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第1章企業の成果

目次

第1章企業の成果

2企業とは何か

企業=営利組織ではない

生産、マーケティング、財務、技術、購買、人事、広報などの職能については、文献が多い。しかしマネジメントそのものが何であり、何を行うべきものであり、いかに行うべきものであるかについては、議論さえ聞かない。これは偶然ではない。

総合的な経営科学と真の企業理論が存在していないからである。企業とは何かと聞けば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。だがこの答えは、まちがっているだけでなく的はずれである。

経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言いなおしたにすぎない。それは企業のいかなる活動も説明しない。

活動のあり方についても説明しない。利潤動機には意味がない。利潤動機なるものには、利益そのものの意義さえまちがって神話化する危険がある。

利益は、個々の企業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業活動や企業の意思決定にとって、原因や理由や根拠ではなく、その妥当性の判定基準となるものである。

そのような意味において、たとえ経済人の代わりに、天使を取締役に持ってきたとしても、つまり金銭に対する興味がまったく存在しなかったとしても、利益に対しては重大な関心を払わざるをえない。この混乱の原因は、利潤動機なる動機によって人の行動を説明できるとする考えにある。

だが利潤動機なるものは存在するかさえ疑わしい。それは古典派経済学者が、彼らの静的均衡理論では説明できない経済の現実を説明するために考え出したものである。

その存在を証明するものはない。しかもわれわれは、かつて利潤動機によって説明しようとした経済変動や経済成長を説明するものを、すでに見つけている。

利潤動機なるものは、企業行動はもちろん、利益そのものとさえ無関係である。何某が利潤動機のもとに事業をしているということは、その者と記録係の天使だけの問題である。

しかも、利益のために事業をしているということから、彼がいかなる事業をいかに行っているかは知りえない。利潤動機なるものは、的はずれであるだけでなく害を与えている。

この観念のゆえに、利益の本質に対する誤解と、利益に対する根深い敵意が生じている。この誤解と敵意こそ、現代社会におけるもっとも危険な病原菌である。

そのうえこの観念のゆえに、企業の本質、機能、目的に対する誤解に基づく公共政策の最悪の過ちがもたらされている。利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれている。

しかし企業は、高い利益をあげて、初めて社会貢献を果たすことができる。

企業の目的

企業とは何かを知るためには、企業の目的から考えなければならない。

企業の目的は、それぞれの企業の外にある。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。

企業の目的の定義は一つしかない。それは、顧客を創造することである。市場をつくるのは、神や自然や経済的な力ではなく企業である。企業は、すでに欲求が感じられているところへ、その欲求を満足させる手段を提供する。

それは、飢饉における食物への欲求のように、生活全体を支配し、人にそのことばかり考えさせるような欲求かもしれない。しかしそれでも、それは有効需要に変えられるまでは潜在的な欲求であるにすぎない。

有効需要に変えられて、初めて顧客と市場が誕生する。欲求が感じられていないこともある。コピー機やコンピュータへの欲求は、それが手に入るようになって初めて生まれた。

イノベーション、広告、セールスによって欲求を創造するまで、欲求は存在しなかった。企業とは何かを決めるのは顧客である。なぜなら顧客だけが、財やサービスに対する支払いの意志を持ち、経済資源を富に、モノを財貨に変えるからである。

しかも顧客が価値を認め購入するものは、財やサービスそのものではない。財やサービスが提供するもの、すなわち効用である。

企業の目的は、顧客の創造である。したがって、企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。

マーケティング顧客の欲求からスタートする

企業の第一の機能としてのマーケティングは、今日あまりにも多くの企業で行われていない。言葉だけに終わっている。消費者運動がこのことを示している。

消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである。それは企業に対し、顧客の欲求、現実、価値からスタートせよと要求する。企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する。

マーケティングが長い間説かれてきたにもかかわらず、消費者運動が強力な大衆運動として出てきたということは、結局のところ、マーケティングが実践されてこなかったということである。

消費者運動はマーケティングにとって恥である。だが消費者運動こそ、企業にとって機会である。消費者運動によって、企業はマーケティングを企業活動の中心に置かざるをえなくなる。

これまでマーケティングは、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。それではまだ販売である。われわれの製品からスタートしている。

われわれの市場を探している。これに対し真のマーケティングは顧客からスタートする。すなわち現実、欲求、価値からスタートする。

「われわれは何を売りたいか」ではなく、「顧客は何を買いたいか」を問う。「われわれの製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」と言う。

実のところ、販売とマーケティングは逆である。同じ意味でないことはもちろん、補い合う部分さえない。もちろんなんらかの販売は必要である。

だがマーケティングの理想は、販売を不要にすることである。マーケティングが目指すものは、顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることである。

イノベーション新しい満足を生み出す

マーケティングだけでは企業としての成功はない。静的な経済には、企業は存在しえない。そこに存在しうるものは、手数料をもらうだけのブローカーか、何の価値も生まない投機家である。

企業が存在しうるのは、成長する経済のみである。あるいは少なくとも、変化を当然とする経済においてのみである。そして企業こそ、この成長と変化のための機関である。

したがって企業の第二の機能は、イノベーションすなわち新しい満足を生みだすことである。経済的な財とサービスを供給するだけでなく、よりよく、より経済的な財とサービスを供給しなければならない。

企業そのものは、より大きくなる必要はないが、常によりよくならなければならない。イノベーションの結果もたらされるものは値下げかもしれない。

しかし経済学が価格に大きな関心を持ってきたのは、価格だけが定量的に処理できるからにすぎない。イノベーションの結果もたらされるものは、よりよい製品、より多くの便利さ、より大きな欲求の満足である。

既存の製品の新しい用途を見つけることもイノベーションである。イヌイットに対して凍結防止のためとして冷蔵庫を売ることは、新しい工程の開発や新しい製品の発明に劣らないイノベーションである。

それは新しい市場を開拓することである。凍結防止用という新しい製品を創造することである。技術的には既存の製品があるだけである。

だが経済的には、イノベーションが行われている。イノベーションとは、発明のことではない。技術のみに関するコンセプトでもない。経済に関わることである。

経済的なイノベーション、さらに社会的なイノベーションは、技術のイノベーション以上に重要である。イノベーションを、単なる一つの職能と見なすことはできない。

それは技術や研究の世界のものではない。企業のあらゆる部門、職能、活動に及ぶ。製造業だけのものでもない。流通業におけるイノベーションは、製造業におけると同じように重要な役割を果たしてきた。

イノベーションとは、人的資源や物的資源に対し、より大きな富を生み出す新しい能力をもたらすことである。

当然マネジメントは、社会のニーズを事業の機会として捉えなければならない。このことは、社会、学校、医療、都市、環境などのニーズが強く意識されている今日、特に強調されるべきである。

生産性に影響を与える

要因顧客の創造という目的を達するには、富を生むべき資源を活用しなければならない。資源を生産的に使用する必要がある。

これが企業の管理的な機能である。この機能の経済的な側面が生産性である。近年、生産性を論じる人は少なくない。

生産性の向上すなわち資源の活用が成果を左右し生活水準の向上をもたらすことは、もはや常識である。ところが、われわれは生産性についてわずかしか知らない。その測定さえ十分できない。

必要とされているものは、労働だけが唯一の生産要素であるとする生産性のコンセプトではない。成果に結びつくあらゆる活動を含む生産性のコンセプトである。

さらにいうならば、そのようなコンセプトさえ、目に見える直接的なコストとして測定できるものに限定していたのでは正しいとはいえない。つまり、会計学の定義に従っていたのではまちがいになる。

なぜならば、目に見えるコストの形はとらなくとも、生産性に重大な影響を与える要因がいくつかあるからである。

①知識 知識とは正しく適用したとき、もっとも生産的な資源となる。逆にまちがって適用したとき、もっとも高価でありながら、まったく生産的でない資源となる。

②時間 時間はもっとも消えやすい資源である。人や機械をフルに使ったときと、半分しか使わなかったときでは生産性に大きな差が生ずる。

③製品の組み合わせ(プロダクト・ミックス) 製品の組み合わせとは資源の組み合わせでもある。

④プロセスの組み合わせ(プロセス・ミックス) 部品を買うのと自分でつくるのといずれが生産的か。組み立てを内製するのと外製するのといずれが生産的か。

販売を流通業に任せ彼らのブランドを使わせるのと、自らの販売網を使い自らのブランドを使うのといずれが生産的か。

⑤自らの強み いかなるマネジメントといえども万能ではない。収益が見込める事業すべてに進出すべきであるとはかぎらない。いかなるマネジメントにも能力と限界がある。したがって、それぞれの企業とそのマネジメントに特有の能力を活用し、特有の限界をわきまえることも、生産性を左右する。

⑥組織構造の適切さ、および活動間のバランス 組織構造が不適切なために、マネジメントが自らなすべきことを行わなければ、マネジメントという企業にとってもっとも稀少な資源が浪費されることになる。

トップマネジメントが、マーケティングに関心をよせるべきであるにもかかわらず、技術にしか関心を示さなければ、生産性は低下する。

その結果被る損失は、単位時間当たりの生産量の低下による損失をはるかに上回る。これらはすべて、労働、資本、原材料など、会計学や経済学のいう生産性要因に追加すべき要因である。いずれも重要である。

利益の持つ機能とは何か

利益とは、原因ではなく結果である。マーケティング、イノベーション、生産性向上の結果手にするものである。したがって利益は、それ自体致命的に重要な経済的機能を果たす必要不可欠のものである。

①利益は成果の判定基準である。

②利益は不確定性というリスクに対する保険である。

③利益はよりよい労働環境を生むための原資である。

④利益は、医療、国防、教育、オペラなど社会的なサービスと満足をもたらす原資である。

最近の企業人は、利益について弁解ばかりしている。だが、利潤動機や利潤極大化などのナンセンスを言っているかぎり、利益を正当化することはできない。社会及び経済にとって必要不可欠なものとしての利益については、弁解など無用である。

企業人が罪を感じ弁解の必要を感じるべきは、経済活動や社会活動の遂行が困難になることである。利益を生むことができなくなることである。

3事業は何か

自社をいかに定義するか

今日の企業は、組織のほとんどあらゆる階層に、高度の知識や技術を持つ者を多数抱える。それら高度の知識や技能は、仕事の進め方や仕事の内容を左右する。

その結果、企業そのものや企業の能力に直接影響を与える意思決定が、組織のあらゆる階層において行われている。

「何を行い、何を行わないか」「何を続け、何を止めるか」「いかなる製品、市場、技術を追求し、いかなる市場、製品、技術を無視するか」などのリスクを伴う意思決定が、かなり下の地位の、しかもマネジャーの肩書や地位のない研究者、設計技師、製品計画担当者、税務会計担当者によって行われる。

彼らは彼らなりに、漠然とではあっても、自らの企業について何らかの定義を持って意思決定を行う。「われわれの事業は何か。何であるべきか」との問いに対する答えをそれぞれが持つ。

したがって、企業自らがこの問いについて徹底的に検討を行い、その答えを少なくとも一つは出しておかなければ、上から下にいたるあらゆる階層の意思決定が、それぞれ相異なる両立不能な矛盾した企業の定義に従って行われることになる。お互いの違いに気づくことなく、反対方向に向かって努力を続ける。

まちがった定義に従って意思決定を行い、行動する。あらゆる組織において、共通のものの見方、理解、方向づけ、努力を実現するには、「われわれの事業は何か。何であるべきか」を定義することが不可欠である。

われわれの事業は何か

自らの事業は何かを知ることほど、簡単でわかりきったことはないと思われるかもしれない。鉄鋼会社は鉄をつくり、鉄道会社は貨物と乗客を運び、保険会社は火災の危険を引き受け、銀行は金を貸す。

しかし実際には、「われわれの事業は何か」との問いは、ほとんどの場合、答えることが難しい問題である。わかりきった答えが正しいことはほとんどない。

「われわれの事業は何か」を問うことこそ、トップマネジメントの責任である。企業の目的としての事業が十分に検討されていないことが、企業の挫折や失敗の最大の原因である。

逆に、成功を収めている企業の成功は、「われわれの事業は何か」を問い、その問いに対する答えを考え、明確にすることによってもたらされている。

企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。顧客である。顧客によって事業は定義される。事業は、社名や定款や設立趣意書によってではなく、顧客が財やサービスを購入することにより満足させようとする欲求によって定義される。顧客を満足させることこそ、企業の使命であり目的である。

したがって、「われわれの事業は何か」との問いは、企業を外部すなわち顧客と市場の観点から見て、初めて答えることができる。

顧客にとっての関心は、彼らにとっての価値、欲求、現実である。この事実からしても、「われわれの事業は何か」との問いに答えるには、顧客からスタートしなければならない。

すなわち顧客の価値、欲求、期待、現実、状況、行動からスタートしなければならない。

顧客は誰か

したがって「顧客は誰か」との問いこそ、個々の企業の使命を定義するうえで、もっとも重要な問いである。

やさしい問いではない。まして答えのわかりきった問いではない。しかるに、この問いに対する答えによって、企業が自らをどう定義するかがほぼ決まってくる。

もちろん、消費者すなわち財やサービスの最終利用者は顧客である。だが、消費者だけが顧客ではない。顧客は常に一種類ではない。顧客によって、期待や価値観は異なる。

買うものも異なる。ほとんどの事業が少なくとも二種類の顧客を持つ。カーペット産業は建築業者、住宅購入者という二種類の顧客を持つ。この両者に購入してもらわなければならない。

生活用品のメーカーは主婦、小売店という二種類の顧客を持つ。主婦に買う気を起こさせても、店が品を置いてくれなければ何にもならない。店が目につくよう陳列しても、主婦が買ってくれなければ何にもならない。

顧客はどこにいるか。何を買うか

「顧客はどこにいるか」を問うことも重要である。一九二〇年代にシアーズ社が成功した秘密の一つは、顧客がそれまでとは違う場所にいることを発見したことだった。農民は自動車を持ち、町で買い物をするようになっていた。次の問いは、「顧客は何を買うか」である。

キャデラックをつくっている人たちは、自分たちは自動車をつくっており、事業の名前はGMのキャデラック事業部であると答える。だがはたして、キャデラックの新車に大枚のドルを支払う者は、輸送手段としての車を買っているのか、それともステータスシンボルを買っているのか。

一九三〇年代の大恐慌のころ、修理工からスタートしてキャデラック事業部の経営を任されるにいたったドイツ生まれのニコラス・ドレイシュタットは、「われわれの競争相手はダイヤモンドやミンクのコートだ。顧客が購入するのは、輸送手段ではなくステータスだ」と言った。

この答えが破産寸前のキャデラックを救った。わずか二、三年のうちに、あの大恐慌時にもかかわらず、キャデラックは成長事業へと変身した。

いつ問うべきか

ほとんどのマネジメントが、苦境に陥ったときにしか「われわれの事業は何か」を問わない。もちろん、苦境時にはこの問いかけをしなければならない。

事実、そのようなときに問いかけるならば、目ざましい成果をあげ、回復不能と見える衰退すら好転させることができる。

しかし苦境に立つまで待っていたのでは、ロシア式ルーレットに身をまかせるも同然である。それは、マネジメントとしてあまりに無責任である。この問いは常に行わなければならない。

「われわれの事業は何か」を真剣に問うべきは、むしろ成功しているときである。成功は常に、その成功をもたらした行動を陳腐化する。新しい現実をつくりだす。

新しい問題をつくりだす。「そうして幸せに暮らしました」で終わるのは、おとぎ話だけである。もちろん、成功しつつある企業のマネジメントにとって、「われわれの事業は何か」を問うことは容易ではない。

誰もが、そのような問いの答えは明白であり、議論の余地はないとする。成功にけちをつけることを好まないし、ボートを揺することも好まない。

われわれの事業は何になるか

「われわれの事業は何か」との問いに対する答えのうち大きな成功をもたらしたものさえ、やがて陳腐化する。企業に関わる定義のうち、五〇年どころか三〇年でさえ有効なものはない。せいぜい一〇年が限度である。

したがってマネジメントたるものは、「われわれの事業は何か」を問うとき、「われわれの事業は何になるか。われわれの事業のもつ性格、使命、目的に影響を与えるおそれのある環境の変化は認められるか」「それらの予測を、事業についてのわれわれの定義、すなわち事業の目的、戦略、仕事のなかに、現時点でいかに組み込むか」を考えなければならない。

この場合も市場が出発点となる。「顧客、市場、技術に基本的な変化が起こらないものとして、五年後あるいは一〇年後に、いかなる大きさの市場を予測することができるか。いかなる要因がその予測を正当化し、あるいは無効とするか」

①市場動向のうち、もっとも重要なものが人口構造の変化である。だが、これに注意を払っている企業はほとんどない。経済学に従って一定のものとしている。過去においては正しかった。大きな戦争や飢饉などの破滅的な出来事がないかぎり、人口の変化はきわめてゆっくりしたものだった。だが、もはやこれは当てはまらない。

人口は途上国においても先進国においても急激に変化しうる。事実変化している。しかも人口構造は、購買力、購買習性、労働力に影響を与えるというだけの理由で重要なのではない。それは、人口構造だけが未来に関する唯一の予測可能な事象だからである。

②経済構造、流行と意識、競争状態の変化によってもたらされる市場構造の変化も重要である。特に競争状態については、顧客の製品観やサービス観に従って明らかにしなければならない。直接の競争だけでなく、間接の競争も含めて明らかにしていかなければならない。

③最後に、消費者の欲求のうち、「今日の財やサービスで満たされていない欲求は何か」を問わなければならない。この問いを発し、かつ正しく答える能力を持つことが、波に乗るだけの企業と成長企業との差になる。

波に乗っているだけの企業は、波とともに衰退する。われわれの事業は何であるべきか「われわれの事業は何になるか」との問いは、予測される変化に適応するための問いである。

その狙いは、現在の事業を修正し、延長し、発展させることである。しかし、「われわれの事業は何であるべきか」との問いも必要である。

現在の事業をまったく別の事業に変えることによって、新しい機会を開拓し、創造することができるかもしれない。この問いを発しない企業は、重大な機会を逃す。

「われわれの事業は何であるべきか」との問いに答えるうえで考慮すべき要因は、社会、経済、市場の変化であり、イノベーションである。自らによるイノベーションと、他者によるイノベーションである。

われわれの事業のうち何を捨てるか

新しい事業の開始の決定と同じように重要なこととして、企業の使命に合わなくなり、顧客に満足を与えなくなり、業績に貢献しなくなったものの体系的な廃棄がある。

「われわれの事業は何か、何になるか、何であるべきか」を決定するうえで不可欠のステップとなるものが、既存の製品、サービス、工程、市場、最終用途、流通チャネルの分析である。

「それらのものは、今日も有効か、明日も有効か」「今日顧客に価値を与えているか、明日も顧客に価値を与えるか」「今日の人口、市場、技術、経済の実態に合っているか。合っていないならば、いかにして廃棄するか、あるいは少なくとも、いかにしてそれらに資源や努力を投ずることを中止するか」

この問いを体系的かつ真剣に問わないかぎり、またこれらの問いに対する答えに従って行動しないかぎり、「われわれの事業は何か。何になるか。何であるべきか」との問いに対して最善の定義を下したとしても、単に立派な手続きを経たにすぎない。

エネルギーは昨日を防衛するために使われる。そして誰も、明日をつくるためどころか、今日を開拓するために働く時間も、資源も、意欲も持ちえないことになる。

事業を定義することは難しい。苦痛は大きく、リスクも大きい。しかし事業の定義があって初めて、目標を設定し、戦略を発展させ、資源を集中し、活動を開始することができる。業績をあげるべくマネジメントできるようになる。

4事業の目標

事業の定義は、目標に具体化しなければならない。そのままでは、いかによくできた定義であっても、優れた洞察、よき意図、よき警告にすぎない。

マーケティングの目標

目標設定においても、中心となるのはマーケティングとイノベーションである。なぜなら、顧客が代価を支払うのは、この二つの分野における成果と貢献に対してだからである。マーケティングの目標は一つではない。複数存在する。

つまり、既存の製品についての目標、既存の製品の廃棄についての目標、既存の市場における新製品についての目標、新市場についての目標、流通チャネルについての目標、アフターサービスについての目標、信用供与についての目標である。

これらマーケティングに関わる目標については、すでに多くの文献がある。しかしいずれも、これらの目標が、実は次の二つの基本的な意思決定の後でなければ設定できないことを十分強調していない。

すなわち、集中の目標と市場地位の目標である。古代の偉大な科学者アルキメデスは、「立つ場所を与えてくれれば世界を持ちあげてみせる」と言った。アルキメデスの言う「立つ場所」が、集中すべき分野である。

集中することによって、初めて世界を持ちあげることができる。したがって集中の目標は、基本中の基本というべき重大な意思決定である。集中についての目標があって初めて、「われわれの事業は何か」との問いに対する答えも、意味のある行動に換えることができる。

マーケティングの目標の基礎となるもう一つの基本的な意思決定が、市場地位の目標である。市場地位の目標というと、「市場においてリーダー的な地位を占めたい」とするか、「売上げさえ伸びれば、市場シェアなど気にしない」とするのが普通である。いずれももっともに聞こえる。

だが、いずれもまちがっている。あらゆる企業が、同一の市場において、同時にリーダー的な地位を占めることはない。逆に、いかに売上げが伸びたとしても、市場シェアが小さくなり、市場の拡大のほうが自らの売上げの伸びよりも急であることは芳しくない。

市場シェアの小さな企業は、やがて限界的かつ脆弱な存在となる。売上げの伸びとは関係なく、市場シェアは企業にとって致命的に重要である。限界的な存在にならないための下限は、業種によって違う。しかし限界的な存在になるということは、長期的に見たとき企業の存続にとってきわめて危険である。

ところが、たとえ独占禁止法が存在していなくとも、それ以上大きくなると賢明ではないという上限もある。市場を支配すると惰眠をむさぼる。自己満足によって失敗する。市場を支配すると、組織のなかに革新に対する抵抗が出てくる。外部の変化に対する適応が危険なまでに難しくなる。

市場の側にも、独占的な供給者に依存することに根強い抵抗が出てくる。メーカーの購買担当者にせよ、空軍の調達官にせよ、あるいは家庭の主婦にせよ、独占的な供給者の支配下にあることを好まない。しかも急速に拡大しつつある市場、特に新しい市場においては、独占的な供給者の業績は、力のある競争相手がいる場合よりも劣ることが多い。

矛盾と思われるかもしれない。事実、ほとんどの企業人がそのような考えをとっていない。しかし新市場、特に大きな新市場は、供給者が一社よりも複数であるほうが、はるかに速く拡大する傾向がある。市場の八割を占めることは気持ちのよいことかもしれない。

だが、一〇〇の八割は二五〇の五割よりも小さい。供給者が一社の場合、市場は一〇〇でとまる。製品の用途を勝手に決め込む独占的供給者の想像力不足によって、限界が設けられる。供給者が複数のとき、一社では想像もできない市場や用途が発見され、開発される。市場は急速に二五〇へと拡大する。

デュポン社は早くからこのことを理解していた。同社はイノベーションを成功させたとき、独占的供給者の地位を維持するのは、開発コストを回収するところまでである。その後は、特許の使用権を与えて競争相手をつくる。その結果、多くの企業が市場や用途の開発を始める。

ナイロンも、このようないわばデュポン社後援ともいうべき競争がなければ、その市場の成長はかなり小規模なものにとどまっていたはずである。競争がなければ、一九五〇年代の初め、新しい合成繊維が、アメリカではモンサントとユニオン・カーバイドの両社によって、イギリスではインペリアル・ケミカルによって、オランダではAKUによって市場に持ちこまれたとき、市場は衰退を始めていたにちがいない。

市場において目指すべき地位は、最大ではなく最適である。

イノベーションの目標

イノベーションの目標とは、「われわれの事業は何であるべきか」との問いに対する答えを具体的な行動に移すためのものである。いかなる企業にも、三種類のイノベーションがある。

すなわち、①製品とサービスにおけるイノベーション、②市場におけるイノベーションと消費者の行動や価値観におけるイノベーション、③製品を市場へ持っていくまでの間におけるイノベーションである。イノベーションの目標を設定するうえでの最大の問題は、イノベーションの影響度と重要度の測定の難しさにある。

包装に関する即座に利用可能な小さな改良一〇〇件と、あと一〇年の努力によって業容を一変させるに違いない化学上の発見一件の、いずれが重要か。この問いに対する答えは、デパートと製薬会社では違うし、製薬会社でも会社によって違う。経営資源の目標企業が業績をあげるうえで必要とする三種類の経営資源それぞれについても、目標が必要である。

それら経営資源の獲得に関わる目標である。二〇〇年も前から経済学者が言ってきたように、経済活動には三つの資源が必要である。土地つまり物的資源、労働つまり人材、資本つまり明日のための資金である。これら三つの経営資源を確保しなければならない。

特に良質の人材と資金を引き寄せることができなければ、企業は永続できない。産業全体として見ても、その衰退の最初の徴候は、有能でやる気のある人間に訴えるものを失うことである。アメリカで鉄道が衰退したのは第二次大戦後ではない。

第二次大戦後それが明らかになり、かつ回復不能となったにすぎない。実際の衰退が始まったのは第一次大戦のころからである。第一次大戦前には、技術系の有能な若者が鉄道に職を求めていた。

ところがやがて、理由は何であれ、鉄道は、技術系にかぎらず、いかなる分野の高学歴の若者にも魅力のない職場になってしまった。人材と資金の獲得に関しては、特にマーケティングの考え方が必要である。

「われわれが必要とする種類の人材を引きつけ、かつ引き止めておくには、わが社の仕事をいかなるものとしなければならないか」「獲得できるのは、いかなる種類の人材か。それらの人材を引きつけるには何をしなければならないか」、あるいは「銀行借り入れ、社債、株式などわが社への資金の投入を、いかにして魅力あるものにしなければならないか」を問うことである。

これら経営資源に関わる目標は、二つの方向において設定しなければならない。一方の出発点は、経営資源に対する自らの需要である。自らの需要を市場の状況との関連において検討しなければならない。

他方の出発点は、市場である。それらの市場の状況を、自らの構造、方向、計画との関連において見ていかなければならない。生産性の目標経営資源を手に入れ、それを利用することは第一歩にすぎない。それらの経営資源を生産的なものにすることが課題である。

あらゆる企業が、物的資源、人材、資金という三つの経営資源について生産性の目標を設定しなければならない。同時に、生産性全体についての目標を設定しなければならない。

企業の各部門のマネジメントや、企業間のマネジメントを比較するうえで、最良の尺度が生産性である。入手する経営資源はほぼ同じである。独占というまれな状況を別にすれば、いかなる分野においても、企業間に差をつけるものはマネジメントの質の違いである。

このマネジメントの質という致命的に重要な要因を測定する一つの尺度が、生産性すなわち経営資源の活用の程度とその成果である。生産性の向上こそ、マネジメントにとって重要な仕事の一つである。困難な仕事の一つである。なぜならば、生産性とは各種の要因の間のバランスをとることだからである。

しかもそれらの要因のうち、定義しやすいものや測定できるものは少ない。たとえば、人材は三つの生産要素の一つにすぎない。人材の生産性の向上が他の経営資源の生産性の低下によってもたらされたのであれば、全体の生産性は低下しているかもしれない。

生産性とは難しいコンセプトである。だが、それは中心となるコンセプトである。生産性の目標がなければ方向性を失う。コントロールもできなくなる。

社会的責任の目標わずか数年前まで、経済学者もマネジメントも、社会的な責任は無形であって、それに目標を設定することはできないとしていた。

しかし今日、われわれはこの無形のものがきわめて有形たりうることを知った。消費者運動や、環境破壊に対する攻撃は、企業が社会に与える影響について自ら徹底的に検討し、目標を設定しなければならないことを学ぶための高価な授業だった。

企業にとって、社会との関係は自らの存立に関わる問題である。企業は社会と経済のなかに存在する。ところが企業の内部にあっては、自らがあたかも真空に独立して存在していると考えてしまう。事実マネジメントの多くも、自らの事業を内部から眺めている。

しかし企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。

社会性に関わる目標は、単なるよき意図の表明ではなく、企業の戦略に組み込まなければならない。社会性の目標が必要となるのは、マネジメントが社会に対して責任を負っているためではない。それは、マネジメントがまさに企業に対して責任を負っているためである。

費用としての利益これら基本的な領域における目標を、徹底的に検討し設定して初めて、「どれだけの利益が必要か」との問いに取り組むことができる。

それらの目標はいずれも達成に大きなリスクを伴う。しかも努力、すなわち費用を必要とする。ここにおいて、利益が企業の目標を達成するうえで必要となってくる。

利益とは、企業存続の条件である。利益とは、未来の費用、事業を続けるための費用である。目標を実現するうえで必要な利益をあげている企業は、存続の手段を持っている企業である。

基本的な目標を実現するうえで必要な利益に欠ける企業は、限界的な危うい企業である。もちろん利益計画の作成は必要である。

しかしそれは、無意味な常套語となっている利益の極大化についての計画ではなく、利益の必要額についての計画でなければならない。ただしその必要額は、多くの企業が実際にあげている利益はもちろん、その目標としている極大額をも大きく上回ることを知らなければならない。

目標設定に必要なバランス目標を設定するには三種類のバランスが必要である。すなわち、利益とのバランス、近い将来と遠い将来との間のバランス、他の目標とのバランスすなわち目標間のトレードオフ関係である。何もかもできる組織はない。金があっても人がいない。

優先順位が必要である。あらゆることを少しずつ手がけることは最悪である。いかなる成果もあげられない。まちがった優先順位でも、ないよりはましである。

実行に移すそして最後の段階が、目標実現のための行動である。「われわれの事業は何か。何になるか。何であるべきか」を考え目標を検討するのは、知識を得るためではなく行動するためである。

その狙いは、組織のエネルギーと資源を正しい成果に集中することである。したがって、検討の結果もたらされるべきものは、具体的な目標、期限、計画であり、具体的な仕事の割り当てである。目標は、実行に移さなければ目標ではない。夢にすぎない。

5戦略計画

戦略計画でないものを知る

未来は、望むだけでは起こらない。そのためには、いま意思決定をしなければならない。いま行動し、リスクを冒さなければならない。

必要なものは、長期計画ではなく戦略計画である。必要なことは、まず戦略計画といえないものを知ることである。戦略計画は魔法の箱や手法の束ではない。

思考であり、資源を行動に結びつけるものである。戦略計画の作成にはさまざまな手法を使うかもしれない。コンピュータも使うであろう。

しかし、「われわれの事業は何か」「何であるべきか」に対する答えは、データやプログラムではない。手法やプログラム自体が戦略計画なのではない。

それらは道具にすぎない。戦略計画とは、意思決定に科学的な方法を適用することでもない。それは、思考、分析、想像、判断を適用することである。

手法ではなく、責任である。戦略計画は予測ではない。未来の主人になろうとすることではない。そのようなことは、ばかげている。未来は予見できない。

ある程度予測できるという人がいたならば、今日の新聞を見せ、一〇年前にどれを予測できたかを聞けばよい。戦略計画が必要となるのは、まさにわれわれが未来を予測できないからである。

予測が戦略計画でないもう一つの理由は、予測というものが、可能性とその範囲を見つけようとするだけのものだからである。起業家にとっての関心は、その可能性そのものを変える出来事である。

起業家的な世界とは、自然物理ではなく人間社会の世界である。実際のところ、企業が利益によって報われる唯一の貢献、すなわち起業家的な貢献とは、経済、社会、政治の状況を変えるイノベーション、真にユニークな出来事を起こすことである。

企業は、予測の基礎となる可能性そのものを変えなければならない。したがって、企業に未来を志向させるうえで、予測は役に立たない。

人の生活や仕事を変革するうえで、予測はほとんど役に立たない。外部の変化に適応するだけの行動の基盤にさえならない。戦略計画という起業家の意思決定の基盤にはさらにならない。

戦略計画は未来の意思決定に関わるものではない。それは、現在の意思決定が未来において持つ意味に関わるものである。意思決定が存在しうるのは、現在においてのみである。

最大の問題は、明日何をなすべきかではない。「不確実な明日のために今日何をなすべきか」である。問題は、「明日何が起きるか」ではない。

「現在の考え方や行動にいかなる種類の未来を折り込むか、どの程度の先を考えるか」、そしてそこから「いかにしていま合理的な意思決定を行うか」である。

われわれは、明日行う意思決定について計画を作成しがちである。楽しいかもしれないが無益である。意思決定は現在においてしか行えない。

しかし、今日のためだけに意思決定を行うこともできない。何も決定しないという決定はもちろん、もっとも便宜的かつもっとも日和見的な決定でさえ、永久にではないにしても、きわめて長期にわたってわれわれを拘束する。

戦略計画はリスクをなくすためのものではなく、最小にするためのものでもない。そのような試みは、最後には、不合理かつ際限のないリスクと確実な破滅を招くだけである。経済活動とは、現在の資源を未来に、すなわち不確実な期待に賭けることである。

経済活動の本質とは、リスクを冒すことである。リスクを皆無にすることは不毛である。最小にすることも疑問である。得るべき成果と比較して冒すべきリスクというものが必ずある。

戦略計画に成功するということは、より大きなリスクを負担できるようにすることである。より大きなリスクを負担できるようにすることこそ、起業家としての成果を向上させる唯一の方法だからである。

戦略計画とは何か

戦略計画とは何か。それは、リスクを伴う起業家的な意思決定を行い、その実行に必要な活動を体系的に組織し、それらの活動の成果を期待したものと比較測定するという連続したプロセスである。

まず、あらゆる種類の活動、製品、工程、市場について、「もし今日これを行っていなかったとしても、改めて行おうとするか」を問わなければならない。

答えが否であるならば、「それではいかにして一日も早く止めるか」を問わなければならない。さらに、「何を、いつ行うか」を問わなければならない。たしかに、すでに行っていることをより多く行いさえすればよいという分野もある。

しかし、すでに行っていることだけで、未来のニーズを満たし続けることはできない。「何を行うか」を問うだけでは、問題の一面をとりあげたにすぎない。「いつ行うか」との問いも同じように重要である。

なぜならば、この問いへの答えこそ、新しい仕事に取り組むべきタイミングを教えてくれるからである。最善の戦略計画さえ、仕事として具体化しなければ、よき意図にすぎない。成果は、組織のなかの主な人材を割り当てることによって決まる。

戦略計画は、将来において成果を生むべき活動に資源を割り当てて、初めて意味を持つ。さもなければ、約束と希望はあっても、戦略計画は存在しない。

したがって、「今日この仕事のために、最高の部下のうち誰を任命するか」を問うことが不可欠となる。リスクを伴う意思決定を行いたいか、行いたくないかは問題ではない。マネジメントは、その責務からして必ず意思決定を行う。

違いは、責任を持って行うか、無責任に行うかだけである。成果と成功についての妥当な可能性を考慮に入れつつ行うか、でたらめに行うかだけである。戦略計画とは、判断の代わりに事実を持ってくることではない。

マネジメントの代わりに科学を持ってくることでもない。マネジメントの能力、勇気、経験、直感の役割を小さくするものでもない。医学の知識が医師としての資質を不問にしないのと同じである。

マネジメントの判断力、指導力、ビジョンは、戦略計画という仕事を体系的に組織化し、そこに知識を適用することによって強化されるとみるべきである。

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