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第2夜 すべての悩みは対人関係

青年は律儀に約束を守り、きっかり一週間後に哲学者の書斎を訪れた。

ほんとうは二日後、三日後にでも押しかけたい気分だった。

熟考のうちに、青年の疑念は確信に変わっていた。

すなわち、目的論など詭弁であり、トラウマは確実に存在する。

人は過去を忘れることなどできないし、過去から解放されることもできない。

今日こそはあの風変わりな哲学者を完膚なきまでに論破し、すべてに決着をつけてやる。

なぜ自分のことが嫌いなのか青年先生、あれから頭を冷やしていろいろ考えたのですがね、やっぱりわたしは先生のご持論に同意することはできませんよ。

哲人ほう、どこに疑問を感じるのですか?青年たとえば先日、わたしは自分のことが嫌いだと認めました。

どうやっても短所しか見当たらず、好きになる理由が思いつかない。

でも、当然ながらわたしだって自分のことを好きになりたいのです。

先生はなんでも「目的」で説明しようとされますが、いったいなんの目的があって、つまりなんの利益があって、わたしは自分を嫌っているのです?自分を嫌ったところで、得るものなどひとつもないでしょう。

哲人なるほど。

あなたは、自分には長所などないと感じている。

短所しかないと感じている。

事実がどうであれ、そう感じている。

要するに自己評価が著しく低いわけです。

問題は、なぜそれほど卑屈に感じるのか、どうしてご自分のことを低く見積もっているのか、です。

青年事実としてわたしに長所がないからですよ。

哲人違います。

短所ばかりが目についてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているからです。

自分を好きにならないという目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目している。

まずはその点を理解してください。

青年自分を好きにならないでおこうと決心している?哲人ええ。

自分を好きにならないことが、あなたにとっての「善」なのです。

青年いったいなぜ?なんのために?哲人ここはご自身でお考えになられたほうがいいかもしれません。

あなたはご自分にどんな短所があるとお考えですか?青年もう先生もお気づきでしょう。

まず挙げられるのは、この性格ですよ。

自分に自信が持てず、すべてに対して悲観的になっている。

それに自意識過剰なのでしょう、他者の視線が気になって、いつも他者を疑いながら生きている。

自然に振る舞うことができず、どこか芝居じみた言動になってしまう。

そして性格だけならまだしも、自分の顔も、背格好も、どれひとつとして好きになれません。

哲人そうやって短所をあげつらっていくと、どんな気分になります?青年まったく底意地の悪い御方ですね!それは不愉快になりますよ。

まあ、こんなひねくれた男となんて、誰も付き合いたくないでしょう。

わたしだって、身近にこんなに卑屈で面倒くさい男がいたら御免こうむります。

哲人なるほど、もう結論が見えてきましたね。

青年どういうことです?哲人ご自身の話でわかりにくければ、別の方の例を出しましょう。

わたしはこの書斎で、簡単なカウンセリングもおこなっています。

そしてもう何年も前の話になりますが、ひとりの女学生がやってきました。

ええ、ちょうどあなたが座っている、その椅子です。

さて、彼女の悩みは赤面症でした。

人前に出ると赤面してしまう、どうしてもこの赤面症を治したい、といいます。

そこでわたしは聞きました。

「もしもその赤面症が治ったら、あなたはなにがしたいですか?」。

すると彼女は、お付き合いしたい男性がいる、と教えてくれました。

密かに思いを寄せつつも、まだ気持ちを打ち明けられない男性がいる。

赤面症が治った暁には、その彼に告白してお付き合いをしたいのだ、と。

青年ひゅう!いいですね、なんとも女学生らしい相談じゃありませんか。

意中の彼に告白するには、まず赤面症を治さなきゃいけない。

哲人はたして、ほんとうにそうでしょうか?わたしの見立ては違います。

どうして彼女は赤面症になったのか。

どうして赤面症は治らないのか。

それは、彼女自身が「赤面という症状を必要としている」からです。

青年いやいや、なにをおっしゃいますか。

治してくれといっているのでしょう?哲人彼女にとって、いちばん怖ろしいこと、いちばん避けたいことはなんだと思いますか?もちろん、その彼に振られてしまうことです。

失恋によって、「わたし」の存在や可能性をすべて否定されることです。

思春期の失恋には、そうした側面が強くありますからね。

ところが、赤面症をもっているかぎり、彼女は「わたしが彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができます。

告白の勇気を振り絞らずに済むし、たとえ振られようと自分を納得させることができる。

そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって……」と、可能性のなかに生きることができるのです。

青年じゃあ、告白できずにいる自分への言い訳として、あるいは彼から振られたときの保険として、赤面症をこしらえてると?哲人端的にいうのなら、そうです。

青年おもしろい。

たしかにおもしろい解釈です。

しかしですね、仮にそうだとしたら、手の施しようがないじゃありませんか。

だって、彼女は赤面症を必要とし、しかも同時に赤面症に苦しめられているわけでしょう?悩みは永遠に尽きません。

そこでわたしは、彼女とこんな話をしました。

「赤面症くらい、簡単に治りますよ」「ほんとうですか?」「でも、わたしは治しません」「なぜ?」「だって、あなたは赤面症があるおかげで、自分や世の中への不満、うまくいかない人生を納得させることができている。

これは赤面症があるせいだ、とね」「そんな……」「でも、もしわたしが赤面症を治してさしあげたとして、それでも事態がなにひとつ変わらなかったら、あなたはどうしますか?きっと再びここを訪れて『赤面症に戻してください』といってくるでしょう。

それはわたしの手には負えない相談なのです」と。

青年ううむ。

哲人彼女にかぎった話ではありません。

受験生が「合格すれば人生バラ色になる」と考える。

会社員が「転職すればすべてうまくいく」と考える。

しかし、それらの願いがかなったにもかかわらず、事態がなにひとつ変わらないことは大いにありえます。

青年たしかに。

哲人赤面症を治してほしいという相談者が現れたとき、カウンセラーはその症状を治してはいけません。

そんなことをすれば、立ち直りはもっとむずかしくなるでしょう。

アドラー心理学的な発想とは、そういうことです。

青年じゃあ、具体的にどうするのです?悩みを聞いて、あとは放置するとでも?哲人彼女は自分に自信を持てていなかった。

このまま告白してもきっと振られるに違いない、そうなったら自分はますます自信を失い、傷ついてしまう、という恐怖心があった。

だから赤面症という症状をつくりだしたわけです。

わたしにできることとしては、まずは「いまの自分」を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気を持ってもらうことです。

アドラー心理学では、こうしたアプローチのことを「勇気づけ」と呼んでいます。

青年勇気づけ?哲人はい。

その中身については、もう少し議論が進んでから体系的にご説明しましょう。

いまはまだその段階ではありません。

青年ちゃんと説明していただけるのであれば、それでもいいでしょう。

「勇気づけ」という言葉、覚えておきます。

……それで結局、彼女はどうなりました?哲人友達を交えてその男性と遊びに行く機会があり、最終的には彼のほうから付き合ってほしいと告白されたそうです。

もちろん、彼女が再びこの書斎にやってくることはありませんでした。

赤面症がその後どうなったのか、わたしは知りません。

ですが、おそらくもう必要としなくなったでしょう。

青年あくまでも、必要としなくなった、なのですね。

哲人ええ。

さて、彼女の話を踏まえつつ、あなたの問題を考えましょう。

あなたは現在、自分の短所ばかりが目について、なかなか自分を好きになれないとおっしゃる。

そしていいましたね?「こんなひねくれた男となんて、誰も付き合いたくないだろう」と。

もうおわかりでしょう。

なぜあなたは自分が嫌いなのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないでおこうとしているのか?それはあなたが他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れているからなのです。

青年どういうことです?哲人赤面症の彼女が男性から振られることを怖れていたように、あなたは他者から否定されることを怖れている。

誰かから小馬鹿にされ、拒絶され、心に深い傷を負うことを怖れている。

そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。

つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。

青年……。

哲人では、どうやってその目的をかなえるのか?答えは簡単です。

自分の短所を見つけ、自分のことを嫌いになり、対人関係に踏み出さない人間になってしまえばいい。

そうやって自分の殻に閉じこもれば、誰とも関わらずにすむし、仮に他者から拒絶されたときの理由づけにもなるでしょう。

わたしにはこういう短所があるから拒絶されるのだ、これさえなければわたしも愛されるのだ、と。

青年……ははっ、見事に喝破されましたね!哲人はぐらかしてはいけません。

短所だらけの「こんな自分」でいることは、あなたにとってかけがえのない「善」、すなわち「ためになること」なのです。

青年ええい、このサディストめ!!あなたは悪魔のような御方だ!そうです、たしかにそうですよ!わたしは怖い。

対人関係のなかで傷つきたくない。

自分という存在を拒絶されるのが、怖ろしくてならないんです!認めようじゃありませんか、まったくそのとおりですよ!哲人認めることは立派な態度です。

でも、忘れないでください。

対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえません。

対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。

アドラーはいいます。

「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」のだと。

しかし、そんなことはできないのです。

すべての悩みは「対人関係の悩み」である青年ちょっと待ってください!それは聞き捨てならない言葉ですよ?「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」とは、どういう意味ですか。

ただひとりで生きていたら、猛烈な孤独に襲われるでしょう?哲人孤独を感じるのは、あなたがひとりだからではありません。

あなたを取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。

われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。

すなわち人は、社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのです。

青年ほんとうにひとりなら、つまり宇宙のなかにただひとりで存在していれば「個人」でもないし、孤独も感じない?哲人おそらくは、孤独という概念すら出てこないでしょう。

言葉も必要ありませんし、論理も、コモンセンス(共通感覚)も必要なくなります。

ですが、そんなことはありえません。

たとえ無人島に暮らしていたとしても、遠い海の向こうにいる「誰か」を考える。

ひとりきりの夜であっても、誰かの寝息に耳を澄ます。

どこかに誰かがいるかぎり、孤独は襲ってくるはずです。

青年しかしですよ、先ほどの言葉は、言い換えるなら「宇宙のなかにただひとりで生きることができれば、悩みはなくなる」となるわけですよね?哲人理屈の上ではそうなります。

なにしろアドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しているのですから。

青年いま、なんとおっしゃいました!?哲人何度でもくり返しましょう。

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」。

これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。

もし、この世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうでしょう。

青年嘘だ!そんなものは学者の詭弁にすぎません!哲人もちろん、対人関係を消してしまうことなどできません。

人間はその本質において、他者の存在を前提としている。

他者から切り離されて生きることなど、原理的にありえない。

「宇宙のなかにただひとりで生きることができれば」という前提が成立しえないのはおっしゃるとおりです。

青年わたしがいっているのはそんな問題じゃありません!たしかに、対人関係は大きな問題でしょう。

そこは認めます。

しかし、すべてが対人関係の悩みだというのは、いくらなんでも極論です!あなたは対人関係から切り離された悩み、個人が個人としてもがき苦しむような悩み、自己に向けられた悩みをすべて否定されるのですか!?哲人個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。

どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。

青年先生、それでもあなたは哲学者ですか!人間には、対人関係なんかよりもっと高尚で、もっと大きな悩みが存在します!幸福とはなにか、自由とはなにか、そして人生の意味とはなにか。

これらはまさに古代ギリシア以来、哲学者たちが問い続けてきたテーマではありませんか!それがなんですって?対人関係がすべてだと?なんと俗っぽい答えでしょう、哲学者が聞いて呆れますよ!哲人なるほど、もう少し具体的に説明する必要がありそうですね。

青年ええ、説明してください!もしも先生がご自分を哲学者だとおっしゃるのであれば、ここはしっかり説明していただかなければ困ります!哲人は語る。

あなたは対人関係を怖れるあまり、自分のことを嫌いになっていたのだ。

自分を嫌うことで対人関係を避けていたのだ。

その指摘は、青年を大いに動揺させた。

認めざるをえない、心臓を射抜くような言葉だった。

しかし、人間が抱える悩みはすべて対人関係の悩みなのだ、という主張については、明確に否定しておかねばならなかった。

アドラーは人間の抱える問題を矮小化している。

わたしはそんな世俗的悩みに苦しめられているのではない!劣等感は、主観的な思い込み哲人では対人関係について、ちょっと角度を変えたところから話をしましょう。

あなたは劣等感という言葉をご存じですか?青年愚問ですね。

いままでの話からもおわかりでしょう、わたしは劣等感の塊のような男ですよ。

哲人具体的に、どのような劣等感を?青年たとえば新聞などを通じて同年代の人間が活躍している姿を見ると、どうしようもない劣等感を抱きますね。

同じ時間を生きてきた人間があれほど活躍しているのに、いったい自分はなにをやっているんだと。

あるいは、友人が幸せそうにしている姿を見たときも、祝福する気持ちよりも先に妬みや焦燥感が出てきます。

もちろん、このニキビだらけ

の顔も好きじゃありませんし、学歴や職業、それから年収など、社会的な立場についても強い劣等感を持っている。

まあ、どこもかしこも劣等感だらけです。

哲人わかりました。

ちなみに、劣等感という言葉を現在語られているような文脈で使ったのは、アドラーが最初だとされています。

青年ほう、それは知りませんでした。

哲人アドラーの使ったドイツ語では、劣等感のことを「Minderwertigkeitsgefühl」といいます。

これは「価値(Wert)」が「より少ない(minder)」「感覚(Gefühl)」という意味です。

つまり劣等感とは、自らへの価値判断に関わる言葉なのです。

青年価値判断?哲人自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだ、といった感覚ですね。

青年ああ、その感覚ならよくわかりますよ。

わたしなど、まさにそれです。

自分なんて生きている価値すらないんじゃないかと、毎日のように自分を責めてしまいます。

哲人では、わたし自身の劣等感についてお話ししましょう。

あなたは最初にわたしと会ったとき、どのような印象を持ちましたか?身体的な特徴という意味で。

青年ええっと、まあ……。

哲人遠慮することはありません、率直に。

青年そうですね、想像していたよりも小柄な方だと思いました。

哲人ありがとう。

わたしの身長は155センチメートルです。

アドラーもまた、これくらいの身長だったといいます。

かつてわたしは——まさにあなたくらいの年齢まで——自分の身長について思い悩んでいました。

もし人並みの身長があれば、あと20センチ、いやせめて10センチでも身長が高ければ、なにか変わるんじゃないか。

もっと楽しい人生が待っているのではないか。

そう思ってあるとき友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴したのです。

青年……それはひどい!なんて男でしょう!哲人続けて、彼はこういいました。

「大きくなってどうする?お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。

たしかに、大柄で屈強な男性は、それだけで相手を威圧してしまうところがあるのかもしれません。

一方、小柄なわたしであれば、相手も警戒心を解いてくれる。

なるほど、小柄であることは自分にとっても周囲の人にとっても、好ましいことなのだと思わされました。

つまり価値の転換です。

いまはもう、自分の身長を思い悩んでなどいません。

青年ううむ。

しかしそれは……。

哲人最後まで聞いてください。

ここで大切なのは、155センチメートルというわたしの身長が「劣等性」ではなかった、ということです。

青年劣等性ではなかった?哲人事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。

たしかに155センチメートルという身長は平均よりも低く、なおかつ客観的に測定された数字です。

一見すると、劣等性に思えるでしょう。

しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。

青年どういう意味です?哲人わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較——つまりは対人関係——のなかで生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。

もしも比べるべき他者が存在しなければ、わたしは自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずですから。

あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているのでしょう。

しかし、それは客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。

身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。

青年つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?哲人そのとおりです。

わたしは友人の「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉に、ひとつの気づきを得ました。

自分の身長も「人をくつろがせる」とか「他者を威圧しない」という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。

もちろん、これは主観的な解釈です。

もっといえば勝手な思い込みです。

ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。

それは、自分の手で選択可能だということです。

自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。

いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。

青年ライフスタイルを選びなおす、というあの議論ですね?哲人そうです。

われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。

しかし主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。

そしてわたしたちは主観的な世界の住人である。

これはいちばん最初にお話ししましたね?青年ええ、18度の井戸水です。

哲人ここで劣等感のドイツ語、「Minderwertigkeitsgefühl」を思いだしてください。

わたしは先ほど、劣等感とは自らへの価値判断に関わる言葉なのだ、という話をしました。

それではいったい、価値とはなんなのでしょうか?たとえば高値で取引されるダイヤモンド。

あるいは貨幣。

われわれはここになんらかの価値を見出し、1カラットでいくらだとか、物価がどうしたとかいっています。

しかしダイヤモンドなど、見方を変えればただの石ころに過ぎません。

青年まあ、理屈の上では。

哲人つまり価値とは、社会的な文脈の上で成立しているものなのです。

1ドル紙幣に与えられた価値は、ひとつのコモンセンス(共通感覚)ではあっても、客観としての価値ではない。

印刷物としての原価を考えるなら、とても1ドル分の価値はない。

もし、この世界にわたし以外の誰も存在しなければ、わたしは1ドル紙幣を冬の暖炉にくべてしまうでしょう。

鼻紙に使うかもしれません。

それとまったく同じ理屈で、自分の身長について思い悩むこともなかったはずです。

青年……この世界にわたし以外の誰も存在しなければ?哲人ええ。

つまり、価値の問題も最終的には対人関係に還元されていくのです。

青年すべての悩みは対人関係の悩みである、というあの言葉にもつながるわけですね?哲人そのとおりです。

言い訳としての劣等コンプレックス青年しかし、劣等感はほんとうに対人関係の問題だと言い切れますか?たとえば社会的に成功者と見なされるような人、つまり対人関係で卑屈になる必要のない人でも、なにかしらの劣等感を持っていますよね?巨万の富を築いた実業家も、誰もが羨む絶世の美女も、あるいはオリンピックの金メダリストも、みんな劣等感に悩まされている。

少なくともわたしの目には、そう映る。

これはどう考えればいいのでしょう?哲人アドラーも、劣等感は誰にでもあるものだと認めています。

劣等感それ自体は、なにも悪いものではありません。

青年そもそも、どうして人は劣等感を抱くのですか?哲人ここは順番に理解する必要があるでしょう。

まず、人は無力な存在としてこの世に生を受けます。

そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。

アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

青年優越性の追求?哲人ここでは簡単に「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」と考えていただければいいでしょう。

たとえば、よちよち歩きの子どもが二本足で立つようになる。

言葉を覚え、周囲の人々と自由に意思の疎通ができるようになる。

われわれは皆、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという普遍的な欲求を持っています。

人類史全体における、科学の進歩にしても「優越性の追求」でしょう。

青年なるほど。

それで?哲人これと対をなすのが、劣等感です。

人は誰しも、優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。

なんらかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。

しかし理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。

たとえば料理人の方々は、その志が高ければ高いほど「まだまだ未熟だ」「もっと料理を極めなければならない」といった、ある種の劣等感を抱くでしょう。

青年ふむ、たしかに。

哲人アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。

劣等感も、使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです。

青年劣等感をバネにするわけですね?哲人そうです。

自らの劣等感を取り除くべく、より前進しようとする。

現状に満足することなく、一歩でも先に進もうとする。

もっと幸せになろうとする。

こうした劣等感のあり方には、なんの問題もありません。

ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、「状況は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。

なにもしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」と、あきらめてしまう人たちです。

青年いや、そうですよ。

劣等感が強ければ、誰だってネガティブになって「どうせ自分なんて」と思うに違いありません。

だって、それが劣等感というものでしょう。

哲人いえ、それは劣等感ではなく、劣等コンプレックスなのです。

青年コンプレックス?つまり、劣等感のことですよね?哲人注意してください。

現在、わが国では「コンプレックス」という言葉が、劣等感と同義であるかのように使われています。

ちょうど「わたしは一重まぶたがコンプレックスです」とか「彼は学歴にコンプレックスを持っている」というように。

これは完全な誤用です。

本来コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等

感とは関係ありません。

たとえば、フロイトの唱える「エディプス・コンプレックス」にしても、同性の親に対する倒錯した対抗心という文脈で語られています。

青年ああ、たしかにマザー・コンプレックスやファーザー・コンプレックスというときのコンプレックスも、倒錯のニュアンスが強いですね。

哲人同様に、「劣等感」と「劣等コンプレックス」も、混同しないようにしっかり分けて考えなければなりません。

青年具体的にどう違うのでしょうか。

哲人劣等感それ自体は、別に悪いものではない。

ここはご理解いただけましたね?アドラーもいうように、劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものです。

たとえば、学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから「わたしは学歴が低い。

だからこそ、他人の何倍も努力しよう」と決心するのだとしたら、むしろ望ましい話です。

一方の劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指します。

具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。

あるいは「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考える。

このように日常生活のなかで「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。

劣等コンプレックスです。

青年いやいや、それは真っ当な因果関係ですよ!学歴が低ければ、就職や出世の機会も奪われる。

社会的に低く見られ、成功できなくなる。

言い訳でもなんでもなく、厳然たる事実ではありませんか。

哲人違います。

青年なぜ?どこが違うのです?哲人あなたのいうような因果関係について、アドラーは「見かけの因果律」という言葉で説明しています。

本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう、と。

たとえば先日も、「自分がなかなか結婚できないのは、子ども時代に両親が離婚したせいです」とおっしゃる方がいました。

フロイト的な原因論から考えるなら、両親の離婚は大きなトラウマであり、自分の結婚観とたしかな因果関係を結んでいるのでしょう。

しかしアドラーは、目的論の立場からこうした議論を「見かけの因果律」だと退けるわけです。

青年それでも現実問題として、高い学歴を持っていたほうが社会的な成功を手に入れやすいのですよ!先生だってそれくらいの世間智はお持ちでしょうに。

哲人問題は、そうした現実にどう立ち向かうかなのです。

もし「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考えているとすれば、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えなければなりません。

青年成功したくない?どういう理屈です?哲人単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。

また、現実的な努力をしたくない。

いま享受している楽しみ——たとえば遊びや趣味の時間——を犠牲にしてまで、変わりたくない。

つまり、ライフスタイルを変える〝勇気〟を持ち合わせていない。

多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。

自慢する人は、劣等感を感じている青年それはそうかもしれませんが……。

哲人さらに、学歴に劣等コンプレックスを抱いて、「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。

逆にいうとこれは、「学歴さえ高ければ、わたしは大きく成功できるのだ」という理屈にもなります。

青年ううむ、たしかに。

哲人これは劣等コンプレックスの持つ、もうひとつの側面です。

自らの劣等コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」といっている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。

青年これさえなければ、自分もできるのだと。

哲人ええ。

劣等感についてアドラーは「劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいない」と指摘しています。

劣等感は誰もが持っているものだけれども、いつまでもその状態を我慢することはできない、それほど重たいものだと。

青年んん?ちょっと混乱してきましたよ!?哲人ひとつずつ理解していきましょう。

劣等感がある状態、それは現状の「わたし」になにかしらの欠如を感じている状態です。

そうなると問題は……。

青年欠けた部分をどう穴埋めするか、ですね。

哲人そのとおりです。

欠如した部分を、どのようにして補償していくか。

もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補償しようとすることです。

たとえば勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりする。

しかし、その勇気を持ちえていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまいます。

先の例でいうなら「学歴が低いから、成功できない」と考える。

さらには「もしも学歴さえ高ければ、自分は容易に成功できるのだ」と、自らの有能さを暗示する。

いまはたまたま学歴という蓋に覆い隠されているけれど、「ほんとうのわたし」は優れているのだと。

青年いやいや、そのふたつ目の話は、もはや劣等感ではありませんよ。

むしろ空威張りしているわけじゃありませんか。

哲人まさに。

劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがあります。

青年なんですかそれは?哲人あまり聞き覚えのない言葉かもしれません。

「優越コンプレックス」です。

青年優越コンプレックス?哲人強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。

かといって、「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。

「できない自分」を受け入れられない。

そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しよう、と考えます。

青年どうやって?哲人あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。

青年偽りの優越感?哲人身近な例として挙げられるのが、「権威づけ」です。

青年なんですかそれは?哲人たとえば自分が権力者——これは学級のリーダーから著名人まで、さまざまです——と懇意であることを、ことさらアピールする。

それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。

あるいは、経歴詐称や服飾品における過度なブランド信仰なども、ひとつの権威づけであり、優越コンプレックスの側面があるでしょう。

いずれの場合も「わたし」が優れていたり、特別であったりするわけではありません。

「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。

つまりは、偽りの優越感です。

青年その根底には、強烈な劣等感があるのですね?哲人もちろん。

わたしはファッションに詳しいわけではありませんが、10本の指すべてにルビーやエメラルドの指輪をつけているような人は、美的センスの問題というより、劣等感の問題、つまり優越コンプレックスの表れだと考えたほうがいいでしょう。

青年たしかに。

哲人ただし、権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。

ここは強く指摘しておかねばならないところです。

青年ふうむ、優越コンプレックスか。

それは興味深い心理です。

もっと違った事例は挙げられますか?哲人たとえば、自分の手柄を自慢したがる人。

過去の栄光にすがり、自分がいちばん輝いていた時代の思い出話ばかりする人。

あなたの身近にもいるかもしれませんね。

これらもすべて、優越コンプレックスだといえます。

青年手柄を自慢することが?そりゃあ、尊大な態度ではありますが、実際に優れているから自慢しているのでしょう。

偽りの優越感とは呼べませんよ。

哲人違います。

わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。

アドラーは、はっきりと指摘しています。

「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。

青年自慢は劣等感の裏返しだと?哲人そう。

もしほんとうに自信を持っていたら、自慢などしません。

劣等感が強いからこそ、自慢する。

自らが優れていることを、ことさら誇示しようとする。

そうでもしないと、周囲の誰ひとりとして「こんな自分」を認めてくれないと怖れている。

これは完全な優越コンプレックスです。

青年……ということは、劣等コンプレックスと優越コンプレックスは、言葉の響きこそ正反対ですが、実際には地続きなのですね?哲人明らかにつながっています。

そして最後にもうひとつ、自慢に関する複雑な事例も挙げておきましょう。

劣等感そのものを先鋭化させることによって、特異な優越感に至るパターンです。

具体的には、不幸自慢ですね。

青年不幸自慢?哲人生い立ちなど、自らに降りかかった不幸を、まるで自慢するかのように語る人。

そして他者が慰めようとしたり、変化を促そうとしても、「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と救いの手を払いのけるような人です。

まあ、そういう人はいますが……。

哲人こうした人たちは、不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。

たとえば、わたしの身長が低いということ。

これについて、心優しい他者が「気にすることはない」「人間の価値はそんなところで決まらない」と声をかけてくれたとしましょう。

しかし、ここでわたしが「お前に背が低い人間の悩みがわかるものか!」と拒絶してしまえば、もはや誰もなにもいえなくなります。

きっと周囲の人々は、まるで腫れ物に触るようにして、わたしのことを大事に——いや慎重に——取り扱うようになるでしょう。

青年たしかに。

哲人そうすることによって、わたしは他者より優位に、そして「特別」になれるわけです。

病気になったとき、怪我をしたとき、失恋で心に傷を負ったときなど、少なからぬ人がこのような態度によって「特別な存在」であろうとします。

青年自らの劣等感をさらけ出し、あたかも武器のように使うわけですね?哲人ええ。

自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。

自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、周囲の人々——たとえば家族や友人——を心配させ、その言動を束縛し、支配しようとしている。

いちばん最初にお話しした引きこもりの方々は、しばしば不幸を武器にした優越感に浸ります。

アドラーは「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権力がある」と指摘しているほどです。

青年弱さが権力ですって?哲人アドラーはいいます。

「わたしたちの文化のなかで、誰がいちばん強いか自問すれば、赤ん坊であるというのが論理的な答えだろう。

赤ん坊は支配するが、支配されることはない」と。

赤ん坊は、その弱さによって大人たちを支配している。

そして、弱さゆえに誰からも支配されないのです。

青年……その視点はありませんでした。

哲人もちろん、傷を負った人の語る「あなたにはわたしの気持ちがわからない」という言葉には、一定の事実が含まれるでしょう。

苦しんでいる当事者の気持ちを完全に理解することなど、誰にもできません。

しかし、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

劣等感からはじまった一連の議論。

劣等コンプレックスに優越コンプレックス。

たしかに心理学的なキーワードではあるものの、その内実は青年が思い描いていたものと大きく異なっていた。

自分はまだ、どこかに引っかかりを感じている。

いったいどこが納得できずにいるのだろう。

そう、わたしは導入の部分、前提のところに疑念を抱いているのだ。

青年は静かに口を開いた。

人生は他者との競争ではない青年しかし、どうもよくわかりませんね。

哲人なんでもお尋ねください。

青年だってアドラーは、より優れた存在であろうとする「優越性の追求」については、普遍的な欲求だとして認めているのでしょう?一方で、過剰な劣等感や優越感に関しては警鐘を鳴らしている。

いっそのこと「優越性の追求」そのものを否定してくれればわかりやすいのに、そこは認める。

われわれはどうすればいいのです?哲人こう考えてください。

「優越性の追求」というと、他者より優れていようとする欲求、他者を蹴落としてまで上に昇ろうとする欲求のように思われがちです。

人々を押しのけながら階段をのぼっていくようなイメージですね。

もちろんアドラーはそんな態度を肯定しているのではありません。

そうではなく、同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。

そんな姿をイメージしてください。

進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うけれども、みんな等しく平らな場所を歩んでいる。

「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上をめざさんとする競争の意思ではありません。

青年人生は競争ではない、と?哲人ええ。

誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

もちろん、他者と自分を比較する必要もありません。

青年いや、それは無理でしょう。

われわれはどうしたって他者と自分を引き比べてしまう。

劣等感とは、まさにそこから生まれるのではありませんか。

哲人健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

青年しかし……。

哲人いいですか、われわれは誰もが違っています。

性別、年齢、知識、経験、外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。

他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。

しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。

青年同じではないけれど対等?哲人そう。

人は誰しも違っている。

その「違い」を、善悪や優劣と絡めてはいけないのです。

どんな違いがあろうとも、われわれは対等なのですから。

青年人に上下の区別はない。

まあ、理想論としてはそうでしょう。

しかし先生、ここは正直に、現実の話をしようじゃありませんか。

たとえば大人であるわたしと、四則演算すら満足にできないような子どもと、ほんとうに対等だといえますか?哲人知識や経験の量、それからとれる責任の量については、違いがあるでしょう。

靴の紐がうまく結べなかったり、複雑な方程式が解けなかったり、あるいは問題を起こしたときに大人ほどの責任がとれないかもしれない。

しかし、そんなもので人間の価値が決まるはずもありません。

わたしの答えは同じです。

すべての人間は「同じではないけれど対等」です。

青年じゃあ先生は、子どもを一人前の大人として扱えとおっしゃるのですか?哲人いえ、大人扱いするのではなく、子ども扱いするのでもなく、いわば「人間扱い」するのです。

自分と同じひとりの人間として、真摯に向かい合うのです。

青年では質問を変えましょう。

すべての人は対等である。

同じ地平を歩いている。

とはいえ、そこには「差」がありますよね?前を進む者はより優れていて、後ろから追いかける者は劣っている。

結局は優劣の問題に行き着くではありませんか。

哲人違います。

前を歩いていようと、後ろを歩いていようと関係ないのです。

いわば、縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。

われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。

いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。

青年先生はあらゆる競争から自由になっているのですか?哲人もちろんです。

地位や名誉を求めようとは思いませんし、在野の哲学者として、世俗の競争とは無縁の人生を送っています。

青年それは競争から降りた、つまり負けを認めたということですか?哲人違います。

勝ちや負けを競い争う場所から身を引いたのです。

自分が自分であろうとするとき、競争は必ず邪魔をしてきます。

青年いいや、それは人生に疲れ果てた年寄りの論法ですよ!わたしみたいに若い人間はね、競争という緊張感のなかで自己を高めていかなきゃいけないんです。

併走するライバルがいるからこそ、自己ベストを更新できる。

対人関係を競争で考えて、なにが悪いのです?哲人もしもそのライバルが、あなたにとって「仲間」と呼べる存在であるなら、自己研鑽につながることもあるかもしれません。

しかし多くの場合、競争相手は仲間にはならないでしょう。

青年どういうことです?「お前の顔を気にしているのはお前だけ」哲人議論を整理しましょう。

最初にあなたは、アドラーの唱える「すべての悩みは対人関係の悩みである」という定義に不満を表明しましたね?劣等感をめぐる議論は、そのためになされたものでした。

青年そうです、そうです。

劣等感の話が強烈すぎて、危うく忘れるところでしたよ。

そもそもどうして、劣等感の話を持ち出されたのです?哲人これは競争ともつながる話です。

覚えておいてください。

対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。

青年なぜ?哲人競争の先には、勝者と敗者がいるからです。

青年勝者と敗者、大いにけっこうじゃありませんか!哲人具体的に、ご自分のこととして考えてみてください。

たとえばあなたが、周囲の人々に対して「競争」の意識を持っていたとします。

ところが競争には、勝者と敗者がいる。

彼らとの関係について、勝ち負けを意識せざるをえなくなる。

A君はこの名門大学に入った、B君はあの大企業に就職した、C君はあんなにきれいな女性と付き合っている、それに比べて自分はこんな具合だ、というように。

青年ふふっ、やけに具体的ですね。

哲人競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。

常に自分と他者とを引き比べ、あの人には勝った、この人には負けた、と考えているのですから。

劣等コンプレックスや優越コンプレックスは、その延長線上にあります。

さて、このときあなたにとっての他者とは、どんな存在になると思いますか?

さあ、ライバルですか?哲人いえ、単なるライバルではありません。

いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。

青年敵?哲人すなわち、人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、陥れようとしてくる油断ならない敵なのだ、世界は怖ろしい場所なのだ、と。

青年油断ならない敵との……競争だと?哲人競争の怖ろしさはここです。

たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の安まる暇がない。

敗者になりたくない。

そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。

他者を信じることができない。

社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。

彼らにとっての世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

青年それはそうかもしれませんが……。

哲人しかし実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?あなたを24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、その機会を虎視眈々と窺っているものでしょうか?おそらく違うでしょう。

わたしの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。

すると彼は、祖母からこういわれました。

「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。

それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます。

青年ふっふふっ、嫌らしい御方だ。

いまのは、わたしへのあてこすりですね?たしかにわたしは周囲の人々を敵だと見なしているのかもしれません。

いつどこから攻撃の矢が飛んでくるか、怖ろしくてたまらない。

いつも他者から監視され、厳しい評価にさらされ、攻撃されるのだと思っている。

そして鏡に夢中な少年のように、これが自意識過剰な反応であることも、実際そうなのでしょう。

世間の人たちは、わたしのことなんて注目していない。

たとえわたしが通りを逆立ちで歩いたとしても、気にもとめない!しかし、どうでしょうね先生。

わたしの劣等感は、やはりわたしが「選んだ」もので、なにかしらの「目的」があるのだとおっしゃるのですか?正直な話、わたしにはどうしてもそうは思えないんですよ。

哲人なぜでしょう?青年わたしには3歳年上の兄がいます。

両親のいうことをよく守り、勉学にもスポーツにも優れ、真面目を絵に描いたような兄が。

そしてわたしは、幼いころからずっと兄と比べられながら育ってきました。

もちろん年齢的に3年先を進んでいる兄には、なにをやっても勝てません。

そんな事情もお構いなしに、両親はわたしを認めようとしませんでした。

どうやっても子ども扱いされ、事あるごとに否定され、お前は黙っていろと頭を押さえつけられてきた。

まさしく劣等感にまみれながら生きてきたし、兄との競争を意識せざるをえなかったのです!哲人なるほど。

青年わたしはね、こんなふうに思うことがあるんです。

自分はまともに日光を浴びずに育った、へちまだと。

劣等感にひん曲がってしまうのも当然でしょう。

これでまっすぐに伸びるという人間がいたら、連れてきていただきたいものですね!哲人わかります。

あなたの気持ちはよくわかります。

では、お兄さんとの関係も含めながら、「競争」について考えていきましょう。

もしもあなたが、お兄さんやその他の対人関係を「競争」の軸で考えなかった場合、人々はどんな存在になると思いますか?青年まあ、兄は兄ですし、他人は他人でしょう。

哲人いえ、もっと積極的な「仲間」になっていくはずです。

青年仲間?哲人あなたは先ほどいいましたね?「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。

それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。

しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。

「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。

他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。

その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者。

それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。

青年ううむ。

哲人大切なのはここからです。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。

世界を危険な場所だと思うこともなく、不要な猜疑心に駆られることもなく、世界は安全で快適な場所に映ります。

対人関係の悩みだって激減するでしょう。

青年……幸せな人ですね!ただね、そんなものはひまわり、ひまわりなんですよ。

たっぷりの陽差しを浴びて、十分な水を与えられて育った、ひまわりの理屈です。

薄暗い日陰に育ったへちまじゃ、そうはいきません!哲人あなたはまたも原因論に回帰するのですね。

青年ええ、そうですとも!厳格な両親に育てられた青年は、幼いころからずっと兄と比較され、虐げられてきた。

どんな意見も聞き入れられず、出来の悪い弟だと言葉の暴力にさらされてきた。

学校でも友達をつくれず、休み時間はずっと図書室にこもっていた。

図書室だけが自分の居場所だった。

そんな少年時代を過ごしてきた青年は、まさに原因論の住人だった。

もしもあの親の下に育たず、あの兄が存在せず、あの学校に育っていなければ、自分にはもっと明るい人生があったはずだと。

なるべく冷静に議論しようとしていた青年だったが、ここにきて積年の思いが爆発してしまった。

権力争いから復讐へ青年いいですか先生、目的論など詭弁であり、トラウマは確実に存在します!そして人は過去から自由になることなどできない!先生もお認めになったでしょう?われわれはタイムマシンで過去にさかのぼることはできないのだと。

過去が過去として存在しているかぎり、われわれは過去からの文脈のなかに生きているのです。

もしも過去をなかったものとするのなら、それは己の歩んできた人生を否定しているも同然です!先生はそんな無責任な生を選べとおっしゃるのですか!哲人そう、タイムマシンに乗ることもできなければ、時計の針を巻き戻すこともできません。

しかし、過去の出来事にどのような意味づけをほどこすか。

これは「いまのあなた」に与えられた課題です。

青年では、「いま」の話を聞きましょう。

前回、先生は「人は怒りの感情を捏造する」とおっしゃいましたね?目的論の立場で考えるとそうなるのだ、と。

わたしはいまだにあの言葉が納得できません。

たとえば、社会に対する怒り、政治に対する怒りなどの場合はどう説明されます?これもまた、自らの主張を押し通すために捏造された感情だといえますか?哲人たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。

しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。

私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。

私的な怒りは、すぐに冷める。

一方の公憤は、長く継続する。

私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎません。

青年私憤と公憤は違うと?哲人まったく違います。

公憤は、自身の利害を超えているのですから。

青年じゃあ、私憤について伺います。

いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?哲人立ちません。

青年嘘をついちゃいけません!哲人もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。

直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。

青年権力争い?哲人たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。

多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。

しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。

青年闘って、なにがしたいのです?哲人勝ちたいのです。

勝つことによって、自らの力を証明したいのです。

青年よくわからないな。

ちょっと具体例を挙げてもらえますか?哲人たとえば、あなたがご友人と、現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。

そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。

だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだ、と。

青年そんなことをいわれたら、こちらだって堪忍袋の緒が切れますよ。

哲人この場合、相手の目的はどこにあるのでしょう?純粋に政治を語り合いたいのでしょうか?違います。

相手はただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食

わないあなたを屈服させたいのです。

ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。

いかなる挑発にも乗ってはいけません。

青年いやいや、逃げる必要はありません。

売られた喧嘩は買えばいい。

だって、悪いのは相手なのですからね。

そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。

言葉の拳でね!哲人では、仮にあなたが言い争いを制したとしましょう。

そして敗北を認めた相手が、いさぎよく引き下がったとしましょう。

ところが、権力争いはここで終わらないのです。

争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。

青年次の段階?哲人ええ。

「復讐」の段階です。

いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます。

青年たとえば?哲人親から虐げられた子どもが非行に走る。

不登校になる。

リストカットなどの自傷行為に走る。

フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。

植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。

たしかにわかりやすい解釈です。

しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。

自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。

あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。

子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。

過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。

青年親を困らせるために、問題行動に出る?哲人そうです。

たとえばリストカットをする子どもを見て「なんのためにそんなことをするんだ?」と不思議に思う人は多いでしょう。

しかし、リストカットという行為によって、周囲の人——たとえば親——がどんな気持ちになるのかを考えてみてください。

そうすれば、おのずと行為の背後にある「目的」が見えてくるはずです。

青年……目的は、復讐なのですね。

哲人ええ。

そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。

そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。

非を認めることは「負け」じゃない青年じゃあ、面と向かって人格攻撃された場合はどうすればいいのです?ひたすら我慢するのですか?哲人いえ、「我慢する」という発想は、あなたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。

相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。

相手のアクションに対してリアクションを返さない。

われわれにできるのは、それだけです。

青年でも、挑発に乗らないことなど、そう簡単にできますか?そもそも、どうやって怒りをコントロールしろとおっしゃるのですか?哲人怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね?そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。

怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。

青年ううむ、むずかしい。

哲人まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。

われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。

それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。

青年でも、相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮辱的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?哲人まだご理解されていないようですね。

怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。

怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。

だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。

怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。

青年怒り以外の有用なコミュニケーション……。

哲人われわれには、言葉があります。

言葉によってコミュニケーションをとることができます。

言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。

青年……たしかに、そこを信じなければこの対話も成立しません。

哲人権力争いについて、もうひとつ。

いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。

ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。

青年なぜです?哲人人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。

青年正しいと思っただけで?いやいや、なんて誇張ですか!哲人わたしは正しい。

すなわち相手は間違っている。

そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。

つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。

これは完全なる権力争いでしょう。

青年ううむ。

哲人そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。

あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。

ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。

だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。

青年たしかに、その側面はあります。

哲人負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。

誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。

優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。

青年勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?哲人ええ。

眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。

われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。

直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか青年ううむ。

しかし、まだ問題は残ったままですよ。

あの「すべての悩みは対人関係の悩みである」という言葉です。

たしかに、劣等感が対人関係の悩みであること、そして劣等感がわれわれに及ぼす影響については、よくわかりました。

人生が競争ではないことも、ひとつの理屈としては認めます。

わたしは他者を「仲間」だと見なすことができず、心のどこかで「敵」だと思っている。

間違いなくそうでしょう。

ただ不思議なのは、どうしてアドラーがそれほどまでに対人関係を重視しているのか、「すべて」とまで言い切っているのか、という点です。

哲人対人関係はどれだけ大きく考えても足りないくらい、重要な問題です。

前回、わたしはいいました。

「あなたに足りないのは、幸せになる勇気だ」と。

覚えていますね?青年忘れようにも忘れられませんよ。

哲人それで、どうしてあなたが他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか。

それは、勇気をくじかれたあなたが「人生のタスク」から逃げているせいです。

青年人生の課題?哲人そう。

ここは大切なところです。

アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、かなりはっきりとした目標を掲げています。

青年ほう。

どういった目標でしょうか。

哲人まず、行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。

そしてこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。

青年お待ちください。

メモしておきます。

行動面の目標が、次の2つ。

自立すること社会と調和して暮らせることそして、この行動を支える心理面の目標として、次の2つ。

わたしには能力がある、という意識人々はわたしの仲間である、という意識まあ、大切な話であることはわかりますよ。

個として自立しながら、人々や社会と調和しながら生きる。

これまでの議論ともつながってきそうな話です。

哲人そしてこれらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できるわけです。

青年では、その「人生のタスク」とは?哲人人生という言葉を、子ども時代からさかのぼって考えましょう。

子ども時代、われわれは親から守られ、とくに働かずとも生きていくことができます。

しかし、やがて「自立」するときがやってくる。

いつまでも親に依存し続けるのではなく、精神的に自立するのはもちろん、社会的な意味でも自立し、なにかしらの仕事——これは企業で働くといった狭い意味ではなく——に従事しなければなりません。

さらに、成長していく過程でさまざまな交友関係を持つことになります。

もちろん誰かと恋愛関係を結び、それが結婚にまでつながることもあるでしょう。

そうなれば夫婦関係が始まりますし、子どもを持てば親子関係が始まるわけです。

アドラーはこれらの過程で生まれる対人関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分け、まとめて「人生のタスク」と呼びました。

青年その場合のタスクとは、社会人としての義務ということですか?つまり労働や納税といったような。

哲人いえ、これはもっぱら対人関係を軸とした話だと思ってください。

対人関係の距離と深さ、ですね。

そこを強調するためにも、アドラーは「3つの絆」という表現を使うこともありました。

青年対人関係の距離と深さ?哲人ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。

それが人生のタスクです。

この「直面せざるをえない」という意味において、まさしく「タスク」なのです。

青年ううむ、具体的には?哲人まず、「仕事のタスク」から考えてみましょう。

どんな種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はありません。

たとえばわたしは普段、この書斎で本にするための原稿を執筆しています。

執筆は誰に肩代わりしてもらうこともできない、自己完結的な作業です。

しかし、それとて編集者の存在があり、装幀家の方や印刷所の方、また流通や書店の方々のご助力があってこそ、成立する仕事です。

他者との協力なくして成立する仕事など、原則としてありえません。

青年広義的にはそうでしょう。

哲人ただし、距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係はもっともハードルが低いといえます。

仕事の対人関係は、成果というわかりやすい共通の目標があるので、少しくらい気が合わなくても協力できるし、協力せざるをえないところがあります。

そして「仕事」の一点によって結ばれている関係であるかぎり、就業時間が終わったり転職したりすれば、他人の関係に戻れます。

青年たしかに。

哲人そして、この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです。

青年えっ、ちょっと待ってください!では先生、彼らは仕事がしたくないのではなく、労働を拒否しているのではなく、ただ「仕事にまつわる対人関係」を避けたいがために、働こうとしないとおっしゃるのですか?哲人本人がどこまで自覚しているかどうかは別として、核にあるのは対人関係です。

たとえば、求職のために履歴書を送り、面接を受け、何社も不採用となる。

自尊心を傷つけられる。

そんな思いをしてまで働く意味がどこにあるのかわからなくなる。

あるいは、仕事で大きな失敗をする。

自分のせいで会社に巨額の損失を出してしまう。

目の前が真っ暗になって、明日から会社に行くのも嫌になる。

これらはいずれも、仕事そのものが嫌になったのではありません。

仕事を通じて他者から批判され、叱責されること、お前には能力がないのだ、この仕事に向いていないのだと無能の烙印を押されること、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのです。

つまり、すべては対人関係の問題になります。

赤い糸と頑強な鎖青年……ううむ、反論は後回しにします!次、「交友のタスク」とは?哲人これは仕事を離れた、もっと広い意味での友人関係です。

仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのもむずかしい関係になります。

青年ああ、そうなんですよ!学校や職場のような「場」があれば、まだ関係も築けるんです。

もっとも、その場かぎりの、表面的な関係ではありますが。

ところが、そこから個人的な友人関係にまで踏み出すこと、あるいは学校や職場とは別の場所で友人を見つけること。

これはきわめてむずかしい。

哲人あなたには親友と呼べるような存在がいますか?青年友人はいます。

でも親友と呼べるかというと……。

哲人わたしもかつてはそうでした。

高校時代のわたしは友人をつくろうともせず、ギリシア語やドイツ語を学び、黙々と哲学書を読みふける日々を送っていました。

そんなわたしを不安に思った母が、担任の教師に相談に行ったことがあります。

すると教師は「心配いりません。

彼は友達を必要としない人間なのです」といってくれたそうです。

この言葉には、母もわたしも大いに勇気づけられました。

青年友達を必要としない人間……。

では、先生は高校時代、ひとりの友人もいなかったのですか?哲人いえ、ひとりだけ友人がいました。

彼は「大学で学ぶべきものなど、なにもない」といって、結局大学に進みませんでした。

数年間山にこもった後、現在は東南アジアで報道の仕事をしているそうです。

もう何十年も会っていませんが、いま再会しても、あのころと同じように付き合える気がします。

友達が多いほどいいと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。

友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。

これは愛のタスクともつながる話ですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。

青年わたしにも、これから親友をつくることはできますか?哲人もちろんです。

あなたが変われば、周囲も変わります。

変わらざるをえなくなります。

アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。

他者が変わるのを待つのではなく、そして状況が変わるのを待つのではなく、あなたが最初の一歩を踏み出すのです。

青年ううむ……。

哲人事実、あなたはこうしてわたしの部屋に訪ねてきてくれました。

そしてわたしは、あなたという若い友人を手に入れることができました。

青年先生は、わたしを友人だと?哲人ええ、だってそうでしょう。

ここでの対話はカウンセリングではありませんし、われわれは仕事の関係でもありません。

わたしにとってのあなたは、かけがえのない友人です。

そう思いませんか?青年かけがえのない……友人ですって?いや、いや!そこについていまは、なにも考えますまい!続けます!最後の「愛のタスク」とは?哲人ここは2つの段階に分かれると考えてください。

ひとつは、いわゆる恋愛関係ですね。

そしてもうひとつが家族との関係、とくに親子関係になります。

仕事、交友と続いてきた3つのタスクのうち、愛のタスクがもっともむずかしいでしょう。

たとえば友人関係から恋愛に発展したとき、友達のあいだは許せていた言動が、恋人になった途端に許せなくなることがあります。

具体的には、異性の友達と遊んでいるのが許せなかったり、場合によっては異性の誰かと電話をしているだけで嫉妬したりする。

それだけ距離も近いし、関係も深いのです。

青年ええ、致し方ないところでしょう。

哲人しかしアドラーは、相手を束縛することを認めません。

相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。

それが愛なのです。

互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。

青年いやいや、それは不貞を肯定しかねない議論ですよ!だって、相手が幸せそうに浮気をしていたら、その姿までも祝福しろということになるではありませんか。

哲人積極的に浮気を肯定しているわけではありません。

こう考えてください。

一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。

人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。

劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。

ほんとうの愛とは、そういうことです。

一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。

自分に不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできませんよね?アドラーはいいます。

「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と。

青年ううむ。

哲人ただし、恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があります。

長年連れ添った夫婦であっても、関係を続けることが困難であれば別れることもできるわけです。

ところが、親子関係では原則としてそれができない。

恋愛が赤い糸で結ばれた関係だとするならば、親子は頑強な鎖でつながれた関係です。

しかも自分の手には、小さなハサミしかない。

親子関係のむずかしさはここにあります。

青年では、どうすればいいのです!?哲人いまの段階でいえるのは、逃げてはならない、ということです。

どれほど困難に思える関係であっても、向き合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。

たとえ最終

にハサミで断ち切ることになったとしても、まずは向かい合う。

いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。

人はひとりで生きていくことなど原理的にありえず、社会的な文脈においてのみ「個人」となる。

だからこそアドラー心理学では、個人としての「自立」と、社会における「協調」とを大きな目標として掲げる。

では、どうすればそれらの目標を達成できるのか?アドラーはここで、「仕事」「交友」「愛」という3つのタスクを乗り越えよ、と語る。

人が生きていく上で直面せざるをえない、対人関係のタスクを。

青年はまだ、その真意を測りかねていた。

「人生の嘘」から目を逸らすな青年ああ、また頭が混乱してきましたよ。

先生はいいましたね。

わたしが他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのは、人生のタスクから逃げているせいだと。

あれは結局どういう意味なのです?哲人たとえば仮に、あなたがAという人物のことを嫌っているとしましょう。

なぜなら、Aさんには許しがたい欠点があるからだ、と。

青年ふふふ、嫌いな人間でしたら、何人でも候補が浮かびますよ。

哲人しかしそれは、Aさんの欠点が許せないから嫌っているのではありません。

あなたには「Aさんのことを嫌いになる」という目的が先にあって、その目的にかなった欠点をあとから見つけ出しているのです。

青年そんな馬鹿な!なんのために!?哲人Aさんとの対人関係を回避するためです。

青年いやはや、いくらなんでもそれはありえません!どう考えたって順番が逆でしょうに。

嫌なことをされたから、嫌いになった。

でなければ嫌いになる理由がありません!哲人いいえ、違います。

たとえば恋愛関係にあった人と別れるときのことを思い出すと、わかりやすいのではないでしょうか。

恋人や夫婦の関係では、ある時期を境にして相手のやることなすこと、すべてに腹が立つようになることがあります。

食事の仕方が気に食わないとか、部屋にいるときのだらしない姿に嫌悪感を抱くとか、あるいは寝息でさえも腹が立つとか。

つい数カ月前まではなんとも思っていなかったにもかかわらず、です。

青年……ええ、心当たりはありますね。

哲人これはその人がどこかの段階で「この関係を終わらせたい」と決心をして、関係を終わらせるための材料を探し回っているから、そう感じるのです。

相手はなにも変わっていません。

自分の「目的」が変わっただけです。

いいですか、人はその気になれば、相手の欠点や短所などいくらでも見つけ出すことができる、きわめて身勝手な生き物なのです。

たとえ相手が聖人君子のような人であったとしても、嫌うべき理由など簡単に発見できます。

だからこそ、世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を「敵」と見なすことも可能なのです。

青年では、わたしは人生のタスクを回避するため、もっといえば対人関係を回避するため、ただそれだけのために他者の欠点をでっち上げているのだと?そして他者を「敵」と思うことで逃げているのだと?哲人そうなります。

アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、「人生の嘘」と呼びました。

青年……。

哲人厳しい言葉でしょう。

いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。

他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。

先ほどお話しした赤面症の女学生も、みな同じです。

自分に嘘をつき、また周囲の人々にも嘘をついている。

突き詰めて考えると、かなり厳しい言葉です。

青年しかし、なぜそれを嘘だと断じることができるのです!?わたしがどんな人に囲まれ、どんな人生を過ごしてきたのか、先生はなにもご存じないでしょう!哲人ええ、わたしはあなたの過去について、なにも知りません。

ご両親のことも、お兄さんのことも。

ただ、わたしはひとつだけ知っています。

青年なにを!?哲人あなたのライフスタイル(人生のあり方)を決めたのは、他の誰でもないあなた自身である、という事実を。

青年くっ……!!哲人もしもあなたのライフスタイルが他者や環境によって決定されているのなら、責任を転嫁することも可能でしょう。

しかし、われわれは自分のライフスタイルを自分で選んでいる。

責任の所在は明らかです。

青年わたしを糾弾されるおつもりなのですね!人を嘘つき呼ばわりして、卑怯者呼ばわりして!みんなわたしの責任だと!哲人怒りの力で目を逸らしてはいけません。

ここは非常に重要なポイントです。

アドラーは、人生のタスクや人生の嘘について、善悪で語ろうとはしていません。

いまわれわれが語るべきは、善悪でも道徳でもなく、〝勇気〟の問題です。

青年またも〝勇気〟ですか!哲人ええ。

あなたが人生のタスクを回避し、人生の嘘にすがっていたとしても、それはあなたが「悪」に染まっているからではない。

道徳的価値観から糾弾されるべき問題ではなく、ただ〝勇気〟の問題なのです。

所有の心理学から使用の心理学へ青年……結局最後は〝勇気〟の話ですか。

そういえば前回、先生はおっしゃいましたね。

アドラー心理学は「勇気の心理学」だと。

哲人もうひとつ付け加えるなら、アドラー心理学は「所有の心理学」ではなく、「使用の心理学」です。

青年つまり、あの「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」という言葉ですね。

哲人そう、よく覚えていてくださいました。

フロイト的な原因論は「所有の心理学」であり、やがて決定論に行き着きます。

一方、アドラー心理学は「使用の心理学」であり、決めるのはあなたなのです。

青年アドラー心理学とは「勇気の心理学」であり、同時に「使用の心理学」である……。

哲人われわれ人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではありません。

目的論の立場に立って、自らの人生を、自らのライフスタイルを、自分の手で選ぶのです。

われわれには、その力があります。

青年……しかし、正直に申し上げてわたしは劣等コンプレックスを克服できる自信がありません。

たとえそれが人生の嘘だったとしても、わたしは今後も劣等コンプレックスから抜け出せないでしょう。

哲人どうしてそう思われるのです?青年先生のお話は、正しいのかもしれません。

いや、わたしに足りないのは、きっと勇気なのでしょう。

人生の嘘についても認めます。

わたしは人と関わるのが怖い。

対人関係で傷つきたくないし、人生のタスクを先延ばしにしたい。

だからこそ、あれこれと言い訳を並べている。

ええ、まったくそのとおりです。

でも、結局のところ先生のお話は精神論ではありませんか!お前は勇気がくじかれている、勇気を出せ、とおっしゃっているにすぎない。

そんなものは「元気を出せ」と肩を叩いてアドバイスしたつもりになっている愚かな指導者と同じです。

だってそうでしょう、こちらは元気が出ないから困っているのに!哲人要するにあなたは、具体策を提示してほしいわけですね?青年そうですよ、わたしは人間です。

機械じゃありません。

勇気がくじかれていると聞かされて、ガソリンを入れるように勇気を補充することなどできないのです!哲人わかりました。

ですが今晩もずいぶん遅くなってきましたので、続きはまた次回にでもお話ししましょう。

青年逃げているのではないでしょうね?哲人もちろんです。

おそらく次回は、自由について論じ合うことになるでしょう。

青年勇気ではなく?哲人ええ、勇気を語る上で欠かせない、自由についての議論です。

あなたもひとつ、自由とはなにかについて考えておいてください。

青年自由とはなにか……いいでしょう。

それでは次回、楽しみにしておきます。

悩み抜いた二週間後、青年は再び哲学者の書斎を訪れた。

自由とはなにか。

人は、わたしは、なぜ自由になれないのか。

わたしを縛っているものの正体は何なのか。

青年に与えられた宿題は、あまりにも重たかった。

納得できる答えなど、出ようはずもない。

考えれば考えるほど、青年は自らの不自由性に気づかされるのだった。

承認欲求を否定する青年今日は自由について論じるというお話でしたね。

哲人ええ、自由とはなにか、考える時間はありましたか?青年それはもう、考え尽くしましたよ。

哲人結論は出ましたか?青年まあ、答えは出ません。

しかしですね、わたし自身の考えではありませんが、図書館でこんな一節を見つけました。

曰く、「貨幣とは鋳造された自由である」と。

ドストエフスキーの小説に出てくる言葉です。

どうです、この「鋳造された自由」って言葉がなんとも痛快じゃありませんか。

真面目な話、貨幣ってやつの本質を突いた、見事な一節だと感心しましたね。

哲人なるほど。

たしかに、貨幣によってもたらされるものの正体を極言するとしたら、それは自由になるのかもしれません。

けだし名言です。

ただし、そこから「自由とはすなわち貨幣である」とまではいえませんね?青年まったくそのとおりです。

お金によって得られる自由はあるでしょう。

そしてきっと、その自由はわれわれが思っている以上に大きい。

実際のところ、衣食住のすべては金銭によって取引されているわけですからね。

とはいえ、巨万の富さえあれば人は自由になれるのか?わたしはそうではないと思いますし、そうではないことを信じたい。

人間の価値、人間の幸せはお金などでは買えないのだと。

哲人では仮にあなたが、金銭的な自由を手に入れたとしましょう。

そして巨万の富を得てもなお、幸福になれないのだと。

このとき、あなたに残っているのは、どんな悩み、どんな不自由なのでしょう?青年それは先生が再三おっしゃっている、対人関係ですよ。

そこはわたしも深く考えてきました。

たとえば、巨万の富に恵まれてもなお、愛する人がいない。

親友と呼ぶべき仲間を持っておらず、みんなから嫌われている。

これは大きな不幸です。

もうひとつ、頭から離れなかったのが「しがらみ」という言葉です。

われわれはみな、しがらみという名の糸に絡みとられ、もがき苦しんでいる。

好きでもない人間と付き合わなきゃならなかったり、嫌な上司の機嫌を窺わなきゃならなかったりする。

想像してください、もしも些末な対人関係から解き放たれるとしたら、どれほど楽になることか!しかし、そんなことは誰にもできません。

われわれはどこに行こうと他者に囲まれ、他者との関係性のなかに生きる、社会的な「個人」である。

どうやっても対人関係の頑丈な網から逃れることはできない。

なるほど、アドラーの語る「すべての悩みは対人関係の悩みである」とは卓見ですね。

結局はそこに行き着いてしまいます。

哲人大切なところです。

もう少し掘り下げて考えましょう。

いったい、対人関係のなにがわれわれの自由を奪っているのでしょうか。

青年そこなんです!先生は前回、他者を「敵」と考えるか、それとも「仲間」だと考えるかという話をされました。

他者を「仲間」だと見なすことができれば、世界の見え方も変わってくるはずだと。

たしかに納得できる話です。

わたしも先日はまんまと得心して帰りました。

しかしですよ?よくよく考えてみると、どうも対人関係にはそれだけじゃ説明しきれない要素があるんです。

哲人たとえば?青年いちばんわかりやすいのは、親の存在でしょう。

わたしにとっての両親は、どう考えても「敵」ではありません。

とくに子ども時代は、最大の庇護者としてわたしを育て、わたしを守ってくれました。

この一点に関しては嘘偽りなく感謝しています。

ただし、うちの両親は厳しい人たちでした。

前回もお話ししましたが、常に兄と比較し、わたしを認めようとしなかった。

そしてわたしの人生についても、ずっと口を挟み続けてきました。

もっと勉強しろ、そんな友達とは付き合うな、最低でもこの大学に行け、こんな仕事に就け、といった具合で。

その要請は大きなプレッシャーでしたし、まさしく「しがらみ」でした。

哲人結局、あなたはどうされたのですか?青年大学進学までは、親の意向を無視できていなかったように思います。

悩みもしましたし、疎ましくも感じました。

でも、いつの間にか自分の希望と、親のそれとを重ね合わせていたところがあったのは事実でしょう。

さすがに就職先だけは自分で選びましたが。

哲人そういえば聞いていませんでした。

あなたのご職業は?青年いまは大学図書館の司書として働いています。

まあ、うちの両親としては、兄がそうしたように父の印刷工場を継いでほしかったようです。

おかげで職に就いて以来、多少関係がぎくしゃくしていますよ。

もしも相手が両親でなければ、それこそ「敵」のような存在であれば、わたしはなにも悩まなかったでしょう。

どれだけ干渉してこようと、無視してしまえばいいのですから。

しかし、わたしにとっての両親は「敵」ではありません。

仲間であるかどうかはともかく、少なくとも「敵」と呼ぶべき存在ではない。

その意向を無視してしまうには、あまりに近すぎる関係なのです。

哲人ご両親の意に添って進学先を決めたとき、あなたはご両親に対してどのような感情を抱きましたか?

複雑ですね。

恨みがましい気持ちもありましたが、その一方で安堵感があったのも事実でしょう。

この学校ならさすがに認めてもらえるだろう、と。

哲人認めてもらえるとは?青年ふっ、回りくどい誘導尋問はやめていただきましょう。

先生もご存じのはずです。

いわゆる「承認欲求」ですよ。

対人関係の悩みは、まさしくここに集約されます。

われわれ人間は、常に他者からの承認を必要としながら生きている。

相手が憎らしい「敵」ではないからこそ、その人からの承認がほしいのです!そう、わたしは両親から認めてほしかったのですよ!哲人わかりました。

いまのお話について、アドラー心理学の大前提をお話ししましょう。

アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。

青年承認欲求を否定する?哲人他者から承認される必要などありません。

むしろ、承認を求めてはいけない。

ここは強くいっておかねばなりません。

青年いやいや、なにをおっしゃいます!承認欲求こそ、われわれ人間を突き動かす普遍的な欲求ではありませんか!「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない哲人他者から承認されることは、たしかに嬉しいものでしょう。

しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。

そもそも、どうして承認を求めるのでしょう?もっと端的にいえば、なぜ他者からほめられたいと思うのでしょう?青年簡単です。

他者から承認されてこそ、われわれは「自分には価値があるのだ」と実感することができる。

他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができる。

自分に自信を持つことができる。

そう、これはまさに「価値」の問題です。

先生も前回おっしゃったではありませんか、劣等感とは価値判断の問題だと。

わたしは両親からの承認が得られなかったからこそ、劣等感にまみれて生きてきたのです!哲人では、身近な場面で考えてみましょう。

たとえばあなたが職場でごみ拾いをしたとします。

それでも、周囲の人々はまったく気づかない。

あるいは、気づいたとしても誰からも感謝してもらえず、お礼の言葉ひとつかけてもらえない。

さて、あなたはその後もごみを拾い続けますか?青年むずかしい状況ですね。

まあ、誰からも感謝されないのであれば、やめてしまうかもしれません。

哲人なぜですか?青年ごみを拾うのは「みんなのため」です。

みんなのために汗を流しているのに、感謝の言葉ひとつもらえない。

だったらやる気も失せるでしょう。

哲人承認欲求の危うさは、ここにあります。

いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです。

青年賞罰教育?哲人適切な行動をとったら、ほめてもらえる。

不適切な行動をとったら、罰せられる。

アドラーは、こうした賞罰による教育を厳しく批判しました。

賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。

ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。

そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。

明らかにおかしな話でしょう。

青年違います!話を矮小化しないでいただきたい!わたしは教育を論じているのではありません。

好きな人から認められたいと思うこと、身近な人から受け入れられたいと思うこと、これは当たり前の欲求です!哲人あなたは大きな勘違いをしている。

いいですか、われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

青年なんですって?哲人あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。

他者の期待など、満たす必要はないのです。

青年い、いや、それはあまりにも身勝手な議論です!自分のことだけを考えて独善的に生きろとおっしゃるのですか?哲人ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。

「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

あなたは、あなただけの人生を生きています。

誰のために生きているのかといえば、無論あなたのためです。

そしてもし、自分のために生きていないのだとすれば、いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか。

われわれは、究極的には「わたし」のことを考えて生きている。

そう考えてはいけない理由はありません。

青年先生、あなたはやはりニヒリズムの毒に冒されている!究極的には「わたし」のことを考えて生きている?それでもいい、ですって?なんと卑劣な考え方だ!哲人ニヒリズムではありません。

むしろ逆です。

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。

青年どういう意味です?哲人承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。

つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。

そして、覚えておいてください。

もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。

相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。

それが当たり前なのです。

青年違う!それはわれわれの社会を根底から覆すような議論です!いいですか、われわれは承認欲求を持っている。

しかし他者から承認を受けるためには、まずは自らが他者を承認しなければならない。

他者を認め、異なる価値観を認めるからこそ、自らのことも承認してもらえる。

そうした相互の承認関係によって、われわれは「社会」を築き上げているのです!先生、あなたの議論は人間を孤立へと追いやり、対立へと導く、唾棄すべき危険思想だ!不信感と猜疑心をいたずらに掻き立てるだけの、悪魔的教唆だ!哲人ふふふ、あなたはおもしろいボキャブラリーをお持ちだ。

声を荒げる必要はありません、一緒に考えましょう。

承認が得られないと苦しい。

他者からの承認、ご両親からの承認が得られなければ自信が持てない。

はたしてその生は、健全だといえるのでしょうか。

たとえば、「神が見ているから、善行を積む」と考える。

しかしそれは「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。

われわれは、たとえ神が存在しなかったとしても、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。

むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。

青年神のことなど、どうでもいい!もっと素直に、もっと正面から、市井に生きる人間の心を考えてください!たとえば、社会的に認められたいという承認欲求はどうなります!?なぜ人は組織のなかで出世したいと願うのか。

なぜ地位や名声を求めるのか。

それは社会全体からひとかどの人物であると認められたく願う、承認欲求でしょう!哲人では、そこで承認を得られたとして、ほんとうに幸福だといえますか?社会的地位を確立した人々は、幸福を実感できていますか?青年いや、それは……。

哲人他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は「他者の期待を満たすこと」をその手段とします。

適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。

しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。

なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。

意外に思われるかもしれませんが、カウンセリングを受けに来られる相談者に、わがままな方はほとんどいません。

むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えようとして苦しんでいる。

いい意味で自分本位に振る舞うことができないわけです。

青年じゃあ身勝手になれ、と?哲人傍若無人に振る舞うのではありません。

ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。

青年……課題の分離?新しい言葉ですね。

聞きましょう。

青年の苛立ちはピークに達していた。

承認欲求を否定せよ?他者の期待を満たすな?もっと自分本位に生きろ?いったいこの哲学者はなにをいっているのだ。

承認欲求こそが、人が他者と交わり、社会を形成していかんとする最大の動機ではないか。

青年は思った。

もし、その「課題の分離」なる考え方がわたしを納得させてくれなかったとしたら。

……わたしはこの男を、そしてアドラーを、生涯受け入れることがないだろう。

「課題の分離」とはなにか哲人たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。

授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。

さて、もしもあなたが親だったら、どうされますか?青年もちろん、あらゆる手を尽くして勉強させますよ。

塾に通わせるなり、家庭教師を雇うなり、場合によっては耳を引っぱってでも。

それが親の責務というものでしょう。

現に、わたしだってそうやって育てられましたからね。

その日の宿題を終えるまで、晩ごはんを食べさせてもらえませんでした。

哲人では、もうひとつ質問させてください。

そうした強権的な手法で勉強させられた結果、あなたは勉強が好きになりましたか?青年残念ながら好きにはなれませんでした。

学校や受験のための勉強は、ルーティーンのようにこなしていただけです。

哲人わかりました。

それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。

たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

青年誰の課題なのか?哲人子どもが勉強するのかしないのか。

あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。

本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。

青年子どもがやるべきこと、ということですか?哲人端的にいえば、そうです。

子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?青年まあ、それはそうです。

哲人勉強することは子どもの課題です。

そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。

これでは衝突を避けることはできないでしょう。

われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

青年分離して、どうするのです?哲人他者の課題には踏み込まない。

それだけです。

青年……それだけ、ですか?哲人およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。

課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

青年ううむ、よくわかりませんね。

そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。

だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。

哲人誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。

「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。

もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末——たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど——を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。

間違いなく子どもです。

すなわち勉強とは、子どもの課題なのです。

青年いやいや、まったく違います!そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。

これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。

「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。

哲人たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。

しかし、親たちは明らかに自分の目的——それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません——を満たすために動いています。

つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

青年じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?哲人ここは注意が必要です。

アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。

放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。

そうではなく、子どもがなにをしているのか知った上で、見守ること。

勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。

けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。

頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

青年それは親子関係にかぎったことではなく?哲人もちろんです。

たとえば、アドラー心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかは、カウンセラーの課題ではないと考えます。

青年なんですって?哲人カウンセリングを受けた結果、相談者がどのような決心を下すのか。

ライフスタイルを変えるのか、それとも変えないのか。

これは相談者本人の課題であり、カウンセラーはそこに介入できないのです。

青年いやいや、そんな無責任な態度が許されますか!哲人無論、精いっぱいの援助はします。

しかし、その先にまでは踏み込めない。

ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。

アドラー心理学におけるカウンセリング、また他者への援助全般も、そういうスタンスだと考えてください。

本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。

青年カウンセラーは、相談者の人生を変えてくれないのですか?哲人自分を変えることができるのは、自分しかいません。

他者の課題を切り捨てよ青年じゃあ、たとえば引きこもりのような場合はどうです?つまり、わたしの友人のような場合は。

それでも課題の分離だ、土足で介入するな、親には関係ない、とおっしゃるのですか?哲人引きこもっている状態から抜け出すのか抜け出さないのか、あるいはどうやって抜け出すのか。

これは原則として本人が解決するべき課題です。

親が介入することではありません。

とはいえ、赤の他人ではないのですから、なんらかの援助は必要でしょう。

このとき、もっとも大切なのは、子どもが窮地に陥ったとき、素直に親に相談しようと思えるか、普段からそれだけの信頼関係を築けているか、になります。

青年それでは仮に、先生のお子さんが引きこもっていた場合は、どうされますか?これは哲学者としてではなく、ひとりの親としてお答えください。

哲人まずは、わたし自身が「これは子どもの課題なのだ」と考える。

引きこもっている状況について介入しようとせず、過度に注目することをやめる。

その上で、困ったときにはいつでも援助する用意がある、というメッセージを送っておく。

そうすると、親の変化を察知した子どもは、今後どうするのかについて自分の課題として考えざるを得なくなります。

援助を求めてくることもあるでしょうし、独力でなんとかしようとすることもあるでしょう。

青年実の子どもが引きこもっていて、そこまで割り切ることができますか?哲人子どもとの関係に悩んでいる親は、「子どもこそ我が人生」だと考えてしまいがちです。

要するに、子どもの課題までも自分の課題だと思って抱え込んでいる。

いつも子どものことばかり考えて、気がついたときには人生から「わたし」が消えている。

しかし、どれだけ子どもの課題を背負い込んだところで、子どもは独立した個人です。

親の思い通りになるものではありません。

進学先や就職先、結婚相手、あるいは日常の些細な言動でも、自分の希望通りには動いてくれないのです。

当然、心配にもなるし、介入したくなることもあるでしょう。

でも、先ほどもいいましたよね。

「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」と。

たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。

青年家族でさえ、そこまで線を引けと?哲人むしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要があります。

青年それはおかしい!先生、あなたは片手で愛を語りながら、もう一方の手では愛を否定しています!そうやって他者との間に線を引いてしまえば、誰のことも信じられなくなるじゃありませんか!哲人いいですか、信じるという行為もまた、課題の分離なのです。

相手のことを信じること。

これはあなたの課題です。

しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。

そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。

たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。

愛することができるか。

アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いかけが含まれています。

青年むずかしい、むずかしいですよ、それは!哲人もちろんです。

でも、こう考えてください。

他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。

もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら——その悩みは対人関係なのですから——まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。

そして他者の課題は切り捨てる。

それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルなものにする第一歩です。

対人関係の悩みを一気に解消する方法青年……どうも腑に落ちませんね。

哲人それでは、あなたの就職先に関して、ご両親が猛反対している場面を想定しましょう。

実際のところ、反対されたわけですよね?青年ええ、正面きっての猛反対というほどではありませんが、言葉の端々に嫌味が込められていました。

哲人では、わかりやすく、それ以上の猛反対だったとします。

父親は感情的に怒鳴り散らし、母親は涙を流して反対していた。

図書館司書なんてぜったいに認めない、お兄さんと一緒に家業を継がないのなら親子の縁を切るとまで迫られたと。

しかし、ここでの「認めない」という感情にどう折り合いをつけるかは、あなたの課題ではなくご両親の課題なのです。

あなたが気にする問題ではありません。

青年いや、ちょっとお待ちください!つまり先生は、「親をどれだけ悲しませようと関係ない」とおっしゃるのですか?哲人関係ありません。

青年冗談じゃない!親不孝を推奨する哲学など、どこにありますか!哲人自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。

一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。

これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。

相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、それは相手の課題であって、自分の課題ではない。

先生はそうおっしゃるのですか?哲人分離するとは、そういうことです。

あなたは、他者の視線が気になっている。

他者からの評価が気になっている。

だからこそ、他者からの承認を求めてやまない。

それではなぜ、他者の視線が気になるのか?アドラー心理学の答えは簡単です。

あなたはまだ、課題の分離ができていない。

本来は他者の課題であるはずのことまで、「自分の課題」だと思い込んでいる。

あの「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」というお婆さんの言葉を思いだしてください。

彼女の言葉は、まさに課題の分離の核心を突いています。

あなたの顔を見た他者がどう思うのか。

これは他者の課題であって、あなたにどうこうできるものではありません。

青年……いや、理屈は、理屈ではわかります。

理性の頭では納得できます!しかし、そんな横暴な議論には感情が追いつきません!哲人では、別の角度から考えましょう。

たとえば会社の対人関係に悩んでいる人がいたとします。

話がまったく通じない上司がいて、事あるごとに怒鳴りつけてくる。

どんなにがんばっても認めてくれず、話さえまともに聞いてくれないと。

青年まさに、わたしの上司がそんな男ですよ。

哲人しかし、その上司から認めてもらうことは、あなたが最優先で考えるべき「仕事」なのでしょうか?仕事とは、社内の人間から気に入られることではないはずです。

上司があなたのことを嫌っている。

しかも、明らかに理不尽な理由によって嫌っている。

だとすればもう、こちらからすり寄る必要などないのです。

青年理屈としてはそうでしょう。

しかし、相手は自分の上司ですよ?直属の上司から疎まれていては、仕事になりません。

哲人それもまた、アドラーのいう「人生の嘘」なのです。

上司に疎まれているから仕事ができない。

わたしの仕事がうまくいかないのは、あの上司のせいなのだ。

そう語る人は「うまくいかない仕事」への口実として、上司の存在を持ち出している。

赤面症の女学生がそうだったように、むしろあなたは「嫌な上司」の存在を必要としているのです。

この上司さえいなければ、わたしはもっと仕事ができるのだと。

青年いや、先生はわたしと上司の関係をご存じないでしょう!勝手な憶測はやめていただきたい!哲人ここはアドラー心理学の根幹に関わる議論です。

怒っていては、なにも頭に入りません。

「あの上司がいるから、仕事ができない」と考える。

これは完全な原因論です。

そうではなく「仕事をしたくないから、嫌な上司をつくり出す」と考える。

あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」。

こちらは目的論的な発想になります。

青年先生お得意の目的論で考えるのならそうなるでしょう。

しかし、わたしの場合は違います!哲人では、あなたに課題の分離ができていたとすれば、どうなるでしょう?つまり、上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。

理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。

すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。

わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだ——。

そう理解できていたとしたら。

青年しかし、それは……。

哲人われわれはみな、対人関係に苦しんでいます。

それはご両親やお兄さんとの関係かもしれませんし、職場での対人関係かもしれません。

そして前回、あなたはいいましたね?もっと具体的な方策がほしい、と。

わたしの提案は、こうです。

まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。

そして課題の分離をしましょう。

どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。

そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。

これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。

青年……ははあ、先生が今日の議題は「自由」だとおっしゃっていた意味が、少しずつ見えてきましたよ。

哲人そう、われわれはいま「自由」について語ろうとしているのです。

「ゴルディオスの結び目」を断て青年たしかに課題の分離を理解して、実践できれば、対人関係は一気に自由になる。

しかし、やっぱりわたしは納得できません!哲人聞きましょう。

青年課題の分離は、理屈としてはまったく正しいと思います。

他者がわたしをどう思うのか、わたしに対してどのような評価を下すか、それは他者の課題であって、わたしにはどうすることもできない。

わたしはただ、自らの人生に嘘をつくことなく、やるべきことをやるだけである、と。

人生の真理といってもかまわないくらい、正しい話です。

でも、考えてください。

倫理的に、あるいは道徳的に、それをなすことは正しいといえるのでしょうか?つまり、自分と他者のあいだに境界線を引いてしまうような生き方は。

だって、自分のことを心配して声をかけてくれる他者の手までも、「それは介入だ!」と払いのけるのでしょう?他人の好意を踏みにじるようなものじゃありませんか。

哲人あなたはアレクサンドロス大王という人物を知っていますか?青年アレクサンドロス大王?ええ、世界史で習いましたが……。

哲人紀元前4世紀に活躍したマケドニアの国王です。

彼がペルシア領のリュディアに遠征したとき、神殿に戦車が祀ってありました。

戦車はかつての国王、ゴルディオスによって神殿の支柱に固く結びつけてあり、当地には「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説があったそうです。

腕に覚えのある多くの者どもが「我こそは」と挑み、誰にも解けなかった頑強な結び目が。

さて、その結び目を前にしたアレクサンドロス大王はどうしたと思いますか?青年なるほど、伝説の結び目を見事に解いて、やがてアジアの王になったのですね?哲人いえ、違います。

アレクサンドロス大王は、結び目が固いと見るや、短剣をとりだして一刀両断に断ち切ってしまったのです。

青年なんと!哲人このとき彼は、「運命とは、伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と語ったといいます。

わたしは伝説の力など必要としない、自らの剣によって運命を切り拓くのだ、と。

ご存じのとおり、その後の彼は中東から西アジアの全域までも支配する大王となりました。

一般に「ゴルディオスの結び目」として知られる、有名な逸話です。

このように、複雑に絡みあった結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにかまったく新しい手段で断ち切らなければなりません。

わたしは「課題の分離」を説明するとき、いつもゴルディオスの結び目を思い出します。

青年しかし、お言葉を返すようですが、誰もがアレクサンドロス大王になれるわけではありません。

彼が結び目を断ち切った逸話も、それが他の誰にもできなかった所業だったからこそ、いまなお英雄的に語られているのでしょう?課題の分離もまったく同じです。

剣をもって断ち切ればいいとわかっていても、なかなかそれができない。

なぜなら、課題の分離を推し進めると、最終的には人の絆さえも分断してしまうことになる。

人を孤立に追いやってしまう。

先生、あなたのおっしゃる課題の分離は、人間の感情を完全に無視しています!そんなことでどうやって良好な対人関係が築けますか!哲人築けます。

課題の分離は、対人関係の最終目標ではありません。

むしろ入口なのです。

青年入口?哲人たとえば本を読むとき、顔を本に近づけすぎるとなにも見えなくなりますね?それと同じで、良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。

距離が近すぎて密着してしまうと、相手と向かい合って話すことさえできなくなります。

とはいえ、距離が遠すぎてもいけません。

親が子どものことをずっと叱ってばかりいては、心が遠く離れてしまいます。

これでは子どもは親に相談することさえできなくなるし、親のほうも適切な援助ができなくなるでしょう。

差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない。

そんな適度な距離を保つことが大切なのです。

青年親子のような関係であっても、距離が必要なのですか?哲人もちろん。

先ほどあなたは課題の分離について、相手の好意を踏みにじるようなものだといいました。

それは「見返り」に縛られた発想です。

他者になにかをしてもらったら、それを——たとえ自分が望んでいなくても——返さないといけない、と。

これは好意に応えているというより、見返りに縛られているだけです。

相手がどんな働きかけをしてこようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分なのです。

青年わたしが絆と呼んでいるものの根底にあるのは、見返りだと?哲人ええ。

対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが湧き上がってきます。

もちろんこれは、課題の分離とはかけ離れた発想です。

われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。

青年ううむ。

哲人もっとも、課題の分離をすることなく、他者の課題に介入していったほうが楽な場面もあるでしょう。

たとえば育児の場面で、子どもがなかなか靴の紐を結べずにいる。

忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分が結んだほうが早い。

でも、それは介入であり、子どもの課題を取り上げてしまっているのです。

そして介入がくり返された結果、子どもはなにも学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。

アドラーはいいます。

「困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。

青年しかし、それはあまりに乾ききった発想です!哲人アレクサンドロス大王がゴルディオスの結び目を断ち切ったときも、そう思った人はいたでしょう。

結び目は手を使ってほどくからこそ意味があるのであって、剣で断ち切るのは間違ってる、アレクサンドロスは神託の意味を取り違えている、と。

アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。

原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。

人の悩みはすべて対人関係の悩みだと考えるこ

と。

また、承認を求めないことや課題の分離も、すべてが常識へのアンチテーゼでしょう。

青年……いいや、無理です!わたしにはできません!哲人なぜです?哲人の語りはじめた「課題の分離」は、あまりに衝撃的な内容だった。

たしかに、すべての悩みは対人関係にあると考えたとき、課題の分離は有用だ。

この視点を持つだけで、世界はかなりシンプルになるだろう。

しかし、そこには一滴の血も通っていない。

人としての温もりが、いっさい感じられない。

こんな哲学など受け入れてなるものか!青年は椅子から立ち上がり、大きな声で訴えた。

承認欲求は不自由を強いる青年わたしはね、昔から不満だったんですよ!世間一般の大人たちは、若者に向かって「自分の好きなことをやれ」といいます。

いかにも理解者のような、若者の味方のような笑顔を浮かべてね。

しかしこれは、その若者が自分にとって赤の他人で、なんら責任を問われない関係だからこそ出てくる、口先の言葉です!一方、親や教師が「あの学校に入りなさい」とか「安定した職業を探しなさい」と具体的で、おもしろくない指示をするのは、単なる介入ではありません。

むしろ、責任を全うしようとしているのです。

自分にとって近しい存在であり、相手の将来を真剣に考えているからこそ、「好きなことをやれ」などといった無責任な言葉が出てこない!きっと先生も理解者のような顔をして、わたしに「自分の好きなことをやりなさい」とおっしゃるのでしょう。

ですが、わたしはそんな他人の言葉は信じません!それは肩についた毛虫を払いのけるような、無責任きわまりない言葉だ!たとえ世間がその毛虫を踏みつぶしたところで、先生は涼しい顔で「わたしの課題ではない」と立ち去っていくのでしょう!なにが課題の分離だ、この人でなしめ!哲人ふっふっふ。

穏やかではありませんね。

要するにあなたは、ある程度は介入してほしい、自分の道を他人に決めてほしい、というわけですか?青年いっそのこと、そうかもしれませんね!こういうことですよ、他者が自分になにを期待しているのか、自分にはどういう役割が求められているのか、そこを判断するのはさほどむずかしくありません。

他方、自分の好きなように生きることは、きわめてむずかしい。

自分はなにを望んでいるのか?なにになりたくて、どんな人生を歩みたいのか?そんな具体像など、なかなか見えてこない。

誰もが明確な夢や目標を持っていると思ったら大間違いです。

先生はそんなこともわからないのですか!?哲人たしかに、他者の期待を満たすように生きることは、楽なものでしょう。

自分の人生を、他人任せにしているのですから。

たとえば親の敷いたレールの上を走る。

ここには大小さまざまな不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。

しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。

「いかに生きるべきか」という壁に直面するわけです。

青年わたしが他者からの承認を求めるのはそこです!先ほど先生は神の話をされましたがね、人々が神の存在を信じていた時代なら、「神が見ている」が自らを律する規範になりえたでしょう。

神にさえ承認されれば、他者からの承認は必要なかったのかもしれません。

しかし、そんな時代はとうの昔に終わりました。

だとすれば、「他者が見ている」を頼りに自らを律するしかないでしょう。

他者から承認されることをめざして、まっとうな生を送ること。

他者の目は、わたしにとっての道しるべなのです!哲人他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか。

大切な問題です、一緒に考えましょう。

他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら生きること。

他者の望みをかなえるように生きること。

たしかに道しるべにはなるかもしれませんが、これは非常に不自由な生き方です。

では、どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。

青年わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにいますか!哲人そう。

たしかに嫌われたいと望む人などいない。

でも、こう考えてください。

誰からも嫌われないためには、どうすればいいか?答えはひとつしかありません。

常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓うことです。

もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。

そうしておけば、当座のところは誰からも嫌われずに済みます。

しかしこのとき、大きな矛盾が待っています。

嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。

これはちょうどポピュリズムに陥った政治家のようなもので、できないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまうことになります。

無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。

そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。

もちろん嘘をつき続けるストレスも、想像を絶するものがあります。

ここはしっかりと理解してください。

他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。

これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。

青年じゃあ、自己中心的に、好き勝手に生きろと?哲人課題を分離することは、自己中心的になることではありません。

むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。

親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。

これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。

青年じゃあ、子どもは親の意向などお構いなしに、好き勝手に生きていいのですね?哲人自分が自分の人生を好きに生きてはいけない理由など、どこにもありません。

青年ははっ!先生、あなたはニヒリストでありながら、アナーキストであり、同時に享楽主義者なのですね!呆れるのを通り越して、笑いがこみあげてきましたよ!哲人不自由な生き方を選んだ大人は、いまこの瞬間を自由に生きている若者を見て「享楽的だ」と批判します。

もちろんこれは、自らの不自由なる生を納得させるために出てきた、人生の嘘です。

自分自身がほんとうの自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出てきませんし、むしろ自由であろうとすることを応援するでしょう。

青年よろしい、あくまでも自由の問題だとおっしゃるのですね?では、そろそろ本題にいきましょう。

先ほどから何度も自由という言葉が出てきていますが、いったい先生の考える自由とはなんなのです?われわれはどうすれば自由になれるのです?ほんとうの自由とはなにか哲人あなたは先ほど「誰からも嫌われたくない」ことを認め、「わざわざ嫌われたいと願う人間など、どこにもいない」といいました。

青年ええ。

哲人わたしだってそうです。

他者に嫌われることなど望んでいない。

「わざわざ嫌われたいと願う人間などいない」とは、鋭い洞察といえるでしょう。

青年普遍的欲求です!哲人とはいえ、われわれの努力とは関係なく、わたしのことを嫌う人もいれば、あなたのことを嫌う人もいる。

これもまた事実です。

あなたは誰かから嫌われたとき、または嫌われているのではないかと感じたとき、どのような気分になりますか?青年そりゃあ、苦しみのひと言ですよ。

なぜ嫌われてしまったのか、自分の言動のどこがいけなかったのか、もっとこういう接し方をすればよかったんじゃないのかと、いつまでもくよくよと思い悩み、自責の念に駆られます。

哲人他者から嫌われたくないと思うこと。

これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動です。

近代哲学の巨人、カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼びました。

青年傾向性?哲人ええ、本能的な欲望、衝動的な欲望ということです。

では、そうした傾向性のおもむくまま、すなわち欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違います。

そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。

ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。

青年下から押し上げていく?哲人石ころは無力です。

いったん坂道を転がりはじめたら、重力や慣性といった自然法則が許すところまで、転がり続けます。

しかし、われわれは石ころではありません。

傾向性に抗うことができる存在なのです。

転がる自分を停止させ、坂道を登っていくことができるのです。

おそらく、承認欲求は自然な欲望でしょう。

では、他者からの承認を受けるために坂道を転がり続けるのか?転がる石のように自らを摩耗させ、かたちなきところまで丸みを帯びていくのか?そこでできあがった球体は「ほんとうのわたし」だといえるのか?そんなはずはありません。

青年本能や衝動に抗うことが自由なのだ、と?哲人何度もくり返してきたように、アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。

つまりわれわれは、対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。

しかし、宇宙にただひとりで生きることなど、絶対にできない。

ここまで考えれば、「自由とはなにか?」の結論は見えたも同然でしょう。

青年なんですか?哲人すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

青年な、なんですって!?哲人あなたが誰かに嫌われているということ。

それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。

青年い、いや、しかし……。

哲人たしかに嫌われることは苦しい。

できれば誰からも嫌われずに生きていたい。

承認欲求を満たしたい。

でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由き

わまりない生き方であり、同時に不可能なことです。

自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。

そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。

青年違う!ぜったいに違う!そんなものは自由なんかじゃない!それは「悪党になれ」とそそのかす、悪魔の思想だ!哲人きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。

家庭や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。

しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。

つまり、自由になれないのです。

青年……先生は、わたしに「他者から嫌われろ」と?哲人嫌われることを怖れるな、といっているのです。

青年しかしそれは……。

哲人わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けといっているのではありません。

そこは誤解しないでください。

青年いや、いや、それでは質問を変えましょう。

いったい人は、自由の重みに耐えられますか?人はそんなに強いものですか?たとえ親であっても嫌われてかまわないと、いわば独善的に開き直ることなどできますか?哲人独善的にかまえるのでもなければ、開き直るのでもありません。

ただ課題を分離するのです。

あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではない。

そしてまた、「自分のことを好きになるべきだ」「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」と考えるのも、相手の課題に介入した見返り的な発想です。

嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいく。

坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登っていく。

それが人間にとっての自由なのです。

もし、わたしの前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして、どちらか一方を選べといわれたとしましょう。

わたしなら、迷わず後者を選びます。

他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。

つまり、自由に生きたいのです。

青年……先生はいま、自由ですか?哲人ええ。

自由です。

青年嫌われたくはないけど、嫌われてもかまわない?哲人そうですね。

「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。

わたしをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。

無論、先に紹介したことわざでいうなら「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はするでしょう。

しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。

青年……なんという結論だ。

哲人幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。

その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

対人関係のカードは、「わたし」が握っている青年しかし、まさか哲学者の部屋を訪ねて「嫌われること」を説かれるとは、思いもしませんでしたよ。

哲人決して飲み込みやすい話ではないことは、わたしも承知しています。

咀嚼して、消化するまでには時間も必要になるはずです。

おそらく今日、これ以上の話を進めても頭に収まりきらないでしょう。

そこで最後に、課題の分離についてもうひとつ、わたし自身の話をして、本日の終わりとさせてください。

青年わかりました。

哲人これも親との関係です。

わたしは幼いころから父との関係がうまくいきませんでした。

会話らしい会話も交わすことのないまま、20代のころに母が亡くなり、父との関係はますますこじれていくことになります。

そう、ちょうどわたしがアドラー心理学と出逢い、アドラーの思想を理解するまでは。

青年お父様との関係が悪かったのはなぜですか?哲人わたしの記憶にあるのは、父から殴られたときの映像です。

具体的に、なにをしてそうなったのかは覚えていません。

ただわたしは父から逃れようと机の下に隠れ、父に引きずり出され、強く殴られました。

しかも一発ではなく、何発も。

青年その恐怖がトラウマとなって……。

哲人アドラー心理学に出逢うまでは、そう理解していたのだと思います。

父は無口で気むずかしい人でしたからね。

しかし、「あのとき殴られたから関係が悪くなった」と考えるのは、フロイト的な、原因論的な発想です。

アドラー的な目的論の立場に立てば、因果律の解釈は完全に逆転します。

つまり、わたしは「父との関係をよくしたくないために、殴られた記憶を持ち出していた」のです。

青年先生にはお父様との関係をよくしたくない、修復させたくない、という「目的」が先にあった、と。

哲人そうなります。

わたしにとっては、父との関係を修復しないほうが都合がよかった。

自分の人生がうまくいっていないのは、あの父親のせいなのだと言い訳することができた。

そこには、わたしにとっての「善」があった。

あるいは、封建的な父親に対する「復讐」という側面もあったでしょう。

青年ちょうどそこがお聞きしたかったんです!仮に因果律が逆転したところで、つまり先生の場合でいえば「殴られたから父との関係が悪いのではなく、父との関係をよくしたくないから殴られた記憶を持ち出しているのだ」と自己分析できたところで、具体的になにが変わります?だって、子ども時代に殴られた事実は変わらないのですよ?哲人これは対人関係のカード、という観点から考えるといいでしょう。

原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない話になります。

しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになります。

わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む話だからです。

青年ほんとうに、それで済みますか?哲人もちろん。

青年心の底からそう思えるものでしょうか。

理屈としてはわかりますが、どうも感覚的に腑に落ちません。

哲人そこで、課題の分離です。

たしかに、父とわたしの関係は複雑なものでした。

実際、父は頑固な人でしたし、あの人の心がそう易々と変化するとは思えませんでした。

それどころか、わたしに手を上げたことさえ忘れていた可能性も高かった。

けれども、わたしが関係修復の「決心」をするにあたって、父がどんなライフスタイルを持っているか、わたしのことをどう思っているか、わたしのアプローチに対してどんな態度をとってくるかなど、ひとつも関係なかったのです。

たとえ向こうに関係修復の意思がなくても一向にかまわない。

問題はわたしが決心するかどうかであって、対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。

青年対人関係のカードは、常に「わたし」が握っている……?哲人そう。

多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。

だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。

でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。

これは新しい発見です。

青年じゃあ、実際に先生が変わることによって、お父様も変わられたのですか?哲人わたしは「父を変えるため」に変わったのではありません。

それは他者を操作しようとする、誤った考えです。

わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。

その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。

これも課題の分離ですね。

もちろん、わたしの変化に伴って——わたしの変化によって、ではありません——相手が変わることはあります。

多くの場合、変わらざるをえないでしょう。

でも、それが目的ではないし、変わらない可能性だってある。

ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になります。

青年他者を操作してはいけないし、操作することはできない。

哲人対人関係というと、どうしても「ふたりの関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまいますが、まずは自分なのです。

承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られたままになります。

人生のカードを他者に委ねるか、それとも自分が握るのか。

課題の分離、そして自由について、もう一度ご自宅でゆっくり整理されてみてください。

また次回、ここでお待ちしています。

青年わかりました。

ひとりで考えてみますよ。

哲人それでは……。

青年先生、最後にひとつ、ひとつだけ聞かせてください。

哲人なんでしょう?青年……結局、先生とお父様の関係は修復できたのですか?哲人ええ、もちろん。

わたしはそう思っています。

父は晩年に病気を患い、最後の数年間はわたしや家族による介護が必要になりました。

そんなある日、いつものように介護するわたしに、父が「ありがとう」といいました。

父のボキャブラリーにそんな言葉があることを知らなかったわたしは大いに驚き、これまでの日々に感謝しました。

長い介護生活を通じて、わたしは自分にできること、つまり父を水辺に連れていくことまではやったつもりです。

そして最終的に父は、水を呑んでくれた。

わたしはそう思っています。

青年……ありがとうございました。

ではまた次回、この時間にお伺いします。

哲人楽しい時間でした。

こちらこそありがとう。

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