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第1章人を動かすアクノレッジメント

はじめに

一九九七年の一〇月に、日本で初めてのプロフェッショナル・コーチ養成会社コーチ・トゥエンティワンを立ちあげて早一二年が過ぎました。

二〇〇一年の一〇月にはコーチ・トゥエンティワンの法人事業部を分社化し、企業のマネジメントをコーチングによってサポートするコーチ・エィという会社も設立しました。

コーチングに出会い、この一二年の間に数多くの企業のマネジャーやエグゼクティブの方々に、研修という形でコーチングをお伝えし、また一対一でコーチングをさせていただく中で、自分の興味、関心の中心には、ずっと一つのセンテンスが横たわっていました。

それは、「どうすれば人は動くのか?」という問いかけです。

私たちは、まだコーチングが日本に明確な姿で存在していなかった一三年前に、アメリカの最大手コーチ養成機関であるコーチ・ユニバーシティからたびたびトレーナーを招聘し、コーチングのイロハについて学びました。

そこには確かに「人はどうすれば動くのか」のヒントがたくさんたくさん盛り込まれていました。

しかし一三年前の段階では、それらはあくまでも「情報」として私たちの頭の中に蓄えられただけであって、それが本当に人を動かすものであるかどうかは、まだわかりませんでした。

コーチングの真の力を知ったのは、それからの十数年の活動を通してでした。

コーチとして、他企業のマネジャーやエグゼクティブと接する中で実践したり、自分の会社のマネジメントをする中で活用したり、逆に自分がコーチングを受ける際に体験していくことで、無機質な情報は現場からのフィードバックを取り込んで、生きた「知識」となり、そしてさらには信念へと昇華していきました。

コーチングでは、質問を投げかけ、その質問に相手が答えるプロセスの中で、自然に相手が自分自身をある行為に向けて説得し動いていくのをサポートします。

これを「自己説得」を引き起こすといいます。

「自己説得」した行動は、「他己説得」された行動、つまり「ああしなさい、こうしなさい」と、他人からいわれて説得された行動よりも現実化する可能性が高いといわれています。

目的地に向かって選択できる道はいくつもあるものですが、それを一方の経験者が「これだ」と決めてしまうよりも、相手に選択肢を発見させ、決めさせたほうが、結果的には目的地に早く到達するだろうという考え方です。

ただ、目的地が決まり、自己説得により取るべき道が決定され、その人が動き出したとしても、最終的に目的地にたどりつくためには「エネルギー」が供給され続ける必要があります。

では、自分がコーチや上司、親などの立場だったとして、そのエネルギーを相手にどう供給し続けることができるのでしょうか。

それがこの本のテーマであり、みなさんに送り届けたい知識、技術です。コーチングではそのエネルギー供給のことを「アクノレッジメント(acknowledgement)」といいます。

このアクノレッジメント、つまりエネルギーの供給回数が多ければ多いほど、供給方法にバリエーションがあればあるほど(レギュラーガソリンで動く人もいれば、軽油で動く人もいるわけですから)、相手をより遠くまで、ひいては目的地まで動かすことが可能になります。

本書のタイトルは『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』となっています。

ほめることは相手のエネルギーレベルを高める大変有効な手段であり、アクノレッジメントの一つの種類です。

より多くの方に本書を手に取っていただけるように、タイトルにはアクノレッジメントという言葉ではなく、なじみのある、そしてアクノレッジメントの「代表選手」である、ほめるという言葉を使いました。

本書はほめることを始めとして、アクノレッジメントのさまざまな手法を一項目で一つ解説することを基本としています。

ただ、より鮮明に企業の現場におけるシーンを想起していただくために、プロローグでは、自分が供給するエネルギーと、部下が求めるエネルギーのマッチングが起こらず、途方に暮れる管理職の様子を小説風に描きました。

最後の第6章では、プロローグで登場した田中課長なる人物がアクノレッジメントの技術を身に付けたことにより、どのようにエネルギーの供給方法を変えたのかが記されています。

みなさんがこの本を読むことによって、みなさんの部下や仕事上で関わりを持つ人に、さらにはご家族を始めとしてより多くの方に、エネルギーを供給することができるようになることを、それが翻っては自分自身のエネルギーとして還元され、自分の中に良質なエネルギーが蓄えられることを願ってやみません。

なお、本書は二〇〇二年六月発行の単行本『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』に加筆修正したものです。

二〇〇九年八月鈴木義幸※本電子書籍は、二〇〇九年一〇月に発行された<∧NJセレクト版>∨『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』をもとにしています(編集部注)。

コーチングのプロが教える「ほめる」技術目次はじめにプロローグ田中課長の憂鬱

第1章人を動かすアクノレッジメント

5ミドルにもシニアにもアクノレッジメントは必要

プロローグ

目次

田中課長の憂鬱

田中課長はバーのカウンターに座り、二杯目の水割りに眼を落としながら、ぼんやりと今日の課でのミーティングを思い出していた。

新しい営業方針についての確認を取るのが今日のミーティングの目的であった。

昨日の晩からどのように話せば課員にいちばん伝わるかを考え、準備万端のつもりでミーティングに臨んだ。

しかし、課員の反応は鈍かった。みんな視線は自分のほうに向けていたものの、そこに同意がないのは明らかだった。

最後まできちんと論理的に説明して終わるつもりでいたが、課員の反応の鈍さに、ついいつものように声を荒げてしまった。

きつくいったからといって状況が変わるものではないとはわかっていながらも、それ以外に選択肢が出てこなかった。

「みんな本当にわかってるのか!現状は厳しいんだ。今のようなペースで動いてもらっていては困るんだよ!」。

しかし課員はただ無反応な表情を田中課長に返すだけだった。

「笛吹けど踊らずか」。

田中課長は氷が溶けて味の薄くなってしまった水割りを口に運びながら、沈んだ口調で誰に語るともなくいった。課員の顔が次々に浮かんできた。

自分の旧来からのやり方に固執して、新しい方法をまったく取り入れようとしない年配の部下。

ここからここまでが自分の仕事と範囲を区切り、それ以外のことには関心を示そうとしない中堅の部下。飲みに誘っても、ちょっと用事がありますからと帰ってしまう若手の部下。

何が悪いんだろうか。俺のやり方に問題があるのだろうか。ちょっと前までは部下を動かすのはこんなに難しくなかったのではないか。時代が変わったのだろうか。

メンバーの構成が悪いのだろうか……いくつもの疑問が代わるがわる頭を支配した。三杯目の水割りをバーテンに注文したと同時に後ろから肩を叩かれた。

「よお、遅れて悪かったな。ちょっと仕事が長引いちゃってさ」。

同期入社の大橋が、彼特有の人なつっこい笑顔を携えてそこに立っていた。

「何だ、浮かない顔してるな。お前が珍しく話したいっていうから、きっと悩みを抱えて暗い顔で飲んでるんだろうなと思ってきたけど、予想どおりじゃないか」

「暗くもなるよ。業績伸びないし、部下はいうこと聞かないし、上司からは責められるし。やっぱり俺、管理職に向かないのかな」

「おいおい、そう悲観的になるなよ。うまく行かないときもあるさ」

「お前からアドバイスをもらえたらと思ったんだけどさ。そっちは調子どうなの?」

「うちか?田中のところとはターゲットとしてる顧客層も違うし、一概には比べられないだろうけど、まあうまくいってるよ」

「部下とはどうだ?」

「もちろん完璧じゃないけど、そこそこの信頼関係はあると思うな」

「何が違うんだろう。お前と俺と」

「やっぱり徳の積み方が違うからな」

「何いってるんだよ、入社したころはしょっちゅう会社辞めてえよっていってたくせに」

「冗談だよ、冗談。そうだなあ、ちょっとやり方を変えてみたんだよ。半年前に会社の選択研修でコーチングっていうのを受けてさあ。けっこう最近本がたくさん出てるだろ」

「知らないなあ」

「部下をマネジメントするための一手法なんだけどな。うちにもさ、一人なかなかこうのってこないやつがいてさ」

「わかるよ、笛吹いても踊らないやつだろ」

「そうそう。で、俺もいろいろやってみたけどうまくいかなくてね。それでまあ、だまされたと思ってコーチング研修っていうのに出たわけよ」

「それで?」

「これがなかなか面白くてね。けっこう納得させられた」

「へぇ、どんなことで」

「コーチングのスキルでアクノレッジメントっていうのがあるんだよ」

「アクノレッジメント?初めて聞く言葉だな」

「アクノレッジメントっていうのは、簡単にいうと人をほめたり、認めたりすることなんだけどさ。まあ部下をほめろとは昔からいわれていることではあるよな」

「なかなかほめるところもないけどな」

「成果をほめるんだって考えてると、お前がいうようにこのご時世、そうそうほめるようなことが起こるわけじゃないと思うんだ。でも本当に部下を動かしたかったら、成果云々の前に部下の存在を認めないとだめだっていうんだよ」

「存在?」

「誰だって、存在感を認められたいだろ」

「そりゃそうだけど、何か哲学っぽいな」

「確かにそんな響きはあるけどな。

女子マラソンの小出監督みたいなスポーツのコーチとかが実践しているらしいんだ。コーチがスポーツ選手をうまく育てるように、上司も部下を上手に育てられないか、っていう発想なんだろうな」

「それでお前はうまくいったの?」

「そうだな。半年前と比べると、その部下の動きは変わったと思うよ。もちろん一気に良くなったわけじゃないけどな」

「ふ~ん。そんな研修があるのか。それって人事にいえばいいのか?」

「社内用ホームページに載ってるから、そこから申し込めるよ」

「まあ半信半疑だけど、お前がそういうならだまされたと思って受けてみるか」

「そうだよ、やってみろよ。少しはその陰気臭い顔が明るくなるぞ」

「うるさいな。忘れるなよ、駆け出しの頃に落ち込んでたお前を救ったのは俺だぞ」

「そうだよな。あの時はさー」……いつのまにか昔話になり、その夜は更けていった。

1アクノレッジメントとの出会い

アクノレッジメント。おそらくこの本に触れる前にはあまり聞いたことがなかった言葉だと思います。「何それ?」そう思っている方が大半でしょう。

一二年前、アメリカ人のコーチングのトレーナーからこの長い英語を最初に聞いた時、私の頭の中でも「???何それ???」と?がたくさん浮かんだのをよく覚えています。

「ほめることと同じですか?」と、あるスタッフがトレーナーに質問をすると、「ほめることはアクノレッジメントに含まれますが、それが全体ではありません。相手の存在を認める行為、言葉のすべてがアクノレッジメントです」とトレーナー。

「じゃあ、あいさつするとか、声をかけるとかそういうことですか?」「もちろんそれも含まれます。そこにあなたが相手をアクノレッジしたいという気持ちを込めればね」

わかったような、わからないような説明だなと思いつつ、セミナーはそのままどんどん進み、とうとうエンディングに差しかかりました。

予定では一七時に終了するはずだったのですが、一六時には、「これでお伝えしたかったことはすべてお伝えしました」とトレーナー。

あれっ?早く終わってしまうのだろうかと思っていると、「コーチングについてお伝えしたかったことはすべてお話ししましたが、もっと大事なみなさんにぜひ伝えたいいくつかのインフォメーションがあります。

まず、今回このコーチングのセミナーを日本で開催することができたのも、思えばまずAさんが僕にメールを送ってくれたことに端を発しています。

Aさんは……」そういって、Aさんが今回のセミナーを開くためにしたことを一つひとつ、本当に細かくそのトレーナーは伝えていきました。

中には同僚の自分でさえ、そんなことがあったんだと初めて知るようなこともありました。

そしてひとしきりAさんについて話を終えると、次にBさん、Bさんが終わるとCさんと、一人ひとり壇上に呼び、自分の傍らに置いて、この人はこういうことをしてくれた、この人はこんな役割を担ってくれた等々、それぞれの貢献に対して細かく細かく言葉を与えていきました。

延々と一時間!最後には、そんな大荷物、スーツケースのどこに入れて来たのだろうかと思うくらいのたくさんのプレゼントを取り出して、スタッフ一人ひとりに手渡してくれました。

しかも全員に違うものを。誰から聞いたのか、そのスタッフの趣味にちゃんと合うものをです。

ゴルフに凝り始めていた私には、アメリカでいちばんよく売れているという、飛距離が爆発的に伸びるといわれているゴルフボールをプレゼントしてくれました。

「あなたのコーチングのスキルが爆発的に伸びるように」という言葉を添えて。

そのトレーナーとは初対面だったにもかかわらず、この心配り!こうして、その一時間を過ごしながら私たちはアクノレッジメントを「体験」しました。頭ではなく体でアクノレッジメントを覚えたわけです。

2なぜアクノレッジメントか

アクノレッジメントという言葉を英和辞書で引くと、「承認すること」と書かれています。この「承認」とは何でしょうか。

「ほめる」というのも、当然この承認の中に含まれます。

またアメリカ人のトレーナーが私たちに見せてくれたような、その人がどんな貢献をしたのかを覚えていて、それを明確に言葉にして伝えてあげることや、一人ひとりに関心を示し贈り物をすることなども承認です。

それ以外にも、声をかける、挨拶するといった何気ない日常のやり取りにいたるまで、「私はあなたの存在をそこに認めている」ということを伝えるすべての行為、言葉が承認にあたります。

それが英語ではアクノレッジメントなのです。さて、なぜ承認という行為はそれほど大事なのでしょう。

ビジネスの世界でも、部下をきちんとほめ認めることは、上司として必ず実践する必要のあることだと、ほとんどのリーダーシップ論、マネジメント論に書いてあります。

子育ての本を読んでも、親は子どもをまずはほめてあげて、と出てくるし、学校の先生は教育論概論といった類の講義の中で、生徒を認めることは重要であると習います。

おそらく、感覚的にはそれがなくてはならないことだと誰しもわかっているでしょうが、改めて考えてみると、どうして承認したほうが良いのでしょうか。

「認めればそれだけ部下はやる気になりますから」もちろんそうですよね。認めるという行為はやる気に大きく寄与します。ではなぜ人は認められるとやる気になるのでしょうか。

「そんなのあたりまえじゃないか」そう、ほとんどの人は経験的に、認められればやる気になることを知っています。

でも、繰り返しますが、なぜ。「認められればうれしいですからね」そのとおりですよね。認められれば気持ちは昂揚します。それではなぜ認められると、うれしいという感情が人という生体の中に発生するのでしょうか。

これも冷静に考えてみると不思議なことではないでしょうか。

たまに「いや、俺は人から認められなくても、自分に自信があるから」なんていう人がいます。

周りにそういうことをいいそうな人がいたら、ちょっと顔を思い浮かべてみてください。

そういう人に限って、その声と表情の裏に「自分のことを認めてほしい、ほめてほしい」という切実な願いが見て取れたりします。

やはり人は「他人」からちゃんと承認されたいものです。何回もいいますが、なぜ。人は太古の昔から、協力関係を作ることによって生き延びてきた種です。

好むと好まざるとにかかわらず、一人だけでは生き抜いていくことはできませんでした。

そのため人の生存本能は、絶えず自分自身が協力の輪の中に入っているかどうか、仲間はいるのかどうかということに対して、チェックをかけているといわれています。

自分が協力の輪の中に入っていないということは、ひとりぼっち、つまり「死」を意味するわけですから、これはもう細心の注意を払ってチェックをかけています。

そして、そのチェックに対して「イエス!」で答えてくれるのが、他人からの「認めているよ」という言葉なのです。

出した成果や強みを認めるだけでなく、「おはよう!」「元気?」といった日々の声かけにいたるまで、「あなたがそこに存在していることに気が付いている」というメッセージのすべて、つまりアクノレッジメントが「生き残れるか?」という不安を払拭することにつながります。

そしてさらにアクノレッジメントの量が増えれば、相手にとってそれは不安を払拭するという、マイナスをゼロに戻すためだけの役割を担うのではなく、ゼロをさらにプラスへと高めるエネルギー源となっていきます。

逆に存在を認められているという実感が手に入らないと、もう頭は騒がしくなります。

それは単に「認められていない」ではなくて、サバイバルできないかもしれない、という生存に対する危機ですから、内側は重くざわつきます。不安で不安でしょうがなくなるでしょう。

だからこそ人は「君がいることに気が付いているよ」と伝えてくれて、不安を取り除いてくれる人を求めます。

安心したいのです、みんな。そして、安心したいという究極の欲求を満たしてくれた人に対して、人は絶大な信頼を寄せます。その人のリクエストには応えてあげたい、そう思うのです。

なぜならその人の期待に応えれば、またあの安心感が手に入るかもしれないのですから。うずくような不安をその瞬間は味わうことなくすむわけですから。

3根性型指導の限界

私の知人で清水さんという方がいます。彼の人生は、とにかくここまで野球、野球、野球。野球一色でした。

早稲田実業で甲子園に三回行き、早稲田大学で野球部の主将を務め、社会人では熊谷組の野球部に入り、最終的には監督としてチームを全国大会準優勝に導きました。

現在は、日本オリンピック委員会の強化スタッフ(野球)なども務めています。この清水さんが、日本の野球界における指導者のコーチングについて実状を私に教えてくれました。彼は力を込めていいます。

「野球界のコーチングはひどい!特に少年野球はひどい!時代錯誤もはなはだしい!」。

もちろん全部が全部ではないでしょうが、彼にいわせると、少年野球では何といっても極端にアクノレッジメントが少ないそうです。

例えば、バッターボックスに入った子どもが、高めのボール球に手を出して空振りしたとします。

そうすると監督がどなるそうです。

「何でそんな高い球に手を出すんだ!ボールを見てるのか!」その子どもが次に取る行動はどうなるでしょうか。

とにかく怒られたくないから、次のボールには絶対手を出さないぞと決めるでしょう。で、そうした時に限ってド真ん中のボールが来ます。子どもは当然振らずに見送ります。そうすると監督はまた怒ります。

「このばかやろー!真ん中の球に手を出さないやつがどこにいる!!」子どもは混乱し始めます。どう振っても怒られる、振らなくても怒られる、どうしよう。混乱のさなか、つい何となく三球目のボールに手を出して三振します。

結局、監督はまた怒るのです。「三球三振してどうすんだ!!」結果として子どもはどんどん受身になります。

怒られないように、というのが最優先されるために子どもは監督が指導したこと以外は決してやらなくなるのです。

だからそうした環境下では、イチローや野茂のようなオリジナリティーにあふれたバッティングフォームやピッチングフォームは決して生まれません。

冗談みたいな話ですが、清水さんにいわせると、これが少年野球で非常によく見る光景だそうです。では、良い監督はどのように指導するのでしょうか。

清水さんの話をもとに、先ほどのケースを再び考えてみましょう。子どもが高めのボール球に手を出し空振りをします。

でも子どもの主観では、当然振ったその瞬間はあたる!と思っているわけですから、その肯定的な意図は認めてあげて、「いいぞ、あたると思ったらどんどん振っていいぞ!」といいます。

それから、どこかに良いところを見つけてあげて「今のは確かにあたらなかったけど、スイングスピードはけっこう速かったぞ」などというふうにちゃんとほめるのです。

もちろんそのままにしておくわけではなく、改善に向けて働きかけもします。

「高めのボールはなかなかあてるのが難しいもんだよ。どんなところに手を出したらより確実に当たる気がする?」一方的に「これを振れ!」ではなくて、相手の意見を大事に扱うのです。

「この辺でしょうか?」と、少しさっきより低めの位置を指し示した子どもに対して「そういう場所をね、ストライクゾーン、打つとあたるところ、っていうんだよ」と、子どもの意見に承認を与えます。

そして子どもが再びバットを振ると、今度は前に飛ばないまでもチップします。「おう!今度はチップしたなあ」と小さな成果に対して体全体で賞賛します。このころには子どもはもう自分で考え始めるそうです。

「次はどこに手を出せば前に飛ぶんだろうか?」と。それで、ついにボールが前に飛んだら、「やったじゃないか!!」と大賛辞です。

どうも「良い監督」は、子どもに問いかけることも含めて、アクノレッジメントのシャワーを浴びせかけているようなのです。

一昔前までは、怒ってどなって根性一本槍の監督でも良かったのかもしれません。苦しさを乗り越えたところにこそ大きな幸せがあると思えたあの時代は。

自分に向けられたアクノレッジメントが少なくて、内側がざわついたとしても、それをぐっと抑え、ただひたすら巨人の星に向かって走り続けることができました。

あの時代、星一徹は星飛雄馬に対して「飛雄馬、どんなボールが投げたいんだ?」などと相手の意見を尊重することでアクノレッジする必要はなく、「飛雄馬、大リーグボール養成ギブスをつけろ!」で良かったわけです。

父親や先生や監督は「権威」として機能していたし、それに続く選手たちや子どもたちは、真面目にいうことを聞けばそれで成長できると思えたものです。

ところが、どうも時代は変わってしまったようです。

日本社会の中でいわゆる「権威」と呼ばれる存在──大手銀行、官僚、政治家、警察、教師、親などが軒並み失墜する中で、そう簡単に若い選手たち(あるいは若手社員、子ども)は、コーチや監督(あるいは上司、親)のいうことに対して、心の底から信頼を寄せたりはしません。

少年野球チームに所属する子どもたちも、昔は多少どなられても、それをバネにうまくなろうと思えたものです。

でも今は「そこまでがんばらなくても」「別にそんなにうまくなりたいわけじゃないし」「怒ってばかりでイヤな監督」といった言葉が簡単に口を突きます。

だから子どもが簡単にチームを去ってしまうのです。子どもだけではなくて、昨今大学で体育会に入る学生も激減しているそうです。

「今はアクノレッジメントはしないけど、君が本当に血のにじむような努力をしてがんばって、大きな成果をあげたら、その時こそは、これまで体験したことのないようなすばらしいアクノレッジメントが手に入るよ」──こうしたアプローチは、どうやら(特に)今の若い人には効かないようです。

4承認型で成果を出す「体育会」が台頭してきた

伝統や厳しさにこだわり、低迷を続ける大学の「体育会」が多い中で、慶應大学のラグビー部はまさにそうした過去からの「縛り」と決別し、新たなチーム文化を創り出すことに成功した体育会の一つだと思います。

そして、その新たなチーム文化の根底には、学生に対するふんだんなアクノレッジメントがありました。

慶應ラグビー部はその昔、アメリカ海軍の訓練の次に「きつい」、ひょっとしたらイスラエルの特殊部隊より「きつい」と揶揄されるくらい、根性絶対、上の命令絶対の組織でした。

私が慶應大学に入学したのは一九八六年、ちょうどその一月に上田昭夫監督の指揮のもと、慶應ラグビー部がトヨタ自動車に勝ち、日本選手権で優勝を遂げた年です。

中学・高校で六年間ラグビーをやっていた私は、あこがれもあって、一度神奈川県の日吉にあるラグビー部のグラウンドに練習を見に行ったことがあります。

後にも先にもあれほど壮絶な光景は見たことがありません。

ケガをしてではなく、練習がきつくてもうふらふらになって、八甲田山でついに力尽きた日本兵のように選手がグラウンドに倒れ込んでいくのです。

それでも駆け寄る人間は誰もおらず、何ごともなかったかのように周りでは練習が続きます。

たまにこの倒れ方は尋常じゃないだろうと思うと、マネジャーが側にやってきて頭から例のやかんの水をじゃ~っとかける、ただそれだけ。

やかんの水をかけられてもまだうずくまっている光景は、なにやら溺死体を見ているようで、背筋が寒くなったのを覚えています。

聞いた話では、当時の慶應ラグビー部の一日の練習時間は八時間。

新入生はその前後に準備と片付けで一時間ずつかかるので、合計一〇時間はラグビーに費やすそうです。授業なんてほとんど出られません。これはとてもついていけないなと思い、私は入部をあきらめました。

トヨタ自動車に勝ったその年、上田監督は勇退を決意してラグビー部を去っています。そして翌シーズンから、慶應ラグビー部は長い低迷期間を迎えます。

約一〇年間、それまで常連であった全国大学選手権大会にもまともに出られないような時期が続きました。この低迷からチームを救ったのが、再び上田監督でした。

ただ、その道程は決してやさしいものではなかったようです(上田昭夫著『王者の復活』〈講談社刊〉にその道程はくわしく記されています)。

フジテレビに勤務していた上田監督が、再び監督としての要請を受け現場に戻ってみると、選手たちがすんなり自分の指示を受け取りません。

そればかりか「外国人のコーチを選んでほしい」などと勝手な自分たちの要望ばかり聞かせようとするのです。

かつて日本一にチームを導いた自分が現場に戻れば、選手は自分の話を快く受け入れてくれると思っていた上田監督は、その学生の対応に本当に驚いたそうです。

でもそこで上田監督がすばらしいのは、「何なんだこいつら」と相手を否定するのでもなく、「俺の権威も失墜したな」と自己不信に陥るのでもなく、「どうも時代は変わったみたいだ」とすぐに思ったことです。やり方を、戦略を変えなければ今の選手は動かせない、そう思ったことです。

そして、実際に彼はやり方を変えました。

まず、練習の準備の仕方や合宿所での過ごし方、果てはどんな練習をするかにいたるまで、ある程度学生に任せるようにしたのです。

もちろん丸投げではなく、最低限守ってほしいルールはこちらから伝えるし、練習に関しては当然経験から導かれる多くの視点は伝えるものの、そこに「お前たちの考え方を大事にしている」というメッセージを多く込めました。

「監督」と呼ばせて威厳を保つことなどはせずに、自分から学生に積極的に近づき、「よう、どうだ調子は。理工学部だろ?授業のほうは大丈夫か?」などと頻繁に気軽に声をかけました。

また、どんな些細な練習でもただ一方的に上からやれというのではなく、生徒の視点に回り、彼らがその重要性を理解するために必要な説明を丹念に伝えました。

部の納会では表彰式を執り行い、一軍の選手のみならず、三軍の選手にいたるまで、その貢献を称えました。

つまり、「最上位」の監督として「重さ」を演じるのではなく、自身の行動の隅から隅にいたるまで、「お前たちの存在を認めている、価値を認めている、大事にしている」という想いを入れ込んだわけです。

新生慶應ラグビー部の日々の「営み」の中には、アクノレッジメントがたくさんありました。

いったんどん底に落ち込んだチームは再び上昇気流をつかみ、優勝を含め大学選手権のベスト4にたびたび進出する強豪として復活しています。

最近でも新入生の入部希望者が見学に訪れることがあるそうです。すると誰もが「ずいぶん楽しそうですね」という感想をもらして帰っていくと聞きました。二〇年前とはずいぶん違います。

少なくとも大学の体育会を見る限り、慶應ラグビー部のみならず、根性型から承認型に移行して成果をあげているチームはたくさんあります。

組織の運営という意味では、この新しい体育会のチーム作りに、企業も大いに学ぶべきことがあるのではないでしょうか。今、企業で求められているのは、そこに移行する勇気なのかもしれません。

5ミドルにもシニアにもアクノレッジメントは必要

企業のマネジャーを対象にした研修をやる時、毎回どこかで必ず聞く質問があります。

「みなさんはどんな時にモチベーションが下がりますか?」九五%以上の人が次のように答えます。「上からああしろ、こうしろといわれた時です」本当にほとんどの人が力を込めてそう答えます。

若い人は一昔前のように叱責や指示、つまり根性論だけでは動かない、という話をしてきましたが、叱責と指示だけでは動かないのは、どうも若い人ばかりではないようです。

ミドルもシニアも、つまり三〇代以上の人たちも、叱責や指示命令だけではかつてのように動かなく、いえ動けなくなっているようです。

二〇年くらい前、バブルが絶頂のころは、多くの企業が「やる気」研修を好んで取り入れました。

一週間ぐらい管理職が缶詰になって、大きな声で社是を朗読したり、自分を奮い立たせるために、「絶対に目標を達成するまであきらめません!」と墨で書かれた大きな垂れ幕を前にして、何回も何回も復唱したり。

それは、トップダウンで下される指示命令をよりスムーズに実行に移してもらうためのトレーニングでした。あのころはそれで良かったのです。

高度経済成長期、バブル期と、日本経済が右肩上がりで推移していた時は、上からの指示命令にある程度部下は盲従することができました。

課長になることであれ、マイホームを購入することであれ、「巨人の星」を多くのビジネスマンが持てたあのころは、上の指示どおりにやってみようかと思えたものです。

一生懸命がんばれば、もう少し耐えればそのうちいいことがあると思えたからこそ、上司の指示に懸命に応えたのです。

たとえそこにアクノレッジメントが多くなかったとしても、内側のざわつきを根性で打ち消し、いずれもっと大きなアクノレッジメントを手にするんだと日々がんばれました。

ところが企業環境が変化し、将来自分の業績に関係なくリストラされることもあり得る、他の会社に移ることも早晩あるかもしれない、合併によって一瞬にして自分のミッションが変わることもあり得る、という中では、何よりも「巨人の星」が見つけにくいのが現状です。

そして「巨人の星」がはっきりしない中では、部下は歯を食いしばって我慢してまで上司の命令を遂行しようとは思わないものです。

「そうはいわれても……」「別にそれをしなくても……」が口癖になります。

指示命令という上司のコミュニケーションスタイルをサポートしていた経営環境は、もはやそこにはないわけです。

研修でマネジャーに「では、どんな時にモチベーションが上がりますか?」と尋ねると、これまた九割以上の人が「ちゃんと任されて、認められた時」と答えます。

もはやアクノレッジメントは秘めたる欲求ではありません。一年に一度か二度口にすれば恩の字といった高級フランス料理ではありません。

毎日口にする必要がある、米であり、タンパク質であり、水です。行動を起こしてそれを継続するために不可欠なエネルギーなのです。

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