1─二分法のわな2─アンカリングに引っかかっている3─立証責任4─対処法その1──すぐに答えないこと5─対処法その2──話題の転換6─アンカリングから離脱するには7─ロジックの効果的な活用方法
第2章感情と心理バイアス、そして合理性1二分法のわな次の会話を見てください。
A社の鈴木さん「ところで価格ですが、お見積りから10%値引きしていただけますか?」B社の佐藤さん「では5%ではどうですか?」A社の鈴木さん「いやいや、もうちょっとがんばってくださいよ。
御社とは今後のお取引のことも考えておりますので、ぜひお願いします」よくありそうな会話ですね。
ところで、B社の佐藤さんは、値引きをしています。
そのとき彼は、こんなことを考えていたとしましょう。
B社の佐藤さんの頭の中…(うわぁ、いきなり10%ディスカウントか。
値引きはしないという約束で、もうすでに随分相手に譲歩したのに、ひどいな。
でも合意しないと大変だし、まあ相手も将来の取引も考えてくれるみたいだから、値引きしちゃおう。
でも、10%はない。
じゃあ5%くらいから交渉しよう)このような会話例を見ながら、交渉において論理と駆け引きとの関係を見ていきましょう。
いきなりの値引き要求に対して、B社の佐藤さんは、あわてて駆け引きを始めました。
佐藤さんの問題点はなんでしょうか。
このB社の佐藤さんのような発想に陥ってしまっている状態のことを、「二分法のわな」と呼びます。
二分法のわなは回避すべきものです。
まず佐藤さんは、10%の値引きを提案される前に、すでにかなり譲歩しています。
簡単に値引きに応じれば利益はどんどん失われていくことになります。
さらに、交渉相手が将来の取引を匂わせている言葉を簡単に信じて、それを拠り所に譲歩してしまっています。
しかし相手の発言は、単なる値引きを引き出すための甘い誘いで、本当は将来の取引など何も考えていないかもしれないのです。
このような理由で譲歩することは合理的ではありません。
2アンカリングに引っかかっているさらに、B社の佐藤さんは、交渉学で最も有名な心理バイアスの一つである「アンカリング」に引っかかっています。
アンカリング(Anchoring)とは、「最初に見た数値や情報が印象に残り、それが基準点(アンカー)となって、その後の判断が左右される心理現象」(リー・コールドウェル『価格の心理学なぜ、カフェのコーヒーは「高い」と思わないのか?』日本実業出版社、2013年、53頁)のことです。
アンカーとは、船の碇のことです。
船が碇を降ろすとそこから動けなくなる、ということにたとえて、相手の提示した数値に拘束されてしまって身動きが取れなくなっている状態のことを指す言葉です。
アンカリングに引っかかってしまうと、相手に主導権を取られてしまいます。
この例では、B社の佐藤さんは、A社の鈴木さんに言われた10%という数値にアンカリングされてしまい、10%を前提にして、5%値引きを提案してしまっています。
完全にA社の鈴木さんの思うつぼ、というわけです。
3立証責任相手に立証させよちなみに法律では、ある要求や主張を裁判所に認めてもらうためには、その主張の根拠を立証する責任があります。
立証に失敗した場合は、その主張は認められないという考え方を立証責任(証明責任)といいます。
この立証責任という概念は裁判では極めて重要です。
そして実は、交渉も同じなのです。
私たちは、根拠の説明がない要求は拒否して構わない、相手が立証責任を尽くすまでその要求は無視して構わないのです。
したがって、相手の主張の根拠や背景事情は、聞いてもいいのではなく、必ず聞くべきなのです。
まともに答えなくてもいい場合によっては、交渉相手が要求するだけでなく、こちらに質問してくる場合もあります。
人間は質問されると、答えなければならないと感じます。
しかし、その質問の趣旨がよくわからない場合や、その質問に答えると自分が不利になりそうだと感じたときは、相手の質問に対して、質問で切り返しても問題にはなりません。
交渉相手の曖昧な主張や要求をまずブロックすることによって、交渉全体を有利に展開することができるようになります。
このとき、一つよいヒントがあります。
相手の主張や要求が出されたとき、「交渉相手は、理由を説明しただろうか?」と、自分の中で考えてみることです。
この説明がない場合は、相手の立証不十分ということになります。
したがって、即答する必要はないのです。
「なんとなく」納得するな人間というものは、理由がついていると簡単に納得してしまうという性質があるようです。
エレン・ランガーの研究によると(Langer,E.,Blank,A.,&Chanowitz,B.(1978)Themindlessnessofostensiblythoughtfulaction:Theroleof”placebic”informationininterpersonalinteraction.JounralofPersonalityandSocialPhychology,36,635642.)、「急いでいるので、コピーをとらしてください」という説明だけで、割り込んでコピーすることができる確率が上昇するという実験があります。
「急いでいるので」というのは、その人の理由でしかなく、割り込みを許す側にとって何のメリットもないのですが、理由を提示されると人間は断りにくくなるのです。
このように、理由がない、根拠を示さない要求だけでなく、「理由や根拠として不十分」な場合も、相手に対して質問し、さらに説明を求める必要があります。
4対処法その1──すぐに答えないことこのように、まず相手の要求に対して、「理由はあるのかな?」と考えてみましょう。
交渉相手の主張や要求を聞いた時、相手は、理由を説明したか否か、頭のなかで確認します。
もし理由の説明がない場合、直接、理由や根拠をたずねるよりも、一言、「もう少し、詳しく説明していただけますか」と質問しましょう。
そのなかで、相手が理由や背景事情を説明しない限り、こちらとしては、いかなる譲歩も判断もしない、という姿勢を貫くことが重要です。
わかったつもりにならないことまた質問に際しては、相手の使っている言葉の意味をたずねる「定義質問」も有効です。
交渉相手から、二分法のわなに陥りそうな問いかけや要求をされたとき、たとえば、「価格を下げてほしい」とか、「納期を早めてほしい」といった要求の場合は、イエス・ノーで即答しないことが最高の対処法です。
そのためには、相手の要求に、つい、イエス・ノーで答えたくなる衝動を抑えなければなりません。
最初から、相手の提案に対して即答しない、というルールを決めておくとよいでしょう。
即答しない勇気常に、相手からの提案や要求が出た瞬間、頭の中で、「イエス・ノーでは答えない」あるいは、「二分法に注意」と意識すると効果的です。
最初のうちは、それでも、つい条件反射的にイエス・ノーのいずれかで答えようとしてしまいますが、そのうち、慣れてきます。
5対処法その2──話題の転換不利な形勢から抜け出すには相手が値引きや、突然の条件変更など要求を突きつけてきた場合、話題を変えるのもよいでしょう。
よく、イエス・ノーでは答えないというのはわかったけれど、条件をつけて交渉すべきではないかという疑問を耳にします。
先ほどの例にあるように、10%と言われたら、「5%でどうでしょう」と切り返すというものです。
しかしこれは得策どころか、自分をどんどん不利な状況に追い込んでしまうものです。
イエスは、全面的に相手に譲歩してしまうことですから、もちろん、自分に不利になります。
ノーと言えば、相手からノーの理由について説明を求められます。
相手は自らの主張の理由を十分説明していないのに、こちらがノーである理由を説明しなければならないのです。
まさに立証責任が転換されてしまったというわけです。
そして、10%に対して5%、すなわち条件付きのイエスの場合はどうかというと、イエスで答える場合の不利な状況と、ノーと答えた場合の不利な状況の両方を背負い込むことになります。
まず半分の5%は譲歩しているのですから、この部分は、全面的な譲歩ではないにせよ、利益を放棄してしまいました。
さらに残りの5%はノーと言っているので、「なぜ、残りの5%はだめなのか」と相手から質問され、その理由を説明することになってしまうのです。
このように二分法に陥りそうな問いかけには、まともに答えない、というのが最善策ということになります。
別な話題へそこで、この話題から離脱するという「話題の転換」が効果的です。
たとえば、「その話の前に、御社のご要望の品質について調べてきましたのでご説明したいのですが」とか、「その前に少しご説明したいことがありまして」といった具合に二分法になってしまう話題から別な話題に転換してしまうのです。
この場合、さりげなく別な話題に移してしまうと、案外うまく話題が変わってしまうものです。
思ったよりも、話題の転換は、相手に不快感を与えることはありません。
それは、交渉というものが、まさにそのようなものだからなのです。
これは、賢明な合意を目指すために行う、いわば賢明なやりとりです。
論理で勝負ちなみに相手が、話題の転換に対して、これを拒否したり、渋った場合は、「現時点であなたのご提案にお答えすることになると、私としても厳しい条件しか提示できません。
これはかえってお互いにとって利益にはならないのではないでしょうか」といった具合に、この場で即答すると、こちらとしても、最低限の要求しか出すことができず双方の利益にならないことを示すという手もあります。
このように話題を変えることによって相手にも利益がある、という説明をするのが効果的です。
「はぐらかし」も一つの戦術このようになんとしてでも、二分法から離脱しましょう。
これを考えるだけで、交渉で安易な譲歩をしてしまうリスクは格段に少なくなるのです。
さらに、話題の転換について、もっと簡単に「いや、ご冗談を」といった形ではぐらかしてしまうという手もあります。
このやり方も効果的です。
実は、ほとんどの人は、交渉相手を冷静で完璧な人間とみなすか、いつ感情が爆発するかわからない危険な人間とみなすか、いずれにせよ常に交渉相手に対して過大評価している傾向があります。
交渉相手も不安を持ちながら交渉しているのだ、という事実を忘れてはいけません。
相手もこちらが要求に対してどのように応えてくるか、実はかなり心配しながら交渉しているのです。
相手も不安、こちらも不安というわけなのです。
このように自分にとって不利な話題から離脱することは、非常に効果的です。
6アンカリングから離脱するには
アンカリングについて、もう少し詳しくみていきましょう。
アンカリングがなぜ問題かというと、それは、相手の基準に合わせた意思決定に誘導されてしまうところにあります。
そしてやっかいなことに、アンカリングは非常に強力なツールです。
アンカリングから離脱するということは、なかなか難しいことなのです。
デフォルト化アンカリングとは、相手の提示した数値を規定値(デフォルト)としてしまうことです。
このわなから抜け出すための第一歩は、自分たちの数値をデフォルトにしておくことです。
そのためには、事前に、提示金額と譲歩可能なぎりぎりの金額(これを、留保価格と呼びます)を用意するしかありません。
これによって、アンカリングの影響を少なくすることは可能です。
しかし、それでも影響されてしまうのです。
準備しなければ負けと同じましてや、一切準備をしないでこのアンカリングに直面すれば、まず間違いなく相手の提示金額に引きずられてしまいます。
自分の中で、相手の数値をデフォルトとして受け入れてしまった段階で、残念ながら、交渉は「負けたのと同じ」なのです。
アンカリングは、交渉に対する不安の度合いが強いと、さらに引っかかりやすくなります。
こちらが不安なときに、交渉相手から自信たっぷりで強気の金額を提示されてしまうと、その提示金額にとらわれやすくなり、その金額(頭の中でデフォルトになっています)にいかに近づくことができるかということばかりを考えるようになるのです。
これが「アンカリングのわな」なのです。
アンカリングは、マーケティングの世界でも、価格の表示に際して効果的に使われています。
たとえば、「希望小売価格から何割引」といった二重価格表示もその典型例です。
消費者はその希望小売価格にアンカリングされ、そこからの値引きを見て、お買い得な気持ちになってしまうのです。
では、どうすればこのアンカリングに対して、効果的な対応ができるのでしょうか。
いくつかポイントを整理してみましょう。
価格だけが争点の交渉アンカリングについては、先に出した方がいいのか、後に提示したほうがいいのかいまだに定説といわれるものはありません。
状況や商品の性質、あるいは地域性や文化性による相違があり、一概に判断できないと言われています。
また取引の内容や業種の違いによっても価格提示のやり方は異なります。
しかし一般に、価格以外に交渉すべき条件がない場合、先に提示したほうがよりアンカリングの効果を発揮しやすい、つまり先に提示した金額に対して、相手がアンカリングに引っかかりやすいという研究結果が最近は有力です(ダニエル・カーネマン『ファスト&スローあなたの意思はどのように決まるか(上)』早川書房、2012年、187頁)。
価格以外の要素が加わるとどうかしかしながら、通常のビジネスでは、金額以外の他の条件が一切問題にならないということはほとんどありません。
仮に、ある部品や原材料の調達で、数字だけが問題になっていたとしても、全体としてみると、交渉すべき協議事項は他にもいくつかあるはずです。
複数の論点が絡む交渉の場合、アンカリングに関しては先に提示するか、後に提示するかどちらの場合でも、状況によってその影響力を発揮することができます。
アンカリングを知るここで重要なポイントは、アンカリングという概念を知っているか知らないかによって大きな差が生じるということなのです。
アンカリングという概念を知っていれば、相手からの価格表示に対して警戒して、それを受け取ることができます。
まず、相手の提示金額を聞いたとき、この数値のアンカリングに引っかかるとまずいぞ、と思うだけでもある程度の効果が期待できるのです。
その場を離れる自分の心理状態を認識するということは、アンカリングから離脱するうえで非常に効果があります。
また交渉戦術としては、相手から金額の提示があり、アンカリングの影響を受けそうだと感じたときは、一度その話題から離脱することも効果があります。
価格提示が早いと感じた場合は、「もう少し御社のアフターサービスについてお聞きしたいのですが?」といったかたちで、話題を変えてみましょう。
上書きせよアンカリングを回避するためには、提示された数値にできるだけこだわらないことが重要です。
しかし人間は、「その数値は無視しなさい」とか、「その数値は忘れるようにしよう」と思えば思うほど、忘れられなくなります。
「頭の中で繰り返してはいけない」と思えば思うほど、その金額ばかりが気になるのです。
「いまから、お寿司のことは考えないように!」といわれると、お寿司のことが頭から離れなくなる、といったことは昔から言われています。
このように何かについて考えないようにしようと思えば思うほど、そのことばかり考えてしまうと言うのが人間の心理のおもしろいと同時に困ったところなのです。
そこで、別な数値を考えることが効果的です。
一番よいのは、自分の目標数値(留保価格ではいけません。
すでに譲歩の余地を検討してしまうことになるからです)をもう一度、確認することです。
そうすることで、別な数値で上書きすることが効果的です。
あるいは、別な話題に転換してもかまいません。
例えば金額提示をされた後、すかさず「ところで購入数はどれくらいですか」といった別な数値に話題を変えてしまうというのも一つの手です。
7ロジックの効果的な活用方法論理の構造論理といわれると「難しいな」と感じる人も多いかと思います。
確かに、論理的に考え続けることはきわめて難しいことです。
論理的に交渉できるようになるためには、次に挙げる三つの習慣を身につけることから始めてみましょう。
実際の交渉場面でこの三つの習慣が身についていれば、ほぼ対応できると考えています。
むしろ、この三つができないのであれば、どれほど高度な論理学のテキストを読んで勉強してもあまり効果がないのです。
①主張、根拠、データの3点セット交渉の中で、冷静に論理的に思考していくためには、論理の基本構造を理解することが有益です。
まず論理的な主張というものが何なのかということについて整理しておきましょう。
それは、三つの要素に分けることができます。
第一に、何らかの主張、要求です。
第二に、この要求が正当なものであるということを支える根拠・理由が必要となります。
そして最後にこの根拠・理由を裏付けるデータや証拠です。
・主張と根拠、そしてデータこの三つの要素、つまり主張と根拠、そしてデータがそろっていないような相手方の主張は論理的な主張としては不十分です。
例えば相手が「値引きをしてほしい」と言ってきたとします。
理由の説明もなくただ値引きをしてほしいと言っているだけでは根拠とデータが不足しているので、相手の主張は論理的な主張ではありません。
したがってこの主張に直ちに応じる必要はない、と考えます。
・理由があってもこわくない次に「値引きをしてほしい」と言われた後、最近、ライバルとの価格競争が激しくなっているという理由を説明されたとしましょう。
ほとんどの場合、このような理由がついてしまうと「値引きせざるを得ないな」という気持ちになってしまいますね。
人間は、簡単な、理由にもならないような理由でも、何となく説得されてしまうものなのです。
しかし、ここからが勝負です。
ここではこの理由を支えるデータや証拠が示されていません。
したがって、このまま受け入れてしまうようでは、論理的な主張に対する適切な対応方法とはいえないのです。
この状態で譲歩した場合は、賢明な合意にはつながらない譲歩になってしまいます。
・「もう少し、詳しく教えてください」しかし、ほとんどの人は、交渉相手に対して、これ以上データや証拠を問いただすということは、まずやろうとしません。
そんなことをすると、「角が立ってしまう」と思ってしまうのです。
確かに、まともに「証拠はあるのか、出してみろ」といえば喧嘩になるでしょう。
しかしここで上手に質問すると、相手にデータや根拠を問うことが可能になります。
ここでは交渉相手に、自分たちの要求には具体的な裏付けがないことを、間接的に理解させ、「その要求でこちらを説得することは難しい」ということを理解させることが重要です。
そこで、質問の仕方も工夫する必要があるのです。
質問については、後でもう少し細かく整理しますが、ここでは質問技法の一つである「程度を聞く」という技法を使うのが効果的です。
・「どのくらいですか」どういうことかというと、相手が使った言葉、たとえば先ほどの例では、「ライバルとの価格競争が激しい」という表現がありました。
そこで、この「激しい」という形容詞に着目するのです。
その「激しい」とはどの程度激しいのか、その説明を求めることになります。
例えば「価格競争が激しいとのことですが、少し、現在どのような状況なのか、ぜひ聞かせていただけませんか」といった形で、形容詞の内容を具体的に説明してもらうのです。
・遠慮しない勇気この、「程度」を聞く質問は、かなり効果があります。
ところが日本人の交渉者の多くは、程度を聞かないのです。
しかし感覚的な表現に共感してはいけません。
感覚的な表現を聞いただけで譲歩してしまうならば、交渉相手は、詳細な説明をする必要がなくなります。
このような交渉を安易に続けていると、次第に「この人は詳しい説明をしなくても、譲歩してくれる人だ」という評価をされてしまいます。
このような評価をされてしまうと、その交渉はますます不利になってしまうのです。
・「立て板に水」の交渉相手にはどうする?では、さらに高度な状況について考えましょう。
例えば、交渉相手側が、値下げの理由について非常に論理的に説明してきたらどうでしょう。
まず要求を丁寧に説明し、その要求の根拠や理由を説明した上で、さらに、いくつかの資料を出してきて具体的なエビデンス(証拠)に基づいてこちらに譲歩を迫ってきた場合はどうでしょうか。
世の中には、立て板に水という勢いで、非常に美しく、自分たちの状況を説明する交渉者も少なくありません。
しかし、焦る必要ありません。
ここが交渉というゲームの面白いところなのです。
相手がどれほど完璧な説明をしたとしても、私たちは、「ご事情はよくわかりました。
ただし、私たちしてもこの要求をそのまま受け入れるわけにはいきませ
ん」と拒否してかまわないのです。
交渉というのは、正しさを証明するところではありません。
相手がどれほど正当な主張したとしても、こちらに利益がなければ、その主張を受け入れる必要はないのです。
・合理的な交渉に持ち込め交渉相手の説明が、理路整然としている場合は、むしろこちらも合理的に交渉できる相手だと考えて歓迎すべきです。
あわてる必要はありません。
相手の説明が理路整然としていても、交渉の場合、最後に合意するか否か、という切り札は私たちが握っているのです。
ただし、交渉相手が論理的に丁寧な説明を心がけようとしている場合は、私たちもこの交渉相手に対して論理的な説明を行う必要があります。
このような状況は建設的な交渉を促進することになるので歓迎すべき状況だといっていいでしょう。
②質問力次に、交渉中に、相手に適切な質問をどのように作っていくかについて説明します。
実は、交渉中に質問するというのはとても難しいことです。
・二つの質問タイプ一般に、質問技法として有名なのは、オープン・クエスチョンとクローズド・クエスチョンです。
オープン・クエスチョンとは、相手に自由に話をしてもらうというタイプのものです。
相手に対して「あなたはどう思いますか」とか、「もう少し詳しく説明してくれませんか」といった形で比較的自由に話をしてもらいます。
メリットは、交渉相手からいろいろな情報を引き出すことができるということです。
逆に、デメリットとしては、こちらが聞きたい答えを得ることができない場合がある、時間がかかる、といった問題があります。
またオープン・クエスチョンは、唐突に始めると、交渉相手に警戒されるかもしれません。
なぜなら、交渉の初期段階では、お互いの信頼関係がないので、どちらかというと情報をあまり出さないようにする傾向があるからです。
したがって、交渉の初期段階でオープン・クエスチョンが繰り返されると、尋問されているような気がして、交渉相手としては情報提供を拒否する危険性があります。
他方、クローズド・クエスチョンとは、たとえば相手に「値引きしてくれるかどうか」とか、「納期を少し早めてもらえないかどうか」といったかたちでイエスかノーで答えてもらう質問や、二つから三つ程度の選択肢の中から、どれかを選んでもらうような質問形式です。
前述した交渉相手に二分法で答えてもらうようなタイプの質問です。
私たちは、このような二分法に近い質問に対してまともに答えないという対策をとっていますので、交渉相手も同じような対策をとってくる可能性もあります。
ただし、クローズド・クエスチョンは、すでに状況がある程度判明していて、選択肢もきわめて限られていることがお互いに分かっている状況の中であれば、相手の意思を明確に確認する質問として非常に効果があります。
しかし、この二つの質問技法だけでは交渉相手から効果的に情報を引き出すことは難しいのです。
そこで、私たちは、より中間的なアプローチを採用して、交渉相手に質問を投げかけましょう。
・言葉の意味をたずねるぼやけた言葉のやりとり私たちは通常、あいまいな表現を許容しあいながら、コミュニケーションを進めます。
しかし外国語で話をする場合は、相手の言葉の意味がわからなかったり、あるいは相手の表現が何を意味しているのかよくわからない、ということがあり、そのような意味を相手に尋ねることが頻繁に行われるものです。
母国語で交渉している場合、このような確認をしながら交渉することはまずありません。
しかし交渉相手がどのような趣旨でその言葉使っているのか、確認することはビジネス交渉では、極めて重要なのです。
相手の言葉を理解する努力そこで、交渉相手の言葉の意味について、少しでもよく分からないところがある場合は、丁寧に質問することが重要となります。
例えば、合併交渉しているときに頻繁に「シナジー」といった表現が使われることがあります。
シナジーとは、合併によってお互いの強みが生かされて相乗効果を生み出すだろうといった趣旨で使われることが多いのですが、どのようなシナジー効果を意図しているのか、交渉相手に確認しておいた方がよい場合が少なくありません。
無知をさらすことを恐れない他にも、交渉相手との間で確認しなければならない専門用語や、表現方法は交渉中に次々、登場します。
これに対して私たちは、交渉相手が使っている専門用語を、つい知っているふりをしてしまいがちです。
確かに、当然知っているはずの用語であれば、それを知らないのは、恥ずかしいことかもしれません。
しかし、よほど自分の一般常識に自信がある人でもない限り、交渉中に疑問を感じた表現や専門用語は、まず交渉相手に聞いてみなければわからないものです。
さらにいえば、常識的に知っているような言葉であってもあなた自身が知らないのであれば、交渉相手にたずねた方が安全です。
このように、交渉中に自分がよくわからない言葉が出てきた場合は遠慮なく相手に質問しましょう。
法律用語は必ず確認特に、ビジネス交渉であれば法的な論点が出てくることも少なくありません。
交渉相手が提示する契約条件の中には、専門家でも一瞬、戸惑うような専門用語が出てきたりします。
そのような場合には、むしろ、交渉相手に対して言葉の意味をたずねておかなければなりません。
例えば、「今お話になったライセンス契約の中に入れる○○条項について、確認したいのですが、どのような内容なのか、ご説明いただけますか」といった具合です。
ちなみに英語の契約書の場合、定義(definition)が契約の冒頭や末尾につけられているのを、ご覧になったことがある方もいると思います。
法律の場合、契約書の定義は非常に重要です。
あらゆる疑問をそぎ落とした状態で締結される契約に、可能な限りあいまいな表現は残さないようにする必要があるのです。
もちろん、完璧はありません。
どのような契約書であっても必ず想定外の状況が発生します。
合意というものは、将来に対しては、不完備な契約となるものなのです。
形容詞には要注意とは言え、交渉者としては、可能な限り曖昧な状況を放置しないようにする必要があります。
言葉の意味を確認するという作業を交渉中に意識的に行ってみてください。
次に、「厳しい」「難しい」「情勢が悪化している」といったあいまいな形容詞の中身を確認する作業も効果的です。
「厳しい」「難しい」と言われて、「そうですか」とそのまま帰ってきては交渉になりません。
逆に「厳しいはずがない」「難しいわけがない」と反論しても何の意味もありません。
先ほどの繰り返しになりますが、どの程度厳しいのか、どの程度難しいのか、具体的に相手から説明を求める方がはるかに効果的です。
例えば「その条件では厳しい」という説明に対して、「具体的にどのあたりが厳しいのかポイントを少し教えてもらえませんか」といった形で交渉相手にその程度について説明を求めていく。
これによって相手の真意を探っていくことを目指すのが質問のポイントです。
交渉中に、程度をたずねる質問を行うと、交渉相手は不用意にあいまいな形容詞を使うことができなくなります。
すなわち、交渉相手に対して、この種の質問をすることによって、間接的なかたちで、あいまいな説明をさせないという牽制となるのです。
「絶対にありえない」はありえないでは、交渉相手が「絶対にゆずれない」という表現を使った場合には、どう切り返せばいいでしょうか。
例えば、「100%受け入れることができない」とか「確実に、上司の許可を取ることができないでしょう」といった、いかなる譲歩も不可能だということをこちらに知らせるような表現に対してです。
無視することも交渉のうちこのような交渉相手の発言に対して最も効果的なのは、この点については一切質問をしないということです。
まともに、「なぜですか」というWhyの質問を投げかけても、ほとんど効果はありません。
根拠をたずねても、いろいろな言い訳を聞かされるだけです。
交渉を前進させる材料にはなりません。
さらに相手の理由を批判する、たとえば、「あなたの発言は、論理的に矛盾している」とか、「そんなはずはないでしょう」といった反論をしても交渉相手の頑固な態度を崩すことは難しいでしょう。
交渉では、相手を強く説得して、一方的に譲歩させるというやり方を取るのではなく、相手が自ら納得して提案を撤回するか、修正提案といったかたちで譲歩してくれることを願う方が、効果が高いといえます。
なお、これは相手の意見や主張を受け入れるという意味ではないので注意してください。
私たちの目的は、「絶対にできない」という交渉相手の発言を、最終的には撤回させるところにあります。
撤回させるために、相手を追い詰めて、誤りを認めさせるという戦い方では、交渉相手は仮に過ちを内心認めていたとして
も、頑なに譲歩を拒むでしょう。
このような追い詰め方ではなく、相手がこの発言を撤回できるようにしてあげればよいのです。
話題を変えて、少し話し合っているうちに、「絶対できない」といっていた相手の発想が切り替わるような、交渉の展開になることがあります。
そのときには、相手は自然と自分の発言を切り替えて、譲歩の余地を示す場合が多いのです。
ただし例外もあります。
法的なトラブル、特許の権利侵害であるとか、第三者の仲裁を受ける場合、相手の発言の矛盾を突いて明確に撤回させなければ、交渉全体の展開が不利になると判断した場合には、相手の論理矛盾を指摘するべきでしょう。
そのときには、「なぜか」と質問をする必要があります。
ただし、これは権利を争うようなきわめて敵対的な状況の時の話です。
なお、率直に、相手の発言の真意や根拠がわからず、どうしても「なぜ?」という質問がしたくなったときは、疑問に思ったのでどうしても、詳しい事情を聞きたい、と思っているときは、直接、「なぜ?」と聞くのではなく、「もう少し詳しく、説明していただけますか」という軟らかい表現を使う方が効果的です。
ヒューリスティクス筋が通っているか(因果関係)交渉とは、ある意味で特殊な環境です。
冷静に自分だけで何かを考えているときとは明らかに異なる状況になっています。
そのため交渉中は、合理的に考えているつもりでも、後になって、「何でこんなおかしな条件で合意してしまったのだろう」と後悔する場合が少なくありません。
そして人間は、将来の利益に対しては楽観的になりがちです。
将来の利益をちらつかせて、現在の条件の譲歩を迫るという交渉や、ちょっと怪しいけれど魅力的なもうけ話に人が容易に引っかかるのもある意味、無理からぬことなのです。
欺まん的な説得技法に要注意そんな人間の弱さにつけ込んで、理屈から言えばどう考えてもおかしい悪徳商法の被害に遭ってしまう例が後を絶ちません。
最近では、複雑な構造を持っている金融商品を使った悪質な販売や、最近話題のテクノロジー(技術)への投資話をでっち上げて、お金を巻き上げる業者が増えています。
そんなニュースを見ていると、「だまされた人は、なぜ、こんな理屈の通らないもうけ話にだまされるのだろう」と思ったりします。
ヒューリスティクス(近道のわな)これは、私たちの思考のバイアスに原因があります。
私たちは、あらゆる意思決定において、ヒューリスティクスに依存するのです。
これについてはダニエル・カーネマンらの研究が有名です。
カーネマンは、一般に、人間の思考にはシステムⅠとシステムⅡという二つの側面から説明するとわかりやすいといいます。
システムⅡとは、きちんとした論理的思考のことです。
たとえば、会計帳簿の数字の整合性を見るとか、複雑な法律の文章を読む、あるいは、自分で数理モデルを作ってそのモデルの方程式を考える、といった複雑な思考の時に使われるものです。
すなわち、一つずつ段階を追って物事を考えるときに使われる思考法です。
ちょっとした集中が求められるような意思決定の場合もこちらが使われます。
必ずしも高度な知的作業だけに限られるわけではありません。
「考えずに済ませたい」という誘惑このシステムⅡは脳に対する負荷が非常に大きいため、できるだけこれを使わずに済まそうとする傾向があります。
また現実的にも、朝起きて顔を洗い、歯を磨いて洋服を着る、そして朝食を作るといった作業にいちいちシステムⅡを使い続けていると、時間ばかりかかってしまいます。
それでは、日常生活を営むことが困難になります。
そこでシステムⅠの出番です。
システムⅠとは、システムⅡのように細かく手順をじっくり考えるということではなく、直感や印象で行動を決定していくような思考システムです。
車を運転しているとき、理由はうまく説明できないがなんとなく、右側の車線を通った方が空いてる気がするとか、2+3は5であるといった簡単な足し算や九九の暗算を即座にできるような過去に習得された知識の活用、さらには、あの人は一流大学を卒業したと言っているから頭のいい人に違いないといった印象やイメージを活用します。
ヒューリスティクスとうまくつきあうこのほうが脳に対する負荷が少ないので、人はほとんど、こちらを使って生活しているといわれています。
このヒューリスティクスの研究がすすむようになってから、交渉学の研究では、合理的な意思決定のモデルを前提とした交渉の意思決定モデルの研究とともに、限定合理性の研究が盛んになっています。
因果関係の錯覚特にヒューリスティクスで問題なのは、因果関係の錯覚です。
因果関係のない事柄に因果関係を認めてしまうことです。
私たちは、高いパターン認識の能力を持っています。
本来はパターンがないようなところにも、何らかのパターンを見つけだしてしまう、そのくらい私たちはパターン認識に依存して世界を認識しているのです。
そのため、交渉でも、ある合意案が私たちの利益につながるかどうか明確な因果関係があるとは思えないのに、ついうっかり、因果関係を見出してしまって安易な譲歩や合意をしてしまうといった場合が少なくないのです。
私たちは、本来、何の関係もない二つの現象を上手に組み合わせて、原因と結果の関係、すなわち因果関係を見つけ出そうとします。
たとえば、ある新製品が大きく売れたとき、その原因はきっとデザインがよいからだろうとか、ソフトウェアが使いやすいからだろうなど、その原因を探ろうとします。
これがお昼休みの雑談ならば、問題ありません。
しかし、ある製品の成功を分析するときに、このような思いつきだけで原因を特定してはならないはずです。
おそらくユーザーのアンケートや、競合他社の製品との比較、さらには現在のビジネスのトレンドなど、様々な要因を分析していくことになります。
ところが交渉となると、私たちは、手っ取り早く原因を見つけて、あとからつじつまを合わせる物語を作ってしまうのです。
たとえば、心理学で有名な「ハロー効果」も、簡単に因果関係を見つけてしまう一つの例です。
ハロー効果とは、いくつかの目立った特徴に注目して、すべてを評価するもので、一つのよい特徴があれば、すべて肯定的な評価になる場合と、一つのよくない特徴があれば、すべてを否定的に評価するという二つの極端な効果があります。
このハロー効果の例として最も有名な事例は、好感度の高い服装や、態度、言葉遣いをする、あるいは、一流大学を卒業しているといった特徴が、その人の信頼性をあげたり、この人は優秀な人なので仕事を任せても間違いがないと判断してしまったりするものです。
たとえば、工学部を卒業しているという人は、数学で入試を受けているので、きっと、論理的な思考が得意なのだろう、といった「理系=論理的」という発想も一つのハロー効果です。
ビジネスの成功事例の原因を、優れた経営者の独創的な発想だけに求めたり、特定の原因に依拠して、その会社の成功を評価するのは典型的なハロー効果による認知のバイアスです(フィル・ローゼンツワイグ『なぜビジネス書は間違うのか』日経BP社、2008年など参照)。
交渉では自分の意思決定が、一つの特徴に依拠して決められてしまっていないか、注意する必要があるのです。
ビジネス交渉では、過去の交渉経験、特に成功事例を参考にして、交渉の進め方を決定したり、相手に提案することになります。
たしかに経験は大きな武器です。
しかし、ここにも利用可能性ヒューリスティクスというわなが隠れているのです(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上)』早川書房、2012年、191頁以下を参照)。
たとえば、いままで部品の調達交渉で強気の交渉を行い、相手に徹底的に譲歩させることを得意としていた人がいたとしましょう。
しかし、この人が出世をして、ライバル企業と新製品の事業提携の交渉を担当したとき、この過去の成功事例が邪魔になってしまうことがあります。
この人は交渉中、自分の成功事例、その中でも「思い出しやすい」ものを使って交渉しようとします。
すべての条件を先に提案し、最後通牒を突きつけてうまくいった例を思い出したとすると、現在の交渉の中でそれが最適な戦略かどうかを考えることなく、その成功事例に基づいて交渉しようとしてしまうのです。
これ以外にも、利用可能性ヒューリスティクスは、自分が思い出しやすい問題については、常に過大評価する傾向があります。
自分のよく知っている分野の市場規模や、売り上げを見積もるときは、通常よりも過大に評価する傾向があります。
また、最も有名なヒューリスティクスとしては、プロスペクト理論があります(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(下)』早川書房、2012年、70頁以下参照)。
人間は、金額の評価に関して、心理的な価値を考慮して意思決定を行います。
たとえば、次のような例を見てみましょう。
「確実に1万円もらえる場合と、50%の確率で1万5千円もらえる場合とでは、どちらを選びますか」という質問です。
このときは、の選択肢を選ぶ人が多くなります、確実に利益を獲得できる方を選ぶわけです。
他方、「確実に1万円を失う場合と、50%の確率で1万5千円失う場合と、どちらを選ぶか」といわれたときは、に賭けてみようと思う人が多くなります。
人間は、確実な損失に直面するとリスクを追及して賭けに出やすくなる、すなわち、人間は損失を回避したいという強い傾向があるということです。
ただし、プロスペクト理論については、価格や条件の設定によって結果に変化が見られることもあります。
そのため、あらゆる場面でこの条件が適用されるとはいえません。
しかし、少なくとも、交渉の中では、人間の損失回避という心理傾向を理解し、相手に損失を回避したいと思わせるような提案を行うことで、自分たちの望む方向に意思決定を促すことができるかもしれないわけです。
また、自分の損失回避のバイアスが、せっかくのチャンスを逃してし
まうという危険性にも注意が必要です。
これ以外にも、直前に与えられた情報に意思決定が大きく影響される「プライミング効果」といわれるものもあります(池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』朝日出版社、2013年、92頁参照)。
交渉前の雑談の時のわずかなキーワードが、交渉相手に微妙な影響を与えていることも少なくありません。
このように、認知のバイアスが交渉の中で様々な影響を与えているのです。
ただし、この認知のバイアスと交渉の関係については、まだ、わかっていないこともあります。
ヒューリスティクスと交渉の関係は、大変興味深いテーマであると同時に、研究途上のテーマなのです。
合意のバイアス合意依存症交渉は、合意を目指すのが当たり前、と思っている人も多いと思います。
しかし、交渉学では、合意の中身、その質に着目します。
ハーバード大学の故ロジャー・フィッシャー教授は、「賢明な合意」の条件として、当事者双方の利益が最大限反映されていることや、利害が公平に調整されていること、合意の持続性や社会全体の利益に配慮した合意であることを、交渉では目指すべきであると指摘しています。
しかし、交渉では、「合意したい」あるいは、「合意しなければならない」というプレッシャーにさらされています。
上司からは、「早く結論がほしい」と言われるでしょうし、営業成績が気になる場合には、「何とか次の交渉で相手との契約を取り付けたい」と思います。
もっとひどい場合は、「とにかく今日中にまとめてくるように」といった指示が出されることもあります。
このように、合意へのプレッシャーは、非常に強いのです。
合意を尊重する日本人さらに、日本人は、和を尊ぶ精神からか、相手と意見が合うことや、早く合意することを非常に重視する傾向があります。
また、よく現場では、「とりあえず、合意だけしておいて細かいことは後で決めませんか」というような提案も見られます。
一昔前ならば、このような曖昧な合意が許された時代があったかもしれません。
取引をめぐる状況が安定していて、同じ文化圏に属しているような場合、細かいことを取り決めずに、暗黙のうちに、「貸し・借り」を積み上げながら利害調整をするということが行われてきました。
このように暗黙の了解による取引は、お互いが裏切ることに大きなデメリットを感じるような閉鎖的な関係の中では有効です。
しかし、異なる文化圏に属している人同士の交渉となると、詳細まで条件を取り決めて、その遵守を求めあう関係の方が合理的になります(この点については、アブナー・グライフ『比較歴史制度分析』NTT出版、2009年の分析が参考になります)。
毎回の交渉を大切にする現代社会では明らかに、後者の取引関係が大半を占めるわけですから、一回一回の取引の中で、どこまで自分の利益を反映させるかが重要となるのです。
ただし交渉では、「今後、誠実に交渉を進めていきましょう」とか、「できるだけ合意を目指しましょう」という意味での合意(基本合意、LetterofIntent)を交渉の冒頭に交わしてから、本格的な交渉に入るということも多く見られます。
合併や買収、事業提携のように、双方で相手方の秘密情報にアクセスしながら、デュー・ディリジェンスを行う場合には、守秘義務契約とともに、このような基本合意がなされます。
ただし、これは、「とりあえず、細かいことは置いておいて」という曖昧な形での合意ではありません。
今後の交渉の継続について合意するという基本合意は、その場しのぎの曖昧な合意をして、暗黙の貸し借りを積み上げるといった合意とは全く異なるものです。
自己正当化後知恵と正当化合意のバイアスが強くなると、非常に危険な状態が発生します。
それは、「自己正当化」です。
合意したいという思いが強くなるあまりに、相手から提示された条件をすべて自分に都合よく解釈してしまう心理傾向に陥ってしまう状態を意味します。
「落としどころ」という言葉を使って、自分の譲歩を正当化しようとしたら、危険信号です。
なんとかなる、という思い込みこのような場合、合意内容を細かく精査することを意図的に回避しようとする心理状態に陥ります。
「今の時点でとりあえず、話をまとめておけばよい」「後でトラブルが起きても、何とかなるだろう」という発想です。
交渉担当者は、ともすると交渉相手だけでなく、社内からいろいろなプレッシャーを受けることがあります。
ある企業と共同で製品を開発しようとすれば、知的財産権を管理する知財部から、自分たちの技術や特許について権利をきちんと守った契約にするように要請され、技術者たちからも、自分たちの技術の優位性を損なうような合意をしないように要求されます。
その上、交渉相手からのプレッシャーもあります。
さらに、自分たちが描くビジネスモデルを実現するためには、会社の中でいくつかの部署には我慢を強いることもあるでしょう。
モチベーションの低下と合意への誘惑そのような調整をしていると、社内の不満にさらされたり、内部の意見調整に奔走させられます。
おそらく交渉者であるあなたに対する批判もたくさん出てくるでしょう。
そんなとき、次第に「自分だけが、この交渉で苦労されられているのではないか」という被害者意識が生まれます。
そして、交渉のプレッシャーが
高まるにつれて、次第に交渉に対するモチベーションが、失われてしまったり、投げやりになってしまうのです。
苦しいときには、逃げたくなるそんな心理状態になると、「この交渉を一刻も早く終わらせてしまおう」という思いにとらわれる危険性が出てきます。
人間は不愉快な状況から一刻も早く脱却したいと思うものです。
その時、都合のいい理屈で話をまとめて終わらせてしまおうとする心理的な誘惑に駆られます。
そしてその交渉結果を都合よく自己正当化して説明しようとするのです。
たとえば、「今回は、相手も少しは譲歩したのだから、こちらも譲歩してもよいのではないか」とか、「交渉相手ともかなり時間をかけて話し合ったし、これ以上、相手に要求するのは無駄だろう」といった、自分に都合のいい理由で合意してしまおうとするのです。
このような時に交渉学では、自分のミッションを再確認することを勧めます。
そもそもこの交渉は、何のために行っているのか、自分たちはこの交渉で何を獲得したいと思っているのか、そのような点をもう一度再確認することで安易な合意を回避します。
合意への過度な期待未来はすべて美しい合意に対する過度な期待が、いろいろなトラブルを引き起こすことがあります。
私たちは、将来のことを考えると楽観的になりやすいため、交渉でも、合意した後、思惑通りにビジネスがうまくいくシナリオを思いつくと、そのプラスの側面のみに着目してしまいがちです。
見込みの甘さこのように遠い将来に対する見込みの甘さが、目の前の交渉で安易な譲歩につながってしまうのです。
交渉では、とりあえず合意を作っておいて、実際にビジネスを動かしてからいろいろなトラブルを解決していこう、という誘惑に駆られます。
今現在、交渉で論点となっている困難な問題を、いちど棚上げにして、とりあえず合意してしまって、細かいことは現場で解決していこうという考え方です。
しかし、このような発想が上手くいくとは限りません。
むしろトラブルを起こすことの方が多いのが普通です。
最悪の事態を想定するこのような問題を回避するために、交渉の準備では、万一、この交渉が上手くいかなかった時の代替案を検討し、楽観的なシナリオではなく悲観的な状況に陥ったときの対処法についても用意しておく必要があります。
このように、私たちは、交渉中に様々な誘惑や心理的なバイアスにとらわれています。
その中で適切な意思決定をし、賢明な合意を目指していくことははるかに難しいのだということを認識した上で、交渉学の基本原則を使いこなしていくことが重要です。
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