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第2部人望のある人の「日常生活」

第2部人望のある人の「日常生活」

目次

0─異質なものを受け入れる器量

野球の世界には正しいフォームが存在します。

型です。

芸能の世界なども流儀がありますから、やはり型にこだわらなければなりません。

しかし一流の選手や芸能人には型破りな人がいます。

メジャーでも立派に通用した野茂のトルネード投法は独特でした。

日米で打撃記録をつぎつぎ塗り変えているイチローの振り子打法も型にははまっていません。

ともに日本での監督は仰木彬さんでした。

ぼくも存じていますが、お酒が好きでした。

女性にも優しい方で、自らも型にはまらない監督でした。

野茂、イチローにはそれが良かったのではないでしょうか。

こうだからこうだ、といったこだわりの少ない人のもとで、人は大きく育つものです。

笑福亭松之助さんは明石家さんまさんの師匠として知られています。

今はどうかは知りませんが、自らの名刺にも「さんまの師匠」と刷り込んでいました。

しきたりや慣習などさして気にしない師匠です。

上方落語の名門「笑福亭」にこだわらず、自分が明石姓だからという理由で「明石家」とつけ、さんまさんの実家が魚の開きをつくる商売をしていたから「さんま」と名づけたわけです。

さんまさんは芸能界をスイスイと泳いで天下をとりました。

それも型にはまらない師匠がいたからこそだと思います。

というよりそういう師匠だとわかっていて師事したのかもしれませんが。

異質なものを受け入れるというのは、その人を認めるということです。

人間は多様です。

なにしろ二万あまりの遺伝子を持っているうえに一人ひとりの人間はそれぞれに異なる日々を送っています。

後天的な面でもちがったものを身につけています。

その人だけの個性を持っていて当然なわけです。

ですから多様な見方でもって個性に接するということが、師弟間や親子をはじめどんな人間関係でも大切なことでしょう。

AかBかの二元論に陥ってはいけないとすでに述べました。

AorB、YesorNoでいくから争い、対立、さらには戦争まで起きるのです。

アメリカの大統領選でオバマ氏が出てきたのも、AとBの異論を認めてそのあいだを取り持つ「妥協」を主張したその新鮮さにあったのではないでしょうか。

オバマ氏についてはあとでまたふれさせていただきます。

人間のタイプにもタイプA、タイプBの二つがあることはよく知られています。

タイプAはせかせかしていて細かい。

競争心も旺盛。

それに比べタイプBはのんびり屋で争いも好みません。

AはBを見ると、いらつく。

一方BはAの存在自体にストレスを感じる。

そこに両者を取り持つ人間が求められるのです。

AとBの中間というのではありません。

AもBも超えたところにいる人、そう、人望のある人こそがその人たちです。

さきに述べた器量も持ち合わせていて、「ほど」ということも心得ていると思います。

「○○せねばならない」あるいは「○○すべきだ」などと人に無理強いはしない。

タイプAとタイプBが対立していたら、妥協点をうまく見つけ出そうとするでしょう。

人望のある人は議論や説得することを好みません。

考えを押しつけるより、おたがいが話し合って折り合える答えを見いだす。

そんな努力を大切にする人たちです。

人間のいい面、悪い面は表裏を成しています。

タイプAとタイプBがそれぞれのいい面を自分のものにすれば、素晴らしいAB人間になるのではないでしょうか。

生き方と自分の体験の中で、そういうことがわかっているのが人望のある人なのです。

頭から否定したりする言動はとりません。

「あっ、そうきましたか」「なるほど、それはおもしろい考えですね」「そうだったんですか」こんなことを言いつつ、AとB双方を取り持ってたがいの問題点を気づかせる。

人望のある人の存在が増せば増すほど職場の対立感情はやわらいでいくことでしょうね。

【もう一言】作家の城山三郎氏が河盛好蔵氏との対談で「今の実業家はどうですか」と尋ねられ、次のように答えています。

〈Aクラスしか頭にない人とそうでない人といます。

いい実業家の例で言えば、本田宗一郎さんは『私の手が語る』という本で、人間には右手と左手とある、たとえば金槌を叩くときに右手は動きが目立つからみんなが注目するけれども、実は受けているほうの左手もなくてはならないし、ときには叩かれて傷を受ける、だからその左手を大事にしなくちゃいかん、という言い方をしています〉右手も左手があってより力が発揮できるんですね。

1─「あの人間なら」と思われる人にある人望

私心、つまり自分の欲望や利益追求を第一に考えることですが、人望のある人とはおよそ縁遠い心でしょう。

政治家や経済人など数多くの伝記を残している城山三郎氏は新聞のインタビューでどんな人に関心を持つかと問われ、こう答えておられました。

「私心がない人です」総会屋との癒着など企業の不祥事が続発したころ、氏を茅ヶ崎に訪ね、お話をうかがったことがあります。

「トップに気概がないとだめですよ」と強調されて花王の社長だった丸田芳郎氏の名を挙げ、株主総会の工作など一切せず気概で臨んだ方だというエピソードを話してくださいました。

城山氏の作品では戦争や高度成長、国際化と変動の世を堂々と渡ってきた人たちがよく取り上げられています。

そして世のため人のために生き抜いた人たちの姿が印象深く描かれています。

代表作の一つである『もう、きみには頼まない』は経団連会長を長く務めた石坂泰三氏を描いて、戦後一番の大物財界人をすっくと立ち上がらせてみせました。

城山氏は『週刊文春』の阿川佐和子さんとの対談(城山三郎編『失われた志─対談集』にも収録)で石坂氏について次のように語っています。

阿川どういうところが興味深い人物ですか。

城山『もう、きみには頼まない』と題名にもしたけど、石坂さんは頼むとか頼まれるということの重さを、しっかり受け止めている人なんですね。

普通の人なら、第一生命の社長までやったんだから、いまさら大量の人員整理をするか大型倒産かと言われている東芝に行かなくてもと思うでしょう。

でも、彼は、きみしかいないと頼まれた以上、自分の生命の危険があったって、東芝の社長をやるんだと引き受ける。

阿川勇気がありますね。

城山ある意味では、何回も命を賭けるようなことをするわけですからね。

一番劇的なのは、東芝で、今までの社長や役員は組合から逃げ回っていたのに、石坂さんは社長になると、自分から組合の事務所に乗り込む。

こういう、一種の蛮勇とか愚直さを持って王道を歩む人が現代にはいないんですよ。

そういうところが好きだし、やっぱり書こうかな、書けるなと思うようになったんです。

これを読んでもおわかりのとおり城山氏のこだわりはその人の志であり、一人の人間としての生き方なのです。

使命感や理想を持った人間の正々堂々たる生き方こそが氏に「書こう」と決断させていたのです。

氏はみんなが「あの人間なら」と思う人格の大切さについてやはり『失われた志』で次のように語っています。

〈今までの「右肩上がり」の時代では、実力や実績があるとかないとか、人間がどうだということを問わないで、誰がやっても同じという雰囲気があった。

そうすると出世していく人は、コネがあるとか毛並みがいいとか、いい学校を出ているとか、人間関係がうまいとか、そういう人ばかりが役員になる。

本当に実力がある人、ほんとうに人物ができている人間は、みんな置いてけぼりにされてきた。

だけど、「右肩上がり」が止まると、むしろその逆になっていってる。

今まで置いてけぼりにされてきた人にとって、チャンスの時代が来ている。

変化の時代には、「あの人間が来るなら信用して取引しよう」という、「あの人間なら」という人格がものを言ってくる。

「あの人間」になるチャンスだと思いますね〉ここで氏がおっしゃる「あの人間なら」は私心がない人に通じるのはもちろん、ぼくらがふだん「あの人の話を聞いてみたい」などと思ったりする「あの人」とも人間的に重なるように思えます。

「あの人の話は聞きたくない」というその人はきっと偉そうで押しつけがましくもの言う人、あるいは肩書きでもの言うような人でしょう。

いけ好かないという感情だけではなく、みんなはその人との間に距離も感じているんですね。

それに比べると「あの人の話を聞きたい」の「あの人」は、それはそれはいい距離感を持った人なのです。

人生経験もあり実績もある。

でも権威を感じさせない。

親しみやすさもあって、けっこう普通の人なんだと思わせるところもある。

もちろん人の話も聞いてくれる。

こういう人にぼくらは好感を持ちます。

こういう人にこそ人望が集まるのだと思います。

【もう一言】友人のA君の家に似顔絵入りのファックスが一枚送られてきました。

「このたび『Aさんと飲もう会』を立ち上げました!つきましては──」A君は城山氏ふうに言えば自分の「本懐」を大切に生きている印象があって、笑顔を浮かべ「気楽にやっているよ」が口癖です。

それがいいのでしょうね。

そんなファックスが届けられるのも職場で「あの人なら」と思われているからなんですよね。

2─「たかが人間、おたがい様」がつくる人望

人間、いくら老境にさしかかっても俗世間との関係は絶ちがたいものです。

藤沢周平氏は短編『静かな木』で古寺の境内に静かに立っている晩秋の欅を眺める隠居の武士、孫左衛門の胸中をこう描写しています。

福泉寺の欅は、闇に沈みこもうとしている町の上にまだすっくと立っていた。

落葉の季節は終わりかけて、山でも野でも木木は残る葉を振り落とそうとしていた。

福泉寺の欅も、この間吹いた強い西風であらかた葉を落としたとみえて、空にのび上がって見える幹も、こまかな枝もすがすがしい裸である。

その木に残る夕映えがさしかけていた。

遠い西空からとどくかすかな赤味をとどめて、欅は静かに立っていた。

──あのような最期を迎えられればいい。

ふと、孫左衛門はそう思った。

しかしながら、世俗を隔てた老境はやはり理想でしかない、とあとで思い知ることになるのです。

こう述懐して人生への感慨を深くしています。

「ふむ、生きている限りはなかなかああいうふうにいさぎよくはいかんものらしいて」ある高僧に言わせれば、人間は生きているかぎり煩悩があるのだそうです。

ですからもう迷いがなくなったと悟ったようなことを話す人には、「誠にご愁傷なことで」と言ってやればいいという話でした。

つまり煩悩があってこその悟り、煩悩がなくなるときは死ぬときだと言うわけです。

そう言えば江戸後期の高僧で「博多の仙崖さん」として親しまれた仙崖和尚の最期の言葉を思い出します。

「死にとうない、死にとうない」これには弟子たちも聞きまちがいではと耳を近づけるのですが、仙崖さんは「ほんまに、ほんまに」とつけ加えたと伝えられています。

この逸話の解釈はいろいろあるのでしょうが、ぼくは言葉どおりに受け止めています。

そういう言葉とともに、人間のなんたるかを教えてくださったのだと思ってみたりするわけです。

結局、人間の現人など知れたもの、もっと言えば「たかが人間」ということではないでしょうか。

しかしたかが人間という目で世の中を見れば、息をするのも楽になる感じがあります。

人間関係でいろいろあっても、たかが人間、おたがい様──そう思うと、嫌いだと思っていた人に対しても「どうのこうの言えた義理か」と思い直すことができます。

もう一度、藤沢氏に登場願いましょう。

氏の『三屋清左衛門残日録』に残された日々を生きるやはり隠居の武士、清左衛門の次のような考えが書かれています。

〈衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。

しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ〉一種の死生観ですが、氏は「きいたふうなことを書かなきゃよかった」とあとあとまでひっかかっていたようです。

ぼくなどには心に残る言葉で読み返して味わったものですが、それはともかく氏自身の終章はどうだったのでしょうか。

一人娘の展子さんの『藤沢周平父の周辺』に藤沢氏の遺書めいた文章が紹介されています。

奥さんの和子さんに「ただただ感謝するばかりである」と記し、「満ち足りた晩年を送ることが出来た。

思い残すことはない。

ありがとう」と結んであります。

展子さんの著書には生後九日目の孫(展子さんの息子の浩平君)と対面する藤沢氏の写真も収められています。

初孫を抱くその表情がじつにいいんですね。

藤沢氏は半生に自ら「胸がつぶれるような」と書く悲しみを刻み込んでいます。

三十二歳で結婚して長女展子さんをもうけますが、出産八ヵ月後に妻の悦子さんを失います。

ガンだったそうです。

その後、和子さんと再婚して築いた家庭が藤沢氏の創作の支えとなりますが、そんな氏にとって初孫の誕生はそれこそ天から与えられた宝にも思えたことでしょう。

氏は一九九七年のはじめに先に紹介のとおり「感謝」という言葉とともに人生を閉じています。

後半生は清左衛門の「残日」とどこか重なるように思えます。

「残日」、すなわち「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」と、単に残る日を数えるのではなく、日々に緊張感や張り合いを自身にも求めた姿がしのばれるからです。

話が少し横道にそれたようです。

こだわるべきテーマは人望です。

いや、横道にそれたわけではありません。

少し遠回りしただけです。

苦学して中学校の先生になったものの胸を病んで教壇を去る。

大手術に耐えて回復後は業界紙の記者になり、そのかたわら創作に励む──聖も俗も生も死も飲み込んで人生を持ちこたえてきた藤沢氏が、たとえば職場にあって部下の相談を受けたとしたらどう答えるだろうか。

察するに、こんなふうな言葉ではないでしょうか。

「いいときもあれば、だめなときもあるもんですよ。

それが人生、おたがい人間と言いますかねえ」ある上司がなにかことがあると「まあまあ」と言って肩を叩いてくれ、こう言うのが口癖なんだと後輩が教えてくれました。

「おたがいゆるゆる行きましょう」いいですね、ゆるゆるっていう言葉の響き。

人望のある人の言葉でしょうね、きっと。

【もう一言】藤沢周平氏の一人娘の展子さんは『父・藤沢周平との暮し』でこんなことを書いています。

〈失敗は誰でもするもの、失敗しない人間なんていない、問題は失敗したあとの対処の仕方にある、と父は考えていたようです。

なにしろ、失恋した娘に「これもいい勉強になったと思って、あきらめろ」と言い切った親なのです。

転んでもただでは起きない、そんな不屈の精神が、穏やかな父の内面にはあったのだと思います。

父から言われた言葉で、心に深く残っているものが、いくつもあります。

「普通が一番」「挨拶は基本」「いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない」「謝るときは、素直に非を認めて潔く謝る」「派手なことは嫌い、目立つことはしない」「自慢はしない」〉

3─その人の「物語」がはぐくむ人望

「伝える─伝わる」というコミュニケーションでは言葉の力が大きいのですが、言葉のはぐくまれ方は人それぞれです。

状況に応じてどんな言葉を選ぶかという選択においても、あるいはものの見方、考え方においても、それまでのその人の生き方がその人らしい言葉として現れるからです。

つまりその人の生き方が反映されるわけですね。

「誠」は言で成ると書きます。

その言葉がどれだけ心を語っているか。

どれだけ誠があるか。

口先だけではマコトは伝わりません。

言葉より語るものです。

その「語るもの」に影響を与える一つとして、ここでは「物語」にこだわってみたいと思います。

物語──たとえば元首相の田中角栄氏と聞けば、みなさんは何を思い浮かべるでしょう。

やはり雪国新潟から身を起こし今太閤と言われる天下人に上り詰めた、そんなサクセスストーリーではないでしょうか。

娘の田中眞紀子さんは言ってみれば東京の金持ちのお嬢さんなわけですが、選挙運動で新潟にお国入りすると街宣車で駆けめぐり、「おらがー」と土地の言葉で話しかけます。

「ばあちゃん、元気だかね」「じいちゃん、達者かえ」「今日はあっついのう」「おめさんも元気で何よりだなぁ?」「草取りがたいへんだぁ」「今年のコシヒカリはどんな具合だぁ?」時にはだみ声になって、まるで父角栄が一人ひとりに声をかけているような方言丸出しになる、と眞紀子さんの選挙戦を紹介したルポなどにはあります。

眞紀子さんは雪国新潟を舞台にした父の物語にのっかって訴えているんですね。

父角栄は立身出世の成功物語のほかに、数多くの艶福エピソードでも彩られています。

可愛い気、愛嬌があるといった角栄評はよく聞かれましたが、男の愛嬌についてはやはり女性が一番わかっているようです。

「越山会の女王」の異名で知られた佐藤昭子氏の『私の田中角栄日記』にこんなくだりがあります。

総裁選で勝利したときの姿を思い浮かべたあと、彼女はこう書いています。

そして、もうひとつの稚気溢れた人間田中角栄の顔があった。

ホール・イン・ワンをした時の子供のような笑顔。

親しい人がくると一日四ラウンドもした自分のゴルフスコアをメモにして見せる得意そうな顔。

秘書相手に将棋をやっている時、相手の駒を取ってニコニコしている顔。

そのすべてを、私は好きだった。

二十三年間秘書で仕えた早坂茂三氏によると、新潟の山奥から信玄袋をぶら下げてきた婆さんの手を引いて玄関の靴や下駄の洪水から彼女の下駄を探しだし、履かせてやって見送るのだそうです。

早坂氏が「そこまでする必要があるんですか」と言うと、こう叱られたそうです。

「必要はないさ。

けどな、オレに送られて怒る人はいないんだ。

あの婆さんは田舎に帰って、角がオラを玄関まで手を引いて送り、下駄を履かせた、それを隣近所にしゃべり回る。

みんなニコニコして、お婆ちゃん、良かったね。

こうなるんだ。

それでいい。

第一、客をしょっちゅう送ってれば、オレの運動になる。

それとカネが一銭もかからない」さてそんな角栄ですが、彼に人望があったかどうかは微妙なところです。

佐藤氏の角栄評からうかがえるのは「子供のような笑顔」とか、「得意そうな顔」と表現されているように人望より人気、あるいは人徳ではなかったかと思われます。

人徳も人望の中に入るという考え方はあるわけですが、ぼくはその人に備わったもの、持って生まれたものという意味合いで受け止めていることはすでにふれたとおりです。

それでは物語と人望の関係性はどんな人だと強まるのでしょうか。

米大統領選の民主党指名争いでヒラリー氏を打ち破ったオバマ氏など、その代表的な人物のように思われます。

アフリカ系米国人として生き抜いてきた彼の半生は、そこに豊かな物語を持っています。

スピーチで発せられる言葉も物語と一体です。

相手候補だったヒラリーも大統領夫人としての物語を持っているわけですが、オバマの物語のほうがよりインパクトのあるメッセージを放ち、多くの共感を得ていたようです。

ここでオバマ氏の詳細な経歴は省きますが、『ニューズウィーク誌』が民主党指名争いの最中に〈黒人と白人の血を引き、幼いときに父親と別れ、ハワイとインドネシアで育ったオバマは、自分のアイデンティティー探しを「アメリカの希望」の物語に紡ぎ上げてきた。

そして今、その「物語」を政治に当てはめようとしている〉と書いていました。

オバマの物語は黒人ならではのストーリーを紡ぎ出し、語られ、人々の希望とともにオバマの人望をも大きくしていったように思えます。

ところで物語について身近なところで思い起こしてみるわけですが、何人かの先輩の顔が浮かんできました。

たとえばある先輩はドヤ街での長期潜行という体験など、勇気と粘りに富んだ数々の物語を持っていました。

でもそれらは彼自身の口から語られることはありませんでした。

人づてにぼくらの耳に入ってくる。

それがいいわけで、その先輩がトップ記事をものにすると、すでに知っている彼の物語とともに「さすが○○さんだ」と語り合ったものです。

考えてみればオバマ氏もそうでした。

メディアは彼の半生記をいろいろ紹介していましたが、彼自身は歩んできた道をことさら訴えていたわけではありません。

物語は聞かせる話として語られるものではないのです。

語らずとも、その人自身の生き方とともに伝わってくる。

それがいいのです。

聞き手はその人の物語を引き寄せて耳を傾ける。

だからその人の言葉は一言一言以上の意味を持つのです。

ぽつりと静かに言っただけなのに感じ取れるものがある。

うなずいて聞いている自分がいる。

その人の持つ物語ゆえのことです。

物語は、そうして人望のある人の魅力をさらに高めていくのです。

【もう一言】オバマ氏の言葉については、ぼくの同僚が彼の演説はどこがそんなにすごいのかというテーマで分析していました。

その記事を引用したいところですが、なんと同僚のその記事を井上ひさし、丸谷才一両氏が『文藝春秋』誌(二〇〇八年六月号)で紹介していました。

井上氏は次のように発言しています。

〈先日の毎日新聞に、とても興味深い記事(三月四日付夕刊)がありました。

「なぜオバマ候補の演説が人々を動かしているのか」をテーマに、大学教授の方々も加えてオバマ演説を詳細に分析しています。

オバマさんの演説は、「何かが起こりつつある(Thereissomethinghappening)」から始まる。

このフレーズを冒頭にぽんと置いて、まず、聞いている人の心を掴む。

そして間をとってから、「変化です!(Change!)」とつづける。

実際に変わることはそう簡単ではないと聴衆がいぶかるところに、奴隷解放など過去の具体的事例を引用して、再度「チェンジ」と畳み掛ける。

ここから観客も一体となった「イエス・ウイ・キャン!」とつながっていく。

奴隷解放という過去から、変わらなければいけない現在、そして希望がある未来へと、話し手と聞き手がともに前進していくわけですね。

この記事を読んで、オバマさんの演説はとても演劇的、物語的だと感心しました。

サブプライムローン問題などもあって現在のアメリカは深刻な閉塞感があるらしいが、そこへ「チェンジ!」という一語で希望を掲げて前へ進む力を生み出していく。

こういう演説を日本の政治家から、日本語で聞きたいと思いました〉

4─人望のある人はむやみに不安がらない

どんなときでも冷静沈着な上司がいれば、部下は落ち着くものです。

逆にすぐ不安がり、ばたばたする上司だと部下も落ち着きません。

大阪社会部での宿直勤務は五人一組でしたが、なにかあると若い記者の順に出動させられます。

十日に一度ぐらいの割合でその勤務がくるのですが、気になったのはその夜の宿直キャップが誰かということでした。

キャップによってはちょっとした事件でも「すぐ現場へ」と命じる。

現場がどうか確かめさせないと、不安だったのでしょうね。

それはよくわかるのですが、第一出動のぼくはたまりませんでした。

A地点へ行く。

一字にもならないボヤ。

またキャップの指示でB地点へ。

路上の喧嘩。

これも字にならず、帰社中、またポケベルが鳴りだす。

飲み屋で客が暴れているらしい。

そう言われC地点へ。

一本の記事にもならないまま一晩中走り回っていたことがありました。

そんなに現場に出動させないキャップもいました。

正直言ってホッとしたものです。

と書くと、出動指示の多いキャップを批判しているように思われるかもしれませんが、そのつもりはありません。

その後ぼくも泊まりキャップになって、その判断の難しさがよくわかりました。

一報で事件や事故の大小が判断できるとしたら、それはたいへんな洞察力です。

その力もないのに現場へ記者を出さないでいるというのは、とても不安なことなのです。

不安にもいろいろあります。

もし──したら……と先のことを案じる不安。

いや、それが悪いというのではありません。

もともと人間は先のことをあれこれ心配して事前に対策を講じるなどして、今日の人間社会を築いてきた経緯があります。

一概に不安感情を否定できるものではありません。

問題は、不安がったところで手の打ちようのないことに対してまで、いちいち過剰反応してしまうことでしょう。

大地震への不安なども気にしだすと際限がありません。

自分でやれるべき対策を講じたあとは、必要以上に不安がらないことだと思います。

何事によらず必要以上に不安がれば、それがストレスになって心身のバランスを崩し本当に病気になってしまうこともあります。

パニック発作なども不安が不安を呼んで、ついに死の不安を覚えるという経過をたどる症状です。

不安がったところでどうにもならない不安は、腹をくくる必要があるのではないでしょうか。

ぼくが信頼していた泊まりキャップは、社会部内でも人望がありました。

「もう少し様子を見てみよう」と静かに事態の推移を見守るタイプでした。

腹のすわった人だなあと思ったその人は、大学時代から始めた山登りを楽しんでいるようでしたから、危険と向かい合う中で対処法をおのずと身につけられたのでしょう。

洞察力も鋭かったように思います。

ところである職場の後輩から聞いたのですが、あることが起きたとき、「大丈夫」と言い続けた上司がいたそうです。

後輩は「大丈夫と言う根拠がはっきりしてませんでしたから……」と困惑気味にその話をしていましたが、その「大丈夫」は自分への言葉でもあったのではないでしょうか。

まず「大丈夫」と言い聞かす。

すべてはそこからという気持ちで難事に対処するのも上司の役割ではないかと思います。

【もう一言】本願寺津村別院の教化誌『御堂さん』の編集長、菅純和氏が、誌上での対談でこんな話を紹介していました。

「若くして夫を亡くされて、小さい子どもを抱えて、これからどうしようかと、悲しいよりも、将来のことを思うと真っ暗で、途方に暮れていた人がいるんです。

いろんな人が、あれこれ慰めても少しも慰めにも励ましにもならなかったのが、同じ体験をした人に、『とにかく、あまり先のことは心配しないで、目の前のことだけを考えて解決していけば、いつの間にか何とかなってるものですよ』と、アドバイスされたことだけが心に届き、光を見ることが出来たと、そう述懐されてました。

そういうものなんでしょうね」

5─ケチ・セコイと思われたら人望もなにも……

かつて向田邦子さんが「お金を払っている男の人を見るのが好き」と対談で話していました。

その心は「卑しさもステキなところも全部出るから」でした。

週刊誌の編集長をやっていたころ、色だ!金だ!とよく叫んでいました。

その二つに読者がいると信じていたからです。

事件記者のころ、刑事さんが「結局、人間というのは、色、金、メンツだよ」と言っていましたが、今はそれに「健康」がつくのだそうですね。

色、金、メンツ、健康、そこから人となりが見えてくる。

生活を崩している理由もその四つの中にあるというのです。

さてこの四つの中で最も人間がよく見えてくるのは、そう、向田さんがおっしゃるとおりお金かもしれません。

東京地検特捜部時代、数々の汚職事件や脱税事件を手がけた「さわやか福祉財団」理事長の堀田力氏が、エッセイでこんなことを書いています。

ある個人経営者の脱税では、ガス・水道代節約のため風呂は月に一度、あとは水洗いで石鹸は使わず、十年ほども使っている軽石で垢をこすり落とすという超々倹約生活だった。

栄養状態の悪い夫婦が脱税を認めた時の、もの悲しく恨めしげな眼が忘れられない。

このほかにも某銀行の会長が入院中、見下した態度を取って看護師の総スカンを食った話や、ため込んだお金を守ろうとしていつも神経をぴりぴりさせていた政商のことなども挙げて、お金の恐ろしいのは人間を変えることだとも指摘しておられます。

部下というのは上司の人間性をお金がらみでよく見ているものです。

サラリーマン川柳にこんな句がありました。

割り勘の上司がもらう領収書セコ!部下は心の中でそう叫んだのと同時に、その上司から一歩も二歩も距離を置くようになったことでしょう。

ケチだ!セコイ!と思われたら人望もなにもないでしょう。

ケチ、セコイと始末はちがいます。

始末というのは美習でありまして、家計を預かる主婦などは始末にいろいろ心をくだいているものです。

毎日の積み重ねが大事だとわかっていますから、「水道、出しっぱなしよ」と妻の手が伸びてくるのは、世の多くの亭主はご存じでしょう。

女優の奈美悦子さんなど、歯磨きやからしなどのラミネートチューブをとことん絞り出して、出なくなったら最後はきれいに切り開き中身をこそげ取って使い切ると話していました。

こういうのはケチではありません。

始末です。

女性は元来、ケチくさいことを男以上に嫌っています。

ケチくさい男は最低と言う女性は多いですよ。

ところであなたが上司なら、「近いうちに食事でも」と声をかけることもあるでしょうね。

この約束はぜひ守ってください。

「近いうちに」と声をかけられた部下は、ちゃんと覚えているものです。

そしてその食事代はあなたが持ちましょう。

誘ったのはあなただし、同僚同士ならともかく上司の立場、まあそれがエチケットというものでしょう。

お金は使い方です。

使い方でたいした金額のお金でなくても生きてくるのです。

人望のある人の「近いうち」は本当に「近いうち」だと思います。

繰り返しておきます。

お金とからんで見える人間の真実にはみなさん敏感です。

心してください。

【もう一言】スイスの心理学者、ユングが「幸福の五条件」を示しています。

その五番目に「自分でほどよいと思う程度のお金を持っていること」とあるのですが、ほどよいとはどのくらいの額なのでしょうか。

ある金融会社が「サラリーマンの平均小遣いは4万6300円」と発表していますが、みなさんのお考えはいかがですか。

6─「理想の上司」を演じるな

「理想の上司」のアンケート結果を新聞や雑誌でよく見かけます。

男性ではプロ野球ヤクルトの選手兼監督だった古田敦也さん、女性では女優の篠原涼子さんとか、著名な方の名前がいろいろ出ています。

ちなみに古田さんについては「管理だけでなく一緒に働いてくれる」という理由が多かったようです。

しかしこういうアンケートってイメージ先行でしょうから、理想の上司について抱いている印象はある程度わかるにしても、現実感に乏しすぎます。

そんなポピュラーな理想像を答えられても、今の職場状況はそんなに甘くないという感じもします。

それに部下にいいように思われたいという動機で理想の上司を演じても、所詮演技のまま終わるだけでしょう。

人は相手の期待に添った言動をしがちです。

そうか、古田が理想の上司か。

なるほど、古田のよさはものわかりのよさか……といった理解で振る舞ったとしても、それでどうなるものでもないでしょう。

そんな程度の自己改革は一日で終わるでしょうね。

学生時代、ぼくはスクリーンの高倉健さんに憧れていました。

映画館を出るとき、男はみんな健さんになっていたとはよく言われますが、本当にそうでした。

ぼくの場合は、無口になるということが少なくなかったように思います。

といって健さんはそう長く続くものではない。

そうですね、無口も三時間と持たなかったでしょうか。

実生活で健さんになるというのはよほどの覚悟がいるのです。

健さんは楽な道を選ばないし、手柄は人に譲り、失敗は黙って自分でかぶる。

好きな女性がいても健さんは身を退いて去っていく。

カッコよすぎて、ぼくら凡人が健さんをやるとストレスがたまるんですね。

理想と現実のちがいをこれほど教えてくれた男優もいません。

職場で部下から「理想の上司です」と言われるようになるには、むしろ飾らない自分を素直に出す。

それで尊敬され、信頼される。

そのことを抜きに人望はあり得ないのではないでしょうか。

取ってつけた演技など、すぐにボロが出るものです。

自分をひけらかさない。

俺が、俺がといった態度を取らない。

おのずとそうなるといった無理のない態度。

求められるのは「見る」とか「見られる」とか、そういう意識を超えた本当の自分自身のありようでしょう。

部下の期待に添って行動しようなどと思っているうちは、部下もそれなりの評価しかしないものです。

他人の評価を求める気持ちがあるうちはだめなのです。

自分の価値を判断するのは、鏡に映っている自分を見ているもう一人の自分なのではないでしょうか。

人がどう思うかではなく、自分がどう思うかです。

まず自分。

自分がしっかり生きること。

すべてはそこからではないでしょうか。

人望もその生き方からしか生まれないでしょう。

むしろ人望は他人を意識したときから失うものでしょう。

もちろん自分に問題があると思えば自分を変えること。

上司と親は変えられないとは、よく聞く言葉です。

しかしそれを言う前に、変わらなければならないのが自分だということも忘れてはなりません。

以上、自戒を込めてのことでもあるとご理解ください。

臨床心理士が言っていました。

「不自然って相手にはわかるんですね。

無理してる。

そう思われたら相手は冷めた目で見ますから、心を開きません。

職場の人間関係でも、自然体の人が一番良好な関係を保っているんじゃないでしょうか。

部下をほめる。

大事なことですが、ほめ言葉の大安売りでは人間性を疑われます。

この人は心から言ってくれていると思えるような違和感のない言葉って自然に出てくるものですよね。

『助かりました。

ありがとう』とか、短くても相手にはそれで伝わりますよね」【もう一言】堀田力氏が『人生を楽しくする、六つのルール』を提唱しています。

その一つは「いやなこと、無理なことはハッキリ断る」です。

堀田さんは「いやなこと、無理なことを抱えて、鬱々と悩むことほど精神に悪いことはない。

少しも楽しく生きられない。

そこで私は思うのだ。

『できない』のは、恥じゃない。

カッコつけたり、義理があるからと仕方なく引き受けてしまう……そんなことはしないに限る」とエッセイでその理由を説明しています。

7─人望のある人は重心が低い

相手がどう出るか。

それに備えた姿勢を構えと言います。

少し屈んで腰を落とす。

その姿勢に共通するのは重心の低さです。

重心が低いと言えば、すり足で足を運ぶ柔剣道など武道はその代表ではないでしょうか。

古武道の心得があるという中年の男優がテレビで実際にやってみながら、その効果のほどを説明していました。

立ったまま肩幅の広さに両足を開く。

次に踵を上げて、また下ろす。

さらに肩を持ち上げるように上げて、またストンと落とす。

体が少し前屈みの状態になるが、この姿勢は抜群の安定感があって前から胸を突かれても簡単には倒れないのだ、と話していました。

言われるままやってみましたが、たしかにそうで、構えとか重心の低さも体得できる感がありました。

これらは呼吸法とも一体となったものですから、茶道や書道、華道や日舞などの基底に共通する精神性とも通じているように思われます。

また球技の多くにも少し屈んで腰を落とす構えがありますね。

バレーボールをやっていた女性が重心の話になったとき、こうして構えるんです、とレシーブの姿勢を見せてくれました。

ふと思ったことですが、人望のある人には重心が低く、呼吸も深く長い印象があります。

重々しいという感じではありません。

むしろ重さは感じさせない。

静かで淡々として物事に動じたふうがない、そんな感じなのです。

事態は刻一刻とさまざまに変わる。

組織にとっては攻める場面もあれば、逆に守らなければならない場面もあります。

それに伴って、人間ですから喜怒哀楽の感情もこみ上げてきます。

しかし上がいちいち顔の表情を変えていては、下は落ち着きません。

とりわけ組織がピンチに見舞われたときなど、下は上の顔色をうかがうものです。

上が落ち着いて冷静沈着な態度だと、みんなも安心できます。

たいへんな思いでいるときは、息を下っ腹に吐き切れば気持ちを安定させることができる、とある僧が話していました。

腹の底にすーっと息を吐くと心の静けさが保たれるというわけです。

不安な思いは極力頭に上げない。

頭に上げれば動揺する。

ここは下っ腹に力を込めて息をゆっくりと吐き、その吐く息と一緒に不安も出す。

そしてまたゆっくりと吸う。

いわゆる長息の呼吸法です。

あとは涼しい顔をして傍らに控えている。

なぜか人望の集まる人にはそういうタイプの方が多いように感じられます。

【もう一言】足を組んだ座禅のスタイルで息を吐いているとき、不思議と頭の中は空っぽです。

心を無にすることもできます。

なんの計らいもない。

「座忘」という仏教用語があるそうですが、いいひとときです。

きんさん、ぎんさんは仏様に手を合わせたとき、無になれたそうです。

ノンフィクション作家の綾野まさるさんの著書でこんなことをおっしゃっていました。

「……仏さんと向き合った時は、心を空っぽにして手を合わせにゃいかんねぇ。

そうすりゃ、自然と感謝の心が湧いてくるがね。

こうやって生きてること、それがありがたいことやと身に染みるがな、それが大切やとちがうやろか」

8─「嫌えば嫌われる」関係のブレーキになる存在

人間には自分という存在が認められたいという欲望がある、とすでに述べました。

自分を表して認められるという関係で「表現欲」という人もいますが、自分の存在確認ですから一生続く欲望とみられています。

大阪社会部にいた一九八五年、豊田商事事件がありました。

もっぱらお年寄りをターゲットに純金で儲かるなどと投資話を持ちかけていた詐欺商法ですが、被害を知って駆けつけた子どもたちに、こう言ったおばあさんもいました。

「そやけど、お前らより豊田はんのほうがほんまに優しかったで」優しかった、すなわち自分の存在をちゃんと認めてくれたというわけです。

病院でも長期入院中のお年寄りに「今日は顔色がいいですね」と声をかける看護師さんの一言が、薬よりも何倍も効果があると言います。

わかる気がします。

子どもも見舞ってくれなくなった。

自分などもう忘れられているのだろうか。

ふとそんな思いにかられがちな病院で、看護師からかけられた一言。

それもずっと見守ってくれていたんだと思える言葉。

嬉しいにちがいありません。

臨床心理士が言っていました。

「相手を認めることが私たちの仕事の基本です。

悪いところを治してあげようなんて思っていたら、みなさん、心を開いてくれません。

いいところを探して相手の存在をちゃんと認める。

そういう人間関係ができて初めて向かい合えるんですね」ぼくふうに言えば、それは「思えば思われる」関係です。

人間関係は難しい。

苦手な人物はいろいろいる。

嫌いだからつき合わないですむならそうしたい。

しかし職場などではそうもいかない。

どうするか。

とりあえず見方を変えてみてはどうでしょう。

彼のいいところはなんだろう。

その人ならではの持ち味はあるものです。

さきの臨床心理士の話ですと、悪いと思えるところでも見方を変えればそれはその人のにくめないところだったりするそうです。

長所の一つや二つはすぐ見つかるでしょう。

あとはそのいいところを大切に思って接してみる。

すると彼の態度も変わってきた……。

思えば思われる、です。

今日「心の病」はもちろん職場では過労自殺まで伝えられています。

いじめもふえているらしい。

職場の息苦しさは増す一方のようです。

悲しいかな、それは思えば思われる関係ではなく、「嫌えば嫌われる」関係を物語るものでしょう。

心理学では「好意の変報性」に対し、「嫌悪の報復性」と言うそうです。

報復なんて、怖い話ではないですか。

さて、そこで求められるのが人望のある人なんです。

いや、みんながみんな、思えば思われるで人間関係を維持できれば、それにこしたことはないのですが、やはり嫌えば嫌われる関係もあるわけです。

むしろ職場状況は「嫌悪の報復性」を強めているように見受けられます。

ギスギスした冷え込むばかりの人間関係。

人望のある人のぬくもり、穏やかさは際立ってくるわけです。

なによりも人望のある人は、「嫌悪の報復性」のブレーキになるでしょう。

彼らは本来の仕事以上に大きな仕事をしている方々だと思います。

【もう一言】仕事の進め方に①②③と三つの方法があるとします。

あなたは①がいいと思っている。

でも相手のことを思って、「①の方法でやりましょう」とは言わず、「①②③と三つの案があります。

データはこうなっていますが、どの方法がいいでしょうか」と聞く。

データの部分を工夫すれば、相手は「①がよさそうだ」と答えてくれるでしょう。

あくまでも相手の側に立って思えば思われる関係を保てば、仕事もスムーズにいくことでしょう。

心理学の本で紹介されていた一例です。

9─つかず離れずの人間関係

「いい加減」という言葉はじつにいい加減です。

手元の辞書を引いてみると、こうあります。

①ほどよい様子。

適度②無責任である様子。

大ざっぱつまり①はプラス、②はマイナスの表現なわけです。

加減の加は「加える」、すなわちプラス。

減は「減じる」、すなわちマイナス。

ですから正にも負にも転じやすい。

文脈によってコロコロ変わる。

そう、本当にいい加減な言葉なんです。

ですが、ここにこの言葉の妙味があるんですね。

ある料理番組で中華、洋食、なんでも上手につくるタレントが、鍋に塩を振り入れながら言いました。

「分量なんていい加減なんですよ。

でも、これが『いい加減』になるんです」徳川家康と春日局のこんな話を思い出したことでした。

「この世で最もうまいものは?」「塩でございます」「では最もまずいものは?」「塩でございます」いい加減はいい塩梅に通じる言葉なんですね。

人望のある人に共通するのは塩梅、つまり加減がいいんです。

さきにもふれましたが、職場で一番難しいのは人間関係です。

なにが難しいかと言うと、たがいの距離感です。

近づきすぎるとなんだか重苦しい。

といって、離れすぎるとそのまま疎遠な関係になってしまう。

時に気心を一つにした一体感がある人間関係を保ちたいとも思います。

しかし一体感というのは気が置けない友だち同士ならいいが、そうでもない関係で一体感を強めすぎると、おたがい気疲れしたりするものです。

そのことを思うと、適度に距離を置いてそれぞれの人格を認め合った人間関係がいいようにも思えます。

要するにつかず離れずの関係が最適だと気づくわけです。

人望のある人はこの距離の取り方がいいんですね。

ほどがいいんです。

処世術としてそうしているのではありません。

相手を個人として認めているから、つかず離れずが最適の距離だと心得ているわけです。

「どんな素晴らしい主義思想も限界を超すとマイナスになり、どんな素晴らしい善も限界を超すと悪になる」遠藤周作氏の言葉ですが、ここにある神髄は加減です。

プラス、マイナスの妙です。

また人望のある人はそういう他者との関係ばかりか、一人の人間としてもプラス、マイナスの妙を心得ているものです。

今、かりにプラスを楽しみ、マイナスを苦しみとすると、人生を楽しむためにはそれなりの苦労がいるものです。

しかしあまりにも苦労が多いと、楽しむ前に自分が壊れてしまいます。

苦楽の塩梅、加減が問われるわけです。

人望のある人はそのあたりのことをよく理解しています。

ですから助言もほどを心得ている。

自分の主義思想は決して押しつけない。

といって相手に調子を合わせてものを言うわけではありません。

「それはそれで意義のあることではないでしょうか」「その体験が次の機会に生きてくればいいですね」本当にそう思って言うわけです。

そこに無理はない。

無理がない証拠に言葉は静かで態度も落ち着いているものです。

【もう一言】コピーライターの糸井重里氏が、『日経新聞』のインタビューで「『私』で蓄えたことを『公』である仕事に役立てるべきです」と話して、「我が家を訪れた営業マンの方が、私の愛犬を心の底から褒めて抱き上げたことがあり、その姿を見てつい契約をしてしまいました」と事例を紹介していました。

糸井さんは営業マンが犬を抱き上げたことにその人の「私」を見て、仕事の面の「公」を評価したわけです。

そんな「公」と「私」にもほどのいい加減があるんですね。

0─人望のある人は感受性が豊か

わずかなこと。

たとえば──朝日がさす食卓でいただいたコーヒーがおいしかった。

信号待ちしているあいだ遠くの空を眺めていると、雲の縁が五色に変化する彩雲が見られた。

会社に着くと彼女が笑ってくれた。

そんなことがなにか自分の一日を支えてくれているような気がしませんか。

人望のある人というのは日常のささやかなことを感じ取る感受性が身についているように思われます。

「幸せを思うわずかな事一つ」という川柳がありますが、脳科学者の大島清氏によると、幸福感は脳幹からわき上がるもので、それは命そのものの喜びなのだそうです。

著書『歩く人はなぜ「脳年齢」が若いか?』でのようにお書きになっています。

脳幹でわき起こる命の喜びは神経細胞を伝わって、脳全体に行きわたる。

まさにわき上がるように伝わるのだ。

このときに出る脳波がアルファ波だ。

幸福感に包まれるときは、心(脳)が安らぐときでもある。

バス停で眺めた遠くの青空、電線のすずめ。

オフィスの窓から見た夕焼け。

あるいはタクシーの窓から眺めた欅並木。

そのときカーラジオから昔よく聞いたフォークソングが流れてきた……。

人望のある人の一日は、そんな一つひとつに覚える幸福感とともに時間が流れているのではないでしょうか。

「忙しい」の「忙」は「心を亡くす」と書くとすでに述べましたが、心を亡くしたとき人はどんな態度を取るのでしょう。

きっと近寄りがたい雰囲気に包み込まれているのではないでしょうか。

風や光、鳥の鳴き声など、わずかなこと一つにも幸せを覚えることができれば、忙しいときでも心は潤いを失わず、人に対しても穏やかに接することができるものです。

私事になりますが、十数年前の夏の終わり、胃ガンで入院しました。

状況が状況なだけにずいぶんと神妙になりました。

手術が成功したと知ったときは、生きている、まだ生きられるというそのことに喜び、感謝の気持ちがありました。

朝、カーテンをふくらませて入ってくる風や、夜、少し開けた窓の隙間から入ってくる風にも幸せな思いがありました。

医師や看護師さんに隠れて飲んだ一杯のコーヒーのおいしかったこと。

香りとともに全身に染みわたる感覚があり、あ~と思わず声を漏らしていました。

大病体験をすると、無事すなわち事が無いということや、それまで思ってもみなかった当たり前のことがありがたく思えるようになります。

少々人間が変わるわけですね。

でも人望のある人は普通に生きてきて、そういう感受性が身についているんでしょうね。

お母さんの育て方が良かったとか、趣味の読書が感受性を豊かにしてくれたとか、そういうこともあるのでしょうが、ともかく彼らはいいことが一日一つあればいいじゃないかといった感じで生きている。

そんなところが見受けられます。

暑い一日、取引先の帰りに交差点を一つ二つ三つと渡ってやっとたどり着いた小さな公園の木陰。

ベンチに座ると、爽涼の風が吹いて汗をぬぐってくれた。

ああ、ありがたい……。

ちょっと落ち込んだまま仕事を終えると、同僚がやって来て「おいしいもんでも食べに行こうか」と誘ってくれた。

関西風味の和食の店だったけど、おいしかった……。

人間というのはよくできているもので、つらいときでも心地よいものは心地よい、おいしいものはおいしいとわかっているんです。

そして思うんですね。

人間、これがあるから生きられるんだ、と。

人望のある人というのは、そんな思いが深い人のように思えるのですが、どうなんでしょうか。

【もう一言】城山三郎氏がお書きになっています。

〈……一日に一つでも、爽快だと思えることがあれば、それで、「この日、この私は、生きた」と、自ら慰めることができるのではないか。

つまり、これは私の造語なのだが、「一日一快」でよし、としなければ〉(『この日、この空、この私』)

1─人望のある人と、キレる人のちがい

人望のある人の反対側にいるのは、すぐにキレる人でしょう。

自己中心的で人の意見を聞かない。

感情的で頭ごなしに否定する。

反論すると声を荒らげる。

時には机を叩いたり、書類を投げつけたり、ゴミ箱を蹴ったりする。

分煙もなかったオフィスの時代は、灰皿が飛んできたといった話を聞いたことがあります。

いい大人がそんな乱暴なことをしたら、自分が恥をかき困るだけなのですが、感情的にカッとなってそんな後先は考えられなくなってしまうのでしょうか。

キレるAと人望のあるBを想定してみました。

相手に対してどうちがうのでしょうか。

A「おい、これですぐに話をつけてきてくれ」B「すまないが、この条件で話を持っていってもらえないだろうか。

急いでやってもらえるとありがたいんだけどね」さて、取引先から部下がしょんぼり帰ってきました。

商談がうまくいかなかったのです。

A「そんなことは言い訳だ。

この条件でまとめるべき話なんだ。

もう君には頼めないな」B「そうですか。

先方にはちょっと厳しい条件でしたからね。

あなたもたいへんだったでしょう。

いろいろ言われたんじゃないですか。

今回の経験を生かして、次はこの埋め合わせができる仕事をやり遂げましょうよ」失敗をどう受け止めるか。

キレる人は何々すべきだ、何々でなければならない、と一直線思考の人が多いものです。

かくあるべしという考えが強すぎて、他の考えを受け入れるほど心が広くないんですね。

相手の話も十分聞かず、キレて暴言を吐くわけですが、終始自分の非には気づいていません。

まあ見方によっては単純だと言えなくもありませんが。

そこへいくと人望のある人は失敗は失敗として受け止める。

そこから学んだ経験を生かそうとする。

部下にも再チャレンジの意欲を持たせようとします。

もちろん手抜きなど責められても仕方のない失敗もありますが。

そういうことがなければ一方的に責め立てる物言いは慎むべきでしょう。

いくら言ったところで、現実は変わりません。

だめだ、だめだと怒ってみたところで、部下はその上司をにくみこそすれ、やる気になるわけではないでしょう。

それにキレやすい上司がいると、どうしても職場の健康度は下がります。

昨今、経済誌も「キレ」特集を組んだりしています。

キレて問題を起こすかもしれない、なんとかしないと俺の将来はない、と思い始めている社員が多いのでしょう。

心理コンサルタント氏が『エコノミスト』誌上で挙げていた「キレ」コントロール策を紹介しておきましょう。

キレそうになると次のようなことをやるのがいいそうです。

・ゆっくりとした呼吸と同時に肩や首を動かしてほぐす・頭の中で「許す、許す、許す」と何度も心に言い聞かせる・口の中にチョコレートや飴を一粒入れるまあ対症療法でしょう。

根本的にキレない人間になるには、長い目で人を見ることができる人望のある人を見習いながらの自己改革が必要なのではないでしょうか。

【もう一言】元阪神監督の吉田義男氏と言えば名遊撃手で知られた方ですが、『日経新聞』の「私の履歴書」でこんなことをお書きになっています。

〈一年目38、二年目30。

牛若丸は失策王とも言われたものだ。

これだけ失策する遊撃手を使い続けた松本謙次郎監督は辛抱強い人だった。

「人は失敗して覚える」が口癖で、失策してしょげる私に「もう一つエラーしてみろ」と言ったこともあった。

プロで最初に巡り合った監督がこの人でなければ、以後の私はなかったと思う〉そして自らも監督のとき「もう一つエラーしてみろ」と声をかけていたそうです。

2─人望のある人は自分をよく知っている

人の信頼を得るにはたがいの理解が必要です。

理解があって初めて信頼されるわけです。

といって人間関係がそこまでいくのは簡単ではありません。

長年連れ添った夫婦にしたって、夫の定年後改めて向かい合ったとき、驚くほど相手がわかっていなかったとは、よく聞く話です。

しかし目の前の人物はどんな人なのかという疑問は、同時に自分にも向けられます。

そして結婚したときの感情を思い起こしたりしてみる。

「惚れる」は「惚ける」と同じ字だし、そう惚けてたんだなあなんて……いや、これはまじめな冗談です。

いい年して自分探しというのもなんですが、楽しみながらいろいろ気づき成長したいものです。

いい言葉があります。

夏目漱石の『虞美人草』に出てくるこんな言葉です。

「驚くうちは楽しみがある」「あっと驚く時、初めて生きているなと気がつく」「驚く」は感動という言葉に置き換えてもさしつかえないでしょう。

Bemoved。

何事にせよ、心が動かされているうちは大丈夫です。

ぼくは最近、ワン君に心が動かされることがあります。

子犬の時分、奥さんに連れられて散歩中よく出会ったワン君が、成犬になってからこちらの姿を見かけると奥さんの持つリードをぐいぐい引っ張ってそばに駆け寄って来るのです。

可愛い。

これほど無心に振る舞える生き物がほかにいるだろうか。

そんなとき、自分という人間の歪んだ心に気づかされたりするんですね。

人はかつて住んでいた森を離れ平地に降り、人間だけで住むようになった。

同種の動物だけが固まって暮らすのは地球上初めてのこと。

その時、人間の心に何らかの「歪み」が生じた。

例えば「人間とは何?」ということがわからなくなった。

そういう場合、人は人間以外の動物を鏡にする。

日本最北の動物園、旭山動物園の園長、小菅正夫氏がお書きになったエッセイです。

「どうして人間に動物園が必要か」ということに答えたくだりですが、そんな動物たちの中でも犬は大昔から人間のパートナーでした。

野心も利害もなく、ただ無心に振る舞う犬。

そんな姿を見て、人間はどれほど自分の歪みに気づかされたことでしょうか。

ぼくたちは毎日毎日、自分とは?人生とは?生きるとは?と考えているわけではありません。

けっこう流されて生きていて、ふとそんなことを考えるぐらいです。

ただそれでも日常のちょっとした瞬間に、自分の本当を見るというか、自分とは何かを知ることがあります。

そこに心が動いた、つまり感動によって自分自身を知ることができるわけです。

なにかを見たとき、なにかにふれたとき、その話に深く共感したとき、ぼくらは「ああ」という声をもらします。

この声が自分自身なのです。

自分自身が必死でなにかに取り組んで、それができたときの喜び。

そのときも人は感動を覚えます。

そんな感動体験から意欲が生まれると、そこからまたなにかが生まれ、人生はどんどん豊かになっていきます。

そうして自分がちゃんととらえられれば、自分を変えることだってできます。

知り合いにいつもカメラを持ってぶらぶら歩いている男がいます。

レンズを通すと、ふだんは目にも留めないことに小さな発見があるんだそうです。

石垣の隙間に咲いている花や水たまりの花びら。

彩雲。

梢の先の夕映え。

レンズの世界に非日常が味わえるのだと言います。

人間の心の歪みも自然をそんなふうにとらえることで、元に戻すことができるかもしれませんね。

【もう一言】脳科学者の茂木健一郎さんは、こんなことをおっしゃっていました。

「脳はどんなに小さな、どんなにささやかなことでも初体験が大好きです。

そこから新しい刺激を得ることによって脳が喜びます。

そして自分自身も変わることができます。

自分を知る。

そして自分を変える。

この営みは人との良好な人間関係をきっと約束してくれると思います」

3─書いて考える人に備わる人望

人望のある人には日記をつけたり、手紙を書く人が多いのではないでしょうか。

というのはぼくの想像ですが、ゆえのないことではないのです。

『ニューズウィーク』誌で読んだのですが、近年アメリカの大学の医学部では作文が重視されているそうです。

医療は人の生き死にとかかわります。

患者は医師の一言に全神経をとがらせています。

真剣に聞いています。

それに対して医師の言葉は適切でしょうか。

患者の気持ちに添っているでしょうか。

そんな反省から「語りかける医療」ということが言われ、医学生たちに作文を学んでもらおうということになったそうです。

文章を書くというのはふさわしい言葉を選び出す作業です。

その作業を習熟することで診察時に患者の気持ちを受け止めて、適切な言葉を口にすることができるのではないかというわけです。

人は思ったことをパッと口にします。

でも思ったことを文章にすると、話した言葉とは変わってくるのに気づきます。

もし話をしたまま書いても、それは脈絡がなかったり、相手への気遣いがなかったり、いろいろ気になることがあるものです。

書くという作業は、そういうぐあいに言葉を自分の中にいったん戻して整理する作業でもありますから、散らばっていた考えもまとまります。

感情に流されるまま話していたことも整ってきます。

気持ちを落ち着けるうえでプラスアルファはいろいろあるわけです。

またパソコンの画面や携帯メールではなく、紙にペンなり筆で書く、つまり手で書くということで、人間はずいぶんと優しくなれるんですね。

たとえば「愛」や「命」という言葉は深い感情を伴います。

手で書くときすでに「愛」や「命」という気持ちで書いていますから、ローマ字変換で「ai」「inochi」などと打って出てきたものより心がよりこもっているはずです。

字(漢字)を書くというのは字の持つ意味とかかわる行為ですから、人が「愛」という字を書く場面ではおのずとその感情を伴います。

適当に軽い気持ちで書くというのはちょっと考えにくいのです。

そうしますと「手で書く」ことは、すなわち「心で書く」ということになり、それだけ優しくなれるわけです。

元衆議院議員で東洋大学総長の塩川正十郎氏は日記をつけているそうです。

こんな内容が雑誌の対談で紹介されていました。

「僕ね、朝五時頃起きて、前の日の日記をつけているんです。

毎日四百字くらい。

秘書が作ったスケジュール表は見ないで、昨日の朝何を食べたかというところから、じーっと考えて思い出すんです。

『昨日はおかゆやったな、それから慌てて九時に間に合うようにどこへ行った、何をした』と、朝食を思い出せればつるつる出てくる。

それで、昨日、腹のたった出来事も、一日経ってふりかえると見方が変わってくるんです。

誰かと喧嘩になっても、まあ、あいつの立場もあるわな、とかね。

全然違う感情が湧いてくる。

そこでまた別の角度から判断ができる」わかる気がします。

難しく言えば文章が持っている理性の喚起とその抑制ですね。

机を叩きながら原稿が書けるという人はいないでしょう。

そういうぐあいにネガティブな感情を抑えることができるのだとすれば、メモであれ、日記であれ、書くことで心穏やかに保つトレーニングをしていることになります。

おのずと人望も増すことでしょう。

少し手紙についてふれておきます。

人望には自信のないぼくではありますが、手紙はよく書きます。

気をつかわせてはと病床の友の見舞いをためらうことがありますが、そんなとき手紙を書きます。

面と向かっては言えないことも手紙ならあらたまった気持ちで心の中で向かい合えます。

見舞いの言葉だけではなく、少しは相手の心に残るようなことも書けます。

それで見舞い以上に友人に喜ばれたこともあります。

事務連絡以外の手紙なら、多少の工夫というか独自性があってもいいのではないでしょうか。

時候のあいさつも紋切り型より自分なりの季節感を書いてみるとか、ちょっとした生活情景を入れて何気ない一コマを伝え、相手に安心してもらうということがあってもいいように思われます。

過日、とっても人望のある同郷の友人が「風も夏めいてうっすら汗ばむころ」という書き出しの手紙で飲み会に誘ってくれました。

「限られた身内だけの勉強会を下記の要領にて開催致したく」などと書く愉快な人柄もしのばれ、その日が待たれたものでした。

【もう一言】城山三郎氏が著書で紹介していましたが、花王の社長だった丸田芳郎氏は新入社員を集めて「大事な要件は電話で済まさず手紙を書きなさい」と忠告して、こうおっしゃっていたそうです。

「少なくとも手紙を書いてる間は、相手のことを考える。

また時候の挨拶を考えれば、周りの自然に目が向く」

4─人望のある人は「性弱説」に立つ人です

人間は生まれながらにして善であるという性善説があれば、いや悪であるという性悪説もあります。

性善説は、中国・戦国時代の思想家、孟子が人間に対する深い信頼のもと唱えたものです。

性悪説は、やはり同時代の思想家、荀子が利益に左右される人間の一面をとらえたうえで外から規制すべきだとの考えにもとづいています。

こういう二元論はぼくは抵抗があります。

人間は善も悪も入り乱れてじつに多様だと思っています。

ただ、生き方の指針としては性悪説のほうがいいかなと思っているのは、そのほうが善なるものを身につけようという励みにもなるし、自分に課題というか努力目標が掲げられるような気がするからです。

最初から善だといくら修行を積んでも張り合いがないと、まあそんなことを思うわけですね。

さて、それでは人望のある人はどうなのでしょうか。

ぼくのような性悪説というのも人望という面から見れば多少ひっかかります。

そこで思うのですが、「性弱説」というのはどうでしょうか。

これは笑いの研究の第一人者である織田正吉氏が以前に著した『笑いとユーモア』でユーモア感覚とともに述べている説です。

「たかが人間、おたがい様」と思えば他人に対して寛大になれるといったことはすでにふれましたが、それと相通じるところがあるかもしれません。

実際人間って弱いものです。

どんなに前向きに!ポジティブに!と日ごろから言っていても、人間ドックの検査の結果一つで暗く沈んでしまいます。

病院の待合室で精密検査の結果を待つときの心境、みなさんも覚えがあるでしょうが、看護師さんの呼ぶ声一つにも気になるものです。

そしてドアを押して診察室に入る。

担当医に目をやったとき、たまたまあくびをしているのを見て妙に安心したり……そんなものですよね、人間って。

マイナスもプラスになる。

言ってみれば「失敗は成功のもと」という「反省─努力─達成」の法則を考えても、弱点があるのが人間という性弱説は身につくもの、また身につけなければならないものがいろいろあるように思われます。

人望のある人というのは完全無欠なのはスーパーマン、不完全な面を多々持っているのが人間だとわかっているのではないでしょうか。

ですから人が失敗をしても温かく受け止められる。

人をおもんぱかる気持ちもある。

かつおたがい弱者同士という立場で、人間への理解と共感も人一倍持っている。

そういう意味では人望のある人は「性弱説」に立つ人たちで、人間的な連帯と共感の輪の中心にいるのが彼らなんだと思います。

【もう一言】「悪人正機説」というのは親鸞が興した浄土真宗の中心思想です。

「善人だって往生できる。

まして悪人ならなおさら往生できる」という言葉に示されるように仏陀の本願は悪人を救うことにあるから、罪深い悪人こそ阿弥陀に救われて往生できると説いています。

ここで言う悪人は仏から見ての悪人ですから、悪人すなわち弱者ではないのですが、人間はみな限界があるという点では「悪人正機説」の思想と「性弱説」とはなにか相通じるものがあるように思えます。

どうなのでしょうか。

人望のある人ほど個性的──「あとがき」に代えて

一般に人望のある人というと協調性とともに語られがちです。

それはそうなのですが、それでは個性的な人に人望はないのでしょうか。

そうではありません。

ぼくは人望にも個性を見ているところがあります。

友人にじつに個性派の弁護士がいます。

弁護士でもあまり好まないヤクザ、事件屋、右翼などの事件を相手にするのが飯より好きで、自らやらしてくれと申し出ているほどです。

人呼んで「よろず撃退指南役」。

光る個性ですよね。

そして馬好き、犬好き、時には川柳を詠み、エッセイもよく書きます。

人間、やりたいことをやらずして生きがいも生まれません。

ひいてはその人の持ち味や個性も生きません。

生きているというそのことを強く実感するのはなんといっても感動です。

その感動でも、われを忘れるほど心が揺さぶられることがあります。

大感動です。

大感動の体験がある人は人生も肯定的にとらえ存分に楽しんでいることでしょう。

さきの弁護士にはまわりにいつも人が集まっています。

別に行列ができているというわけではありませんが、趣味人ですからその同好者も多い。

さらに相談事も含めふらっとやって来る知人や友人もたくさんいるようです。

趣味人に共通なことは気持ちが若いということです。

好きなことをやっていれば心は若返るんですね。

そして趣味を通して心のチャンネルをいくつも持っているので、多種多様な人との交遊関係も広がっていくんでしょうね。

もちろんあくの強い個性もあります。

個性も取り扱いをまちがうと、自己中心の思いあがりと結びつくものです。

しかしそれは個性というより単なる偏固、変わり者と言うべきかもしれません。

個に価値を置いた生き方の中ではぐくまれた個性は、みんなから愛されているものです。

この世にたった一人しかいない自分自身を見つめつつ人との付き合いも深めていく。

そうして初めて個性が生きるのではないかと思われます。

本来個性は自他ともに自由な状況においてはぐくまれるものです。

強制しない。

またされない。

そのことをよく知っているのが個性のある人だと考えれば、人望のある人に個性派がたくさんいてもなんの不思議もありません。

そのことを断っておきたくて、「あとがき」に代えこの文章を加えさせていただきました。

***企業社会を殺伐とさせた「勝ち組・負け組」という言葉はすたれましたが、労働環境がよくなったわけではありません。

「名ばかり店長」とか「ワーキングプア」といった言葉にうかがえるように、依然厳しいものがあります。

職場でぼーっとする時間がない。

無駄の排除で心の余裕も奪われている……労働問題とも取り組んでいる精神科医の嘆きです。

ただ悲観すべき話ばかりでもありません。

成果主義からチーム力へと転換をはかるなど、手を携えて働ける組織を模索する企業も出始めています。

過酷さゆえに職場をつくるのは人間なんだ、と当たり前のことにみんなが気づき始めたようなのです。

だからこその人望です。

おたがいが心を交わし大切に思える職場に不可欠な人材は、なんといっても人望のある人ではないでしょうか。

そんな思いでこの本と取り組みました。

一人でも多くの方のお役に立てば、と願っております。

原稿は一部口述したところがあり、その整理などフリーランサーの小嶋優子さんにはお世話になりました。

ありがたく思っております。

出版に際しましては、幻冬舎の福島広司さんや伊藤えりかさんに助言のみならず励ましの言葉もいただきました。

深く感謝しております。

近藤勝重

著者略歴近藤勝重こんどうかつしげ早稲田大学政治経済学部卒業後の一九六九年毎日新聞社に入社。

論説委員、「サンデー毎日」編集長、毎日新聞夕刊編集長を歴任。

現在、専門編集委員。

TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」、MBSラジオ「しあわせの五・七・五」など、東西の番組に出演する人気コメンテーター。

毎日新聞(大阪)の人気企画「近藤流健康川柳」の選者を務めるなど、多彩な能力を様々なシーンで発揮している。

著書に大人気シリーズ『一日一杯の読むスープしあわせの雑学』『一ミリのやさしさで世界が変わるしあわせの雑学希望編』『あなたの心に読むスープしあわせの雑学笑顔編』『大阪の常識東京の非常識』『話術いらずのコミュニケーション』など多数。

なぜあの人は人望を集めるのかその聞き方と話し方平成25年6月発行著者近藤勝重発行者見城徹発行所株式会社幻冬舎〒151-|0051東京都渋谷区千駄ヶ谷4-|9-|7書籍カバーデザイン鈴木成一デザイン室幻冬舎ホームページhttp://www.gentosha.co.jp/この電子書籍に関するご意見・ご感想をメールでお寄せいただく場合は、comment@gentosha.co.jpへ。

©KATSUSHIGEKONDO,GENTOSHA2013●株式会社幻冬舎『なぜあの人は人望を集めるのかその聞き方と話し方』(幻冬舎新書)に基づいて制作されました。

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