第2章神社との正しい付き合い方
神社とは、どんな場所?神社とは何でしょうか?そういう質問をよくされます。いろいろな考え方があると思いますが、私はこう答えます。「それは、私たち日本人が縄文時代から実践してきた暮らしであり、知恵であり、文化です。それが今も残るべきところに残ったもの。そのひとつが神社なのです」日本人が縄文の昔から伝えてきた暮らし、知恵、文化、そのいずれも常に神様とつながっています。宗教という言葉があるため、現代に生きる私たちは神道を「宗教のひとつ」と考えてしまいがちです。しかし、宗教などという概念が生まれるよりも遥かずっと昔から、日本人は何か大きな聖なる存在を自分たちの身近に繊細に感じとり、その存在に額ずいてきたのです。その存在はまず、自然とともにありました。縄文時代は特に、自分たちの生殺与奪のすべてを握っているのが自然でした。自然とは恵みを与えてくれるものであり、また命を奪うものでもありました。日照り、大雨、噴火、地震、津波……、世界の中でもこれだけ多くの災害に見舞われる国はありません。人は自然(神様)の猛威を恐れ、また感謝もし、手を合わせてきたのです。東日本大震災のとき、津波で家族も家もすべてを失った漁師さんたちが「それでも恵みを与えてくれるのはこの海なんだ。海を憎む気にはなれない」と、また漁に出て行く姿をニュースなどで見た方も多いと思います。その姿は縄文から変わらない、私たち日本人の姿です。大きな台風は実りを間近に控えた米や農作物を台無しにし、水害など人命をも奪う大きな被害をもたらします。けれども、その翌年は作物に虫がつかない。逆に、台風がそれほど来なかった年には、葉っぱがなくなるほど虫が発生するともいわれています。すべては大いなる自然(神様)の采配。その神様の思いに応えるように生きることで、日本人は神様に思いを届けようとしてきました。伊勢神宮では年間、一五〇〇回を超える数の祭祀が行なわれています。それは朝、御神水を汲みに行くことから始まり、神宮にお祀りされている神様方への食事の準備をし、朝に夕にお供えすること。お供えする神饌(神様の召し上がるもの)である米、野菜、果物、塩にいたるまで、すべて自分たちで作るため、お田植えなどが重要な神事となっています。神様に奉納する麻や絹を織ることも神事です。おわかりでしょうか。かつての日本人の生活そのものが、伊勢神宮の祭祀となっているのです。そう、私たちの生活は伊勢神宮と同様、今も神様とともにあるものに違いないのです。キリスト教では禁断の果実を口にしてしまったアダムとイブに対し、「神が罰として、イブ(女)には出産の苦しみを、アダム(男)には労働の苦しみを与えた」とあります。労働が罰であり、苦しみであるということです。対して、私たち日本人にとって働くことは神様とともにあること。そこには喜びがあります。「日本人は勤勉だ」という海外からの賞賛の裏にはそんなことが影響しているのかもしれません。現在では、神社というとパワースポットであるとか、縁結び、開運など、現世利益のためのキーワードばかりに焦点が当てられているように思えます。本来は私たち日本人の姿そのもの。そして、その地に住んでいた祖先が手を合わせ続けてきた聖なる空間です。御利益をいただこうとする前に、日本人と自然、その暮らし方そのものにもう一度、目を向けていただければと思います。神様とつながる言葉神社とは日本人の縄文時代からの暮らし、知恵、文化が伝わる場所。
パワースポットとは何か?遠方から私どもの神社にお出でくださった方に、その理由を尋ねると「すごいパワースポットと聞いたので」という答えが返ってくることが増えてきました。パワースポットとは、何でしょう?賀茂神社は「天上から光が柱のごとく降り注ぎ、大地の気を発する場所」とされてきました。パワースポットが「大地の力(気)を感じる場所」を指すものであると考えられているのなら、私も賛同します。全国津々浦々に鎮座する神社は、何故そこに建てられたのでしょうか?それぞれの神社は意味あって、その地に建てられたのです。それ以外の場所であってはならないのです。私たちの祖先がそこに「何か」を感じ、額づいた場所であり、その「何か」を「神」というありがたい存在として、お祀りした場所なのですから。もとは山の上にあったものを「お詣りしやすいように」と山のふもとに遷すなど、後年はだいぶ人間の手が加えられることになりましたが、それでも最初に人々が額づいた場所は「奥宮」「元宮」として今現在も神聖な空気をたたえていることが多いのです。パワースポットは大自然そのものともいえます。それを営利目的で使用することは自然や神々に対する冒涜ではないでしょうか。大自然に畏れを抱き、そこで祈る。その祈りは日々の感謝であり、地の「気」をいただき、明日への活力を養うものでした。神様への感謝を伝える場所がパワースポットであったのです。そこに行きさえすれば、誰もがパワーをもらえるものではありません。また、大事な御神木が「パワースポット」として、知らぬ間にSNSで拡散されてしまったある神社さんでは、多くの人が御神木に殺到したものの、肝心の神様に手を合わせていかない人も多く、驚かれたと聞きます。神社に行って、神様にご挨拶をしない。御神木にだけベタベタ触って帰ってくる。そんな振る舞いをして、パワーをいただけると本当に信じているのでしょうか?「パワースポットはプワー(貧乏な)スポットだ」と言った人がいます。パワーがほしい、恋愛運がほしい、金運がほしい……、そんな「が(我)」だけの想念が集まる場所。私たちの祖先が大切に守ってきた場所をどうかそんな場所にしないでいただきたいと思います。神様とつながる言葉パワースポットは大自然の気を感じる場所。
「いい神社」の見つけ方「賀茂神社以外では、どこの神社に行くのがいいですか?」これもまた、よくお受けする質問です。にわかに、神社にスポットが当たるようになり、「恋愛なら、この神社が御利益がある」「今年はこの神社に行くと開運間違いなし」といった話を私もよく耳にします。人が集まるということは、それぞれの神社さんでそうした実績があるということでしょう。それは理解できます。でも、そうした「人が薦める神社」が果たしてあなたにとって、本当に「いい神社」なのでしょうか?たとえば「すっごくいいよ」と紹介されて行ったマッサージ師さんがいたとします。待合室はお客さんでいっぱいだし、なるほど繁盛しているらしい。でも、あなた自身がどうだったかというと、「なんだか、ツボにハマってなかった」「強すぎて揉み返しになってしまった」などということはありませんか?ダイエットも友達が「痩せた」というので試してみたものの、自分では結果が出なかった、ということもあると思います。当然です。人はひとりひとり違うのですから。「自分に何が向いているか」「合っているか」は自分で判断するしかないのです。私は、神社もそういうものであると思っています。「私はどの神社に行けばよいでしょう?」と聞かれたとき、私は「今まで行った中でどこがよかったですか?」と逆に尋ねます。そして、「あなたの今の魂の状態には、そこが合っているんですよ。でも、魂の状態が変わったら、また違う神社にお招きされるはず。そのためには、常に自分に素直で、感覚を研ぎすませて過ごすことが大切ですよ」と、お話しします。有名無名を問わず、「なんだか、この神社が気になる」「この神社の空気は気持ちいい」と感じた神社というのは、あなたにご縁のある神社です。あなたのご先祖様とどこかでつながっているのかもしれませんし、今のあなたの状況を見て、その神様が声をかけてくださっているのかもしれません。そうした神社には「人が薦める神社」ばかり行っている限りは出会えることはないでしょう。「人が薦めたから行ってみる」ではなく、自分の魂が行きたがっているから行く。神社とのご縁のつくり方で、これが一番大切なことです。「霊能者じゃあるまいし、そんなこと私にはわからない」などと思わないでください。ご先祖様、神様はいつもあなたのそばにいて、あなたの役に立ちたがっています。「困っているなら、ここに行くといいよ」「あそこに行けば、きっといい気づきが得られるよ」と常に囁いてくれているのです。それに気づくか、気づけないかは、あなた次第です。気づけた場合、多くは「ひらめき」「第六感」などと言われます。「なぜだかわからないけど、気になる神社」が見つかったとき、さっと行動に移せる人。見つけはするけれどそのままにして、そのうち忘れてしまう人。ここで大きく道は分かれます。見つかったら、ぜひお詣りに行ってください。きっと、「ああ、これを見せたくて(または気づかせたくて)、この神様が私を呼んでくださったんだ」という体験をするはずです。「行ったけど、なんだかわからなかった」という人も、そこで諦めず、「ひらめき」に素直に従うことを決してやめないでください。いつか「ああ、これか」と腑に落ちる瞬間が必ず訪れます。そのとき、心の中にはきっとあたたかいものが溢れ出してくるでしょう。それはそれまでのあなたが気づかないままでいた、ご先祖様、神様からのあたたかい愛情なのです。あなたに一日も早くその瞬間が訪れますように。神様とつながる言葉自分の魂が行きたがっている神社に気づくこと。
遠くの神様より、近くの産土の神様私どもの神社はほんの十年くらい前まで、地元の昔からの氏子さんしか参拝に来ないような神社でした。それが近年では、全国各地からお詣りにいらしていただけます。大変ありがたいことですが、ぜひ今、住んでいらっしゃる土地の神社さんにも足繁くお詣りしていただきたいのです。なぜなら、その神社に祀られている神様があなたが住んでいる地域、そしてあなたを一番身近で見守ってくださっている神様だからです。そういう神様のことを「氏神様」、または「産土の神様」と言います。昔は一族でひとつの場所に住み、自分たちの先祖神である神様を氏神様として祀ってきました。一族とその土地を守っていだだけるようお願いするためです。その大所帯から離れ、違う土地に移ったときもまずは氏神様を祀り、「この土地で無事に暮らしていけますように」と祈るところから始めました。天照大御神が今の天皇陛下、御皇室の皇祖神(ご先祖様)であるように、今から一三〇〇年前に編纂された我が国最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』に登場する神々の多くはこの地上に降り立ち、現代日本にも続く一族の祖となっていきました。また、亡くなった人も先祖神として、生きている者を見守ってくれる神様となりました。昔は当たり前のように、一族それぞれの氏神様がいらしたのです。あなたにも調べればきっと氏神様はいらっしゃるでしょうが、残念ながら多くの日本人がその存在を忘れてしまいました。そこで「産土の神様」が大切になるのです。字の通り、自分が産まれた地の神様であり、あなたが今、住んでいる地域の神様です。今、住んでいるところから一番近い場所にある神社もそうですし、それぞれの県の神社庁に問い合わせても教えてもらえます。あなたが今、そこに住めているのは、その神様が許してくださり、お招きくださったからなのです。もしかしたら、あなたの過去世やご先祖様のどなたかが、その神様とご縁があったのかもしれません。そう考えると、今あなたがそこにいることが、特別に思えてきませんか?産土の神様に親しみが湧いてきませんか?だから、まずはそのご縁に感謝することです。せっかく招いてくださったのに「挨拶もしていない」なんてことになっていませんか?住んでいる場所だけでなく、通勤途中にいつも前を通る神社、なんとなく気になる神社にもぜひご挨拶をしてください。神社への参拝が旅行など特別なものでなく、日常的なものになったとき。あなたと神様との距離もまたぐっと近づいているはずです。神様とつながる言葉日常的に参拝できる近くの神様を大切にする。
神社にはいつ行けばいい?近所の神社を大切にしてほしいのは、月に一度や二度、必ず参拝する日をつくることをおすすめしたいからです。参拝のタイミングとしては、「おついたち詣りをする」「毎月一日と十五日にお詣りする」「旧暦の毎月一日に行く」など、人それぞれ。それでいいと思います。私は古来からのしきたりに従って、毎月一日に鎮魂などの儀式を経て、月次祭をしていますが、それはあくまでも私のルール。あなたはあなた自身のタイミングで決めて問題はありません。「月の始まりだから一日にしよう」「自分の誕生日だから十四日にしよう」など、いつ行くのが自分らしいか、考えてみてください。そうした自分との対話があなたの魂を磨いていくことにもつながります。誰かが「いい」と言っていた神社ではなく、自分の近所の神社へ、自分で決めた日にちに毎月必ずお詣りをする。それだけで、これまでのあなたとは違うあなたになれたような気がしませんか?もし毎朝、シャワーで禊をすることが難しいのなら、このお詣りする日だけでも実践してみてください。清められた心身でお詣りをする、その喜びをぜひ味わっていただきたいと思います。お詣りに行ったなら、「今月もこうしてお詣りに来られました。ありがとうございます。この一ヶ月も無事に過ごせますように」と、まずは感謝を伝えてから、お願い事ではなく、神様に対して「誓いを立てる」というのがいいと思います。「試験に合格しますように」ではなく、「人々の役に立ちたい。だからこそ、この試験に合格し、その資格をとることが必要なのです。絶対に合格します」というように、その誓いを立てる意義を考えると、より思いが強くなります。また、一ヶ月に一度か二度行くといいというのは、短い期間での誓いが立てられるからです。「試験に合格します」では、なんとなく漠然としていますが、「次にお詣りに来るまでに、あの参考書をすべて終えます」などとすれば具体的で、より確実です。自分ひとりで目標に向かうよりも、神様という存在に誓いを立てたほうがエンジンもかかるというものです。こうして誓いを立てると、自分の心の中に一本の柱が立ちます。柱というのは、神様の数え方(一柱、二柱……)でもあります。誓いを立て、心清らかに精一杯生きることにより、自分も神様に近くなれるという考え方もあるでしょう。氏神様、神様を先祖にもつ日本人は自分自身もまた神様であるのですから。もちろん、「やっぱり難しい……」と逃げたくなるときもあると思います。どうしても達成できないこともあると思います。そんなときは、次にお詣りに行ったときに素直に「達成できませんでした。ごめんなさい。今月こそ頑張ります」と、新たに誓えばいいのです。失敗すると、次に乗り越えられたとき、「自分に勝てた」という気持ちと、「乗り越えさせていただいた」という神様への感謝で胸がいっぱいになります。フルマラソンに挑む人は苦しくなったとき、ゴールを目指すことはひとまず横に置き、「あそこの電信柱まで頑張ってみよう」「次はあそこまで行けたら諦めるかどうか決めよう」などと、小さな目標に切り替えていくといいます。そうして頑張っているうちに、ゴールに辿りつけるというわけです。誓いも一緒です。月に一度、または二度と小刻みに神様に誓いを申し上げる。時には失敗し、謝罪もし、また感謝する。その繰り返しにより、自分の中の柱が太くなっていき、神様とのご縁も深まっていくのです。神様とつながる言葉月に一度の参拝日は「神様に誓いを立てる日」でもある。
お賽銭は四十五円がいい「お賽銭に四十五円入れると〝始終ご縁〟ができますよ」ツアー団体客を案内してくるバスガイドさんがそんなふうに説明しているのをたびたび耳にします。日本人はこうした語呂合わせが大好きです。弁財天も正式には「弁才天」です。「財」としたほうが、お金が儲かりそうでいいだろうとかなり古くから日本ではこちらの字が使われています。カエルを祀って「元気に帰る」や年末の酉の市で売られる縁起物が熊手なのも、福を「かき込む」「かき集める」といった発想からという説があります。そういう意味でいえば、お賽銭が四十五円でも一向に構いません。そもそもお賽銭は、神様にお供えする海の幸や山の幸、それに米といったものでした。特に米は天照大御神が私たち「大御宝」を飢えさせぬよう、豊かに暮らせるようにと孫である邇邇藝命に持たせ、この地上に遣わしたものとされています。その米により深い感謝を込めて、白い紙に包み供えていたものが金銭が流通するに従い、金銭も多くなっていったのです。「お賽銭にはいくらくらい入れればいいんですか?」というのも、よくされる質問のひとつです。私は出張先など普段行くことのできない神社にご縁をいただいたときは、一〇〇〇円をお供えします。一〇〇〇円は私にとって、安い金額ではありません。でも、いただけたご縁に対して、私を日頃守ってくださっているご先祖様の分まで感謝をお伝えしたい。その思いが一〇〇〇円であり、私自身のルールなのです。対して、ご参拝にいらした方に質問されたときは「いくらでも構いませんよ。あなたの今の状況でできる精一杯を神様へお供えすればいいんです」と、お答えしています。反対に、してはいけないのは「今日はお賽銭がないからお詣りするのはやめる」ということ。お賽銭がないからといって、神様は怒りません。けれど、目の前を通っているのに挨拶もないのはどうでしょう。時間がないのなら、ペコリと一礼するだけでもいいのです。家の近所にある神社、通勤途中にある神社、前を通っていながら、無視し続けてはいませんか?神社の前を通るときは一礼。時間のあるときはきちんとお詣りをする。そういう心がけが神様とのご縁を深くしていくのです。神様とつながる言葉お賽銭より、大事なのはご挨拶。
祈祷のすすめそうして、近所の神様へのご縁ができたなら、年に一度は祈祷、または昇殿参拝することをおすすめします。昇殿参拝とは「正式参拝」ともいわれ、拝殿の前でお賽銭を入れての参拝ではなく、拝殿に上がらせていただき、神様に玉串を奉納する形の参拝になります。祈祷とは、同じく拝殿に上がらせていただき、神主に祝詞を上げてもらう形での参拝になります。祝詞を上げることは、神様とより深いご縁を結ぶこと。あなたの思い、感謝の気持ちを伝えるため、日々修行を積んでいる神主に託すことで、より一層研ぎ澄まされた音として、神様に深く、強く届くのです。私は祝詞を上げるとき、祝詞の意味をよくよく感じて、神様に「何卒、お聞き届けてください」と念じながら唱えます。自分ではよくわかりませんが、普段の声と祝詞の声はまったく違うそうです。声というより、神様につながる音。倍音を響かせることで、神様につながる扉を開ける鍵になるのかもしれません。昇殿参拝も祈祷も社務所に申し出れば、数千円でお願いできるはずです。神聖な空間に響く祝詞の独特の抑揚、言葉の趣き。宇宙と、神様と一体になったような、心の底まで浄化されるような感覚をぜひ一度、ご体験いただければと思います。私どもの神社の祈祷殿は桜、樫、楠、檜など、数十種類の木材で作られています。これは縄文時代の森に近づけようとしたためです。すでにお話しした通り、縄文時代から日本人は神様に祈りを捧げていました。そのときは当然、拝殿などというものはなく、野外。空の下です。「鎮守の杜」という言葉がありますが、神社の多くは杜(森)の中にありました。高い木の上に神様が降り立つと信じられていたからです。「杜」という字の「土」は神様に捧げ物をする台(盛り土)を象形化したものといわれます。神様が降り立つ木の下で、捧げ物をして祈る祖先の姿がこの字に込められているのです。そうした場で感じられた空気、木々のにおいを再現できないか。そう考えて、祈祷殿はつくられました。静かに心を落ち着けて、祝詞に身を任せたとき、「森の中にいるような気持ちがしました」とおっしゃっていただくこともあります。日頃感じたことのない空気や作法に緊張するかもしれませんが、リラックスして、その場の空気をよく感じていただきたいと思います。これも初めての体験なら仕方ないことなのかもしれませんが、お子さんの七五三のご祈祷に短パンにサンダル姿のお父さんもいらっしゃいます。祈祷が始まるときになっても、帽子をかぶったままの方もいらっしゃいます。尊敬する方、いつもお世話になっている方の家にご挨拶に行くとき、あなたならどういう服装で行きますか?身だしなみもきちんとして、その方が喜んでくれそうな手土産を持ってお伺いしませんか?それと同じことと思ってください。神社は神様の家。その家の中まで上がらせていただくのです。自分のために祈祷をするとしたら、いつがいいか?それはあなた自身が決めてください。月に一度のお詣りを始めて一年が経ったときでもいい。もちろん、新年のご挨拶でもいいでしょう。大きな誓いが達成されたときに「御礼詣り」という形で行っても、神様は喜んでくださいます。祈祷は七五三や厄払いなどの特別なときにだけ行なうものではありません。神様をより近くに感じられるこの機会をぜひ大切になさってください。神様とつながる言葉祈祷は神様をより近くに感じられる大切な機会。
有効な誓いの立て方とは?ここまで「誓い」という言葉を用いてきましたが、「そもそも、どんな誓いを立てたらいいかわからない」という方もいらっしゃいます。「使命」という言葉を使うと、さらに難しくなってしまうでしょうか。気がつかないだけで、すべての人は使命を持って生まれてきています。言い換えれば、使命がなければ「命」を与えられるわけがないのです。では、その使命を見つけるにはどうしたらいいのでしょう?意地悪と思われるかもしれませんが、私は人がそれぞれ「これが自分の使命だった」とわかる瞬間は人生で一回だけ。体と魂が分かれるとき、つまり亡くなるときだと思っています。そもそも、そういうものであるのだから、「使命が見つからない」などと思い悩むことはやめましょう。まずは気を楽にして、目の前のことを一生懸命やってみませんか?今の自分にできること、目の前のやるべきこと、その責任を精一杯果たすことです。その中でも、あなたの魂を磨くための数々のハードルを神様は必ず用意してくれています。「今日一日頑張った」「今日はちょっと頑張れなかった」を繰り返し、人生最後の瞬間に「ああ、そういうことだったのか」「だったら、役目は少し果たせたかもしれないな」と思えればいい。私は自分の人生の使命に関しても、そんなふうに考えています。でも、「今の自分ができることをする」といっても、自分のためだけに動くのと、人のためを思って動くのとでは、エネルギーの湧き方が違ってきます。私たち人間は「他者に何かを分け与えるとき、無上の幸福を感じる」ことを本能としてもっているのだそうです。「お金持ちになります」と誓いを立てて、自分の儲けばかり考えている、さらには人を陥れてまでも儲けようとする。そういう人は一見、うまくいっているように見えて、実は幸せではないのかもしれません。そして、そういう人に神様は力を貸さないのです。神様はこの国がよりよくなるため、私たちがより幸せに心豊かに生きるために見守ってくれています。その思し召しに適う人、自分の思いを背負って他者のために働いてくれる人に力を貸してくれるのです。よく、ノリにノっている人、幸運に恵まれている人を「ツイている」と言いますね。それはまさに神様がツイている、憑依した状態です。そのことに感謝し、より神様の思いに応えて、周囲を幸せにするために力を尽くせば、神様はさらにその人に力を貸してくれるでしょう。ところが、人間は弱いもので「ツイている」ことを「自分の実力」と勘違いしてしまうのです。さらには、他者ではなく、自分のためだけにその力を使おうともしてしまいます。その兆しが見えたとき、神様はその人から離れます。「ツイている」状態ではなくなるのです。そして、神様がいなくなったその隙にまんまと入り込んでくるのは「魔」です。これまで、たくさん見てきませんでしたか?時代の寵児ともてはやされ、活躍した人が一転、見る影もなく転落していく様を。それはまさに「魔が差した」結果です。自分のためだけの誓いから、もう少し視野を広げて、あなたが誰かのためにできることがないかを考えてみましょう。そんな思いで立てられた誓いには、神様も喜んで力を貸してくれます。他者のために働けることであなた自身も満たされ、より幸せを感じられる。そんな人を私はたくさん見てきました。神様とつながる言葉自分のためだけではなく、誰かのためにできることを考える。
成功者の共通点私どもの神社には、有名企業の経営者や著名人も多く参拝にいらっしゃいます。その中でも成功している人、長く「ツイている」状態が続いている人は決まって、謙虚で素直です。そして豊かな感性をもっています。そういう人は自分の下にいる人の声、企業ならば消費者の声をよく聞くことができるのと同様に、御本人は無自覚かもしれませんが、神様の声もきちんと聞くことができているように思います。「社会」は「社」と「会う」ことです。「社」とは「神社」です。「会う」とは「集まること」です。中国の古典によると、社会とは「田舎の祭り」とあります。田舎の祭りはそこに住むすべての人たちが集まり、役割を分担して行ないます。それぞれが自分の責任を果たし協力し合う共同体が「社会」であり、「会社」でもあるのです。仕事は「事に仕える」とあります。社会に貢献するために命を与えられ、その役割を担わせていただけることに感謝する。「世のため、人のためにいくらでも骨を折りましょう」という心。それは言い換えれば、「神様のためにいくらでも働きます」ということです。神様とより深くつながるには一歩進んで、「自分は神様のために何ができるか?」と考え、行動すること。多くの成功者の姿から、私はそのことを確信しています。そうして謙虚に神様の言葉を(無自覚としても)受け止め、行動していると、魂が磨かれ、感性が豊かになってくるようです。感性の豊かな人とそうでない人とは、同じ神社へ行っても感じ方がまったく違います。「この木には白蛇伝説があります」とお話ししても、鈍い人の目には「そういう伝説のある、ただの木」にしか映りません。しかし、感性の豊かな人には、白蛇の姿は実際には見えなくても、その気配が感じられる。「ありがたいですね」という言葉も自然と出てくるのです。結果、同じ神社に行っても、受け取れる神様からのメッセージの量は天地ほどの差ができてしまうようです。古代祭祀場がある祈りの庭に、夜、ひとりで入ることがあります。その中心にある禁足地はこんもりとした丘状になっていることから、おそらく古墳であると考えられています。これまで何度も研究機関から発掘調査の依頼がありましたが、すべて断り、私どもで大切に守っている聖地です。夜、そこまでの道のりは漆黒の闇に包まれています。足を踏み入れる前、私は「入らせていただいてもよろしいでしょうか?」と、心の中で尋ねます。許されないときはなぜだか足を踏み入れることができません。反対に、許されたときは闇の中、足元にスーッと細い光の筋が引かれていくように感じるのです。そうして、ゆっくりと歩いていく私の周り、草むらの中では何かがカサカサと動く気配が感じられます。気配だけで姿は見えませんが、何やらアニメ映画に出てくる「まっくろくろすけ」のような丸いものが集団で動いているように感じるのです。そんな話をすると「それはぜひ行ってみたい」と夜に訪れる方もいらっしゃいます。「私もまっくろくろすけを感じました」という人、「わからなかった」という人、さまざまです。「神社は夜、参拝してはいけない」という人もいますが、私は問題がないと思っています。大事なのは心持ち。神様に謙虚に許しを乞える人、ただの興味本位、肝試し気分で足を踏み入れる人で大きく変わってくるのです。肝試しでやってくる人にはお望み通り、そちら側の存在がすり寄ってくることでしょう。「危ないよ」という神様の声は残念ながら届かないのだと思います。あなたはどうでしょう?あなたを見守る神様の声を受け止められているでしょうか?神様とつながる言葉「自分は神様のために何ができるか?」を考える。
神様の声を受け取るにはあるとき、三十代の女性がひとりで参拝にいらっしゃいました。どこか思いつめた様子で長らく佇んでいるのが気になり、声をかけてみると、「一生そばにいる」と心に決めていた人との恋が終わったとのことでした。そのとき、仕事もうまくいっておらず、「もう生きていくのがつらい」と、ポロポロと涙をこぼされました。「それはおつらいですね。でも、あなたのそばにいる神様やご先祖様はあなたにとってマイナスなことはしないのですよ。別れることになったのは、その男性が神様方のお眼鏡に適わなかったからです。あなたにはふさわしくない、必要ではないと感じられたからですよ」私はそう言いました。慰めではありません。心からそう思っているのです。失恋など、つらい目にあったとき、人は「なぜ私だけ」とその不幸を恨みます。けれども、それは「失恋ってこういう苦しみのことなんだ」と学ばせてもらった、貴重な経験をさせてもらったともいえるのです。つらい失恋を一度でも経験すれば、次に好きになる人をより深く大切に思えます。もっと細やかに愛せます。「そのための素晴らしい経験をあなたは今、させてもらっているんですよ。今、死んでしまったら悲しみの中で人生終わってしまうけれど、踏み留まって、四十歳、五十歳になったら、きっと『ああ、あのとき死ななくてよかった』『あの経験があったから、今の幸せを手に入れられた』と必ず思います」そうお話ししたところ、少し心が落ち着いたようでした。実際、その後、新しい恋に出会い、結婚もし、今はとても幸せそうな姿で参拝に来てくださいます。失恋ばかりでなく、人生で訪れる「試練」と思われるものはほとんど、神様があなたに「よかれ」と思って与えてくれているものです。それを恨んで、心を閉ざしてしまうことは、神様からの声に耳をふさいでしまうのと同じこと。反対に、つらくて、悲しみのどん底にいるようなときでも「これで神様は私に何を学ばせようとしてくださっているのだろう」と思うこと。そちらの方向へ心を開くことができれば、神様からの声も自然と入ってくるはずです。神様だけでなく、いったいどれほどのご先祖様があなたを見守っていると思いますか?どれだけの命のつながりの中にあなたが今、存在しているのでしょうか?ものすごい数の応援団が今もあなたのそばにいます。そのエールを受け取る、受け取らないはただひとつ、あなた自身の心の問題なのです。神様とつながる言葉神様の声を受け取れる、受け取れないは自分の心の持ちようで決まる。
神社にはひとりで行こう気の合う友人、大切な人たちと一緒にお詣りをする。それは幸せな時間に違いありません。ただ、大切な誓いを立てるとき、またはあなたの魂が「行きたい」と言っている神社に参拝するときはぜひ、ひとりで行かれることをおすすめします。神社で心を整え、真っ直ぐに自分自身と向き合う。その時間こそ、神様の思いを素直に受け止められる時間です。あなたの魂と神様だけに集中していただきたいのです。誰かと一緒だと、手を合わせているときもなかなか集中することはできないでしょう。「まだ手を合わせていたい」と思っても、隣にいる友達が終わった様子を感じると、「私も終わらせないと……」という気持ちになってしまうのではないでしょうか?ひとりなら、何も気にせず、心のままに手を合わせていることができます(後から来る方のために、拝殿の正面ではなく、はじのほうで手を合わせることをおすすめします。どこの場所でも神様にとっては同じことです)。また、境内で気になった場所があれば、感性のまま、そこへ向かうことができます。とある女性は「ある神社に行ったとき、拝殿に向かって参道を歩いていると、横の小道から気持ちのいい風が吹いてきたような気がして、行ってみると、古代の祭祀場だったんです。お招きされたような気がして、うれしくなりました」と、話してくれました。彼女はいわゆる霊感などがある人ではありません。でも、自分の感性に素直に従っていると、そうした「お招き」があるのです。歴史的な話をすると、神社が今のような社殿をもつようになったのは、仏教が入ってきてからのこと。その前は、神様が降りてくるような高い木であったり、大きな岩であったり、聖なる気を私たちの祖先が感じ、祈りを捧げた場所に、後から社殿が建てられたものがほとんどです。私どもの神社もすでにお話しした通り、そうした場所だったところ、選ばれて賀茂神社となりました。古代祭祀場は、今の社殿に神様がお遷りになる前に、もともと神様がいらっしゃった場所。社殿に遷られたのは人の意思ですが、古代祭祀場は神様の意思です。そこにはどんな力が秘められているのでしょうか。お友達と一緒でも三十分くらいは自由行動にして、それぞれの感性のままに動いてみるのもいいでしょう。同じ神社でも「私だけの場所」と感じるところは人それぞれ違うことがわかるかもしれません。「魂が行きたいと言っている神社がなかなかわからない」という方はできれば、『古事記』『日本書紀』を読むことをおすすめします。私たちの国にどんな神様がいるのかがよくわかりますし、神様それぞれにとても人間くさい性格があり、それぞれのストーリーをもっていることもわかると思います。そうした神様の素顔に触れたとき、「会いに行きたい」と思う神様が必ずいらっしゃるはずです。または「私と境遇が似ているかも」という神様と出会えるかもしれません。『古事記』『日本書紀』が難しいようなら、インターネットで身近な神社や行ってみたい土地の神社を調べてみてください。境内の写真を何気なく眺めるだけでも、心が動く神社が見つかるはずです。そうやって、自分のことを調べて、わざわざ会いに来てくれたら、神様だってうれしいはずです。そうやって来てくれて「神様のために働かせてください」と手を合わせてくれる人。一方で神様の名前も知らずに来て、「彼氏ができますように」など自分勝手な願い事をして帰っていく人。あなたが神様だったら、どちらに力を貸したくなりますか?神様とつながる言葉神社は、自分の魂と神様とに集中する場所。
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