はじめに
「なぜ、日本を選ぶのですか?」
この本をお読みくださり、ありがとうございます。はじめまして、三枝理枝子と申します。
私は、コンサルティングファーム「パッションジャパン株式会社」のCOO(最高執行責任者)として、お客様満足、従業員満足を仕組み・人創りで向上させ、組織を変革させるマネジメントコンサルタントとして活動しております。
一方で、日本人、そして海外の優秀な人材を、即戦力を求める日本企業に紹介し、育成する事業をしています。
「なぜ、日本を選ぶのですか?」
日本で働きたいと、熱望する海外の若者たちに尋ねると、主に次のような答えが返ってきます。
「自分のことより、人のことを考える国民は日本人以外いません。礼儀正しい日本人の心に触れながら、仕事をしたいです」
「治安の良さ、安全性はもちろんのこと、人間関係を大切にする日本のチームワーク力に心惹かれます。自分の国は基本的に個人主義ですから……」
台湾、ベトナム、ネパール、ミャンマー、モンゴル……。
自国の大学で高等教育を受け、国際感覚にも優れた彼らを欲しがる国や企業は多々ありますが、彼らは「日本」を選ぶことが多いのです。
これまで、数えきれないほどの外国人と個人面談をしてきました。表現は違えど、彼らが言うことはみな同じです。
「他の国にはない学ぶべきものが、日本にはある」
今回の東京オリンピック・パラリンピックでは、競技を超えた日本人アスリートの振る舞い、人間力の高さが海外メディアから注目を浴びました。
外国の方々に、私たち日本人は「道徳心の高い民族」として映るようです。
強みの伸ばし方を知らない私たち
なぜ、日本だけが、日本人だけが高い道徳心を持ち得るのか。
その理由を、あなたは明確に答えることができるでしょうか?残念なことに、当事者である日本人自身が、その強みや魅力を正しく認識できていません。
それはおそらく、道徳という言葉に「堅苦しい」「上から押しつけられるもの」というネガティブな先入観を持つ人が多いからでしょう。
実にもったいないことです。
もし、今の日本から「道徳」が失われたとしたら、私たちの暮らしや仕事はどうなるでしょうか?ルールを守らない。
困っている人がいても見て見ないふり。年長者が敬われることがない。誰もが自分の利益と快楽を最大化するためだけに行動する。そんなところで暮らしたり、ビジネスをしたり、子供を育てたいと思う人はいないですよね。
世界があこがれる日本の拠り所、道徳──徳を積む道──に、私たち日本人は今、まさに正面から向き合うべきではないでしょうか。
そうは言っても「どうやって向き合えばいいの?」という方が多いはずです。安心してください。その答えは、私たちの足元にあります。
日常を離れて山奥に籠る必要も、膨大な教訓を暗記する必要もありません。必要なのは、自分と向き合う時間とほんの少しの勇気。それだけです。
私の人生を変えたひと言
私自身、道徳を学問的に修めたわけでもなければ、ハイレベルな人間力を持ち合わせた徳の高い聖人でもありません。
国際線ファーストクラスの客室乗務員として、日本人ならではのおもてなしの精神、作法を学び実践する中で、周囲を笑顔にすることで自分も満たされ、笑顔になる、そんな体験を何度となくしてきました。
当時の私は「徳を高めよう」なんて考えもせず、ただ目の前のお客様にどうしたら喜んでいただけるか、それだけを考え、行動していたように思います。
そんな私が、道徳に正面から向き合うようになったのは九年前のある「ひと言」がきっかけでした。
十五万冊もの希書を所蔵し、その該博な教養から「知の巨人」と呼ばれた故・渡部昇一先生とお会いしたある日、先生がこうおっしゃったのです。
「あなたは心学をおやりなさい」予想もしないお言葉に、私はきょとんとしてお尋ねしました。
「心学とは、石門心学ですか?」「そうです。あなたはこれから女性として心学を柱に徳を説いていくとよい」渡部先生とはご子息の玄一さんを通じて、ご一緒する機会を何度となく頂戴してきました。しかし、そんなふうに言っていただいたのは初めてでした。
儒教、仏教、老荘思想、神道などを取り入れた日常生活での道徳の実践。武士道からつながる商人の道。心を尽くしてどう生きるかを知る道の探求……。
尊敬する先生から有難い、もったいないお言葉をいただいたものの、自分の人間としての未熟さ、勉強不足を自覚していただけに、すぐにお応えできずにおりました。
そのころの私は、自分の使命や生きる志についても浅い考えしか持っていませんでした。そのように生きてみたいと、ただ憧れているだけの浮ついた人間だったのです。
他人の評価を気にし、失敗して情けない姿は見せたくない。なんとかカッコウをつけて成功したかのように繕い、その場を収める。
自分が傷つかないよう、自分が痛みを感じないよう、必死にきれいにまとめる偽善者のよう……。そんな偽りの自分の殻を破るような勇気は持ち合わせておらず、ぬくぬくと生きてきたのです。
徳──。
そんな私がその日を境に、この大テーマと向き合うこととなりました。
転機には、偶然が重なるものです。
渡部先生からお話をいただいた三か月後、私の著書を読み、講演を聴いてくださった編集者の方から、人間学を探求する月刊誌『れいろう』(公益財団法人モラロジー道徳教育財団発行)の連載依頼をいただいたのです。
このような連載に適する人間ではないのに……。そう思いながらも、物書きとしての喜びも感じていましたので、恐縮ながらもお引き受けしました。
あれから九年。私の執筆する「今日から始める自分磨きの習慣」は連載十年目に入ろうとしています。
人との出会い、やるべきこととの出会い。人生は実におもしろく、ワクワクします。
人や社会とともに自分も輝く
では、「徳を高める」とは、どういうことなのでしょうか。それは「自分を磨くこと」だと私は理解しています。歯を磨く、床を磨く、互いに技術を磨き合う。
〝磨く〟は、私たち日本人の暮らしに密着した言葉です。
何度もこすったり、研いだりして汚れを取り、滑らかにして、ツヤを出していく。そこには磨く側、磨かれる側という関係性が不可欠です。その関係性は「自分を磨く」場合にもあてはまります。
他者という〝磨き草〟、砥石に自分をこすらせないと磨くことはできません。人を磨いて、輝かせて、喜ばせてこそ自分磨きができる──。
自分とは磨くものではなく「磨かれるもの」であり、人は人を磨くことでしか磨かれない、そういうものなのではないでしょうか。
道徳──徳を積む道も同じことだと私は思っています。
決まった正解を上から押しつけるものでもなく、自分らしさの輝きを失わせるものでもありません。いつもの家庭や職場、地域の関わりの中で、いかに身近な人たちを笑顔にし、輝かせていけるか。
その積み重ねを通じて自分らしい本来の輝きを増していくプロセス、そう捉え直してみませんか。それは周囲の人や社会とともに、自身も幸せになれる道です。
こんな今だからこそ
新型コロナウイルスという災厄によって、私たちは多くの制約を受けました。外出ができず、人とも関われない「ひとり」の時間。
普段は立ち止まって考えることのない、自分の幸せ、人生の意味に思いを巡らせた方も少なくないでしょう。
こんな今だからこそ、しっかりと地に足をつけ、先の見えないこれからの世の中をどう幸せに生き抜いていくか、と考えるときではないでしょうか。
コロナ禍によって生活様式、コミュニケーション、働き方など、私たちの日常は変化を続けています。
変化に流されず、人や社会との関わりの中で自分を着実に成長させていく道徳の重要性が、ますます高まっています。
中国の古典『大学』に、次の言葉があります。
「苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」
今日の行いは昨日よりも新しく良くなり、明日は今日よりも新しく良くなるように自分を磨いていこう。
過去にとらわれず今日に満足せず、自分を高めていこう。この理想を体現するのは簡単ではありません。
簡単にはできなくとも「そうありたい」と志すだけで、身に起こる出来事の受け止め方、ものの観方が変わってきます。
この不確実な時代を生きる私たちにとって、道徳は前途を照らす、夜道の灯りのようなものです。
ぜひ、皆さまにも、この灯りを手に入れていただき、人生をもっと楽しく、美しいものにしていただきたい。
そうした思いから、今回初めて「徳」をテーマに本を書き上げ、お届けすることにいたしました。今日からすぐに取り組むことのできるシンプルな実践ノウハウも盛り込みました。
「何のための人生ぞや」「自分はどう生きるか」さあ、ご一緒に考えてみましょう。
第1章人間力の高い人は何が違うのか
仕事の中で人間力を高める
この一週間を振り返ってみてください。「あのとき、もしかしたらもっと善いことができたかも。徳を高められたかも」。
そう思えるシーンは、どれくらいあったでしょうか。
「ずっと忙しかったから、そんな時間はとてもつくれなかったなぁ」。そうお感じの方もいらっしゃるかもしれません。
仕事をしながらでも、道徳心を高めることはできます。むしろ仕事、ビジネスの中で「こそ」と言ってもよいでしょう。
この世に万を超える職種がある中で、自分一人ですべてが完結するビジネスは、どれくらいあるものでしょうか。
一つもないはずです。必ず相手が存在する。人間関係とビジネスは切っても切れない関係です。それは、道徳も同じです。
例えば、お客様、仲間への思いやり。思いやる「誰か」がいて、初めて成立するものですよね。
私が客室乗務員だったときの話です。
羽田から札幌行きの国内線に、団体のお客様が乗っていらっしゃいました。ご家族で、ご夫婦で、さまざまなグループで、皆さん、すでに旅の高揚感に包まれ、とても楽しそうです。
その中のある女性は、おひとり旅のようでした。座席に座るや否や、両手で腕をさすり始めました。時期は初夏、飛行機の温度は少し低めに設定されていました。
「お寒いですか。よろしければこちらをお使いください」とても寒そうでしたので毛布を二枚お持ちして、足元と上半身にかけていただくようにお渡ししました。
「毛布ください」とお客様に言われてからお持ちするのでは良いサービスとは言えません。「ありがとうございます」。お客様はニコッと微笑んでくださいました。
少し雑談をした後、「どうぞごゆっくりお寛ぎください。何かご要望がございましたら、なんなりとお知らせくださいませ」とお声がけして、その場を立ち去ろうとすると、「実は私、持病でリウマチがあって、こんなに冷たくなっちゃうんです」。
そう言って私の前に腕を出されました。
「失礼します」と腕を触らせていただくと、びっくりするほど冷たかったのです。
「そうでございましたか。ご気分はいかがですか」と伺うと、「大丈夫」と微笑んでくださいました。何かできることはないだろうか。機内の温度を上げるには時間がかかります。ほかのお客様もいらっしゃいます。
「そうだ」と、あることを思いつきました。ギャレイ(飲物、食べ物を用意する場所)に行って、空のペットボトルにお湯を入れて、おしぼりを巻いて、簡易の湯たんぽをつくりお持ちしました。
「形は悪いですけれど、どうぞ」とお渡しすると、目を細めて「まあ、温かい」と喜んでくださいました。水平飛行になると、添乗員さんがツアーの方々にお弁当を配り始めました。
私たちはすぐにお茶のご用意をしてお持ちしたのですが、なんと先ほどのお客様だけが召し上がっていませんでした。
〝あら、どうなさったのかしら。体調が悪いのかしら、お腹がすいていらっしゃらないのかしら、それとも冷たいお弁当は召し上がらないのかしら〟いろいろと思いを巡らせてみました。
〝もしかしたら、お箸が使えないのかも〟そう思いました。リウマチの方と伺っていたのを思い出したのです。
「よろしければ、フォークをお持ちいたしました」と、機内に予備で搭載しているプラスチックのフォークをお持ちしました。
「ありがとうございます。えっ?なんでわかったのですか。お箸使えないの。お手数をおかけしました」。
そう言って、お弁当を開け、おいしそうに他の方々のように召し上がり始められました。私は〝あ~良かった〟と、胸をなでおろしました。おせっかいですが、もしかしたらと、行動してみて良かったと思いました。
あのままお声がけしなかったら、お客様は一人だけお食事を召し上がらずに到着地に着き、機内から降りてその後のご旅行をお続けになったのです。
おもてなしとおせっかい
お客様は「毛布ください」とはおっしゃっても、「お箸では食べられないのでフォークありますか」なんて、自分からはなかなか言い出せないものです。
いかに察知して、想像して、思い切っておせっかいしてみるか。
ここにおもてなしの醍醐味があり、こうしたところに世界が注目する日本人の道徳力、人間力の強みがあるように感じます。
しかし、常に想像した通りに行動し、喜んでいただけたことばかりではありません。〝どうしたら良いか〟と考えて、考えて行動したのに、思うように喜んでもらえなかった。そんな残念な思いを、誰しも一度は経験があるのではないでしょうか。
間違っていたらどうしよう。自分の妄想で行動していたら、恥ずかしい。相手に不快に思われるかも。そんな思いが頭をよぎり、一歩を踏み出せなかったということもあるでしょう。
「あのとき、ああすれば良かったのに」と。外国の方からは、こんな質問をされることがありました。
「日本人はおもてなしの中で、他人との境界線をどう考えているの?放っておいてほしいと思っているときでも、土足で入ってこられることがあって辟易する」私は次のようにお答えしました。
「そうですね。相手を第一に考えないおもてなしの押し売りは、本来の日本のおもてなしではありません。
他の方が喜んだからまたやるというような自分都合、独りよがりなおもてなしでは相手が迷惑してしまいます。
ですから、いちばん大切なのは相手を思う心、慮ること、相手の思いを図ろうとすることです。さりげなく観察し、想像力を高めて、何をお望みなのか、心をつかってワクワクしながら考える。
そうすることで何もしないほうがこの方には良さそうだと感じたら何もしない。ただ、黙って、温かい心を傾けたり、幸せを祈ったり、誠意をもって応対すればいいと思います。日本のおもてなしは本来、そういうものだと思います」
「もしかしたら」と思った内容は、この外国の方のように「おせっかい」と受け取られることもあるかもしれません。
しかし私は、「おせっかい」と取られるのではないかと躊躇して行動を起こさないよりも、その方の思いを図り、なんとか喜んでもらいたい、笑顔にできないかと考え抜いたうえで「思い切って」「おせっかい」することをおすすめします。
なぜなら「もしかしたら」と相手を思い、想像力を働かせている時間は、着実にあなたの「我」は薄れ、本来の自分自身とやさしさに出会っているからです。
そして、お客様をおもてなしする中で、私自身がお客様の笑顔や感謝の言葉によっておもてなしされていた事実に気づくことでもありました。また、そうした心の交流を傍で見ている人の心も温かくするものです。
「○○なのに」を「○○のおかげ」に書き換える
誰かのために善かれと思って行動したのに、気づいてもらえない、感謝されない。そんながっかり体験をしたことはありませんか?人間力を高めようと日ごろから意識している方なら、一度はあるはずです。
ここではそんな悩みや葛藤を抱えながら仕事をしていた方々のエピソードをお伝えしましょう。都内のフルサービスホテルのご支援をしたときのことです。ホテルには大きな宴会場もありました。そこを担当する営業と宴会サービスの方の話です。
営業の立場としては、お客様の要望を最大限にお聴きして、希望以上のことを叶えたいと思います。実際に下見にお越しいただいたりして、今年の趣向はどうかとか、コストをどれだけ抑えられるかといった打ち合わせを何度も繰り返します。
次回もご利用いただけるように、お客様からの無理難題も聞き入れていくわけです。時間をかけ、大変な思いをして宴会当日を迎えます。
宴会を成功に導くように準備を整えて、どんなトラブルにも対応し、満足いただけるように細心の注意を払い、進行していきます。そんな現場でトラブルが発生しました。
食物アレルギーのお客様がいないはずだったのに、宴会の直前になって、蕎麦のアレルギーがある人や、甲殻類はダメだという人がいるとの連絡が入りました。
アレルギーなしで準備を進めていた調理場は大騒ぎです。特に甲殻類は出汁も関係してきますから注意が必要です。
宴会が始まって三十分後に前菜を出すことになっていたのに、お客様を待たせることになってしまいました。その結果、営業も宴会サービス係も、双方がいがみ合うことになりました。
それぞれが頑張って対応したのに、感謝がないどころか、互いを非難することとなってしまったのです。営業のほうには「自分たちがこんなに努力して取ってきた仕事なのに、宴会サービスの努力が足りない。調理場と連携を取り、なぜもっと早く対応できなかったのか」といった気持ちがありました。
宴会サービス係では、「ちゃんと準備していたのに、遅れてしまったのは、営業がアレルギーのお客様がいないか、きちんと把握できていなかったからだ」と、不満を募らせていたのです。
でも、それぞれには、こんな事態を再び招かないために何らかの改善が必要という思いがありました。
営業も宴会サービス係も、相手の立場や苦労を考えずに、自分の不満だけをぶつけ合っているのを目の当たりにして、私は、この現場には「WE(私たち)」の意識が欠けていると思いました。
そこで、まずは「皆さんは今、どこに立って何を見ていますか?」と尋ねました。
次に「○○なのに」という思考を「○○のおかげ」と書き換えてみませんかと提案しました。初めは皆さん、渋々です。
ただ、少しずつ「自分たちはお客さんを置き去りにして、お互いを非難しているだけだ」「お客さんに喜んでもらうのがゴールのはずなのに、そこに至っていない」とそれぞれが思い始めたようでした。
営業は「宴会サービス係が行き届いているおかげで自分たちも仕事ができている」、宴会サービス係は、「営業の皆さんがお客様を運んでくれるから、自分たちも喜んでサービスができる」という発想に転換し、両者の間に流れる空気が変わってきたのです。
一か月後には、宴会サービス係は、営業の皆さんがもっと営業しやすいように、営業は、もっと宴会サービス係がやりやすいようにと考えるようになりました。
例えば、営業は食物アレルギーのお客様が本当にいらっしゃらないか、再チェックを行う。
この様子だと宴会の進行が二十分遅れそうだから早めに報告し、細かに進行状況を伝えようなど、自然に連携を取り合うようになっていきました。
職場には笑顔があふれ始めます。
「相手のために」は、結局、自分の喜びとなって返ってくるわけです。
しかし、ここまで来るのは決して簡単ではありませんでした。また、実験的にやって功を奏したことがあります。営業は宴会サービスへ、宴会サービスは営業へ。それぞれ一週間、現場体験をしてもらったのです。
想像力だけでは相手の苦労はなかなかわかりません。営業をしてみて初めて「こんな苦労があったんだ」とわかる。すると、おのずと、相手の立場に立つことができるわけです。
お互いの仕事がやりやすくなるように自分が何をしたら喜んでもらえるか、自然と湧き出てきて、実行し合えるようになりました。
お互いを「知ること」によって険悪だった部署間の連携が取れ、職場の雰囲気が明るくなりました。
祖母の教え──自他不二の心
日本人ならではのおもてなしの心、心配りを支えているもの、日本人の心の下地になっているものは何か?それはほかでもない、私たちの祖先が守り伝えてきた「道徳」であると、私は考えています。
私の母はビジネスウーマンで、私を出産してからもずっと共働きをしていました。寂しさを感じながらも母の仕事への情熱や溌剌とした姿は私の誇りです。
その母がいたからこそ、私も仕事をし続けているように思います。その母に代わり、私を育ててくれたのは、父の母親でした。
明治三十三年生まれの祖母はフェリス女学院で学んだ人で、当時としてはめずらしく、英語を話すことができました。
また、とても厳格な人で、「孫は目に入れても痛くないほどかわいい」というような、世間一般の「おばあちゃん」のイメージからは遠い人でした。
私は、幼稚園に上がる前の幼いころから、食事のマナーをはじめ所作や礼儀、人としてのたしなみについて祖母から厳しく躾けられました。
お蕎麦屋さんで食事中、足をちょっとプラプラさせただけで腿をピッシと叩かれた痛みと恥ずかしさは今でもはっきりと覚えていますし、「トイレは使う前よりも美しく」という言葉は、今も私の中に強く残っています。
祖母が私に伝えてくれたのは「道徳」であったと、今では理解できます。フェリス女学院の教育理念は「ForOthers」。
『聖書』の「フィリピの信徒への手紙二章四節」に出てくる言葉で、「自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と諭しています。
キリスト教と仏教という違いはありますが、仏教でいう「自他不二」の意味することと同じです。
祖母の中にも自他不二の精神が息づいていて、それが、まだ人として何ものにも染まっていないスポンジのような幼い私の心に浸透していったのかもしれません。
私の人生において、なくてはならないものの一つに茶道があります。茶道は日本文化の中でも特に精神文化の素晴らしさを追求したもの。
一腕の茶をおいしく飲んでいただきたい、ただその思いから発する行為に人間としての生き方の追求を重ね合わせることができる神秘的な道だと思います。
「茶禅一味」という言葉がありますが、茶道とは禅の精神性から生まれていて、本来の自己を発見する道であり、茶を点てる行為を通して自己を悟ると言われています。
そこで稽古に精進するだけでなく、『茶禅会』など茶道の精神を通じて、自己を見つめ直し、究極の自己を実現する方法などを多くの方にお伝えしています。
私がそんな茶道に出会ったのは、高校二年生のとき。同級生の女の子の所作の美しさに魅かれたからでした。
隣の席になった彼女は落ち着きがあり、いつも背筋がすっと伸びていて、凛とした印象を与える人でした。同い年なのに、なぜこんなに違うのだろう。
うらやましいなと思い尋ねたところ、彼女は日本舞踊を習っていること、お母様が茶道の先生であることを教えてくれました。
そこで私は茶道を習うことにし、彼女のお母様に弟子入りしたのです。多くの素晴らしい師との出会いの中でも私が最も感化された方でした。
幼稚園の園長もなさっていましたが、常に下座に立たれて、何をするにも「お先にどうぞ」と人に譲ってばかり。
ご自分はいつも最後。優しさと厳しさで人の心を潤されている方でした。
思えば、茶道の師であり、やがて人生の師となったこの先生を敬うようになったのは、私の祖母の教えがあったからといえるかもしれません。
そして、茶道を学ぶ中で、日本人のおもてなしの心に魅了された私は、「人をもてなす仕事に就きたい」と考えるようになりました。
うまくいっているのに何かが足りない
全日空で客室乗務員として働く私の社会人生活は「おもてなしの心」とともに始まりました。
お客様にいかに喜んでいただくか、お客様にいかに笑顔になっていただくか、本当にそれだけを考え、励む毎日だったように思います。
客室乗務員として十年を過ごし、結婚し、子供が生まれ、今度は子育てに向き合う十年を過ごしました。その後、仕事に復帰したのがANAラーニングという人材育成会社です。
ANAグループが培ってきた接遇やマナーなどのノウハウを教え、他企業のお役に立つことや後輩を育てることに生きがいを感じるようになっていました。
機内という限られた空間で、私自身がお客様と直接触れ合ってきたこと、「こういうことをして喜ばれたから、皆さんもなさるといいですね」と指導させていただくことは、天職のようにも思えたのです。楽しくて仕方ありませんでした。
経営戦略としてCS(顧客満足度)を重要視するようになった時代背景もあり、乗務員時代の私の学びと経験は、空に限らず、さまざまな企業にも応用できると認識されるようになりました。
私はその後、独立。研修講師、講演家、作家として活動するようになり、「日本人が世界に誇れるおもてなしの心」をより広く伝えられるようにもなりました。
日本人のおもてなしの心を伝えることは、私にとって日本人の「陽徳」を伝えること。そのことを使命のように感じるようになりました。企業からの研修期間はさまざまです。
短いものでは数時間、三日間など連続で伺うようなものもあり、決められた期間で行われます。
ありがたいことに評価をいただき、繰り返し研修を担当したり、より密接に社員育成に関わるために、コンサルティングという形での依頼を受けることも増えていきました。
業績は上がり、傍からは万事順調のように映っていたことでしょう。ただ、その裏で、私自身はある違和感を覚えるようになっていたのです。
研修を受けてくださる方々に私が望む以上の成長、変化が見られなくなっていました。もちろん、一定の成長、変化はあり、喜んではいただけるのですが、何かが足りない。そう思わずにはいられませんでした。原因は当然、私の力不足にあります。
しかし、それだけではない、何か仕組みそのもの、私が培ってきたノウハウそのものに疑念を抱くようになりました。
私が体験し、人に「善いこと」としてお伝えしているおもてなしの心は、相手を笑顔にするとともに、自分自身も清々しい気持ちになったり、感謝されたりするもの。自己肯定感が高まるとともに、お客様の満足度も上がり、売上げも増えていく。そうした好循環を自分自身でつくり出していけるように、多くの方の成長を促してきたはずでした。
しかし、私が伝えていることはあまりにも一面的で、ある意味、きれいごとすぎないだろうか。人が成長するということは、きれいごとでは済まされない。そもそも、人間そのものが清濁両面を持っているものなのだから──。気づきたくなかった事実を突きつけられているような気がしました。
ワンランク上の「陰徳」というステージへ
もっと勉強して、自分を掘り下げ、私自身が早く次のステージに行かなくては。この頭打ち感をなんとか打破しなくては……。そう焦り、もがく中、目の前に現れたのが「陽徳」だけではなく、「陰徳」という概念でした。
太陽があれば月があり、女性がいれば男性がいる、というようにこの世のあらゆるものは陰と陽のバランスで成り立っている、と東洋では考えます。つまり陽徳があれば当然、陰徳も必要となるはずです。
通常、陰徳というと、人知れず、誰にも気づかれずに行う道徳という意味ですね。確かにそうなのですが、重要なのは、目に見えない自分の内面をすべて受け容れること。つまり、「良心」をきちんと働かせることができているかどうか、です。
いくら人前で美しい言葉づかいや洗練された所作、良い行いをしていたとしても、心の中が相手を見下す思いや、やってやった感でいっぱいだったらどうでしょう。
その人の人間力は高まらず、相手や周囲を笑顔にし続けることはできないと思います。
私がこれまで実践したり、指導してきたものは、まさに「陽徳」。目に見える形で誰かに認識される行動です。表情、目線、話し方、聴き方、身だしなみ……。どれも相手を喜ばせる、心地よくさせるためには欠かせないものです。
しかし、ともすると、〝目に見える形だけ整えていけばなんとかなる〟ともなりがちです。陽のあたる部分だけ伸ばしておけばいい、陰の部分なんて見なくていい。私自身、そういう認識だったのかもしれません。
これに対して「陰徳」とは、目には見えない内面を掘り下げる世界です。いくら身だしなみを整え、笑顔で応対しても、実は、心は相手に集中できていなかったり、すべきことをできずにいる弱い自分をごまかしていたり。
目に見えない内面の世界がどうなっているか、周りの人にバレなくても、自分自身はわかっています。見ぬふりをしてごまかそう、フタをして見えなくしてしまおうと。
いわば、自分の奥底に隠れた陰の部分であり、心の毒といっていいかもしれません。誰より私自身が、その毒に気づきながら、目を背け続けてきました。
陽徳さえ実行していれば一定の成果が出せたし、なんとかなっていたのです。それまでは……。そんな私が壁に直面しました。
人を育てる立場となり、どうしたら相手の成長を促すことができるか、それを突き止めるうちに限界を迎えたのでした。
そして、気づきました。
相手を内面から変えようと思えば、関わるこちら側の内面がまず変わらなければならないのだと。
汗や涙を流し、人間力を高めようと思っていない人から、いろいろ言われたって共感できないですよね。
「変われるのは自分だけ」ですから。そうです。当時の私には「陰徳」が欠けていたのです。
「陽徳」ばかりを嬉々として教えていた自分が偽善者のように思え、愕然としました。
そしてひとり湯船に浸かりながら、シャワーを出しっぱなしにして、大声で泣きました。すべてを吐き出そう、邪悪な心を捨て去ろうと泣きました。泣くだけ泣いたら落ち着きました。
「よし、生き直すぞ」と思ったのです。そこに辿り着けたのはよかったのですが、陰徳をどう実践していくのか。果てしない試行錯誤の日々が待っていました。
ポジティブ・シンキングへの疑問
こうした中、私自身、もう一つの軌道修正を迫られていました。
世界的ベストセラー『思考は実現化する』のナポレオン・ヒル、自己啓発の王様といわれたデール・カーネギー、カリスマコーチのアンソニー・ロビンズ……。一九九〇年代に社会人となっていた人にとって必読の書でした。
彼らが説く成功哲学に私もどっぷり浸かり、その思想から抜け出せずにいたのです。
彼らが説く「ポジティブ・シンキング」は、ものごとの良い面を探し、常に前向きに考えることで、それが実現化し、成功につながっていくという考え方(私の解釈)です。
それは人間に置き換えると、自分の長所、強みを探そう。そして、それを思う存分伸ばしていこう、ということであり、逆に読むと、「短所は見なくていいよ。そのままフタをしておこう」ということになる。
そう私自身が解釈していることにようやく気づくことができました。
おもてなしの心として陽徳ばかりを追い求め、陰徳には気づきもしなかったように、自分の中の陰、短所もまたそのまま放置してきていたのです。
長所があれば短所もあるのが人間です。克服すべき課題である短所にはフタをして、長所だけ伸ばす。それで本当によいのでしょうか。人間としてのバランスが整うのでしょうか。悶々としてきました。
もちろん、自分の短所を克服するのは並大抵のことではありません。
克服どころか、短所を見つめる、受け容れることすらエゴが邪魔をして、私はなかなかできませんでした(今でもまだ改善の途中にありますが)。
「今日もダメだった」「いや、ダメじゃない。○○があったんだから今日はできなくても仕方ない」自分中心の言い訳が湯水のごとく出てきます。
実はそこに安住しているのです。
「そうやって責任転嫁するからダメなんだ。全然、改善できてない」一日の終わりの私です。
できない自分、上手に自分が傷つかないように責任転嫁する自分、わかっていても同じ過ちを繰り返す自分。うんざりするほどの短所を嫌というほどに突きつけられながら、数年が過ぎました。
できない自分は、残念ながら思うほどには改善できていませんが、そんな自分から逃げない自分、ごまかさない自分、受け止める自分に少しずつ近づいてきているような気がしています。
「環境が教えてくれる。環境を深く観れば自分に必要なことがわかる」と。
自分の甘さ、短所を受け容れることは、開き直ることではありません。短所を認め、そこからどう改善できるのかを考えること。考えたら実践すること。実践できずにもがくこと。
それでも「自分は絶対に変われる」と、信じ抜くこと。これこそが自己信頼と言えるでしょう。
開き直りでも、ポジティブ・シンキングでもないことがおわかりいただけるでしょうか。
ラグビーは、ワールドカップでの日本チームの活躍によって国民的な人気になりました。ひとたび試合が始まれば、彼らは闘争モード全開になります。
試合前のロッカールームでは「もしかしたら死ぬかもしれない」という恐怖と闘っているともいいます。
そうした自身や相手の野蛮性を認め、受け容れているからこそ、より強く紳士であろうとする。その姿が観る人の胸を打ち、感動を呼ぶのです。
野蛮なだけのプレー、あるいは品行方正なだけのプレーよりも、どれほど魅力的な香りを放っていることでしょう。人間としての道も同じことのように思うのです。
困難は磨き草
磨き草である困難の受け止め方が変わると、現実生活にどんな効果があるのか。
ビジネスシーンを例に挙げて、考えてみましょう。ある商社の全国にある営業所を支援したときのことです。
営業職の場合、自社の商品やサービスを売り込むのではなく、相手が欲しい情報をいかに提供できるかが信頼となり、購入につながります。
ですから、私がコンサルタントとして支援に入らせていただく場合、クライアントと信頼関係を築くために「まず情報提供をできる人になろう」という行動変革から始めることが少なくありません。
そのうえで、契約につながる目標達成のための日次の指標として「一日、質問を十件もらってくる」など具体的な行動指標を設定します。
なぜ質問かというと、質問をもらえば返答が必要になり、お客様との接点が増えるからです。これでうまくいくかというと、そんな簡単な話ではありません。
「質問十件、やります!」と約束したのに、フタをあけてみれば「緊急のトラブルが起きて、できなかった」「売り込みが大事で、思ったように質問が出なかった」など、目標と乖離した結果になることが少なくありません。
よくあるように、できない「言い訳」が先に立つのです。ただ、それは想定内。
「なぜ緊急のトラブルが起きてしまったのか」「トラブルが起きなかったらできたのか」「トラブルをなくすにはどうするか」「なぜ、思ったように質問が出なかったのか」「事前の準備はしたのか」など、やらなかった、もしくはできなかった原因を追及していきます。
その人の考え方、生き方にも入り込んでいき、根本原因まで見つけていくのです。根本原因の裏返しが解決策ですので、徹底的にここに時間をかけます。
不完全だから磨き合う
誰でも追及されるのは嫌なものです。相手から嫌われます。
私は、コンサルタントは人の成長を通じて、変化をもたらす仕事だと考えていましたが、さすがに嫌われるのは嫌なものです。
「なんでわかってもらえないのだろう」「どうしたら相手の心に入り込めるだろうか」考えても考えても、なかなか答えが出てきませんでした。
その場では元気に振る舞っていますが、自分が未熟で、情けなく、肩を落として帰ったことが何度もありました。
人の成長とひと口に言っても「相手を変えよう、変えよう」と思っているうちは、うまくいきませんでした。
不完全なのは相手、変わるべきは相手であり、自分は変わる必要がない。何事もそういうスタンスでいると、相手との関係は対立的になり、うまく事が運びません。
生き方まで追及していくのですから、当然、信頼関係ができていないと、「あの人が言うなら」と思ってもらえず、「現場のこともわかっていないくせに余計なお世話」と険悪な雰囲気になってしまうのです。
教える側、教えられる側という区別ではなく、相手も私も「不完全な存在」であるという認識のもと、お互いに成長していこうという「互師互弟」のスタンスが重要になってきます。
「相手を変えよう」ではなく、まず「私自身を変える」ことによって「相手が変わる」のです。感化しようと思って感化できるものではありません。自分の姿を見てもらうしかないのです。
「感化しよう」と思ってもダメなことを痛感しました。まさに「人生意気に感ず」です。
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