしいと感じる性質がある。
まして私のように非力なタイプは、詰まった打球を打つことで周囲から力負けしたと思われることを嫌がる。いかに詰まらないかを出発点に考えることが多いのだが、中西さんの指導法は全くの逆であった。
詰まることを恐れない。この発想の転換が私を変えた。キャンプでは最後まで球場に残り、中西さんが投げてくれるボールを日が暮れても打ち続けた。
シーズンが始まってからも神宮球場の室内練習場に一番乗りして打ち込んだ。次第に新しい打撃フォームが固まっていった。打撃フォームだけではない。
バットの形状もゼロから変えた。単純ではあるが、太い方がボールに当たるだろうと考えて、バットの根元付近を太くしたのだ。さらにはコンパクトに振れるようにとグリップエンドが膨らんでいるタイカップ型に変えた。
高木豊さん(元横浜)が使っていたバットをベースに改造したのだが、原型が分からなくなるほどだった。チームメートを見渡しても私ほど太いバットを使っているのはロベルト・ペタジーニぐらいだった。
打撃改造を始めた翌2000年、初めて3割を打つことができた。バットの形状は多少長さを調整するぐらいで、現役を引退するまでこのときのものを使い続けていた。
野村克也監督は「変化を恐れないのが一流」と話されているが、私は「変化」とは「勝負」を懸けることだと思っている。
安全を確保していては本当の意味で変化することはできない。丁か半かの勝負を懸けなければ、大きな成果を得ることはできない。
中西さんの指導を受けて変化することができたのも、それまでの実績を捨てて「ゼロベース」にすることができたからだった。
周りを見渡してみると、実績のない人ほど過去の小さな成功体験から離れられないように感じる。
「この方法で成果を残してきたから」と過去の考え方にとらわれ、変化を恐れてしまうことが多い。変化するべき潮目だと気付くことができるか。気付いたときに「ゼロベース」で勝負を懸けることができるか。それが成長の分かれ道になる。
ただ、忘れてはならないのは変化の前には自己分析が必要ということだ。自分の力量がどれほどあり、何が不足しているのか。現状を分析できていなければ、変化しようにも回り道となってしまう。
壁にぶつかっていた当時、中西さんという名伯楽に道を示してもらえたのは、大きな幸運だった。
のない人ほど過去の小さな成功体験から離れられないように感じる。「この方法で成果を残してきたから」と過去の考え方にとらわれ、変化を恐れてしまうことが多い。
変化するべき潮目だと気付くことができるか。気付いたときに「ゼロベース」で勝負を懸けることができるか。それが成長の分かれ道になる。
洞察26一つの転機が人生を変える
一つの転機が人生を大きく変えることがある。
2015年、2016年と史上初めて2年連続のトリプルスリー(打率3割以上、30本塁打以上、30盗塁以上、の全てをクリア)を達成したヤクルトの山田哲人にとっては、セカンドへのコンバートが転機になった。
2011年に大阪の履正社高校からドラフト1位で入団した山田は、当初はショートを守っていた。入団1年目の春季キャンプ初日。山田がキャッチボールをする姿を見て、これは少し時間がかかるかもしれないなと感じていた。
当時は送球に技術的な問題を抱えていたからだ。ボールを相手の胸に向かって投げる。キャッチボールというのは守備の基本動作である。
兼任コーチとして指導する中で痛感したのは、ボールを投げられない選手はいくら守備の技術を練習しても上達しにくいということだった。
それならば、守備の技術練習に入る前にとことんキャッチボールを練習させた方が良い。最近ではそう考えるようにさえなった。ボールを投げられないという選手は、どうしても捕球をしてからの動作に不安を抱えてしまう。
守備は捕球する、送球するという一連の動作の中で行われる。送球に精神的な不安を抱えたままプレーしていては、捕球にも悪い影響が出てしまう。
その例が、山田がセカンドとして試合に出始めた2013年6月9日の日本ハム戦(神宮)だった。チーム事情もあり、久しぶりにショートとして出場することになったのだ。
当時はファーストに投げる距離がショートよりも短いセカンドにコンバートされたことで、送球にも安定感が出始めていた。
首脳陣としてはセカンドで自信を持ち始めたことで、ショートとしてもプレーできるようになったと考えたのだろう。
城石憲之内野守備走塁コーチ(現日本ハム打撃コーチ)とは「やめた方が良い。また自信をなくしたらどうするんだ」と話していたが、チーム事情が優先されることになった。
試合が始まってすぐに、悪い予感は的中することになった。一回二死からの平凡なショートフライを山田が落球してしまったのである。
普段なら簡単に捕れるはずのフライを落とすというのは、精神的な不安を抱えているからである。その後も悪送球を重ねて、1試合で3失策した。
荒木貴裕も3失策して、2人で6失策という結果に、翌日は休みの予定だったのだが、守備の練習をすることになったのである。
この試合を機に山田はセカンドに固定され、今では守備もかなり上達している。ここ数年の活躍ぶりはご存じの通りだ。山田にとっては思い出したくない記憶だろうが、選手としては大きな転機となった試合といえるだろう。
必ずしも誰にでもこうした転機が訪れるというわけでないだろう。また、訪れた転機を生かしたのも山田の力といえる。転機が訪れたときに、好機に転換することができるか。訪れた転機をつかむためには、地道な練習を積み重ねるしかない。
野球教室でキャッチボールの重要性を教える際には「ヤクルトの山田哲人って知っているか?すごい選手だぞ。でも、投げるのが得意じゃないと、守るところが限られてしまうから、あれだけ打てないと、試合に出られないんだぞ」と話すようにしている。
洞察27配置転換を受け入れる
プロ野球の世界でも配置転換(コンバート)をされることがある。慣れ親しんだ場所から新しい場所への異動は、誰でも嫌なものだろう。
私が配置転換(コンバート)されたのは38歳を迎える2008年のシーズンだった。ショートからサードに守備位置をコンバートされたのだが、嫌な経験として記憶している。ショートというポジションには人一倍強いこだわりを持っていた。自分は打撃ではなく、守備を認められてプロになった選手だという自負があった。
一番守備がうまい選手が守るショートから外れるということは、選手としての価値が下がることを意味していたからだ。
前年の12月、就任したばかりの高田繁監督(現DeNAゼネラルマネジャー)から「一度、食事をしよう」と声をかけてもらった。前年の大学生・社会人ドラフトでは鬼崎裕司(現西武)、三輪正義と2人の内野手を指名していた。
正直なところ、ある程度はコンバートの話だろうと覚悟はしていた。
会食の席で高田監督からは「来年からサードを守ってもらうことを考えている。そのためにドラフトでショートを2人獲った。2人が使えなければ、当然ショートをやってもらうが、もし、うまくいったらコンバートを考えている。どうだろうか」という提案があった。
私がショートという守備位置にこだわりを持っているのは、高田監督も理解してくれていた。
「おまえがどうしてもショートをやりたいと言うのなら構わない」と配慮をしてもらったが、私の答えは「監督にお任せします」というものだった。
コンバートを受け入れることができたのは「しようがない」と思えたからだった。40歳が目前となり、現役を続けるのはあと2、3年だろうと考えていた。現役の終盤に文句を言ってもめるのは嫌だった。
一方で、自分が指導者の立場になったときにコンバートの経験が役に立つだろうという考えもあった。配置転換を拒否した人間が、指導者になってから部下に配置転換を指示しても言葉に説得力がない。
心情的には嫌だったが、将来的なことを考えれば配置転換を経験しておいた方がプラスに働く。高田監督自身も巨人での現役時代にレフトからサードにコンバートされた経験がある。
同じ内野手であれば時間があれば慣れることができるが、外野手が内野を守るのは並大抵のことではない。高田監督もチームとして必要な仕事と考えてコンバートを提案したはずだった。
私の後にショートを守ったのは日本ハムからトレードで入団した川島慶三(現ソフトバンク)だった。当時はチャラチャラした印象を抱いていたのでこちらからは何も言わなかったのだが、彼も気にしていたようだ。
初めて食事をした際に「守備を教えてください」と頭を下げてきた。そこで、こう言った。
「教えるなら、厳しく接することになる。『やっぱりやめた』と言うのなら、この食事が終わるまでに言ってくれ。責めたりはしないから」それでも川島は最後まで「教えてください」と言うので、翌日からは足の運びから教えるようになった。
嫌だったコンバートも今では感謝している。結局、2013年まで現役を続けることができたのは、肉体的に負担の少ないサードに配置転換されたおかげだったからだ。
高田監督には選手生命を延ばしてもらったと思っている。一般社会でも急な配置転換を命じられ、戸惑うことがあるのではないだろうか。愛着のある部署を離れることで、異動を命じた上司を疎む感情を抱くこともあるかもしれない。
ただ、組織の中で働いている以上、配置転換を拒否することに意味はない。変化を受け入れ、新しい場所でどう成果を残していけるか。変化を続けられた者だけが生き残ることができる。
洞察28海外ではスタイルを変える覚悟を
海外で戦う上では、適応力の有無が鍵を握る。これを体現していたのが、楽天から米大リーグのヤンキースに移籍した田中将大だった。
2014年の移籍当初は大リーグのボールや、硬いマウンドへの対応が難しいのではないかと思っていた。
その前年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表のエースと期待されながら、活躍することができずに終わった。
WBCで使用するのは、大リーグのボールを供給するローリングス社製のボール(日本のプロ野球はミズノ製)である。
縫い目が高く、滑りやすいのが特徴で、ボールの違いに順応できなかったのが原因と考えていたからだ。ところが、キャンプ、オープン戦で不安を解消すると、開幕から連勝を伸ばした。
一時は右肘の違和感で離脱したが、1年目から13勝5敗、防御率2・77の好成績を残した。
もともと田中自身の適応力が高かったのか、今回身に付けたのかは分からない。ただ、新しい環境に慣れるために相当な準備をしたのだろう。
前年に楽天でシーズン24勝0敗という記録を残しながら、日本でのやり方に固執せず、謙虚にメジャー流に適応した結果といえる。
来日する外国人選手にも同じことがいえる。日本人と積極的にコミュニケーションを取ったり、配球を研究したり、日本の野球に慣れようとする選手は成功することが多い。
逆に「俺はこれでやってきたのだから」と自分のスタイルにこだわる選手は、結果が残せずに1年で帰国してしまう。
海外で成功するには、時には、これまでのスタイルを変える覚悟が必要なのだろう。
適応力という部分で、大リーグで苦しんでいるのが日本人内野手だ。バッティングもさることながら、守備で大きな壁に当たっている。
肩や手首の強さという点では外国人選手に見劣りするため、ほとんどの選手が本来のポジションであるショート、サードから、よりファーストへの送球距離が短いセカンドに回される。
そして多くのケースで、ヒザに選手生活を左右するような大きな故障を負ってしまう。これはダブルプレーでベースを踏み捕球するとき、ベースの前で捕球するのが原因だ。
右足でベースを踏んだ際に左足をスライディングされるから、体の構造とは逆の方向に曲がってケガをしてしまう。
本職のセカンドはベースの後ろから左足で踏むので、スライディングを受けても転ぶだけですむ。そういう点で、守備が主体の日本人選手が大リーグで勝負したらどうなるのかという興味がある。
私自身、FA権を取得したときに一瞬だけ大リーグ移籍を考えたことがあった。
知人の代理人には「バックアップだったら獲る球団がある」と言われたが、控えなら面白くないと思い、それ以上は考えるのをやめた。
実際に見た海外のショートの中で「これはかなわないな」と思ったのは2人だけだ。一人は日米野球で対戦したオマー・ビスケル。もう一人はキューバ代表のヘルマン・メサだ。
メサは捕球してから投げるまでのタイミングが、どう考えても他の選手よりも速かった。なぜだろうと思って観察すると、捕球するときにすでに右足を引いて投げる体勢に入っていた。キューバの選手は幼い頃からでこぼこのグラウンドで練習するから、ハンドリングがうまい。
一方のビスケルはキャッチボールでグラブの土手(手首付近)に当てて素早く投げる練習をしていた。私も真似をしてみたのだが、「できた」と思っても手首の部分が赤く腫れてしまった。
あくまで適応とは手段である。誰かを真似ることもその一環だが、自分が培ってきた技量を異なる環境でいかに発揮するかが重要だ。
洞察29「欲」が変化の原動力
「きょうの反省点を言ってみろ」「バッティングですか?」「違う」「守備ですか?」「違う」2014年のシーズン中、ヤクルトの山田哲人と電話でこんなやりとりをしたことがあった。
8月31日の阪神戦(甲子園)だった。山田は一回に右中間寄りにヒットを打った。
センターの福留孝介が半回転して打球を捕ったのだが、山田は一塁ベースを回ったところで止まり、二塁を狙う素振りさえ見せなかった。
その夜、山田に電話をして「一回はセカンドまで行けただろう。あの場面で(二塁を)取る、取らないで試合展開は変わってくる。おまえはスーパースターになりたいんだろ?だったら、打つだけじゃなくて走攻守やろ」と話したのだった。
山田は同年のシーズンに両リーグ最多となる193安打を放った。
1950年に阪神の藤村富美男さんが記録した日本人右打者のシーズン記録(191安打)を64年ぶりに更新したのだという。
同年2月の春季キャンプで彼を見たときから、周囲には「山田は今年やるかもしれないぞ」と話していた。明らかに体つきが変化していたからだ。
入団3年目の2013年のシーズンには、94試合に出場して打率2割8分3厘の成績を残していた。ある程度試合に出場したことで、一軍でプレーする喜びを知ることができた。
その上でプレーヤーとしてもっと高みに達したいという「欲」が強くなったのだろう。
今までは純粋に「有名になりたい」と話していた彼が、実際に一軍の試合に出る中で想像通りにできないことや、想像よりもできることを経験できたことが大きい。
今の自分に何が足りないかを自覚してシーズンオフを過ごしたことが、一回り大きくなった体つきに表れていた。
技術面でいえば、2011年に履正社高校から入団してきた頃からスイングスピードが速く、インコースに強いという特徴があった。
プロに入ってから練習を重ねる中でアウトコースも打ち返せるようになり、余裕を持って打席に入れるようになったのが大きい。
左足を高く上げてタイミングを取るのに、ステップ幅が小さいから体の軸がぶれない。軸がぶれないから、体勢を崩されても軸の中でボールを捕えることができる。
山田の場合はバットから片手を離して泳いで打つようなシーンが少ないのも、軸がぶれていない証拠といえる。
打つ能力、走る能力に関していえば、私よりも断然上の素質を持っていた。だからこそ、山田には打つことだけに興味のある選手になってはほしくない。
64年ぶりに記録を塗り替えたのはもちろん素晴らしいことなのだが、チームは最下位に終わっているという現実がある。
山田はシーズン終盤になっても、1番バッターなのに制限をかけずに打たせてもらった。チームが優勝争いをしていれば、カウントによっては「待て」のサインが出ることもある。
スリーボールからでも打ってよかったのは、ベンチが記録を配慮してくれていたからでもある。その点ではチームに感謝しないといけない。
どんな仕事であっても優れた成績を残すと周囲がチヤホヤし、厳しいことを言ってくれる人は少なくなる。環境に甘んじてしまっては、成長は止まってしまう。
入団1年目のオフから自主トレに連れていった山田には「3年続けて成績を残して初めて一流やぞ」と言い続けてきたが、彼の胸にどう響いているだろうか。
もっと成果を残したいという「欲」を持ち続けることが、変化を続ける原動力となる。
洞察30読書が教える先人の知恵
特に予定のない日には、書店に向かうことがある。自宅から歩いて通える場所にある、それほど大きくはない書店だ。事前に目当ての本がないときには、ゆっくりと店内を歩いて回る。そんなときは大型書店より、小さな書店の方がいい。
新刊コーナーや話題の本を集めた陳列棚に目をやりながら、気になった本を手に取ることが多い。読書をするときにはジャンルにはこだわらないことにしている。
例えば、最近手にしたのは2016年本屋大賞を受賞した宮下奈都さんの『羊と鋼の森』(文藝春秋)だ。小説を読むこともあれば、哲学系の新書を読むことも多い。
それほど読書家というわけではないので、読書について書くのは気恥ずかしいものがある。もともと、幼い頃から本に親しんできたわけではなかった。むしろ、読書は苦手だったといってもいい。
少しでも内容が面白くないと感じると、途端に眠くなってしまうからだ。それでも、意識をして本を読むようになったのは、日本プロ野球選手会の選手会長になった頃からだった。
選手会の代表として経営者側と交渉をする場面が多くなった。ある程度は物事を知っておかなければ、スーツを着た経営者側と交渉することはできないと感じたからだった。プロ野球選手は移動時間が長い。
ベテランと呼ばれるようになると、20代のように移動時間全てを睡眠に充てることはできなくなった。時間を有効活用するためにも、本を読むようになっていった。
読書をするようになって思うのは、たとえ小説であったとしても、専門的な分野について入念に下調べをして書いているということだ。
『羊と鋼の森』でのピアノの調律師の話なら、調律師の仕事や暮らしぶりが描かれている。物語を楽しむというだけでなく、自分が経験したことがない世界を知る楽しさがある。
知人に薦められた本を読むことも多い。
ベストセラーになった『嫌われる勇気——自己啓発の源流「アドラー」の教え』と続編である『幸せになる勇気——自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』(いずれもダイヤモンド社)は、引き込まれた作品だった。
オーストリア出身の心理学者、アルフレッド・アドラーの心理学を対話形式で著した本だ。
「われわれは『これは誰の課題なのか?』という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある」と、同書には「課題の分離」という言葉が出てくる。
他者がどう評価するかは他者の課題であって、自分ではどうすることもできない。他者の期待を満たすために生きてはいけない。こんな風に考えて生きられれば、どれほど楽になるだろうと思ってしまう。
「自由とは、他者から嫌われることである」という考えは一見冷たいようでいて、温かくもある。
この2冊は翻訳版が海外でも売れているそうだ。
他に印象に残っている本といえば、日本航空名誉顧問の稲盛和夫さんが書いた『生き方——人間として一番大切なこと』(サンマーク出版)も胸に響くものがあった。
何気なく書店を歩く時間は、私にとって特別な時間となっている。読書は学生時代に勉強をきちんとしてこなかった私にとっては、物事を知るための大切なツールだ。先人の知恵や同世代の言葉には、生きるヒントがあふれている。
洞察31衰えを受け入れる
人間が勝てないものの一つに、年齢があるという。どんな天才でも平等に年齢を重ねるし、体力はいつか衰えてきてしまう。
スポーツの世界では「自分で年をとったと思うようになったら、選手としては終わりだ」と言われることがある。自身の肉体の衰えを認めることでモチベーションが下がり、自分自身で限界を作ってしまうからだろう。
とはいえ、この考え方は間違っていると思っている。
自分の年齢や加齢による衰えを受け入れなければ、何事も始まらない。自分の置かれた状況をシビアに分析しなければ、衰えに対応することはできないからだ。
現役時代の終盤には、身体的な衰えを感じることがあった。三十代後半を迎えた頃のことだ。以前は打席でできていたことが、急にできなくなってしまった。
それまでは追い込まれてからは基本的には変化球をマークし、ストライクゾーンに来たストレートはカットしてファウルにできれば良いという考え方だった。
ところが、ストレートにスイングが間に合わなくなってしまった。特に体から遠い外角のストレートはスイングスピードが要求されるため、バットに当たらないことが増えた。
ショックだったが、受け入れるしかない。そこで考えたのが発想自体を変えることだった。追い込まれてからは来たストレートを右方向に打とうと意識する。
そうすることで、ボールをとらえるポイントが捕手側に近くなる。ポイントが捕手側になったことで外角のストレートにも再び対応できるようになった。引退したシーズンにも変化があった。
今までは反応できていた内角のストレートに対応できなくなったのだ。内角をしっかり見ようとするあまりに左肩が開き、トップの位置も浅くなってしまう。打てる球まで打てなくなるという悪循環にはまった。
そこで考えたのは、今度は内角のストレートを「捨てる」ことだった。打てない球を追いかけるのはやめて、打てる球だけを待つ。
時にはクローズドスタンスに構えて、内角のストレートを視界から消した。これは思った以上に効果があった。内角のストレートを視界から消したことで、打席でどっしりと構えられる。
ボールが見えなければ、あっさりと見送ることができる。相手バッテリーからすれば、「見極められているのではないか」と必要以上に考えさせられることになる。
相手バッテリーとの心理戦でも優位に立ち、不振から脱出することができた。ヒントをくれたのは2004年に三冠王を獲得した松中信彦(元ソフトバンク)の一言だった。
食事をしたときに「宮本さん、利き目は右目ですよね?内角が気になり出すと、構えでも左肩が開くようになるから気を付けた方がいいですよ。年をとると、そういう傾向が出てきますから」と教えてくれた。
あまり一般的ではないが、目にも利き腕と同じように利き目がある。右打者の私が利き目の右目で内角のボールを見ようとするから、必要以上に左肩が開いてしまっていたのである。
さすが三冠王の観察眼は違う、とうなってしまった。
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