MENU

第1章勉強嫌いの落ちこぼれ

はじめにニトリホールディングス(HD)はおかげさまで2015年2月期の決算で28期連続の増収増益を達成することができた。

円安や消費増税、人手不足などニトリにとって逆風ばかり。

不安だらけの年度初めだったが、原料調達から商品開発まで、あらゆる改善で何とか乗り切った。

ニトリは1972年に100店・売上高1000億円という30年計画を作り、2003年に1年遅れで達成。

13年には300店を達成し、今は3000店・3兆円という次の30年計画へ向けて動いている。

「成功の秘訣は何ですか」とよく聞かれるが、ロマンとビジョンを掲げ、「他社より5年先をゆく」経営を進めてきた結果だと自負している。

こう話すと頭脳明晰な経営者のイメージを与えるかもしれないが、実は逆。

飲み込みが悪く、子供の頃はすさまじい劣等生だった。

少なくとも20代半ばまではビジョンとは一切無縁の男だった。

数年前、小学校4年生まで通った幌北小学校(札幌市)の担任だった熊坂昌子先生のご家族からこんな趣旨の手紙をもらった。

「私はニトリ社長の小学校時代の担任をしていた女性の孫です。

祖母がよくこんな話をしていました。

クラスで1人だけ漢字で名前を書けないのは似鳥君だけで、教えても教えても覚えられず、結局ひらがなで書いていました。

あの似鳥さんが北海道で成功している。

何でなんだろう。

そのいきさつが聞きたいとよく話していました」熊坂先生は店には何度か連絡したが、こちらのミスでつながらなかったらしい。

結局熊坂先生は数年前に亡くなってしまった。

自分の名前を漢字で書けなかったことはすっかり忘れていたが、勉強がからっきしできなかったのは事実。

もっと早く知っていれば、お会いできたのに残念でならない。

お孫さんにはお礼のために直接お会いした。

劣等生だった私がなぜ成功できたのか。

今回の履歴書では半生を振り返り、熊坂先生の疑問に答えていきたい。

今も飲み過ぎるし、遊び好き。

だらしない性格も変わっていない。

逆に何もできないから、色々な人の力を借りながら成功できたと思う。

家内からは「あなたは人が普通にできることはできないけど、人がやらないことはやるわね」とからかわれる。

ニトリの1号店が開業したのは1967年(昭和42年)。

当時は極度のあがり症でうまく接客ができない。

ところが嫁入りした家内の百百代が販売上手で、私は仕入れや物流などの仕事に専念できた。

もし私が販売上手だったら、街の人気店で終わっていたかもしれない。

「短所あるを喜び、長所なきを悲しめ」は私の好きな言葉だ。

それから人生の師匠である、チェーンストア理論の日本での普及に多大な貢献をした渥美俊一先生に出会えたこと。

先生の考え方が「人生をかけるに値する」と信じ、忠実に経営に生かした。

賢くないので、あれこれとリスクは考えずに突っ走ることができた。

幼少期、青年期はいじめにも遭ったが、忘れっぽい性格も事業には向いていたかもしれない。

七転八倒の人生で、今では信じられないような「悪さ」もやらかした。

人並みのことができない問題児の若気の至りと受け止めていただければ、幸いである。

書籍化に当たってタイトルを「運はるもの」とした。

仕事で失敗したり、思うような結果を出せなかったりすると、人は「私は運が悪い」と考えがちだ。

確かに運も大きい。

私自身、ここまでニトリを成長させることができたのは80%が運だと思っている。

だがそれは偶然の産物ではない。

「運は、それまでの人間付き合い、失敗や挫折、リスクが大きい事業への挑戦など、深くて、長く、厳しい経験から醸成される」というものでもある。

出版に際して、日本経済新聞での連載では入りきれなかったエピソード、後に思い出した秘話などを盛り込んだ。

読んでいただき、読者の皆様に元気を与えることができたらこれに勝る喜びはない。

似鳥昭雄

目次はじめに第1章勉強嫌いの落ちこぼれ樺太生まれ、開拓民の4代目ヤミ米でしのぐ過酷だった幼少期恐怖の自転車配達いじめられっ子人を笑わせるのが快感に創成川に突き落とされる人生の成功者は21画ヤミ米届けて高校合格?

第2章歌手になろうとした青年時代

人生の運は紙一重奇病に苦しむ珠算大会で優勝短大に進学、ナンパ修行歌手「似鳥昭雄」の夢名門大学合格へカンニング?先生を尾行して弱みを探るアルバイトでスナックの取り立て屋

第3章何をやってもうまくいかない

家出し、広告会社に就職役立たずの営業マン広告会社をクビになる誤解を招いた花札遊び女性問題でピンチ噓をつかれて留置所に1年ぶりの実家へ季節工と力比べ、相撲、花札、酒で勝負

第4章日本に「豊かな生活」を実現したい

家業に見切り周囲になかった家具店を開業イメージ優先、看板に「偽り」8回目のお見合いで出会った伴侶内助の功元彼女にトラック1台分の家財道具噓並べ融資引き出すわらにもすがる米国視察米国視察で目覚める3号店出店へ粘りの交渉お札に似たクーポン券が問題に話題になったゴリラのCM断食で自己改革倒産品を買い付け、安売りで勝負店頭価格を一律に営業部長が商品横流しエアドーム店騒動

第5章師匠の教えを指針に

人生の師、渥美先生との出会いチェーン経営導入へ猛勉強札幌視察で先生に叱られるペガサスクラブから逃げ出す渥美先生の至言幻の1期生成長を支えた79年組30年計画を立案

第6章試練は終わらない

初の家具専用自動倉庫を導入ねたまれて、悪い噂も函館店成功で成長力出店規制で四苦八苦仕入れ先開拓のため単身海外へホームファニシングへの道ワレサ大統領に招かれる本州進出で挫折札証に上場スカウト組に実権握られる本州に再度挑戦旭川で家具メーカーを買収インドネシアに進出国内工場閉鎖で退路断つ山一証券と拓銀が破綻住友信託にすがる南町田店が大繁盛

第7章ロマンとビジョン、愛嬌と度胸

関西の合弁事業で失敗米国型の商品構成が現実に東証1部上場、100店を達成ホンダの杉山さんと運命の出会い本部を東京へ移転船の仲介業者と社員が癒着台湾へ進出中国出身社員が活躍ベトナム・ハノイに工場先生は草葉の陰で泣いている評価は死後に定まる大企業病に陥らないために短所を直さず、長所を伸ばせ独特の評価方法と「配転教育」社をあげて飲みニケーション社外役員が厳しく指導遺産巡って肉親と裁判人生は冒険だ関連年表プロの150訓およびプロフェッショナル心得帳(抜粋50項目)装丁谷口博俊(nextdoordesign)カバー写真有光浩治

第1章勉強嫌いの落ちこぼれ

樺太生まれ、開拓民の4代目私は1944年(昭和19年)に樺太で生まれた。

父・義雄の先祖は南部藩で家老を務めていたと聞くが、戊辰戦争で敗れ、岩手県から北海道の花畔村(現在の石狩市)に開拓民として移ってきた。

私は開拓民の4代目に当たる。

似鳥という名前は、今も岩手県に残る「にたどり」という地名に由来する。

似鳥一族のうち、本家筋が「にたどり」の名前のまま札幌に入植し、分家の当家は「にとり」という名前で入植した。

どうも、「にたどり」の方が賢い家系で、「にとり」は勉強が苦手だったようだ。

たまたまだが、杏林大学医学部で教授をやっている「にたどり」さんと知り合いになった。

7~8年の付き合いで、先日は息子さんの結婚式まで出席した。

親戚でもないのだが、「同じ名前だしルーツが同じだから、親戚みたいなもんだ」とか言って、なぜか親族の席に座っていた。

祖父は農業を敬遠して、馬の売り買いをする馬喰をなりわいとしていたが、稼いだ金は酒に使ってしまうような大酒飲みだった。

父が「よく何キロも先の店まで買いに行かされた」と言っていたことを覚えている。

10人兄弟の4男だった父は自分の土地もなく、昭和10年代に樺太に移住。

そこで父は母の光子と結婚し、農業を営んでいた。

だが昭和16年に太平洋戦争が始まると出征し敗戦後はシベリアに抑留された。

草を食べたり、ネズミを食べたり、ずいぶん苦労したようだ。

一家は大変だったが、母はソ連軍の嫌がらせにも負けない気丈な性格だ。

母の身長は160センチと当時としては高く、がっしりした体つき。

樺太で住宅の土台に必要な砂を川から運ぶ仕事もしていたが、男に負けない豪傑だった。

樺太の頃はまだ幼く余り覚えていない。

ひもじかったが、ストーブで焼いた「すじこ」や「サケ」の味やにおいは今も忘れられない。

水を汲む井戸の中では蛇がとぐろを巻いているなど、ひどい環境だった。

昭和21年、母は日本に船で帰ることを決めたが、直前に引き揚げ船が3隻、留萌沖で沈められた事件が起きた。

「やはり永住しよう」などと考えていると、最後の引き揚げ船が函館回りで戻るという。

その航路ならソ連軍もついてこないだろうが、生きて帰れるのかどうか五分五分。

翌年、再び沈められる不安を抱えながら帰国の途についた。

ヤミ米でしのぐ無事函館に着いたが、札幌までの旅費はない。

母はそこで農家の手伝いをして旅費を稼いだようだ。

札幌に帰り着き、同市の北25条5丁目に住む母方の祖母の家に居候することになった。

引き揚げ者のための簡易型の住宅が何棟もあり、8~10家族ぐらい入っていた。

同じような建物なので、たまに夜に帰ると自分の家が分からなくなってしまう。

作りは劣悪で、廊下は土。

雨漏りがひどく、バケツを置いたが、1つや2つでは足りない。

家の中にある洗面器など使えるモノはすべて使って雨をしのいだ。

冬になると雪が台所に入り込み、積もってしまう。

だからとにかく寒かった。

ひと間と台所だけの家に祖母や母の兄嫁の家族で雑魚寝していた。

数年後に父親がようやくシベリアから戻り、祖母のところから北24条西4丁目にある別の引き揚げ者住宅に住むことになった。

引っ越しの荷物は下着と親子の茶わんと、箸だけだった。

父はほどなく大工の修業を始めた。

経験もなく、40歳代後半で見習いだ。

父は手先が器用で、自分でタンスを作ったり、食器棚を作ったりした。

たまに仕事現場に弁当を持って行った記憶がある。

後にコンクリート製品の製造と住宅の基礎工事を手掛ける土木会社を作った。

母はヤミ米屋だ。

表通りには米屋もあり、駐在所もあったのに平気な顔をして商売を営む。

取り締まりの要請を受け、駐在所に呼ばれると母は必ず私を連れて行く。

「ヤミ米はやめてくれ」と言われると、「こんな小さい子がいて、食べていけないんです」と泣く。

「それでもヤミはダメだよ」と言われると今度は開き直り、「あんたらもヤミ米買っているでしょう。

私は見ているのよ」と逆ギレだ。

警官も「まあ、そうだけどね、そういう投書があり、調べないわけにはいかないから」と苦笑する。

取り調べを受けても母はめげない。

札幌市内にある北海道大学の職員や先生、その家族が住む「大学村」は得意先の一つだ。

だがそこにも米屋があり、やはり密告され、警察へ行く。

そんなことの繰り返しだった。

ヤミ米は地元の農家から米を刈り取る前に青田買いする。

父はよく私を連れ、馬車や馬ぞりで2時間くらいかけて農家に向かう。

田んぼを回り、青いうちに稲を食べると出来栄えが分かったらしい。

私は食べても苦いだけで、「ぺっ」とはき出してしまう。

そこで農協より少し高く買い、利ざやを少なくして正規米より5~10%安く売るというわけだ。

しかも欲しいときに欲しい量を売り渡す。

いわばジャストインタイムだ。

いとこが精米所をやっており、そこに貯蔵していた。

大工をやりながら父がヤミ米の仕入れと物流を担当するマーチャンダイザーで、母が販売する。

考えてみるとその姿はニトリの初期の経営に似ていた。

過酷だった幼少期子供だった昭和20年代は本当に過酷だった。

とにかくちょっとでもへまをすると両親からは殴られる。

今の時代なら虐待ととられるかもしれない。

空腹のあまり「もっと食べたい」なんて言ったら、味噌汁をぶっかけられ、ぶん殴られた。

米は売り物だから食べられないし、魚1匹を家族全員で分け合う感じだ。

母からは毎日たたかれ、父からも月に1回ぐらい、ベルトで気絶するまでなぐられた。

熱があっても手伝いは休めない。

逆に「気が抜けている」とひどく怒られる。

だから頭はいつもコブだらけだった。

熱があるなんて言えない。

よけいに怒られる。

「これは愛のムチだ」なんて、考えたことはない。

それが当たり前だし、疑問には思わなかった。

父は大工の修業の後、独立してコンクリート製品の加工・販売を始めた。

寡黙なまじめな人で、気も弱く、利用客からしょっちゅうクレームをつけられる。

なかなかもうからないので、家に入れるお金も少ない。

稼ぎの少ない父に対して、生活資金はヤミ米販売に頼っていた。

発言力のある母は朝から小言ばかりで、食器が飛び交う激しい夫婦げんかも絶えなかった。

罵詈雑言が飛び交い、テーブルがひっくり返ったり、カレーライスが部屋中に飛び散ったり。

けんかで勝つのは腕っ節が強い母だ。

両親から怒られるのは私だけでなく、妹も同じ。

冬の寒い日、裸同然で家の外を逃げ回っていた。

我が家は近所でも気性の荒い一家として有名だった。

時折、子供たちが死ぬんじゃないかと思って近所の人が止めに来るし、けんか騒ぎに近くの官舎から警察官が出動し、仲裁に入る始末。

まあ、壮絶な家だった。

家の手伝いもきつい。

例えば父とともに倉庫へヤミ米を取りに行く。

届けてもらうとお金がかかるからだ。

しかし冬は大変。

地吹雪の中、前が見えず、馬ぞりが溝に落ちてしまうのだ。

父は近くの民家に助けを求めに行く際、「決してここから離れるな。

下手に動いたら、道に迷い、間違いなく遭難するからな」と厳命する。

「人間、1日ぐらいは耐えられる」と言うのだが、薄い防寒着にゴム1枚の粗悪な長靴を履いているだけ。

とにかく寒く、凍え死んでしまいそうだ。

震えながら待っていると、数時間して父は戻ってくる。

体は冷え切り、がたがた震えている。

手伝いなのに生死の境に直面することが何度もあった。

今も思うのだが、なぜ父は私に手伝わせたのだろう。

食べるための苦労や生きざまを伝えたかったのだろうか。

ヤミ米の配達には毎日かり出される。

冬のある日、配達先で震えていると、玄関を後にした直後、母からなぐられた。

「相手先の家ではきちんと挨拶して、にこにこしていろ。

震えている姿なんて相手が不愉快なだけだ」と。

確かににこにこしていると、「僕、かわいそうね」と言われ、リンゴやミカンをもらえる。

リンゴなんか初めて食べた。

うれしくて芯まで食べたものだ。

以来、一歩家を出たらとにかくにこにこするようになった。

うさぎとヒヨコの飼育も私の仕事だったが、これもつらい思い出の一つ。

食糧難の時代、当然食用だ。

ゴミ箱をあさっている子供の姿もよく目についた。

だからエサもなく、エサ用の残飯探しが大変だった。

ようやくヒヨコが大きくなると、食用として解体しないといけない。

情も湧いたが、仕方がない。

脚を押さえて、クビを切る。

うさぎはさすがに無理で、親が解体した。

恐怖の自転車配達子供の頃、忘れもしない恐怖の思い出が自転車の練習だ。

小学4年生の時にヤミ米の運搬用に中古の自転車を買い与えられた。

もっとも背丈が低く、サドルをまたいでも地面につま先がつかない。

それでも両親は目標の距離まで運転できるまで許さない。

ペダルを蹴って、乗れるようにする。

目標の距離まで乗れないと、こっぴどくしかられる。

「巨人の星」のようなものだ。

血だらけになりながら、ようやく乗れるようになった。

今度は米が1斗入る袋を運べるようになるまで、練習する。

最大4袋だ。

失敗すると、また殴られるので、夜に1人で練習した。

何度も言うが、あくまでヤミ米の配達のための訓練だ。

ようやく自転車での配達ができるようになったが、不安定この上ない。

ある日、転んでしまい、地面に飛び散った米ごと家に持ち帰った。

その日のご飯は砂だらけ。

母は「白米は私たちが食べるものではないよ。

売り物だからね。

覚えておきなさい」と叱る。

小さかった弟や妹の子守もして遊ぶ時間もない。

両親への憎しみも強まったが、反抗はできない。

楽しみは寝ることだけ。

そのときだけは苦しみから逃れることができるからだ。

ヤミ米の配達、鶏の世話などに加え、田舎の祖母が持ってくるフキやワラビを売りに行くのも私の仕事だ。

米は2斗届けたら5円とか、野菜は1籠当たりいくらいくらとか、すべての仕事は「出来高払い」。

貯金通帳などお金の管理は母がやる。

私が使う机やいす、文房具はすべて仕事の報酬で購入していた。

うまくこき使われたものだ。

当時は、遊びたくても遊べない。

というのも父がシベリアから帰り、6つ下の妹、9つ下の妹、11年下の弟が生まれた。

母が米を配達している間に面倒を見ないといけない。

あるとき、下の妹をおんぶしてビー玉やパッチをやっていると、上の妹がいなくなった。

探してもなかなか見つからず、あれには真っ青になった。

母は金貸しもやっていたのだが、「おまえもやるか」と聞いてきた。

月に10%の利息。

たいした利回りではないが、お金が増えるのが分かったので参加してみた。

ところが貸した人間はまもなく夜逃げ。

考えてみると当時の長屋は犯罪者のふきだまりだった。

貧しいから空き巣に強盗、売春、クスリの常用者など危ない人も多く、信用もへったくれもなかったのだが。

子供心なりに金融業には関わらないでおこうと決めたものだ。

いじめられっ子家では殴られながらこき使われ、学校でも悲惨な目に遭っていた。

小学生時代はまさにいじめられっ子。

裏家業の「ヤミ米屋」だったものだから、「ヤミ屋、ヤミ屋」としょっちゅうののしられた。

クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はつぎはぎだらけ。

しかも家にお金がないから、少しでも長く着るために大きめのサイズの服を買う。

だから買った当初はいつもだぼだぼだ。

不格好な服で体も小さく、トイレに呼びつけられてやはり殴られる。

たくさんのいじめを受けたが、その一つが私のつぎはぎだらけのズボンを使った遊びだ。

「おまえはキャッチャーだからな。

逃げるなよ」。

同級生は私を後ろ向きに立たせて、おしりのつぎはぎを的にしてボールをぶつけるのだ。

当たると「ストライク」の掛け声。

ボールは軟球だが、これが痛い。

逃げるとぼっこぼこにされる。

無抵抗主義で、登校時は学校へ着くまで長い竹ざおで突つかれまくる。

いじめられてもいつもニタニタしているので「ニタリくん」と呼ばれていた。

当時北海道新聞で連載していた4コマ漫画の登場人物と同じ名前だ。

小学校2、3年生の時、親にいじめられる理由を話すと、「男だろう。

だらしない。

つぎはぎで何が悪い。

ヤミ米屋で生きているのだから堂々としろ」と逆に怒られる始末。

逃げ場はない。

当然勉強はできない。

のみ込みが悪く、先生が何を言っているのか分からない。

だから通信簿も5段階の1か2ばかり。

母には「1が一番良くて、5が最低」とウソをついていた。

それがなぜか長い間ばれなかった。

何も知らない母は井戸端会議で「うちの子は1とか2ばっかりで優秀なんだ」と自慢をしていた。

周囲も「昭雄ちゃん、またたたかれるから」と黙っていたらしいが、さすがに誰かが「1が最も成績が悪いの」と教えた。

長年、私の話を信じていた母は驚き、学校の先生の所まで聞きに行ったらしい。

それでばれちゃった。

もちろん家に帰ったらたたかれ、「勉強しろ」と言う。

そのくせ手伝いばかり。

成績が伸びることはなかった。

父は余り成績のことを言わなかった。

「おまえは頭の悪い人間が結婚して生まれた子だ。

だから勉強ができないのは当たり前だ」というのが理由だ。

もっとも後がある。

「だから人より努力するか。

人のやらないことをやるかだ」

人を笑わせるのが快感にこの頃の担任だったのが「はじめに」で登場した熊坂先生だ。

きれいで優しい方だった。

「自宅に遊びにおいで」と言われ、同級生と一緒にたびたび遊びに行った。

先生の存在だけが救いだった。

4年生の時、新設の白楊小学校へ移ることになった。

学校が変わっても「いじめられっ子」であることは変わらない。

そういう体質だったのだろう。

ただこの頃から「面白い」ということへの関心が非常に高まった。

授業はろくに聞いていないけど、瞬間、瞬間で先生の言葉尻をつかまえて、面白いことを言うとみんなが大笑いする。

それぐらいでしか存在感を出せないし、笑わせることに快感を覚えるようになった。

月1回の大掃除をする日のこと。

同級生の1人が「天井にあるあのボタンを押すと、面白いことが起きるぞ」という。

「面白い」の一言に興奮した。

押してみたらけたたましい音が学校中に鳴り響く。

非常ボタンだった。

たくさんの先生が慌ててバケツを持って教室にやってくる。

同級生たちはくもの子を散らすように逃げ、私だけが残される。

みんなを集めて「誰が押した」と激怒する先生の一言に「似鳥君でーす」と声をそろえる。

言うまでもなく激しくぶん殴られた。

それでも周囲を驚かせる快感は忘れられず、いたずらをやめることはなかった。

成川に突き落とされる1956年に中学に上がった。

引き揚げ者住宅が中心の中学校なので、やんちゃな奴が多い。

窓ガラスを割ったり、学校同士のけんかがあったり、札幌市内でも有数の不良学校と言われていた。

みんなで風呂屋を覗きに行き、店の主人に見つかったこともあった。

私は逃げ切ったが、捕まったやつはひどい目に遭っていた。

中学校へ行ってもいじめられる境遇は変わらない。

米の配達もして腕力もあった。

一対一なら負けない自信もある。

得意の相撲なら絶対に負けない。

ただいじめられやすい体質なのか、休み時間のたびに教室の外へ連れて行かれ、集団で暴行を受けた。

ある日、北海道大学の職員が住む住宅地へヤミ米を配達しているときの話だ。

札幌市内を流れる成川沿いでばったりと同級生たちと出くわした。

嫌な予感が走ったが、もう避けられない。

同級生たちは自転車もろとも私を川に突き落とした。

頭から突っ込んでいれば死んでいただろう。

どろどろの姿で家に帰ると、母は驚きながらこう言った。

「米はどうしたの」。

私はいたずらされ、川に突き落とされたことを話すと「落ちた米をすべて拾ってこい」という。

私より米の心配。

まるで漫才のようなオチだが、仕方がないので成川に戻り、どろどろの米を持ち帰った。

量は10分の1しかなく、ざるで洗ったが、においはとれない。

それを食べたのは言うまでもない。

この話には後日談がある。

10年ほど前、中学校の同窓会で、あの時私を川に突き落とした同級生が「似鳥さんが死んだ夢を何度も見た。

あれから50年、とんでもないことをしてしまったと罪悪感にさいなまれていた」と話す。

私自身はすっかり忘れていたし、思い出しても恨みが湧いてくることはなかった。

後日談をもう一つ。

「私の履歴書」の連載が終了してから2週間後、中学校の同窓会が開かれた。

そのとき、私を川に突き落とした同級生が「履歴書」を製本してみんなに配り、「この中に私が登場しています。

探して下さい」と言い、みんなで爆笑していた。

いたずら好きは変わらなかった。

今でも必ずクラス会で話題になるいたずらがある。

しょっちゅうたたく厳しい先生がいた。

そこで一度ひどい目に遭わせようとして、大中小の花瓶に水を入れたまま、逆さまにして置いた。

先生が教室に入り、教壇に立つと「これは何だ」と言い、一番上の花瓶を持ち上げた。

すると水がこぼれ、教壇はびちゃびちゃ。

先生もそこでやめておけばいいのに、また花瓶を持ち上げ、再び水浸し。

先生の服もひどくぬれた。

怒り狂った先生は「誰がやったんだ。

正直に名乗り出たら許してやる」という。

怒らないなんて信じていないので、誰も名乗り出ない。

先生は放課後に犯人捜しを始め、それが2週間続いた。

あまりのしつこさに参ったが、先生の怒りが尋常ではない。

結局誰も口を割らず、「未解決」事件になった。

勉強は相変わらず。

理解力が著しく悪いので先生の言うことが頭に入ってこない。

結婚してからの話だが、家内は「なぜあなたが幼少期からお母さんに怒られ続けたのかよく分かる。

すぐに理解して行動しないからなのよ」と言われた。

そんなわけで授業中は漫画ばかりを書いていた。

まずまずうまいので、友人から好きな漫画を拡大して描くように頼まれた。

人生の成功者は21画こんなエピソードがある。

やたらと人の名前の字画にこだわる数学の先生がいた。

ある日、「21画の名前が成功する確率が高い。

誰かいるか」と聞く。

2人いた。

1人は全校で成績1番の同級生で、後に東京大学に進んだ。

もう1人は学業成績最下位の私で、昭雄はぴったり21画。

教室が笑いに包まれたのは言うまでもないが、ニトリが企業として成功したわけだから、先生の「うんちく」通りだった。

パッとしない中学時代だが、今でも心に残っている言葉がある。

行儀が悪いとすぐにチョークを投げつける数学の先生がいた。

その先生が10代で兄弟を亡くした自分の人生経験から「人間はいつ死ぬか分からない。

やりたいことをやって、思い残すことはないように。

そのときは肉親にも、後悔していないから悲しまないでと言えるような人生であってほしい」と教えてくれた。

これには感動した。

ずっと覚えていて、家内にも「俺の葬式は笑って送り出してほしい。

カラオケ大会でも開いて、生前に記録したCDとビデオでも流してくれ」と伝えている。

遺言も残している。

自分が死んだときの社長も50代ぐらいから決めていた。

会社は後継者で決まってしまうし、業者の死後も永続しなければならないのだから、当然だろう。

ゴールから今の会社のありようを考える。

この私の経営の原理原則は中学時代の先生の一言が影響している。

ヤミ米届けて高校合格?当然高校入試はことごとく落ちた。

最後のとりでは北海道工業高校(現在の北海道尚志学園高校)。

ここを落ちたら全滅だが、やはり不合格だった。

私は「何か手を打たなくては」と考えた。

ヤミ米の販売先の友人が北海道工業高校の校長先生だった。

夜中に米1俵を届け、「何としてでも合格したいんです」と訴えた。

そのおかげかどうかは分からない。

補欠合格となった。

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次