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第2の習慣 終わりを思い描くことから始める

目次

パーソナル・リーダーシップの原則

我々の後ろにあるもの(過去)と我々の前にあるもの(未来)は、我々の内にあるものに比べればとるに足らないものである。──オリバー・ウェンデル・ホームズ

このページと次のページは、邪魔が入らず一人になれる場所で静かに読んでほしい。

これから紹介すること以外は頭の中を空っぽにし、日常生活の細々とした用事も、仕事や家族、友だちのこともすべて忘れ、意識を集中し、心を開いて読んでもらいたい。

ある(愛する人の)葬儀に参列する場面を心の中に思い描いてみよう。あなたは葬儀場に向かって車を走らせ、駐車して車から降りる。中に入ると花が飾ってあり、静かなオルガン曲が流れている。故人の友人たちや家族が集まっている。

彼らは別れの悲しみ、そして故人と知り合いであったことの喜びをかみしめている。あなたは会場の前方に進んで行き、棺の中を見る。

驚いたことに、そこにいたのはあなた自身だった。これは、今日から三年後に行われるあなたの葬儀だ。

ここにいる人々は、生前のあなたに対する敬意、愛、感謝の気持ちを表しに来ているのである。あなたは席に着き、式が始まるのを待ちながら手にした式次第を見る。四人が弔辞を述べるようだ。

最初は親族を代表して、各地から集まってきた子ども、兄弟姉妹、姪、おば、おじ、いとこ、祖父母から一人。二人目は友人の一人で、あなたの人柄をよく知っている人。三人目は仕事関係の人。最後は、あなたが奉仕活動を行ってきた教会や自治会などの組織から一人。

ここで深く考えてみてほしい。これらの人たちに、あなた自身あるいはあなたの人生をどのように語ってほしいだろうか。

彼らの言葉で、あなたがどういう夫、妻、父、母だったと述べてほしいだろうか。彼らにとって、あなたはどのような息子、娘、あるいはいとこだったのか、どのような友人だったのか、どのような同僚だったのか。

あなたは、彼らに自分がどのような人物だったのかを見てほしかったのか。どういう貢献や功績を憶えておいてほしいのか。

その場に集まっている人たちの顔をよく見てもらいたい。彼らの人生に、あなたはどのような影響を及ぼしたかったのだろうか。読み進める前に感じたことを簡単に書き留めてほしい。そうすれば第2の習慣をより深く理解することができるだろう。

「終わりを思い描くことから始める」とは?

自分の葬儀の場面を真剣に思い描いてみて、あなたは一瞬でも、自分の内面の奥深くにある基本的な価値観に触れたはずだ。

それはあなたの内面にあって影響の輪の中心にある。あなたを導く価値観と、束の間でも触れ合ったのである。

ここでジョセフ・アディソン(訳注:英国のエッセイスト)の一文を考えてみよう。偉人の墓を見ると、自分の中にある嫉妬心が消えてなくなる。著名人の碑文を読むと、不相応な欲望は消え去っていく。

子どもの墓石の前で悲嘆に暮れる親の姿を見ると、私の心は張り裂けそうになる。しかし、その両親の墓を見ると、死すべき人間の死を悼む虚しさを覚える。

戦いに敗れた王が敵の傍らに横たわり、宿敵同士の思想家、あるいは対立し世界を二分した聖人たちが並んで葬られているのを見ながら、人間の些細な競争、派閥、論争を思うと、悲しみと驚きを禁じ得ない。

墓石の日付を見る。昨日亡くなった人もいれば、六〇〇年前に亡くなった人もいる。

そして私は、今生きている人たち全員がこの世を去り、全員が同時代の人間として語られる日のことに、思いを馳せる。

第2の習慣「終わりを思い描くことから始める」は生活のさまざまな場面やライフステージに当てはまる習慣だが、もっとも基本的なレベルで言うなら、人生におけるすべての行動を測る尺度、基準として、自分の人生の最後を思い描き、それを念頭に置いて今日という一日を始めることである。

そうすれば、あなたにとって本当に大切なことに沿って、今日の生き方を、明日の生き方を、来週の生き方を、来月の生き方を計画することができる。

人生が終わるときをありありと思い描き、意識することによって、あなたにとってもっとも重要な基準に反しない行動をとり、あなたの人生のビジョンを有意義なかたちで実現できるようになる。

終わりを思い描くことから始めるというのは、目的地をはっきりさせてから一歩を踏み出すことである。

目的地がわかれば、現在いる場所のこともわかるから、正しい方向へ進んでいくことができる。

仕事に追われ、「活動の罠」に人はいとも簡単にはまってしまう。

成功への梯子をせっせと登っているつもりでも、一番上に到達したときに初めて、その梯子は間違った壁に掛けられていたことに気づく。

結局はまったく効果のない、多忙きわまりない日々を送っていることが大いにありうるのだ。人は虚しい勝利を手にすることがよくある。

成功のためにと思って犠牲にしたことが、実は成功よりもはるかに大事なものだったと突然思い知らされる。

医師、学者、俳優、政治家、会社員、スポーツ選手、配管工、どんな職業においても、人は、もっと高い収入、もっと高い評価、もっと高い専門能力を得ようと努力するが、結局、自分にとって本当に大事なものを見失い、取り返しのつかない過ちを犯したことに気づくのだ。

自分にとって本当に大切なものを知り、それを頭の中に植えつけ、そのイメージどおりになるように日々生活していれば、私たちの人生はまるで違ったものになるはずだ。

梯子を掛け違えていたら、一段登るごとに間違った場所に早く近づいていくだけである。あなたはとても能率よく梯子を登るかもしれない。上手に素早く登れるかもしれない。

しかし、終わりを思い描くことから始めてこそ、本当に効果的になりうるのだ。自分の葬儀で述べてもらいたい弔辞を真剣に考えてみてほしい。それがあなたの成功の定義になる。これまで思っていた成功とはまったく違うかもしれない。

名声や業績を努力して手にすること、あるいは金持ちになることを成功だと思っているかもしれない。しかし、梯子を掛けるべき正しい壁の端っこですらないかもしれないのだ。

終わりを思い描くことから始めると、目の前にこれまでとは違う視野が広がる。二人の男性が共通の友人の葬儀に出席していた。一方の男性が「彼はいくら遺したんだい?」と尋ねた。もう一人は思慮深く答えた。「すべて遺したさ、彼自身をね」

すべてのものは二度つくられる

「終わりを思い描くことから始める」習慣は、すべてのものは二度つくられるという原則に基づいている。

すべてのものは、まず頭の中で創造され、次に実際にかたちあるものとして創造される。第一の創造は知的創造、そして第二の創造は物的創造である。

家を建てることを考えてみよう。

家の設計図が隅々まで決まっていなければ、釘一本すら打つことはできない。あなたはどんな家を建てたいか頭の中で具体的にイメージするはずだ。

家族を中心にした住まいにしたいなら、家族全員が自然と集まるリビングを設計するだろうし、子どもたちには元気よく外で遊んでほしいなら、中庭をつくり、庭に面した扉はスライド式にしようと思うかもしれない。

ほしい家をはっきりと思い描けるまで、頭の中で創造を続けるだろう。次に、思い描いた家を設計図にし、建築計画を立てる。これらの作業が完了してようやく工事が始まる。

そうでなければ、実際に物的につくる第二の創造の段階で次から次へと変更が出て、建設費用が二倍に膨れ上がることにもなりかねない。

「二度測って一度で切る」が大工の鉄則だ。

あなたが隅々まで思い描いていた本当に欲しい家が、第一の創造である設計図に正確に描けているかどうか、よくよく確認しなければならない。

そうして初めて、レンガやモルタルでかたちを創造していくことができる。毎日建設現場に足を運び、設計図を見て、その日の作業を始める。

終わりを思い描くことから始めなければならないのである。

ビジネスも同じだ。ビジネスを成功させたいなら、何を達成したいのかを明確にしなければならない。ターゲットとする市場に投入する製品やサービスを吟味する。

次は、その目的を達成するために必要な資金、研究開発、生産、マーケティング、人事、設備などのリソースを組織する。

最初の段階で終わりをどこまで思い描けるかが、ビジネスの成功と失敗の分かれ道になる。

失敗する企業のほとんどは、資金不足、市場の読み違い、事業計画の甘さなど、第一の創造でつまずいているのである。

同じことが子育てにも言える。自分に責任を持てる子に育てたいなら、そのことを頭に置いて毎日子どもと接する。

そうすれば、子どもの自制心を損なったり、自尊心を傷つけたりすることはないはずだ。

程度の差こそあれ、この原則は生活のさまざまな場面で働いている。旅行に出るときには、行先を決めて最適なルートを計画する。庭をつくるなら、植物をどのように配置するか頭の中で想像を巡らすだろうし、紙にスケッチする人もいるだろう。

スピーチをするなら、事前に原稿を書く。都市の景観を整備するなら、どんな景観にするか青写真をつくる。服をつくるときは、針に糸を通す前にデザインは決まっている。

すべてのものは二度つくられるという原則を理解し、第二の創造だけでなく第一の創造にも責任を果たすことによって、私たちは影響の輪の中で行動し、影響の輪を広げていくことができる。

この原則に反して、頭の中で思い描く第一の創造を怠ったなら、影響の輪は縮んでいく。

描くか委ねるか

すべてのものは二度つくられる。これは原則である。しかし第一の創造が常に意識的に行われているとは限らない。

日々の生活の中で自覚を育て責任を持って第一の創造を行えるようにならなければ、自分の人生の行方を影響の輪の外にある状況や他の人たちに委ねてしまうことになる。

家族や同僚から押しつけられる脚本どおりに生き、他者の思惑に従い、幼い頃に教え込まれた価値観、あるいは訓練や条件づけによってできあがった脚本を演じるという、周りのプレッシャーに反応するだけの生き方になる。

これらの脚本は他者が書いているのであって、原則から生まれたものではない。

私たちの内面の奥深くにある弱さと依存心、愛されたい、どこかに属していたい、ひとかどの人物と見られたいという欲求に負けて、他者が押しつける脚本を受け入れてしまうのだ。

自分で気づいていようといまいと、また、意識的にコントロールしていようといまいと、人生のすべてのことに第一の創造は存在する。

第一の創造によって自分の人生を自分の手で描く。それができれば、第二の創造で主体的なあなたができる。

しかし第一の創造を他者に委ねてしまったら、あなたは他者によってつくられることになる。

人間だけに授けられている自覚、想像、良心という能力を働かせれば、第一の創造を自分で行い、自分の人生の脚本を自分で書くことができる。

言い換えれば、第1の習慣が言っているのは「あなたは創造主である」であり、第2の習慣は「第一の創造をする」習慣なのである。

リーダーシップとマネジメント:二つの創造

第2の習慣は、自分の人生に自らがリーダーシップを発揮すること、つまりパーソナル・リーダーシップの原則に基づいている。

リーダーシップは第一の創造である。リーダーシップとマネジメントは違う。

マネジメントは第二の創造であり、これについては第3の習慣で取り上げる。

まずは、リーダーシップがなくてはならない。

マネジメントはボトムライン(最終的な結果)にフォーカスし、目標を達成するための手段を考える。

それに対してリーダーシップはトップライン(目標)にフォーカスし、何を達成したいのかを考える。

ピーター・ドラッカー(訳注:米国の経営学者)とウォーレン・ベニス(訳注:米国の経営学者)の言葉を借りるなら、「マネジメントは正しく行うことであり、リーダーシップは正しいことを行う」となる。

成功の梯子を効率的にうまく登れるようにするのがマネジメントであり、梯子が正しい壁に掛かっているかどうかを判断するのがリーダーシップである。

ジャングルの中で、手斧で道を切り拓いている作業チームを考えてみれば、リーダーシップとマネジメントの違いがすぐにわかるだろう。

作業チームは生産に従事し、現場で問題を解決する人たちだ。彼らは実際に下草を刈って道を切り拓いていく。

マネジメントの役割はその後方にいて、斧の刃を研ぎ、方針や手順を決め、筋肉強化トレーニングを開発し、新しいテクノロジーを導入し、作業スケジュールと給与体系をつくる。

リーダーの役割はジャングルの中で一番高い木に登り、全体を見渡して、「このジャングルは違うぞ!」と叫ぶ。

だが仕事の役割に追われて効率しか見えない作業チームやマネージャーだったら、その叫び声を聞いても、「うるさい!作業は進んでいるんだから黙ってろ」としか反応しないだろう。

私生活でも仕事でも、私たちは下草を刈る作業に追われるあまり、間違ったジャングルにいても気づかないことがある。

あらゆる物事がめまぐるしく変化する現代においては、個人や人間関係のあらゆる側面においても、これまで以上にリーダーシップの重要性が増している。

私たちに必要なのは、はっきりとしたビジョン、明確な目的地である。

そしてその目的地に到達するためには、ロードマップよりもコンパス(方向を示す原則)が要る。

地形が実際にどうなっているのか、あるいは通れるのかは、その場その場で判断し問題を解決するしかない。

しかし、自分の内面にあるコンパスを見れば、どんなときでも正しい方向を示してくれるのである。個人の効果性は単に努力の量だけで決まるのではない。

その努力が正しいジャングルで行われていなければ、生き延びることさえおぼつかなくなる。

どの業界をとっても変革を求められている現代にあって、まず必要とされるのはリーダーシップである。

マネジメントはその次だ。

ビジネスの世界では市場がめまぐるしく変化し、消費者の嗜好やニーズをとらえて大ヒットした製品やサービスがあっという間にすたれることも珍しくない。

主体的で強力なリーダーシップによって絶えず消費者の購買行動や購買意欲など市場環境の変化を機敏にとらえ、正しい方向に経営資源を投じるのだ。

航空業界の規制緩和、医療費の急上昇、輸入車の品質向上と輸入量の激増。さまざまな変化が事業環境に大きな影響を及ぼしている。

企業が事業環境全体を注視せず、正しい方向に進んでいくための創造的なリーダーシップを発揮しなかったなら、マネジメントがいかに優れていても、失敗は避けられない。

効率的なマネジメントは揃っているけれども効果的なリーダーシップのない状態は、ある人の言葉を借りれば「沈みゆくタイタニック号の甲板に椅子をきちんと並べるようなもの」である。マネジメントが完璧でもリーダーシップの欠如を補うことはできない。

ところが、私たちはしばしばマネジメントのパラダイムにとらわれてしまうため、リーダーシップを発揮するのが難しくなってしまうのだ。

シアトルで一年間に及ぶ経営者能力開発プログラムを行ったときのことである。最終回の日、ある石油会社のトップが私に次のような話をしてくれた。

「プログラムの二ヵ月目に先生はリーダーシップとマネジメントの違いを話されましたね。あの後、私は社長としての自分の役割を考え直しました。自分がリーダーシップの役割を果たしてこなかったことに気づきましたよ。

マネジメントばかりに気をとられ、差し迫った問題や日々の業務の管理にどっぷり浸かっていたんです。先生の話を聞いて決心しました。

マネジメントから身を引く、マネジメントは他の社員に任せると。私はリーダーとして組織を率いなければなりませんからね。

最初は難しかったですね。

これまでは、仕事といえば火急の問題を切り抜けることであり、それを突然やめたわけですからね、禁断症状が起きましたよ。

前だったら、そういう問題を解決するとその場で達成感を味わえました。

しかし会社の方向性や組織文化の構築、問題の徹底的な分析、新しいビジネスチャンスの発掘に取り組むようになってからは、何だかもの足りなかったんですよ。

周りの社員もこれまでのやり方から抜け出ることができず、四苦八苦していました。以前なら私が何でも相談に乗り、問題を解決し、指示を出していたのですからね。

彼らも大変だったと思いますよ。でも私は頑張りました。リーダーシップは絶対に必要だと確信していましたから。そしてリーダーシップを発揮しました。

おかげで会社はすっかり生まれ変わり、市場の変化に適応できるようになりました。売上高が倍増し、利益は四倍になりました。私はリーダーシップの領域に入ったのです」

あまりにも多くの親が、マネジメントのパラダイムにとらわれている。方向性や目的、家族の想いより、能率・効率やルールにとらわれている。個人の生活ではよりリーダーシップが不足している。

自分自身の価値観を明確にする前に、能率よく自己管理や目標達成に取り組んでしまうのだ。

脚本を書き直す:あなた自身の第一の創造者となる

前に述べたように、主体性の土台は「自覚」である。

主体性を広げ、自分を導くリーダーシップを発揮できるようにするのが、想像と良心である。

想像力を働かせると、まだ眠っている自分の潜在能力を頭の中で開花させられる。

良心を働かせれば、普遍の法則や原則を理解し、それらを身につけ実践するための自分自身のガイドラインを引ける。

自覚という土台に想像と良心を乗せれば、自分自身の脚本を書く力が得られるのである。

私たちは他者から与えられた多くの脚本に従って生活しているから、それらの脚本を「書き直す」よりもむしろ「書き起こす」プロセスが必要であり、あるいはすでに持っている基本のパラダイムの一部を根本的に変える、つまりパラダイムシフトしなければならないのだ。

自分の内面にあるパラダイムは不正確だ、あるいは不完全だと気づき、今持っている脚本に効果がないことがわかれば、自分から主体的に書き直すことができるのだ。

エジプトの元大統領アンワル・サダトの自叙伝には、自分の脚本を書き直した実例を見ることができる。

実に感動的な話である。

イスラエルへの憎しみに染まった脚本に沿って育てられ、教育を受けていたサダトは、テレビカメラに向かって次のような発言を繰り返していた。

「イスラエルがアラブの土地を少しでも占領している限り、イスラエル人と握手はしない。絶対にしない!」国民も呼応して叫んだ。

「絶対!絶対!絶対にしない!」サダトはこの脚本のもとに国民の力を結集し、意志を統一したのである。独立的で愛国主義に満ちた脚本は国民の深い共感を引き出した。

しかしそれは、愚かな脚本であることをサダトは知っていた。

エジプトとイスラエルが強く張りつめた相互依存の関係にあるという現実を無視していたからだ。こうしてサダトは、脚本を書き直すこととなる。

サダトは若い頃、ファルーク国王を倒す陰謀に関わった罪でカイロ中央刑務所の独房五四号に収監された。

その独房の中で自分の内面を見つめ、これまで持っていた脚本が果たして適切かつ賢明であったか考え始めた。

心を無にし、深く瞑想し、聖典を研究し、祈ることによって、彼は脚本を自ら書き直す力を得たのだった。

刑務所を出たくない気持ちもあった、とサダトは自叙伝に書いている。その刑務所で真の成功とは何かを知ったからだ。それは物を所有することではない。

真の成功とは、自分を制し、自分自身に勝つことだと悟ったのである。

ナセル政権の時代、サダトは閑職に追いやられていた。国民からは、サダトはもう信念を捨てたと思われていたが、そうではなかった。人々は自分のストーリーを反映して見ていたにすぎない。誰もサダトという人物を理解してはいなかった。彼は時機を待っていたのだ。やがて機が熟す。

エジプト大統領となり、政治の現実に直面して、イスラエルに対する憎しみに満ちた脚本を書き直す仕事に取りかかった。

エルサレムのクネセット(イスラエルの国会)を訪問し、前例のない歴史的な和平交渉を開始する。

この勇気ある行動が、キャンプ・デービッド合意につながったのである。

サダトは、自覚、想像、良心を働かせて、自らを導くリーダーシップを発揮したから、内面にある基本的なパラダイムをシフトし、イスラエルに対する見方を変えることができた。彼は影響の輪の中心から当時の状況に働きかけた。

脚本を書き直すことによってパラダイムを変え、行動と態度を改めることで広がった影響の輪の中で、何百万人もの人々に影響を与えたのだ。

自覚を育てていくと、多くの人は自分が手にしている脚本の欠点に気づく。

まったく無意味な習慣、人生における真の価値とは相容れない習慣が深く根づいていたことを思い知らされる。

第2の習慣が教えるのは、そのような脚本を持ち続ける必要はないということだ。効果的な脚本とは、正しい原則から生まれる自分自身の価値観と一致する脚本である。

私たち人間は、自分自身の想像力と創造力を使って、効果的な生き方の脚本を書くことができる。

私が自分の子どもの行動に過剰に反応しているとしよう。子どもたちが私の気に障ることをし始めると、胃がきりきりし、すぐに身構え、闘う態勢になる。

長期的な成長や理解にフォーカスせず、今この瞬間の子どもの行動が気に食わず、目先の闘いに勝とうとする。

私は、身体の大きさや父親としての権威など持てる武器を総動員し、怒鳴りつけ、脅し、お仕置きをする。当然、勝つのは私だ。

しかし、勝者たる私は、ぼろぼろになった親子の絆の残骸の中に立ちすくむ。子どもたちは上辺では私に服従するが、力で抑圧された恨みは残る。その気持ちはいずれ、もっと酷いかたちで噴出することになるだろう。

この章の冒頭で行ったように、私は自分の葬儀の場面を想像してみる。子どもたちの一人が弔辞を述べようとしている。

私は子どもたちの人生が、その場しのぎの応急処置的な闘いの積み重ねではなく、愛に満ちた親の教えと躾の結果であってほしいと願う。

彼らの内面が、私とともに過ごした年月の豊かな思い出でいっぱいであればと願う。その成長の途上で喜びと悲しみを分かち合った愛情深い父親として私を覚えていてほしい。

心配事や悩みを私に打ち明けてくれたとき、私が真剣に耳を傾け、助けになろうとしたときのことを思い出してほしい。私は完璧な父親ではなかったが、精一杯努力したことを知ってほしい。

そして何よりも、世界中の誰よりも彼らを愛していたことを記憶に留めておいてほしい。

私が自分の葬儀を想像してこのようなことを望むのは、心の底から子どもたちを愛し、助けになりたいし、大切に思っているからだ。

私にとっては父親としての役割が何よりも大事だからである。それなのに、この価値観をいつも意識しているとは限らない。些細なことに埋もれてしまうことがある。

差し迫った問題や目の前の心配事、子どもたちの些細ないたずらに気をとられ、もっとも大切なことを見失うのだ。

その結果、反応的になり、心の奥底でどんなに子どもたちのことを思っていても、彼らに対する私の態度は本心とはまるで正反対なものになってしまう。

しかし私には自覚がある。想像力と良心もある。だから、自分の心の奥底の価値観を見つめることができる。

自分の生き方の脚本がその価値観と一致していなければ、それに気づくことができるのだ。

第一の創造を自分が置かれた環境や他者に委ね、自分が主体的になって自分の人生を設計していなかったなら、それを自覚できるのだ。

私は変わることができる。過去の記憶に頼って生きるのではなく、想像力を働かせて生きることができる。

過去ではなく、自分の無限の可能性を意識して生きることができる。私は、自分自身の第一の創造者になることができるのだ。

終わりを思い描くことから始めるというのは、親としての役割、その他にも日々の生活でさまざまな役割を果たすときに、自分の価値観を明確にし、方向をはっきりと定めて行動することである。

第一の創造を自分で行う責任があるのであり、行動と態度の源となるパラダイムが自分のもっとも深い価値観と一致し、正しい原則と調和するように、自分で脚本を書き直すことである。

また、その価値観をしっかりと頭に置いて、一日を始めることでもある。そうすればどんな試練にぶつかっても、どんな問題が起きても、私はその価値観に従って行動することができる。

私は誠実な行動をとることができる。私は感情に流されず、起こった状況にうろたえることもない。

私の価値観が明確なのだから、本当の意味で主体的で価値観に沿った人間になれるのである。

個人のミッション・ステートメント

終わりを思い描くことから始める習慣を身につけるには、個人のミッション・ステートメントを書くのがもっとも効果的だ。

ミッション・ステートメントとは、信条あるいは理念を表明したものである。

個人のミッション・ステートメントには、どのような人間になりたいのか(人格)、何をしたいのか(貢献、功績)、そしてそれらの土台となる価値観と原則を書く。

一人ひとり個性が異なるように、個人のミッション・ステートメントも同じものは二つとない。形式も中身も人それぞれである。

私の友人のロルフ・カーは、自分のミッション・ステートメントを次のように書き表している。まず家庭で成功しよう。神の助けを求め、それにふさわしい生き方をしよう。どんなことがあっても正直でいよう。

お世話になった人たちの恩を忘れずにいよう。判断を下す前に双方の言い分を聴こう。他人の忠告に素直に耳を傾けよう。その場にいない人を擁護しよう。誠意を持ち、なおかつ強い決断力を持とう。毎年何か一つ新しいことを身につけよう。明日の仕事は今日計画しよう。待ち時間を有意義に使おう。

常に前向きな姿勢でいよう。ユーモアを忘れないようにしよう。職場でも家でも規律正しくしよう。失敗を恐れず、失敗から学び成長の機会を逃すことだけを恐れよう。部下の成功を助けよう。

自分が話す二倍の時間、人の話を聴こう。異動や昇進を気にせず、今ここにある仕事にすべての力を注ごう。

次に紹介するミッション・ステートメントは、家庭と仕事の両立を心がけていた女性のものである。

私は仕事と家庭を両立できるように努力する。私にとってどちらも大切なことだから。

私も家族も、そして友人たち、お客さまも、くつろげて、楽しめて、幸せを味わえる家にする。

清潔で整理整頓が行き届き、暮らしやすく、居心地のよい環境をつくる。何を食べるか、何を読むか、何を見るか、何をするか、何にでも知恵を働かせる。

子どもたちには、愛すること、学ぶこと、笑うこと、自分の才能を伸ばすことと活用することを教えたい。私は民主主義社会の権利、自由、責任を大切にする。

一市民として社会が直面している問題を理解し、政治のプロセスに参加し、声を上げるべきときは上げ、自分の一票を有効に使う。私は自ら行動を起こして人生の目標を達成する。

自分が置かれた環境に左右されるのではなく、自分からチャンスをつかみ、状況を良くしていく。

私は破滅に通じる習慣に近づかない。自分の限界を押し広げ、可能性を解き放ち、選択の幅を広げる習慣を身につける。

私はお金に使われず賢く使う、経済的な自立を目指す。欲求のままに購入せず、必要のあるものを家計が許せば購入する。住宅や自動車のローン以外は借金をしない。

収入以上のお金は使わず、収入の一部は定期預金や投資にまわす。

自分の持っているお金と才能を使い、奉仕活動や寄付を通して社会に貢献する。

個人のミッション・ステートメントは、その人の憲法と言える。合衆国憲法と同じように、それは基本的に不変である。

合衆国憲法の制定からおよそ二〇〇年余の間に、修正・追補はわずか二七箇条(訳注:二〇一三年七月現在)、そのうち修正第一条から第一〇条は制定直後の権利章典である。

合衆国憲法は、国のすべての法律を評価する基準である。大統領は、憲法を守り、支持することの証として、忠誠の誓いをする。合衆国市民の資格審査も憲法が基準となる。

南北戦争、ベトナム戦争、あるいはウォーターゲート事件、困難な時期を克服することができたのも、合衆国憲法という土台と中心があったからだ。

それは、あらゆるものの価値を判断し、方向を決めるもっとも重要な尺度なのである。

合衆国憲法は、独立宣言に述べられている正しい原則と自明の真理に基づいて制定されているから、今日に至るも、その重要な機能を失わずにいる。

独立宣言の原則があるからこそ、米国社会が先行きの見えない変革の時期にあっても、憲法はその強さを失わなかった。

「わが国の安心は、成文憲法を有していることにある」とトマス・ジェファーソン(訳注:米国第三代大統領)は述べている。

個人のミッション・ステートメントも、正しい原則を土台としていれば、その人にとって揺るぎない基準となる。

その人の憲法となり、人生の重要な決断を下すときの基礎となる。変化の渦中にあっても、感情に流されずに日々の生活を営むよりどころとなる。

それは、不変の強さを与えてくれるのだ。内面に変わることのない中心を持っていなければ、人は変化に耐えられない。

自分は何者なのか、何を目指しているのか、何を信じているのかを明確に意識し、それが変わらざるものとして内面にあってこそ、どんな変化にも耐えられるのである。

ミッション・ステートメントがあれば、変化に適応しながら生活できる。予断や偏見を持たずに現実を直視できる。

周りの人々や出来事を型にはめずに、現実をありのままに受け止めることができるようになる。

私たち一人ひとりを取り巻く環境は常に変化し、しかも変化のスピードはかつてないほど増す一方だ。

多くの人は変化の速さに圧倒され、とてもついていけないと感じている。

自分の身に良いことが起きるようにとひたすら祈りながら受身の姿勢になっており、適応するのを諦めている。

しかし、そんなふうに簡単に諦める必要はない。

ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所での過酷な体験から、人間の主体性に気づき、人生において目的を持つこと、人生の意味を見出すことの大切さを身をもって学んだ。

フランクルが後に開発し、教えたロゴセラピー(生きる意味を見出すことによって心の病を癒す心理療法)の本質は、自分の人生は無意味(空虚)だと思うことが心の病の根本にあるとする考え方に成り立った心理療法で、自分にとっての人生の意味、独自のミッション(使命)を発見できるよう手助けし、患者の内面に巣食う虚しさを取り除こうとするものである。

あなたが自分の人生におけるミッションを見出し、意識できれば、あなたの内面に主体性の本質ができる。

人生を方向づけるビジョンと価値観ができ、それに従って長期的・短期的な目標を立てることができる。

個人のミッション・ステートメントは、正しい原則を土台とした個人の成文憲法である。

この憲法に照らして、自分の時間、才能、労力を効果的に活用できているかどうかを判断することができるのだ。

内面の中心にあるもの

個人のミッション・ステートメントを書くときは、まず自分の影響の輪の中心から始めなければならない。影響の輪の中心にあるのはあなたのもっとも基本的なパラダイムである。

それは世界を見るときのレンズであり、あなたの世界観を形成しているからだ。私たちは影響の輪の中心で自分のビジョンと価値観に働きかける。

影響の輪の中心で「自覚」を働かせ、自分の内面にある地図を見つめる。

正しい原則を大切にしていれば、自分の地図が実際の場所を正確に表しているか、自分の持っているパラダイムが原則と現実に基づいているか、自覚を働かせて確かめることができる。

影響の輪の中心では、「良心」をコンパスにして、自分の独自の才能や貢献できる分野を発見できる。ここでは「想像」することもできる。

自分が望む終わりを思い描き、どの方向に、どんな目的で第一歩を踏み出せばよいのかを知り、ミッション・ステートメントという自分の成文憲法に息を吹き込むことができる。

影響の輪の中心に自分の努力を傾けることによって、輪は広がっていき、大きな成果を達成できる。

影響の輪の中心に努力を集中させることが、PC(成果を生み出す能力)の向上につながり、私たちの生活のあらゆる面の効果性を高める。

自分の人生の中心に置くものが何であれ、それは安定、指針、知恵、力の源になる。

安定(security)とは、あなたの存在価値、アイデンティティ、心のよりどころ、自尊心、人格的な強さ、安心感のことである。

指針(guidance)は、人生の方向性を決める根源である。あなたの内面にある地図の中心にあり、目の前で起こっていることを解釈するときの基準である。

生活の中でのあらゆる意志決定、行動基準、原則、暗黙の規範である。知恵(wisdom)は、あなたの人生観、生活を送るうえでのバランス感覚である。

原則をどう実践するか、個々の原則がどのように関連しているのかを理解する知力である。

力(power)は、行動する力、物事を成し遂げる強みと潜在的な能力のことである。選択し、決断を下すために不可欠なエネルギーである。

深く根づいた習慣を克服し、より良い、より効果的な習慣を身につけるための力も含まれる。

この四つの要素(安定、指針、知恵、力)は、相互に依存し合っている。

心の安定と明確な指針は正しい知恵をもたらし、知恵は火花となって、力を正しい方向に解き放つ。

この四つが一つにまとまり、調和がとれ、個々の要素が互いを高める状態になっていれば、気高く、バランスがとれ、揺るぎない見事な人格ができる。

これら人生を支える四つの要素は、生活のあらゆる面を盤石にする。

第一部で取り上げた成長の連続体と同じように、どの要素も成長の度合いは〇%~一〇〇%までの幅がある。

四つの要素が一番下のレベルだと、自分では何もコントロールできず、他者や状況に依存している状態だ。

レベルが上がっていくにつれ、自分の人生を自分でコントロールできるようになり、自立した強さが生まれ、豊かな相互依存関係の土台が築かれる。

あなたの「安定」は、この連続体のどこかに位置している。一番下にあるとしたら、あなたの人生はあらゆる変化の波に揺り動かされてしまう。一番上にあれば、自分の存在価値を自覚し、心が安定している。

「指針」が連続体の一番下にある人は、絶えず変化する社会の鏡を見て、不安定な外的要因に振り回されて生きている。

一番上にあれば、自分の内面に確かな方向感覚を持っている。

「知恵」が連続体の一番下にあると、内面の地図は間違いだらけで、すべての原則のピースが歪み、どうやってもかみ合わない状態だ。

一番上に達すれば、すべての原則のピースが納まるべきところに納まり、正しく機能する。

そして「力」もまた、自分からは動かず他者から操られている状態から、他者や状況に左右されず自分の価値観に従って主体的に動ける状態までのどこかに位置している。

この四つの要素が成長の連続体のどこに位置するのか、調和やバランスがどれだけとれているのか、人生のあらゆる場面でポジティブな影響を与えるかは、あなたの内面の中心にある基本のパラダイムの働きによって決まるのだ。

さまざまな中心

人は誰でも自分の中心を持っている。普段はその中心を意識していないし、その中心が人生のすべての側面に大きな影響を及ぼしていることにも気づいていない。

ここで、人が一般的に持つ中心、基本のパラダイムを見てみよう。

内面の中心とパラダイムが四つの要素にどう影響するのか、ひいては、それらの要素によって形成される人生全体にどう影響するのか理解できるだろう。

配偶者中心結婚はもっとも親密で満足感を得られ、永続的で成長をもたらす人間関係である。

だから、夫あるいは妻を中心に置くことは自然で当たり前のことに思えるかもしれない。ところが、経験や観察によると、そうとも言えないようである。

私は長年、問題を抱えている多くの夫婦の相談に乗ってきたが、配偶者を人生の中心に置いている人のほぼ全員に織り込まれた課題が見られる。

それは強い依存心だ。

感情的な安定のほとんどを夫婦関係から得ているとしたら、夫婦関係に強く依存していることになる。

相手の気分や感情、行動、自分に対する態度にひどく敏感になる。

あるいは子どもの誕生や親戚との付き合い、経済的な問題、相手の社会的成功など、夫婦関係に入り込んでくる出来事に影響を受けやすくなる。

夫婦としての責任が増し、それに伴ってストレスを感じるようになると、夫も妻も、それぞれの成長過程に持っていた脚本に逆戻りする傾向がある。

それぞれが成長の過程で与えられていた脚本は、相容れないことが多い。金銭的な問題、子育て、親戚付き合いなど、何かにつけて相手との違いが見えてくる。

深く根づいている自分の性向に加え、感情的な依存心も絡んで、夫婦関係がぎくしゃくしてくるわけである。

配偶者に依存していると、相手と衝突したときに自分の要求が増幅し、対立の度が増す。

愛情が憎しみに転じ、対立か逃避かの二者択一しかないと思い込み、自分の殻に閉じこもるか、攻撃的な態度に出たり、相手を恨み、苦々しく思い、家庭内で冷戦が繰り広げられることになる。

こうした状態になると、自分がかつて持っていたパラダイムや習慣に逆戻りし、それを根拠に自分の行いを正当化し、相手の行いを責めるのだ。

夫あるいは妻への依存心があまりに強いと、さらなる痛手を負うのを恐れて自分を守ろうとする。

だから嫌味を言ったり、相手の弱みをあげつらったり、批判したりする。どれもこれも、自分の内面の弱さを押し隠すためだ。どちらも、相手が先に愛情を示してくれるのを待っている。

しかし二人とも頑として譲らなければ、お互いに失望し、相手に対する自分の批判は正しかったのだと納得してしまう。

配偶者中心の関係は、表面的にはうまくいっているように見えても、安定は幻にすぎない。

指針はその時どきの感情で右に左に揺れ動き、知恵と力も、依存する相手との関係が悪くなれば消え失せてしまう。

家族中心家族を人生の中心に置いている人も大勢いる。これもごく自然で妥当なことに思える。

家族に自分のエネルギーを集中的に注げば、家族がお互いを思いやって絆が強くなり、価値観を共有し、日々の暮らしが素晴らしいものになる大いなる機会となる。

しかし家族を中心にすると、皮肉にも家族の成功に必要な土台そのものが崩れてしまうのだ。

家族中心の人は、家族の伝統や文化、あるいは家族の評判から心の安定や自分の存在価値を得る。

だから、家族の伝統や文化に変化があると、あるいは家族の評判に傷がつくようなことが起こると過剰に反応する。

家族中心の親は、子どもの最終的な幸福を考える感情的な余裕と力を持っていない。

家族が心の安定のよりどころになっていると、子どもたちの成長を長い目で見ることの大切さよりも、その場その場で子どもに好かれたい欲求を優先してしまうかもしれない。

あるいは、子どもの行いに絶えず厳しく目を光らせる親は、子どもが少しでも悪さをすると、たちまち心の安定が崩れる。腹を立て、感情のままに子どもに接する。

わが子の長期的な成長よりも目の前の問題に反応し、怒鳴り、叱りつける。虫の居所が悪ければ、些細ないたずらにも大げさに反応し、罰を与えるかもしれない。

このような親は、子どもに対する愛情が条件つきになってしまい、するとその子は感情的に親に依存するか、逆に対立し反抗的になってしまうのだ。

お金中心当然といえば当然だが、お金を稼ぐことを人生の中心にしている人も、もちろん大勢いる。

経済的な安定があれば、多くのことができる機会も増える。欲求の階層では、生命維持と経済的安定がくる。

この基本的な欲求が最低限でも満たされなければ、他の欲求は生じない。ほとんどの人は生活していく中で経済的な不安を持つ。

さまざまな力が働いて世の中の経済情勢が変動すれば、たとえ意識の表面に出てこなくとも、どこかで不安や心配を覚える。

時に、お金を稼ぐのはもっともらしい理由になる。家族を養うためにお金を稼ぐのは大切なことだし、お金を稼ぐ立派な動機は他にもあるだろう。

しかしお金を人生の中心に据えたら、お金そのものに縛られてしまう。人生を支える四つの要素(安定、指針、知恵、力)を考えてみよう。

仮に私が自分の心の安定を雇用や収入、資産から得ているなら、この経済的基盤は多くの外的要因に影響を受けるので、そうした要因がいつも気になり、不安になる。

防御的になり、影響を受けないように何とかしようとする。資産の評価額が私の自尊心の源であるなら、資産に影響する事柄にいちいち敏感になる。

仕事もお金も、それ自体が知恵を与えてくれるわけではないし、指針にもならないが、限定的な力と安定は与えてくれるかもしれない。

お金を中心に据えると、私の生活も、愛する者たちの生活も危機に陥れるおそれがある。

お金中心の人は、家族のことやその他の大事なことを後回しにして経済的なことを優先するが、家族を養うことが先決なのだから、家族の者たちもそれを理解してくれるだろうと思い込んでいる。

私の知人の男性が、子どもたちを連れてサーカスに行こうとしていた。そこに職場から呼び出しの電話があった。彼はそれを断った。

仕事に行ったほうがいいんじゃないのと言う奥さんに、彼はこう答えた。

「仕事はまたある。でも子ども時代はまたとない」小さな出来事かもしれない。

しかし彼の子どもたちは一生涯、父親が自分たちを優先してくれたことを覚えているだろう。

父親のあり方の手本として記憶に残り、そして親の真の愛情が心に染みたはずだ。

仕事中心仕事中心の人は、自分の健康や人間関係など人生において大切なことを犠牲にしてまで仕事に向かう。

いわゆるワーカホリックだ。

私は医者だ、作家だ、俳優だ、というように、基本的なアイデンティティが職業にある。

彼らのアイデンティティと存在価値は仕事にすっぽりと包みこまれているから、その包みを剥がされるような事態になると、心の安定はあえなく崩れる。

彼らの指針は仕事の有無で変動する。知恵と力は仕事の中でしか発揮されない。仕事以外の場ではほとんど役に立たない。

所有物中心

多くの人にとって、何かを所有することは生きる原動力になる。

所有物には、流行の服や住宅、車、ボート、宝飾品などかたちのあるものだけでなく、名声、栄誉、社会的地位など無形のものも含まれる。

ほとんどの人は、自分自身の体験を通して、ものを所有することに汲々として生きるのは愚かなことだとわかっている。

何かを所有してもすぐに失ってしまうのはよくあることだし、あまりにも多くの外的要因に影響を受けるからである。

仮に私が自分の評判や所有物で心の安定を得ているとしたら、それを失いはしまいか、盗まれはしないか、あるいは価値が下がりはしないかと不安で、心の休まる間もないだろう。

私よりも社会的地位の高い人や資産を多く持っている人の前では劣等感を覚え、逆に私よりも社会的地位が低く、資産も持っていない人の前では優越感に浸る。

自尊心は揺らぎっぱなしである。しっかりとした自我、確固とした自分というものがない。何よりも自分の資産、地位、評判を守ることに必死だ。

株の暴落で全財産を失い、あるいは仕事の失敗で名声を失い、自ら命を絶った人の例は枚挙にいとまがない。

娯楽中心

所有中心から派生するものとして、楽しみや遊び中心の生き方もよく見受けられる。今の世の中はすぐに欲求を満たせるし、そうするように仕向けられてもいる。

他人の楽しそうな生活、しゃれた持ち物をテレビや映画でこれでもかというほど見せられ、私たちの期待や欲求は増すばかりである。

しかし、娯楽中心の安楽な日々は目もくらむばかりに描かれても、そのような生活が個人の内面や生産性、人間関係に当然及ぼす影響が正確に描かれることはほとんどない。

適度な娯楽は心身をリラックスさせ、家族で楽しめるし、他の人間関係の潤滑剤にもなる。

しかし遊びそのものから長続きする深い満足感や充実感を得られるわけがない。

娯楽中心の人は、今味わっている楽しさにすぐ飽きてしまい、もっと楽しみたくなる。

欲求はとどまるところを知らないから、次の楽しみはもっと大きく、もっと刺激的にと、より大きな「ハイ」を求める。

ほとんど自己陶酔の状態にあり、人生は今この瞬間が楽しいかどうかだけだと考える。

頻繁に長期休暇をとる、映画を見すぎる、テレビの前から動かない、ゲームにふけるなど、無節制に遊びたいだけ遊んでいたら、人生を無駄にするのは目に見えている。

このような人の潜在能力はいつまでも眠ったままであり、才能は開発されず、頭も心も鈍り、充実感は得られない。

はかなく消える一瞬の楽しさだけを追い求めている人の安定、指針、知恵、力が成長の連続体の一番下にあるのは言うまでもない。

マルコム・マゲリッジ(訳注:米国の作家)は著書『ATwentiethCenturyTestimony(二〇世紀の証)』の中で次のように書いている。

最近になって人生を振り返ることがよくあるのだが、今は何の価値も置いていないことが以前は有意義に思え、魅力を感じていたことに衝撃を覚える。

たとえば、あらゆる見せかけの成功。名を知られ評価されること。金を稼いだり女性を口説いたりして得る快楽。

まるで悪魔のように世界のあちこちに出没し、虚栄の市で繰り広げられるような体験をすること。

今から考えれば、これらはすべて自己満足以外の何ものでもなく、単なる幻想にすぎないのではないか。

パスカルの言葉を借りれば『土をなめる』ように味気ないものである。

友人・敵中心

若い人は特にそうだと思うが、もちろん若い人だけに限らず、人生の中心に友人を置く人もいる。彼らにとっては仲間に受け入れられ、そこに属していることが何より重要となる。

絶えず変化する歪んだ社会の鏡が、自分の安定、指針、知恵、力の源泉になっており、他者の気分、感情、態度、行動に自分のあり方が左右される。

友人中心が一人の相手だけに集中していると、配偶者中心の人間関係と同様の弊害を生むこともある。

特定の個人に対する依存心が強いと、相手に対する要求と対立のスパイラルが増し、そして対立を招き、中心に置いていた人間関係そのものが破綻する結果となることもある。

逆に、人生の中心に敵を置いたらどういうことになるだろうか。そんなことは考えたこともないという人がほとんどだろう。おそらく、意識的に敵中心の生き方をしている人はいないはずだ。

ところが、これもよくあることなのだ。実際に対立関係にある相手と頻繁に顔を合わせるとなればなおさらである。

たとえば気持ちの上でも社会的にも重要な人からひどく不公平に扱われていると感じると、そのことが頭から離れず、彼らが自分の生活の中心になってしまう。

敵中心の人は、自分の人生を主体的に生きるのではなく、敵だと思う相手の行動や態度に反応し、対立することによって相手に依存していることになる。

ある大学で教えていた私の友人は、相性の合わない上司の欠点がどうにも我慢できなかった。

まるで取り憑かれてでもいるように、明けても暮れてもそのことばかりを考え、ついに家族や教会、同僚との関係にも支障をきたすようになり、彼は結局その大学を辞め、他の大学で教鞭をとる決断を下した。

私は彼に「あの上司さえいなければ、この大学に残りたいんじゃないのか?」と尋ねた。

「そりゃそうさ。しかしあの人がこの大学にいる限り、僕の生活はめちゃくちゃだ。もう耐えられない」と彼は答えた。

「なぜ君は上司を生活の中心に置いているんだい?」と私は聞いてみた。彼は私の質問に驚き、否定した。しかし私は続けて言った。

「たった一人の人間とその人の欠点が君の人生の地図を歪め、君が信じていることも、愛する人たちとの大切な人間関係も台無しにしている。君自身がそれを許しているんじゃないのか」

彼は、上司が自分に大きな影響を及ぼしていることは認めたが、自分がそのような選択をしたつもりはない、自分の不幸はすべての上司のせいであって、自分に何ら責任はないと言い張った。

だが私と話しているうちに、彼はようやく、自分には選択する責任があることに気づき、その責任を果たしていない無責任さを自覚した。

離婚した人の多くにも同じパターンが見られる。元妻や元夫への怒り、憎しみに取り憑かれ、自分を正当化することに汲々としている。

自分の批判が正しいことを証明するために、元のパートナーの欠点を持ち出す。離婚したとはいえ、精神的にはまだ結婚生活が続いている状態なのだ。

心の中で密かに、あるいはおおぴっらに親を憎んでいる、大人になりきれない人も少なくない。

子どもの頃に厳しく育てられた、愛情をかけられなかった、甘やかされたと、親を責める。親に対する憎しみを人生の中心に置き、脚本を正当化し、反応的な生活を受け入れてしまう。

友人中心、敵中心の人は、内面の安定は得られない。自分の価値をしっかりと自覚できず、友人あるいは敵の感情に反応して揺れ動く。

指針は相手の顔色次第で変化し、人間関係という社会的なレンズを通した知恵しか生まれず、あるいは被害者意識が知恵の働きを抑えてしまう。

自分から力を発揮できず、操り人形のように他者に振り回されるだけなのだ。

教会中心

個人が教会に行くことと精神性の高さとは別問題である。何らかの宗教を信じている人は、そのことを認識すべきだと思う。

宗教的な活動や行事に忙しくて周りの人たちの火急のニーズに気づかず、信じている宗教の教えとは矛盾する生活を送っている人もいれば、宗教的な活動はしていなくとも、高い倫理観にかなった生き方をしている人もいる。

私は子どもの頃からずっと教会に通い、地域の奉仕団体に参加しているが、その経験を通してわかったのは、教会に通うことと、教会で教わる原則に従って生きることは必ずしも同じではないということだ。

教会の活動に熱心でも教義を実践しているというわけではない。教会中心の生き方をしている人は、セルフ・イメージや世間体に高い関心を示す。個人と内面の安定の土台を揺るがし、偽善的になりかねない。

教会中心の人の指針は社会的な価値観を基盤にしているから、他者を見る目も「積極的」か「消極的」か、「自由主義」か「正統主義」「保守主義」か、というように簡単にレッテルを貼る傾向がある。

どんな教会も、方針やプログラム、さまざまな活動、信者によって成り立っているのだから、教会そのものが、深い内的価値観、揺るぎない心の安定を与えてくれるわけではない。それは教えを実践することからしか得られない。

教会が人に指針を与えるわけではない。

教会中心の人の中には、たとえば教会に行く日だけは敬虔な気持ちになり、それ以外の日はそうした気持ちを忘れて生活している人も少なくない。

このように一貫性や統一性を欠いた行動をとっていては、心の安定が脅かされ、他人への決めつけと自己正当化が増大する。

自分の偽善的な行いを正当化し、周りの人をステレオタイプでしか見られなくなる。教会を手段ではなく目的ととらえていたら、知恵を発揮できず、生活のバランス感覚を失う。

教会は力の根源を教えるかもしれないが、教会が力の根源そのものにはならない。

教会は神聖な力を人間の内面に通わせる一つの手段だととらえるべきなのである。

自己中心

現代は自己中心的な生き方が際立っている時代のようである。自己中心の顕著な現れはわがままである。わがままは、ほとんどの人の価値観に反する態度だ。

にもかかわらず、個人の成長や自己実現の方法と謳うアプローチには、自己中心的なものが多いことがわかる。

自己という限定された中心からは、安定、指針、知恵、力はほとんど生まれない。

イスラエルの死海のように、自己中心は、受け入れるだけで与えることはしない。だから自己中心の生き方は淀み沈滞してしまう。

それとは逆に、他者のためになることをし、有意義なかたちで価値を生み出し、社会に貢献し、自分の能力を高めることに視野を広げれば、安定、指針、知恵、力の四要素を劇的に向上させることができる。

以上は、人々が一般的に人生の中心に置くものである。

他の人たちが人生の中心に置いているものはよく見えても、自分の人生の中心は意外と自覚していないことが多い。あなたの知り合いの中にも、お金を優先している人はいるだろう。

うまくいかない人間関係で自分の立場を正当化することに必死な人も知っているはずだ。

そのような人たちの行動を傍から見ていれば、その行動の裏にある中心は自然とわかるものである。

あなたの中心を明らかにする

しかし、あなた自身の立ち位置はどこにあるのだろう。あなたの人生の中心は何だろう。ときに、自分の中心が見えていないこともあるだろう。

人生を支える四つの要素(安定、指針、知恵、力)を見つめれば、自分の中心をはっきりと認識できる。

次の記述を読んで、当てはまるものがあれば、その根源となっている中心があなたの人生の中心となっている可能性が高い。

その中心があなたの効果的な生き方を抑えつけていないかどうか、考えてみてほしい。ほとんどの人は、複数の中心が組み合わさっている。

私たちはさまざまな要因の影響を受けて生きているから、周りや自分の状況によって、何か一つの中心が前面に出てくることもあるだろう。

今の状況が要求する事柄が満たされれば、今度は別の中心が生活の主導権を握る。中心をころころと変えて生きる人生は、ジェットコースターのようなものだ。

ハイな気分でいると思ったら急降下し、短所を短所で補い、その場その場を何とかしのごうとする。

これでは指針は常にぶれて方向が定まらず、普遍的な知恵も、確かな力の供給源も、アイデンティティや揺るぎない自尊心も生まれない。

言うまでもなく、明確な中心を一つ持ち、そこから常に高いレベルの安定、指針、知恵、力を得られることが理想である。そうすれば人生のすべての部分がよく調和し、主体性を発揮できる人間になれるのだ。

原則中心

人生の中心に正しい原則を据えれば、人生を支える四つの要素を伸ばしていく堅固な土台ができる。その事実がわかっていれば人生は安定する。

ころころと変わる人やものに中心を置いた人生は、ぐらつきやすい。正しい原則は変わらない。私たちは原則に依存しているのだ。原則はどんなものにも影響されない。

突然怒り出すこともなければ、あなたに対する態度が日によって変わることもない。別れてほしいと言い出すこともないし、あなたの親友と逃げるなどということもない。

私たちの隙につけいることもない。原則は、近道でも、その場しのぎの応急処置でもない。他者の行動、周りの状況、その時代の流行に頼ることもない。

原則は不変だ。

ここにあったと思ったらいつの間にかなくなっていた、というようなことはない。火災や地震で壊れることもなければ盗まれることもない。

原則は、人類共通の根本的な真理である。

人生という布地に美しく、強く、正確に織り込まれる糸である。

人間や環境が原則を無視しているように見えても、原則はそうした人間や環境よりも大きなものであることをわかっていれば、そして人間の何千年もの歴史を通して原則が何度も勝利を収めていることを知れば、私たちは大きな安定を得られる。

もっと大切なのは、原則は私たち自身の人生と経験においても有効に働いていることを知れば、大きな安定を得ることができるのである。

もちろん、誰もがすべてのことを知っているわけではない。

本質に対する自覚が欠けていたり、原則と調和しない流行の理論や思想によって、正しい原則の理解が制限されてしまったりする。

しかし、原則に基づいていない上辺だけの理論や思想は、一時的に支持されても、多くのことがそうであったようにすぐに消え去る運命にある。

間違った土台の上に築かれているから、持続するはずがない。私たち人間には限界がある。しかし限界を押し広げることはできる。

人間の成長をつかさどる原則を理解すれば、他にも正しい原則を自信を持って探し求め、学ぶことができる。

そして学べば学ぶほど、世界を見るレンズの焦点を合わせられるようになる。原則は変化しない。

私たち自身が変化し、原則を深く理解できるようになるのだ。

原則中心の生き方から生まれる知恵と指針は、物事の現在、過去、未来を正しくとらえた地図に基づいている。

正しい地図があれば、行きたい場所がはっきりと見え、どうすればそこに行けるのかもわかる。正しいデータに基づいて決断し、決めたことを確実に有意義に実行できるのである。

原則中心の生き方をする人の力は、個人の自覚の力、知識の力、主体性の力である。この力は他者の態度や行動に制限されない。

他の人たちなら力を抑え込まれるような状況であっても、影響を受けはしない。

力が及ばないのは、原則そのものがもたらす自然の結果に対してだけである。正しい原則を知っていれば、誰でもそれに基づいて自分の行動を自由に選べる。

しかし、その行動の結果は選べない。

覚えておいてほしい「棒の端を持ち上げれば、反対側の端も上がる」のだ。

原則には必ず自然の結果がついてくる。原則と調和して生きていれば、良い結果になる。

原則を無視した生き方をしていたら、悪い結果になる。

しかし、これらの原則は、本人が意識していようといまいと誰にでも関わるものであるから、この限界も万人に平等に働く。

正しい原則を知れば知るほど、賢明に行動する自由の幅が広がるのである。

時代を超えた不変の原則を人生の中心にすると、効果的に生きるための基本的なパラダイムを得ることができる。それは、他のすべての中心を正すことができる原則中心のパラダイムなのだ。

パラダイムがあなたの態度と行動の源泉であることを思い出してほしい。パラダイムは眼鏡のようなもので、あなたがどんなパラダイムを持っているかによって、人生の見え方も違ってくる。

正しい原則を通して見るのと、原則以外のものを中心にしたパラダイムを通して見るのとでは、目の前に広がる人生はまるで違ったものになる。

この本の付録に、先ほど述べたさまざまな中心が私たちのものの見方にどのように影響するのかを詳しくまとめた表を載せてある。

ここでは、人生の中心の違いがどのような結果となって現れるのかを簡単に理解するために、一つの具体的な問題を例にして、それをいろいろなパラダイムを通して見てみよう。

読み進みながら、それぞれのパラダイムの眼鏡をかけたつもりになって、それぞれの中心から出てくる世界を感じとって欲しい。

あなたは今夜、奥さんとコンサートに行く約束をしているとしよう。チケットは手に入れてあるし、奥さんもとても楽しみにしている。今は午後四時だ。ところが突然、あなたは上司に呼ばれた。

行ってみると、明朝九時から大切な会議があるから、今日は残業して準備を手伝ってほしいと言われた。あなたが配偶者中心あるいは家族中心の眼鏡で世の中を見ていたら、真っ先に考えるのは奥さんのことだ。

奥さんを喜ばせるために、残業を断ってコンサートに行くかもしれない。

あるいは、業務命令だから仕方がないとしぶしぶ残業するが、奥さんが怒っているのではないか、家に帰ったら何と言って弁解しようか、奥さんの落胆や怒りをどうやって鎮めようかと気が気ではない。

あなたがお金中心の眼鏡をかけているとしたら、残業代はいくらになるだろうかとか、残業したら昇給査定で有利になるかもしれないな、などと考えるだろう。

奥さんに電話して、今夜は残業になったと事務的に伝えるだけだ。収入のほうが大事なことぐらい妻もわかっているだろう、そう踏んでいるのだ。

あなたが仕事中心だったら、この残業命令をチャンスととらえるにちがいない。仕事のことがもっと学べると思うだろう。上司の受けも良くなって、昇進にプラスになるはずだと張り切る。

突然の残業命令を嫌な顔一つせず引き受けるのだから、自分で自分を褒めたいくらいだ、妻だって仕事熱心な私を誇りに思うはずだ、そんなことを考えるかもしれない。

あなたが所有物中心の生き方をしていたら、残業代で何を買おうかと考えることだろう。あるいは、残業したら職場での自分の評価が上がるだろうなと、ほくそ笑むかもしれない。

明日の朝になったら、崇高な自己犠牲精神が同僚たちの話題になるだろう……と。

娯楽中心なら、残業したほうがいいのではないかと奥さんに言われても、あなたは残業なんかせずにコンサートに行くだろう。

夜まで仕事することはない。あなたにとって夜は遊ぶためにあるのだ。友人中心であれば、コンサートに友人も誘っていたかどうかで対応は違ってくる。

あるいは職場の友人も一緒に残業するのかどうかを確かめてから、どうするか決めるだろう。

敵中心であれば、会社では俺が一番のやり手だと言ってはばからない人物に差をつける絶好のチャンスとみるだろう。

ライバルが遊んでいる間に、あなたは奴隷のようにせっせと働いて、自分の仕事ばかりか彼の仕事まで片づける。

あなたは会社のために楽しみを犠牲にし、ライバルの彼は会社のことなどまるで考えずに楽しんでいる、そんな構図をつくるわけである。

あなたが教会中心ならば、他の信者がそのコンサートに行くかどうか、職場に同じ教会の会員がいるかどうか、コンサートの内容に影響を受けるかもしれない。

その日のコンサートの演目がヘンデルのメサイアであるならロックよりも高尚だから、残業せずに行ったほうが自分のイメージには良いと判断するかもしれない。

あなたが考える良い教会のメンバーが、残業を「奉仕」ととらえるか「物質的な富の追求」ととらえるかによって、判断は異なるだろう。

あなたが自己中心の生き方をしているなら、どうするのが自分にとって一番得か考える。

残業せずにコンサートに行くのがいいのか、上司の点数を少しでも稼いでおいたほうがいいのか。この二つの選択肢のそれぞれが自分にどう影響するかが、あなたの関心の的になる。

たった一つの出来事でも、視点を変えれば見え方はこんなにも違ってくる。

第一章で取り上げた「若い女性と老婆」の絵の認知実験の例からもわかるように、物事に対する見方の違いが他者との関係にさまざまな問題を生む。

自分の持っている中心がどれほど大きな影響を及ぼしているか、わかっていただけたと思う。

自分の動機、日々の決断、行動(あるいは多くの場合の反応)、出来事のとらえ方まで、すべてにわたって影響している。

だから、自分の中心を理解することが重要なのだ。

まだあなたの中心が、あなたを主体的な個人にする力を与えていないのであれば、あなたの効果性を引き出して高めるためには、あなたに力を与えるパラダイムシフトが必要なのだ。

あなたが原則中心の生き方をしているなら、その場の感情のように、あなたに影響するさまざまな要因から一歩離れ、いくつかの選択肢を客観的に検討するだろう。

仕事上のニーズ、家族のニーズ、その状況に関わっている他のニーズ、さまざまな代替案の可能性、すべてを考え合わせ、全体をバランスよく眺めて最善の解決策を見出す努力をする。コンサートに行くか、残業するかは、効果的な解決策のほんの一部でしかない。

もし選択肢がこの二つしかないとしたら、どんなに多くの中心を持っていても、同じ選択をするだろう。

しかし、あなたが原則中心のパラダイムに基づいて態度を決めるのであれば、どちらを選んだにしても、その選択の意味合いは大きく違ってくる。

第一に、あなたは他者や状況の影響を受けて決断するのではないということだ。自分が一番良いと思うことを主体的に選択するのである。意識的にさまざまな要素を考慮したうえで、意識的に決断を下すのだ。

第二に、長期的な結果を予測できる原則に従って決めるのだから、自分の決断はもっとも効果的だと確信できる。

第三に、あなたが選択したことは、人生においてあなたがもっとも大切にしている価値観をさらに深める利点もある。

職場のライバルに勝ちたいから残業するのと、上司が置かれている状況を考え純粋に会社のためを思って残業するのとでは、天と地ほどの違いがある。

自分で考えて下した決断を実行するのだから、その残業で経験することはあなたの人生全体に質と意味をもたらしてくれる。

第四に、相互依存の人間関係の中で培ってきた強いネットワークにおいて、奥さんや上司とコミュニケーションをとることができることだ。

あなたは自立した人間なのだから、相互依存の関係も効果的に生かせる。誰かに頼めることは頼み、明日の朝早く出社して残りを仕上げることだってできるだろう。最後に、あなたは自分の決断に納得している。

どちらを選んだとしても、そのことに意識を集中し満足できるはずだ。原則中心の人は物事を見る目が違うのだ。違った見方ができるから、考え方も違ってくるし、行動も違う。

揺るぎない不変の中心から生まれる心の安定、指針、知恵、力を持っているから、主体性にあふれ、きわめて効果的な人生の土台ができるのである。

個人のミッション・ステートメントを記し活用する

自分の内面を深く見つめ、自分が持っている基本のパラダイムを理解し、それを正しい原則に調和させると、力を与えてくれる効果的な中心ができ、そして世界を見る曇り一つないレンズも持つことができる。

私たち一人ひとりが唯一無二の個人として世界といかに関わるかによって、世界を見るレンズの焦点をぴったりと合わせることができるのだ。

ヴィクトール・フランクルは、「私たちは人生における使命をつくるのではなく見出すのである」と言っている。

私はこの表現が好きだ。私たち一人ひとりの内面に良心というモニターがあるのだと思う。

良心があるからこそ、自分がかけがえのない存在であることを自覚し、自分にしかできない貢献を発見できるのだ。

フランクルの言葉を続けよう。

「すべての人が、人生における独自の類い稀な力と使命を持っている……。その点において、人は誰でもかけがえのない存在であるし、その人生を繰り返すことはできない。したがって、すべての人の使命、そしてその使命を果たす機会は、一人ひとり独自のものなのである」

このようにして独自性というものを言葉で表現してみると、主体性の大切さと自分の「影響の輪」の中で努力することの根本的な重要さを思い起こすことができるだろう。

「影響の輪」の外に人生の意味を探し求めるのは、主体的な人間としての責任を放棄し、自分の人生の脚本を書くという第一の創造を自分が置かれた環境や他者に任せてしまうことである。

私たち人間が生きる意味は、自分自身の内面から生まれる。

ここでもう一度ヴィクトール・フランクルの言葉を借りよう。

「究極的に、我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が人生に問われているのだと理解すべきである。一言で言えば、すべての人は人生に問われている。

自分の人生に答えることで答えを見出し、人生の責任を引き受けることで責任を果たすことしかできない」個人の責任あるいは主体性は、第一の創造の基礎となる。

コンピューターのたとえを再び持ち出すが、第1の習慣は「あなたがプログラマーであり、自分には責任があるのだということを受け入れない限り、プログラムを書く努力はできないだろう」と言っているのであり、第2の習慣は「あなたがプログラムを書きなさい」と言っているのだ。

私たちは、主体性を持つことによって初めて、どんな人間になりたいのか、人生で何をしたいのかを表現できるようになる。

個人のミッション・ステートメント、自分自身の憲法を書くことができるのだ。ミッション・ステートメントは、一晩で書けるものではない。

深く内省し、緻密に分析し、表現を吟味する。そして何度も書き直して、最終的な文面に仕上げる。

自分の内面の奥底にある価値観と方向性を簡潔に、かつ余すところなく書き上げ、心から納得できるまでには、数週間、ことによれば数ヵ月かかるかもしれない。

完成してからも定期的に見直し、状況の変化によって、物事に対する理解や洞察も深まっていくから、細かな修正を加えたくなるだろう。

しかし基本的には、あなたのミッション・ステートメントはあなたの憲法であり、あなたのビジョンと価値観を明確に表現したものである。

あなたの人生におけるあらゆる物事を測る基準となる。私も自分のミッション・ステートメントを定期的に見直している。最近も見直しをした。

自転車で海岸に行き、一人で砂浜に座って、手帳を取り出し、書き直してみた。

数時間かかったけれども、明確な意識と内面の統一感、さらなる決意、高揚感、そして自由を感じた。このプロセスは、書き上がったものと同じくらいに重要だと思う。

ミッション・ステートメントを書く、あるいは見直すプロセスの中で、あなたは自分にとっての優先事項を深く、丹念に考え、自分の行動を自分の信念に照らし合わせることになる。

それをするに従って、あなたの周りの人たちは、もはや自分の身に起こることに影響されない主体的な人間になっていくあなたを感じとるだろう。

あなたは、自分がしようと思うことに熱意を持って取り組める使命感を得るのである。

脳全体を使う

人間には自覚の能力があるから、自分が考えていることを客観的に観察することができる。

人生のミッション・ステートメントを書くときには、この能力がとても役立つ。

なぜなら、第2の習慣を実践できるようにする、二つの独自の人が持てる能力──想像と良心──は、主に右脳の働きによるものであり、右脳の機能を活用する方法を知っていれば、第一の創造のレベルが格段に上がるからだ。

これまで何十年にもわたる研究によって、脳の左半球と右半球はそれぞれに専門の機能を持っていることがわかってきた。

この脳に関する理論によれば、左脳と右脳は異なる情報を処理し、扱う問題も異なる傾向にある。

基本的に、左脳は論理や言語の領域を専門にし、右脳は直観的、創造的な領域に強い。左脳は言葉を、右脳は映像を扱う。

左脳は個々の部分や特定の事柄を、右脳は全体や部分と部分の関係を見る。

左脳は分析、つまり物事を分解する役割を果たし、右脳は統合、つまりばらばらの部分を組み合わせる役割を果たす。

左脳は順を追って思考し、右脳は総括的に思考する。左脳は時間の制限を受け、右脳は時間を超越する。

私たちは左脳と右脳の両方を使って生活しているが、個々人で見ると、どちらか片方の脳が優位に立つ傾向がある。

もちろん、左脳と右脳の両方が同じように発達しバランスよく使えれば、それに越したことはない。そうすれば、まずは状況全体を直観でとらえ、それから論理的に考えて対応できる。

ところが人は、安心領域から抜けられず、左右どちらかの脳であらゆる状況に対処する傾向が見られる。

心理学者のアブラハム・マズローの言葉を借りれば、「金槌をうまく使える人は、すべてのものを釘と見る」のである。

同じ一枚の絵を見て、「若い女性にしか見えない」人と「老婆にしか見えない」人とに分かれるのは、右脳と左脳によるものの見方が異なるのがもう一つの要因である。私たちは左脳優位の時代に生きている。

言葉、数値、論理が幅を利かせ、人間の創造性、直観力、感性、芸術性は二の次にされがちだ。だから多くの人は、右脳の力をうまく活用することが難しくなる。

たしかに、この記述は短絡的すぎるかもしれないし、今後の研究によって脳の機能がもっと解明されていくことだろう。

しかしここで言いたいのは、人間は多様な思考プロセスでものを考えられるにもかかわらず、私たちは脳の潜在能力のほんの一部しか使っていないということである。

脳に眠っているさまざまな可能性に気づけば、それを意識的に活用し、その時どきのニーズに適した効果的な方法で対応することができるようになるはずだ。

右脳を活用する二つの方法

脳に関する理論に従うなら、創造を得意とする右脳の力を引き出せば、第一の創造(知的創造)の質に対し大きな影響を与えることは明らかだ。

右脳の能力をうまく使えば、時間やその時どきの状況を超え、何をしたいのか、どうありたいかという、自分が望む人生の全体像を鮮明に思い描けるようになるからだ。

視野を広げる思わぬ出来事がきっかけとなり、左脳の状況や思考パターンが停止し、右脳で世の中を見るようになることがある。

愛する人を亡くしたり、重い病気にかかったり、莫大な借金を背負ったり、逆境に立たされたりすると、誰しも一歩下がって自分の人生を眺めざるを得なくなる。

そして「本当に大事なことは何なのか?なぜ今これをしているのだろう?」と自分に厳しく問いかける。

しかし主体的な人は、このように視野を広げる経験を他人や周りの人がつくってくれなくても、自分から意識的に視野を広げていくことができるのだ。そのやり方もいろいろある。

この章の冒頭で行ったように、想像力を働かせて、自分の葬儀の場面を思い描くこともその一つだ。自分に捧げる弔辞を本物の弔辞のようにきちんと書いてみるのだ。

夫婦で一緒に、二五回目の結婚記念日、五〇回目の結婚記念日を想像してみるのもいい。

これからそのときまでの長い年月、一日一日を積み重ねてつくりあげたい家族の姿の本質が見えてくるだろう。

あるいは、今の仕事を引退する日を想像する。

そのときまでに、あなたの分野で、あなたはどんな貢献をしたいのだろう、何を達成したいのだろうか。

引退後はどんな計画を立てているのだろう。第二のキャリアを歩むのだろうか。心の枠を取り払って、豊かに想像してみてほしい。

細かいところまで思い描き、五感をフルに働かせて、できる限りの感性を呼び起こしてみよう。

私は、大学の講義でこのようなイメージトレーニングを行ったことがある。

「君たちがあと一学期しか生きられないと想像してみてほしい。その間も君たちは良き学生として在学しなくてはいけない。さて、この時間をどう過ごすかね?」

こんな問いを投げかけられた学生たちは、思ってみたこともない視点に立たされる。それまで気づいていなかった価値観が突然、意識の表面に浮かび上がってくるのだ。

さらに、このようにして広がった視野を維持して一週間生活し、その間の経験を日記につける課題を与えた。その結果はとても意義深いものだった。

両親に対する愛と感謝の気持ちの手紙を書き始めた学生もいれば、仲たがいしていた兄弟や友人と関係を修復したという学生もいた。彼らのこのような行動の根底にある原則は、愛である。

あともう少ししか生きられないとしたら、人の悪口を言ったり、嫉妬したり、けなしたり、責めたりすることの虚しさがわかる。誰もが正しい原則と深い価値観を実感するのだ。想像力を働かせ、自分の内面の奥底にある価値観に触れる方法はいろいろある。

しかし私の経験では、どんな方法をとっても効果は同じである。

自分の人生にとって一番大切なことは何か、どのような人間になりたいのか、本当にやりたいことは何かを真剣に考え、本気で知ろうとした人は皆、必ず敬虔な気持ちになる。今日や明日のことだけでなく、より長期的なことを考え始める。

イメージ化と自己宣誓書

自分で自分の人生を創造することは、単発的に行うものではない。

人生のミッション・ステートメントを書くときから始まって、書き上げれば終わりというわけにはいかない。

人生に対する自分のビジョンと価値観を常に目の前に掲げ、それにふさわしい生活を送る努力を続けなければならない。

ミッション・ステートメントを日々の生活で実践するうえでも、右脳の力がとても助けになる。このような継続的なプロセスも、習慣の一つのあり方である。前に話した例をもう一度考えてみよう。

私が子どもたちを心から深く愛している父親であり、愛情深い父親であることを自分の基本的な価値観としてミッション・ステートメントにも書いているとする。

ところが日々の生活では、子どもたちに対し過剰な反応をしてしまう態度を克服できずにいるとしよう。

そこで私は、自分の日々の生活で大切な価値観に沿って行動できるように、右脳のイメージ力を使って「自己宣誓書」を書いてみる。

良い自己宣誓書は五つの条件を満たしている。

  1. 個人的な内容であること、
  2. ポジティブな姿勢が表現されていること、
  3. 現在形で書かれていること、
  4. 視覚的であること、
  5. 感情が入っていること、

この五つである。

私ならこんなふうに書くだろう。

「子どもたちが良くない振る舞いをしたとき、私は(個人的)、知恵と愛情、毅然とした態度、そして自制心を持って(ポジティブな姿勢)対応する(現在形)ことに、深い満足感(感情)を覚える」そして私は、この自己宣誓を頭の中でイメージする。

毎日数分間、身体と心を完全にリラックスさせ、子どもたちが良くない振る舞いをするような状況を思い描く。

自分が座っている椅子の座り心地、足元の床の材質、着ているセーターの肌触りまで、できるだけ豊かにイメージする。

子どもたちの服装や表情も思い浮かべる。

ディテールまでありありと想像するほど、傍観者ではなく、実際に体験しているかのような効果が生まれる。

さらに私は、いつもの自分だったら短気を起こしてカッとなるような場面を思い描く。

しかし頭の中の想像の世界では、私はいつもの反応はしない。自己宣誓したとおりに、愛情と力と自制心を持って、その状況に対処している。

このようにして私は、自分の価値観とミッション・ステートメントに従ってプログラムや脚本を書くことができるのである。

毎日これを続けたら、日を追うごとに私の行動は変わっていく。

自分の親、社会、遺伝子、環境から与えられた脚本に従って生きるのではなく、自分自身が選んだ価値体系を基にして、自分で書いた脚本どおりに生きることができるのだ。

私は、息子のショーンがアメリカンフットボールの選手をしていたとき、この自己宣誓のプロセスを実践するよう勧めた。

息子が高校でクォーターバックになったときに初めて教え、最初は一緒にやっていたが、やがて一人でできるようになった。

まず、深呼吸をして筋肉の緊張をほぐし、気持ちを落ち着かせ、内面を穏やかな状態にする。次に、試合の中でもっとも緊迫する場面を思い浮かべる。

たとえば自分に攻撃が仕掛けられそうな瞬間だ。彼はそれを読みとって反応しなければならない。相手のディフェンスを読んで作戦を指示する自分を想像する。

第一、第二、第三のレシーバーの動きを瞬時に読み取り、いつもはしないような選択肢を想像するのだ。

息子はあるとき、試合になると必ず緊張するのだと私に相談してきた。よくよく話を聴いてみると、息子は緊張する自分も頭の中でイメージしていたのだった。

そこで、一番プレッシャーがかかる局面でリラックスしている自分をイメージするトレーニングを重ねた。

私と息子は、イメージの中身が大切であることを学んだ。間違ったことをイメージしたら、間違ったままの結果になるのだ。

チャールズ・ガーフィールド博士は、スポーツやビジネスの世界のトップパフォーマーたちを詳しく調べている。

NASA(米国航空宇宙局)での仕事に携わっていたとき、宇宙飛行士たちが実際に宇宙に行く前に、地球上のシミュレーション装置であらゆる状況を想定して訓練を繰り返しているのを見て、最高度のパフォーマンスを発揮できる能力に関心を持った。

博士の専門は数学だったが、このシミュレーションの効果を研究しようと、大学に入り直して心理学の博士号を取り、トップパフォーマーの特徴を研究し始めたのである。

博士の研究の結果、世界のトップアスリート、そしてスポーツ以外の分野のトップパフォーマーのほとんどが、イメージトレーニングをしていることがわかった。

実際にやってみる前に、それを頭の中で見て、感じて、経験しているのである。彼らはまさに、「終わりを思い描くことから始める」習慣を身につけていたのだ。

あなたも、この方法を人生のあらゆる場面で使うことができる。

舞台に立つ前に、セールス・プレゼンテーションの前に、誰かと厳しい交渉をする前に、あるいは日常生活の中で何か目標を立てて実行に移す前に、その場面をありありと思い描く。それを何度も、しつこいくらいに繰り返す。

緊張せず落ち着いていられる「安心領域」を想像の世界の中で広げておく。そうすれば、実際にその場面になったとき、異和感なく平常心でいられる。

人生のミッション・ステートメントを書くとき、そしてそれを毎日実践するうえでも、創造と想像を得意とする右脳がとても役立つ。

イメージ化と自己宣誓のプロセスを扱う本や教材もたくさんある。

最近では、サブリミナル・プログラミング、神経言語プログラミング、新しいタイプのリラクゼーション、セルフトークのプロセスなどいろいろな手法が開発されている。

どれも第一の創造の基本原則を説明し、発展させ、さまざまに組み合わせている。

私は、膨大な量の成功に関する文献を調べていたとき、このテーマを取り上げている何百冊もの本に目を通した。

大げさに書き立てたり、科学的根拠よりも特定の事例に基づく本も中にはあるが、ほとんどの本の内容は基本的には健全であり、その多くは個人的な聖書研究を基にしていると思われる。

個人の効果的なパーソナル・リーダーシップにおいて、イメージ化と宣誓の技術は、人生の中心となる目的と原則を通して熟考された土台から自然に生まれてくる。

それは脚本とプログラムを書き直すときに絶大な効果を発揮し、目的と原則を自分の心と頭に深く根づかせることができる。

古くから続いている歴史ある宗教はどれも、その中心にあるのは、言葉は違っていても同じ原則だと思う。

瞑想、祈り、誓約、儀式、聖典研究、共感、思いやりなど、良心と想像力をさまざまなかたちで用いる原則、あるいは実践である。

だが世に出回っているイメージトレーニングのテクニックが人格と原則を無視した、個性主義の一部であったら、使い方を間違えたり乱用につながり、自己中心など原則以外の中心を助長することになりかねない。

自己宣誓とイメージ化は一種のプログラミングにすぎず、自分の中心と相容れないプログラミングや、金儲けや利己主義など正しい原則とはまるで無縁のプログラミングに身を委ねてしまってはいけない。

物を手に入れることや自分が得することしか考えない人が、想像力を使って束の間の成功を得ることもあるだろう。

しかし、想像力は良心を伴ったときにこそ高い次元で効果を生むのであって、自らの目的に適い、相互依存の現実を支配する正しい原則に従うことで、自分を超えて広い社会に貢献できる人生を送れると私は確信する。

役割と目標を特定する

もちろん、論理と言語をつかさどる左脳も大事である。

右脳でとらえたイメージや感情、映像を言葉にしてミッション・ステートメントにするのは左脳の仕事だ。

呼吸法を身につけると身心の一体感が得られるように、書くという作業は精神・神経・筋肉に作用する活動であり、顕在的な意識と潜在的な意識を結びつける働きをする。

書くことによって、自分の考えの無駄な部分が削ぎ落され、明確になる。

全体を部分に分けて考えることもできる。

私たちは誰でも、人生でさまざまな役割を持っている。

いろいろな分野や立場で責任を担っている。

たとえば私なら、個人としての役割の他に、夫、父親、教師、教会のメンバー、ビジネス・パーソンとしての役割もある。

これらの役割はどれも同じように大事だ。

人生をもっと効果的に生きる努力をするときに陥りがちな問題の一つは、思考の幅が狭くなってしまうことである。

効果的に生きるために必要な平衡感覚やバランス、自然の法則を失ってしまうのだ。

たとえば、仕事に打ち込みすぎて健康をないがしろにする。

成功を追い求めるあまり、かけがえのない人間関係をないがしろにしてしまうこともあるだろう。

ミッション・ステートメントを書くとき、あなたの人生での役割を明確にし、それぞれの役割で達成したい目標を立てれば、バランスがとれ、実行しやすいものになるだろう。

仕事上の役割はどうだろうか。

あなたは営業職かもしれないし、管理職かもしれないし、商品開発に携わっているのかもしれない。

その役割であなたはどうありたいと思っているのだろうか。

あなたを導く価値観は何だろう。

次は私生活での役割を考えてみる。

夫、妻、父親、母親、隣人、友人などいろいろな立場にあるはずだ。

その役割をあなたはどのように果たすのだろうか。

あなたにとって大切なことは何だろう。

政治活動、公共奉仕、ボランティア活動など、コミュニティの一員としての役割も考えてほしい。

ここで、ある会社経営者が役割と目標を設定して書いたミッション・ステートメントを紹介しよう。

私の人生のミッションは、誠実に生き、人の人生に違いをもたらすことである。

このミッションを果たすために:私は慈愛を持つ──どのような境遇に置かれている人も愛する。

一人ひとりを見出して、愛する。

私は自己犠牲を惜しまない──自分の時間、才能、持てるものすべてを人生のミッションに捧げる。

私は人をインスパイアする──人は皆、慈しみ深い神の子であり、どんな試練でも乗り越えられることを、自ら身をもって示す。

私は影響力を発揮する──自分の行動によって、他者の人生に良い影響を与える。

私は人生のミッションを達成するために、次の役割を優先する:夫──妻は私の人生においてもっとも大切な人である。

妻とともに、調和、勤勉、慈愛、倹約の精神を持ち、実りある家庭を築く。

父親──子どもたちが生きる喜びを深めていけるように手助けする。

息子・兄弟──必要なときにはいつでも支えとなり、愛情を示す。

クリスチャン──神との誓約を守り、他の神の子らに奉仕する。

隣人──キリスト教が説く愛をもって隣人と接する。

変化を起こす人──大きな組織の中で、高い業績を生み出す触媒となる。

学者──毎日新しい大切なことを学ぶ。

自分の人生での大切な役割を念頭に置いてミッションを書くと、生活にバランスと調和が生まれる。

それぞれの役割をいつでも明確に意識することができる。

ミッション・ステートメントを折に触れて目にすれば、一つの役割だけに注意が向いていないか、同じように大切な役割、あるいはもっと大切な役割をないがしろにしていないか、確かめることができるのだ。

自分の役割を全部書き出したら、次はそれぞれの役割で達成したい長期的な目標を立ててみる。

ここでまた右脳の出番だ。

想像力と創造力、良心、インスピレーションを働かせよう。

正しい原則を土台にしたミッション・ステートメントの延長線上に目標があるのなら、何となく立てる目標とは根本的に違うものになるはずだ。

正しい原則や自然の法則と調和しているのだから、それらが目標達成の力を与えてくれる。

この目標は誰かから借りてきたのではない。

あなただけの目標である。

あなたの深い価値観、独自の才能、使命感を反映した目標である。

あなたが自分の人生で選んだ役割から芽生えた目標なのである。

効果的な目標は、行為よりも結果に重点を置く。

行きたい場所をはっきりと示し、そこにたどり着くまでの間、自分の現在位置を知る基準になる。

たどり着くための方法と手段を教えてくれるし、たどり着いたら、そのことを教えてくれる。

あなたの努力とエネルギーを一つにまとめる。

目標があればこそ、自分のやることに意味と目的ができる。

そしてやがて目標に従って日常の生活を送れるようになったら、あなたは主体的な人間であり、自分の人生の責任を引き受け、人生のミッション・ステートメントどおりの生き方が日々できるようになるはずだ。

役割と目標は、人生のミッション・ステートメントに枠組みや指針を与える。

あなたがまだミッション・ステートメントを持っていないなら、これを機会に今から取り組んでみよう。

あなたの人生で果たすべき役割を明確にし、それぞれの役割で達成したいと思う結果をいくつか書いておくだけでも、人生全体を俯瞰でき、人生の方向性が見えてくるはずだ。

第3の習慣の章に進んだら、短期的な目標について深く掘り下げる。

まずは、個人のミッション・ステートメントに照らして、自分の役割と長期的な目標を明確にすることが大切だ。

それらは、日常の時間の使い方に関わる第3の習慣を身につけるとき、効果的な目標設定と目標達成の土台となる。

家族のミッション・ステートメント

第2の習慣は正しい原則に基づいているため、応用範囲が広い。個人だけでなく、家庭、奉仕活動のグループ、企業やその他さまざまな組織も、「終わりを思い描くことから始める」習慣によって、効果的に運営できるようになる。

多くの家庭は、緊急の用事に追われ、さまざまな問題をその場その場で片づけ、応急処置で切り抜けるような日々を送っている。揺るぎない原則が土台とはなっていないのだ。

そのために、ストレスやプレッシャーがかかるといろいろな症状が出てくる。冷たい態度をとったり、批判したり、口をきかなくなったりする。あるいは怒鳴り散らしたりして過剰な反応を示す。

子どもが家族のこうした態度を見て育つと、大人になってから、問題に対する態度は「逃避」か「対立」かのどちらかしかないと思うようになる。

家族の中心にあるべきもの──家族全員が共有するビジョンと価値観──は、不変であり、消えてしまうこともない。

それをミッション・ステートメントに書くことによって、家族に真の土台をもたらしてくれる。このミッション・ステートメントは家族の憲法であり、スタンダードとなる。

また、物事を評価するときや意志決定の判断基準となる。家族が進むべき方向を示し、家族を一つにまとめる。

一人ひとりの価値観と家族の価値観が調和すれば、家族全員が同じ目的に向かって一致団結できる。

家族のミッション・ステートメントにおいても、つくり上げるプロセスが、できあがった文面と同じように大切である。

ミッション・ステートメントを書き、磨いていくプロセスそのものが、家族の絆を強くする鍵となる。

全員で取り組むうちに、ミッション・ステートメントを実践するために必要なPCが育つのだ。

家族一人ひとりの意見を聞いてミッション・ステートメントの第一稿を書き、それについて全員で意見を出し、表現のアイデアを取り入れて書き直すプロセスの中で、家族にとって本当に大事なことを話し合い、コミュニケーションを深められる。

家族がお互いを尊重し、それぞれの意見を自由に述べ、一人ではなく、全員で力を合わせてつくったより良いものであるなら、最高のミッション・ステートメントになるはずだ。

定期的にミッション・ステートメントを見直し、書き足して範囲を広げたり、重点や方向を変えたり、古くなった表現を書き直したり、新たな意味を加えたりしていけば、共通の価値観と目的のもとで家族の結束を保てる。

ミッション・ステートメントは、家族のことを考え、家族を導く枠組みになる。

問題や危機に直面したときも、この憲法があれば、家族にとって一番大事なことを思い出すことができる。

憲法が指し示す方向を確認して、正しい原則に照らし合わせて問題を解決し、家族の意志をまとめることができるのだ。

わが家では家族のミッション・ステートメントがリビングの壁に貼ってあり、家族全員が毎日それを見て、自分の行動をチェックできる。

家庭の愛情、秩序、責任ある自立、協力、助け合い、ニーズに応える、才能を伸ばす、お互いの才能に興味を示す、人に奉仕する、といったフレーズが書かれている。

それを読めば、私たち家族にとって本当に大切なことに対して、自分がどんな行動をとればよいのかを判断する尺度になるのだ。

家族の目標を立てたり、家族で行うことを計画したりするときには、「ここに書いてある原則に照らしたら、どんな目標に取り組んだらいいだろう?目標を達成し、家族みんなが大切にしていることを実現するためには、どんな活動を計画したらいいだろう?」と話し、皆で相談する。

わが家では、ミッション・ステートメントを頻繁に見直し、年に二回、九月と六月──学年の始めと終わり──に新しい目標と役割を見直す。

そうすればミッション・ステートメントに現状を反映できるし、改善を重ねて、さらにしっかりとしたミッション・ステートメントにすることができる。

また、その見直しによって、全員が何を信じ、何を標準としているのかを再認識し、決意を新たにすることができるのだ。

組織のミッション・ステートメント

ミッション・ステートメントは、組織の成功にとっても重要なものになる。

私はこれまで多くの組織のコンサルティングをしてきたが、どの組織にも、効果的なミッション・ステートメントを作成するよう強く勧めている。

組織のミッション・ステートメントが効果的であるためには、その組織の内側から生まれたものでなければならない。

経営幹部だけでなく、組織の全員が意味のあるかたちで作成のプロセスに参加する。

繰り返すが、組織のミッション・ステートメントもまた、できあがったものと同じようにプロセスが重要であり、全員が参加することが、ミッション・ステートメントを実践できるかどうかの鍵を握っている。

私は、IBM社を訪れると必ず研修の様子を興味深く見る。研修を受ける社員たちに幹部は、IBMは三つのことを大切にしているのだとよく話している。

その三つとは、個人の尊重、完全性の追求、最善の顧客サービスである。これらはIBMの信条を表している。他のすべてが変わっても、この三つだけは変わらない。

浸透作用のように組織全体に行きわたり、全社員が共有する価値観と安定の確固とした基盤となっている。

ニューヨークでIBM社員の研修を行っていたときのことである。参加者は二〇名ほどだったが、そのうちの一人が体調を崩した。

カリフォルニアにいる奥さんは、電話で連絡を受け、夫の病気は特別な治療が必要だから心配だと言った。

IBMの研修担当者は、専門医のいる地元の病院に連れていく手配をしたが、それでも奥さんは不安で、かかりつけの医師に診せたいと思っている様子がうかがえた。

研修担当者は、彼を自宅に帰すことにした。

しかし空港まで車で行き、定期便を待つとなると時間がかかりすぎるため、ヘリコプターで空港まで送り、彼一人をカリフォルニアまで運ぶために飛行機をチャーターした。

これにいくらかかったのか知らないが、おそらく何千ドルの単位だろう。だがIBMは個人の尊重を何よりも大切にする会社だ。その信条はIBMを象徴するものである。

これは会社の信念が具体的なかたちで現れた出来事であり、研修に参加していた他の社員にとっては驚くことでも何でもなかったという。

私は感動した。

別の機会の話だが、ショッピングセンターのマネージャー一七五人の研修を行ったことがある。場所はとあるホテルだったが、そこのサービスの素晴らしさにびっくりした。見せかけだけでとてもあそこまではできない。

誰かが監視しているわけでもないのに、誰もが自発的にゲストへのサービスを行っていたのは明らかだ。

私がホテルに着いたのは、夜もかなり遅くなってからだった。チェックインしてから、まだルームサービスが頼めるかどうか聞いてみた。

フロント係は、「申し訳ございません。ルームサービスは終了しております。ですが、何か召しあがるのでしたら、厨房にあるものでサンドイッチでもサラダでも、ご希望のものをご用意いたします」と言った。

彼の態度からは、私が気持ちよく泊まれるようにする心遣いが感じられた。

「明日の研修にご利用になる会議室をご覧になりますか」と彼は続けた。

「ご覧になって足りないものがありましたら、どうぞお申しつけください。すぐにうかがいますので」その場にはフロント係の仕事ぶりをチェックしている上司などいなかった。

彼の誠心誠意のサービスだったのだ。

翌日、プレゼンテーションの最中にカラーマーカーペンが揃っていないことに気づいた。

休憩時間に廊下に出たとき、他の会議場に走っていくベルボーイを見つけたので、呼び止めて言った。

「ちょっと困っていましてね。今、マネージャー研修をやっているのですが、カラーマーカーペンが足りないんですよ。休憩時間もあまりなくて……」

ベルボーイはくるりと振り向いて私に気づき、私のネームタグを見て言った。

「コヴィー様、かしこまりました。私がご用意いたします」彼は「どこにあるかわかりません」とも「すみませんが、フロントで聞いてください」とも言わなかった。

私の面倒な頼みを引き受けてくれたのだ。

しかも彼の態度からは、用事を言いつけてもらうことが名誉であるかのように感じさせてくれた。それから少し後、私はサイドロビーに飾ってある絵画を観ていた。

するとホテルのスタッフが近づいてきて、「コヴィー様、私どものホテルにある美術作品を解説した本を持ってまいりましょうか」と言った。

何という気配りと素晴らしいサービス精神だろう!次に私の目に留まったのは、高い梯子に登ってロビーの窓を磨いていたスタッフだった。

梯子の上からは庭が見渡せる。そこを女性客が歩行器を使って歩いていた。女性は転んだわけではなく、連れの人もいたのだが、うまく歩けないようだった。

彼は梯子を降り、庭に出ていき、女性に手を貸してロビーまで連れていき、これでもう大丈夫というところまで見届けてから、何事もなかったように元の梯子に戻り、窓拭きを続けた。

私は、スタッフ一人ひとりがこれほどまでに顧客サービスを徹底できる組織文化がどのようにして築かれたのか、ぜひとも知りたくなった。

客室係、ウェイトレス、ベルボーイから話を聞いてみて、顧客サービス重視は、ホテルの全スタッフの頭にも心と態度にも浸透していることがわかった。私は裏口からホテルの厨房に入ってみた。

すると、厨房の壁には『お客様お一人おひとりに妥協なきサービスを』と書かれたポスターが貼ってあった。

これこそ、このホテルのもっとも重要な価値観だったのだ。

私は支配人のところへ行き、「実は私は、力強い組織文化や際立ったチームカラーを育てるコンサルティングをしているのですが、このホテルには大変感心しました」と言った。

支配人は「秘訣をお知りになりたいですか?」と言って、そのホテルチェーンのミッション・ステートメントを取り出した。

私はそれに目を通してから、「素晴らしいミッション・ステートメントですね。しかし立派なミッション・ステートメントを掲げている企業なら、たくさんありますよね」と言った。

「このホテルのミッション・ステートメントもご覧になりますか?」と支配人。

このホテルだけのミッション・ステートメントもあるのですか?」「ええ」「ホテルチェーン全体のものとは違うのですか?」「はい。グループ全体と調和をとりながら、こちらのほうは、このホテルの状況や環境、現状などに合わせてつくりました」支配人はそう言って、私にもう一枚の紙を手渡した。

「これは誰がつくったんです?」私は聞いた。「全員です」「全員?本当に全員で?」「そうです」「客室係も?」「はい」「ウェイトレスも?」「はい」「フロントの人も?」「はい。昨晩、コヴィー様をお迎えしたフロントの者たちが書いたミッション・ステートメントをお見せしましょうか?」

支配人が取り出したミッション・ステートメントは、フロントのスタッフたちが他の部署のミッション・ステートメントとの整合性を考慮して作成したものだった。

支配人の言葉どおり、すべてのスタッフがミッション・ステートメントの作成に関わっていたのである。

このホテル専用のミッション・ステートメントは、たとえるなら大きな車輪の中心軸である。そこから、部署ごとによく練られた具体的なミッション・ステートメントが生まれる。

それはあらゆる判断の基準となっていた。顧客の迎え方からスタッフ同士の関係まで、スタッフがどのような価値観を持って行動すべきかを明確に示していた。

マネージャーとリーダーのスタイルにも影響を与えていた。給与体系にも、スタッフの採用基準にも、教育や能力開発の方法にも影響を与えていた。

このホテルでは、車輪の中心軸、すなわちミッション・ステートメントがすべての面で息づいていたのである。

後日、同じチェーンの別のホテルに泊まった。私はチェックインを済ませると真っ先に、ミッション・ステートメントを見せてほしいと頼んだ。もちろん、すぐに出してくれた。

このホテルで私は、例の「お客様お一人おひとりに妥協なきサービスを」というモットーをもう少し深く体験することとなった。

三日間の滞在中、サービスが必要とされる場面をいろいろと観察した。スタッフの対応はどんなときも素晴らしく感動的だった。

しかも宿泊客一人ひとりに心のこもったサービスを提供していたのである。

たとえばプールで「水飲み場はどこか」と尋ねたとき、スタッフはわざわざ水飲み場まで案内してくれた。

しかし私がもっとも感心したのは、スタッフが自分のミスを上司に報告した一件だった。

私がルームサービスを頼んだときのことである。

ルームサービス係が部屋まで運ぶ途中にココアをこぼし、厨房に戻ってトレーにリネンを敷き直し、ココアを取りかえるのに数分の時間がとられた。

結果的にルームサービスは最初に告げられていた予定時刻から一五分遅れた。私にすればまったく不都合はなかった。

にもかかわらず、翌朝、ルームサービスの主任からお詫びの電話があり、昨夜の不始末の埋め合わせとして、ビュッフェの朝食かルームサービスの朝食をご用意したい、と言ってきたのである。

些細な失敗、しかも黙っていればわからないミスを自分から上司に報告し、顧客により良いサービスを提供しようとしたのである。これ以上雄弁に組織の文化を物語るものがあるだろうか。

最初に泊まったホテルの支配人にも言ったように、立派なミッション・ステートメントを持っている組織ならいくらでもある。

しかしそこで働く人たち全員で作成したミッション・ステートメントと、高級な応接セットに座って数人の幹部が作成したミッション・ステートメントとでは、その効果に雲泥の差がある。

家族も含めて、あらゆる組織に共通する根本的な問題の一つは、自分の働き方、あるいは生き方を他の人から決められるとしたら、本気で取り組むのは無理だということだ。

私は、企業のコンサルティングをするたびに、自分の会社の目標とはまるで異なる個人の目標を立てて働いている人を大勢見かける。企業が掲げている価値体系と給与体系がまったくかみ合っていない例も多い。

ミッション・ステートメントのようなものをすでに持っている企業のコンサルティングをするとき、私はまず「ミッション・ステートメントがあることを知っている社員は何人くらいですか?内容を知っている人はどのくらいいるのでしょう?作成に関わったのは何人ですか?心から受け入れて意志決定の基準として使っている人はどれくらいいますか?」と尋ねることにしている。

自分が参加していないことに打ち込む決意をする人などいない。参加なければ決意なしと紙に書いて、星印をつけ、丸で囲み、アンダーラインを引いてほしい。関わらなければ、決意はできないのだ。

初期の段階にいる人、たとえば入社したばかりの新人や家族の中の幼い子どもが相手なら、目標を与えても素直に受け入れるものである。信頼関係ができ、こちらの指導が適切ならば、しばらくはうまくいくだろう。

しかし、新入社員が会社の仕事に慣れてくれば、あるいは子どもがだんだんと成長し自分なりの生き方ができてくると、言われるだけでなく、自分のほうからも意見を言いたいと思うようになる。その機会が持てなければ、本気で身を入れられるわけがない。

問題が生じたときと同じレベルでは解決できない、深刻なやる気の問題を抱えることになる。

だから、組織のミッション・ステートメントをつくるときは、時間、忍耐、参加、能力、共感が必要とされる。

これも応急処置で何とかなるものではない。

全員が共有するビジョンと価値観に合わせて会社のシステムや組織構造、経営スタイルを整えるには、時間、正直、誠実、勇気、正しい原則が必要とされる。

しかし、正しい原則に基づいているミッション・ステートメントなら、必ず効果を発揮する。

組織の全員が本心から共感できるビジョンと価値観を反映したミッション・ステートメントは、組織の結束と決意を生み出す。

そのようなミッション・ステートメントを持つ組織では、一人ひとりが自分の役割に打ち込める。一人ひとりの心と頭の中に、自分の行動を導く基準、ガイドラインができているから、他人からの管理、指示も要らなくなる。

アメとムチを使わなくとも、全員が自発的に行動する。組織がもっとも大切にする不変の中心を、全員が自分のものとしているからである。

第2の習慣:終わりを思い描くことから始める実践編

1この章の初めで自分の葬儀の場面を思い描いたときに感じたこと、考えたことを記録する。

下の表にまとめてみよう。

2少し時間をとって、あなたが果たしている役割を書き出す。

そこに映る自分の人生のイメージに満足しているだろうか?

3日常から完全に離れる時間をつくり、人生のミッション・ステートメントを書いてみる。

4付録の表を読み、自分に当てはまると思う中心を丸で囲む。

それはあなたの行動パターンを表しているだろうか?分析の結果に納得できるだろうか?

5個人のミッション・ステートメントの資料になるアイデアや引用句を集め始める。

6近い将来に計画しているプロジェクトや仕事を一つ選び、頭の中で思い描く。

望んでいる結果とそれを達成するためのステップを書き出す。

7第2の習慣の原則を家族や職場の同僚と共有し、家族や職場のミッション・ステートメントを一緒に作成してみる。

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