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第2章 時を告げるのではなく、時計をつくる

何よりも、決して立ち止まることなく、決して振り返ることなく、決して終わることなく、会社を築いて、築いて、築き続ける能力があった。……結局のところ、ウォルト・ディズニーの最高傑作は、ウォルト・ディズニー社であった。

リチャード・シッケル『ディズニー・バージョン』考えられるかぎり最高の小売り企業を築くことにずっと力を注いできた。目標はそれだけだ。

個人として巨額の富を築くことをとくに目標にしたことは、一度もなかった。

サム・ウォルトン(ウォルマート創業者)『ロープライスエブリデイ』昼や夜のどんなときにも、太陽や星を見て、正確な日時を言える珍しい人に会ったとしよう。

「いまは一四〇一年四月二十三日、午前二時三十六分十二秒です」。

この人物は、時を告げる驚くべき才能の持ち主であり、その時を告げる才能で尊敬を集めるだろう。

しかし、その人が、時を告げる代わりに、自分がこの世を去ったのちも、永遠に時を告げる時計をつくったとすれば、もっと驚くべきことではないだろうか。

すばらしいアイデアを持っていたり、すばらしいビジョンを持ったカリスマ的指導者であるのは、「時を告げること」であり、ひとりの指導者の時代をはるかに超えて、いくつもの商品のライフサイクルを通じて繁栄し続ける会社を築くのは、「時計をつくること」である。

わたしたちの調査結果の第一の柱として、この章では、ビジョナリー・カンパニーの創業者が概して時を告げるタイプではなく、時計をつくるタイプであったことを明らかにしていく。

こうした創業者にとってもっとも大切なのは、会社を築くこと、つまり、時を刻む時計をつくることであり、ビジョンのある商品アイデアで大ヒットを飛ばしたり、魅力ある商品のライフ・サイクルの成長カーブに乗って飛躍することではない。

ビジョンを持って指導力を発揮する、カリスマ的指導者になることに全力を傾けるのではなく、建築家のようなやり方で、ビジョナリー・カンパニーになる組織を築くことに力を注ぐ。

こうした努力の最大の成果は、すばらしいアイデアを目に見える形にすることや、カリスマ性を発揮することや、エゴを満たすことや、自分の富を築くことではない。

その最高傑作は、会社そのものであり、その性格である。

わたしたちがこの発見にいきついたのは、調査で集まったデータによって、広く深く根づいている二つの神話、人々の考えやビジネス・スクールの教育を長年にわたって支配してきた二つの神話が事実と食い違うことに気づいたからだ。

二つの神話とは、すばらしいアイデアの神話と、偉大なカリスマ的指導者の神話である。

わたしたちの調査の結論のなかでも、この点はとくに重要であり、魅力があると思えるが、ビジョナリー・カンパニーをつくり、築くには、すばらしいアイデアも、カリスマ的指導者も、まったく必要ないことがわかった。

しかも、調査結果によれば、カリスマ的指導者によるすばらしいアイデアは、ビジョナリー・カンパニーを築くことと逆相関するとも思える。

こうした驚くべき発見によって、企業の成功を、まったく新しい角度から、いままでとは違ったレンズをとおして見なければならなくなった。

そしてこれは、経営者や経営幹部にとっても、起業家にとっても、大きな重石がひとつなくなることを意味している。

目次

「すばらしいアイデア」の神話

一九三七年八月二十三日、大学を卒業したばかりで、まともなビジネスの経験もない二十代前半の二人のエンジニアが、新しい会社をつくろうと話し合った。

しかし、その会社で何をつくるのか、はっきりとしたアイデアはなかった(*)。わかっていたのは、広い意味での電子工学の分野で、二人で会社をはじめたいということだけだった。

最初につくる製品と市場の可能性について、幅広く意見を出し合いはしたが、この新興の会社には、二人を設立に駆り立てるような「すばらしいアイデア」はなかった。

*会社の設立が話し合われたのは一九三七年、正式に設立されたのは一九三八年初めである。

ビル・ヒューレットとデーブ・パッカードは、最初に会社をはじめることを決め、そのあとで、何をつくるかを考えた。

二人は、まず一歩を踏み出して、ガレージから抜け出し、電気料金を払えるようになりそうなことを、手当たりしだいやってみた。ビル・ヒューレットはこう述懐している。

たまに、ビジネス・スクールで講演する機会があるが、会社をはじめたときに、なんの計画もなく、臨機応変になんでもやったというと、経営学の教授はあぜんとする。

わたしたちは、カネになりそうなことは、なんでもやってみた。

ボーリングのファウルライン表示器、望遠鏡のクロック・ドライブ、便器に自動的に水を流す装置、減量のためのショック装置などだ。

たった約五百ドルの資本金しかなかったから、だれかが自分たちにできそうだと考えたものは、なんでもやってみた。

ボーリングのファウルライン表示器は市場に革命を起こさなかった。自動水洗装置も減量用のショック装置も、ものにならなかった。事業が軌道に乗ったのは、一年近くたって、ようやく初の大口契約を獲得してからだった。

ディズニーの映画『ファンタジア』向けの音響用オシロスコープ八台である。

このあとですら、ヒューレット・パッカード(HP)の路線は定まらず、さまざまな製品を次から次へと手がけた。

そして、一九四〇年代初め、軍の契約を起爆剤に、大きく飛躍する。これに対し、テキサス・インスツルメンツ(TI)は、設立時の構想が大成功を収めた。TIは一九三〇年にスタートした。

当時の社名はジオフィジカル・サービスで、「油田の反射振動探査を行う初の独立系企業であり、テキサス州の研究所で探査のための装置を開発、製造した」。

TIの創業者は、ヒューレットとパッカードと違い、しっかりした技術を持ち、的を絞ったビジネス機会をとらえようと、会社を設立した。

TIは「すばらしいアイデア」によってはじまった。HPは違った。ソニーもそうだ。

井深大が一九四五年八月に会社を設立したとき、具体的な製品のアイデアはなかった。

それどころか、井深大と七人の社員は、会社がはじまったあとで、どんな製品をつくるか、意見を出し合った。

設立後すぐにソニーに入社した盛田昭夫は、こう語っている。

わずかな仲間たちは……事業資金をかせぐにはまずどんな商売をはじめるべきか数週間にわたって協議した」(盛田昭夫他著『MADEINJAPAN』朝日文庫)。

和菓子からミニ・ゴルフ場、計算尺まで、いろいろ奇抜なアイデアが出た。

それだけでなく、ソニーが初めて取り組んだ簡単な炊飯器の試作品は、まともに動かず、初めての本格的な製品、テープレコーダーは、まったく売れなかった。

設立当初のソニーは、布に電線を縫いつけて、粗雑だが、売り物にはなる電気座ぶとんをつくって、なんとか現金収入を得ていた。

これに対し、ケンウッドの創業者は、ソニーの井深大と違い、具体的な製品分野を念頭においていたようだ。

ケンウッドは、一九四六年、「春日無線電機商会」という社名でスタートし、『電子工業年鑑』によると、「設立時から音響技術を専門とし、パイオニアであり続けている」井深やヒューレットと同じように、伝説の人物になったとも言えるサム・ウォルトンも、すばらしいアイデアを持たずに会社をはじめた。

自分の会社を持ちたいという強い意欲と、小売り業に関するごくわずかな知識、そしてあふれんばかりの情熱だけで、事業を起こした。

ある日突然、「すばらしいアイデアが見つかった。これで会社をはじめるぞ」と思い立ったわけではない。

ウォルトンは、一九四五年、アーカンソー州ニューポートの小さな街で、ベン・フランクリンのフランチャイジーとして、一店舗だけの安売り雑貨店をはじめた。

ウォルトンは、ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューでこう語っている。

「何をはじめるのか、先はみえなかったが、仕事にはげみ、顧客を大切にするかぎり限界はないと、いつも信じていた」。

ウォルトンは、その一軒の店から着実に店舗を増やしていき、会社をはじめてから約二十年たったころ、会社が発展していく自然のなりゆきとして、郊外のディスカウント・ショップという「すばらしいアイデア」にぶつかった。

ウォルトンは、著書『ロープライスエブリデイ』(竹内宏監修、同文書院)でこう書いている。

かなり前から、ウォルマートは、わたしが中年のころに突然思いついたもので、このすばらしいアイデアで一夜にして成功を収めたように思われているようだ。

しかし、〔ウォルマートの一号店は〕わたしたちが〔一九四五年から〕やってきたすべてのことが実を結んだ以外の何ものでもなく、わたしがいつものように、現状に満足できず、新しい実験をしてみたものだった。ほとんどのサクセス・ストーリーと同じように、成功するまでに約二十年かかった。

企業の運命とは不思議と皮肉に満ちており、エームズ・ストアーズ(ウォルマートの比較対象企業)は、サム・ウォルトンの会社よりも四年早く、郊外型ディスカウント・ショップをはじめた。

ミルトン・ギルマン、アービン・ギルマンの兄弟は、一九五八年、郊外型ディスカウント・ショップという「すばらしいアイデア」を追求するために、エームズを設立した。

二人は、「ディスカウント・ショップは小さな街で成功すると確信し」、初年度に百万ドルの売り上げを達成した(サム・ウォルトンが郊外型ディスカウント・ショップを開いたのは一九六二年で、それまでは、中心街にある小さな雑貨店チェーンだけを経営していた)。

ウォルトンに先行したのは、エームズだけではなかった。バンス・トリンブルはウォルトンの伝記でこう述べている。

「〔一九六二年当時〕ウォルトンと同じことをやろうとしていた小売り企業はほかにもあった。ウォルトンは、同じことをほかのだれよりもうまくやっただけだ」HP、ソニー、ウォルマートの例を見ると、広く信じられている企業の起源の神話が疑問に思えてくる。

先見性のある起業家が、製品アイデアや市場についてのビジョンを武器に会社を設立する……、神話はこのような図式を描いている。

この神話だと、大成功している会社の創業者たちは、普通、まず卓越したアイデア(技術、製品、市場の可能性)を持って会社をはじめ、そののち、魅力ある商品ライフ・サイクルの成長カーブに乗ることになる。

この神話には、なるほどそうだと思わずにはいられないような説得力があるが、ビジョナリー・カンパニーの創業パターンとしては、一般的ではない。

実際には、今回調べたビジョナリー・カンパニーのうち、すばらしいアイデアや卓越した製品を出発点とする企業はほとんどない。

J・ウィラード・マリオットは、自分で事業を起こしたいと考えたが、どんな事業を起こすのか、はっきりとした考えはなかった。

結局、考えついたただひとつの有望なアイデアで会社をはじめることにし、フランチャイジーになって、A&Wルートビアー・スタンドをワシントンDCにオープンした。

ノードストロームは、シアトルの繁華街にある一店舗だけの小さな靴店としてはじまった(ジョン・ノードストロームは、アラスカのゴールド・ラッシュから戻ったばかりで、ほかに何をしたらいいのかわからなかった)。

メルクは、ドイツの化学品を輸入するだけの会社としてはじまった。

プロクター&ギャンブルは、一八三七年に、なんの変哲もない石けんとロウソクを製造する会社としてはじまった。

当時、シンシナティだけでもそうした企業が十八社あり、同社はそのひとつだった。

モトローラは、シアーズ社製ラジオの整流器を修理する零細企業としてはじまった。フィリップ・モリスは、ロンドンのボンド街にある小さなタバコ屋としてはじまった。

さらに、ビジョナリー・カンパニーのなかには、ソニーのように、スタートで完全につまずいた会社もある。

3Mは設立早々、研磨材原料の採掘事業が失敗に終わり、投資家の手には、「二株で安酒場のウィスキー一杯分」の価値しかなくなった株式が残った。

そして、ほかに何をすればいいのかわからず、サンドペーパーをつくりはじめた。

このように、3Mは前途多難な船出となり、二代目の社長は、就任してから十一年間、報酬を受け取らなかったほどだった。

これに対して、3Mの比較対象企業であるノートンは、急成長市場に革新的な製品をひっさげて登場し、設立から十五年間、わずか一年を除いて、毎年、配当を支払い続け、資本金を十五倍に増やした。

ビル・ボーイングが初めてつくった飛行機は失敗し(「マーティン水上飛行機をまねた手作りの不格好な水上飛行機」で、海軍の試験で不合格になった)、設立から数年間は、生き残るために家具事業をはじめなければならないほど、厳しい状況に追い込まれた。

これに対し、ダグラス・エアクラフトは、初めての航空機が大成功し、華々しいスタートをきった。

アメリカの西海岸と東海岸をノンストップで結び、機体の重さを上回る積載能力を持つ史上初の航空機として設計されており、これに基づいて雷撃機をつくり、海軍に大量に納入した。

ボーイングと違って、ダグラスは生き残りをかけて家具事業をはじめることはなかった。

ウォルト・ディズニーの最初のアニメーション映画『アニメの国のアリス』(この名を聞いたことがあるだろうか)は、まったく振るわなかった。

リチャード・シッケルのディズニー・バージョンによれば、この映画は「全編を通じて、暗く、退屈で、月並みな映画だった。どうしようもなく平凡な漫画に動きをつけて、撮影のトリックで生き生きと見せたとしかいいようがないものだった」。

コロンビア・ピクチャーズは、ディズニーと異なり、初めての劇場公開映画が大ヒットした。

実質的な第一作、『モア・ザン・ピティード・ザン・スコーンド』(一九二二年)は、わずか二万ドルの製作費で十三万ドルを稼ぎ出し、コロンビアは設立早々から膨大な資金力をつけ、二年足らずのうちに十本の映画をつくり、すべて利益をあげた。

「すばらしいアイデア」を待つのは、悪いアイデアかもしれない

結局、ビジョナリー・カンパニーのうち、具体的で、革新的な製品やサービス、つまり、「すばらしいアイデア」が大成功を収め、好調なスタートをきった会社は、ジョンソン&ジョンソン、ゼネラル・エレクトリック(GE)、フォードの三社だけだった。

しかも、GEとフォードでさえ、「すばらしいアイデア」という考え方に完全にあてはまるわけではない。

GEの場合、エジソンのすばらしいアイデアは、ウエスチングハウスのすばらしいアイデアにかなわなかった。

エジソンは直流方式を追求したが、ウエスチングハウスは、それよりもはるかに優れた交流方式を押し進め、結局、交流方式がアメリカ市場に普及した。

フォードの場合、ヘンリー・フォードは、T型フォードのアイデアを思いつき、そのあとで、会社をはじめたと思われている。

しかし、これは神話にすぎない。

フォードがT型構想を完全に活かせたのは、すでに会社が発射台として軌道に乗っていたからだ。

フォードは、自動車工学の才能を活かして、一九〇三年にフォード・モーター・カンパニーを設立し(フォードにとって三年間で三つ目の会社だった)、A、B、C、F、Kの五つのモデルを発売したのち、一九〇八年十月、有名なT型フォードを発表した。

一九〇〇年から一九〇八年にかけて、アメリカではフォードを含めて五百二の自動車メーカーが誕生しており、自動車会社の設立が新しい発想だったとは言えない。

ビジョナリー・カンパニーとは対照的に、比較対象企業のなかで、すばらしいアイデアを出発点とするモデルにはるかに近かったケースは、エームズ、バローズ、コルゲート、ケンウッド、マクドネル・ダグラス、ノートン、ファイザー、R・J・レイノルズ、テキサス・インスツルメンツ、ウエスチングハウス、ゼニスの十一社あった。

つまり、わたしたちの調査によると、「すばらしいアイデア」を出発点としているものの比率は、比較対象企業より、ビジョナリー・カンパニーの方がはるかに低かった。

さらに、設立当初の構想がどうであれ、ビジョナリー・カンパニーは、企業として早い時期に成功したものの比率が、比較対象企業よりも低かった。

十八組のうち、ビジョナリー・カンパニーが設立当初に比較対象企業よりも成功しているケースは三組しかなく、逆に、比較対象企業が設立当初にビジョナリー・カンパニーよりも成功していたケースが十組あった。五組は差がなかった。

一言でいえば、企業として早い時期に成功することと、ビジョナリー・カンパニーとして成功することは、逆相関しているのだ。

長距離レースで勝つのはカメであり、ウサギではない。

付録2で、ビジョナリー・カンパニーと比較対象企業のはじまりについて、くわしく説明している(付録ではあるが、これは本文の流れを妨げないために巻末に収めたもので、一読するよう勧める)。

起業家になって、会社を設立し、ビジョナリー・カンパニーを築きたいと強く願っているが、「すばらしいアイデア」がないため、一歩を踏み出せない読者には、すばらしいアイデアの神話という重荷を肩から下ろすよう勧めたい。

わたしたちの調査の結果を見ると、むしろ、すばらしいアイデアを見つけてから会社をはじめることにこだわらないほうがよいかもしれない。

なぜなのか。すばらしいアイデアにこだわっていると、企業が究極の作品だとは考えられなくなってしまうからだ。

企業そのものが究極の作品である

ビジネス・スクールでは、経営戦略や起業に関する講義で、何よりもまず、すばらしいアイデアと、綿密な製品・市場戦略を出発点とし、次に、「機会の窓」が閉まる前に飛び込むことが大切だと教えている。

しかし、ビジョナリー・カンパニーを築いた人たちは、そのように行動したわけでも、考えたわけでもなかったことが多い。

創業者たちの行動をひとつひとつ見ていくと、ビジネス・スクールが教える理論に反するものばかりだ。

そのため、わたしたちはプロジェクトの早い段階で、すばらしいアイデアやみごとな戦略が企業の成功をもたらすとの見方を捨て、新しい見方を考えなければならなくなった。

レンズをかけかえ、もう一度、事実を確認する必要が出てきた。こうしてわたしたちは、会社を製品の手段として見るのではなく、製品を会社の手段として見るように、発想を転換することになった。

そして、時を告げることと、時計をつくることには決定的な違いがあるという見方をとるようになった。

時を告げることと、時計をつくることの違いを簡単に理解するために、GEとウエスチングハウスの設立当初の様子を比べてみよう。

ジョージ・ウエスチングハウスは、深い洞察力を持ったすばらしい発明家で、ウエスチングハウス以外にも五十九の会社を設立している。

さらに、エジソンの直流方式よりも優れている交流方式が普及すると読み、実際にそうなった。

しかし、ジョージ・ウエスチングハウスと、GEの初代社長、チャールズ・コフィンを比べてみよう。コフィンは何ひとつ発明していない。だが、きわめて重要な革新を起こした。

「アメリカ初の企業研究所」、ゼネラル・エレクトリック研究所の設立である。ジョージ・ウエスチングハウスは時を告げ、チャールズ・コフィンは時計をつくった。

ウエスチングハウスの最高傑作は交流方式で、コフィンの最高傑作はGEだった。幸運の女神は、どこまでもねばり抜く者にほほえむ。この明快な事実が、成功した会社の創業者にとって重要ないしずえになっている。

ビジョナリー・カンパニーの創業者はどこまでもねばり抜き、「絶対に、絶対に、絶対にあきらめない」を座右の銘としている。

しかし、何をねばり抜くのか。答えは会社である。

アイデアはあきらめたり、変えたり、発展させることはあるが(GEは当初の直流方式を廃止し、交流方式に転換した)、会社は絶対にあきらめない。

会社の成功とは、あるアイデアの成功だと考える起業家や経営幹部が多いが、こう考えていると、そのアイデアが失敗した場合、会社まであきらめる可能性が高くなる。

そのアイデアが運よく成功した場合、そのアイデアにほれこんでしまい、会社が別の方向に進むべき時期がきても、そのアイデアに固執しすぎる可能性が高くなる。

しかし、究極の作品は会社であり、あるアイデアを実現することでも、市場の機会をとらえることでもないと見ているのなら、善し悪しは別にして、ひとつのアイデアにこだわることなく、長く続くすばらしい組織をつくりあげることを目指して、ねばり抜くことができる。

例えば、HPは設立早々に屈辱を味わっている。製品が失敗したり、そこそこにしか成功しない状態が続いたためだ。

しかし、ビル・ヒューレットとデーブ・パッカードは、その場をしのぎ、ねばり抜き、なんでも試し、実験し続けるうちに、基本的価値観を活かし、製品のすばらしさで定評のある革新的企業を築く方法が見えてきた。

二人は工学部の出身なので、エンジニアとして目標を追求することもできた。しかし、そうしなかった。

製品を設計する仕事から、すばらしい製品を次々に生み出せる組織を設計する仕事、つまり、環境をつくる仕事にすばやく方向転換した。

一九五〇年代半ばには早くも、ビル・ヒューレットが、社内のスピーチのなかで、時計をつくる志向を示している。

当社の技術陣はきわめて安定している。これは偶然ではなく、そう計画した結果である。技術者は創造力ある人々であり、雇う前に、安定した安全な環境のなかで仕事ができるようにした。

また、技術者ひとりひとりに長い目で見た機会を与え、それぞれに合ったプロジェクトを与えるようにもした。さらに、管理面でも、技術者が仕事に充実感を持ち、生産性が最大限に高まるようにした。

……製品開発〔のプロセス〕は、当社にとってとくに重要な製品であり……これまでで最高の開発体制を組んでいく。

当社がこれまで成功を収めてきたと考えているのなら、あと二、三年待って、新しい研究者が製品を開発し、次々に優秀な管理者が出てくるのを見るべきだ。

そのとき、いまよりはるかに進歩していることがわかるだろう。

(傍点は引用者による)デーブ・パッカードも、時計をつくる考え方を一九六四年のスピーチで示している。

「問題は、ひとりひとりが創造力を発揮できる環境をいかにつくるかだ。……この環境をつくるために、組織構造を十二分に考えなければならないと、わたしは思っている」。

一九七三年、パッカードはインタビューで、製品に関する決定のうち、会社の成長にとくに重要な意味を持ったものはなんだと思うかと聞かれた。

パッカードの答えには、製品に関する決定はひとつもなかった。

研究開発チームの育成、無借金経営による財務の引き締め、利益分配制度、人事・管理方針、「HPウエイ」の経営哲学など、組織に関する決定ばかりだった。

インタビュー記事にはぴったりの題がつけられていた。

「ヒューレット・パッカード会長は語る──会社は計画の産物、電卓は偶然の産物」ビル・ヒューレットとデーブ・パッカードの究極の作品は、音響用オシロスコープでも電卓でもない。

ヒューレット・パッカード社と、HPウエイである。同じように、井深大の最高の「製品」は、ウォークマンでもトリニトロンでもない。ソニーという企業であり、その企業文化である。

ウォルト・ディズニーの最高傑作は、『ファンタジア』でも『白雪姫』でもないし、ディズニーランドですらない。

ディズニー社であり、人々を幸せにする同社のたぐいまれな能力である。サム・ウォルトンの最高傑作は、郊外型ディスカウント・ストアのコンセプトではない。

ウォルマート社、新しい小売りの形態を大規模に、世界中のどの会社よりも見事に実現できる企業である。

ポール・ガルビンの非凡な才能は、エンジニアや発明家としてではなく(ガルビンは、独学で経営を学んだが、事業には二回失敗しており、技術の教育は受けていない)、革新的なメーカーをつくりあげ、発展させることに発揮された。

その会社がモトローラである。

ウィリアム・プロクターとジェームズ・ギャンブルの最大の貢献は、豚の脂でつくった石けんや、ランプオイルや、ロウソクではない。

これらはやがては時代遅れになる。

最大の貢献は、決して時代遅れにはならないもの、そう、適応能力が高く、世代を超えて受け継がれる深く根づいた基本的価値観という「伝統ある精神」を持つ会社である。

会社を究極の作品と見るのは、きわめて大きな発想の転換である。会社を築き、経営しているのであれば、この発想の転換によって、時間の使い方が大きく変わる。

製品ラインや市場戦略について考える時間を減らし、組織の設計について考える時間を増やすべきなのだ。

つまり、ジョージ・ウエスチングハウスのように考える時間を減らし、チャールズ・コフィン、デーブ・パッカード、ポール・ガルビンのように考える時間を増やすべきだ。

つまり、時を告げるために使う時間を減らし、時計をつくるために使う時間を増やすべきである。

わたしたちは、ビジョナリー・カンパニーに優れた製品やよいアイデアがまったくなかったと言いたいのではない。それは間違いなくあった。

そして、あとで触れるが、こうした会社のほとんどは、自社の製品やサービスを、顧客の生活を向上させる重要な貢献であると見ている。

こうした企業は単に「会社を存続させる」ことを目指しているわけではない。役に立つことをするための会社なのだ。

しかし、ビジョナリー・カンパニーが、すばらしい製品やサービスを次々に生み出しているのは、こうした会社が組織として卓越しているからにほかならず、すばらしい製品やサービスを生み出しているからすばらしい組織になったのではないと思われる。

どんな製品、サービス、すばらしいアイデアも、どれほど優れたビジョンに基づくものであっても、やがては時代遅れになることを忘れてはならない。しかし、ビジョナリー・カンパニーは時代遅れになるとはかぎらない。

いまある製品のライフ・サイクルを超えて、会社として変化し、発展し続ける力があるかぎり、時代遅れにはならない(ビジョナリー・カンパニーがどのようにして変化し、発展し続けているのかは、のちに触れる)。

同じように、どんな指導者も、いかにカリスマ的であっても、すばらしいビジョンを持っていても、やがてはこの世を去る。

しかし、ビジョナリー・カンパニーは死に絶えるとはかぎらない。

個々の指導者の枠を超えて、いくつもの時代や世代にわたり、ビジョンを持ち続け、活力を持ち続ける強さがあるかぎり、死に絶えることはない。

この点から、二つ目の大きな神話へとつながっていく。

偉大なカリスマ的指導者の神話

企業幹部やビジネス・スクールの学生に、ビジョナリー・カンパニーの成功をもたらした最大の要因、いうなれば根源はなんだと思うかと尋ねると、「偉大な指導力」という答えが多く返ってくる。

その例として、ジョージ・W・メルク、サム・ウォルトン、ウィリアム・プロクター、ジェームズ・ギャンブル、ウィリアム・E・ボーイング、R・W・ジョンソン、ポール・ガルビン、ビル・ヒューレット、デーブ・パッカード、チャールズ・コフィン、ウォルト・ディズニー、

J・ウィラード・マリオット、トーマス・J・ワトソン、ジョン・ノードストロームの名前があがる。

こうした経営者は、きわめてねばり強く、大きな障害を克服したし、会社のために献身的に働く人たちを引きつけ、目標の達成に向けて社員の心をひとつにまとめ、会社の歴史の岐路になった重要な時期に指導力を発揮した……。

これが理由だ。しかし、ここがきわめて重要な点だが、比較対象企業の経営者も同じだったのだ。

チャールズ・ファイザー、ギルマン兄弟(エームズ)、ウィリアム・コルゲート、ドナルド・ダグラス、ウィリアム・ブリストル、ジョン・マイヤーズ、ユージン・F・マクドナルド(ゼニス)、パット・ハガーティ(TI)、ジョージ・ウエスチングハウス、ハリー・コーン、ハワード・ジョンソン、フランク・メルビルらの経営者も、きわめてねばり強かった。

大きな障害を克服した。会社のために献身的に働く人たちを引きつけた。目標の達成に向けて社員の心をひとつにまとめた。会社の歴史の岐路になった重要な時期に、指導力を発揮した。

十八組を分析していった結果、比較対象企業は、ビジョナリー・カンパニーと同じ比率で、草創期に「指導力」がしっかりしていた(付録3の表A3参照)。

一言でいうと、企業にとって決定的な意味を持つ草創期に、ビジョナリー・カンパニーで、とくに指導者が優れていたとの仮説を裏づけるデータは見つからなかった。

このため、調査を進めていくにつれ、わたしたちは偉大な指導者の理論を否定しなければならなくなった。

この理論では、ビジョナリー・カンパニーと比較対象企業の違いを十分に説明できなかったのである。

カリスマは必要ないビジョナリー・カンパニーと比較対象企業で、会社の基礎をつくった人々のどのような点が決定的に違っていたかを説明する前に(わたしたちは重大な違いがあると考えている)、興味深い推論を紹介しておきたい。

世間の注目を集めるカリスマ的なスタイルは、ビジョナリー・カンパニーの基礎を固めるのに、まったく不必要だという推論である。

実際、ビジョナリー・カンパニーの歴代の経営者のうち、とくに重要な人物のなかには、世間の注目を集め、明確なビジョンを持つカリスマ的指導者の典型のようなタイプではなかった人もいる。

ウィリアム・マックナイトを例にあげてみよう。

この名前を知っているだろうか。二十世紀を代表する偉大な経営者のひとりとして、鮮烈な印象が残っているだろうか。この人の指導者としてのスタイルを説明できるだろうか。

伝記を読んだことがあるだろうか。たいていの人は、ウィリアム・マックナイトについて、ほとんど何も知らないだろう。

一九九三年現在で、フォーチュン誌の「アメリカ経営者の殿堂」に入っていない。記事になったこともほとんどない。

『フーバーズ企業ハンドブック』のその会社の項にも、名前は出ていない。わたしたちが調査をはじめたとき、はずかしい話だが、その名前を知らなかった。

しかし、マックナイトが総支配人として(一九一四~一九二九年)、CEOとして(一九二九~一九四九年)、会長として(一九四九~一九六六年)、五十二年間率いてきた会社は、世界中のビジネス関係者の間で、高く評価され、称賛の的になった。

その会社とは、あのミネソタ・マイニング&マニュファクチャリング、通称3Mである。3Mは有名だが、マックナイトは有名ではない。これはマックナイトの望みどおりだったのではないのだろうか。

マックナイトは、一九〇七年、平の経理助手として入社し、原価会計担当、販売責任者を経て、総支配人に就任した。強いカリスマ性を持って指導力を発揮したことを示す事実を見つけることはできなかった。

3Mが編纂した社史には、マックナイトに関する記述は五十近くあったが、人となりに触れた部分はひとつだけで、「穏やかな口調の紳士」とある。

マックナイトの伝記では、その人柄について、「聞き上手」、「謙虚」、「控え目」、「うつむきかげんに歩く」、「慎み深い」、「口調が穏やか」、「物静かで、思慮深く、真面目」と評されている。

ビジョナリー・カンパニーの歴代の重要な経営者のうち、ビジョンを持ったカリスマ的指導者という典型的なモデルに合わないのは、マックナイトだけではない。

ソニーの井深大も、控え目で、思慮深く、内省的な人物だと言われている。

わたしたちが会ったビル・ヒューレットは、気さくで、生真面目で、冷静で、地に足のついたアイオワの農夫をほうふつとさせた。

プロクターとギャンブルは、融通がきかず、きちょうめんで、礼儀正しく、控え目で、無表情でさえあった。

ボーイングの歴代のCEOでもっとも重要なビル・アレンは実務家の弁護士で、「かなり内気で、めったに笑わない、どちらかといえば温和な人物」だった。

ジョージ・W・メルクは、「『メルクの謙虚さ』が服を着たような人物」だった。

わたしたちがコンサルタントとして接してきた経営者のうち、じつに多くの人たちが、カリスマ的指導者に関する本や記事を読んで、自分のスタイルとの落差を感じて、質問している。

「世間の注目を集めるカリスマ的な指導力が自分のスタイルではないとすると、どうなるのか」。

わたしたちの答えはこうだ。そうしたスタイルを身につけようとするのは、無駄な努力かもしれない。

ひとつには、心理学の調査によると、人の性格は、かなり早い段階に、遺伝と経験が積み重なって形成されるものであり、経営者の地位についてから、基本的な性格を大きく変えられるとはとても思えない。

そして、それ以上に重要な点として、わたしたちの調査によれば、いずれにせよ、そうしたスタイルは必要ない。

自分が世間の注目を集めるカリスマ的指導者であれば、それはそれでよい。しかし、そうでなくても、問題はない。

3M、P&G、ソニー、ボーイング、HP、メルクのような企業を築いた人々の仲間だと言えるのだから。

これらの経営者に似ているのだから、問題はない。ただし、誤解のないように確認しておきたい。

わたしたちは、こうしたビジョナリー・カンパニーの基礎を築いた人々が、すばらしい指導者ではなかったと主張しているわけではない。

世間の注目を集めるカリスマ的なスタイルが、ビジョナリー・カンパニーを築くのに不可欠だと言えないのは明らかだと指摘しているだけだ(むしろ、カリスマ性が非常に強いスタイルは、ビジョナリー・カンパニーを築くことと逆相関しているように思われるのだが、経営スタイルについては、しっかりしたデータが少ないため、明言はできない)。

また、ビジョナリー・カンパニー、比較対象企業のどちらにも、草創期には強力な指導者がいた。

だから、カリスマ的であろうとなかろうと、偉大な指導者が重要だという仮説では、ビジョナリー・カンパニーが比較対象企業よりも優れた業績をあげてきたことは説明できない点も指摘しておきたい。

これがこの章の重要なポイントである。

ビジョナリー・カンパニーには、その歴史の岐路になった重大な局面に、優秀な指導者が組織のトップにいたことを否定しようというのではない。

実際に、優秀な経営者が多かった。

また、経営のトップが何代にもわたって凡庸であれば、ビジョナリー・カンパニーであり続けることはできないだろう。

あとで触れるように、ビジョナリー・カンパニーはきわめて有能な経営者を育成し、社内で昇進させる点で、比較対象企業より優れており、このため、何代にもわたって優秀な経営者が続き、経営の継続性が保たれている。

しかし、すばらしい製品の場合と同様に、ビジョナリー・カンパニーで優秀な経営者が輩出し、継続性が保たれているのは、こうした企業が卓越した組織であるからであって、代々の経営者が優秀だから、卓越した企業になったのではないのだろう。

一九八〇年代初めにゼネラル・エレクトリック(GE)のCEOになったジャック・ウェルチを例にあげてみよう。

ジャック・ウェルチは世間の注目を集めている。

ウェルチがGEの再活性化に多大な役割を果たしたことや、活気と意欲に満ちあふれ、求心力のある経営者であることは否定できない。

しかし、ウェルチの指導者としてのスタイルにとらわれすぎると、問題の本質がみえなくなる。ウェルチは生え抜きであり、GEの製品である。そのウェルチがGEを変えた。

GEという組織には、ウェルチを引き寄せ、社内で育成し、訓練を積ませ、指導者として選び出す能力があったのだ。

GEはウェルチがCEOになるはるか以前から繁栄し、ウェルチが去ったのちも長く繁栄するだろう。なんといっても、ウェルチはGEの歴史のなかではじめての卓越したCEOではなく、最後の卓越したCEOにも、おそらくならないだろう。

ウェルチの果たした役割は小さくはないが、ゼネラル・エレクトリックの長い歴史からみれば、ほんの断片にすぎない。ウェルチがCEOに選ばれたのは、組織がしっかりしていたからだ。

その組織をつくったのは、チャールズ・コフィンらの歴代の経営者であり、ジョージ・ウエスチングハウスとは違って、会社を築くにあたって、建築家のような方法をとった人々である(ウェルチとGEについては第八章でくわしく述べる)。

建築家のような方法──時計をつくる

チャールズ・コフィンとジョージ・ウエスチングハウスの違いに見られるように、ビジョナリー・カンパニーと比較対象企業では、草創期の経営者に確かに違いが見られたが、その違いは「偉大な指導者」と「偉大ではない指導者」という単純なものではなかった。

最大の違いは、その志向にあったと思える。

ビジョナリー・カンパニーの草創期の重要な経営者は、指導者としてのスタイルに関係なく、比較対象企業の経営者より組織志向が強かった。

事実、調査が進むにつれて、「指導者」という言葉がしだいにしっくりしなくなり、「建築家」や「時計をつくる人」という言葉を使うようになった(二つ目の重要な違いは、つくる時計の種類だが、これについてはのちに触れる)。

以下に示す対照的な組み合わせを見れば、建築家のような方法、つまり、時計をつくる方法という言葉の意味がさらにはっきりするだろう。

シティコープ対チェース一八九一年から一九〇九年までシティコープの社長をつとめ、さらに一九一八年まで会長の座にあったジェームズ・スティルマンは、卓越した全国銀行を築くという目標に向かって、組織を発展させることに力を注いだ。

シティコープは、地域の小銀行から「すべてにおいて近代的な銀行」へと変貌を遂げた。

スティルマンは、新しい店舗を開設し、権限を分散した部門制度をとりいれ、大企業の経営者を社外取締役として招いて強力な取締役会を組織し、管理職を訓練・採用する制度を、チェースよりも三十年早く導入した。

『シティバンク─一八一二~一九七〇年』を見ると、自分がこの世を去ったのちも長く繁栄する銀行を、スティルマンが建築しようとしたことがわかる。

スティルマンは、自分がこの世を去ったのちも、ナショナル・シティ〔シティコープの前身〕が〔アメリカ最大で最強の銀行としての〕地位を維持できるようにすることを目指し、そのために、自分のビジョンと起業家精神に共鳴する人々、つまり、組織を築いていく人々を新しい本店に集めた。

自分自身は第一線から退き、こうした人々に銀行の経営をまかせるつもりだった。

スティルマンは、母にあてた手紙のなかで、銀行が自分を超えて飛躍しやすくなるように、会長職に退くことを決めたと書いている。

過去二年間、行内で助言を与えるだけの立場をとり、社長再選を辞退するための準備を進めてきました。

これは賢明な選択ですし、こまごました責任から解き放たれるだけでなく、わたしの同僚が名をあげて、将来も、これまで以上に大きな成功を収める無限の可能性を引き出す機会にもなります。

これに対して、一九一一年から二九年までチェースの社長だったアルバート・ウィギンは、権限をまったく委譲しなかった。

ウィギンは、決断力があり、生真面目で、野心家で、いちばんの関心事は、自分自身の名誉を高めることのようだった。

チェース以外にも五十社の取締役をつとめ、権限を一手に握ってチェースを支配した。ビジネス・ウィーク誌はこう伝えている。

「チェース銀行はウィギンであり、ウィギンはチェース銀行である」ウォルマート対エームズサム・ウォルトンが、派手でカリスマ性を持った指導者であったことは疑いの余地がない。

腰みのにレイといういでたちで、フラダンサーの一群を引き連れて、ダンスを踊りながらウォール街を行進したこと(利益率が八%を超えたときにはこうすると、従業員に約束していた)や、店のカウンターの上で飛び跳ね、何百人もの従業員がウォルマートの歌の大合唱で大声をあげるよう励ましていた光景を思い出さずにはいられない。

そう、ウォルトンはユニークで、精力的な人物だった。しかし、ウォルマートのような企業を築けなかったほかの何千という経営者もそうだった。

むしろ、サム・ウォルトンとエームズの経営陣の重要な違いは、ウォルトンの方がカリスマ性の強い経営者だったことではなく、ウォルトンの方が時計をつくる傾向、つまり、建築家としての傾向がはるかに強かった点にある。

ウォルトンは二十代初めごろには、性格がほぼ固まっており、その後の人生の大部分を、ウォルマートという会社を築き、可能性を広げるという終わりのない目標を追求することに費やした。自分の指導力を高めることは目標ではなかった。ウォルトン自身の目にも、そう映っていた。

著書『ロープライスエブリデイ』のなかでこう書いている。

当時の数多くの経営幹部をはじめ、だれも気づかなかったことだが、わたしたちは最初から、可能なかぎり最高の小売り企業(だれよりもプロフェッショナルな経営幹部集団)になろうと、懸命に努力してきた。

わたしが販売促進に向いていることに疑いはない。……しかし、そのかげで、店長の精神は常に持っていた。物事をうまくいくようにし、次には、もっとうまくいくようにし、次には、できる範囲で最高にうまくいくようにしようとする。

……わたしは、何ごとにおいても、中途半端であったことはない。可能なかぎり立派な小売り企業を築きたいとずっと思っていた。例えば、ウォルトンは、変化、実験、不断の改善を大切にした。

しかし、こうした価値観を説いただけではなく、変化と改善を促す組織としての具体的な仕組みを整えた。

「店舗のなかの店舗」と呼ばれるコンセプトを打ち出し、部門責任者にそれぞれの部門を自分の会社であるかのように運営する権限と裁量を与えた。

ほかの店舗でも使えそうな経費節減やサービス向上のアイデアを出したアソシエーツ(従業員)には奨励金を出し、表彰した。

「集中販売促進コンテスト」をはじめて、アソシエーツが創造的な試みに取り組むことを奨励した。

マーチャンダイジング会議を開いて、チェーン全店で行う実験的な試みを話し合い、土曜日の朝の会議では、新しいことを試み、大きな成果をあげた従業員がたびたび呼ばれた。

利益分配制度や従業員持ち株制度は、それ自体が、従業員が新しいアイデアを生み出そうとする刺激になり、会社全体にとってプラスになったとも言えるだろう。

アソシエーツが生み出した助言やアイデアは、ウォルマートの社内報で発表された。

さらに、衛星通信システムにまで投資し、「会社に関するどんな小さな情報でも、できるかぎり早く広めるようにした」。

一九八五年、株式アナリストのA・G・エドワーズは、時を刻むウォルマート時計をこう表現した。

従業員は、変化を奨励する環境で働いている。

たとえば……店員が〔商品や経費削減のアイデアについて〕提案をすると、そのアイデアは即座に広がる。

七百五十を超える店舗と、八万人を超える従業員(それぞれが提案をする可能性がある)がさまざまな提案を活かしていけば、売り上げは大幅に伸び、経費は大幅に削減され、生産性は大幅に向上する。

ウォルトンは、自ら発展し、変化する組織をつくることに力を注いだが、エームズの経営陣は、どんな変更でもすべて上から命じ、店長の行動をマニュアルでことこまかに指図し、自主性を発揮する余地を残さなかった。

ウォルトンは、自分がこの世を去ったのちに会社を引き継ぐ有能な後継者としてデービッド・グラスを育てたが、ギルマン兄弟にはそうした後継者がおらず、経営哲学がばらばらな部外者に会社をゆだねることになった。

ウォルトンは、時計をつくる志向を後継者に伝えたが、創業者なきあとのエームズのCEOは、成長のために成長することだけを考え、まるで取りつかれたかのように、危険な買収に突っ走り、ザイヤー・ストアーズ三百八十八店舗を、一挙に手中に収めた。

デービッド・グラスは、ウォルマートが将来、成功するための重要な要素について述べるなかで、「ウォルマートの社員が道をひらいていくだろう」、「当社の社員は活気に満ちあふれている」と語った。

同じ時期、エームズのCEOはこう語っている。

「真の答えであり、ただひとつの問題は、市場シェアだ」

一九九〇年、フォーブス誌のエームズに関する記事は、「共同創業者のハーバート・ギルマンは、自分がつくった会社が壊れるのを、なすすべなく眺めている」と悲劇を伝えている。

それに比べて、サム・ウォルトンは幸せだった。

自分がつくった会社が壊れることはなく、自分がいなくなったのちも、これまで以上に力強く、長く繁栄できると確信しながら、この世を去っていったのだから。

ウォルトンは、自分が二〇〇〇年までは生きられないと知りながら、一九九二年に亡くなる直前に、二〇〇〇年までの大胆な目標を定め、自分がいても、いなくても、会社はこの目標を達成できるとの強い自信を持っていた。

モトローラ対ゼニスモトローラの創業者、ポール・ガルビンは、長く続く偉大な会社を築くことを、何よりも夢見ていた。

歴史に残る大きな成功を収めたメーカーを建築した。

技術者ではないが、優秀な技術者を雇った。

意見の違い、議論、反論を歓迎し、「ほぼ自分だけでできることなら、自由に行動する権利」を個々人に与えた。

努力目標を定め、社員に大きな責任を与え、会社と社員が、多くの場合は失敗やミスから学び、成長する環境を整えた。

ガルビンの伝記によれば、「ガルビンは発明家ではなかったが、人々を設計図とする建築家だった」。

息子のロバート・W・ガルビンによると、「父は、……社員、それもすべての社員に、指導力を発揮してもらうように努めよと、しきりに訴えた。

そう、創造的な指導力を発揮してもらうようにと、わたしたちに教えたのだ……。

父は、早くから常に後継者を決めることを考えていた。

不思議なもので、父は自分自身の死はおそれなかった。

父の心は会社に向いていた」(傍点は引用者による)。

これとは対照的に、ゼニスの創業者、ユージン・F・マクドナルド・ジュニアは、後継計画を立てなかったため、一九五八年に急死したとき、トップに立つ人材が育っていなかった。

マクドナルドは、カリスマ性が強烈な指導者で、その強烈な個性を大きな武器に、会社をぐいぐいと引っ張っていった。

「移り気で、頑固なゼニスの首領」と言われ、「自分の判断を絶対とする……自信家」だった。

親友以外の者には、自分を「司令官」と呼ぶように求めた。

多彩な才能を持つ優れた実験者であり、自分の発明やアイデアをどんどん推し進めていったが、その頑固さのために、ゼニスはテレビ事業でビジネス・チャンスを逃すところだった。

『ゼニスの歴史』にはこう記されている。

マクドナルドの派手なスタイルは、そのまま会社の劇的な宣伝手法に表れており、こうしたスタイルに加えて、マクドナルドは革新を生み出す非凡な才能と、大衆の好みの変化をかぎとる能力もそなえていたため、世間では、三十年以上もの間、マクドナルドこそがゼニスだと考えられていた。

マクドナルドがこの世を去ってから二年半後、フォーチュン誌はこう書いた。

「(ゼニスは)いまはなき創業者の推進力と想像力をテコに、いまなお成長し、利益をあげている。

マクドナルドの強力な個性が、会社に影響を与え続けていることは明らかだ。

しかし、ゼニスの将来は、マクドナルドがまったく予期しなかった状況に対応できるか、新しい方向をとれるかにかかっている」。

ライバル会社はこうコメントしている。

「時間がたつにつれ、マクドナルドを失ったことの影響が大きくなっていくだろう」ガルビンとマクドナルドは、十八カ月前後して、相次いでこの世を去った。

モトローラは、ガルビンが夢にも思わなかった新しい領域へと、順風満帆に船を進め、ゼニスは活気を失い、一九九三年の時点でも、マクドナルドの時代のエネルギーと革新を生み出すひらめきを取り戻せないでいる。

ディズニー対コロンビア・ピクチャーズここで連想ゲームをひとつ。

問題は「ディズニー」。

何が思い浮かぶだろうか。

ディズニーから連想されるイメージをはっきりと描けるだろうか。

今度はコロンビア・ピクチャーズで同じことをやってみよう。

何が思い浮かぶだろうか。

くっきりと鮮明なイメージを描けるだろうか。

ほとんどの人は、ディズニーという言葉が意味するイメージは思い描けても、コロンビア・ピクチャーズでは難しかっただろう。

ウォルト・ディズニーの場合、社員のかぎりない想像力と才能を活かして、会社を築いたことは明らかだ。

ウォルト・ディズニー自身、『白雪姫』(世界初の本格的アニメーション映画)、ミッキーマウス、ミッキーマウス・クラブ、ディズニーランド、ディズニー・ワールド内の実験未来都市EPCOTセンターなど、同社の最高傑作を数多く生み出している。

どの尺度から見ても、ウォルト・ディズニーは時を告げるずば抜けた才能を持っていた。

しかし、それでありながら、コロンビア・ピクチャーズのハリー・コーンと比べて、時計をつくる志向もはるかに強かった。

コーンは「暴君のような人物で、デスクのかたわらに乗馬用のムチを常において、注意を引きつけたいときには、ムチをピシリと鳴らした。

コロンビアが大手映画会社の中でもとくに創造的な映画を多数製作できたのは、コーン流の経営手法によるところが大きい」。

一九五八年のコーンの葬儀に立ち会ったある人物によれば、千三百人の参列者は「別れを告げるためではなく、コーンが本当に亡くなったかどうかを確かめるためにきた」のだという(『国際企業史事典』による)。

コーンが従業員を気にかけていたことを示す資料は見つからなかった。

長期的な視野に立って可能性を広げたり、コロンビア・ピクチャーズの会社としての性格を確立しようとしたことを示す資料もなかった。

コーンは、映画界の大物になり、ハリウッドで大きな権力を握ることが最大の関心事で(ハリウッドで最初に社長兼プロデューサーの肩書を持った)、自分がこの世を去ったのちのコロンビア・ピクチャーズの会社としての質と性格は、ほとんど気にしなかったようだ。

コーン個人の目的は、長期にわたってコロンビア・ピクチャーズの推進力となったが、そうした個人的で自己中心的な理念では、創業者の死後も会社を導き、活力を生み出すわけにはいかないと言えよう。

コーンの死後、コロンビアは迷走をはじめ、一九七三年には経営が完全に行き詰まり、結局、コカ・コーラに売却された。

一方、ウォルト・エリアス・ディズニーは、死の前日、病院のベッドのなかで、フロリダのディズニー・ワールドの開発について、ひとりごとをいっていた。

ウォルトはこの世を去ったが、人々を幸せにし、子供を喜ばせ、笑いと涙を誘うディズニー社の能力は、この世からなくなることはない。

ウォルト・ディズニーは、その人生を通じて、会社を発展させ、その可能性を広げることに、コロンビアのコーンよりも力を注いだ。

一九二〇年代の終わりには、創造力のあるスタッフには自分以上の報酬を与えた。

一九三〇年代初めには、すべてのアニメーターのためにアート講座をひらき、敷地内に小さな動物園をつくって、生きた動物を見ることで、動物を描く技術を磨くようにし、アニメ製作の新しいプロセス(ストーリーボードなど)を開発し、最先端のアニメ技術に投資し続けた。

一九三〇年代終わりには、アニメーション業界に先駆けて高額のボーナス制度を取り入れ、有能な人材を集め、才能に報いるようにした。

一九五〇年代には、「ひとりひとりが幸せをつくる」研修制度を設け、一九六〇年代には、ディズニー大学をつくり、ディズニーの従業員を適応させ、訓練し、教化した。

ハリー・コーンは、こうした措置をひとつも取らなかった。

確かに、ウォルトは、今回調べた建築家のなかでは、時計をしっかりとつくった方ではなく、ディズニーのフィルム・スタジオは、ウォルトの死後、十五年間近く勢いを失い、ディズニーアイトは「ウォルトならどうするだろう」と自問して、右往左往するようになった。

しかし、ウォルトが、コーンと違って、自分自身よりもはるかに大きな組織、自分がこの世を去ってから何十年たっても、ディズニーランドで「ディズニーの魔法」を子供たちに与え続けられる組織をつくりあげたという事実は揺るぎない。

コロンビアが独立した会社でなくなったのと同じ時期に、ディズニーは、敵対的な買収を阻止しようと壮絶な戦いをいどみ、そして、勝った。

ディズニーの幹部と一族は、買収されれば、保有する株式で数百万ドルもの利益を得られたはずだが、それでも、ディズニーを独立した会社として守らなければならないと必死になった。

ディズニーはディズニーだからだ。

ジョン・テイラーは、ディズニー買収劇を描いた力作、『ディズニー王国を乗っ取れ』(矢沢聖子訳、文芸春秋)の序章でこう書いている。

〔買収の申し出を〕受け入れるのは考えられないことだった。

ウォルト・ディズニー・プロダクションズは並の会社ではまったくなく……資産を売却して株主

の価値を最大限に高めることによって、経営を合理化する必要はなかった。

ディズニーのブランド力もまた並ではなかった。

……同社の幹部は、ディズニーを、世界中の子供たちにあふれんばかりの夢を与える力と見ていた。

ディズニーはアメリカの文化の一部になっていた。

ディズニーは、株主に利益を生み出すのと同じように、重要な強い使命感を持っており、その使命とは、アメリカの価値観を讃えることだった。

ディズニーは、一九八〇年代、一九九〇年代に。

ウォルトが何十年も前に残した遺産をよみがえらせた。

これに対し、コーンの会社には、残したり、よみがえらせるべきものはほとんどなかった。

コロンビアを独立した会社として守るべきだとは、だれも考えなかった。

身売りした方が株主が多額の利益を得られるのであれば、それでよかったのだ。

CEO、経営幹部、起業家へのメッセージ

ビジョナリー・カンパニーを築くにあたって、とくに重要な方法は、行動ではなく、視点を変えることである。

次の章からは、行動に関する発見がたくさん出てくる。

しかし、それを活かすには、正しい考え方を身につけなければならない。

それが、この章のポイントである。

ニュートンの革命、ダーウィンの革命、アメリカ合衆国の建国にぶつかった人々と同じように、根本から発想を転換してほしいと、わたしたちは願っている。

ニュートンの革命が起こる前、人々は自分たちを取り巻く世界を、神の思し召しという言葉で説明した。

子供が転んで腕を折れば、それは神の思し召しだった。

凶作になれば、それも神の思し召しだった。

すべては全知全能の神が決めることだと考えていた。

そして、一六〇〇年代になると、人々はこう言い出した。

「違う。

それは違う。

神がなされたのは、宇宙を一定の法則で動くようにしたことで、わたしたちは、そうした法則がどのように働いているかを見つける必要がある。

神がすべてを決めるわけではない。

神は、永遠に続く過程と法則をつくったのだ」。

これを境に、全宇宙の基礎となるダイナミクスと法則を、人々は探りはじめた。

これがニュートンの革命である。

同じように、ダーウィンの革命によって、種と自然界の歴史に対する考えが劇的に変わった。

発想の転換という点では、ビジョナリー・カンパニーと相通じるものがある。

ダーウィンの革命が起こる前、人々は、神があらゆる種を完全につくり、自然界でのそれぞれの役割を与えたと考えていた。

シロクマが白いのは、神がそうつくったからで、ネコがのどを鳴らすのは、神がそうつくったからで、コマドリの胸が赤いのは、神がそうつくったからだった。

わたしたち人間は、だれかが、あるいは、何かがすべてを決めたに違いない、「この生態系のここには胸の赤いコマドリが必要だ」と、だれかが言ったに違いないと考えて、世界を説明したいという欲求を持っている。

しかし、生物学者が正しければ、世界はそのようにはできあがっていない。

胸の赤いコマドリがはじめからいたわけではない。

進化の基本過程(遺伝コード、DNA、遺伝子の変異・突然変異、自然淘汰)によって、最終的に、胸の赤いコマドリが誕生し、それが生態系に完全に適応していると見えるだけなのだ。

こうした過程が続き、不思議な「時を刻む時計」の複雑な仕組みがあって、自然界は美しく、機能的なものになった。

それと同じで、ビジョナリー・カンパニーが成功したのは、基本的な過程、基礎になるダイナミクスが組織に深く根づいていることが少なくとも一因になっているからで、ひとつのすばらしいアイデアや、すばらしい判断を下し、偉大なカリスマ性を持ち、強大な権限をにぎる、全知全能の神のような偉大な指導者がいたためではないと、考えるべきなのだ。

会社を築き、経営する仕事に携わっているのであれば、製品についてすばらしいビジョンを考えたり、カリスマ的指導者になろうと考える時間を減らし、組織についてのビジョンを考え、ビジョナリー・カンパニーとしての性格を築こうと考える時間を増やすべきである。

そう、一七〇〇年代にアメリカを建国したときに求められたのと同じような発想の転換をすべきだ。

十七世紀、十八世紀に、政治に対する考え方に劇的な革命が起こるまでは、ヨーロッパの王国や国の繁栄は、国王(イギリスの場合はときとして女王)の資質に大きく左右された。

優れた国王がいれば、優れた王国になった。

国王が偉大で賢明な指導者なら、王国は繁栄した。

この名国王のモデルと、アメリカの建国でとられた方法を比べてみよう。

一七八七年の憲法制定会議の最大の課題は、「だれが大統領になるべきか。

だれが指導者になるべきか。

もっとも賢明な人物はだれか。

だれがもっとも優れた国王になるだろうか」ではなかった。

アメリカの建国者たちが力を注いだ問題はこうだった。

「われわれがこの世を去ったのちも、優れた大統領をずっと生み出すために、どんなプロセスをつくることができるのか。

どのような国を築きたいのか。

国の原則は何か。

その原則をどう運用すべきか。

われわれが目指す国を築くには、どんな指針と仕組みをつくるべきか」トマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソン、ジョン・アダムズは、「すべておれにまかせろ」式のカリスマ的指導者ではなかった。

組織についてのビジョンを持っていた。

自分たちやすべての未来の指導者が従うべき憲法をつくった。

国を築くことに力を注いだ。

名国王のモデルを否定した。

建築家のようなやり方をとった。

そう、時計をつくったのだ。

しかし、注意すべきことがある。

アメリカの時計は、ニュートンやダーウィンの時計とは違って、冷たく機械的なものではない。

人間の理想と価値観に基づいた時計である。

人間の願いと大志でつくられた時計である。

心を持った時計である。

そして、これはわたしたちの調査結果の第二の柱へとつながっていく。

その柱とは、どんなものでもいいから時計をつくるのではなく、ある種の時計をつくることだ。

時を刻む時計の形、大きさ、仕組み、スタイル、年齢などは、ビジョナリー・カンパニーのなかにも違いがあるが、重要な特徴は基本的に同じであることがわかった。

こうした特徴について、次の章から述べていく。

いまここで、確認しておきたい重要なポイントは、時を告げる志向から時計をつくる志向へと発想を転換すれば、ビジョナリー・カンパニーを築くために必要な点の大部分は学ぶことができるものである点だ。

すばらしいアイデアがひらめくという大きな幸運がめぐってくるまで、じっと待たなくてもよい。

カリスマ的指導者が登場しなければ、ビジョナリー・カンパニーにはなれないという、誤った考えに苦しむこともない。

神秘性も、つかみどころのない魔法も、必要ない。

基本的な点を学べば、自分たちの会社をビジョナリー・カンパニーにする困難な作業に、だれでも、いますぐ、とりかかることができる。

挿話「ORの抑圧」をはねのけ、「ANDの才能」を活かす

以下では、中国の陰陽思想からとった陰と陽の紋様を随所に使っていく。

この紋様は意識的に選んだもので、ビジョナリー・カンパニーの重要な側面を象徴している。

ビジョナリー・カンパニーは「ORの抑圧」に屈することはない。

「ORの抑圧」とは、逆説的な考えは簡単に受け入れず、一見矛盾する力や考え方は同時に追求できないとする理性的な見方である。

「ORの抑圧」に屈していると、ものごとはAかBのどちらかでなければならず、AとBの両方というわけにはいかないと考える。

たとえば、こう考える。

・「変化か、安定かのどちらかだ」・「慎重か、大胆かのどちらかだ」・「低コストか、高品質かのどちらかだ」・「創造的な自主性か、徹底した管理かのどちらかだ」・「未来に投資するか、目先の利益を追求するかのどちらかだ」・「綿密な計画によって進歩するか、臨機応変に模索しながら進歩するかのどちらかだ」・「株主の富を生み出すか、社会の役に立つかのどちらかだ」・「価値観を大切にする理想主義か、利益を追求する現実主義かのどちらかだ」ビジョナリー・カンパニーは、この「ORの抑圧」に屈することなく、「ANDの才能」によって、自由にものごとを考える。

「ANDの才能」とは、さまざまな側面の両極にあるものを同時に追求する能力である。

AかBのどちらかを選ぶのではなく、AとBの両方を手に入れる方法を見つけ出すのだ。

このあと八章にわたり調査結果をくわしく述べていくなかで、ビジョナリー・カンパニーの多くが、こうした一見矛盾する逆説的な考え方を持っていることを説明していく。

以下に例をあげてみよう。

利益を超えた目的と現実的な利益の追求揺るぎない基本理念と力強い変化と前進基本理念を核とする保守主義とリスクの大きい試みへの大胆な挑戦明確なビジョンと方向性と臨機応変の模索と実験社運を賭けた大胆な目標と進化による進歩基本理念に忠実な経営者の選択と変化を起こす経営者の選択理念の管理と自主性の発揮カルトに近いきわめて同質的な文化と変化し、前進し、適応する能力長期的な視野に立った投資と短期的な成果の要求哲学的で、先見的で、未来志向と日常業務での基本の徹底基本理念に忠実な組織と環境に適応する組織両者のバランスをとるといった月並みな話をしようというのではない。

「バランス」とは、中間点をとり、五十対五十にし、半々にすることだ。

ビジョナリー・カンパニーは、たとえば、短期と長期のバランスをとろうとはしない。

短期的に大きな成果をあげ、かつ、長期的にも大きな成果をあげようとする。

ビジョナリー・カンパニーは、理想主義と収益性のバランスをとろうとしているわけではない。

高い理想を掲げ、かつ、高い収益性を追求する。

ビジョナリー・カンパニーは、揺るぎない基本理念を守る方針と、力強い変化と前進を促す方針のバランスをとろうとしているわけではない。

その両方を徹底させる。

つまり、ビジョナリー・カンパニーは陰と陽をないまぜにし、はっきりとした陰でも、はっきりとした陽でもない灰色の輪をつくろうとしているわけではない。

陰をはっきりさせ、かつ、陽をはっきりさせようとする。

陰と陽を同時に、どんなときも共存させる。

不合理ではないか。

おそらくそうだろう。

まれではないか。

そうだ。

難しくはないか。

まったくそのとおりである。

しかし、F・スコット・フィッツジェラルドによれば、「一流の知性と言えるかどうかは、二つの相反する考え方を同時に受け入れながら、それぞれの機能を発揮させる能力があるかどうかで判断される」。

これこそまさしく、ビジョナリー・カンパニーが持っている能力である。

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