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第2話「商」の国の人たちの信頼

目次

「おせっかい」が6割、「親切」が4割

その日の夜。ユカリは、深夜のシフトの父親・豊と交代し、軽く夕食を済ませる。このところの疲れのせいか食が細い。1人でいると不安が募ってきた。このままでは京南大学前店はつぶれてしまう。自分は精一杯やっているつもりだった。

何度も、MBAコースのテキストを読み返した。そこに答えは載っていなかった。それもそのはず。MBAの小売店のケーススタディは、本部の立場に立って書かれたものばかりだった。

なぜ、シアトルの街角で始めたコーヒー・ショップが、世界的なチェーンに発展したのか。なぜ、世界一のハンバーガー・チェーンは、価格競争で生き残ることができたのか。それらはすべて、本社の経営者の視線で見たものばかり。

今のユカリには、なんの参考にもならなかった。ユカリは、コンビニの裏の離れ家に、祖父の泰造を訪ねた。

「おじいちゃん、もう寝てた?」「昼間、うつらうつらしてしまってな。だからテレビを見てたよ」「そう。ちょっといいかな」まだ仕舞っていないコタツに足を入れる。

泰造がテレビを消した。「どうした?ユカリ」幼い頃、ユカリはおじいちゃんが大好きだった。

でも、母親はそれを好ましくは思っていないようだった。ときどき、配達の車に同乗して、あちこちを回った。小料理屋、スナック、レストラン……普通の家も多かった。

金魚のフンのように付いていくと、「はい、ユカリちゃん、おやつだよ」と、お菓子をくれる人がいた。母親はけっして買い与えてはくれないであろう駄菓子だった。それがうれしくて、母親に叱られても叱られても付いていった。

おせっかいの名人

「ちょっと疲れちゃった」「今日は忙しかったんか」「ううん、そうじゃなくって」「店が上手くいってないんだろ」「……うん」泰造は、冷蔵庫から缶ビールを2つ持ってきた。

「飲むか」「うん」「いいよ、おじいちゃんは。この店がなくなっても覚悟はしてるから」「え!?」「どのみち、酒屋を続けていたって、いつかは店を閉めなくちゃならんかったろう。早いか遅いか、それだけのことだ」

泰造は、コンビニ経営が上手くいっていないことを知っていた。ユカリは、胸が押しつぶされそうになった。(おじいちゃんの酒屋がなくなる)今の形態はコンビニだ。

でも、祖父が先祖から引き継いできた大切な店だ。それを、自分はどうすることもできない。

MBAとかいっても、大手スーパーでろくな仕事もさせてもらえず中途半端に投げ出してしまっただけの自分。

「ごめんね、おじいちゃん」「お前のせいじゃない。豊のせいでもない、ワシがいかんのじゃ。あのままだったら、豊が常代さんと上手くいかなくなってしまうと思った。だから……」「ごめんね、おじいちゃん……」ユカリは、ビールを飲み干した。

それは、いつもより苦く感じられた。酔いたいが、酔えそうになかった。吐き出すように、今日あったオバチャンの話をした。シャケと昆布のおにぎりの学生のこと。マイルドセブン・スーパーライトを買ってくれた初老の男性のこと。

そして、言いにくかったが、辛太郎をお客さんに勧めて怒鳴られた話も。泰造は、黙って聞いてくれた。なにも訊き返されなかったことが、うれしかった。

すべてを話し終えたとき、缶は空になっていた。泰造は、唐突に訊いた。

「ユカリはなあ、難しい勉強をたくさんしてきたんじゃろうから、釈迦に説法だと思うんじゃがな」「うん、なに?おじいちゃん」「おせっかいと、親切の境目って、どこにあるか知っとるかな?」「え?……おせっかいと親切……」「ユカリはそれで悩んでいるんじゃろう」「う、うん……」ユカリは、言われてみると、そういうことだと気づいた。

ユカリだって、「マニュアル以上のことができたら、どんなに素晴らしいか」と思っている。

「あの店は親切よ」と言われたい。でも、それが、お客さんにとって「おせっかい」だとしたら……。「迷惑」になったら。

「よく言うじゃろ、親切の押し売りって」「うん、友達でもいるわ。学生のとき、私が風邪気味だって言ったら、家からうがい薬とか、マスクとか持ってきて『これ使うといいわ』って有無を言わせず私のカバンの中に入れるのよ」「博多の朋ちゃんもそうじゃな」「そうそう、ふふふ」

朋子とは、しょっちゅう「目に効く」とか「胃の調子がよくなる」などと言っては健康食品を送りつけてくる、博多に住む泰造の従妹のことだ。

「でもな、いつだったか、アレは効いたなぁ」「アレって?」「覚えとらんか、お前が高校生のとき、足をくじいて長いこと松葉づえをついていたことがあったろう。あのとき、湿布を送ってくれて……」ユカリは思い出した。

整形外科に通っていたが、なかなか痛みが引かなかった。なにげなく、そのことを電話で朋子さんに話してから「しまった」と思った。きっと、またなにか送りつけてくるに違いない。案の定だった。

しかし、よほど痛みが激しくて、藁にもすがる思いだったのか、送られてきた湿布を貼った。すると、一晩でウソのように楽になったのだ。

「ワシもな、親切の押し売りはせんように気をつけておる。でもな……」「うん」「相手に求められてからなにかをしているとな、わからなくなるんじゃよ」「え?……なにが?」「境目じゃ。おせっかいと親切の境目がな。だからな、普段からなんでもいいから相手のためになりそうなことを考え続けて、『おせっかいかなぁ』と思ってもやってみる。

そのうちにな、なんとなく見えてくるんじゃないかな、その境目が」「境目って……どのへんなの?」「これが、ちと難しいところじゃな。

『おせっかい』が6割、『親切』が4割というようなイメージかなあ。ちょっとでも迷ったときには『おせっかい』をするんじゃ」ユカリは、泰造の言わんとすることを察した。

オバチャンはおせっかいだ。それを嫌がる人もいる。間違いない。ユカリだったら、「押し売りはやめてよ」と言うかもしれない。

同じことをしても、それを心地よく思う人、感激する人もいる。でも、誰が感激する人かは、パッと見ただけではわからない。

例えば、レジ袋。

エンジェルマートでは、2か所の持ち手の部分をくっつけてクルクルッとよじってからお客様に手渡す。その方がしっかり持てるという配慮からだ。

でも、すぐに中から取り出して食べる人にとっては「おせっかい」と感じられるかもしれない。

「そのオバチャンは、きっと『おせっかいの名人』なんだと思うな」「おせっかいの名人?」「きっと、今まで、何度もお客さんに怒鳴られたことがあるんじゃろう。

ワシも、ユカリが見たというシャケと昆布のおにぎりの話なんかは、たまたま上手くいっただけのことじゃと思うよ。

でもな、それはな、たくさんのおせっかいをしてきて、おせっかいと親切の境目を肌でわかっているからできるんじゃろうな。

おせっかいを恐れていては、親切はできんのかもしれん。おせっかいを覚悟すると、いつの間にか親切との境目が見えてくるんじゃないかな」「てことは……どんどん、おせっかいをしろ!っていうこと?」

「ううん。おじいちゃんにはなかなかマネはできんけどな。でも、そうしたいと思って、60年、商売をしてきたつもりじゃ。だから、その水野さんとかいうオバチャンのやっとることがなんだか懐かしく感じられてな。……それでも悔しいが、時代の流れには勝てんかったよ」そう呟くときの細い瞳が淋しそうに見えた。

「商い」という字の意味

ちょっとの間の沈黙があった。ユカリは、酒屋を閉じたことが、祖父はよほど淋しいのだと、今の今になってわかった気がした。

「なにか話しかけなくちゃ」と思うと同時に、泰造が口を開いた。

「ユカリは知っとるかな……どうして商売の『商』の字は、こう書くのかって」そう言いながら、泰造は指で中空に「商」の字をなぞって見せた。

「え?『商』???」「うん、『商い』という字じゃ。昔から、洒落で『飽きないから商い』なんて言う人もいるな。秋に収穫した作物を売ったので、『秋に行う』が転じて『商い』という説もあるらしい」「考えたこともないわ」「ワシもな、人から聞いた話じゃがな、むかしむか~し中国に『商』という名前の国があったというんじゃ」「私、歴史は弱くて……」「ワシだって同じじゃ……。その『商』という国はな、本当に小さな小さな国だったそうじゃが、えらく交易で栄えたというんじゃ。よくは知らんが、シルクロードみたいに、ラクダが東西を行き交うような中継都市だったのかもしれん」

ユカリは、泰造の話に引き込まれ、テーブルに両ひじをついて前のめりになった。

「ところが、武力には勝てん。ある日のこと、大きな国が攻めてきて、あっという間に滅ぼされてしまったそうじゃ」「……」「でもな、『商』の国の人たちは、その後、『商』という名前の国がなくなっても、引き続き豊かに、幸せに暮らしたというんじゃ」「どうして?」「うん、『商』の国の人たちはな、交易を通じて、大勢の人たちの信頼を得ていたというんじゃよ。だから、それは国という形や名前が変わっても、なにも困ることはなかった。たとえ、他の地へ流れていったとしてもな」「……おじいちゃん……それって、ひょっとして」

ユカリは、泰造がなにを言わんとしているかを悟った。

訊き返しはしなかった。あのオバチャンの笑顔が頭に浮かんだ。

どうも波長が合わない。でも、合わないと思うのは、向こうを自分に合わさせようとしているからに違いない。

「おじいちゃん、ありがとう」「む?……こんな話、おもしろかったか」急に晴れやかになったユカリの様子に、泰造は微笑んだ。

「もう1本飲むか」「うん、飲もう、飲もう!」ユカリは、自分も「商」の国の人になろうと心に決めた。

ゴールデンウイークが明けた月曜日。スーパーバイザーの篠山清志は、重い気持ちを抱えて京南大学前店にやってきた。

この前は、ツバメの巣騒動で大切な話を言いそびれた。それは、「スクラップ勧告」だ。しかし、本部の方から「店を閉めろ」と言うわけにはいかない。

あとあと訴訟問題に発展することがあるからだ。あくまでも、当事者に「諦めさせる」ことが大切だ。それには、お金のことを持ち出すのが一番いい。

「いいですか。今月で、ドリンクやら雑貨やら、うちの系列の問屋からの仕入れ代金の支払いが2か月ストップしてるんです。なんとかしてもらえませんか」

篠山は、いつもの調子で、くちびるを尖らせてブツブツと言った。オーナー店長の豊が、ささやくような声で反論した。

「本部さんの言う通りにやってきたんです。最初に篠山さんだっておっしゃってたでしょう。私の指示通りにすれば絶対成功するって」「絶対なんて言いませんよ」「それは言葉のあやです。だいたい、アットホームがこんなに近くにできること、わからなかったんですか」「それは……」それは、篠山にとっても予想外の出来事だった。

たしかに、オープン6か月後に、アットホームが出てくるとは。しかし、それは全国どこでも同じ条件だ。繁盛店があれば、必ず相手は近くにぶつけてくる。それは、こっちも同じだ。儲かっているライバル店があれば、近くに出店する。

ユカリが、言い返す。

「うちは頑張ってるのよ。だいたい、エンジェルは商品力が弱いのよ。宣伝だって。アットホームをご覧なさいよ。テレビであんなにバンバンやってるじゃないですか」篠山もそれを言われると痛い。

エンジェルマートは、あまり広告宣伝費をかけないのだ。

「いつまでも待てませんよ。支払いの延滞も3か月が限度ですからね」「3か月って、あとひと月しかないじゃないですか」豊が青ざめた。

「あらあら、いらっしゃい。篠山さんだったわね」3人がバックヤードの倉庫で話しているところへ、オバチャンがやってきた。

「あんた、この前の……ツバメの……」篠山は1歩後ずさりした。オバチャンが苦手なのだ。

「ちゃんと本部のエライ人に訊いてくれた?」あの後、ツバメは卵を産んだ。若葉幼稚園の園児たちは大喜び。

ほとんど毎日のように、3つのクラスが入れ替わり立ち替わり観察にやってくるらしい。

それを見るたび、篠山は苛立っていた。本部に報告した。どうしても言うことを聞かない店があると。

最初は「そんなもの、お前が片づけろ」と言っていた統括本部長が、「京南大学前店」という名前を聞いて急に険しい顔つきになった。

「もういい、ほっとけ。どうせあそこはスクラップだろ」「まだ、そう決まったわけではありませんが……」「まあいい。

最近は自然保護やらエコロジーやら、いろいろ世間がうるさいからな。うちもマニュアルを見直さなければと考えていたところだ。ほっとけ」「……はあ」それを聞いて、篠山は疑った。

水野というオバチャンが、本部にチクったんじゃないかと。

京南大学前店のお客さんのフリをして、「エンジェルマートさんでは、動物虐待を奨励してるんですか!なんなら、新聞社に電話するわよ」などと。

いや、案外、店長の娘のユカリかもしれない。

「はいはい、篠山さん。なにを難しそうな顔をしてるの?はい、麦茶!」「え!?」「ちょっと時期が早いけど、今日は暑いから淹れてみたのよ」「……」汗をかいたガラスのコップに、並々と焦げ茶の液体が注がれている。

ユカリが言う。

「水野さん、この人はね、店を畳めって言いに来てるのよ。そんな人にお茶なんて出さなくてもいいのよ」「はいはい。でも、お客様だから。もちろん、エンジェルマートの麦茶よ」「そういうことじゃなくって!」篠山は、ちょっと戸惑ったが、オバチャンに差し出されたコップを手に取り、ゴクリと冷たい麦茶を飲み干した。

(どうせ、あと1か月だ。そうすれば、待ったなし。仕入れ代金やロイヤリティの催促が強くなる)

「こんな暇があったら、このオバチャンにレジの補助でもさせた方がいいんじゃないですか」篠山はユカリを見上げて皮肉っぽく言った。

「水野さんに、ごちそうさまくらい言ったらどうなのよ!」「ご、ごちそうさま……でした」(この店は、みんな苦手だ)篠山は、逃げるようにして早々に引き上げた。

トイレが近い

「ホント!困ったものねぇ~。また、トイレなの~」ユカリは、朝から我慢に我慢を重ねていた。5月も半ば、木々の緑も日を追うごとに濃くなっていき、暑いくらいの日さえある。

もう雨が降っても「寒い」ということはない。

それなのに、相変わらず、オバチャンは勤務中に何度もトイレに行く。67歳という年齢を考えれば仕方のないことだろう。おじいちゃんも夜中に何度もトイレに起きるという。でも、サボっているんじゃないかと疑いたくなる。いくら接客がフレンドリーで上手くても……。

「水野さ~ん、早く早く!こっちのレジに入って!お客さん並んでます~」「はいはい、今行きますよぉ~」

オバチャンは、トイレから出てくると小走りにレジへ向かった。小走りとはいっても、そう見えるだけだ。まるでスローモーションのビデオを見ているよう。

はっきり言えば、のろいのだ。両手をハンカチで拭きつつ、「みなさ~ん。お待たせしてますねぇ~」とニコニコ笑ってレジの補助に回った。

ユカリは、顔をしかめた。それにしても、オバチャンの場合は回数が多すぎはしないか。わざわざ数えているわけではないが、1時間に1回以上はトイレに行っている気がする。

オバチャンのフレンドリーな接客を模範にしようと思っていたが、これだけは見過ごせなかった。

(さすがに「トイレに行くな」とは言えないしなあ)ユカリは、グッと言葉を飲み込んでレジを打った。(お父さんから言ってもらおうかな)

売上の落ちが止まった理由

商品をレジ袋に詰め込みながら、オバチャンは女子学生に話しかけた。

「はいはい、このプリン美味しかったわぁ~。私も昨日食べたばかり」「よかった。迷ったけど楽しみ!」「イチゴの味もあるでしょ。私は断然、こっちのカフェオレね!正解!!」「うわぁ、楽しみ」(いいなぁ、オバチャンはのんきで)ユカリは焦っていた。

なんとかしなくては。あと1か月。1か月しかない。いくら本部だからといって、強制的にシャッターを閉めさせることはないだろう。

でも、なんらかのプラスの数字を出さなければ……。あのスーパーバイザーの篠山を説得できない。待ってもらうには、成果がいるのだ。そこへ、父親の豊が奥から出てきた。

「ちょっと、ユカリ……」「なに?お父さん」「この数字……見てくれ」また売上が落ちたのだろうか。

パソコンで毎日、すべての商品の売上動向が見られるようなシステムになっている。ユカリは、パソコンを見るだけで気分が悪くなった。

「それが妙なんだ」パソコンの画面を覗くと、売上の日計表が映っていた。

「あのなぁ、この1週間なんだけど、売上の落ち具合が止まっているんだ」「え!?」売上の日計表を折れ線グラフにした画面に切り換える。

「あっ、ホントだ」ライバルのアットホームがオープンして以来、7日前まで、売上は下降の一途を辿った。

それが、横ばいに転じている。

「それだけじゃない。一昨日から、ほらほらっ」豊が画面を指差した。クイッと、わずかではあるものの線が上向いている。

毎日の売上は、曜日によって、また天候によって大きく左右される。ユカリは、この3日間のことを思い返した。一昨日の月曜日は土砂降り。昨日も雨模様。

土日ではないし、特にこの学区で行事があったとも聞いていない。

「上がってるわ!」「そうだろ……なんでだろ」念のため、前の週との対比を見てみる。間違いない!ユカリは思った。マニュアルが徹底できたからに違いない。

自分がこの店に来て、丸2か月。底を打った。ようやく、成果が出たのだ。ほんの少し、微々たる増加に過ぎないが、希望の光が見えてきた気がした。

今度、篠山が来たら、この数字を見せてやろうと思った。(そのためには、頑張らなくっちゃ!)その翌日のことだった。

小さな事件が起こった。万引きが発生したのだ。近くの中学生が、マンガ雑誌をスポーツバッグの中に忍ばせて店を出た。

たまたま、ツバメの巣の下のフンを掃除していたユカリがガラス越しに不審な様子を認め、少年が外へ出たところを問いただしたのだ。

店の中へと連れ戻す。そこへオバチャンがトイレから出てきた。ユカリの中で、プチンッとなにかが切れる音がした。

「水野さん!前から言ってるでしょ!お客さんが少ないときでも、あなたがレジから店内を見わたしてるようにって!」オバチャンは、事態を察したようだった。

「あらあら、ボクどうしちゃったの?」「……」少年は下を向いている。オバチャンは、こんなときでもニコニコ顔だ。

「いいですよ、この子のことは!上の事務所に連れて行って、親御さんに連絡するから、レジをちゃんとお願いしますよ!それに、いいですか!そうそう何度もトイレに行かないでよ。少しくらい我慢できるでしょ!」そう言ってから、ユカリは少し後悔した。

しかし、「はいはい、わかりました。ボク、このお姉さんにちゃんと謝りなさいよ」と笑顔で言うのを見て、ガックリした。

キレイなトイレの秘密

万引き事件が片付いてホッとしていたところへ、バイクの集団が駐車場へ入って来た。6台。中には、大型のハーレーも。全員が黒いツナギを着ている。ちょっと見は暴走族風だ。

ガラの悪いお客様は歓迎したくないが、見てくれで人を判断するわけにはいかない。(他のお客さんが嫌がらなければいいけど……)ユカリは、チラッチラッと店内を見回した。

「いらっしゃいませ~」「いらっしゃいませ!」店に入ってくるなり、暴走族風の一団のリーダーらしき大柄な男が、後から付いてくる子分格の男たちに言った。

「ここのトイレはよお~、この前一人のときに来てびっくりしちまったんだ。キレイでなぁ~。もうピッカピカよ!だから気に入ってるんだ。ちょっと俺たちのエリアからは離れてるけど、また来たいと思ってたんだ」「リョウさんはオシッコが近いからね」と、髪の毛を真っ赤に染めている男が言った。

「バカヤロー」「へへヘ……。オレ、買い物してますから、ゆっくりションベン行っててください。オレも後から交代で行きますから」そこへ、オバチャンがトイレから出てきた。

「おう、オバチャン、トイレ掃除ご苦労さん!この前も、オレが入る前に掃除してくれてたよな」「はいはい。いらっしゃい」「また来たぜ!仲間を連れてな」「今、キレイにしたばかりだからね、外にこぼしちゃダメよ!」「わかってるよ」「もしこぼしたら、自分で拭くのよ」「客だぜ、オレ。厳しいなぁ~」オバチャンは、リーダーのお尻をポンッと叩いて言った。

「お腹空いてたら、辛太郎食べてかない?美味しいわよぉ」「おっ、ピリカラのやつだろ、オレ好きだぜ」「売れてるのよ~」「おう、包んどいてくれ!みんなの分もな」「さすが親分!太っ腹ねぇ」「なんだよ、その親分って、人聞きの悪い」そう言いつつも、うれしそうな顔をしていた。

もっとも、黒いサングラスをかけているので、表情だけでは笑っているのか怒っているのか、よくわからなかったが。

ユカリは、2人の会話を聞いてハッとした。

(まさか……。頻繁にトイレに行っていたのは……掃除をするため?)そのすぐ後、セールスマンと思われる若い男性2人が、車を停めて入ってきた。

「いらっしゃいませ~」「いらっしゃいませ!」先輩と思しき3つ4つ年上の方の男性が言った。

「このコンビニはさあ、いつもトイレがキレイだから、ついつい来ちゃうんだよね。覚えとくといいよ」「へえ~、そうなんですか」「運転しててさ、トイレに行きたいとき、考えちゃうだろ」「ええ、特に『大』の方だと、汚いトイレに入りたくないんですよね」「小便だって、周りがベタベタだとなあ~」ユカリは、しげしげとオバチャンの横顔を見た。

それに気づいて、オバチャンが言う。「どうしたの、副店長?万引きの子、大丈夫でした?」エビス顔。その笑顔が、急に本当の福の神に見えた。

地震の朝に……

ユイは、よく「珍しいね」と言われる「理系女子」だ。食品化学を専攻していて、早くから大手菓子メーカーに就職も決まっていた。教授の推薦のおかげだった。

3年生の2月初めには早々と内々定をもらい、春休みには海外へ放浪の旅に出かけた。友達にはうらやましがられた。今年の春、就職留年を余儀なくされたカレシのサトルは、今も就活中。

旅先へも「27社目の沈没」と暗い暗いメールを送ってきたが、返信もせず突き放してやった。ところが……。自分のお尻に火が点いた。

春休みも終わりに近づき、そろそろ日本へ帰ろうかと思った最終寄港地のインドでカバンを盗まれた。

全財産とともにパスポートも。大使館まで何日もかかる辺境での災難だった。そのせいで帰国が1か月も遅れ、教授からは大目玉を食らった。

4月からのゼミの授業に間に合わないだけではない。卒論の問題点を、教授と相談することになっていた。

メールで、帰国できない事情を報告すると、「会社の推薦を取り消すぞ」と脅された。ようやく帰国でき、空港から大学へ直行。とにかく平身低頭で謝った。それからがたいへんだった。徹夜徹夜の連続で、卒論の研究を始めた。

「地震、どうだった?」

午前2時過ぎ、大学の研究室のソファで眠っていたユイは、軽い震動で目が覚めた。

教授の机の上のテレビをつけると、静岡・愛知地方で大きな地震があったとニュースが告げていた。

各地の震度が画面に表示された。

「熱海市三島市震度5。静岡市浜松市豊橋市震度4」それを見たとき、浜松に住んでいる母方の祖母の顔が浮かんだ。

(大丈夫かな。あとでお母さんに訊いてみよう)そう思いつつ、再び睡魔に負けて眠りに落ちた。

翌朝6時。テレビをつけると、今のところ死者は出ていない模様。しかし、多くの人々がケガを負ったらしい。重傷者がタンカで搬送されるシーンが映っていた。

地震と聞いて、どうしても思い出すのは東日本大震災だ。そして、阪神・淡路大震災。揺れるたびに、「もしや」と思ってしまう。

チャンネルを替えてみる。静岡県内では、あちこちの建物や道路に被害が出ているようだった。

(よくこれで死者が出なかったなぁ。そうだ!)慌ててケータイを手にする。

メールが届いていた。ハッとして開くと、母親からだった。

(おばあちゃんは、無事です。時間があるときに電話してあげなさい)ホッとした。すると、お腹が空いているのに気づいた。

まだ朝早くて、学内のコンビニも食堂も開いていない。

ウインドブレーカーを羽織り、校門の前のコンビニに朝食を買いに出かけることにした。ドアを開けると、店内に大きな声が響きわたった。

「ねぇ、ねぇ、地震どうだった~」たまに見かけるレジのオバチャンの声だ。とうに60歳は過ぎているだろう。

こういう店では、普通は学生のバイトを雇うものなので、どこか違和感を覚える。まるで、旅先で「道の駅」に入ったような感じがした。

下品とまでは言わないが、なんとも下町っぽい言葉遣いが苦手だった。「僕は寝てて気づきませんでした」缶コーヒーとパンを買いに来た男子学生が答えた。

「ええっ、私なんか飛び起きちゃったわよ。いいわねぇ、頼もしいなあ」「……そういうわけではないけど」「テレビで見たらさ、道路がこんなに凹んで……車が路肩に乗り上げて……」次の瞬間、男子学生の後ろのお客さんが「エヘン!」と咳払いをした。

3人ほどできた列に気づいたらしく、レジのオバチャンは、「はいはい。ありがとうね~」と言って、次のお客さんのバーコードを読み取りはじめた。

ユイも、その後ろに付いて順番を待った。ところが、またまたオバチャンの大きな声が聞こえた。

「ねえねえ、真夜中の地震どうだった?」(またその話~)ユイは呆れてため息をついた。

その日の昼過ぎのことだった。教授に「肉まんを買ってきてくれ」と言われて、再びコンビニへ走った。この店のが好きなのだという。少しでも卒論のための研究時間が惜しい。

ついでに、自分の分の弁当も買って、研究室で食べることにした。

コンビニのドアを開けると、「そうなのよ、さっきのお客さんのお兄さんが静岡に住んでいるんだって!」「はあ……」「家が傾いちゃったらしいのよね。あなたも、親戚か友達か誰かいない?」と、オバチャンがお客さんに大声でしゃべっていた。

どう考えても声が大きすぎる。

ユイの頭の中では、「オバチャン」イコール「ワイドショー」という方程式が成り立っている。今どきの話題が大好きなのだ。まさしく、地震は「今どき」。

それも身の回りで被害者がいるとなると、大騒ぎしたくなる動物だと思っている。悪く言えば、「人の不幸は蜜の味」というところか。

ユイがカゴを差し出すと、「あなたも親戚か誰か被害に遭わなかった?」と目を大きく見開いて尋ねてきた。

「え、ええ。祖母が浜松に……」と口にして、心の中で(しまった)と思った。しかし、こと既に遅し。

「ええ!そりゃたいへんだ!それでそれで、連絡はついたの?」その後、ずっと根掘り葉掘り訊かれて、イライラしつつも心配してくれていると思うと冷たい言い方もできず、会話に付き合わされる羽目になった。

知らぬまに募金活動

だんだんと被害の様子が明らかになってきた。死者がないのは幸いだった。しかし、負傷者はかなりの数に達し、どの町の救急指定病院もいっぱいだという。

そして、静岡といえば有名な温泉がたくさんある。大打撃だ。

早くも今年の夏休みの営業を危ぶむ声が聞かれた。

そして午後7時。またまたコンビニへ行く羽目になった。今日はもうオバチャンに会いたくなかったので、夕食は学食で済ませるつもりだった。

ところが、今日が休業日である土曜日だということをすっかり忘れていた。このところ学校にずっと泊まり込みなので、曜日の感覚がなくなっていた。

ドアを開けた。(やっぱり)またまたオバチャンの声が店内に響いていた。もうウンザリだ。

(なんでこのオバチャンは、こんなに地震の話が好きなのよ!)しかし、レジは1つしか開いていない。仕方なく、イライラしつつも2番目に並んだ。

「ねぇ、ねぇ~。さっき店内の有線で聞いたけど、温泉旅館が地震のせいで火事になって全焼したんだってね。お客さんは丸裸で公民館に避難しているんだって!」「そうらしいですね。

他にも、道路が何か所も通行止めになっているとか」「うんうん、そうなのよ」「じゃあ……」そう答えると、オバチャンの会話に付き合っていたサラリーマン風の男性は、受け取った釣り銭を、レジの脇にある募金箱に、チャリン!と入れた。

ユイは、その瞬間、おや!?と思って、その募金箱に目を向けた。たしか、昨日までは「緑化推進ボランティア募金」と書かれていたはずだった。

ユイ自身も、10円未満のお釣りを受け取ると、できるだけ募金するように心がけているので記憶に残っているのだ。

それが、いつの間にか「静岡太平洋岸地震災害募金」という手書きの貼り紙に替わっていた。

(ひょっとして……)ユイは、赤面した。オバチャンに大きな誤解を抱いていたことに気がついた。

(ひょっとして、じゃない。……ううん、そうなんだわ)オバチャンは、きっと一日中、地震の話をしまくって「募金活動」をしていたのだと。

コンビニの中で、街頭募金のように、「募金、お願いしま~す」とは言えない。だから、だから……。

このオバチャンは、わざと大声で地震の話題をみんなに投げかけた。そして、誰しもの心の奥底に眠っている優しい気持ちを呼び起こしていたのだ。

オバチャンは満面の笑みで、「ありがとねー」と手を振った。男性のが少し紅くなった。

ユイは、小銭を持っていたが、わざと千円札を出して550円のオムライス弁当を買った。お釣りが少しでもたくさん出るようにと……。

弟子入りさせてください!

「え!?なにコレ!」ユカリはびっくりした。商品の発注状況を見てのことだった。エンジェルマートでは、先の1週間分の仕入れ注文をパソコン上で行う。

土日は、特にお弁当の売上が天候に左右される。気象情報で「快晴」なら、大量に仕入れる。もし、はずれたら……残ったお弁当は廃棄処分になる。

それはすべて店の負担だ。かといって、少なめに仕入れていてはお客様に迷惑をかけることになる。なにより、商機を逸するのは辛い。

注文するのは父親で店長の豊の仕事だ。

でも、ユカリも「少しでも売上が上がらないか、ロスを減らせないか」と毎日、注文画面をチェックするのが日課になっていた。そして、パソコンの画面を見ていて驚いてしまったのだった。

男子学生の恩返し

「お父さん、なにコレ!間違いじゃないの?」「どうしたんだ、ユカリ?」明日からの5日間、お弁当やおにぎり、それにサンドイッチが通常の2倍も発注されていたのだ。

「ああ、お前に言うのを忘れてた。どうしようか、迷ったんだけどな」「こんなに仕入れたら、売れ残っちゃうわよ」「そうかなあ、ちょっと多すぎたかな」「なに言ってるのよ」「いやね、夕方、あの子がカノジョらしい女の子と2人でやってきたんだ」「あの子って誰よ」ユカリは、腕組みをして訊き返した。

「ほら、いつだったか、シャケと昆布のおにぎりが好きで、ここで泣いちゃった学生さんがいたろう」オバチャンが、男子学生のおにぎりの好みの具を覚えていて、「5分待っててね」と言った事件(?)のことだった。

「彼がどうしたのよ」「あの子がね、カノジョと2人でやってきてね……オバチャンはいますか?って」「それで?……」「いや、今日は、早番で帰りました、って言うと、今度は店長さんいますかって」「それで?」「私が店長ですが……って言うと、こう言うんだな」「……」

「おせっかいだったら、ごめんなさいって前置きしてな。明日からの5日間、大学の中のコンビニが改装工事で臨時休業するそうなんだ。

もし、そのことを知らなかったら、教えてあげようと思って来てくれたっていうんだよ。カノジョと相談して、わざわざ」「えええ!」ユカリは絶叫に近い声をあげた。

「すごいニュースじゃないの、それ」「カノジョが言うにはな、カレシは大学祭の実行委員をしていたことがあって、イベントとかに詳しいそうなんだ。

それでな、イベントで一番に気をつけなくちゃならないのが、食べ物だって言うんだ。来場者が昼メシを食べようとして売り切れだとする。腹が減る。イライラしてると、それが他のクレームにもがるっていうんだ。

いつも、そんな話をカレシから聞いていたから、これはきっと、大学の前のエンジェルマートにとってスゴイ情報だってピ~ンときたそうなんだ」「うんうん」「それをカレシに言うと、今から教えに行くって言うから付いてきたんだそうだ」ユカリは膝がガクガクと震えだした。

「それで思い切って、いつもより倍の注文を出してみたんだよ」「ちょ、ちょっと待ってよ、お父さん。それが本当だとすると、倍じゃ足りないわよ……。3倍でもどうかな、4倍、いや5倍でも」「そんな恐ろしい」「なに言ってるのよ、大学の中のコンビニは、学生相手にどうしたって一人勝ちなのよ、いつもはね。それが店を閉めたら、学生は他へ行くしかない。

問題は、アットホームがこの情報をんでるかどうかね」「いや、たぶん、知らないと思うよ」「どうしてそんなことがわかるのよ」「そのとき、カノジョが言ってたんだ。

なんでも、学内で漏電事故があって、緊急にコンビニも含めた大幅な改装工事をせざるをえないことになったっていうんだ」「お父さん、ちょっと見てくるわ!」「なにを……」「大学のコンビニを!貼り紙かなにかしてあるはず。

ホントの話かどうか、私確かめてくる」「それなら私がもう行ってきたよ。

本当だった」「なに、落ち着いてるのよ……5倍仕入れましょ、5倍」「ええ!」「いいから、パスワード教えて!この時間なら明日の注文には間に合うでしょ!」ユカリは、パソコンに向かいながら、オバチャンに感謝していた。

(間違いない。あの男子学生は、オバチャンに恩返ししてくれたんだ)

やはり、あのオバチャンは只者ではない。おじいちゃんの言う通り「おせっかいの名人」なのだ。

マニュアルだけじゃダメ

そして、翌朝。オバチャンが出勤してくるなり、ユカリは言いにくそうに声をかけた。

「おはようございます」「はいはい。おはようございます」「あのぉ~、ちょっとお願いがあるんですけど」「はいはい、なんですかねぇ~。

また新しいマニュアルが増えましたか」「いいえ、そういうことでは……」「はいはい」相変わらずの調子で、ニコニコ笑っている。

「あのですねぇ……」「……」ユカリは、パッと身体を90度近くに折って頭を下げた。さすがに、そこまでお辞儀をすると、オバチャンより頭の位置が低くなる。

「お願いします!私を弟子にしてください」「はいはい……じゃない。なんですか~いきなり」「私、ずっとオバ……いや水野さんのこと誤解してたんです。でも、だんだんわかってきた。マニュアルだけじゃダメなんだって。もっと、おせっかいがしたいんです」

「え?おせっかい~。どうせ私は、おせっかいですよぉ~」「ああ、ごめんなさい。そうじゃなくって、もっとフレンドリーにっていうか……私、そういうの一番苦手なんです。だから……」珍しく、オバチャンの顔から笑みが消えた。

「そんなこと言われてもねえ~。弟子だなんて……ということは、私、副店長さんの先生ってことでしょう~」「はい、師匠です!」「私、ただのオバチャンだから」「お願いします!」もう一度、ユカリは深く頭を下げた。

そこへドアが開き、お客さんが入ってきた。「いらっしゃいませ~」オバチャンが言う。

「はいはい。今日も一日、元気にお仕事しましょうねえ~」「水野さん……」思い切って頭を下げたのはよかったが、アッサリとかわされてユカリは居場所に困った。

ちょっと、階段を1段、踏み外したような気分だった。プライドを捨てた一言のつもりだった。

それだけに、時間が経つにつれて、なんだか無性に腹が立ってきた。その晩。ユカリはまた祖父の泰造を訪ねた。いきなり、泰造の部屋の冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

「おじいちゃんも飲むでしょ!」「今日は、どうしたんだい」「どうもこうもないわよ」「この前は元気がなかったのに、えらい違いだねえ」

「聞いてよ、おじいちゃん!」ユカリは、ことの成り行きを説明した。恥を忍んで、プライドを捨てて、オバチャンに頭を下げた。それなのに、「ただのオバチャンだから」と言う。

「そりゃ、そうだろう。ワシが、ただのオバチャンだったら、そんなこと言われたら困るわなぁ~、ハハハッ」プシュ!ユカリは、怒りに任せてプルトップを引いた。

「あのな、ユカリ」「な~に、おじいちゃん」「MVPの人に教えるなんてことはできんと思うけど、ワシでよかったら力になるがな」「おじいちゃん、MVPじゃなくて、MBAよ」「ああ、M……」「そんなのどうでもいいけど」「嫌かい。これでも、一応、『商』の国の人のつもりなんじゃ。かなり耄碌はしとるがな」ユカリは、うれしかった。

飛び上がるほど、うれしかった。実家のコンビニに戻ったはいいが、誰も頼る者がなかった。父親の豊は、スーパーバイザーの言う通りにすれば繁盛すると思い込んでいた。

なにを訊いても「マニュアルを見なさい」と言う。それでもわからないと、「スーパーバイザーに訊け」と答えるだけ。自分は、ただの頭でっかちだったんだと、この2か月で思い知らされた。

その悩みさえ、聞いてもらえる人がいなかった。「おじいちゃん、お願いします」ユカリは、自分でも驚くほど素直に頭を下げることができた。

「孫とこうして酒が飲めるなんてうれしいよ」「うん、私も」そして翌朝。泰造はコンビニに現れた。

「そんなもの酒屋じゃねえ」と言った手前もあり、オープンしてから、ほとんど店に顔を出したことはなかった。

ごくごくたまに、酒のつまみを買いに来るくらいだった。

「おじいちゃん、いらっしゃい」ユカリは、「アドバイスをする前に」と泰造から頼まれた。

まず、店に行って、どんな接客をしているのか見てみたいというのだ。もちろん、大歓迎だった。

「レジの中に入るわけにもいかんし……店内をうろうろしててもいいかな」「いいわよ、雑誌でも立ち読みしててよ」泰造は、レジの前を通るとき、ヒョイッとオバチャンに礼をした。

オバチャンも、それに応えて軽く頭を下げた。

ユカリは「おや?なんで知ってるんだろう」と思ったが、泰造には自分から散々オバチャンの話をしてきたことに気づいた。

「あの~水野さん、たまに私の祖父が店に来ると思うけどよろしくね」と挨拶を入れておく。

「はいはい。わかりましたよ~」オバチャンは、いつものように笑顔で答えた。

同じ「ありがとう」はない

その晩、ユカリが自分の部屋に戻ると、コンコンとドアを叩く音がした。

「ワシじゃ、おじいちゃんだ……入ってもいいかな」泰造だった。

「ちょっと気になることがあってなぁ」「入ってよ、おじいちゃん」「ほい、コレ!」差し出されたのは、缶ビールとイカの燻製のおつまみだった。

「ありがとう。なに?気になることって」「ああ、朝、店へ行かせてもらったときに、なにか心に引っ掛かることがあってなぁ」「……」ユカリは、「引っ掛かる」と言われて身を乗り出した。

「それで何回も店を覗かせてもらったんじゃ。そうしたらな、大切なものが欠けていることに気づいたんじゃ」「え!?欠けてる……?」ユカリは、またまた「欠けている」と言われてドキッとした。

「なんじゃと思う?」「え~、そんな。早く教えてよ」「そんなに急かすな。これはな、見えないものじゃから、気づかないかもしれん」「え?見えないもの……?」「それはな、感謝の心じゃ」「……感謝?」「『商』の国の人はな、なんで栄えたと思う?」「……人の信頼を得たから……」「そうじゃな。

それには、気持ちが伝わらないといかん。物を売る、物を渡すだけでは心は伝わらん。

それを伝えるのは言葉じゃ」「うん……」「店に行ってな、どうも引っ掛かったというのはなぁ、『ありがとうございます』という挨拶じゃ。

お客さんが買い物をして出ていくとき、『いらっしゃいませ』と同じように言うようじゃな」それは、エンジェルマートのマニュアルになっていた。

「ワシがな、雑誌を見ていたら、隣でちょっとエッチな週刊誌を見ていた青年が、店を出て行ったんだ。

なにも買わずにな。そうしたら、お前の声が聞こえたんじゃよ」「え?私の?」「『ありがとうございました』ってな。けっこう大きな声で」「……」「そうしたらな、その青年……たぶん高校生かな、急に下を向いて顔をポッと紅らめたんじゃ……わかるかな」ユカリはハッとした。

泰造に説明されるまでもなく、言わんとしていることが理解できた。その青年はなにも買わなかったのだ。買わないのに「ありがとうございました」と言われた。

それはきっと、皮肉に聞こえたであろう。いや、思うよりももっと……嫌味に聞こえたかもしれない。なにしろエッチな雑誌を見ていたというのだから。

「あの青年は、もう二度とやってこんかもしれんな」「そんな……」「ワシなら、恥ずかしくて来れんなあ……もっとも最近の子がなにを考えているのか、わからんがな」「私……」「いやいや、この話をしたのはな、ユカリを責めるためじゃないんじゃよ。

『ありがとう』って言葉を一度ちゃんと考え直してみてほしかったんじゃ」「どういうこと?」「今日、引っ掛かったというのはな、きっと、ユカリも、店のアルバイトさんたちもな、ただの言葉だと思って『ありがとう』って言っているんじゃないかと思ったんじゃ」「う、うん」ユカリは、すぐに反論することができなかった。

「『ありがとう』はな、相手によって、また、時や場所によって心の込め方や伝え方が変わるんじゃ。いや、違って当たり前。一つも同じ『ありがとう』はない。

いくら『ありがとう』って100回言っても、まったく同じ調子で言っているようじゃあ言わないのと同じじゃ。かえって逆効果になることもある」「それが、今日の私だって言うのね」ユカリは、自分から教えを請うたはずなのに、不愉快な思いがした。

不愉快に思うということは、図星だからに違いなかった。

「ごめんな、ユカリ。きついことを言って」「おじいちゃん……じゃあ、どうしたらいいの?」「ああ、『ありがとうございます』なんて、たった一言なんじゃが、こんな難しい言葉はない。

どうしろ、と言われてもわしも困る」「……そんなぁ」「ああ、あの水野さんを見て勉強しなさい」「え?」「仕事はな、人の背中を見て覚えるものじゃ。わしが酒屋を継ぐときにな、オヤジ……お前のひいおじいさんはな、なにも教えてくれんかった。ただ、毎日、毎日、一緒に軽トラックに乗って配達に付いて行ったものじゃ。御用聞きも同じじゃ。それを見てな、よく説明はできんけど、身体に染み付いていったものじゃ」ユカリは心の中で叫びたかった。

(おじいちゃん……そんな悠長なことしてる暇はないのよ。早く数字を上げないとお店が潰れちゃうのよ)しかし、言葉には出せないユカリだった。これ以上、泰造を心配させるわけにはいかなかった。

挨拶はバリエーション

翌日。もやもやした気持ちを抱えながらも、ユカリは今まで以上に、オバチャンを観察するようになった。

それまでは、上から目線で「ちゃんと仕事をやっているか」という監督者の眼だった。今は違った。

「水野さんを見て勉強しなさい」という泰造の声が心の中にこだましていた。すると、驚くほどオバチャンの言葉が見えてきた。「見える」などと言うと妙に聞こえるかもしれない。

いつも、ただニコニコ笑って言っていると思った挨拶に、実に多くのバリエーションがあることに気づいたのだった。

トラックの運転手や、近くの工事現場から来たと思しき男性には、「ありがとね~」ときに、「いい天気だねぇ」とつけ加えたりもする。かといって、いつもフレンドリーとは限らない。

ユカリが隣のオバチャンをチラチラと気にしながらレジを打っていると、略礼服の中年男性が入ってきた。祝儀袋を手にしてオバチャンのレジに向かった。

オバチャンは、男性がなにも言わないのに、「こちらで書いて行かれますか?筆ペンをお貸ししますよ」と声をかける。

「ありがとう、大丈夫です。車にありますから」「これから結婚式ですか」「ええ、姪っ子のね。うっかり家に祝儀袋を忘れてきちゃって」「それは、おめでとうございます。あっ、そうしたら、ピン札お持ちですか?」「あ、いや、急いでたんで……」「ちょっと待ってくださいねぇ」オバチャンは、レジの中から1万円札の束を取り出した。

「これなんてどうですか?これも……。新品じゃないけど、かなりきれいですよ」「ありがとう、助かります」サッと5枚の1万円札を交換し、オバチャンは両手をおへその辺りで合わせて言った。

「ありがとうございました」今まで見たことのないような丁寧さで。深く深くお辞儀をして。それは明らかに、トラックの運転手さんに言うのとは違っていた。

どちらがいい悪いという問題ではない。ユカリは思った。

私が気づいていなかっただけかもしれない。オバチャンは、人を見て、一人ひとりに違う「ありがとう」を言っていたんだ)たかが「ありがとう」が、なんだか特別なものに思えてきたユカリだった。

そこへ、幼い男の子を連れた母親が店に入ってきた。小学1年生くらいだろうか。手には、大きくて持て余すほどのカバンを持っている。音符がデザインされているところを見ると、ピアノ教室の帰りかもしれない。

母親は、食パンを1斤、そして牛乳1パックをカゴに入れた。男の子は、「ジュース買って~」と言う。母親はそれを無視して、今カゴに入れたパックの消費期限を再確認した。再び、男の子が言う。

「ジュース買ってよ~」今度は、自分で勝手に冷蔵棚から紙パックのアップルジュースを手に取って、母親のカゴに入れた。母親は、そのままユカリのレジに歩いてきた。(教育熱心なようだけど、甘いのね)

ユカリは、それでも売上が増えるのだから、ありがたいことだと思った。

ところが、母親は、レジ台の上にカゴを置くと、中からアップルジュースを取り出し、ちょっと険しい声で言った。

「ごめんなさい、これやめます」ユカリは、(なによ、それなら、自分で棚へ返せばいいじゃない)と少しムッとした。

でも、何事もなかったかのように、「はい、かしこまりました。こちらで戻しておきますね」と答える。

母親は、男の子を見下ろして言った。

「い~い、ケンちゃん!ジュースは辛抱しなさい。家に帰ったら、冷蔵庫に麦茶があるからね。い~い、このジュースを買うお金はね、この前、地震に遭った静岡の人たちへの募金にするからね」

男の子は、恨めし気な目で、レジ台の上のアップルジュースを見つめている。どうしても諦めきれない様子だ。

「はいっ!自分で入れてごらん」母親はそう言うと、子供に百円玉を差し出す。なかなか手が出ない。もう一度。「はい!」と、百円玉を目の前に出す。

ケンちゃんと呼ばれた子は、本当に本当に淋しそうな顔で受け取る。何度か、ジュースと百円玉を交互に見つめる。

そして、チャリン!少しだけ背伸びをして、意を決したように募金箱に百円玉を入れた。そこには、さきほどの淋しげな瞳はなかった。

ユカリには、不思議に子供ながらも精悍な顔つきに見えた。思わず、レジから飛び出していた。

男の子のところへ回り、しゃがんで言った。瞳を見つめて。

「ありがとうね、ボク。きっと、地震で困っている人たちも喜んでくれるよ!」「ほんとう?」「うん」「よかった~」「ありがとう、ありがとうね」ユカリは、溢れる涙を止めることができなかった。

男の子をギュッと両腕で抱きしめた。母親が、「ありがとうございます」とお辞儀をした。

その後ろで、オバチャンがいつもの、いや、いつもよりもっともっと幸せそうに微笑みながらユカリと母子の3人を見つめていた。

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