第2章上品な上司、下品な上司
忙しがる◆計画性のない上司ほど「忙しい」という慶弔をはじめとする儀式の場であれビジネス関係の会合の場であれ、主催する側の人が挨拶をするときに、「皆様お忙しい中をお集まりいただき」などという台詞を聞かないほうが例外的だ。ほかにすることがあるはずであると想定している。それにもかかわらず、自分のほうの集まりを優先して参加してくれた点に対して、感謝の意を表明しようとしている。また、会って挨拶をするときに、「お忙しいようですね」などともいう。これは相手に対するお世辞のようなものである。忙しいということは、仕事の場であれ社交の場であれ、人に求められていることを示している。金策に東奔西走していたり仕事を求めて走り回ったりしていることもあるが、通常は、もてているという、好ましい状態である。特にビジネスの場においては、忙しいというのは、しなくてはならない仕事の量が現在している仕事の量を超える傾向にあることを示している。引く手あまたであって、ビジネスが隆盛である証拠だ。そこで、自分から「忙しい」ことを吹聴する人も出てくる。しかし、忙しいことがよいことであると考えられている状況の下では、それは自慢をすることにほかならない。また、実際は忙しくもないのに忙しがるのは、うそをついていることであり虚勢を張っていることである。自慢をしたり、うそをついたり、虚勢を張ったりする姿勢には、品のかけらも見出すことができない。特に、上司が「忙しい」を連発するのは、あまり感心できない。部下にとっては、愚痴をこぼしているとしか映らないからである。忙しいというのは、一歩間違えば、計画性のないことを暴露した結果にもなりかねない。上司には指揮権や裁量権があるので、計画的に仕事を進めていくことができるはずである。それができなかったら、上司としての資質を疑われても仕方がない。◆「私だって」は上司の禁句部下が忙しいことを訴えると、「自分だって忙しい」などといって、部下の言葉をはねつけようとする人がいる。部下の悩みに耳を傾け、その問題を解決する手助けをするのは、上司の役目の一つである。その役目を果たさないで、自分も同じ状態にあると相手にいうのは、上司の地位を返上したり捨てたりするのと同様である。自分を部下と同列にして論じているにも等しいからである。部下や外部の人たちが、何かで悩んだり困ったりしていて対策や同情を求めてきたときは、「私だって」という言葉は禁句だ。虚心坦懐に耳を傾けるのである。すぐに解決策を講じることはできなくても、それだけで相手は少なくとも少しは落ち着く。航空機などが緊急事態に直面したときにおける乗務員の対応の仕方と同じである。乗客がパニックに陥っているときに自分たちまでもが慌てたのでは、収拾がつかなくなる。プロである乗務員が落ち着いた態度を見せて、なすべきことを一つずつ冷静にしていけば、ほかの人たちの動揺した気持ちも、ある程度は収まっていく。乗務員の品格ある言動を見て、乗客自身も人間としてのプライドを取り戻すのである。仕事の場における上司も、プロとしての自覚を持って、冷静な言動に徹しようとする心構えを失ってはならない。部下が不安定であったり動揺していたりすればするほど、悠然と構える。多くの仕事が一度に押し寄せてきたときでも、優先順位を見極めたうえで、一つずつ指示を出したり自分でも処理していったりする。多くの仕事を目の前にしたとき、どれからしようかと迷っているうちに時間が過ぎていってしまう。重要度や緊急度が高いと思われるものから、即座に手をつけていく。一度に多くの仕事をすることはできない。とにかく一つずつ片づけていく以外に方法はない。したがって、優先順位について判断ができなくて迷っている状態にあると思ったら、どれでもよいから手当たり次第に始末していくのである。多くの仕事を抱え込んだときは、「迷う」ひまはないことを銘記しておくべきだ。即座に行動を起こさなくてはならない。したがって、「忙しい」などというひまもないはずである。わき目も振らずに仕事をこなしていく姿には、勤勉な人間としての品が光り輝いている。私もできるだけ「忙しい」という言葉は使わないようにしている。だが、ただ一つ例外がある。押し売りの電話は、「お忙しいところを」といった前置きの言葉から始まる。それに対して、間髪を入れず「そのとおりで忙しいので」といって話を聞くことを拒否している。
責任を回避する◆不祥事の対応でわかる人物の「大きさ」政治や経済の場で起こる不祥事は日常茶飯事となっている。それは新聞やテレビをはじめとするさまざまなメディアで、次々と世間に伝えられる。特にテレビでは、そのような事件の渦中にいる人たちの映像を目の当たりにすることができる。明らかに責任者であると目されている人が何とか逃げようとする様子は、実に見苦しい。無言を決め込んで人と視線さえも合わせようとしない人がいる。政治や経済の大きな舞台で重要な役割を果たしている人には、黙秘権などという個人的な権利はないことを心得ておく必要がある。それよりも社会的責任が優先されるのだ。「ノーコメント」の一点張りで通そうとする人もいる。だが、事情を説明しようとしないのは、説明すると不利であると考えているからだ。すなわち、自分にとって都合の悪いことであったり、自分が悪かったりすることを認めているに等しい。本人は多少なりとも格好をつけているつもりかもしれないが、化けの皮ははがれているのだ。また、よく調べてみないとわからないという人もいる。大問題が起こったら真っ先に知る立場にあるはずの人が知らないというのは、うそをついているか、正真正銘のでくの坊であるかのどちらかである。いずれにしても、不名誉なことであるのは間違いない。ずるい人は、初めから開き直る。何のことかわからないとか、自分には関係のないことであるとかいう。極悪非道な人は、忘れたなどと平気でうそぶく。人非人という烙印を押されても仕方のない人である。また、自分が悪かったことを認める場合でも、さまざまな言い訳を述べ立てる。自分の責任を少しでも軽くしようとしているのだ。言葉の端々にも、その考え方が滲み出ている。「私」ということを避け「私たち」と複数形を使うことによって、責任を分散させようとする類である。そのような卑怯な言い草を聞いていると、それまでは「大物」であると考えていた人も一瞬のうちに「小物」になったように感じる。他人事ながら寂しい思いがして、やり切れない気持ちになる。自分自身の心まで虚ろになる。この世にある形はすべて仮のものであって、すべては「空」であり虚である、と悟らざるをえない。色即是空と考えなくては、自分までが前向きに生きる気力を失いそうになるときだ。このような茶番が大きな表舞台で白昼堂々と繰り返されるので、人々もそれに慣れてくる傾向が見られる。そのような状況の中にあっては、不祥事に対して即座に潔く自分の非を認めて謝罪する人がいると、その人に品格があると「錯覚」するようになる。それは危険な兆候である。大きな社会的責任を担っている人の場合は、たとえ過失による結果であったとしても、重大な結末については大いなる責任がある。徹底的に罪を償うまで監視を怠ってはならない。毅然として、悪は悪であると断じる姿勢を示す必要がある。◆「責任を回避し、手柄を奪う」最低の上司ひるがえって自分の周辺を見ると、どうだろうか。仕事の場で上司という立場にありながら、常に責任回避をしようとしている人はいないか。チームとして一緒に仕事をしている限りは、上司とか部下とかには関係なく、多かれ少なかれ責任の一端はある。したがって、何か問題が起こったときは誰かに非を押しつけることは可能だ。しかしながら、最も重い責任を負うのは上司の「役目」である。上司が主役であり、部下は脇役ないしは端役であるはずだ。好ましくない事態に立ち至ったときだけ、上司が主役の座を部下に譲ろうとするのは、どのように考えても間違っている。そのような上司に限って、輝かしい成果が上がったときは、その手柄を一〇〇パーセント自分のものにしようとする。「責任を譲り手柄を奪う」のは、上司の資格を返上するに等しい行為である。上司たる者は「責任を奪い手柄を譲る」のをモットーとするべきだ。それが人の上に立つ器量であり、品よく振る舞うための基本的な考え方である。とにかく、責任を回避しようとして、しらばくれたり逃げ回ったり、さらには隠れたりするのは、みっともないことこのうえない。皆が上司に責任があることを知っているのであるから、その一挙手一投足を注視している。自分としては上手に逃げていると思っているかもしれないが、その逃げているところにスポットライトが当てられている状態になっている。頭隠して尻隠さずとなっていることを知らないのは本人だけなのだ。真っ正面を向いた「頭」の部分を人目にさらせば、せめてその真摯な姿勢に免じて、人々は「刑の軽減」を図ってくれるはずである。そこから再出発だ。
机の上を散らかし放題にする◆部下は上司の机から、だらしなさを読みとる仕事ができるという評判の高い人がいる。マーケットを分析してその流れを把握する能力は抜群だ。眼光紙背に徹するばかりの、読みの深さに対しては、誰もが感心してほめたたえる。さらには、難局に当たっても、決断力に富み大胆に挑戦していこうとする。極めて頼もしい人なのである。ところが、その人の下で働いている部下たちの、その人に対する評価はあまり高くない。どちらかというと、できれば敬遠したいと思っている風情が見られる。その理由は、その人の机の上を見ると一目瞭然だ。まさに散らかし放題という状態になっている。身の回りについてはきちんとできない、だらしない人であることを示している。部下は、そのだらしなさについて、数々の例を羅列する。消しゴムを使ったときのカスも机の上に散らばったままにしておく。使った鉛筆やボールペンも投げ出したままにしておき、その上に書類を置くのも平気だ。そこで、また別の鉛筆やボールペンを取り出してきて使い、それもそのままにしておくルーズさである。整理すると、同じ机の上に何本もの筆記用具が乗っている結果になっている。書類の整理がきちんとなされていないので、必要な書類を探すのに時間がかかる。机の上をいくら探しても見つからないと思っていたら、机の引き出しの中にあったという場合も稀ではない。大切な書類だと思ったので、大事にしまっておいていたのである。電話機も必ずしも定位置に置かれていないで、あちこちと移動する。そのコードがねじれたままになっていても、まったく意に介さない。もちろん、ノートパソコンの位置にも定位置などはない。したがって、パソコンが始動しないといって人にチェックしてもらうと、コードが抜けていたということも一度や二度ではない。コーヒーなどの飲み物を飲むときも、その容器を机の上に不用意に置くので、何かの拍子にひっくり返してしまう。突然の洪水に襲われた机上は、混乱状態に輪をかけたかたちになり、周囲の人たちをも巻き込んだ大騒ぎになるのである。◆片づけながらするのが品のよい仕事の仕方この上司は極端な例であるかもしれない。身の回りをきちんとした状態にしておくことができないと、周囲にいる人に不快感を与える。それは、社会の中にいる人間としては、その質に対して問題があるといわざるをえない。人間としての品格に欠陥があるのだ。いくら仕事の面では洞察力に優れ決断力に富んでいるといっても、身の回りの整理整頓ができないようでは、不安感を抱かざるをえない。もしかしたら、実際には頭の中も同じように混沌とした状態になっているのではないか、と疑いたくもなる。緻密な観察や思考ができなかったら、思いがけない大失敗をするのではないか、と心配になる。これまでは、ただ運がよかっただけではないかなどと思われたとしても、仕方がないであろう。仕事の場では、当然のことながら、仕事を中心に考えていかなくてはならない。だが、人間同士が「つきあう」場でもある。したがって、人に不快感を与えるような振る舞いをするのは、仕事の場に対してマイナス要因となる。人が前向きに進もうとする意欲を削ぐだけでも、よくない結果を招来する。乱雑という人格的欠陥は品に欠けるという非難を受けるだけではなく、仕事の効率にも大いなる悪影響を与えてしまうのである。このような性格の元となる悪い癖は、早急に直さなくてはならない。きちんと整理整頓をすることができない人には、生来ずぼらな人もいる。しかし、その大多数は、後でまとめて整理しようと思っている人たちだ。その場合に問題となるのは、「後で」というときの「後」の時期である。特定の作業が終わったときを考えている人もいれば、一日の仕事の終わりを思っている人もいる。まとめて整理をしようとしているのである。すなわち、整理すべきことを溜め込む結果になってしまう。一連の作業が終わると、次の作業に取り掛からなくてはならない。一日の仕事が終わったときは、疲れ切っていて早く仕事の場を離れたいと思うかもしれない。したがって、整理をする機会がなくなる。「後で」をさらに後へと延期していくので、散らかった状態が続くことになるのである。整理をするコツは、書類であれ道具であれ、それが不必要になったとき、そのつど即座に片づけることだ。片づけながら仕事をしていく姿勢が必要である。それがスマートで品のよい仕事の仕方であり、身の回りにすっきりとした雰囲気を漂わせていく道へとつながっていく。
利益ばかり強調する◆利益も「腹八分目」がちょうどいい企業が利益を追求するのは当然のことで、それに異を唱える者はいない。企業にとって利益は、人間にとっての食べ物のようなもので、それなくしては存続することはできない。そこで、できるだけの利益を確保しようとして、企業は躍起になる。しかしながら、その場合にも、一定の節度を持った行動様式に従う必要がある。なりふり構わず利潤を手にしようとするのは、いくらビジネスの世界だからといっても、人々の反感を買うのは疑いの余地がない。ビジネスとして割り切る度合いが過ぎて利益を追求する姿勢ばかりが目につくのは、やはり品が悪いといわざるをえない。企業本来の目標は人々の幸せに寄与する点にあることを忘れてはならない。仕事に打ち込んで机に向かい続けていたり走り回ったりしているときは、つい忘れがちになる。だが、仕事の節目で、また新しいプロジェクトに取り掛かるときなどには、企業の社会貢献という線に沿った仕事であるかどうかについて、常に自問自答をする習慣をつけておいたほうがよい。それを怠ると、社会の非難を受ける結果になったり、不祥事に発展していく火種になったりする。上司の中にも、この点に対する正しい考え方の重要性を認識していない人は多い。確かに、今日のように競争が熾烈なマーケットの中にあっては、少しでも多くの利益を手に入れようとする熱心さは必要である。しかし、そのために、企業本来の目的を見失うようなことになったのでは、企業の存在意義を否定するにも等しい。利益は企業が存続するための食料である点を考え、食べ過ぎにもならないようにと時どき反省してみる。利益が必要だと考えて求めようと努力するのはよいが、飽くことなくほしがるのは行き過ぎだ。それは暴利をむさぼろうとする姿勢につながっていく。利益も「腹八分目」と考えていく余裕が望まれる。それが、社会に尽くし社会の流れと調和を保っていく結果になる。朝から晩まで、会社の売り上げや利益のことばかり念頭に置いて指揮を執ったり自分自身も動いたりしている上司には、品というものがまったく感じられない。部下と話をする機会があるたびに、利潤を生み出すことを強調している。部下を利益を上げる「道具」としか考えていない風情が見られる。したがって、部下を会社の利益の観点のみから評価している。上司であれ部下であれ、会社のために働いて尽くすのは当然の義務である。しかしながら、利をむさぼろうとする会社のお先棒をかついだり尻馬に乗ったりする感のある上司はいただけない。人間らしい温かみが感じられないので、人間としての魅力がない。単なる「働きマシン」は、品がよいとか悪いとかではなく、品がない。品について考えたこともない人である。◆金銭欲と品格は反比例する企業社会も人間社会の一部であることには、疑いの余地がない。したがって、人間同士としてのつきあいの要素は不可欠だ。企業内の会話も、売り上げや利潤、それに業務の進行状況についてだけではなく、個人的なことについてもする必要がある。ある世界的規模の企業で、アジア地域を担当していた女性の役員がいた。来日するごとに幹部社員を集めて歓談の機会を持っていた。だが、いつも仕事の話ばかりである。まず自分が業界や会社の最近の動向を話したうえで、一人ひとりと話をするが、「忙しくしているか」とか「利益の見込みはどうか」とか、会社の利益を念頭に置いた話しかしない。立ち居振る舞いもきれいで、一緒に食事をするときのマナーにも優雅さが感じられる。キビキビとした言動にも、知性が溢れている。しかし、利益という金にまつわる話題に終始するので、つきあえばつきあうほど人間的な魅力が失われていく。話し掛ける口調は優しいのであるが、金のにおいという冷たさがつきまとっている。そこで、人間的な品を落としているのである。時どき、それぞれの家族について聞いて、「一緒に旅行をよくするのか」とか「子供の教育に苦労をしていないか」とかいってみれば、親近感が増すはずだ。その瞬間においては、上司と部下という関係ではなく、人間同士として同じレベルに立って話をすることになるからである。金は大切なものであるが、金の話を前面に押し出すと、人間としての品位にはマイナスの影響を与える。金銭的なものに対する関心の深さと人間的な品格とは反比例するものと心得ておいたほうがよい。
安物ずくめ◆高額の年俸を得て徹底的に倹約するドケチ私のコンサルタント業務の方式には、単なる助言や指導をするだけではなく、顧客企業の業務の一部を遂行していくかたちのものが多かった。特定の実務を分担して実行していくのであるから、企業の中に自分の個室や机をつくってもらって、社員と同じように働くのである。したがって、企業の中の様子がよくわかる。そのようにして得た、現実的な知識や経験に基づいて、助言や提言もしていく。社員のようにその企業一筋と考えていく立場ではないので、第三者的な視点にも立つことができる。したがって、ある程度は大所高所からの考え方や意見を述べることが可能になるのである。企業の日常業務をこなしたうえであるので、説得力があるという利点もあった。そのようにして仕事をしていた客先の中に、あるアメリカ企業の日本事務所があった。仕事の内容も面白いので、私としてもかなりの時間を割いて一所懸命に尽くす結果になっていた。私が仕事をしていた数年の間に、所長も何回か替わった。それぞれに自分の特長を発揮して業務の推進に努めていたが、一人だけ所長らしくない人がいた。すべての点において、みすぼらしいのだ。まず服装がよくない。スーツはよれよれで靴も相当くたびれている。シャツも洗濯はしているらしいが、アイロンを掛けていないのでしわくちゃのままだ。通勤にはナップザックを背負ってスニーカーをはく。経済的ではあるかもしれないが、違和感を感じざるをえない。時計もおもちゃのようなもので、筆記用具はすべて会社から提供される使い捨ての安物を使っている。昼食時は安いサンドイッチを買ってきたり、家から持ってきたカップラーメンに湯を注いだりして食べている。レストランに行くのは会社の費用で客を接待するときだけだ。部下を食事に誘ったのも見たことがない。一度だけ事務所の全員を自宅の夕食に招待したことがある。皆それぞれに手みやげを持って集まった。飲み物は缶ビールと二種類のソフトドリンクのみで、それも缶ビールは途中で品切れになってしまった。食べ物も、どこでこれほどの安物を調達してきたのかと〝感嘆〟するほかないものばかりだ。集まったのは二〇人足らずであったが、一種類でさえも皆の口に入るだけの数は用意してなかった。表面的には皆、陽気にしようと努力していたが、時どきお互いに目が合うと、しらけた気分をこっそりと確認し合っているようであった。住居自体は立派である。社宅に対する予算に従って選んでいるので、便利のよい場所に位置し、広さも人が羨むほどのものである。ただ、カーテンがないので、なぜかと聞くと、必要ないという返事であった。寝室は庭の木の陰になる部屋にしているし、夜は二階で過ごすので、外からは見えないというのだ。ただし、一階の居間の窓から入ってくる日光がまぶしくなると、太陽の移動につれて自分自身の居場所も移動させるのだ、といって笑っていた。高額の年俸をもらっているにもかかわらず、徹底的に倹約をしようとしていた。無駄を省いて費用を切り詰めるというのが「倹約」という言葉の意味である。彼の場合、無駄だけではなく必要最低限のことまでも省こうとするのであるから、倹約という言葉でカバーする次元を超えている。ドケチというほかない。◆上司は上司らしく「格」を保つように振る舞う贅沢をする必要はないし、倹約をするのはよい。しかし、自分の立場からあまりにも懸け離れた生活をしたのでは、そのアンバランスさに人々は驚愕して不安を覚える。安物ばかりに囲まれて生活をしていたら、肝心の人生そのものまでが安物になってしまう。外見がみすぼらし過ぎると、中身までも安っぽくなり、品のよさなどまったくなくなる。社会の中で自分が置かれている立場に、ある程度は従い、それにふさわしい「格」を維持していく必要がある。上司は上司らしく格好をつけた振る舞いもしなくてはならない。度が外れたケチを押し通されたのでは、部下としても、つきあう接点が見つからなくなる。身につける衣服や食べる食事の内容も、人と人とがつきあうときの重要な道具立ての一部である。安物ずくめのライフスタイルであったら、どのようにしてつきあっていったらよいかわからなくて、相手はとまどう。部下が「この人が自分の上司です」といって、胸を張って人にいえるかどうかが、品のよい上司であるかどうかの判断基準の一つである。その点に焦点を合わせて、自分の生き方を構築していけばよい。件の所長と最後に会ったとき、「缶ビールでも飲むか」と誘われたが、「ノー、サンキュー」といい、笑顔を見せ手を振って別れた。
虚勢を張って傲慢◆威張りたいのは実力がない証拠自分の能力について自信のない人は、何とかして自分を実力以上に見せようとして、いろいろな手段を講じる。最も簡単な方式は、威張ってみせることである。偉そうなことをいったり強そうに振る舞ってみたりする。そのような高圧的な働き掛けを、ことさらにするので、冷静に物事を見る目のある人にとっては、すぐに虚勢であることがわかる。威張るのは自己宣伝の一つであり、自分にとって都合のよいことばかりを強調するので、誇大広告にも似ている。そもそも自己宣伝は客観性において欠けているので、信憑性が少ない。いっていることや態度に関して、ちょっとでも疑問を抱かれたら、すべての内容がうそであると考えられても仕方がない。特に上司と部下の間では、毎日身近で一緒に仕事をしているのであるから、どのくらいの実力があるかについて、お互いに十分わかっている。上司が偉いかどうか、また強いか弱いか、すべてわかっている。そこで威張ってみせるのは、逆効果でしかない。人間性の浅薄さをさらけ出してみせることになり、部下の信用を失うだけである。威張りたくなったら、自分に実力が備わっていない証拠である、と考えてよい。威張るのは常に「空威張り」にしかならない、と心得るべきだ。自分が偉くないのを知っているので、威張ることによって、自分を偉いと思わせようとしている。その心のさもしさを反省する必要がある。虚勢を張るために無理をするひまがあったら、その時間とエネルギーを、少しでも実力をつける方向へと使ったほうがよい。威張る人は、その土台となる事実や力がなかったり脆弱であったりするので、いつも不安定な状態になっている。威張ったことを正当化するためには威張り続けなくてはならない。常に気を抜くことのできない「自転車操業」をすることになる。それよりも、少しずつ実力を蓄えていったほうが気も楽である。真摯な努力の積み重ねをしていく雰囲気は、周囲の人たちにも感じられる。それは厳粛な力を秘めているので、侵し難いものとなる。実力が備わってきて、それを部下たちも認めてくれるからである。そうなると、威張る必要はなくなる。しかしながら、そのような地道な努力ができない人もいる。威張ることに対して部下たちが何ら表向きの抵抗を示さないので、態度がだんだんとエスカレートしていく。人を見下すことによって、自分の位置をさらに高めようとするのである。傲慢になってくると、人品骨柄卑しくなり、まさに末期症状の一つといわざるをえなくなる。◆自信があるときほど裸の王様になりやすい人を人とも思わず傍若無人に振る舞うようになると、自分がいちばん偉いと思うようになる。そのような上司の場合、ちょっとでも批判的なことをいわれただけで、威丈高になって上から抑えつけようとする姿勢に出る。それまでに威張り続けることによって築き上げてきた「権威」を盾に、問答無用とばかりに切り捨てるのである。自分にとって都合の悪い、部下の言い分などに対しては耳を貸そうともしない。そうなると、部下としては手がつけられなくなる。専制君主に仕えるつもりで接する者が多くなる。そのほうが無難である。下手に正論をいったとしても、頭ごなしに否定されたうえに、考えが稚拙などとこき下ろされて嫌な思いをするだけだ。祭り上げておいたほうがよいという雰囲気になると、いずれは「裸の王様」になる運命である。ちょっとした虚勢を張ることに始まり、威張るのが癖になって傲慢になり、裸の王様になっていく過程は徐々にであるから、自分としては気づかない人も多い。時どき自分の行動様式をチェックしてみる。自信があると思っているときが危ない。自分が何かをいったとき、部下たちに同調する気配が多く見られたら、裸の王様になりつつある可能性が高い。人前で裸になるのは品がよくない。本人が得意になっていれば、その品の悪さも度を超えたものになっている。表向きは皆も神妙な顔をしているが、陰では嫌悪の感情をあらわにしたり、軽蔑した目で見ていたりするのである。本当に内容のある実力を備えていたら、自分から偉そうに振る舞わなくても、皆が敬意を表してくれ、心から恭順の意を示してくれる。黙っていても、部下が盛り立ててくれる。もちろん、部下の中には下剋上を狙って、従おうとしない者もいる。だが、そのような無礼者を抑えつけようとして威張ってみせたのでは、その部下の次元まで自分が下がっていくことになる。相手にしないで超然とした態度を取るべきだ。それが品のよい上司であり続ける道である。
崩れた姿勢◆考え方が真っ直ぐでない姿勢の悪い人仕事をきちんとこなし部下に対しても親切な上司であるが、姿勢が悪いと、上司としての貫禄が感じられない。いつも前屈みになっているので、積極的に前進していこうとする気迫が感じられない。矢でも鉄砲でも持ってこいという力強さがないので、頼りない感じがつきまとう。外部の人に対しても、胸を張って「私の上司です」というのは気が引けるような人だ。姿勢は身体の格好であるが、それは同時に心構えも示している。心が素直であれば、身体も自然に真っ直ぐになっているはずだ。その逆も同じで、身体を真っ直ぐに保っていれば、考え方もストレートなものになってくる。そこで、伝統的な教育や修行の場では、まず姿勢や動作などのカタチを教えることから始めるのである。手足など身体の隅々にまで神経を使って、正しい姿勢を取ることを学ぶ。身体の動きについても、最も自然で美しいカタチになるようにと、磨きを掛けていく。そのようなカタチをつくり上げていく過程において、心を込めなくてはならない。それは精神を統一する結果になる。すなわち正しい心構えが備わってくるのである。たとえば茶道を習うときだ。座り方から歩き方に至るまでの立ち居振る舞いについて、数々のルールがあり、それらを徹底的に教わる。一つひとつの動作について、最も美しく最も機能的なカタチがある。身体を動かすスピードや角度などの細かい点に至るまで、定められた約束事がある。それらは茶道の歴史という長い年月にわたって、練り上げられたものだ。したがって、よりよいカタチをつくろうとする新しい試みは、失敗に終わってしまうのが現実である。いずれにしても、完成度の高いカタチを身につけるべく、試行錯誤を重ねながら訓練をしていく。それらの動作のあちこちには、心を込めなければカタチにならない部分がつくられている。そこで、きちんとしたカタチをつくっていけば、きちんとした精神が形成されていく結果になるのだ。◆姿勢のよいは七難隠す仕事の場においても同じようなことがいえる。肩を落とし背中を丸めて、だらしない格好をしていたのでは、その人の仕事に対する心構えだけではなく、周囲の雰囲気までもがだらしなく感じられる。およそ、品などかけらも感じられない状況だ。特に上司がそのような格好をしていたのでは、部下に示しがつかない。そもそも人と相対するときは、姿勢を正しくするのが最低限のマナーである。相手が目上であれ目下であれ、それが相手を同じ人間として認めたうえで敬意を表する姿勢だ。考え事をしているときなどは、つい姿勢を崩しているかもしれない。したがって、事あるたびに、姿勢を正しくしているかどうかをチェックしてみる。さらに、人と接するときは、常に背筋を伸ばして相手の目を見ることを習慣づけるのである。「色の白いは七難隠す」という諺がある。女性は色が白ければ、ほかに欠点があったとしても、それを気づかせないので得だ、という昔の考え方に基づいている。それと同じように「姿勢のよいは七難隠す」ということができる。ただ座っていたり立っていたりするときだけではなく、身体を動かすときでも、姿勢を崩すことのないようにするのだ。それだけで、きちんとした性格であることを、人々に対して印象づけることができる。たとえ、多少は論旨が不明確であったり舌足らずの話し方になっていたりしても、好感を持たれる。さらに、姿勢が正しかったら、物の取り扱い方も自然に丁寧になる。机の上に何かを置くときでも、投げ捨てるような置き方にはならない。電話で話し終わったときに、ガチャンと音を立てて電話を切る人がいるが、それは電話の相手に対して失礼であるだけではなく、周囲にいる人たちにも不愉快な思いをさせる。物を乱暴に扱う人は、自分自身の振る舞いも粗野だ。したがって、当然のことながら、人に対する接し方もいい加減である。物を置くときは、ソフトランディングを心掛ける。床や机の上に近づくに従ってスピードを緩め、そっと静かに置き、それからゆっくりと手を離していく。物を置くときは、いとしい人と別れるときのようなつもりでするように、といわれている。離れたくない気持ちが、手を離すまでの時間を長引かせるのである。もちろん、そのときの姿勢も毅然たるものでなくてはならない。さもないと、単なる女々しさが表現されるだけだ。信念を貫こうとする力強い姿勢でなくては、品格がなくなってしまう。
奇をてらう身なり◆場違いな「見せ物」になる原色のスーツ外国の法律事務所の仕事にかかわっていたころ、政府系の銀行へ頻繁に出入りしていたことがある。海外に関係した業務を主としている銀行なので、国際的なセンスに溢れた人たちが多かった。世界に目を向けた考え方をしているので視野も広く、話の論理もすぐに通じるので、ストレートに話し合うことができた。人に応対する態度もスマートで、訪ねていくたびに快適なビジネスの雰囲気を味わっていた。中堅幹部の中に、ひときわ目立つ人がいた。いつも原色のスーツに同系色のワイシャツとネクタイという身なりをしている。それも、行くたびに赤や緑や青、それに紫と、色が異なっている。際立った服装であるから、一度見ただけで覚えてしまう。何度か会っているうちに、今日は何色なのであろうかと期待するようにもなる。きれいな色であるのだが、何度も見るたびに抵抗感がつのってくる。やはり派手すぎるので、ビジネスの内容とそぐわない点が気になるのだ。金融という信用を大切にするビジネスの場に必要な重厚感が感じられないからである。そう考えた途端に、その人が話している言葉や内容に、身なりほど独創的で目立つ点のないことに気がつく。服装は自己主張である。自分の打ち出したい個性を表現するのだ。ただ人目を惹いて強い印象を与えようと思っただけの演出をしたのでは、内なる個性とのチグハグさが表に出てくる。それが人々に違和感を与えるのである。それに、服装はその場の目的や雰囲気に合ったものでなくてはならない。そうでないと、単に場違いな「見せ物」になってしまう危険性が高い。◆「さわやかにすっきり」が上品な身なりのキーワード原色の洋服を毎日取っ換え引っ換え着るのは、豪華客船に乗って優雅な船旅をしているときであれば、着ている人だけではなく見る人にとっても楽しいものになるはずだ。日常生活から離れて目一杯のおしゃれをして、新しい自分を演出する。ワクワクする気分を盛り上げるためにも、極めて効果的である。しかし、保守的な業種の仕事の場にはふさわしくない。周囲の雰囲気から独り浮き上がって見えるので、その性格について疑う気持ちが芽生えてくる。単なる目立ちたがり屋かもしれないと思うと、途端に、その人に対してマイナスの感情を抱くようにもなる。やはり服装は自分自身の身分や立場、それにその場の状況にふさわしいものでなくては、品格を疑われても仕方がない。身につけるものは、自分の考え方や気分に合っているだけではなく、その場にいる人たちの考え方をも考慮に入れ、その人たちにも敬意を表したものにする必要がある。さらには、美的にも調和がとれていなくてはならない。しかも、人々を惑わせるような要素があってはならず、さっぱりとした感じを与えるものにする。そのようなのが上品な身なりである。特に上司としては、人々に抵抗感を感じさせるような身なりをしてはいけない。部下たちが好感を持って近寄ってくるような雰囲気を醸し出す必要がある。したがって、派手で賑やかな感じのものは避ける。「さわやかにすっきり」というのがキーワードだ。男性のスーツ姿についていえば、スーツとワイシャツとネクタイの組み合わせをシンプルにする。たとえば、ストライプのスーツにチェックのシャツを着て、水玉模様のネクタイをしたのでは、「騒々しい」というほかない。しかも、それぞれに色彩が異なっていたら、コメディアンの舞台衣裳である。上司としての貫禄は失われ、品のかけらも感じられなくなる。これは極端な例であるとしても、これに類した服装にならないように注意する必要がある。品のよい服装をする秘訣の一つは、模様があるものに模様があるものを重ねないことだ。ゴチャゴチャとした感じになると、人々の目はそこへと向けられる。すると、自分自身の印象が薄くなる結果になる。服装が人の目を奪うようであってはいけない。服装は自分自身を引き立てる脇役であって主役ではない。落ち着いて味わいのある演技をする脇役について、「いぶし銀のような」という形容をすることがある。そのような趣のある服装をしようと心掛けていけばよいのだ。着ているものをほめられて喜んでいたのでは、情けないというほかない。それでは服がほめられただけである。そのうえに、自分に似合っているといわれて初めて喜ぶべきである。そのときは、自分の着こなしのセンスがほめられたのであるから。
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