はじめに
本書は「なぜ本を読むといいのか」について考える本である。親や先生はみな、子どもに「本を読みなさい」と言う。
しかし、反対に「どうして読まなければいけないの?読むといいことあるの?」と正面から問い返されたら、理路整然と答えられる大人はなかなかいない。
そもそも、子どものころに親や先生にそう言われて、疑問に思わなかっただろうか。子どもを持つ親の立場になった人は、子どもからそう問いかけられて、言葉に詰まったこともあるはず。そうした体験を持つみなさんに、ぜひ本を読むことの本質を問いかけてみたいのだ。
本書でイメージする本は、普通の小説、エッセイ、ビジネス書、科学ものをふくめたノンフィクション、伝記、ドキュメンタリーなどの一般書である。
専門書や研究書を除いているのは、専門家や研究者になろうとする人はそれらを読むのが当たり前なので「なぜ本を読むといいのか」について問い直す必要などないからだ。
それから、最初にお断りしておく。本について考える本とはいえ、最近流行りの読書法や速読術について言及するつもりはない。もっと古典に親しむべきだ、という上から目線の説教もしない。何をどのように読むかについては、それぞれが自由に考えればいい。電子書籍はけしからんという話もしない。
情報が電子化するのは自然な流れだからだ。いっぽうで、私は紙の本も立派なモバイル端末(持ち運びできるデバイス)だと考えてもいる。
だからもう、読書について考えるうえで、リアルかバーチャルか、紙か電子かという議論はあまり意味を持たないように思う。
前置きはさておき、本題に入ることにしよう。読者のみなさんにとって、本書が読書について考えるきっかけになれば幸いである。
2015年5月5日こどもの日藤原和博
序章成熟社会では本を読まない人は生き残れない
成熟社会では、自らの「幸福論」を自分で見つけていくしかない「趣味としての読書」から「人生を切り拓くための読書」へどうやって「それぞれ一人一人」の幸福論を築くか「本を読む習慣がある人」と「そうでない人」に二分される階層社会
第1章本を読むと、何が得か?
読書をするだけで、ほぼ「10人に1人」の人材になれる本を読むか読まないかで、報酬の優劣は決まってくる人生の50年間で触れ合うべき4つの分野読書によって、「想像する力」が磨かれる読書によって身につく、人生で大切な2つの力読書によって身につく、「よのなかを生きる力」読書をすると、人生のステージが上がる意識が高まると、「引き寄せる力」も強くなる
第2章読書とは「他人の脳のかけら」を自分の脳につなげること
一人一人が納得解をつくり出す「レゴ型思考」1冊の本にはどれほどの価値があるのか他人の脳のかけらをつなげることで、脳は拡張する脳の受容体を活性化させる「本の読み方」本を読むことは、「みかた」を増やすこと読書で、著者の脳をつなげて未来を予測するコラムツールとしての読書①読み聞かせは、親と子の絆を深める
第3章読書は私の人生にこんなふうに役立った
名作が読書嫌いを生む!?大学時代、格好いい先輩の本棚で出合った、人生を変える1冊「純文学、読んでる?」病気がくれた、本と向き合う時間「自分の意見をつくり上げる」ための読書話についていくには、とにかく本を読むしかなかった読書が生活の一部になって現れた「人生の鳥瞰図」量は質に転化する──300冊のブレイクスルーコラムツールとしての読書②相手との距離を縮める「本の使い方」
第4章正解のない時代を切り拓く読書
これからの時代に欠かせないのは「情報編集力」私が「情報編集力」が重要だと考えるようになったきっかけ大事なのは「情報処理力」と「情報編集力」の切り替え「コミュニケーションする力」を磨く読書「ロジックする力」を磨く読書「シミュレーションする力」を磨く読書「ロールプレイングする力」を磨く読書「プレゼンテーションする力」を磨く読書「複眼思考(クリティカル・シンキング)」を磨く読書まずは、「道徳としての読書」から抜け出そう情報編集力は、子ども時代の「遊び」が鍵になる大人が情報編集力を磨くにはコラムツールとしての読書③本は、孤独に耐えながら読むモバイル端末
第5章本嫌いの人でも読書習慣が身につく方法
藤原流・本の読み方と選び方ベストセラー本にはそれなりの理由がある確実によい本に出合うための方法はあるか!?本は顔が見えてこそ、手に取りたくなるもの習慣化されるまでは、ある種の「強制」も必要本は読むだけで終わらせないあとがきにかえて
付録藤原和博の「これだけは読んでほしい」と思う本・50冊
ビジネスパーソンに読んでほしい14冊
- 『天才!』
- 『ピーターの法則』
- 『MAKERS』
- 『ジェフ・ベゾス果てなき野望』
- 『ジョナサン・アイブ』
- 『第五の権力』
- 『ゼロトゥワン』
- 『貧困のない世界を創る』
- 『それをお金で買いますか』
- 『えんぴつの約束』
- 『「最高の授業」を世界の果てまで届けよう』
- 『心が喜ぶ働き方を見つけよう』
- 『35歳の教科書』
- 『坂の上の坂』
学校では教わらない現代史を学ぶ10冊
- 『昭和史』
- 『日本の戦争力』
- 『あの戦争は何だったのか』
- 『敗戦真相記』
- 『戦後史の正体』
- 『東京プリズン』
- 『戦艦大和講義』
- 『海賊とよばれた男』
- 『卑怯者の島』
- 『オールド・テロリスト』
- 小中学生から高校生の子を持つ親に読んでほしい15冊
- 『いつか、すべての子どもたちに』
- 『頭のよい子が育つ家』
- 『ぺコロスの母の玉手箱』
- 『ペテン師と天才』
- 『13歳のハローワーク』
- 『奇跡のリンゴ』
- 『手紙屋』
- 『脳と創造性』
- 『14歳からの哲学』
- 『死体とご遺体』
- 『いのちのバトン』
- 『自殺予防』
- 『友だちいないと不安だ症候群に効く授業。』
- 『「学力」の経済学』
- 『新・観光立国論』
子どもといっしょに読みたい11冊
- 『ろけっとこざる』
- 『バーバパパのいえさがし』
- 『ずーっとずっとだいすきだよ』
- 『ぐりとぐら』
- 『いちねんせい』
- 『おしいれのぼうけん』
- 『じごくのそうべえ』
- 『おふろだいすき』
- 『あめふり』
- 『だるまちゃんとかみなりちゃん』
- 『地球』
序章成熟社会では本を読まない人は生き残れない
成熟社会では、自らの「幸福論」を自分で見つけていくしかない
「成熟社会」については、これまで講演でも書籍でも繰り返し言及してきた。長年にわたって同じことを言い続けているのには、れっきとした理由がある。
日本はすでに成熟社会に移行して久しいというのに、それを現実のものとして理解している人がとても少ないからだ。私は、この成熟社会というものに対する理解がないまま、読書の意味を考えることはできないと思っている。したがって、本書の冒頭でもいま一度お話ししておきたい。
日本における20世紀型の成長社会は、1997年を境に終焉を迎えた。戦後の焼け野原から、日本が一貫して右肩上がりの成長を遂げてきたのは周知のとおりである。
それは1950年代半ばに始まった高度成長期を経て、1980年代後半から起こるバブル景気でピークを迎える。そして、バブル景気は1990年代はじめに崩壊する。
バブルを牽引してきた株価、地価、住宅価格などの資産価値が下落し、いわゆる「失われた10年」に入った。その余波を受けた金融機関が、不良債権の負担に耐え切れずに崩れていく。
1997年には、バブルの象徴ともいえる株式を扱う証券会社が破綻した。その顕著な例が、山一證券と三洋証券である。
もう1つの象徴である不動産に資金を提供した銀行の破綻も始まった。それが北海道拓殖銀行の倒産だった。翌年には、日本長期信用銀行と日本債権信用銀行も倒産している。
実際のデータを見ても、バブル崩壊からしばらくの間、上昇を続けていた一人あたりの名目GDPが、1997年をピークに下降を始める。ここで20世紀型の成長社会が終わりを迎えたことは明白だ。
そこから先は、それまでとはまったく違う21世紀型の成熟社会に移行したということなのである。そうした変化に歩調を合わせるように、社会も変質していく。
ひと言でいえば、20世紀型の成長社会が象徴する「みんな一緒」という時代から、21世紀型の成熟社会が象徴する「それぞれ一人一人」という時代に変わったのである。
電話の変遷を考えるとわかりやすい。かつて、電話は一家に1台置かれた状態が常識だと考えられてきた。電話機自体の進化とともに親機を中心に子機が増えていくが、電話回線が一家に1本という「みんな一緒」の固定電話であることに変わりはなかった。
ところが、バブル崩壊とともに大きく変化が起こった。1993年に1・4パーセントだった携帯電話の普及率は、1998年には25パーセントにまで急上昇した(総務省調査より)。
その後に見せた急速な普及は、みなさんが実際に体験したとおりである。「みんな一緒」の固定電話から、「それぞれ一人一人」のケータイ電話になってきたことが、時代の変化を如実に表している。
結婚式の引き出物の例もそれをよく表している。昔は、結婚式で列席者に渡す引き出物は、予算に合わせて商品を選び、それを全員に配るのが一般的だった。「みんな一緒」の引き出物である。
持ち帰った列席者の家で、「みんな一緒」の引き出物はどのような運命をたどることになっただろうか。多くの家で、引き出物は食器棚やクローゼットの奥にしまい込まれた。
その後、捨てるに捨てられず、幼稚園や小学校のバザーに出品されるケースは少なくない。それを「おかしい」と気づいたリンベルという会社がある。
彼らは、予算に合わせた同一価格(たとえば、3000円、5000円、1万円……いまでは15万円のコースまである!)で数百種類の商品から引き出物を選べるカタログを出版した。
個人の好みに合わせて「それぞれ一人一人」が商品を選べるようになった。リンベルは1987年に設立された会社で、2000年には売上100億円を達成している。
2004年には200億円、2008年には400億円と、4年ごとに倍々ゲームを繰り返している。
この急成長も、それぞれ一人一人の成熟社会への移行を如実に物語っているといえないだろうか。「みんな一緒」の時代には、日本人にはパターン化した幸福論があった。日本人が共通の正解として持っていた「みんな一緒」の幸福論だ。
お父さんやお母さんや先生の言うことを素直に聞いて、「早く」「ちゃんと」正解にたどりつける「いい子」にしていると、「よい高校」や「よい大学」に入ることができる。
「よい大学」に入ることさえできれば、上場企業や有名企業などといったいわゆる「よい会社」に入れたり、安定した公務員になったりすることができた。
そこにどうにか潜り込むことができさえすれば、少なくとも課長くらいにはなれて、それなりの金額の年収を手にすることができた。
よほど大きな問題さえ起こさなければ、定年まで勤め上げることができる。そうすると、まとまった金額の退職金を手にすることも可能だ。
安定した右肩上がりの収入を背景に、30年~35年という途方もない期間のローンを組み、通勤時間が1時間~2時間の郊外に一軒家かマンションを購入する。
定年のときにローンが残っていても、確実に支給される退職金で繰り上げ返済が可能なので、あまり心配をする必要はない。
定年と前後して、自分の息子や娘が孫を連れて我が家を訪ねて来る。それを楽しみに日々の生活を送っているが、やがてだれも訪ねて来なくなる。
息子や娘が仕事や家事で忙しくなり、あるいは孫が受験や部活で忙しくなり、場合によっては反抗期で家族と行動することを避けるようになるからだ。
そうなると、寂しさをまぎらわせるためにペットを飼い始めるかもしれない。朝晩、散歩に連れて行くのが習慣になるだろう。
そのうち、(あまりいい話ではないから例としては恐縮なのだが)おじいちゃんのほうは、定年から10年あまりで天寿をまっとうする。
これが、20世紀型の成長社会における典型的な日本人としての幸福論だった。こうした「共同幻想」を、みんなが一緒になって追い求めていた時代なのである。
20世紀型の成長社会では、そんな一般的な幸福パターンに向かう周囲の流れに乗っていれば、7割方の人がライフデザインをあまり意識することなく幸せになれたのだ。
その最たる時期が、1980年代だった。人生は、国家と企業が自動的につくってくれるものだったからだ。自分の勤める会社という「渦」に巻き込まれているだけで、会社が幸せにしてくれた。
しかし、成熟社会になると、ただやみくもに頑張っているだけでは「みんな一緒」の幸せをつかむことはできなくなる。
「趣味としての読書」から「人生を切り拓くための読書」へ
成熟社会では、「それぞれ一人一人」が自分自身で、世の中の流れと自らの人生とを鑑みながら、自分だけの幸福論を決めていかなければならない。
「そんなことはない。いつの時代だって人は自分の幸福論を考えてきた」そんな反論が聞こえてきそうだ。でも私はそう思わない。20世紀型の成長社会で人生を謳歌してきた人々は、独自の幸福論をあまり真剣に考える必要がなかったのだからしかたない。
彼らは、定年時に住宅ローンが残っていても、確実に出る退職金で一気に支払うことができた。つまり、退職するまでの会社人生で「一回あがり」ができる幸福論があったのだ。それに疑いを挟む余地がなかったので、定年までは会社とともにあればよかったのである。
いっぽう彼らの定年後のイメージは、たとえば畑仕事に精を出すとか、蕎麦打ちに精を出すとか、郊外にペンションを構えるというような「第二の人生」を計画することだった。
ところが、もはや、国家と企業にはそうした幸福論を保証する能力がないことがバレてしまった。それぞれ一人一人が自分自身の幸福論を編集し、自分オリジナルの幸福論を持たなければならない時代に突入したのである。
私が最初にこのことを訴えたのは、1997年12月に刊行された『処生術』(新潮社)という本だった。そこでは、自分が自らの人生の主人公にならなければならないと強く打ち出した。
しかし、20年近く経ったいまでも、その本質を理解している人は極めて少ない。あるいは、自分だけは逃げ切れると思っている人がなんと多いことか。自らの幸福論を構築していくためには、幸福論を紡ぐための教養が必要である。
しかし、そうした教養は学校では教えてくれない。「それぞれ一人一人」の幸福をつかむための軸となる教養は、自分で獲得しなければならない。そのためには、読書が欠かせないというところに行き着くのだ。
20世紀型の成長社会では、極論すれば、幸福をつかむための読書は必ずしも必要なかった。少し毒を吐くことになるが、お許しいただきたい。
かつては、城山三郎さんの経済小説あたりを読んで、会社というものの権力構造をわかったような気になっていればよかった。
ドラッカーの『マネジメント』(ダイヤモンド社)をかじって、経営学をわかったつもりでよかった。ちょっと知性があるフリをするためには、吉本隆明さんの著作を読んで、それっぽい感想を吹聴すればよかった。
少し前であれば、1983年に刊行された浅田彰さんの『構造と力』(勁草書房)だ。正直に申し上げれば、私も読もうとして買ったが、難解過ぎて理解できなかった。
こうした本が何十万部も売れるということは、小脇に抱えていることで知性がアピールできたからにほかならない。
つまり、趣味や見栄で読書をしている人はいたと思うが、自分の幸福論を築くために読書をしていた人は少なかったはずだ。
「それぞれ一人一人」の幸福論が持てなければ、幸せになれない時代。
「幸福にはどのような種類や段階があるのか?」「どうすればそれを得ることができるのか?」「幸福はお金で買えるのか?」「いったい、どれほどお金があれば幸福になれるのか?」「お金を使うんじゃあないとすると、ほかにどういうやり方があるのか?」「どういう地位を得れば、幸福になれるのか?」、あるいは「幸福は地位や名誉とは無関係なのか?」幸福に関するこうした問いに対して、学校の先生が十分な示唆を与えてくれるとは思えない。
では、親は教えてくれるだろうか。親が教えてくれるのは、親の生き方であり、親のやり方だ。ところが、その親たちは、黙っていても7割方が幸福になれる時代を駆け抜けてきた人たちなのだ。
親の言うとおり、先生の言うとおりに生きたとしても、うまくいく保証はひとつもない。彼らにとって成熟社会は、未知の世界だからだ。だとしたら、自ら切り拓くしかないだろう。
だからこそ、人生の糧を得る手段として読書をする必要があり、教養を磨く必要があるのだ。
どうやって「それぞれ一人一人」の幸福論を築くか自分の幸福論を構築するには、世の中をどのように把握し、それに対して自分の人生をどのようにとらえるかが重要になる。
「人生のとらえ方」とは、いわば人生の幸福の実現のためにどういうテーマを持ち、どういうベクトルに向かって進んでいくかということだ。
幸福という定義を自分で決め、現在の自分がどの地点にいて、どちらの方角を目指し、どこまで達成すればいいのかということまで、すべて自分で決めていかねばならない。
だれも助けてはくれない。これは、じつに恐ろしいことだ。成熟社会は、個人がバラバラになっていくことと同義である。それにともなって、地域コミュニティの影響力も後退していく。日本にはもともと地域社会というコミュニティがあったが、産業化によって破壊されていった。
その代わりの役割を果たしたのが、企業というコミュニティだ。しかし、成熟社会では、それさえもアメリカ流のグローバリズムによって分断されていく。
じつはヨーロッパを中心に成熟社会を迎えた先輩諸国がやったのは、国家として宗教を発動し、バラバラになっていく個人を再び紡ぐことだった。
日本のように企業がその役割を担うのではなく、宗教界が教会というネットワークで紡いでいったのだ。
ややこしいのは、日本は太平洋戦争の影響で、このように、国家が宗教を発動できなくなったことだ。宗教の未整備によって、とくに若い人たちが浮遊している。
では、宗教の代わりに彼らをつなぎとめているものは何か。それが日本の若者が異常にのめり込んでいる携帯メールである。
突出してメール文化が盛んになったのは、宗教の代替機能として、つながったような気になるという側面が大きかったと私はみている。宗教が機能している社会では、宗教が物語をつくり、幸福とは何かを教える。
でも、日本のように宗教が機能不全の国家では、自分で自分の宗教、あるいは、その代替物としての幸福論を持たなければならない。
だが、携帯メールはその場限りのつながりを与えてくれるだけで、幸福論の代わりにはならない。だれかに託したり、自らを捨てて帰依することができる人はそれでいいと思う。
しかし、そうではない普通の人は自分で本を読み、自分で世界観を構築しなければ幸福論は築けない。共同幻想を追いかける「みんな一緒」の習慣に抗うには、よほどの覚悟がいる。
時代の変わり目には(いまがそうなのだが)、あたかも「みんな一緒」の時代に逆戻りしているような錯覚を覚えることもある。
それを反動と呼ぶが、成熟社会が深まる流れは変えられない。
だれもが、やがて決断せざるを得なくなるだろう。自分の世界観と人生観を持ってどういうベクトルに向かって進んでいくのか。
つまり、何をテーマに掲げて生きていくかということを決めなければならない。そのとき、本を読まないまま決断することは無理だと思う。
だからといって、本を読めばすぐにその世界観が手に入るわけでもない。リクルートの創業者である江副浩正氏がこう言っていた。「1つの世界をつくるには、25年はかかる」と。
「本を読む習慣がある人」と「そうでない人」に二分される階層社会
これから先の日本では、身分や権力やお金による〝階級社会〟ではなく、「本を読む習慣のある人」と「本を読む習慣のない人」に二分される〝階層社会〟がやってくるだろうと私はみている。
その顕著な例として、2014年12月10日、NHKの情報番組「クローズアップ現代」で読書に関する興味深い放送があった。タイトルは「広がる読書ゼロ~日本人に何が~」だ。
少し長くなるが、本書のテーマと重なる部分も多いので、番組内容を要約してみたい。番組は、冒頭で文化庁が発表した「読書」に関する調査結果を挙げている。
1か月に1冊も本を読まないという人が47・5パーセントに達し、2人に1人は本を読まなくなったというのだ。私の実感としても、うなずける。番組は帝京大学の学生に取材し、次のような回答を得た。
「インターネットで調べたほうが、本を読むよりもすぐに調べられるので、読書に回す時間はほぼない」「スマートフォンも実際に情報がたくさん詰まっているものなので、そちらを見ている時間に取られてしまう」これが、現代の若者の実態だろう。
本を読まないことの影響を調べるため、番組は人間の情報探索行動を研究している筑波大学図書館情報メディア系の逸村裕教授と実験を行なった。
それは、学生がレポートを書くにあたって、本を読む人と読まない人の間にどのような違いがあるかについて比較する実験である。課題はこうだ。
「『英語の早期教育』に関する議論について整理し、ふくめるべきだと思われるトピック(事実や議論など)を箇条書きにし、あなたの論旨と意見を明記してください。A4レポート用紙1枚以内(1500字以内)にまとめてください」
参考資料として、図書館内の書籍やインターネットは自由に使用して構わないという条件も書かれている。実験に参加したのは6人の学生だ。そのうち、1日の読書時間がゼロの学生が4人、30分の学生が1人、2時間の学生が1人だった。
実験開始後、すべての学生がインターネットで「英語の早期教育」というワードで検索をかけた。ほとんどの学生は驚くべきスピードで必要な情報を取捨選択し、ネット記事を「コピペ」して修正をかけ、レポートを完成させた。
ただ、読書時間が2時間の学生だけは違った。彼はヒットした記事に参考文献として挙げられていた2冊の書籍のタイトルをメモしたうえで、図書館に向かった。
そこで目当ての本を手に取ると、さらに偶然目にしたテーマに関連しそうな本も2冊手に取った。その学生は言う。
「ネットだとキーワードで調べたものしかヒットしないという面があるのに比べて、本は検索では結びつかないようなものも拾ってこられる」
特徴的だったのは、インターネットだけで完成させた学生のレポートのテーマが多岐にわたっていること。だがそれに対する論理的な展開に乏しく、多岐にわたるテーマを編集できていない。情報をかき集めるだけかき集めて並べただけで、一本筋が通っていないのである。
しかも、自分なりの意見がほとんどなかった。コピペや引用のあとに、わずか数行の意見らしきものがあるだけだ。むしろ感想と言ってもいい程度だった。
反対に、図書館で本を借りた学生だけはテーマを絞っていた。自ら仮説を立てながら資料にあたり、早期教育は必ずしも必要ではなく、大人になってからでも習得可能であることに目をつけた。
彼は、本にあたることで論理的な思考を行ない、自分なりの論旨を展開していったのだ。「読書」と「自分なりの意見」の相関は、私自身の経験からもいえる。
第3章で詳しくお話しするが、私はある時期までまったく本を読まなかった。
それでも、大学卒業とともに入社したリクルート時代は面白い企画を考え出し、それを効果的にプレゼンし、実際に成果をあげていた。
しかし、世の中に対する意見や人生に対する仮説を持つことはできなかった。
ようやくそういうものが出てきたのは、30代を超えてから一念発起して読書を始め、300冊を超えたあたりからだった。
あらためて思うのは、読書を通じて知識のインプットを蓄積していかないと、自分の意見というものが出てこないという事実だ。
番組では、中盤からジャーナリストの立花隆さんが登場し、こんな発言をしている。
「ネットだけだと、どうしても掘り方が浅くなる。もうちょっと深い情報を得たいと思ったら、本なりその他もろもろの手段がありますから、それを通してより深い情報を得ることが必要なステージに必ずいくんですね」立花さんも番組のなかでおっしゃっていたが、スマホやインターネットがすべて悪だと言いたいわけではない。
インターネットは使い方しだいで、本だけでは得られない有用な情報にあちこちからアクセスすることができるからだ。しかし、私もネットだけの情報では底の浅い思考しかできないという意見に賛成だ。深く論理的な思考をするうえで、本は絶対に欠かせないものだと思う。
第1章本を読むと、何が得か?
読書をするだけで、ほぼ「10人に1人」の人材になれる
私は『藤原和博の必ず食える1%の人になる方法』(東洋経済新報社)という本で、稼げる人になるためには、100人に1人を目指せと書いた。
まず「パチンコをするか、しないか」という点が第一段階だ。もちろん、暇な時間を持て余していた学生時代に少々手を出していた程度であれば問題ない。
しかし、社会人になっても日常的にやっているようでは、ギャンブル依存症か、その予備軍と見られてもしかたがないだろう。金銭的にもコミュニケーションレベルとしても、悪影響を及ぼすと見て間違いない。
パチンコをする人と、しない人の決定的な違いは、時間をマネジメントする発想があるかないかである。パチンコは非生産的な行為だ。
平気で非生産的な行為に時間を浪費する人に、時間に対するマネジメント能力があるとは思えない。20世紀型の成長社会であれば、勝手に市場が拡大してくれた。
時間を無駄にしても社会全体の利益の恩恵を受けることができたので、それほど大きな問題にはならなかった。だが、21世紀型の成熟社会ではそうしたおこぼれの恩恵はない。
時間のマネジメントができない人は、時間あたりに創出する付加価値が低くなってしまうため、真っ先に労働市場から淘汰される。
パチンコをするか、しないかという視点が最低限のレベルだというのは、そうした観点に立っている。まず、パチンコをしないというだけで、2人に1人の人材になれるということ。
その次の段階は「ケータイゲームをするか、しないか」だ。これもパチンコと同様、時間のあるときに息抜きで遊ぶぐらいであれば問題ない。
しかし毎日のように、電車だろうが家だろうが四六時中やっているような人は、ケータイゲーム依存症か、その予備軍と言ってもいい。
これも、時間に対するマネジメントの問題だ。ゲームをやっている間は、ほとんどアタマを使っていない。親指の反射神経はよくなるかもしれないが、ほかに何の役にも立たない。
依存症や予備軍の人は、現実から逃避するために膨大な時間を無駄にしているだけでなく、仕事や勉強や睡眠などの大切な時間を削っていることに気づいていない。
パチンコもしないし、ケータイゲームもそんなにしないなら、あなたは自動的に4人に1人の人材になれるのだ。
これまでの2つの段階は、言わずもがなの最低限のレベルである。それだけで4人に1人の人材になれるのだから、いかに多くの人が時間をマネジメントできていないかがわかるだろう。
問題は、パチンコやケータイゲームに浪費しない時間を何にあてるかということ。それが第三段階の条件である「読書をするか、しないか」という視点になる。
ここであらためて言いたいのは、21世紀型の成熟社会では教養が大事になるということ。その教養は、読書をすることなしに得られるものではない。
そして何より重要なのは、パチンコをせず、ケータイゲームにはまらず、読書をするだけで「8人に1人の希少(レア)な人材になれる」ということなのだ。
8人に1人ということは、大雑把に言うと10人に1人の人材になれるということ。
その意味では、読書によって教養を身につけるかどうかは、上位10パーセントの階層に入れるか否かを決定づける要因になる。
本を読むか読まないかで、報酬の優劣は決まってくる
みなさんは、ご自分が1時間あたりにどの程度「稼ぐ力」を持っているか、考えたことがあるだろうか。
NPО法人で働く人やボランティアを除けば、1時間あたりの報酬が最も低いのは飲食店や小売店などのアルバイト(パート)だろう。
地域によって最低賃金が違うので一概にはいえないが、平均するとおおむね800円~1000円といったところだろう。このやや上の水準に、いわゆる非正規雇用の労働者層が広がっている。
年齢によって幅が広くなるが、正社員のビジネスパーソンや公務員の年収を年間総労働時間で割って時給換算すると、だいたい2000円~5000円の間になる。
課長職や部長職などのマネジメント職になると収入は増えるが、会社にいる時間のほかにも接待など、実質的な労働時間が長くなっていく。
したがって、時給がこの範囲を大きく超えることはほとんどないといっていい。そして、その上には企業に雇われていない専門家が入ってくる。
たとえば、人気のある弁護士クラスで3万円程度、外資系コンサルタントの雄・マッキンゼーのシニアコンサルタントで8万円ぐらいになる。
こう見ると、日本人が普通に働いたときの時給は、フリーターの800円からマッキンゼーのシニアコンサルタントの8万円まで、100倍の範囲に収まってくる。
1時間あたりの報酬が1万円を超えたところから、私は「エキスパート」と呼ぶことにしている。
私の感覚でいえば、弁護士、コンサルタント、医師などのエキスパートでありながら本を読まない人に、これまで会ったことがない。
なぜなら、知識はつねに入れ替わっていくもので、最新の情報を持っている人しか顧客の期待に応えることができないからだ。
その意味でいえば、時給800円のフリーターはそこまで期待されていない。職業に貴賤があるとは思っていないし、人格とは別の話だが、純粋に仕事と報酬という観点でとらえた場合、彼らがマニュアル以外の本を読む必要はないのかもしれない。
しかし、時給2000円~5000円のビジネスパーソンや公務員はそうはいかない。本を読むか読まないかで、報酬の優劣は決まってくる。
本を読むことで限りなくエキスパートの報酬水準に近づいていくか、本を読まずに限りなくフリーターの報酬水準に近づいていくかという分かれ道だ。
いっぽう、さまざまな仕事のなかで時間あたりに稼ぐ効率が最も高いのは講演である。ビル・クリントン氏のようなアメリカの大統領経験者になると、1回の講演で数千万円を稼ぎ出す。大統領や首相経験者でなくても、講演は稼ぐ効率が高い。日本の有名人クラスでは、1時間あたり100万円ぐらいになる人もいる。
たとえば、宮本輝さんのような一流の作家やジャーナリストは、100万円前後かかると聞いたことがある。
1時間あたりに生み出す価値でみれば、日本のなかでも最低ランクのフリーターの約1000倍、トップクラスのシニアコンサルタントでも10倍の開きがある。
講演で稼ぐ人の時給にかなう職業はおそらくないだろう。さまざまな分野で「一流」と呼ばれる人は、話すだけで1時間あたり100万円を稼ぐ。その根底にあるのは、聴衆を満足させるだけの知識だ。
彼らは、その知識を得るために必ず本を読んでいる。もちろん、聴衆が期待しているのは、講演者が本で得た知識ではない。むしろ、だれも聞いたことがない、その人が実際に体験したことの数々だろう。しかし、人間はすべてのことを体験することはできない。
たとえば、櫻井よしこさんが講演で日本の領土問題を話すとき、尖閣諸島や竹島や北方領土など話題にする場所をすべて訪問し、すべてを体験して語ることなどできはしない。
だとすると、資料を読み込んだり、信頼できる書き手の著書を読んだり、信頼できるネットワークからの情報を得て、それに自らの体験を乗せて語っているはずだ。
ということは、1時間あたりに生み出す付加価値の総量を上げるためには、本を読むことが欠かせないといえるのではないだろうか。
人生の50年間で触れ合うべき4つの分野
1日24時間のうち、眠っている時間を8時間とすれば、起きている生活時間は16時間ということになる。それをもとに1年間の生活時間を計算すると、16時間×365日で5840時間になる。
たまに頑張って夜更かししたり、睡眠時間がもっと短かかったりする人もいるので、おおむね6000時間としよう。
30歳前後の人が健康で長生きすると仮定した場合、残りの人生はおよそ50年あると考えられる。50年に、1年の生活時間の6000時間を掛けると、その人の残りの生活時間は30万時間になる。
その限られた30万時間の間に、どのようなインプットをして、どのようなアウトプットをしていくのか。人生を生きるとは、つまりそういうことである。
情報のインプットについては、次のマトリックスを使って説明するとわかりやすい。
1つの軸は、「個人的な体験」か「組織的な体験」かである。もう1つの軸は、「メディアを通じた体験」か「リアルな体験」かである。この4象限の体験によって、人間はほとんどすべての情報をインプットしている。
「組織的な体験かつメディアを通じた体験」としては、テレビ、新聞、そのほかのマスメディア、広告などが挙げられる。「組織的な体験かつリアルな体験」として挙げられるのは、学校、会社、家族などである。
いっぽう、「個人的な体験かつメディアを通じた体験」が、読書とインターネットだ。
さらに「個人的な体験かつリアルな体験」とは、遊び、仕事、旅などを通じた人との出会いや自らが体験する出来事の数々だ。
人生では、だれもがこの4つの象限のどこかにふくまれる体験をしている。問題は、この4つの象限の、どこにどの程度の時間をかけているかということだ。
人間にとって最も強烈なインパクトを与えるのは、「個人的でリアルな体験」だろう。残りの人生30万時間のうち、この象限にどれだけの時間を割りあてられるか。それが、体験から得られる学習の質を決めるといっても過言ではない。
反対に、「リアルな体験」とはいえ、「組織的な体験」に分類される学校や会社、家族からのインプットについては、どうしても受動的な要素が強くなる。
学校や会社は強力なシステム構造を持った組織なので、個人は否応なく影響を受ける。また、現代に生きる私たちにとって、「メディアを通じた体験」から逃れることはかなり難しい。
とくに、「組織的な体験」としてのテレビ、新聞を中心としたマスメディアや広告キャンペーンの影響を受けやすい。
こうした「組織的な体験」の時間が多くなると、人はどのような思考回路になっていくだろうか。リアルな世界で学校や会社などのシステムの流れに従い、バーチャルなメディア体験でもマスコミや広告の影響下に身を置けば、そのシステムの常識や前例を疑ったり、マスコミや広告キャンペーンがつくり出す空気に対して多面的に思考したりすることは難しくなるだろう。
たとえば、テレビのコメンテーターが発する意見をあなたの意見のように勘違いしやすいということ。
それでは、右側からだけ見せられたら「左からはどう見えるだろう」とか、表面づらのきれいごとを述べられたら「裏から見れば違うのではないか」と複眼思考(クリティカル・シンキング※)。
世の中に流布する情報を無条件に受け入れ、それがあたかも唯一の正解のように思い込んでしまう。これは危険な兆候だ。
21世紀型の成熟社会を生き抜くには、「上手に疑う技術」が必要になる。だから、情報に踊らされないためには、「個人的な体験」をする機会をできるだけ多く持つしかない。
しかも、「リアルな体験」に越したことはない。だが、さきほどみたように、人の一生の時間には限りがある。望むことすべてを体験することは不可能だ。そのようななか、本は、著者を通して「個人的でリアルな体験」を味わうことができる手段なのである。
読書によって、「想像する力」が磨かれる
序章で紹介したNHKクローズアップ現代の「広がる読書ゼロ~日本人に何が~」では、読書が脳に与える影響を研究する東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授が登場する。
科学的な視点から読書の効能について端的にまとめられているので、番組の内容と酒井教授が書いた『脳を創る読書』(実業之日本社)を引用しつつ考えてみたい。
「本を読むという行為は、決して情報を得たいというためにやることではなくて、むしろ自分のなかからどのくらい引き出せるかという営みなのです」(番組より)
酒井教授は、読書をしているときの脳は、ほかの活動をしているときとは違う働き方をすると指摘する。その例として、番組では、雪国の情景をナレーションをふくむテレビ映像と文章で比較している。
テレビの映像は、視神経を通じて後頭葉の「視覚野」でとらえる。同時に、ナレーションは聴覚神経を通じて側頭葉にある「聴覚野」でとらえる。
聴覚野でとらえた言葉は、いくつかの「言語野」へ送られる。酒井教授によると、脳の言語野は4つの領域に分かれているという。その場所を表したのが、次の図に示した「言語地図」である。
「左脳の後方には『音韻(アクセントなど)』を扱う領域と、『単語』の意味に関係する領域がある。左脳の前方には、さらに『文法』をつかさどる領域と、文章の『読解』に必要な領域がある。後方の2つの領域は言語野入力を受け取る役割も兼ねており、『文法』の領域は理解だけでなく発話の際にも働いている」
『脳を創る読書』より視覚野でとらえた映像と言語野で理解した言葉をもとに、脳は場面の意味を理解する。
しかし、テレビ画面からは次々と新たな情報が送られてくるため、脳は入ってくる情報の意味を理解することで手いっぱいになる。表層を理解することにとどまるのだ。
いっぽう、読書の場合はどうなるだろうか。
川端康成の『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章を読んだとしよう。
活字は視神経でとらえられ、脳の視覚野に入る。そこから、次のようなルートをたどって意味を理解する、と酒井教授は言う。
「黙読しているときも、音声化できる活字はいったん脳の中だけの『音』に変えられ、記憶との照合によって自動的に単語や文法要素(たとえば『てにをは』)が検索される。検索された情報は、さらに単語の意味や、文を作る文法を分析するため、別の『言語野』へと送られる。そこで初めて『読む』という行為が確かに言語と結びつくのである」『脳を創る読書』より
このとき、脳は「雪国」の情景や登場する人物について想像を働かせようと、視覚野が動き出すという。
視覚野に蓄積された過去の映像が引き出されて、場面のイメージが脳のなかにつくり出される。酒井教授は、このループこそが「想像力」を養うことにつながると指摘している。
「読書といっても言葉だけではなく、視覚的に映像を頭のなかに想起するとか、過去の自分の体験と照らし合わせて対比して考えるとか、さらには自分で得られた情報からさらに自分で自分の考えを構築するというプロセスが入ってくるので、人間の持っている創造的な脳力がフルに活かされると思います」(番組より)
現代は映像時代であり、テレビでもデジカメでもスマホでも、解像度の高さが機能の中心となっている。鑑賞に値する写真や動画の画質、あるいは映画を楽しむ際の3Dのクオリティなどは、当然、解像度が高いほうがいいに決まっている。
しかし、人間の脳の働きの側から見ると、話は変わってくる。解像度が高いものを見れば見るほど人間のイマジネーションのレベルが下がってしまうからだ。すべてが詳細に見えてしまえば、あいまいな部分を想像する必要はない。テレビやスマホで動画を見る機会が増えれば増えるほど、その傾向に拍車がかかる。
酒井教授が脳の働きを解説しているように、次から次へと視覚に飛び込んでくる映像を処理することで精いっぱいになり、映像を見てイマジネーションを働かせる暇がない。
いきおい、テレビや動画のつくり手側も、あまり受け手にイマジネーションを要求するようなことはしなくなる。こうしたテレビの特徴をとらえて、カナダ出身のメディア学者マーシャル・マクルーハンは「クールメディア」と呼んだ。
私たちが日常生活のなかで受け取る情報量の7割以上は、視覚からの情報だという研究結果がある。テレビが視覚に訴えて現実に近いものを見せてあげれば、視聴者はクールに納得しやすいということである。
これに対し、ラジオは声と音しか聴こえないメディアだ。限られた情報しか与えられないので、リスナーは想像力を大いにかき立てられる。それとともに感情が刺激され、どんどんホットになっていく。
そのため、マクルーハンはラジオを「ホットメディア」と呼んだ。
こうしてみると、読書はラジオと同様に、言葉を頼りに想像力をかき立てるメディアであるといえよう。なおかつ、読書は、受動的にインプットするラジオとは異なり、能動的に情報を取りにいかなければならない。
「アクティブ・ラーニング(主体的な学習)」に適したメディアなのだ。映像時代に生きる人々には矛盾して聞こえるかもしれないが、想像力を磨くためには、読書が必要だということ。テレビの構成作家や演出家がこぞって読書家であることがそれを証明している。
読書によって身につく、人生で大切な2つの力
自分のやりたいことを実現させるうえで大切な、読書によって身につく力がある。それは「集中力」と「バランス感覚」だ。
この2つの資質は、できれば高校生あたりまでに身につけておきたい。早ければ早いほどいい。その後の人生で訪れるチャンスをものにできる可能性が高まるからだ。
まずは「集中力」から考えてみよう。私は、才能豊かな人や有能なビジネスパーソンに数え切れないほど会ってきた。
どのような分野でも、成功した人やユニークなことをやって注目を集めている人は、例外なく集中力が高い。集中力は、受験勉強をふくめた日々の勉強で身につけることができる。
限られた時間のなかで一定量の知識を記憶したり、さまざまな問題を解いたりすることは、集中力を鍛える絶好の機会だ。何のために勉強するのか、という問いに対する答えのひとつでもある。
もちろん、勉強以外にも集中力を鍛錬する機会はある。陰山英男先生の百ます計算を解くことでも、ピアノの練習をすることでも、サッカーの練習でもいい。
これは直接的に計算力を高めたり、リズム感を養ったり、運動能力を磨いたりするためでなくてもいいのだ。結果的にその分野の才能が開花することもあるとは思うが、本当の目的は何か1つのことに集中する習慣を身につけること。
そして、もう1つ、集中力を磨く有効な手段として挙げたいのが読書である。
時間が経つのを忘れたり、人の話が耳に入らないほど夢中になって本を読んだりした経験がだれにでもあるはず。読書を楽しむことが集中力の鍛錬になっているのだ。
もう1つの「バランス感覚」とは何だろうか。人を褒めるとき、このバランス感覚という言葉がよく出てくる。しかし、この言葉の意味を正確に把握して使っている人がどれほどいるだろうか。
あらためて、バランス感覚という言葉の定義について、私なりの考えを示しておきたい。
ここでいうバランス感覚とは、自分と地面(地球)、自分と家族、自分と他者など、世の中全体と自分との適切な距離感を保つことができる能力のことである。最近の子どもたちはうまくバランスが取れていないように見える。それは、20代から30代の若者にも広がりつつある。
たとえば、自分と地面の関係でもそう。転んだときに手をつくことができず、顔から落ちて鼻の骨を折ってしまう子ども。加減がわからず、サッカーボールを蹴って骨折してしまう子ども。
冗談のような話だが、実際に教育現場に立ってみて、こうしたケースが珍しくないことを知った。コンクリートで埋め尽くされた都会では、子どもたちが安心して遊べる土や芝生の公園が減っている。いきおい、心配性の親たちは子どもたちを転ばせないよう、すぐに手を引いてしまう。
思いきり転ぶ機会が極端に少なくなったため、周囲の物事と自分との関係性に身も心も揉まれていないのだ。塾や習いごとで時間を取られて遊ぶ機会が減っていることも1つの要因だろう。
しかし、それよりもはるかに大きな元凶は、テレビやゲームである。
家のなかではテレビやゲームに興じ、外に出て友だちと集まってもスマホやゲーム機器の画面を見続けている子どもが多い。彼らは、そこらじゅう駆け回って鬼ごっこや戦争ごっこをやろうとはしない。
バランス感覚は、テレビやゲームで身につくはずはない。私は、まずは体を使った遊びのなかで身につくと考えている。
佐賀県武雄市の教育改革でごいっしょした、幼児から小学生の教育で秀逸な実績のある「花まる学習会」高濱正伸代表も同じ考えのようだ。だから、外遊びやサマーキャンプで体を使ったチャレンジを重視する。
そういう遊びをしていなければ、どの程度の高さなら飛び降りても安全で、どの程度の高さだと危険なのかという判断基準を身につけることはできない。
砂場や原っぱで相撲やプロレスごっこをやっていれば、自然と受け身を覚え、どの程度の力で投げたら危険かという感覚も身につくだろう。
自然をふくむ周囲の物事との関係性の欠如は、対人関係にも多大な影響を及ぼす。逆にいえば、周囲の物事との空間的な感覚が、人間関係における距離感にも結びついてくるのだ。
子どもが小学校高学年から中学生になった段階で、スマホを持たせる家庭が多い。その年代の子どもに持たせると一気にのめり込んでしまい、1日何時間もかけてメールやLINEで数百通のメッセージ交換をする子どもも珍しくない。
なんとなく寂しいから画面をいじり続ける。少しでも間を空けると、友だちだったはずの相手から攻撃されてしまい、周囲の友だちからも総攻撃を食らってしまう。
それが怖くて文字を打ち続ける。結果的に、ちょっと仲よくなると必要以上にベタベタした関係に陥ったり、反対に、少しでも何かあると絶縁状態になったりする。
ゼロか100、白か黒、〇か×。
微妙な「間」やグレーな「距離感」というあいまいな状態がなくなり、極端な二者択一の人間関係しか成り立たなくなる。
勉強や読書を通じて獲得した集中力も、バランス感覚がなければ極端な方向へ突っ走ってしまう原因になるだろう。
その意味でも、10歳くらいまでは、遊びを通じたバランス感覚を意識することが大切なのだと思う。
バランス感覚は、それ以降の世代では、読書をすることで獲得することも可能だ。読書は、世界観を広げることに役立つ。
読書をすることで他人が体験したり調べたりした知識を獲得することが可能になり、自分の内なる世界観の拡大に結びつく。世界観が広がれば、さまざまな視点で物事や他人を見ることができるようになる。
多様な視点を持つことは、バランス感覚を磨くとともに、人格的な包容力や寛容の基礎にもなるだろう。
読書によって身につく、「よのなかを生きる力」
2003年~2008年の5年間、私は杉並区立和田中学校の校長を務めた。都内の公立中学校では初の民間人校長だったこともあり、予想以上に世間の耳目を集めたようだ。
在任中はさまざまな新しい取り組みを実施したが、その象徴のようなものが「よのなか科」というオリジナル授業だった。
文部科学省が2015年度から力を入れ始めた「アクティブ・ラーニング」(知識をただ暗記させるのではなく、児童生徒の主体的な学習を促し、思考力・判断力・表現力を鍛えて、自分の意見を言えるようにする授業手法)の手本になっているものだ。
「よのなか科」は、これまでの常識や前例を疑い、複眼思考をする力をつけさせるために開発された。身近な事例から、世の中と人間の関係について考察を広げるのが最大の目的である。
1つのテーマについて知識や経験のある地域の大人たちをゲストとして教室に招き、子どもたちに問いかけ、みんなで議論しながら学び合う。
「ハンバーガー店をどこに出店すれば儲かるのか」「安楽死の是非」硬軟取りまぜ、テーマは多岐にわたる。正解はない。成熟社会に入ったいまこそ、取り組んでもらう意味がある。
正解のない問題について話を聞き、情報を集め、自分なりに考え、議論することで異なる視点を得る。さまざまな考えを取り込みながら、試行錯誤することで自分の意見を進化させていくプロセスが大事なのだ。
たとえば、「自殺は是か非か」というテーマがある。
自殺を道徳的に止めることはできるか、あなたは考えたことがあるだろうか。結論から言うと、これはできない。なぜなら、自殺を道徳的に悪だと言うためには、自殺した人間が悪だと断じなければならないからだ。日本では年間約3万人の人が自ら命を絶っている。
その理由は千差万別だが、優しいがゆえに悪い人にだまされてしまったり、ある種の男気があるからこそ自死を選んでしまう人を悪だと決めつけることはできない。
ましてや、小学生から大学生の青少年の自殺もあとを絶たないのだ。人生経験の少ない彼らを悪だと決めつけられるだろうか。自殺を減らすには、自殺をタブーにしないで議論をする以外に方法はない。
「自分の命は自分の所有物なのだから、どんなふうにしてもいいんじゃないの?」「いや、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、その前の何代もさかのぼっていけば、世の中の人はみんな親戚なんじゃない?人間はつながっている存在なのだから、自分が苦しいからって勝手につながりを断ち切っていいのかな?」感情や先入観によって簡単に結論を出すのではなく、こうした両極端の視点を複眼的に見たうえで、その間に自分なりのポジションを決めさせるようにする。
それが「よのなか科」の授業の特徴だ。赤ちゃんポストの問題も「よのなか科」が採り上げる絶好のテーマだ。現実問題として少子化が深刻な現代に、子どもを捨てる親がいる。そのうちの何割かの赤ちゃんは、不幸にも命を落としている。
その子たちを助けるためには、熊本にある赤ちゃんポストのような施設が必要だという意見がある。そんなに意義のあるものなら、なぜすべての自治体に設置しようという動きが生まれないのだろうか。
6年間で相談窓口に電話をした人の約8割が県外という点からも、全国に「ニーズ」があることがわかる。だからこそ全国につくるべきだという意見があっていい。
いっぽうで、赤ちゃんポストの副作用を危惧する意見もある。赤ちゃんポストが身近にあることで、簡単に子どもを捨ててしまう人が出てくるかもしれないという考えだ。
これらの意見は、どちらが正しく、どちらが間違っているとは言えない。大切なことは、そのなかで自分の考えを探ることである。
自殺や赤ちゃんポストに限らず、原子力発電所の是非や自衛隊の役割など、世の中はそう簡単に決められない問題ばかりだ。
是か非か、正しいか正しくないかなど、両極端の意見から考えて自分のポジショニングや世界観を決める必要があるはずだ。
そうした両極端の視点を獲得するには、本を読み比べることが肝要だ。
しかし、本を読んでいない人は、その場で起こった問題に対する報道に右往左往するばかりで、視野狭窄に陥り、複眼的な視点を持つことなく安易な判断をしてしまうかもしれない。
上っ面を舐めただけで、底の浅いものになってしまう危険性もある。
読書をすることで、人生という軸と世界観を鳥瞰図のように持つことができれば、論理的な議論と判断ができるようになるだろう。
読書をすると、人生のステージが上がる
かつて、いじめ自殺の事件が起こったとき、私は民間出身の中学校長ということで日本テレビ系列の朝の情報番組に呼ばれたことがある。
番組のなかで「もしいじめられたら、どうやって対抗するか」という質問があった。私はこんなふうに答えた。
「いじめや自殺を道徳的にただ『ダメだ』と大人が決めつけても抑止効果は薄い。学校でタブーにしてしまうと、子どもたちは口を閉ざす。それをもっと日常的に、オープンに言える雰囲気をつくらなければダメだ」
最後に、コメンテーターのひとりであるテリー伊藤さんが意見を述べた。
「私だったら、本を読むことを勧める」普通の人は、一見、何を言っているのかと戸惑うだろう。関係ないのではないかと。
しかし、テリーさんの真意は、いじめっ子と同じ土俵で戦ったら勝てるわけがないという意味なのだ。現実にやられてしまっているのだから。
だとしたら、いじめっ子が登ってくることができないステージに登る必要がある。そのために、本を読んだらどうだろう。そう語ったのだ。
私は、テリー伊藤さんとは以前からの知り合いで、ものすごく感性の鋭いコメンテーターだとリスペクトしている。
エキセントリックな物言いで物議をかもすこともたまにあるが、じつは、ただ単にウケ狙いで言っているわけではないのだ。非常に考え抜かれたコメントだと感じた。
私は、その言葉を聞いてエジプト考古学者の吉村作治さんのことを思い出した。吉村さんとは「エンジン01文化戦略会議」を通じて親しくなった。その縁で、和田中学校での授業を引き受けてくださった。
授業が始まる前、校長室でしばらく雑談したとき、こんな話をしてくれた。
「吉村先生は、小学校、中学校時代はどんな子どもだったのですか?」「私は、ものすごく、いじめられっ子だったんだよね」いまのあの恰幅からは信じられないが、休み時間に教室に居場所がなく、いつも図書室に逃げていたという。そのときに出合ったのが『ツタンカーメン王の秘密』(講談社)という本だった。
それが面白くて面白くて、本の世界に入り込むことでいじめられていることも忘れていたそうだ。結局、それが世界的に著名なひとりのエジプト考古学者を育てることになった。
1冊の本が、いじめられっ子を助けることもある。本を読んで自分の世界観を広げ、いじめっ子とは別のステージに立ったというわけだ。
テリーさんが指摘したのも、そういうことだろう。そのテリーさんも、本をたくさん読んでいる。だからこそ、そうした意見が言えるのだ。
意識が高まると、「引き寄せる力」も強くなる
さきほどご紹介した、クローズアップ現代の「読書」の特集を観たのは、ほとんど偶然だった。午後7時半、たまたま家にいた。
テレビでも観ようとリモコンを手にした。ザッピングしても、興味が持てる番組が放送されていなかった。最後にNHKにチャンネルを合わせてみる。
ちょうど選挙の時期だったので、選挙広報をやっている可能性があった。つまらなければ、テレビを消そうと思っていた。
チャンネルを合わせたところ、流れていたのが読書についての番組だった。ちょうど読書についての本を書こうとしているときだったので、メモを片手に見入ってしまった。私には、こういうことが頻繁に起こる。
つねに10個以上のプロジェクトを同時に走らせているが、それに関係する人や物事に出会うことが多い。「引き寄せの法則」だ。この現象は、私だけに限ったことではない。
佐賀県の前・武雄市長で、現在は樋渡社中という会社を経営する樋渡啓祐という人物がいる。彼が市長だったころ、私は彼と一緒に教育改革の仕事をしたことがある。
そのときに聞いたのは、やはり意識が集中したときに引き寄せの現象が起こることだった。
彼が武雄市図書館を改装したいと思った日の夜、あるテレビ番組を観ているとTSUTAYA社長で、カルチュア・コンビニエンス・クラブの会長を務める増田宗昭氏が出演していた。
番組は、代官山にある新たなコンセプトの書店「代官山T―SITE」についての特集だった。樋渡さんは瞬間的に「絶対にこの人にお願いしたい!」と感じたそうだ。
翌日、TSUTAYAの大代表に電話をかけたが、武雄市の市長と名乗っても社長には取り次いでもらえなかった。
電話応対をしたTSUTAYAの担当者からすれば、武雄市の市長なんてどこの馬の骨とも知れない存在。そうした売り込みの電話など、毎日百本単位でかかってくるだろうからしかたない。あきらめきれないまま、時間だけが過ぎた。たまたま東京出張があったとき、時間を都合して代官山のTSUTAYAを見に行った。
すぐそばの交差点まで来ると、なんと、その増田さんが立っているではないか!完成イベントのあとだったようなのだが、感慨深げに建物を眺めていたという。
樋渡さんはすぐさま駆け寄り、いきなり名刺を渡した。「私は武雄市長の樋渡と申しますが、図書館を改装するにあたってお力をお借りできないでしょうか」「承りました!」間髪を入れない返事に樋渡さん自身が驚いてしまった。
あとで聞いたところによると、増田さんの頭のなかにも「次は図書館だ」という構想があったらしい。両者の脳の回路が、一瞬にしてつながったのだ。
人間が蓄積した知識、技術、経験のすべては、脳内のある部分に沈殿している。脳内である意識が強まると、それらがかき混ぜられて浮き上がってくる。
浮き上がってきたときに、一瞬にしてそれらはつながり回路を形成する。それを、人間は想いや考えとして抱くようになる。
逆にいえば、知識、技術、経験が点のまま浮き上がってこないと、想いや考えは生まれない。脳内のつながりが回路になり、想いや考えとして結晶し始めると、それが発信機となってある種の電磁波のようなものを発するのではないだろうか。
私は、その電磁波に共鳴するものが引き寄せられてくると本気で信じている。何より、人間自体も粒子の集合体だ。原子レベルでは電子が飛び交っている存在なのだから、そういうことがあっても不思議はない。
その沈殿している知識や技術や経験のかけらを結びつけるのに、縦糸、横糸、斜めの糸があると私はイメージしている。その糸のことを「触媒」と呼んでもいいだろう。
触媒は3種類ある。その1つが「読書」にほかならない。ただし、読書だけしていればいいとは言わない。ただひたすら本だけ読み続けていても成長することはたぶんない。
残りの2つの触媒である「遊び」と「芸術」を体験することではじめて、脳内にいくつもの回路ができ、沈殿している知識や技術や経験のかけらが豊かにつながっていくのだ。
つながりができると発する電磁波がより強力になり、より多くの関連したヒトやモノを引き寄せるのだと、私は考えている。
コメント