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第3章こんなに困った「品のない客」

第3章こんなに困った「品のない客」

無料だと食べ放題◆一流ホテルで露呈する強欲さレストランや居酒屋で、食べ放題とか飲み放題とかいって、客寄せをしているところがある。多く食べたり飲んだりすればするほど、単価が安くなる結果になるので、客としては得をした気になるのがみそだ。だが、必要以上に飲み食いしたのでは、暴飲暴食をすることになって、自分の健康にとってはマイナスでしかない。自宅で食事をするときは、おいしいからと多少は食べ過ぎになったとしても、多く食べたら得をするとは考えない。ところが、外で代金を支払って食べるとなると、店と自分との関係で損得勘定をするのである。しかし、それは自分自身が得をしたという計算ではない。店側は同じ代金をもらって、より多くの料理や飲み物を提供したので、その点に関して「損」をしていると考える。その結果、自分としては「相対的」に得をしたという考え方だ。一種の錯覚に陥って満足をしているにすぎない。酒飲みにとっては、飲み放題となれば心置きなく飲めるので嬉しい。しかしながら、普段の自分のペースを超えた速さで飲んでいるのを見ると、人間の欲の深さや浅ましさを感じて、寂しい思いをする。特に、宴が終わりに近づいて注文を締め切るときになると、むやみやたらに注文を入れておく人がいる。ちょっとくらい調子に乗って羽目を外すのはご愛嬌であるが、大の大人がそのような振る舞いをするのは、強欲の権化を見る思いがする。血気盛りの若者であれば、その能力の限りを試みてみようとする意気が感じられるので、まだ救いがある。もちろん、その場合でも健康状態に重大な支障を来す危険性があることは否めないので、賛成はできないが。若い人たちの場合は、若気の至りとして見ることもできる。若者は未熟であるから、粗野であるのも仕方がないと考える。だが、粗野は下品に通じる。若さのエネルギーが、その下品さを覆い隠しているので、下品さに気がつかないだけである。強欲の権化ともいうべき人たちに出会うのは、飲み放題で乱痴気騒ぎの状態になっている、街中の居酒屋などだけではない。紳士淑女が集う一流ホテルの宴会場やレストランの中でも、頻繁に見ることができる。バイキングの形式をとっている場合だ。皿いっぱいに料理を取ってきて食べている。もちろん好きな料理であれば、それもよい。だが、いくら取ってきても、自分が招待客としてパーティーに参加しているのであるから無料であるとか、支払う代金には変わりがないとか考えて、手当たり次第に盛ってきている人がいる。そういう人は、嫌いであったり食べ切れなかったりした料理を大量に残したままで皿を片づけてもらって、平気な顔をしている。勝手気まま過ぎる、そのような振る舞いは下品そのものである。さらに、自分が皿に取ってきたものを何の愛着も感じないで捨てることができるのは、非情な人である証拠だ。品についていう以前に、人間性の欠如を疑わざるをえない。自分の行動に対して責任を持とうとする意識がまったくない。社会人としても失格である。◆はしたない試食の「はしご」とにかく、無料であるからといって、むやみやたらに食べたり食べてみようと思ったりするのは、浅ましい。本人は得をしたと思っているかもしれないが、周囲の人から軽く見られることは間違いない。食べ物や飲み物に限らず何かを無料でもらう機会があるときは、すぐには手を出さないことだ。それが有料であったとしても、もらおうとするかどうかを自問自答したうえにする。そうすれば、少しは節度のある振る舞い方になるはずだ。デパートの地下にある食品売場では、それぞれの店が競って客を取り込もうとしている。そのための一つの方策として、試食をさせている。食べ物は一〇〇回見たとしても、その味はわからない。自分の舌で一度味わってみるのがいちばんだ。「百見は一味に如かず」ということができる。したがって、試食は消費者の立場に立った、極めて効果的な販売促進手段の一つである。ここでも、次々と試食をして歩いている人がいる。試食でもいくつも重ねれば軽食になる。そう思っているとしか見えない人もいる。試食の「はしご」ははしたない。本当に自分が興味を惹かれた物や、おいしかったら買うかもしれないと思う物だけに手を出すようにする。そうすれば、品位を保つこともできる。もちろん、自分で金を支払えば何をしてもよいというわけではない。そういう考え方をすれば、暴君的な行動をすることになり、どこに行っても嫌がられる存在になる。表向きはその人が歓迎されているようだが、実際にはその人の持っている金が歓迎されているだけだ。

店員を召使い扱い◆資本主義では誰もが「下働き」下男下女とか召使いとか呼ばれる人は、現在の社会ではもう見られないはずである。これらの人は、主人に隷属して、命令されることは何でも忠実にする。口答えをすることは許されず、黙々と下働きに精を出さなくてはならなかった。しかし、企業のあちこちでは、実質的には召使いのように扱われて、こき使われている人が多いのではないだろうか。従業員とか社員とかいわれて、身分的には一通りの地位が保障されている様子であるが、一皮むけば、召使いというよりも奴隷のように扱われていることも少なくない。それぞれの役職の中で多少の裁量をする自由は許されているが、朝から晩まで長時間にわたって縛られている。表向きは働くことを強制されてはいないが、企業の方針どおりに働いて期待される成果を上げないときは、辞めさせられてしまうという制裁が待っている。したがって、奴隷と同じように、力の限り、というよりも無理をして身を粉にする結果になる。その「強制労働」をさせられているのは、企業の底辺にいる人たちに限らず、上層部の人たちも同様である。ただ、その度合いが多少違っているだけにすぎない。ただ自分が食べていくために、また家族を養っていくために、一所懸命になって働いている。したがって、冷静になって考えるひまもないので、自分自身が置かれている現状や境遇について、正確な見方をすることができなくなっているのだ。または、現状を直視すれば、自分のプライドがふっ飛んでしまい、生きていく支えの一つがなくなってしまう。そこで、客観的かつ分析的に見ていくことを意識的に避けているのかもしれない。もちろん、金を稼ぐためには、奴隷のように扱われて人間性を無視されても構わない、と割り切っている人たちもいる。人が嫌がったり危険が伴ったりする仕事でも、我慢しながらしている。そのような人たちは、一見したところ卑屈に見える働き方や振る舞いをしていても、それは入ってくる金と交換しているのだから当然だ、と考えている。いわば一つ頭を下げれば金が転がり込んでくると思って、喜んでいるのである。仕事の社会では上司とか部下とかと分けて考えている部分もあるが、その働き方やそこにおける余裕の有無に関しては大差がない。皆が資本主義という「主人」に従って「下働き」をしている「召使い」になっているといっても、それほど誇張した描写ではないであろう。そのような状況の下にあっては、ストレスを抱えているのも当然だ。ストレスはどこかで発散させないと、心身の正常な維持が難しくなってくる。レジャーや遊興に身を委ねることによって、一時的にではあれ神経をなだめている者もいれば、高尚な趣味や文化の世界に専念することによって、精神の高揚を図っている者もいる。ストレスを無意識のうちに蹴散らかしたり意識的に昇華させたりして、心身のバランスを取っているのである。特に無意識にしている場合には、ストレスが隠然たるかたちで常に堆積している証拠だ。それが時どき、自分より弱い人に出会ったときに噴出してくる。◆店の人に憤懣をぶつける「小さな暴君」自分が客という身分になったときが好機である。金を出して商品やサービスを買うのであるから、自分に全権がある。店員が自分のいうことを聞かなかったら買ってはやらないぞ、という姿勢を取ることができるのだ。そこで、初めから横柄な口の利き方をしたり、有無をいわさぬ振る舞いをしたりする。現在はものが市場に溢れているので、客のほうが優位に立っている。商人としては買ってもらわないと食べていけないので、必死になって客の機嫌を取ろうとする。つい、主人に対して「仕える」姿勢になる。そこで、客は急に偉くなったような気になって、調子に乗る者も出てくるのである。しかし、客も自分がほしいと思ったり必要としたりするものを手に入れるのが目的である。本当は売ってもらえなかったら困るはずだ。したがって、売ってもらうことに対しては感謝するべきである。客と商人は、金とものやサービスを「交換」するという、まったく対等な立場にある点を忘れてはならない。その時点における市場の需給関係によって、多少強くなったり弱くなったりするだけだ。資本主義に酷使されているからといって、その憤懣を客になったときに店の人たちにぶつけるのは、その場だけでの「小さな暴君」である。自分が嫌に思ったからといって、その感情を自分より弱い人に転移させるのは、器量のない人のすることだ。自分が嫌に思うことは人も嫌に思うことである。それを忘れてはならない。店員にも丁重な姿勢で対等に接していく人は、見ていてもエレガントである。

窓口の人に八つ当たり◆文句はその場にいる最も責任ある人に電車や航空機など公共の交通機関では発着の時間が決められている。仕事であれ遊びであれ、乗客はその時刻表に従って自分のスケジュールを立てて、それらの乗り物を利用している。ところが、天災や事故などが起こると、時刻表どおりの運行はできなくなる。遅れに対して許容できる時間は、人によっても異なるし、そのときの目的地で何をするかによっても違ってくる。いずれにしても、大幅に遅れるときは、皆イライラしてきて、不満を口に出していう人も出てくる。そのようなときでも、遅れの原因が明確に知らされていれば、仕方がないと思って我慢することもできる。一般的に人は理由もわからないままで待たされると、欲求不満がつのってくる。いつまで待てばよいのか、まったく見当がつかないからである。待つというのは、目的を実現するまでの時間を無為に過ごすことになるので、極めて非生産的な行動である。一瞬一瞬が自分の大切な人生の一部だ。それが自分のコントロールが利かないままに失われていくのであるから、取り返しのつかない損をしていると感じる。命を縮めていると考える人がいても不思議ではない。待たされる理由がはっきりわかれば、時間の長さをいわれなくても、自分なりに推測してその後の予定を組み直すこともできる。事情がわからないと、どうしてよいかわからずに困ってしまう。遅れたときは、その理由についてわかっている限り、できるだけ早く関係者に教えるのが、最低限の義務である。さて、乗り物が遅れるときの話であるが、長時間にわたって待たされたり運行再開の時間が決まらなかったりすると、乗客の中には、近くにいるその交通機関の従業員などに詰め寄る人がいる。だが、その人たちはその時点における企業側の「窓口」であるにすぎない。事故に対しても、内部的には直接の責任はない。ましてや天災となると、不可抗力であって、誰の責任でもない。もちろん、天災が起こることに備えて防御的な態勢を整えておくのを怠っていたような場合は、人災として関係者に責任があるのだが。駅員など単なる窓口の人に食ってかかるのは、ちょっと乱暴である。自分の憤懣をぶつけているだけで、八つ当たりにも等しい。紳士淑女の振る舞いとはいえないばかりか、実際の効果の程も疑わしい。もちろん、企業の側に立ったときは、外の人、特に顧客に対しては、社長から新入社員に至るまでの全員が「担当者」である。そのつど、窓口となり責任者となって、外部との対応に当たらなくてはならない。そのような考え方をしていない窓口の人が、真摯な対応をしない場合は、その姿勢を正すべく詰問をして圧力を掛ける必要もある。企業から給料をもらっている限りは、乗客という顧客の支払っている金の一部を手にしていることであるから、顧客と接するときは、企業の顧客に対する義務を果たさなくてはならない。ただ、乗客として窓口の人にかみついたり罵詈雑言を浴びせたりするのは、品に欠ける。起こったことについて説明をするにせよ、将来への施策や心構えを述べるにせよ、企業内で執行力のある人でないと、責任のある発言はできない。その場に駆けつけることのできる人で、最も責任ある上の立場にいる人に出てもらって、その人に文句をいうなり謝罪させるなりしたほうがよい。◆苦情をいうと、アメリカでは「率直な意見」、日本では「うるさい客」私が昔ニューヨークで働いていたころ、若輩にもかかわらず、というより若かったからであるが、高級レストランばかりでデートをしていた。そんなとき、ちょっとでもサービスが悪かったり内容に対して不満があったときは、すぐに「マネジャーを呼べ」といっていた。担当のウエーターにいったのでは、せいぜいその場限りの謝罪を聞くだけで終わってしまう。店の責任者にいえば、将来の改善にもつながる。実際にも、率直な意見をいってくれたといって感謝され、次に訪ねたときもよりよいサービスを受けることができた。ところが、日本に帰ってきて同じようにしていたら、「うるさい客だ」と嫌がられる結果になった。客の権利と店の義務に対する意識が明確なアメリカに比べて、日本の場合は関係者全員の和を重んじるのである。確かに客が不満足な点を知ることは店にとっては大切であるが、担当者を飛び越して「直訴」するようなやり方は、その場のその時点における楽しい雰囲気を台無しにしてしまう。周囲にいる客にも迷惑を掛けるかもしれない。現在は、すぐに文句をいうのを控えている。程度にもよるが、なあなあ主義に従ったほうが、時と場合によっては、品を落とさないですむようでもある。

人のライバルをほめる◆ライバルのプラス評価は自分へのマイナス評価場末のデパートで商品を見て歩いている女性の二人連れがいる。単に興味本位で見ている「ひやかし」なのか、何かを買おうとして物色しているのかは、はっきりしない。いずれにしても、「安い」を連発しながらも、見掛けや品質について意見の交換をしている。一方が買ってみようとする雰囲気になったようなときは、他方が「安物」であるといって牽制するという調子だ。もちろん、その会話は、あちこちに立っている店員の耳には筒抜けである。というよりも、聞こえよがしに話している気配もある。都心の有名デパートの商品と比較したりして、「やはり高くてもあそこの商品のほうがよい」などといっている。それは、自分たちは格式のあるデパートで買い物をしている「階級」であるということを、店員やほかの客たちに誇示しようとしている姿勢でもある。店員たちも心の中では鼻持ちならない人たちだと考えていても、もしかしたら買ってくれるかもしれないと期待して、愛想笑いをしている。もちろん、都心の有名デパートと場末のデパートとでは、扱っている商品の種類や品質、それに価格なども、基本的に異なっている。商売の仕方も違っている。したがって、単純に比較することはできない。それぞれに長所があれば短所もある。賢い消費者は、その点をわきまえて上手に使い分けをしている。だが、デパートはデパートである。多かれ少なかれ、お互いに競争相手だ。相手のほうが格が上であることは認めていても、自分の目の前で相手がほめられるのを聞くのは、あまり気分のよいものではない。しかも、はっきり自分と比較していわれたら、打ちのめされた感じになる。ライバルのほうがすぐれているといわれたことは、相対的には自分が劣っているといわれたのと同じである。したがって、人の前でほかの人をほめるときは、慎重に考えたうえにする。直接の競争相手ではなくても、同じようなことをしている人とか、同じような背景がある人とかについて話すときは、プラスの評価を示す言葉は発しないほうが無難だ。場末のスーパーで都心の有名デパートをほめた言い方をするのも避けたほうがよい。用途が同じような商品を扱う小売店としては、あくまでも同業者である。比較の対象に十分なる関係にあるからだ。◆レストランでは「あそこの店のもおいしい」という学生時代の友人を話題にするときのことを考えてみる。自分が企業に働いている場合であったら、官庁や法曹界に入った友人たちとは、あまり比較にならない。目覚ましい活躍をしている友人をほめそやす人がいたら、何らためらいもなく自分も同調する。ところが、ほめられる友人がほかの企業に働いているときは、その企業の業種によって、自分の心の中の反応は微妙に違ってくる。まったく異なった業界である場合は、あまり抵抗感もなくて、自分も賞賛の声に加わることができる。だが、同じ業界に属する企業であると、自分の賞賛の声もしめりがちになる。企業規模が異なったりしていて、自分の活動する範囲や機会が限られているとしても、自分の努力が足りないのではないかと考え、内心忸怩たるものがあるからだ。同じ企業内にあって、友人が立派な業績を上げているとしてほめられると、自分は何ら顕著な仕事をしていないといわれているのと同じなので、いたたまれない思いになる。その話題からできるだけ早く逃れたいと思って、別の話を持ち出したりする。背景や環境の条件が具体的に明確になり、その同質性が濃くなるに従って、明確な比較をするのが可能になる。環境の条件が似ていたり同じであったりすると、その中にいる人たちの能力や努力について、優劣の見極めをするのが容易になる。レストランで食事をするときの会話においても、ほかの店をほめたたえる場合は、言葉遣いに気をつける。「あそこの店のはおいしいよ」といったのでは、「ここの店のはおいしくない」というにも等しい。その店の人たちの耳に入ったら、店の格に従って程度の差はあるとはいえ、店の人たちの感情を害する結果にもなりかねない。隣の席にいる客が、自慢に思って友人を連れてきているような場合は、自尊心を傷つけられたと感じるかもしれない。「あそこの店のもおいしいよ」といえば、ここの店の料理もおいしいということになるので、波風は立たない。「は」と「も」の違いでも、人によっては鋭敏にかつ厳しく解釈する人がいる。双方をほめるいい方をするのが、気配りの上手な人で、皆から好かれる人である。

ドレスコードを無視する◆店の雰囲気を壊す服装はほかの客の気分をふさぐ新しくできたホテルのレストランに招待された。最上階にあって眺めもよいという謳い文句で、男性は上着にネクタイ着用というドレスコードが記されていた。真夏の暑い日であったが、規則どおりに身なりを整えて出掛けていった。昔ニューヨークで、ドレスコードがあるとは知らないで、高級レストランに行ったときのことは忘れない。やはり暑い日であったので、上はシャツだけであった。客もまばらであったので、隅のほうで隠れた風情をするように努めるからといったのだが、許されなかった。ファッション性のかけらもないネクタイを借りて締めさせられ、かなりくたびれた感じで、私にとってはオーバーコートよりも大きいダブダブの上着を着せられた。それ以後は、ちょっとした高級店であれば、ドレスコードがあるかどうかを必ずチェックし、それに対して忠実に従うようになった。もちろん、レセプションやパーティーに出席するときも、招待状や案内状を詳細に見て、服装に関する規定の有無について確かめるのを忘れることはない。その新しいホテルは都心部であるとはいえ中心からちょっと外れているという場所的なことと、真夏であるという季節的なこと、それに週末であるという曜日のことなどを考えると、開店して間もないときとはいえ、そのドレスコードはちょっと厳しいと感じた。しかし規則は規則である。店が上質の雰囲気を醸し出そうとしているのに、それを客が勝手に壊すことは許されない。席に通され、インテリアの落ち着いたたたずまいに感心していた。窓の外には東京の郊外の夜景が広がっている。妻と二人で、招待されたことを喜び、家からも遠くないので時どきは利用しよう、などと話し合っていた。そのうちに周囲の席も埋まり始めた。何となく違和感があったので、眺め回してみると、男性の半数以上が上着なしのシャツ姿だ。上着を着用している人も、そのほとんどはネクタイをしていない。裏切られた思いで、せっかく高揚しかかった気分も、急降下である。◆レストランでは内証話ぐらいの話し方が上品すると、すべてをネガティブな目で見るようになる。テーブルの配置が機能的になっていないとか、ワインの注ぎ方が下手であるとか、料理に塩気が多過ぎるとか、次々とケチをつける考え方になっていく。自分が期待していた雰囲気が壊れたので、プラス要因は見えなくてマイナス要因のみが見える色眼鏡を掛けた状態になったのである。シャツ姿の人たちが、大声でしゃべりまくり哄笑の渦が巻き起こり始めたのも、私たちの否定的な気持ちに拍車を掛けた。やはり、高級レストランでは、ほかの客に迷惑を掛けないように品よく振る舞う必要がある。ほかの席の人が会話の内容をはっきり聞き取れるときは、大声で話している証拠である。人に聞かれたら困る内証話をするつもりで話せば、それがレストランなどにおける品のよい話し方になる。笑うときも、口を開けないで笑うように心掛ける。仲間同士で楽しくしようとすればするほど、はしゃぐ結果になる。したがって、盛り上がっていると思ったら、時どき自分たちの言動について反省してみる。周囲が静まり返っていると感じたときは、自分たちが騒ぎ過ぎているときである。神経を集中すれば第六感が働くようになり、周囲の客の批判的な雰囲気を感じとることができるようになるだろう。店の人たちとしては、乱痴気騒ぎの様相を呈してこない限りは、ストレートに注意を喚起することはできない。だから、客のほうが自己管理をしなくてはならない。高級レストランは静かで落ち着いた雰囲気が売り物である。ウエーターを呼ぶときも、「すみません」とか「ちょっと」とか「お願いします」とか声を発するのはルール違反だ。軽く手を挙げて目を合わせることによって、用があることを知らせる。ただ、最近はかなりの店でも、注意を惹こうと思って努力しても、まったく客の視線や手の動きを見ようとしない、訓練されていないマネジャーやウエーターがいる。客に声を出されたら、客の対応をする資格がないといわれたも同然であると思ってほしい。レストランに限らず、どんな店でもその店なりに特徴のある雰囲気を演出すべく努力している。客としては、その雰囲気に合わせた言動をする。店の人たちやほかの客たちと協力して、人生の中の一時を一緒に過ごすのである。それが最も楽しく全員に満足のいくようなかたちになるのを目指して、客の一人として参加するつもりで行動するのだ。それが上品な振る舞いであり、人生を楽しく暮らしていく秘訣である。

専門家のいいなりになる◆自分の生活の専門家は客自身どんな分野のことであれ、専門家の意見や考え方を知り、それを参考にしながら生きていく必要がある。それが、できるだけ社会の基準に従っていく、安全な道だ。ただ単に自分勝手に考えて自己流に徹していこうとするのは、変わり者や頑固者のすることである。人間社会がせっかく積み上げてきた英知を無視するのであるから、もったいない限りで、大損をする結果になる。三人寄っただけでも文殊の知恵である。ましてや歴史の中で結集されてきた大勢の知恵の場合は、自分一人の知恵よりもすぐれている。その点を認めないのは、向こう見ずの愚挙というほかない。少なくとも、既成の人知の結晶に対しては、大筋で従ったり参考にしたりする必要がある。医療の分野について考えてみれば、その点は明らかだ。病気になったら医者に診てもらい治療をしてもらう。これまで経験したことのない、身体の異常であるにもかかわらず、「医者にかかるのは嫌いだ」などといって放置しておくのは、無謀である。医療の知識と経験のある、医者という専門家に診てもらわなかったばかりに、手遅れになって死期を早めた人は少なくない。もちろん、現在の医療も完全ではない。現在の主流である西洋医学よりも、東洋医学や古来の民間療法がすぐれていて効能がある場合もある。しかし、いずれにしても、専門家の意見を聞き、それに一応は従ってみる。そのうえで、自分自身の考え方ややり方を加味していけばよい。細部にわたっては、自分のことは自分がいちばんよく知っている、というのもまた真実であるからだ。初めから自己流というのがいけないのである。日常生活のあらゆる分野に、その分野の知識と経験、それに知恵を備えた専門家がいる。しかし、その人たちの意見にやみくもに従うのは、自主性を欠き、それだけに人間としての品格までも喪失する恐れがあるので、注意を要する。日常生活の場では、それまでに生きてきた年数だけの経験がある。その経験は自分に特有なもので、そこから自分の生活のパターンや行動様式が出来上がってきている。それについては、その道の専門家であるといえども、知識がない。たとえば、衣服を買おうとして店を訪れる場合を考えてみる。店員は少なくとも店にある商品については専門家である。機能やファッション性について説明しながら助言をしてくれる。しかし、自分のライフスタイルを念頭に置き、これまでの経験を辿りながら、自分自身で判断を下していく。店員は「お似合いです」などといってすすめるかもしれないが、その言葉をそのまま信じてはいけない。「馬子にも衣裳」で、誰でも飾り立てれば立派に見える。衣裳が自分を引き立ててくれるので、よく見えるだけであるかもしれない。店員が客のことを一〇〇パーセント思っていることはない。どんなに良心的な人であっても、「商売」をしようと考えている部分がある。何をいわれても、それはあくまでも助言であると考えて、あとは自分自身で決める姿勢を崩してはならない。たとえ店員に二十年間の経験があったとしても、客は自分自身に衣服を着せてきたという、それよりも長い経験がある。その特殊な経験については知らないで、「浅い」知識に基づいて「自分勝手」な意見を述べていると考えるのだ。◆崇め奉られた専門家は「専制君主」になる相手が専門家といえども、頭から信用するのは、相手の商売の餌食になる危険性が高い。隷従にも等しい態度には、卑屈な気持ちが氷山の一角のように表されている。顧客としてもてはやされているかに見えるが、第三者から見ると商売の標的になっているだけである。卑屈は下品につながり、餌食は見るからに哀れだ。自分を見失わないで毅然たる姿勢を貫いていく必要がある。専門家も有名になると横柄になる人がいる。自分は権威を確立していると思い、取り巻きに「崇め奉られて」いるので、傲慢になっている自分自身がわかっていない。客を客とも思わないで、自分の考えや作品を押しつけようとする。押しつけは強制であり、強制は人格無視である。そのような専門家に出会ったら、医師であれ弁護士であれ、またデザイナーやスタイリストであれシェフであれ、「専制君主」であると決めつけてよい。出会ったのが不幸だと諦めて、以後二度と会わないようにする。自らの人間の品位を落としてまでつきあう相手ではない。

手当たり次第、商品に触る◆「きずもの」になるほど乱暴に扱う人本屋で平積みになっている書籍を買うとき、いちばん上に置いてある本をそのまま買っていこうとする人は少ない。薄い表紙の本であれば端がめくれ加減になっていたり、カバーの位置がずれていたりして、真新しさに欠けているからである。また外観にはまったく異常が認められなくても、誰かほかの人が手に取ったり触ったりした可能性が高い。手垢がついているかもしれないので、ちょっと気持ちが悪いと思うからでもある。書籍に限らず、どんな商品の場合も同様だ。誰でも店で買おうとするときは、ただ見るだけではなく、手に取ったり触れてみたりして、自分の感覚を駆使しチェックしたうえで買う。商品によっては、ためつすがめつ点検して、真新しいものを選ぶ。しかし、そのようにする権利が消費者にあるとはいえ、行き過ぎると権利の濫用となり、ほかの消費者に迷惑を掛ける結果となる。その権利の行使は、必要最小限に留めておかないと、皆がするようになり、結局は自分自身の首をも絞めることになってしまう。特に、生鮮食料品の場合は注意を要する。手で触れば、それだけ確実に鮮度が落ちていく。たとえ、包装がしてあったとしても、薄いものであれば、手の温度が伝わっていく。柔らかい商品の場合は、変形するかもしれず、そうなると間違いなく「きずもの」になる。衣料品などのファッション商品の場合は、特にディスプレーに神経を使っている。格好よく見えるように、また機能がよくわかるようにと、工夫を凝らしている。シャツやスカーフ類は重ねて置いてあっても、美的な調和を図っている。だが、それを次々と手に取って見ては、そのまま放り投げるに等しいやり方で棚に返していく人がいる。興味を抱いて、自分に似合うかどうかを見るために体に当ててみている人であったらまだよい。しかし、明らかにまったく買う気がないのに、手当たり次第ふざけ半分に触っていくのは、完全なルール違反である。ディスプレーのかたちを崩し、散らかしっ放しの様相を呈してくる。売り場という体裁を台無しにし、商売の邪魔をする結果にしかなっていない。店員としては、折り畳み直したり揃え直したりしなくてはならない。◆下品とは人への謙虚な思いやりがないこと一般的に、置いてあるものを手に取って見たり使ったりした後は、それを元の位置に返しておくのが大原則である。それだけでは十分でなく、さらに元どおりのかたちにして置いておかなくてはならない。その典型的な例を、茶道の作法のあちこちに見ることができる。その一つは、つくばいにおける柄杓の扱い方である。茶室に入る前には庭の中を通っていって、俗塵を振り払い、気持ちを純粋なものに高めていく。途中につくばいが置いてあり、その水を使って手を洗い口をすすいで心身を清める。つくばいの上には柄杓が置いてあるが、それは知恵を絞り美的センスをフルに発揮して、最も使いやすくて最も美しいかたちに置いてある。したがって、まずその置き方を鑑賞し、その造形美を頭の中に覚えておく必要がある。使い終わった後は、元の美しいかたちをできるだけ忠実に「再現」するべく努力するのだ。つくばいにおける柄杓の扱い方一つを見るだけで、その人の茶道に対する精進の度合いが如実にわかる。ひいては、人生を素直に生きていき、人々の配慮に対して感謝し、それを台無しにすることのないようにしようとしているかどうかも、はっきりと見えてくる。美意識の程度や感受性の強さについても、垣間見える結果になる。以上は茶道に関する話であるが、同じことは人生のあらゆる部分や場面についてもいうことができる。使ったら捨ててよいものでない限り、何でも元どおりにしておくのだ。それは整理整頓の原則の一つであり、人間社会の秩序を乱さないという心構えである。人の権利を侵害したり人に迷惑を掛けたりしないために守るべき、大切なルールだ。ほかの人たちの心情に対する配慮のない振る舞いは、一見したところ身のこなしが優雅であり、ものの扱い方が優美であったとしても、下品と決めつけられても仕方がない。人の心を理解し、それに対して相手が喜ぶような応え方をしていくのが、上品な振る舞いである。下品とは心がこもっていないことであり、上品とは心がこもっていることである。人に対する思いやり、それも謙虚な思いやりの気持ちがあるかないかによって、品があるかないかが決まってくる。

値切る◆買い物は客としてチヤホヤされる時間を買うこと私が独立した当初である一九七〇年代の初めころは、仕事のほとんどがファッション関係であった。一年に何回かニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、ミラノなど、主だったファッションの発信基地を訪ね、その帰りにシンガポールや香港に寄ってくるという旅行をしていた。香港では、ブランド物の時計やアクセサリー類のショッピングとおいしい中華料理を楽しむのが、主な目的であった。仕事をする中で知り合って仲よくなった、何人かの中国系のビジネスマンと情報交換をしたり食事をしたりするのも、楽しみの一つになっていた。彼らから最初に教わったのは、香港でショッピングをするときは、どんな店であっても一応は値切ってみる、ということだった。しかし、中心街に位置している、立派な店でブランド商品を買おうとするときは、値切る「勇気」がなかった。そこで、安物の実用品を売っているマーケットに行ったとき、試みてみた。何とか努力して値切ることに成功したものの、何となく後味が悪い。正札がついているのに、それよりも安くしたということは、初めから余分に儲けようとしていたということだ。負けてくれたとはいえ、不正直な商人であるから、まだまだ大きく儲けているのではないか。すると、本当はもっと安くしてくれることができたはずだから、客が「してやられる」結果になっている、と考える。疑惑と不満感が後まで尾を引くのである。しかしながら、香港の友人たちは、買い物をするときは値切るのが習慣になっているだけの話だという。商人のいいなりになる必要はないので、値段については堂々と交渉するべきである、と主張する。確かにそのとおりだが、私は値切るのに慣れていないので、心の中にさまざまな抵抗感が生じる。買い物をするときは、売る人を信用している。素性の知れない人からは買わない。最近は少なくなったが、見も知らぬ行商人から買おうとするときは、商品をためつすがめつチェックした。露天商人の場合は、同じ場所で何回か見掛けた後であれば、恐る恐るではあるが買ってみてもよいという気になる。やはり店構えがきちんとしていたほうが安心できる。逃げ隠れもできないし固定客の愛顧を得ようと努力するはずである。少しでも客をすようなことをして、その悪評が立ったら、商売も成り立っていかなくなる。商品の質も保証し価格も公正にしていることを期待できる所以である。それに、買い物をする場の雰囲気も重要な要素だ。ほしいと思ったり必要としたりする商品やサービスを手に入れるのが主な目的であるが、その手に入れる過程も自分にとってできるだけ楽しいものであったほうがよい。「ショッピングを楽しむ」というときの、その楽しみの内容を分析してみると、さまざまに副次的な目的があることもわかる。人によっては、店員とのふれ合いの中で会話を楽しむのが主な目的になっている人さえいる。特に、高齢で独り暮らしをしているような人の場合である。買う商品やサービスは単なる手段であって、買い物をするという時間を楽しむのが目的である。誇張していえば、客としてチヤホヤされる「時間の流れ」を買っているのだ。◆少しの得のために値切るのはやめようもちろん、値切ることによって、駆け引きを楽しむという人もいる。だが、商人側の立場に立てば、生計を立てるために懸命になってしている商売であるから、面白半分の慰みの対象にされたのでは、気分もよくないであろう。買う側の人も、売っている人たちの心情を多少は斟酌したうえで、行動をする必要がある。店を構え正札をつけた商品を売っていれば、一応は信用してみる。自分の経験や知識に照らし合わせて、公正な価格であると判断したならば、黙って金を払うのだ。その価格が疑わしいと思ったら、そこで買わなければよい。もし値切って安くしてくれたりしたら、表示と実際とが異なっている店であるという証拠である。値段だけでなく、ほかの点でも誠実さに欠ける可能性は十分にある。羊頭狗肉の商売をしているかもしれないのだ。また、万一、買った後で、高値を吹っ掛けていたことがわかった場合は、二度と訪れなければよい。「失敗は成功のもと」である。そこで人生における重要な教訓を「買った」と考えれば、意外に安い買い物をした結果にもなる。少しの得をしようと思って値切ったりしたのでは、自分のスムーズなライフスタイルに傷がつく。ストレートに気分よく振る舞ったほうが、人に与える印象もすがすがしいはずだ。

 

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