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第3章仕事と人間

目次

第3章仕事と人間

9新しい現実

肉体労働者から知識労働者へ

今日、少なくとも先進国では、労働人口のほとんどは被用者である。彼らは一人ではなく組織で働く。家の外で働く。今日の社会は被用者社会である。わずか一世紀前には、ほとんどの人、特に農民は一家で働いていた。

きわめて小さな集団のなかで働き、仕事は家を中心に行っていた。同時に今日、労働人口の中心は肉体労働者から知識労働者へと移った。あらゆる先進国で、労働人口のますます多くが、手だけを使って働くことをやめ、知識、理論、コンセプトを使って働くようになった。

知識労働者といえども、必ずしも高学歴は必要ない。文書のファイリングには、高度の知的能力や高等教育は必要ない。しかしその道具は、ハンマーや鎌ではなく、アルファベットという高度に抽象化した道具である。物ではなく記号である。

肉体労働者の危機

今日この変化が、肉体労働者と彼らの労働組合とに危機をもたらしている。過去二〇〇年にわたって、工場労働者は産業革命の息子として、経済的保障、地位、権力を得るために戦ってきた。特に第一次大戦以降の躍進にはめざましいものがあった。

この肉体労働者が、再び危機に立たされている。経済的な保障が脅かされているわけではない。むしろ経済的保障はさらに確立されていく。問題は、彼らの社会的地位と身分が急速に失われつつあることにある。

知識労働と知識労働者への移行に伴う肉体労働者の地位の変化は、一九世紀初めのプロレタリアとブルジョアの分裂よりも深刻な新しい階級分裂を生み、肉体労働者の組織である労働組合を危機に陥れる。肉体労働者は、組合の力を自らの力と同一視していた。

組合の指導者が権威を持つことを誇りにしていた。ところが今日の若い肉体労働者は、自らが拒絶されていると感じるがゆえに、組合指導者の権威を受け入れない。その結果、労働組合はますます力を失っている。抵抗され、否認されるようになっている。労働組合は弱体化しつつある。

しかし、マネジメントに対抗して、あるいは少なくともマネジメントを相手にして労働者を代表すべき機関は、労働者にとってばかりでなく社会にとっても必要である。マネジメントは、いかに選ばれ構成されようとも、一つの力である。そうでなければならない。

一方で、労働組合こそ、このマネジメントの力に対する特異にして例のない拮抗力である。労働組合の弱さが、マネジメントの強さを意味するなどと考えることは、完全な錯覚というべきである。

新しい挑戦

肉体労働者の問題は、社会にとっては重大であってもマネジメントにとっては小さな問題である。この点に関してマネジメントに望むべきは、過去の歴史が残した傷をふさぐことである。これに対し知識労働と知識労働者に関わる問題は、昨日ではなく今日と明日の課題である。まったく新しい種類の課題である。

知識労働のマネジメントには先例がない。知識労働は、昔から一人ないしは少人数で行われてきた。今日、知識労働は複雑な大組織において行われている。この意味で、今日の知識労働者は昨日の知識専門家の後継ではない。昨日の熟練労働者の後継である。

組織における知識労働者の地位、仕事、貢献は、いまだ明らかでない。知識労働のほとんどは、その生産性を測定することはもちろん、定義することさえできない。

かくして今日、われわれは仕事と人のマネジメントに関して、三つの挑戦に直面している。それは、①被用者社会の到来、②肉体労働者の心理的、社会的地位の変化、③脱工業化社会における経済的、社会的センターとしての知識労働と知識労働者の台頭である。

10仕事と労働

仕事と労働

先進国の生活水準を引き上げたのは、テイラーの科学的管理法(サイエンティフィック・マネジメント)である。テイラーは労働科学におけるアイザック・ニュートン、あるいはアルキメデスである。だが、彼の築いた基礎のうえにつけ加えられたものはまだあまり多くない。仕事についての研究に比べて、働く人間についての研究はさらに行われていない。特に知識労働者については、ほとんど研究されていない。

しかし学者の成果を待っているわけにはいかない。われわれは今日、マネジメントしなければならない。たとえ不十分であっても、すでにわかっているわずかなことを利用しなければならない。

マネジメントは、生産的な仕事を通じて、働く人たちに成果をあげさせなければならない。仕事と労働(働くこと)とは根本的に違う。仕事をするのは人であって、仕事は常に人が働くことによって行われることはまちがいない。

しかし、仕事の生産性をあげるうえで必要とされるものと、人が生き生きと働くうえで必要とされるものは違う。

したがって、仕事の論理と労働の力学の双方に従ってマネジメントしなければならない。働く者が満足しても、仕事が生産的に行われなければ失敗である。逆に仕事が生産的に行われても、人が生き生きと働けなければ失敗である。

仕事とは何か

仕事とは、一般的かつ客観的な存在である。それは課題である。存在するものである。したがって仕事には、ものに対するアプローチをそのまま適用できる。そこには論理がある。それは、分析と総合と管理の対象となる。

①仕事を理解するうえでまず必要とされることは、他のあらゆる客観的な事象を理解するための第一歩と同様、分析である。仕事の分析とは、基本的な作業を明らかにし、論理的な順序に並べることである。

②次に必要なことは、プロセスへの総合である。これは集団による仕事についていえる。個々の作業を一人ひとりの仕事に、そして一人ひとりの仕事を生産プロセスに組み立てなければならない。

③さらには、管理のための手段を組み込むことである。仕事とは、個々の作業ではなく一連のプロセスである。予期せざる偏差を感知し、プロセスの変更の必要を知り、必要な水準にプロセスを維持するためのフィードバックの仕組みが必要である。

労働における五つの次元

これに対して、働くことすなわち労働は人の活動である。人間の本性でもある。論理ではない。力学である。そこには五つの次元がある。

①生理的な次元がある。人は機械ではないし、機械のように働きもしない。一つの動作しかさせられないと著しく疲労する。心理的な退屈だけでなく、生理的な疲労がある。乳酸がたまり、視力が落ちる。反応が遅くムラになる。

単一の作業よりも、いくつかの作業を組み合わせたほうがよく働ける。それだけでなく、人は同じスピードとリズムで働くことに適さない。スピードとリズムを変えるとき、よく働ける。しかも、あらゆる人にとって共通のスピード、あるべきリズムというものはない。スピード、リズム、持続力は、人によって違う。

幼児についての研究でも、スピード、リズム、持続のパターンは、指紋のように違うことが明らかになっている。仕事は均一に設計しなければならないが、労働には多様性を持たせなければならない。スピード、リズム、持続時間を変える余地を残しておかなければならない。

仕事の手順も頻繁に変えなければならない。仕事にとって優れたインダストリアル・エンジニアリングであっても、人にとっては最悪のヒューマン・エンジニアリングとなる。

②心理的な次元がある。人にとって、働くことは重荷であるとともに本性である。呪いであるとともに祝福である。それは人格の延長である。自己実現である。

自らを定義し、自らの価値を測り、自らの人間性を知るための手段である。未来学者がユートピアとして描く労働のない社会は本当に実現するかもしれない。

しかしそのとき、人は人格の危機に直面する。労働の必要がなくなるとの予測を裏づける兆候が皆無であることは幸運とすべきである。

③社会的な次元がある。組織社会では、働くことが人と社会をつなぐ主たる絆となる。社会における位置づけまで決める。大昔から、働くことは、集団に属して仲間をつくる欲求を満たす手段だった。

アリストテレスが、人は社会的動物であると言ったのは、人は社会との絆のために働くことを必要とすると言ったのである。もちろん、社会における人の位置づけと役割は、職場における人の機能だけで決められるのではない。多くの人は職場以外のコミュニティを持つ。

しかし働くことは、ほとんどの人にとって、社会との重要な絆である。しかも働くことを通じての社会との結びつきは、ときとして家族との結びつきよりも意味を持つ。このことは、若い独身者や、子供たちが独立した後の年配者についていえる。

④経済的な次元がある。労働は生計の資である。存在の経済的な基盤である。しかもそれは、経済活動のための資本を生み出す。

経済活動が永続するための基盤をもたらし、リスクに対して備え、明日の職場をつくりだし、明日の労働に必要な生計の資を生み出す。すなわち、いかなる経済においても、賃金部分と資本部分はともに必要である。

資本部分は、賃金部分にあたる労働者の今日の生計のニーズと直接競合する。この対立は、市場経済、計画経済のいずれであろうと、私有、国有、従業員所有のいずれであろうと避けられない。

⑤政治的な次元がある。

集団内、特に組織内で働くことには、権力関係が伴う。組織では、誰かが職務を設計し、組み立て、割り当てる。労働は、順序に従って遂行される。組織のなかで、人は昇進したりしなかったりする。こうして誰かが権力を行使する。

労働に伴うこれら五つの次元、すなわち、生理、心理、社会、経済、政治の各次元は、それぞれまったく別種のものである。

これまでのアプローチの誤りは、これらの次元の一つだけを唯一のものとしたところにあった。マルクスをはじめとする多くの経済学者は、経済的次元が他のすべての次元を支配するとした。経済関係さえ変えれば、疎外の問題もなくなるとした。

これに対しエルトン・メイヨーは、職場における人間関係、つまり心理的次元と社会的次元が支配的な次元であるとした。たしかに彼の言ったように、「手だけを雇うことはできない。人がついてくる」。

だが現実には、仕事が集団内の人間関係を左右する。われわれは、これら五つの次元とそれらの関係について、今日以上に知らなければならない。不可能とさえ思われるかもしれない。

だがわれわれは、今日マネジメントしなければならない。仕事の生産性をあげ、働く者に成果をあげさせるために、なんらかの解決策を、あるいは少なくとも調整策を見出さなければならない。

11仕事の生産性

生産性向上の条件

自己実現の第一歩は、仕事を生産的なものにすることである。仕事が要求するものを理解し、仕事を人の働きに即したものにしなければならない。

科学的管理法すなわち仕事の客観的な組み立ては、自己実現に矛盾しない。別のものであっても、補い合うものである。仕事を生産的なものにするには、四つのものが必要である。すなわち、

①分析である。仕事に必要な作業と手順と条件を知らなければならない。

②総合である。作業を集めプロセスとして編成しなければならない。

③管理である。仕事のプロセスのなかに、方向づけ、質と量、基準と例外についての管理手段を組み込まなければならない。

④道具である。

成果を中心に考える

さらに基本的なこととして、成果すなわち仕事からのアウトプットを中心に考えなければならない。技能や知識など仕事へのインプットからスタートしてはならない。それらは道具にすぎない。

いかなる道具を、いつ何のために使うかは、アウトプットによって規定される。作業の組み立て、管理手段の設計、道具の仕様など必要な作業を決めるのは成果である。これらのことは、これまで肉体労働についてのみ研究され、開発されてきた。

ほとんどの人が肉体労働に携わっていたからである。生産物のほとんど全部が、肉体労働によってつくられていた。

しかし今日、肉体労働は重要性を失いつつある。今日では、肉体労働に対するのと同じアプローチ、コンセプト、原理を肉体労働以外の仕事に適用しなければならない。

すでに肉体労働のためのものが、大きな修正もなしに、情報の処理つまり事務の仕事に適用されることが明らかになっている。サービスの仕事も、そのほとんどは、物を生産する仕事と大差はない。

意外なことかもしれないが、肉体労働と同じアプローチ、原理、方法は、既存の知識の習得と応用という仕事にも適用できる。肉体労働についての体系的な方法論を適用できるかどうかが明らかでない唯一の分野は、発明や研究など新知識を生み出すための活動である。

しかし、適用できると信じるにたる理由はある。事実、一九世紀におけるもっとも生産的な発明家エジソンは、体系的な方法によって、発明という仕事の生産性をあげた。

彼は常に、欲する製品を定義することから始めた。次に発明のプロセスをいくつかに分解し、相互関係と順序を明らかにした。プロセスのなかのキー・ポイントごとに管理手段を設定した。そして基準を定めた。

今日のところ、われわれは断片的な事例をいくつか手にしているにすぎない。それらは、可能性を示すには十分であっても、全貌を明らかにするには十分ではない。方法論というものに限界があることは言うまでもない。作家としての具体的な仕事は方法論の枠内にあるとしても、ビジョンは方法論の枠外にある。

しかし科学上、もしくは産業上の新知識を求めるための組織的な探求の活動のほとんどは、そのような方法論の枠内に収まるはずである。

12人と労働のマネジメント

X理論とY理論

人と労働のマネジメントに関する文献は、少なくともその数では、経営科学やコンピュータに関する文献にひけをとらない。それらのうちもっとも読まれ、もっとも利用されているものが、ダグラス・マグレガーのX理論とY理論である。

マグレガーは、人と労働について二つの理論を示した。X理論と名づけた伝統的な見方は、人は怠惰で仕事を嫌うとする。強制しなければならず、自ら責任を負うことのできない存在とする。

これに対してY理論と名づけた見方は、人は欲求を持ち、仕事を通じて自己実現と責任を欲するとする。X理論は人を未熟な存在とし、Y理論は人は成人たることを欲する存在であるとする。

マグレガー自身は、二つの見方を示しただけで、いずれが正しいとは言わなかった。だが、彼がY理論を信じていると考えない読者、あるいはそのように仕向けられなかった読者はいなかったはずである。

現実は、マグレガーの追随者が考えているほど単純ではない。強い者さえ、命令と指揮を必要とする。弱い者はなおのこと、責任という重荷に対して保護を必要とする。世界は、大人だけから成っているのではない。

マズローも、永遠に成熟しない人間があまりに多いと言っている。そのうえ、精力的な人もいれば怠惰な人もいる。同じ人が、違う状況のもとで違う反応を示す。

アメとムチ

アメとムチによるマネジメント、すなわちX理論によるマネジメントはもはや有効ではない。先進社会では、肉体労働者にさえ通用しない。

知識労働者に対しては、いかなる国でも通用しない。マネジメントの手に、もはやムチはない。アメさえ人を動かす誘因とはなりえなくなった。それでは、報酬というアメと恐怖というムチに代わるべきもの、新しい現実に合ったアメとムチは手にできるか。

心理的支配

産業心理学は、そのほとんどがY理論への忠誠を称する。自己実現、創造性、人格をいう。だが、その中身は心理操作による支配である。

その前提たるや、X理論のものである。人は弱く、病み、自らの面倒を見られない。恐れ、不安、抑圧に満ちた存在である。自己実現ではなく失敗を欲す。支配されたがる。したがって、人というものは彼自身のために支配されなければならない。

飢えの恐怖や物質的な報酬によってではなく、疎外の恐れや安定への希求によって支配されなければならない。たしかに、これはX理論よりも進化している。かつてのアメとムチはキメのあらい強制にすぎない。

しかしいかに進化したといっても、これが支配であることには変わりない。そのような支配は、進化していると否とにかかわらず、心理学の濫用である。

心理学によって人を支配し操作することは、知識の自殺である。嫌悪すべき支配形態である。かつての主人は、奴隷の肉体を支配することで満足していた。ここでは、心理学の利用の適切さや道徳性は問わない。

心理的支配の可能性についてのみ見てみよう。心理的支配は、マネジメントにとって魅力があるに違いない。それはマネジメントに対して、これまでと同じように行動してよいという。必要なものは新しい言葉だけである。

しかも、それはマネジメントをよい気持ちにさせる。ところが現実には、いくら心理学の本を読みセミナーに出席しても、この新しい心理学的X理論の採用にはなかなか踏みきれない。この用心深さは健全な本能による。

心理的支配が有効たりえないのは、二〇〇年前の啓蒙主義が政治的に有効たりえなかったのと同じである。その原因も、同じである。ともに支配する側に万能の天才を必要とするからである。心理学の言うところによれば、マネジメントはあらゆる人を熟知しなければならない。

あらゆる心理学的手法に通暁しなければならない。部下全員に共感を寄せなければならない。あらゆる人の性格的構造、心理的欲求、心理的問題を理解しなければならない。言い換えると、マネジメントは全知全能でなければならない。

仕事のうえの人間関係は、尊敬に基礎を置かなければならない。これに対し心理的支配は、根本において人をばかにしている。伝統的なX理論以上に人をばかにする。心理的支配は、人を怠惰で仕事を嫌う存在とは仮定しないが、マネジメントだけが健康で、他の者はすべて病気であると仮定する。

マネジメントだけが強く、他の者はすべて弱いとする。マネジメントだけが知識を持っており、他の者はすべて無知であるとする。マネジメントだけが正しく、他の者はすべてばかであるとする。まさに傲慢で、ばかげた仮定である。

有効な方法は何か

では、何が有効な方法か。それはマグレガーのY理論ではない。人は機会さえ与えられれば、成果をあげるべく働くなどと仮定することはできない。強者に対してさえ、責任の重荷を背負わせるには多くのものが必要である。

もちろん人を追い立てることに依存することはできない。アメにもムチにも依存することはできない。しかも、X理論における命令と保護による安定に代わるべきものを与えなければならない。そのような組織とは、いったいいかなるものか。

それはいかに機能するか。幸い、それを推測する必要はない。そのような組織は現実に存在し、研究することができる。一般に、働くことと働く者の歴史は、とりたてて幸福なものではなかった。

しかし例外はあった。働くことが成果と自己実現を意味した時期や組織があった。その典型が、国家存亡のときだった。働く者は、自らが大義に貢献していることを自覚していた。ダンケルク撤退後のイギリスがそうだった。

第二次大戦参戦後のアメリカがそうだった。仕事が変わったわけではない。上司が特に知的になったり、人間的になったわけでもない。

しかし当時は、限られた期間だったにせよ、働くことから得られる充実感が完全に変化していた。しかし、これは国に重大な危機が訪れなくとも、あるいは外部から刺激を受けなくとも起こしうることである。

日本企業での成功

日本での成功事例の特徴は、一九二〇年代から三〇年代にかけ大組織向けに開発されたものである。①日本でも、インダストリアル・エンジニアは、仕事の研究や分析のために、欧米と同じ方法、道具、技法を使っている。

しかし、彼らは職務の設計は行わない。仕事の内容を明らかにした段階で職場に任せる。

②あらゆる人間しかもトップマネジメントまでもが、退職するまで研鑚を日常の課題とする。

③終身雇用制を持つ。少なくとも大企業では、ひとたび雇われれば職場が保証される。

④福利厚生が、少なくとも賃金と同じ程度に重視される。

⑤強力なリーダーを育てるようには見えない。凡庸なために選ばれ、波風を立てない小心な者を育成するうえで理想的に見える。

わずか二〇年の間に、世界二位の経済大国を築いた独立心に富む攻撃的なトップマネジメントが、この制度で生み出されたとは信じがたい。

しかし日本では、終身雇用のもとで解雇されないため、また最初の二五年はもっぱら年功序列によって昇進させられるため、若い者の面倒を見、育てることこそ、マネジメントの第一の責任とされている。

⑥組織のあらゆる階層において、意思決定が何を意味するかを考え、責任を分担することが期待される。組織全体のために責任を果たす観点から考えることが期待される。意思決定のプロセスそのものへの参加ではない。

意思決定を考えることへの参加である。権限による参加ではない。責任による参加である。これら日本の慣行は古来のものではない。

第二次大戦以降とまではいわないが、一九二〇年代以降のものである。だがそれは、日本の基本的な信条と価値観を反映している。そのまま欧米の土壌に移植することは不可能である。

しかし根底にある考えは、日本特有のものではない。同じ考えは、欧米でも同じように効果をあげている。

ツァイス方式の秘密

一九世紀のドイツ経済の興隆期にあって、光学産業が果たした役割は大きい。それは主として、ツァイスのイエナ工場がつくりあげたといってよい。

カール・ツァイス(一八一六一八八八)は、レンズの製作を家業とする職人だったが、偉大な発明家であり、イノベーターだった。彼は、大学出の物理

学者エルンスト・アッベ(一八四〇一九〇五)とパートナーシップを結んだ。一八八八年、ツァイスを引き継いだのが、このアッベだった。

アッベは科学者出身の最初の発明家として、驚くほど生産的だった。精密レンズの製作にイノベーションをもたらした。だがその最大の偉業は、発明や企業経営ではなく、働くことと働く人のマネジメントにあった。

ツァイスのアッベは、テイラーとは無関係に、科学的管理法としか名づけようのない仕事の分析を行った。光学ガラスを製造し精密レンズに加工するうえで必要なプロセスを分析し、この二つのプロセスを統合した。

彼は、ヘンリー・フォードが二〇年後に行ったように、働くことを組織するところまでは行わなかった。職務を編成する責任を実際に仕事をする人たちに負わせた。理論と技能を説明し、彼ら自身で職務を編成することを求めた。

十分な質と量の光学ガラスを、顕微鏡、カメラ、眼鏡といった日用器具に使えるだけの低コストでつくるには、新しい機械と工具が必要だった。アッベは大学出の科学者や技術者の助けを得た技能者たちに、その開発に取り組ませた。

ツァイスが長年の間世界的な独占を享受した裏には、何よりもまず、この働く者たち自身が設計し、あるいは改良した機械と工具があった。アッベはまた、継続訓練を導入した。ドイツの産業界は、一八八〇年ころには徒弟訓練を体系化していた。

親方のもとでの教育と学校での訓練を組み合わせたものだった。彼はこれに加えて、体系的な訓練講座を開き、在職中ずっと参加させた。研究集会も開かせた。技能者といえども、技術者、化学者、設計者とともに、作業方法の改善、新製品の開発、工程と技術の改良について研究すべきものとした。

アッベは日本企業よりも進んでいた。働く者は、製品や仕事について、情報のフィードバックを必要としていると考えた。働く者自身が、自らの仕事を管理しなければならないと繰り返し言っていた。ツァイスでは、正式な雇用の保証はなかった。アッベも技術者たちも、無能な者を忠実さだけで雇っておく慣行は真摯でないと拒否したに違いない。

しかしツァイスでは、業績をあげることを学び意欲のあることを示しさえすれば、景気変動に関わりなく雇用を保証していた。アッベは遺言で、経営権と所有権をツァイスに働く者全員を受益者とする財団に譲った。

これは労働者管理ではなかった。エルンスト・アッベ財団は、マネジメントとその任命による理事によって運営された。働く者の福利厚生のために資金を出した。福利厚生は、子弟の奨学金、医療補助、住宅手当など従業員のニーズに応じて実施された。

IBMの試行錯誤

IBMの創立者トマス・J・ワトソン・シニアは、あるとき、一人の女性が機械に向かって座ったままでいるのを目にした。なぜ仕事をしないのかと聞くと、「工具を替えてくれるのを待っています」と答えた。

「自分ではできないのですか」と聞くと、「できます。でも、しないことになっています」との答えが返ってきた。ワトソンは、多くの者が毎週何時間もの間、工具係を待つために時間を無駄にしていることを知った。

機械の組み立てを習得するには、数日の訓練で十分だった。こうしてIBMでは、機械の組み立てを新しい職務として追加した。その後、完成部品の検査も新しい職務とした。このような職務の拡大によって、製品の質と量において予期せぬ改善がなされた。

そこでIBMは、職務の拡大に体系的に取り組むことになった。個々の作業を可能なかぎり単純に設計し、誰でもそれらの作業をこなせるよう訓練した。それらの作業のうち少なくとも一つは、熟練技能や判断力を必要とするものにした。

複数の作業を行わせることによって、仕事のリズムに変化を持たせた。生産性は大幅に向上した。働く者の姿勢にも大きな変化が表れた。同社では、働く者が職務に誇りを持つようになったことが最大の収穫だったとしている。

IBMは監督の職務も変えた。今日IBMには、伝統的な意味での監督はいない。監督や職長の代わりに現場アシスタントがいる。その職務は、実際に働く者が仕事を理解し、そのための道具を使えるようにすることである。

アシスタントはボスではない。IBMの第二のイノベーションも、半ば偶然によってもたらされた。IBMが最初のコンピュータを一九四〇年代後半に開発したとき、需要が多かったため、エンジニアリングが終わらないうちに生産を開始しなければならなくなった。

エンジニアリングは、生産現場で技術者と技能者が協力して行った。その結果生まれたのが、きわめて優れたエンジニアリングだった。安く、速く生産できるようになっただけでなく、エンジニアリングに参加した者たちが生産性の高い優れた仕事ぶりを示した。

これらの例は、いわゆる民主的マネジメントではない。参加型民主主義でもない。日本企業ではボスが誰かははっきりしている。

アッベもワトソンも自らの決定を押しつけることを躊躇しなかった。これら働くことに関わるマネジメントの成功物語は、現代のイズムなどよりも、はるかに重要なことを示している。

家族的マネジメント、参加型マネジメントなどの自称万能薬を含め、これまでの理論のほとんどは、「権限」の組織化に焦点を合わせてきた。これに対して、日本企業、ツァイスのアッベ、IBMのワトソンは、働くことのマネジメントの基礎として「責任」の組織化を行った。

13責任と保障

仕事に焦点を合わせる

およそ人が責任という重荷を負うためには何が必要か。いかなる手立て、誘因、保障が必要か。責任に応じてもらうために、企業やマネジメントは何をしなければならないか。焦点は、仕事に合わせなければならない。

仕事が可能でなければならない。仕事がすべてではないが、仕事がまず第一である。たしかに働くことの他の側面が不満足であれば、もっとも働きがいのある仕事さえ台なしになる。ソースがまずければ、最高の肉も台なしになる。

だが、そもそも仕事そのものにやりがいがなければ、どうにもならない。これは、子供にもわかるほど明らかなことである。

しかしこれまでの歴史を通じて、働くことと働く者への取り組みは、すべて仕事以外の要素に焦点を合わせてきた。マルクス主義者は、所有関係に焦点を合わせ、仕事の構成や働く者のマネジメントに手をつけなかった。

家族的マネジメントの信奉者は、住宅や医療などの福利に焦点を合わせた。だが、それらのものは重要ではあっても、やりがいのある仕事に取って代わるものではない。

ドイツの労働組合が要求している共同決定方式なる解決策も、労働組合の代表を取締役会やトップマネジメントに送り込みはしても、働く者の仕事ぶりにはなんら関係がない。

三つの条件

働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならない。そのためには、①生産的な仕事、②フィードバック情報、③継続学習が不可欠である。

第一に、仕事を分析せず、プロセスを総合せず、管理手段と基準を検討せず、道具や情報を設計せずに、仕事に責任を持たせようとしても無駄である。このことは、独創性のスローガンには反する。

人は束縛から解放されれば、専門家よりも優れた生産的な答えを出すとの考えは昔からある。一八世紀のルソーの前からある。だが、その正しさを支持する証拠はない。独創性といえども、基礎的な道具があって初めて力を発揮する。われわれの知るかぎり、正しい仕事の構成は直観的に知りうる代物ではない。

働く者に責任を持たせるための第二の条件は、成果についてのフィードバック情報を与えることである。自己管理が可能でなければならない。自らの成果についての情報が不可欠である。

第三の条件は、継続学習である。継続学習は、肉体労働と同様、事務労働にも必要である。知識労働にはさらに必要である。知識労働が成果をあげるためには専門化しなければならない。

したがって、他の専門分野の経験、問題、ニーズに接し、かつ自らの知識と情報を他の分野に適用できるようにしなければならない。経理、市場調査、企画、ケミカル・エンジニアリングのいずれにせよ、知識労働に携わる作業者集団は、学習集団とならなければならない。

これら三つの条件、すなわち生産的な仕事、フィードバック情報、継続学習は、働く者が自らの仕事、集団、成果について責任を持つための、いわば基盤である。したがって、それはマネジメントの責任であり、課題である。

しかし、それら三つの条件は、マネジメントの大権すなわちマネジメントだけが一方的に取り組むべき課題ではない。これら三つの条件すべてについて、実際に仕事をする者自身が始めから参画しなければならない。

仕事、プロセス、道具、情報についての検討に始めから参加しなければならない。彼らの知識、経験、欲求が、仕事のあらゆる段階において貴重な資源とならなければならない。仕事をいかに行うべきかを検討することは、働く者とその集団の責任である。

仕事の仕方や成果の量や質は、彼らの責任である。したがって、仕事、職務、道具、プロセス、技能の向上は、彼らの責任である。これは厳しい要求である。

しかし、満たすことのできる要求である。IBMの例を典型として、彼ら実際に働く者は、インダストリアル・エンジニアなどよりも、はるかに高い目標を設定し、しかもその彼ら自身が決めた目標以上の成果をあげていく。

それは、仕事が遊びになるからではない。遊びになどなってはならない。たしかに心理的な要因は大きな役割を果たす。だが、動機づけだけがその原因ではない。

自らや作業者集団の職務の設計に責任を持たせることが成功するのは、彼らが唯一の専門家である分野において、彼らの知識と経験が生かされるからである。

仕事を生産的なものにするうえで独創性に期待することは夢想である。必要なものは、実際に働く者の知識と技術である。彼らこそ唯一の専門家である。仕事とは総合的なものである。

職場コミュニティにおける責任

工場や事務所には職場のコミュニティがある。働く者に仕事の成果をあげさせるには、この職場コミュニティに実質的な責任を与える必要がある。

マネジメントが職場コミュニティに関わる問題について意思決定を行うことは、職場コミュニティにとっては重要であっても、マネジメントにとっては重要でない問題をマネジメントが背負い込むことを意味する。

従業員食堂、休暇の調整、レクリエーション活動などの問題である。ほとんどの企業で、マネジメントがこれらの問題を処理している。

金をかけ、能率を悪くし、摩擦と不満の種をつくりだしている。意思決定は適切ではなく、運営はうまくいかない。それは、これらの仕事が、マネジメントにとって重要でなく、大事に扱うに値していないからである。

だがこれらの活動は、職場コミュニティとそのメンバーにとっては、重要な生活上の問題である。運営がうまくいかなければ士気が低下する。しかも、その運営が上からのものであるかぎり、いかにうまく行っても士気は向上しない。

これらの活動に関わる責任は、職場コミュニティに任せるべきである。そのうえこれらの活動は、リーダーシップを発揮し、責任を持ち、認められ、学んでいくよい機会である。特にリーダーシップを発揮する機会が職場コミュニティに存在しないとき、能力、エネルギー、野心は、マネジメントや職場コミュニティに対立する形で発揮される。

当然、否定的、破壊的、扇動的な形をとる。職場コミュニティの自治は民主的でなくてよい。民主的であってはならないかもしれない。権限や任務は、日本企業やツァイスのように、年功によって決定してよい。

重要なことは、職場コミュニティの問題は自治でなければならないということである。意思決定の責任は、その意思決定の影響に直接関わるところに与えなければならない。誰もがマネジメントであるわれわれは、働く者と働くことのマネジメントについて、答えをすべて持っているわけではない。

組織社会は最近のものである。人類の歴史では、ついこの間まで被用者はわずかにすぎなかった。人を動かすためのアメとムチが効力を失ったのは、さらに最近のことである。高学歴の労働力が出現したのもごく最近である。

われわれは、何が問題かを知っている。アプローチの仕方も知っている。完全な実現は不可能かもしれないが、目指すべき目標も知っている。誰もまだ、働く者に対して、「仲間のマネジャー諸君」とは呼びかけていない。そのようなことは今後もないかもしれない。

しかし、それこそが目標である。今後も、マネジメントの権限と権力、意思決定と命令、所得の格差、上司と部下という現実は残る。これらのものは存在し続ける。

しかしわれわれには、誰もが自らをマネジメントの一員と見なす組織をつくりあげるという課題がある。

身分の保障

とはいえ、仕事と収入を失う恐れがあるなかで、仕事や集団、成果に責任を持つことはできない。責任の重荷を負うためには、仕事と収入の保証がなければならない。

イノベーションや生産性に対する抵抗は古くからの問題である。ルネッサンスの時代、フィレンツェの織物工は新しい技術が仕事を脅かすと騒いだ。

だがイノベーションや変化への抵抗は、人間の本性ではない。仕事と収入の保証が与えられているところでは抵抗は見られない。必要なのは、仕事と収入に関わる法律上あるいは契約上の保証ではない。

責任を持たせるために必要な保証とは、約束ではなく実行である。給与を払い続けても、現実に仕事を与えなくては失業と同じ不安を与える。

必要なのは収入の保証だけではない。積極的かつ体系的に仕事を与える仕組み、すなわち働く者を社会の生産的な一員にする仕組みである。

14「人は最大の資産である」

なぜ成功例に学ばないのか

これまでに述べたことは長い間知られてきた。いくつかの企業が、たとえ組織的にではなくとも、このことに取り組んできた。

そして必ず成果をあげ、組織の体質を強化し、繁栄をもたらしてきた。マネジメントも強化されてきた。事実、これらのことを知ったマネジメントは、すべて同意の相槌を打ってきた。

しかるに、実際に行動に移したマネジメントはそれほど多くない。それでは、ツァイスやIBMから学ばないのはなぜか。なぜ学びたがらないのか。

誤解と恐れ

働く者に主体的に成果をあげさせるという課題を直視しない第一の、そして主たる原因は、権限と権力の混同である。

マネジメントは、肉体労働者からにせよ、知識労働者からにせよ、責任を持ちたいとの要求に対して、それを権限の放棄を要求するものと誤解して抵抗する。

自らの権限を危うくすると誤解する。権限と権力とは異なる。マネジメントはもともと権力を持たない。責任を持つだけである。

その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上の何ものも持たない。権限と権力の混同によって、マネジメントが自らと自らの組織にとって好ましくない結果をもたらした例は珍しくない。

かつて分権化が大変な抵抗を受けた。トップマネジメントを弱体化し、その失権を招くと心配されたためだった。

しかし今日、あらゆるマネジメントが、分権化はトップマネジメントを強くすることを学んでいる。分権化によって、トップマネジメントはより成果をあげ、本来の仕事ができるようになる。

トップマネジメントの権限は、分権化によって増大する。これと同じように、日本企業もIBMもツァイスも、働く者に主体的に成果をあげさせることによって、マネジメントの権限を強化することができることを知っていた。

なぜならマネジメントは、部下に成果をあげさせることによって、自らの仕事に専念できるからである。マネジメントの仕事でない活動、マネジメントでは貧弱な成果しかあげられない活動、時間ばかりとられる活動から解放されるからである。

かつてトップマネジメントが分権化に抵抗した理由は、もう一つあった。分権化が課すことになる高度の要求を恐れたのである。働く者や職場コミュニティに責任を持たせることを恐れるマネジメントの抵抗も、理由は同じだった。

責任を与えられた者は高度の要求をする。マネジメントに対して完全を要求するのではない。上司も人間であることを知っている。

しかし、自らの仕事に責任を持つ者は、マネジメントが報酬にふさわしい仕事をすることを要求する。人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。

しかし人は、これらのことのゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。

人こそ最大の資産

「人こそ最大の資産である」という。「組織の違いは人の働きだけである」ともいう。事実、人以外の資源はすべて同じように使われる。

マネジメントのほとんどが、あらゆる資源のうち人がもっとも活用されず、その潜在能力も開発されていないことを知っている。だが現実には、人のマネジメントに関する従来のアプローチのほとんどが、人を資源としてではなく、問題、雑事、費用として扱っている。

人を資産として財務諸表に計上すべきであるとの最近の提案の底には、このような認識がある。もちろん、人を資産として記帳することはやさしくない。

資産とはその性格上、処分することが可能であり、清算するとき価値を持つものである。人は、企業の所有物ではない。売れないものは資産ではない。訓練による利益の測定方法など、実務上の問題もある。しかしそれでも、この提案には見るべきものがある。

実行

必要なことは、実際に行うことである。それは、ビジョンや態度を変えるよりはやさしいはずである。

①その第一は、仕事と職場に対して、成果と責任を組み込むことである。②さらに、共に働く人たちを生かすべきものとして捉えることである。③最後に、強みが成果に結びつくよう人を配置することである。この程度のことでは、これまでの人事管理を批判し、新しい理念と方法を要求する人たちを満足させることはできないかもしれない。

しかし、人を生かすべきものとして扱い、その適材適所を図ることはできる。言葉の遊びではない。厳しく難しい。ユートピアをつくりはしない。

だが、それは組織を業績に向かわせる。退屈な仕事や人を面白く楽しいものにはしないが、楽しいはずの仕事や人を退屈なものにするのを防ぐうえで大きな働きをする。

組織の機能や緊張をなくしたり、権力や金に関わる問題を解決することはできないかもしれない。だが、信頼と成果をもたらす。人を問題、雑事、費用、脅威として見る従来のアプローチを不要にするわけではない。しかし、マネジメントとマネジャーを人事管理から真のリーダーシップへと進ませる。

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