親しみのカルチャーもときと場合をわきまえて
ときは一九七八年、ところはロサンゼルス。若い看護師が手元のクリップボードに目をやって、私に笑顔を見せ、こう言いました。
「ピエールさん、今からドクターが診察します」私はおどろきながら、看護師に続いて診察室に入りました。この女性はわざと無礼にしているのだろうか、と思いながら。
なぜなら、初対面の人からファーストネームで呼ばれたのは、十六歳のときが最後だったからです。その後、看護師が無礼だったわけではないとわかるようになりました。
私にとっては意外だったとはいえ、彼女はアメリカ、特に西海岸ではあたりまえになっている「気さくさ」の基準を守っていたのです。ヨーロッパでは古い世代を中心として、他人にはフォーマルに呼びかける習慣が、今も広く根づいています。
私の父は、義理の弟に「あなた(Lei)」ではなく「きみ(tu)」と呼びかけられるようになるまで十五年かかりました。ふたりは当初から仲がよかったのに、です。
アメリカ人の気さくさの理由と利点を私が理解したのも、アメリカに住んで何年も経ってからのことです。今では初対面の人にファーストネームで呼んでほしいと言われれば、たいていの場合はそうします。
ときには私のほうから、そう頼むこともあるくらいです。それでもいまだに遠慮しすぎてしまいます。
学生には苗字に「ミスター」や「ミス」をつけて呼びかけていますが、同僚の教師はそんな言い方はしません。
しかし、それが文化だからといっても、気さくな呼びかけが不適切な場合もあります。
以前、ケーブルテレビの社員が電話をかけてきて、フォルニという私の名前を知っているはずなのに、「やあ、どーも」と言ったことがありました。
私は「『やあ、どーも』というのは何です?」と言わずにいられませんでした。すると今度は、もごもごと「おはようございます、フォルニさん」という言葉が返ってきました。このときは、うれしいおどろきを感じたことをおぼえています。
過度の〝ルール破り称賛〟は考えもの
他者とともに生きていると、自分の欲望を捨てたり、あと回しにしたりしなければならないときはかならずあります。明文化されているかどうかにかかわらず、行動を制限するルールに従うことは、人生では避けて通れぬ道なのです。
こうした制限があるからこそ、ドラマチックにルールを破るヒーローへの憧れも生まれ、アウトローを賛美するようになります。
歌手のフランク・シナトラは「マイ・ウェイ」で「信じた道を歩いてきた」と歌い喝采を浴びました。
おびただしい雑誌やコマーシャルが、スポーツ用品やスポーツカーのブランドを反抗の象徴とうたって、「ルールを打ち破れ」と呼びかけています。
西欧社会においては、現状を打破することが、やたらと称賛されるのです。しかし、ファンタジーの世界とはちがって、現実の世界でルールを破れば、現実の人々に現実的な影響がおよびます。
生徒の暴力が爆発し、荒廃してしまった学校がアメリカにはどれほど多いことか、考えてみてください。
社会の通念からはずれた行動が、かならず破壊的でまちがっていると言いたいわけではありません。平凡から脱け出そうとするのは悪いこととは限りませんし、それが必要となる場合もあります。正義や自尊心が、昔ながらの法律や通念とは一致しない場合もあるでしょう。
しかし、それなら新しい常識を作っていかなければなりません。多くの場合、長い年月を経ても消えなかった礼節のしきたりは、それだけの価値があるものです。それを守ることによって、日々の生活を心地よく、健全なものにできるのです。
権威の消失が礼節の危機を招く
一九五〇年代から六〇年代初期のアメリカでは、リーダーに対する強い信頼感が残っていましたが、それも今ではすっかり消えてしまいました。
ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、クリントン元大統領のスキャンダルなど、さまざまな醜聞が要因で、支配階級に対する不信感と軽蔑が生まれました。
さらに、資質に欠けた政治家たちが政治を汚し、権威を地に落としています。一方で、権威が危機に瀕しているのは、文化的リテラシーが高まった結果でもあります。
知性が育てば、人は見解が鋭くなり、批判的になるものだからです。その結果、政治家、教師、親など、権威とされる立場は、ここ数十年で威光を失いました。
彼らは社会性のある行動を促し、伝統的な価値観を守る任務を担っていますが、説得力を失い、支持を受けにくくなりました。
礼節の危機は、まちがいなく、こうした権威消失の危機と結びついています。
一九六〇年代や七〇年代には反政府主義的な文化が流行しました。それは今も強く残り、現在の文化の土台となっています。
若者が革命を起こし理想を追い求めた時代に、支配的な価値観に疑問をつきつけたことによって、数多くのよい変化が生まれました。人間には自己評価と自己表現が必要ですし、権力や政治に対して、批判的な目を向ける必要もあります。
社会の片隅で、境遇を改善するチャンスを持たない人のために、政治的エネルギーを向ける必要もたしかにありました。
しかし、そうして公平な社会のために努力する中で、私たちは「自分が」「自分が」という考え方をするようになってきてしまったのです。
体制批判の時代に育った人は、行動の制限を嫌い、伝統的しきたりは偽善的で弾圧的なものと考えます。これも、中産階級の力が増したことによる、不幸な副産物です。
彼らの嫌悪感は子どもたちにも大きな影響を与えています。
自己評価と自己表現を支持する新しい倫理観が、自律を促す古い倫理観に代わるものとなり、そのせいで、昔から受け継がれてきた礼節は失われつつあるのです。
都市生活の無名性が人間関係を不安定にする
もう一度、この問いに戻りましょう。どうして人は礼節を忘れてしまうのでしょうか。
現代の都市に生きる人は「無名」の生活をしています。毎日の生活で出会う相手のほとんどは、名前も知らない赤の他人です。
ガソリンを入れるときも、地下鉄のホームを歩いているときも、交差点で信号待ちをしているときも、運転免許更新の窓口で列に並ぶときも、角のコンビニエンスストアでミルクを買うときも、周囲にいるのは他人です。
地域コミュニティとも、あまり深い結びつきを持たないのが普通です。当然、自制心を持って、礼儀正しくしようというモチベーションは、きわめて薄くなってしまいます。面識がある人に囲まれているから、という理由で、礼節ある暮らしができた時代は、はるか彼方へと過ぎ去りました。
今の私たちは他人の中に埋もれて生活し、無作法にふるまっても、誰にもウワサされることもなく、別に気にすることではない、と思っています。
地域コミュニティがしっかり機能していれば恥という罰を受けるのですが、現代の多くの都市生活者にとっては、そんなものは無縁というわけです。
運転手Aが運転手Bの車の前に、強引な割り込みをしたとしましょう。運転手Bは下品な仕草で抗議しました。
両方とも、いらだちとおどしの意味をこめて、クラクションを鳴り響かせ始めます─誰でも似たような事態を目撃したことがあるのではないでしょうか。
同じシチュエーションでも、ふたりが顔見知りだったらどうでしょうか。クラクションを鳴らそうとして、顔見知りであることに気づいたら、その場の雰囲気は変化するはずです。すぐに冷静になって、一件を水に流すという共通の目標に向けて努力することになります。笑顔で競って道を譲りあい、思いつく限りの方法で礼儀正しくすることでしょう。
後者のシナリオでは、いったい何が爆発を防いだのでしょうか。
それは、状況を不安定にしていた「お互い無名である」という要素が取り除かれたことです。火花を散らしていたふたりは、一瞬にして無名の者同士から知り合い同士となりました。たったそれだけのことで、礼節のルールが立て直され、安全な解決方法を選ぶことができるのです。
平等社会と礼節軽視のつながり
ハーバード大学の精神分析医エドワード・М・ハロウェルは、「人はなぜ礼節を失うのか?」という問いに対し「あまりにも忙しく、ゴールに向かって集中している」からだと答えました。
目標に向けて走っている最中なので、礼儀正しくするためにスピードを落とすことはできず、それゆえに礼節は失われるというのです。
ハロウェル博士の答えはさらなる質問を生みます。
「それならなぜ、人は忙しく、ゴールに集中しているのか?」という質問です。過酷な労働環境の中で生活費を稼がなければならないから、というのが理由のひとつでしょう。しかし、それだけではありません。
誰もが無名で平等な現代社会では、私たちは日々なんとか自分の足跡を残してアイデンティティを確立しようと、やっきにならざるを得ません。
かつての階級社会においては、所属する家柄や社会階級によってアイデンティティが形成されました。また、こうした時代には、社会的地位のはしごを上がる機会はないも同然で、成功するためにがんばろうという気にはなれませんでした。
アイデンティティは固定であり、変わるものではなかったのです。現代の私たちは、そうではありません。
過去数世紀で人の平等化が進んだ結果、人は自分の実績によって、自分自身の力でアイデンティティを確立する必要が大きくなりました。
「人はみな平等である」という理念は価値観の基盤となりましたが、そう考えながらも、自分だけのアイデンティティを確立すべく、成果への衝動に突き動かされています。
平等であることを受け入れつつ、同時に、他人とは異なる存在になりたがっているのです。それゆえに私たちは先を争って走り続け、「あまりにも忙しく、ゴールに向かって集中」することになります。
成果をめざして発奮し、途中をすべてすっ飛ばしていこうとするために、礼節を軽視してしまうのです。
自己実現の時代のメッセージ
Aあなたには、求めることすべてを実現する力がある。何にでもなれるし、どんなことでもできる。制限はない。
B人生で大切なのは勝つことだ。勝者こそがヒーローだ。方法は関係がない。勝者がすべてを得る。
私たちは今、二種類のメッセージに囲まれて生きています。
メッセージAのよさは誰にでもわかります。こう言われれば自尊心が育ちますし、希望を感じ、価値ある目標に向けてがんばっていこうという気になります。しかし、このメッセージの裏には「成果こそが絶対的な価値である」という信念が隠されています。
このメッセージを受け入れると、「目標が大事で人間性はどうでもいい」という信念が育ってしまう危険性があるのです。また、このメッセージは、自分自身へのあまりにも非現実的な期待を育ててしまうことにもつながります。
子どもの頃から「大統領にだってなれるよ」「一流のスポーツ選手になれるよ」と聞かされていると、実際にそれを人生のゴールと信じるようになることもあります。
優れた土木業者や看護師になるという選択肢は目に入らなくなり、いずれは失望を爆発させることになるのです。もちろん、大統領になれる可能性もありますが、同じように、小学校の先生、医者、銀行員、バスの運転手、用務員、中小企業の地域マネージャーになれる可能性もあります。そして、これらは大統領と同じように立派な仕事です。
大切なのは、大統領が自分の仕事で責務を果たすのと同様に、自分の仕事にやりがいを見出し、他人の役に立とうとすることではないでしょうか。そう考えることが礼節の根本でもあります。
メッセージBは、Aよりもさらに危険です。勝つことだけが重要なら、勝利のために他人を叩きつぶすことなど、何とも思わなくなります。負ければすべてを失い、世界は崩壊します。スポーツの優勝決定戦で、負けたチームのファンがどれほどの破壊や暴力行為に走るか、考えてみてください。敗北がフラストレーションの原因となり、発散するため、自分や他人をひどく傷つけずにはいられないのです。
もし、幼いうちから「勝つことより、どうやってたたかうかのほうが重要なんだよ」「ベストを尽くし、ルールと相手チームを尊重してたたかって初めて〝いい試合をした〟と言えるんだよ」─そう言い聞かせて育てていたら、どうなるでしょうか。
どんな変化が訪れるか、想像してみてください。たとえ試合に負けても、自分の努力に対して満足できる、そんな社会ができていくはずです。
最終的な成果が納得のいくものにならなくても、「心と頭をはたらかせていい試合をした」という事実は、決して他人に奪われることはありません。
そうなれば敗北にも耐えられますし、失敗は痛みではなく、学びの機会として受けとめることができます。ある意味では、より大事なものを勝ちとることになるのです。最終的な得点より、たたかい方のほうが大切だと考えられる力、それが礼節でもあるのです。
本当に礼節は失われつつあるのか?
ここ数年間で、現代という時代を表現する新しい表現がいくつか誕生しました。運転中に激高する人のことを「キレる運転手」と言いますが、「キレる搭乗客」という表現も聞くようになりました。
飛行機の搭乗客が乱暴なふるまいをする事件が増えているようです。ストレスが高じて職場で暴挙に出る「キレる社員」もいます。
「モンスターペアレント」と言えば、子どもの試合を観戦しているときに、審判や、ほかの子どもの親に食ってかかるような親のことです。
この問題は深刻で、試合観戦の前に礼儀正しい応援方法のワークショップへの参加を求められることもあるそうです。
エンタテインメントの世界では、がさつで自己中心的で無礼な態度があたりまえのものになりました。
一九九〇年代以降、以前なら下品でどぎつくて公共放送には向かないと判断されたシーンが、平気でゴールデンタイムに流されるようになりました。
また、多くの一流スポーツ選手が、スポーツマンらしからぬ行動で名を馳せています。それを子どもたちが、学校のバスケットボール場やサッカー場で真似しています。
こうした暗い世相こそが現実なのだ、と考えるのが正しいのかもしれません。たしかに、よくよく考えなければならない現実だと思います。
しかし前にも書いたとおり、礼節という面から見て、かならずしも今が最悪の時代というわけでもないのです。むしろ昔より今のほうがよくなっている場面も多いのです。
このことはルール24でも説明しましたが、ここでもう少し補足させてください。
性別、性的な志向性、人種、出身国などにかかわらず、すべての人は価値ある存在である─かつては認められていなかったことですが、現代では、こうした考え方が支持されるようになりました。
以前よりも、自分と異なる人に敵対的な態度をとることも少なくなっています。自分のアイデンティティを手放さずに、同時に他者を受け入れる─私たちはその方法を身につけつつあるのです。
ずっと昔、イタリアの列車で初めて女性の車掌を見かけたとき、不思議に感じたことを今でもおぼえています。しかし今では、そう感じた自分を不思議に感じます。女性は仕事の世界を手に入れ、能力を発揮しています。
そして、女性を同等の存在として扱う男性の数も、一世代前、二世代前とくらべて格段に多くなっていると思います。若い世代に対する扱いという面でも、現代社会のほうがまちがいなく水準は高くなりました。
若者と子どもの成長や健康のために、多くの人材が振り当てられています。結果はまだじゅうぶん満足できるものではないかもしれませんが、その意図は評価に値するものです。
病院においても、過去とはくらべものにならないほど患者に対して敬意が払われるようになりました。医者は患者の意見に耳を傾け、症状や病気の特徴について、多くの情報を説明するように変わってきています。
私が若かった頃のヨーロッパでは、医療関係者はぶっきらぼうで横柄な暴君が多かったのです。そうした医師は絶滅の一途をたどっています。
それでも、きちんと説明もせず、患者の意見に耳を貸さず、コスト重視でおざなりの仕事をする医師がいなくなったわけではないのですが……。
よく生きるために、私たちは何をなすべきか
二十世紀末は、礼節が失われていくことへの懸念が大きく高まった時代でした。しかし私は、礼儀に関してこれほど多くの取り組みが行われ、礼節ある社会のための活動が活性化した時代は、ほかになかったのではないかとも思うのです。
近年、社会の低俗化が進んでいる点については否定できませんが、同時に、敬意と節度、配慮とやさしさを日常生活に取り入れようとする努力も、広がってきているのです。
このふたつの動きは、当然、無関係ではありません。後者は前者の存在によって引き起こされたものだからです。礼節への取り組みの熱は高まる一方です。
小中学校、高校、大学、会社、病院、法律機関、宗教コミュニティ、地域センターなどで、礼節を促す活動が行われています。
こうした活動の背景には、現代社会の多様化が進むにつれて、礼節の必要性もまた高まる一方だということがあります。こんにちでは、つねに世界のどこかに異文化間の紛争の種が転がっています。
しかし、礼節の技術を高めれば、紛争の種から芽が出る可能性を減らすことは可能です。多様性を尊重するというのは、礼節ある人間となるための必須条件です。
しかし、次の世代の人々は、こうした倫理的スキルを身につけ、実践していくことができるでしょうか。
現代を生きる私たちは、礼節の欠如という問題が、もはや無視できないレベルに深刻化していることを痛感し始めています。
駐車場で怒りをぶつけ合う。そこらじゅうで携帯電話を鳴らす。夜でもステレオの音を響かせる。インターネット上で匿名で叩き合う。街中で人種や同性愛に関する悪口雑言を浴びせる。学校でいじめをエスカレートさせる。飛行機の機内で周囲に迷惑をかける。職場でひとりよがりな行動をする。上司は怒号を上げ、買い物客は押しのけ合い、店員はつっけんどんにふるまう。キャンプに行けばゴミを散らかす。運転すればクラクションを鳴らしまくる。放任された子どもが公共の場の静寂を乱す。配偶者がやつあたりをして家庭にストレスをぶつける。自分のことだけ考えて友人をないがしろにする……。
無作法が蔓延すれば、人生のクオリティは下がります。今こそ意識を高め、認識を広げて、多くの人が望む変化をもたらすため、一致団結して努力を始めるときなのです。
これからの私たちは、次に挙げる道を探っていくべきではないか、と私は考えています。
- 貧しい人、選挙権のない人の生活と収入の状況を改善する
- 人生のクオリティ向上に欠かせないツールとして、礼節とマナー教育を見直す
- 「無名の社会」の進行を防ぐため、地域社会の人同士がふれあう機会を増やす
- 職場をはじめとした、日々の生活のストレスを減らしていく
人生で最も重要なのは他者とのふれあいである、と言い切っても過言ではありません。もしそうならば、ふれあいの質の改善を、最優先事項とするべきではないでしょうか。
礼節を守るのは、人と人とのふれあいの質を上げる最も確実な方法です。ふれあいの質が高まれば、人生はうるおいます。とてもシンプルなことなのです。
私たちはただ、いったん足を止め、考え、そして行動すればいいだけなのです。早く始めれば、それだけ成果も大きくなるでしょう。
ノンフィクションライターのペギー・テイバー・ミリンは、著書の一冊で、こんな印象的な文章を書いています。
ある雨の日、私は列車に乗っていました。駅に近づき、列車がスピードを落とします。私は、窓にあたる雨粒をなんとなく眺めていました。
ふたつの水滴が風に押され、一瞬だけひとつにくっつき、また離れていきます─それぞれ、相手の水滴の一部を含みながら。ほんの一瞬の接触で、どちらの水滴も、それ以前とはちがう水滴になりました。
それぞれ、また別の水滴と接触し、自分の水分だけではなく、先ほどの水滴から移された水分を分け合っていきます─。
この象徴的な光景を見たのは何年も前のことなのですが、人生でいちばんあざやかな記憶のひとつとして、今も心に残っています。
このとき私は、人が人とふれあって何の痕も残さぬことはない、と気づきました。人生のありようは、『どんな人に囲まれて生きているか』という点に左右されます。ですから私たちは、無意識のうちに何を分け合っているか、意識する必要があるのです。
そうすれば、自分から進んで分け合って生きていけるようになるからです。
私はこの文章を何度も読み返しているのですが、くっついては離れていく雨粒のイメージは、今でも私の心を魅了してやみません。なんと印象的にありありと、シンプルで大切な真実に目を開かせてくれていることでしょうか。
「人が人とふれあって何の痕も残さぬことはない」
ミリンの言葉は、ひそやかながら断固たるつぶやきとして、私の心の中で響いています。
時代を経ても消えることのない、美しいつぶやきです。人が人とふれあえば、かならず何かの結果が生まれる……。そう意識することが礼節でないとしたら、いったい何が礼節なのでしょう。
お互いの善の部分を意識的に分かち合おうとすることが礼節でないとしたら、何が礼節なのでしょう。分かち合い、そしてまた分かち合うことで、日々は輝きを増していくのです。
監修者あとがき
本書は2002年にアメリカで刊行された書籍『ChoosingCivility』の日本語翻訳版です。
それに先立ち、1997年に著者P・M・フォルニ博士が所属する米国の名門大学ジョンズ・ホプキンス大学では、彼のイニシアチブのもと「ジョンズ・ホプキンス・シビリティ・プロジェクト」が設立されました。
彼らの活動は、アメリカ国内はもちろんのこと、海外にも広く影響を与え、さまざまな団体が本書から啓発され、シビリティ(=礼節、礼儀正しさ)を推進する活動を行っています。
私が所属する世界40カ国にわたるイメージコンサルタントの最大組織AICI国際イメージコンサルタント協会もそのひとつで、フォルニ博士が提唱する3Rs(Respect=尊敬、Responsibility=責任、Restraint=節度)を柱とした「礼儀正しさを大切にするプロジェクト」をスタートさせています。
現代における礼節を新たに定義する名著本書がアメリカで出版されてから、すでに10年近くが経過しましたが「礼節ある生き方」はますます見直される一方であり、その原典とも言える本書の重要性も高まってきています。
そうした背景から、ぜひ日本にも紹介したいと日本語翻訳版の出版をディスカヴァー・トゥエンティワンにご提案しましたところ、干場弓子社長にすぐさま共感、ご快諾いただき、出版の運びとなりました。
「礼儀正しくすること」とは〝あたりまえのように見えて、実は最もむずかしいこと〟の代表のようなものですが、あらためてそれを明確に定義し、必要な技術を明らかにした名著をこうしてご紹介できることはたいへんうれしく、また名誉に思います。
礼節が見直される今、このときに日本には古くから、思いやり、尊敬、自制、協力、責任、誠実、知恵、調和、美徳といった礼節を重んずる文化がありました。
これは、日本人の遺伝子に組み込まれたDNAでもあります。ですから、日本社会においては「礼儀正しさが大切だ」と言っても、今さら珍しい言葉や概念ではありません。
しかし、世界がますます小さくなる中で日本でも、いじめ、虐待、詐欺、不正などが横行するようになってきています。
これは日本人のDNAに刻み込まれていたはずの礼節が失われつつあるきざしでもあり、多くの人々が少なからず「礼儀正しさの大切さ」をあらためて感じているのではないでしょうか。
本書の著者フォルニ博士は、「アメリカ社会は礼節を失った」と語っています。
成果や効率優先、金融至上主義、激しい競争による格差社会やスピード社会、人との直接の対峙がネット上にどんどん置き換わっていく孤立社会──こうした社会の変化によるストレスによって、アメリカでも礼節は崩壊してしまったのです。
こうした状況は日本でも同じです。日本においても、成果を出すためのスキルを中心とした学校教育・企業教育がますます加速し、人間が人間として成長するための情緒や知性、心の教育が、ともすると軽視される傾向にあります。
最近、日本古来より伝わる礼儀作法、茶道、華道、書道といった日本文化や伝統芸能を見直し、教養を重視する動きも盛んになってきていますが、礼節が失われつつあることへの危機感の表れでもあると言えるのではないでしょうか。
戦後最大の惨事2011年3月11日の東日本大震災は、ともすると忘れかけていた「礼儀正しさの大切さ」と「日本人が持つ礼節のDNA」を思い出させるものともなりました。
被害の大きかった東北の方々、そして救助やその後の復旧作業に関わった方々は、日本人が誇るべき礼節の文化を持っていることを世界に示してくださったのだと私は感じています。
震災をきっかけとして、私たち日本人は痛みを共有し、心から助け合い、忍耐し、支え合って絆を深める大切さを再認識させられました。それ以降、私たち日本人の生きる価値観も大きく変わったように思えます。
そうした今、本書は、私たち日本人が人間としての原点に立ち戻り、生きるうえで最も大切なことをもう一度見つめ直し、新たな時代に向かうための勇気と自信を与えてくれる貴重な一冊です。
さらには、世界が抱えるさまざまな問題を、国境を越えて解決するための答えも本書の中にはあるのです。
礼節はビジネスパーソン必須のスキル礼節は、よりよい社会を作る基盤として見直されてきているわけですが、もうひとつの側面に、グローバル化するビジネス社会においての必須のツールとして注目されているという面があります。
個人の間でも価値観が多様化し、ビジネスが文化の垣根を越えて行われることが当然となった時代には、異なる考え方をもった人同士をつなげるルールが必要です。
それこそが礼節でもあると考えられているのです。
つまり「シビリティ=礼節、礼儀正しさ」を実践することは、ビジネスパーソンにとって、信頼され、相手から選ばれるためのセルフマーケティングであり、自分の価値を高めるセルフブランディングなのです。
ビジネスを前進させるプラットホームであり、すべてのビジネスの基盤であると言ってもよいでしょう。
ビジネススキルと言うと、交渉力・戦略的思考・プレゼンテーション・語学力などが注目されますが、それ以上に〝信頼を獲得できる人としてのあり方を築くこと〟これこそがビジネスの武器でもあり、ビジネス最強の戦略になるということでもあるのです。
また、企業にとっては、礼節ある企業文化を作ることは重要なコンセプトですし、究極のブランディングツールともなり得ます。
企業価値を高め、企業文化を体現する最も重要なツールとなるのです。
「企業は人なり」と言われるように、経営陣から社員、派遣社員、警備員に至るまで、その会社の人のすべての言動がその企業を表します。実際それらが、まさしく真の企業の姿です。
礼節を企業文化とすることは、顧客に心から信頼され、親しまれ、地域社会に受け入れられるための最も重要なファクターであることにまちがいないのです。
この本には、これからの新たな時代に、私たちの身近な生活からビジネスの場においてまで、心豊かに、穏やかで幸せな人生を過ごすためのヒントがたくさんあります。
手にとっていただいた読者の方が、礼節ある生き方を見直し、仕事も人生も前向きに楽しみながら、自らの成功を手にするために活用していただけたら幸いです。
最後に、この本の出版にあたり多大なご尽力をいただいたディスカヴァー・トゥエンティワン干場弓子社長、編集担当の原典宏さん、翻訳者の上原裕美子さん、素敵なデザインをしてくださった松田行正さんと山田知子さんに、心より感謝を申し上げます。
国際イメージコンサルタント大森ひとみ
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