はじめに
コンピュータ・サイエンスの発達とともに、コンピュータにできて人間にできないことは何か、あるいはコンピュータの知能と人間の知能はどう違うのかということが、重要なテーマとなっている。
今回、本書のテーマに掲げた判断力、特にハイレベルの判断力はその代表例である。
コンピュータ・サイエンスの最先進国とされるアメリカでも、経営判断をコンピュータに任せるという話は聞いたことがないし、むしろ、これこそが機械では代替できない仕事と考えられているので、高額の報酬が与えられるのである(逆にいうと機械で代替できる仕事の賃金はものすごい勢いでカットされているのだが)。
過去の経験や将来への読み、あてにならない人間心理の予測など、確かに当分の間、コンピュータでできそうもない能力によって、判断というものはなされるものである。
だから、逆に判断力というのは、極めてマニュアル化しにくいものである。
論理思考術などがさまざまな形で提起されているが、多少の考えの整理の助けにはなるが、それによって判断力そのものがつくようには思えない。
それは、最終的な決断は、マニュアルではなく、判断する人自身が、自らの責任のもとに決断を下さないといけないからだ。ところが、ここに人間心理の綾が生じる。
コンピュータであれば、同じ情報をインプットして、同じ演算ソフトをインストールしていれば、同じ問題には常に同じ答えを出す。
ところが、人間は、そのときの感情や自分の立場、過去の経験、周囲の意見など、さまざまな要因で、同じ問題にも別の結論を出してしまう。
もちろん、そのほうが適応的であることもあるのだが、「こんなに賢い人がなぜ」というような、大きな過ちになることも少なくない。
現在、コンピュータの情報処理過程になぞらえて、人間の情報処理過程全般を研究する認知心理学では、この手の人間の情報処理や判断の際に生じるさまざまなバイアスについての研究が進められており、特に自分の認知パターンを認知するメタ認知という、認知活動の大切さが強調されている。
私は、一介の精神科医であり、市井の(ただ、ビジネスに応用を試みる市井の人が少ないのがこの国の問題と考えているが)心理学研究者なので、経営判断のようなことに大したアドバイスができる立場にいないし、それだけの経験はない。
しかしながら、精神医学・心理学を専門としている人間の一人として、何が判断をゆがめるかについて、あるいはどうすれば自分の本来持っている判断力が十分に発揮できるかについては、多少ましなアドバイスができるつもりである。
本書は、判断力をゆがめる構造のほうに重きをおいた、これまでにないが、実用上はそのほうが役に立つと私が信じる判断力のサポート書と私は位置づけている。
判断における大勝の方法論は提起できないが、負けを小さくすることはできるはずだ。
一勝九敗でも一勝が大きく、一つ一つの負けが小さければ大金持ちになれる一方、九勝一敗でも一敗が大きければ、簡単に大企業が潰れてしまう時代に必ず役立つ本であると信じている。
本書のようなどちらかというと奇書に属する本の編集の労をとってくださったPHP研究所ビジネス出版部の吉村健太郎さんとメンティグループの加藤貴之氏には深謝したい。
平成一九年五月和田秀樹
序章なぜ、頭のいい人が「判断」で失敗するのか?
▼心理学を知ることで、判断ミスは格段に減らせる
近年、企業による不祥事がよく報道されている。雪印、西武、パロマ、不二家、日興コーディアルグループなど、休む間もなく新たな不祥事企業が発覚している。
そしてその多くの企業が、大幅な減収・減益に見舞われたり、グループ再編による再出発を強いられたり、あるいは外資系企業の傘下に入ったりする結果となっている。
企業の不祥事は、まさにその企業の市場からの退場宣告と言ってもいいだろう。
それらの危機を招いた背景には、現場の堕落や社内の内向き指向などいろいろな原因が指摘されるが、それら「身内の論理」を優先し、消費者や投資家の心理を無視したという「判断」の結果であると言えるのではないだろうか。
こうした例に見られるように、エグゼクティブ・クラスの「判断」一つで、企業の存亡にかかわることが少なくない時代となった。
今までの成功が、たった一度の失敗でゼロになってしまうのだ。
もちろん、経営者だけでなく、部課長クラスの人の「判断力」も軽く見ることはできない。
現場の第一線にいる部課長は、自分の判断によって、その部門の業績が向上したり、悪化したりするという大きな責任を担っている。
また、近年、企業に入ったばかりの社員がすぐに会社を辞めてしまうということが社会問題化しているが、期待をかけていた優秀な部下があっさりと会社を辞めていったりするのも、部課長クラスの人が部下を見誤り、間違った指導をした結果ということが少なくない。
まさに、部課長クラスの人の「判断力」が、その部門の命運を握っていると言っていいだろう。
そこで必要とされるのが、本書のテーマである「判断力」となるのだが、一般に「判断力」の本というと、即断即決の意義や、論理的思考による判断手法などについて説かれていることが多いように思う。
だが、それだけで適切な判断ができるのならば、学歴も高く、勉強もしてきただけでなく、これまでの判断がうまくいっていたために昇進を重ね、経営もうまくいっていたであろう企業トップが先に挙げたような「判断ミス」をする理由をうまく説明できない。
経験も豊富で、さまざまなビジネス理論を知り尽くしているような優秀な経営者がなぜか致命的な判断ミスをしてしまう際には、むしろ「心理」の問題が大きな原因となってしまっていることが多いように見受けられるのだ。
逆に言えば、心理学を知ることで、判断のミスは格段に減らせる、ということになる。「ミスのない判断」が、必ずしも最善の判断だとは言えないだろう。
だが、一度の大失敗が今までの成功をすべてゼロにしてしまうような例があることを思うと、ベストではなくてもベターな選択を積み上げていくことこそが、特に管理職や経営者、そしてこれからそういった立場を目指していく人には必要なことではないだろうか?ユニクロの柳井正社長は、人生一勝九敗説を唱えている。
負けている数は多くても、一つ一つの負けが小さければ、大きなことを成功させることによって、負けを補って余りあるほどの人生になるということである。
世の中には、その反対の人もいる。九勝していても、一敗のほうが大きいために、そこで終わってしまうような人だ。たとえば、勝ち続けた経営者が、一度の判断ミスで、何百億円も何千億円も損をしてしまえば、そこで会社は破綻する。
結果だけみれば「九勝一敗」という好成績であり、勝った数のほうが圧倒的に多いのに、わずか一敗のために会社がなくなってしまうのである。
ロールスロイスに乗っていた社長が、生活保護並みの暮らしに転落することも起こりうるのがビジネスの世界だ。村上ファンドの村上氏やホリエモンは、これまでのところは、九勝一敗型の人生に近いと言える。人生は長いから、若いときにはいくつ負けてもいい。
それぞれの負けがとてつもなく大きい場合は別だが、若い人に大きい仕事が任されることは滅多にない。一般的に言えば、若いうちには九敗しても何の問題もない。
しかし、経験を積み、経営者になってからは、少なくとも大きな一敗はしてはならないはずだ。わずか一敗でも会社を潰してしまう可能性が高いからだ。経営者にとっては、わずかな判断ミスでも避けるような努力が必要になる。
▼頭はいいはずなのに、誤った判断をしてしまう不思議
一般的に、会社でも官僚組織でも、出世していくのは、賢い人たちだ。知識も豊富で、判断力も高いとされる。しかし、そういう人たちが、なぜか判断ミスを犯す。そして、彼らがひとたび判断ミスを犯すと、その影響はとてつもなく大きい。
言い方は悪いが、そもそも、あまり頭の良くない人に大きな仕事を任せる職場はないのだから、そういった人が判断ミスをしたところで、たいした影響はない。しかし、大きな仕事を任されている賢い人が判断ミスをすると、その影響は非常に大きい。
通常は、経験豊富な人ほど、知識もあり、知恵もあり、的確な判断ができるはずである。ところが、実際には、経験豊富な人ほど、大きな判断ミスを犯したりする。
一体なぜ、「賢い」と言われる人が判断ミスを犯すのだろうか?具体的な「判断力」について見てみる前に、まず、このことについて考えてみたい。
この問題は、官僚や県庁の役人のことを考えてみるとわかりやすいかもしれない。官僚というのは、その分野におけるエキスパートである。
アメリカと違って、現在の日本においてはシンクタンクがあまり機能していないこともあり、優秀な人は官僚機構に集まっている。官僚をしのぐ政策エキスパートは、民間にはそれほど多くないのが実態である。
その上、アメリカと違って同じ職場にい続けるので、経験も豊かだ。彼らは知識も経験も豊富であるし、その上、東大をはじめとする超一流大学を出ている人ばかりだから、一般的な意味では頭もいいはずだ。
ところが、その官僚がしばしばあからさまな判断ミスをするのである。
官製談合などに代表されるように、どう考えても国民のためにならないことを平然と行うことがあるし、それがバレたらマスコミからどれほどたたかれるか容易に想像がつくにもかかわらず、官製談合を続けてしまったりする。
これなどは、明らかに官僚たちの判断ミスと言っていい。
あるいは、薬害エイズ問題にしても、ハンセン氏病問題にしても、似たようなところがある。ハコモノ施設を作る場合も、多くのケースで利用者数予測を大幅に見誤り、結果として「ムダな」ハコモノばかり作っている。
頭が良く知識や情報も持っているはずの官僚が、なぜか判断を誤り続けているのである。
県庁レベルでも同じだ。
県庁職員から出世して県幹部になったような人は、県の行政に関してはエキスパートであるはずだが、仮にその人が知事になった場合に良い行政を行えるかというと、そうでもない。
むしろ、元長野県知事の田中康夫氏のように、県の行政については素人のような人のほうが、改革を進めることができたりする。
田中氏は、選挙で落選したために、政策を失敗したかのように思っている人もいるだろうが、少なくとも財政は立て直したわけだから、私は、評価すべき面があると思っている。
素人だったからこそ、一定の実績を上げることができたのである。
また、いくつかの県では、近年、組織ぐるみの裏金作りがよく問題になっている。常識的に判断をすれば、「やってはならないことである」という正しい判断ができるはずだ。にもかかわらず、頭は悪くないはずの県の役人たちが、なぜか裏金作りを繰り返していた。
そこには、正しい判断をゆがめてしまう「何か」が存在しているのである。つまり、頭が良くて、知識が豊富であれば判断ミスを犯さないかというと、そういうわけではないのだ。むしろ、頭のいい経験豊富な人が重大な判断ミスを犯すことは少なくない。
なぜ、そのようなことが起こるのか。そこには、さまざまな「心理学的要因」が含まれていると考えられる。
▼豊富な経験が、むしろ判断を誤らせる
まず、知識の豊富な人による判断ミスの場合は、既存の知識に縛られたり、既存の価値観に縛られたりすることに大きな要因があると考えられる。要するに、自分の知的な枠組みを抜け出せなくなってしまうのだ。
それによって、自分の枠組みと合わないことは、情報として受け入れなくなる傾向があり、また、既存の枠組みの中だけで判断をするので、判断ミスが起こりやすくなるのだ。
前例主義というのも、その一つである。
頭のいい人は、過去にうまくいった事例をもとに、前例を踏襲したほうがリスクが少ないと思いがちだが、現実には、過去とは状況が変わっていて、前例通りにやるほうが結果が悪くなる場合もある。
九〇年代後半から今世紀初めにかけて、「バブル期の営業スタイルが忘れられない上司」と部下との間で、さまざまな軋轢が繰り返された。
そして、そうした過去の成功体験から逃れられない多くの企業は、後からやってきたベンチャー企業にその地位を脅かされることとなった。
一連のガス器具の事故にしても、自動車会社のリコール隠し問題にしても、歴史のある大企業で起こった事件だ。そこには、頭の悪くない優秀な人材がそろっているはずである。
つまり、これは、知的レベルの問題ではなく、人間心理の問題と言っていいと思う。
▼不祥事が隠蔽されることの心理学的背景
さらに問題を複雑にしているのが、このような判断ミスによる不祥事は、必ずしも明確な悪意に基づいているわけではないことが多いということである。
実際、ガス器具メーカーや自動車会社に限ったことではなく、人間相手の商品を手がける企業には、多かれ少なかれ製品の欠陥やクレームなどは付き物である。
たとえば、ある月に一〇件の製品不具合があり、それを調査した部下から、「製品の不具合による事故が五件、販売店の不正改造による事故が五件ありました」という報告を受けたとしよう。
冷静に考えるならば、「事故の原因は、自社と販売店で半々である」と誰でも判断できるはずである。
頭のいい人でも、そうでない人でも、事故の原因が五対五なら、不正改造も問題だが自社の製品にも同様に問題があると考えるのが普通である。
ところが、こういう情報を聞いたときに、「なに!販売店はそんな不正改造をしているのか。これは由々しきことだ」と驚いた人は、そちらの情報だけが印象に残ってしまう。
あるいは、「我が社の製品に不具合などあるはずがない」という思い込みが強い人は、自分のその認知的な枠組みと合わない情報は頭の中に入ってこない。
そして、「販売店の不正改造で……」という情報だけが頭の中に残ってしまう。さらに、この情報を上の人に報告する場合にも、心理的要因が働く。
通常は、誰でも上司にネガティブな情報は伝えたくない。
そういう気持ちが強いと、上司に隠すつもりはなくても、「販売店の不正改造による事故が……」というような報告になってしまいがちである。こうして、自社の問題点はなかったかのように伝えられてしまう。
データから見れば、原因は五対五であるのに、情報を受け入れる段階や伝言の段階で、いつのまにかそれが、六対四になり、八対二になり、そしてついには一〇対〇に変化して、自社の責任は「なかったこと」にされてしまうのだ。
これらのケースでは、必ずしも隠蔽しようという意図があったとは言い切れない。
隠蔽の意図がなくても、「自分の価値観や考えと違う情報は受け入れにくい」「印象の強い情報が頭に残る」「上司の好まない情報は伝えたくない」「伝えていくうちに情報は変化する」など、心理学的、集団心理学的要因が重なって、結果として「隠蔽工作」と変わらないような事態が起こっている場合が多いのだ。
だが、マスコミ側から見れば、これは明らかな「隠蔽工作」に他ならない。
こうした事態を防ぐには、勉強をして業務知識を豊富にするだけではダメである。脳トレーニングで頭を鍛えても、防ぐことはできない。必要なことは、人間の基本的な心理法則を知っておくことである。それを知っておくだけでも、判断ミスを起こす確率はかなり減ってくるはずだ。
判断をゆがめてしまう心理学的要因を知っておかないと、いくら専門知識を身につけても、知恵を磨いても、足下をすくわれてしまう。
判断の際の「落とし穴」を知っておくことによって、真に正しい判断ができるようになる。
では、いよいよ次の章から、人の判断をゆがめてしまう具体的な心理学的要因を見ていくことにしよう。
第1章人の判断をゆがめる「不適応思考」を知る
▼人の判断をゆがめる「不適応思考」とは?
人間の判断をゆがめてしまう要素はいくつもあるが、その代表的なものに「不適応思考」というものがある。不適応思考は、もともとは認知療法といううつ病の治療を行うカウンセリングの手法から出てきた考え方である。
ペンシルベニア大学のグループが、うつ病の患者にカウンセリング的な治療を行う際に、認知療法というものを生み出した。
その代表的な学者に、アーロン・ベックと、その後継者のアーサー・フリーマンがいる。彼らは、うつ病になりやすい人には、思考パターンに特徴があることを見つけ出した。
それがこの「不適応思考」というものである。現在までの研究では、うつ病にとどまらず、人格障害、拒食症・過食症などの摂食障害、その他の精神疾患のケースでも、不適応思考が大きな原因になっているという見方が強まっている。
このように述べると、不適応思考は精神障害を持った人間の特徴のように思われるかもしれないが、ベックは、障害を持った患者だけを診ていたわけではない。
多数の一般の人についても研究をしており、一般の人の中にも不適応思考の人は少なくないと述べている。
一般の人と比べると、うつ病や人格障害の人のほうが、不適応思考をする人の割合が高く、多くなっているという、比率や量の違いだけである。
そして、この不適応思考が、大切なときに「判断」を誤らせる大きな要因となってしまう。
不適応思考の例としては、次ページの図表に挙げたようなものがある。
その中でも特に、ビジネスパーソンがよく陥りがちなのが、「二分割思考」と、「完全主義思考」であろう。
適確な判断をするためには、人間が陥りがちな「心理のワナ」を知っておくことで、自分がそれに陥っていないかをときどき確かめてみる必要がある。
ここでは、この二つを中心に、不適応思考の典型的なものを説明しておこう。
不適応思考の例
- ●二分割思考
- ●完全主義思考
- ●過度の一般化
- ●選択的抽出
- ●肯定的な側面の否定
- ●読心
- ●占い
- ●破局視
- ●縮小視
- ●情緒的理由付け
- ●「すべき」という言い方
- ●レッテル貼り
- ●自己関連付け
1「二分割思考」のワナ――何事も「白黒」つけることの危険性
▼二分割思考の経営者は「イエスマン」を集めようとする
不適応思考の代表的なものが「二分割思考」だ。二分割思考とは、白か黒かをはっきりと分ける考え方。敵か味方かをはっきりと分けるのも二分割思考である。
湯沸かし器の不具合で多くの犠牲者を出した「パロマ事件」で問題になったことの一つに、トップが、創業一族に対するイエスマン以外は、首を切っていたということが指摘されている。
こういったことは、パロマに限らず創業家が力を持っている会社にはよく起こりがちな現象だ。
自分の忠実な部下はかわいがるが、気に入らない部下とは、あまり話もせず、場合によっては左遷したり、活躍の場を与えずに辞めさせたりしてしまう。
部下のことを敵か味方かで判断して、味方は厚遇し、敵は排除するというやり方だ。まさに、会社という組織で起こりがちな「二分割思考」である。
このような考え方をするトップの経営の元では、お世辞を言ったり、都合のよい情報だけを上げてくる部下ばかりになってしまう。経営者や上司は、いわゆる「裸の王様」状態となってしまい、その会社の本当の現場の声がなかなか上がってこない。それが、不祥事に対応できない大きな要因の一つとなっている。
古い例だが、三越の岡田茂元社長が、知らない間に根回しをされ電撃的に社長を解任され、「なぜだ!」と言ったという出来事があった。
この件は、後に岡田社長が特別背任容疑で愛人とともに逮捕されたから、十分な理由があったはずなのに、社長本人だけが気がついていないで、いわば裸の王様状態になっていたために起こった悲劇と言えるだろう。
二分割思考でイエスマンばかり集めようとすると、このようにかえって自分が追いつめられることがある。似たようなことは、経営レベルではなく、部課長レベルや現場レベルでもよく起こる。
課長がお気に入りの部下ばかりを優遇し、そりの合わない部下は、異動させてしまうということもよくあることだ。逆に、部下の側も、自分の好きな上司と嫌いな上司をはっきりと二分してしまって、対応を変える人もいる。
その結果、「社内派閥」などという言葉がいまだに聞かれる。これらは、いずれも「二分割思考」の典型例である。
▼「一〇〇%の味方」などいるはずがない
組織のリーダーにはもちろん、「白か黒かはっきりせよ」とか「イエスかノーか、どっちだ?」という決断が求められることがあるし、こういった即断即決の能力は、主に米国的なビジネス観の中では、非常に貴重なものとされる。
だが、世の中、そうカンタンに白と黒がハッキリするようなことは、むしろ少ない。
自分自身や上司、取引相手にも、優柔不断で何事にもあいまいな人が大勢いるだろう。
二分割思考の人には、そういったあいまいさに耐えられるだけの精神的な強さが求められる。
「社内派閥」の例で考えてみれば、そもそも、一〇〇%自分に忠実な部下もいなければ、一〇〇%自分に敵意を持っている部下もそういるわけではないだろう。
「完全な味方」や「完全な敵」というのは、どんな世界にもほとんどいないのが実状である。
それなのに、少し批判をされただけで「あいつは敵だ」と思いこんだり、心を揺さぶるようなお世辞を言われて、「こいつは味方だ」と思いこんだりすることには、危険性が伴う。
人間関係においては、「七〇%は味方だけれど、三〇%は自分に対して批判的」とか、「九〇%は、自分に対して批判的だが、一〇%は言い分が納得できるところがある」というような関係のほうが普通である。
つまり、白か黒かで分けることはできず、ほとんどの人間はグレーゾーンの範疇にいるということである。
論客や評論家同士の世界でも、二分割思考的なことはよくありがちだ。
つい最近まで味方どうしだったのに、少し意見の違う部分があったために、まるで敵同士のような対立を生み出すことがある。
たとえば、「新しい歴史教科書をつくる会」でも、同様のことが起こっている。
「この部分は違うけれども、この部分は共闘できる。我々は保守同士なんだから仲良くやっていこう」という発想になっていなかったのであろう。
共産党と社会党(社民党)も、部落問題や核問題で意見を異にして以降は、まるで完全な敵同士であるかのようになり、社会党は社公民路線や自社路線まで組んで、共産党とは違う路線を歩んだ。
八割くらいは意見が一致していて、二割くらい違うだけなのに、まったく違う路線を歩む政治家や評論家たち。
これは、まさしく二分割思考の典型と言えるだろう。
■こんな思考に要注意!「あいつは、俺の味方だ」
▼白黒つけようとするのは「未熟さの現れ」?
もちろん、ビジネスの現場でも同じような状況が起こりうる。たとえば、提携先の会社が非常にすぐれた会社だと考えていたとしよう。
お互いに信頼関係も築いて、味方だと思っている。ところが、何か一箇所気に入らない点が出てくると、それだけで、「あそこは、ダメだ」「あんな会社とは組めない」ということになってしまう。
その点を直してくれれば、すばらしい会社であるにもかかわらず、一箇所の問題点を見つけて、全否定してしまいがちなのである。もっと身近な関係でも、同じようなことが起こっている。
たとえば、妻や夫が浮気をしたことで、相手のことを敵だと思ってしまう人は少なくない。
一回でも自分を裏切ったら、愛情が憎しみに変わり、離婚になってしまうケースはよく起こる。おそらく、浮気した側も、配偶者も、完全に愛情が冷め切っているわけではなく、愛情の部分のほうがまだ多いと思うのだが、「でも、許せない」と考えて、一気に離婚にまで突き進んでしまう。
相手の浮気を許すかどうかについては人それぞれ価値観が違うだろうが、このような場合にも、「一〇〇%の味方」が、「一気に一〇〇%の敵」に早変わりすることが多い。
社会心理学者の岡本浩一氏によれば、あいまいな状況下や、白か黒かはっきりしない状況下で、不安な気持ちが強くなってしまって、あわてて白か黒か決めようとする人は、知的な意味での成熟度が低いのだという。
これを「認知的複雑性」と呼ぶが、複雑な状態をいかに我慢できるかということが、人間にとっての重要な能力と考えられている。
即断即決といえば聞こえがいいが、それは十分な思考に基づいてこそのものだ。よく考えないで拙速な判断を下す人は、認知的複雑性に耐えられないタイプの人と言えるだろう。
グレーゾーンに耐えることができないために、結論を急ぎ、誤った判断をしてしまうのである。家庭においても、ビジネスにおいても、このような二分割思考は生まれやすいので、十分に気をつけておかないといけない。
▼二分割思考を生み出すテレビ・メディア
では、なぜわれわれはこの「二分割思考」に陥りがちなのであろうか?その大きな要因の一つに、私は、テレビ・メディアの存在があると考えている。
私も、テレビに出演させていただく機会が多いので、あまり悪くは言いたくないのだが、ワイドショーをはじめとする情報番組においては、何となく自由な発言がしにくい雰囲気を感じることがある。
視聴者の中には、テレビのコメントというものは、事前に入念な打ち合わせなどがあって、「言ってはいけないこと」が決められていると思っている人もいるかもしれないが、実際にはそのようなことはない。
ある程度の方向性は打ち合わせをするけれども、発言する内容は自由である。しかしながら、情報番組などの場合は、その番組の構成や流れによって、出演者のコメントが影響を受けざるをえないことも多い。
たとえば、コメントを求められる直前に流されたVTRにより、その内容に引きずられてしまうということは、よくある。
飲酒運転による悲惨な交通事故が起こり、小さなお子さんが亡くなる場面がVTRで放映される。そのVTRの中には、亡くなったお子さんの親族が涙にくれるシーンも出てくる。
また、お子さんの勉強机が映されたり、ノートに綴られていた将来の夢や、お子さんの描いたお父さん、お母さんの絵なども紹介されたりする。
このようなVTRが流された後に、飲酒運転の厳罰化についてのコメントを求められたら、たいていの出演者は、「二度とこのような事故を生まないためにも、飲酒運転者には、取り締りの強化が必要だと思いますよ」と発言するのではないだろうか。
もちろん、飲酒運転による事故を起こさないことは重要なのであるが、取り締りの強化が必要かどうかについては、本来はもっと議論しなければいけないものである。
たとえば、自動車がなければ成り立たない地方経済の実情や、東京と違って夜間の通行者が少ないことを伝えるVTRを同時に流せば、出演者の意見もまた、変わってくるだろう。
だが、演出されたVTRの後には、議論の起こる余地は小さく、全員の結論が「イエス」となってしまう危険性があるのである。
▼「善か悪か」の決め付けは危険
このような観点から見ると、テレビというのは、「イエス」か「ノー」かという二分割思考を助長するのに、極めて大きな影響力を持つと考えられる。
テレビ報道に関して、少し思い起こしてもらえれば、思い当たることがいくつもあるのではないだろうか。たとえば、鈴木宗男氏の疑惑が出てきたときに、テレビ・メディアの論調はどうだっただろうか。
「鈴木宗男は悪である」というような結論ありきだったように私は感じている。
では、鈴木氏が地元では慕われており、ついには国会議員として返り咲いた事実は、どう考えればいいのであろうか?他にも、秘書給与疑惑の問題、年金未納議員の問題、耐震偽装事件、北朝鮮問題など、多くのニュースについて、テレビ・メディアは「善か悪か」の二分割思考で取り上げてきたように思う。
そして、ほとぼりが冷めてから考えてみると、「あのときの騒ぎは、いったい何だったのか」と不思議に思えることも少なくない。
年金未納問題は、当初はまるで犯罪であるかのように報じられ、制度の問題点が指摘される前は、すべて個人の責任とされた。まず、国民年金のCMに出演していた江角マキコさんが年金未納だったことがわかり大バッシングが起こった。
その後、当時の福田康夫官房長官や民主党の菅直人代表もバッシングされ、責任をとって辞任しているほどである。
当時はいずれも「江角マキコは悪人である」「福田康夫は悪人である」「菅直人は悪人である」というようなイメージを、多くの人が持っていただろう。
しかし、今では彼らが根っからの悪人だと思っている人間がどれだけいるだろうか?あまりに短絡的に「善か悪か」で二分しようとした決め付けだったように思う。
耐震偽装事件も、組織ぐるみの大犯罪という印象を持たせるような報じられ方であった。このときも、関係者の何人かがメディアから個人攻撃に近いほどバッシングをされている。
もちろん、被害者の方々には同情するし、偽装の当事者たちの態度にも問題はあったと思うが、それにしても、反対意見はほとんど報じられることなく「こいつは一〇〇%悪人だ」というような報道だけが繰り返され、国民世論が一気に沸騰していった。
このときも、「善か悪しかない」というような二分割思考がメディアの中に見え隠れした。
しかし、その後の推移を見る限り、「本当に組織ぐるみの事件だったのか?本当に彼らはみな極悪人だったのだろうか」と多くの人が疑問に感じている。
もっとも、この件に関しては、ほとんどの国民からすでに忘れ去られてしまっていることのほうが、被害者の方々にとっては気の毒なことである。
■こんな思考に要注意!「悪いのはすべて、○○に決まっている」
▼「二分割思考」を助長した小泉政権時代
こういったメディアの「白黒つけたがる」傾向はもちろん、以前からあったものだろう。だが近年、小泉政権成立後に特に顕著になってきている気がして仕方がない。そんな典型的な出来事の一つに、「郵政選挙」がある。
小泉純一郎前首相は「郵政民営化、賛成か反対か、国民に聞いてみたい」と言って、衆議院を解散したが、これは、テレビ・メディアの二分割思考に最も適合するものだった。
そして、ニュース番組のみならず、さまざまなワイドショーが連日、選挙情報を流し、国民に郵政民営化についての「イエス」か「ノー」かを迫ったような感じとなった。
そして国民は、それにうまく乗せられてしまった。
北朝鮮問題の場合はやや複雑だが、小泉前首相が訪朝して拉致問題を認めさせる前までは、一部メディアを除くと、拉致問題自体がまるでねつ造であるかのように報じられていた。
国会議員が訪朝していたこともあり、北朝鮮に対して、一〇対〇くらいで対話重視のような雰囲気があったが、金正日総書記が拉致問題を認めてからは、圧力しかないというような考え方に日本中が染まってしまった。
メディアの報道は、一〇対〇の対話から〇対一〇の圧力へとがらりと変わってしまったかのような印象である。
▼「テレビ・メディア」との正しい付き合い方を
私は、テレビ・メディアが悪いというつもりはない。「テレビ・メディアが悪」という発想は、それ自体が二分割思考だ。そうではなく、テレビ・メディアには、テレビ・メディア独特の特徴があるということを言いたいのである。
テレビ・メディアは、映像を通じて視聴者に訴えかけなければならないために、映像として栄えるような演出をせざるを得ない。
グレーな映像では、見栄えがしないので、白か、黒か、コントラストがはっきりしたものを放映するメディアなのである。つまり、善か悪か、白か黒かに分けて、二分割思考で演出をする傾向があるメディアなのだ。
テレビ・メディアとは、そのような性質を持つものだということをよく認識しておかなければならないと思う。
私がこの問題を特に強く訴える理由は、今の社会においては、小さな子を中心に、テレビ漬けの生活を送っている人が多いからだ。
そして、幼少時からテレビとともに育った子供たちがこれから社会に出てくると考えれば、テレビが思考法に与える影響力は、計り知れないのである。
中学生の場合、国語の授業時間は年間一〇〇時間前後しかないが、テレビを見ている時間は平均で年間一四〇〇時間と言われている。これでは、テレビの影響を受けないと考えるほうがおかしい。
多くの利害関係者が絡み、さまざまな駆け引きが行われるビジネスの世界では特に、このような「白か黒か」の思考がいかに現実離れしたものかはよくおわかりいただけるだろう。テレビを見るときには、自分が二分割思考になっていないかどうかを、チェックしてみる必要がある。
2「完全主義思考」――一〇〇点にこだわることで判断を誤る
▼判断を狂わせる完全主義思考
次に紹介する「完全主義思考」も、人の判断力を奪う不適応思考の一つである。認知療法ではこれも二分割思考の一つのパターンと考えられているが、森田療法では、完全主義と呼ばれている。
両者はまったく同じではないけれども、ほぼ同じようなことを意味している。
「完全主義」の人は、「一〇〇点でなければ、〇点と同じ」という考え方に陥りやすい。森田療法では、それが一番まずい思考パターンとされている。
一〇〇点でなければ、九〇点かもしれないし、一〇点かもしれない。確率的に言えば、一〇〇点でも〇点でもなく、一点~九九点のグレーゾーンの可能性が一番高い。
したがって、一〇〇点満点の中で何点取れるかということが重要なのであって、「一〇〇点でなければダメである」という考え方は、失敗を招きやすい思考パターンと言えるのだ。
たとえば、ビジネスの交渉において、「一〇〇点でなければ〇点と同じだ」と考えていては、交渉は成り立たないだろう。
あらゆるビジネスは、相手あってのこと。お互いに妥協点を見いださない限り、交渉は成立しない。
ところが、現実には、「こちらの要求をすべて通す」という完全主義的な考え方のため、交渉が決裂してしまうことがある。
もちろん、駆け引きの上では、強気で主張していくことも重要であるが、ある一定のところでは妥協してこそ、強気の交渉に意味が出てくる。
ある製品について「どうしても一〇〇万円でなければ売ることができない」と強気の交渉をするにしても、たとえば「配送料は無料にさせていただきます」「消耗品を一式お付けします」などの妥協のためのオプションを持っていてこそ、交渉は成立する。
あるいは、最初から九〇万円という落としどころを想定の上、一〇〇万から交渉をスタートする、ということも多い。
このようにビジネスの世界では、完璧さよりも落としどころを見つけるという交渉のほうが、圧倒的に多いだろう。
そのような中で一〇〇%にこだわっていては交渉は決裂してしまい、本来なら一〇%の割引でいけたはずのものが、売り上げゼロに終わってしまう。
外交交渉においても、完全主義では交渉が成立しないことが多い。強気一辺倒では、合意には至らない。
日本の場合、北朝鮮に対しては今のところ、一〇〇を主張して、一〇〇の答えが出てこない限り、交渉決裂という態度で臨んでいる。拉致問題の解決なくして、国交正常化はありえない。だが、一〇〇を求め続ける限り、北朝鮮との交渉は成立しないと思われる。
一方、アメリカに対しては、一〇〇の主張をして、主張が二〇通っただけでも妥協してしまったりする。アメリカに対しては、一〇〇の主張をしているのかどうかさえ疑わしく、初めから三〇くらいしか主張していない可能性もある。
このように、相手国によって、かなり態度が違っている。
だが、アメリカに対する交渉のほうが、完全主義ではないだけ、まだ成立しやすいと言える。他国はどうかと言えば、外交においては、押すところと引くところを柔軟に使い分けているようだ。アメリカしかり、中国しかりである。
交渉においては、完全主義をやめるという発想がないと、交渉をよりうまく終結させるための判断力は身につかない。
▼満点主義の受験生は判断を誤る
受験勉強においても、完全主義というのは、判断を狂わせ、結果的に、受験を失敗で終わらせてしまうことが多い。受験生にとっての完全主義の最たるものが、満点主義である。
高校生くらいの受験勉強では、満点を取れることはまずないから、満点主義に陥ることは少ないかもしれないが、小さいころから優秀だった子は、小学校以来テストで一〇〇点を取ることに慣れてしまっている。
自分自身も一〇〇点を取ることが当たり前だと思いこみ、親からも「一〇〇点でなければダメだ」という価値観を植え付けられてしまっている。
こういう人は、受験において、あまり良い結果を残せない。受験の世界で、満点主義の反対にあるものが、合格点主義である。
どの大学・学部も、その大学に合格する人の合格最低点を取れば合格できる。最低点をクリアするように受験計画を立てる人は、「合格点主義」の受験生と言える。こういう人たちのほうが、時間を効率的に使うことができて、合格する可能性が高い。
たとえば、英語、国語、社会の合計点で合格最低点が二一〇点としよう。国語が苦手な受験生にとっては、国語で百点満点中七〇点を取るのは、かなり難しいことかもしれない。
だが、その受験生が英語と社会が得意で、それぞれ八〇点、九〇点を取れるのであれば、国語を捨てても合格は見えてくる。英語と社会で一七〇点を取れば、国語は四〇点で合格できるのだ。
このように受験計画を立てられる人は、国語に割く勉強時間を減らして、得意の英語や社会に勉強時間を充てるだろう。
一方、国語に苦手意識を持っていて、「国語を克服しなければ合格できない」と考えて、国語に熱心に取り組んでしまう受験生は、結果的に、英語や社会の勉強がおろそかになって、受験に落ちてしまう。
それは受験生としての「判断」の誤りと言えるだろう。
■こんな思考に要注意!「これ以上の値下げは、絶対にできない」
3その他の不適応思考以上で紹介した二分割思考、完全主義、満点主義などが代表的な不適応思考と言えるが、ここでは、それ以外の不適応思考の概要を説明しておくことにする。
▼過度の一般化――「最近の○○は」のセリフには注意過度の一般化
とは、一つの事象を見て、それを単なる一つの事象とは見ないで、広く一般化してしまうことだ。たとえば、かつて十四歳の少年が子供の首を切って校門に飾るという事件が起こった。
そのとき、たった一つの事件で「今の十四歳は……」という議論が起こった。官邸には、有識者会議まで設けられた。しかし、その年は、戦後で四番目に少年による殺人事件の少ない年だった。
例年よりも少年犯罪の少ない年だったのにもかかわらず、「最近の十四歳は危ない」というようなことが言われていたのだ。
一件の事件をもって、すべての十四歳が同じような傾向を持っているかのような議論をする。これは、まさに過度の一般化である。同じようなことは、日常生活でもたくさん起こっている。
何人かの若者の特徴が似ているのを捉えて、「最近の若者は……」という決め付けをしてしまう大人は多い。たとえば、会社の新入社員が四月に立て続けに数人辞めてしまったとき、「最近の新人は……」などと言いたくなりがちだ。
なかには、それを契機に新人教育のやり方を変えようと判断する人もいるだろう。対策を立てることは悪いことではないが、数名の動向だけを見て、全体の対策を考えてしまうと、失敗する場合もある。そこはよく見極めなければいけないところだ。
■こんな思考に要注意!「最近の若者は、みな○○だ」
▼選択的抽出――「一を聞いて十を知る」ことの危険性
選択的抽出というのは、全体の中の一部だけを取り上げてしまう思考パターンである。
たとえば、普段は仲の良い友人が自分のことを少し批判したときに、その点だけを捉えて、「あいつは本当は嫌なヤツだった」などと考えてしまうのは、選択的抽出と言える。
普段は自分のことを認めてくれていて、自分に好意を持ってくれている部分のほうが多いのに、批判された一部の側面だけを、選択的に抽出してしまって、嫌なヤツだと考えてしまっているのである。
反戦運動が盛んだったころは、アメリカのことを見るときに、軍事戦略だけを見て、アメリカ全体のことを判断してしまう人が少なくなかった。それが、反戦運動だけでなく、反米運動の盛り上がりへとつながっていった。
昨今では、拉致問題だけを見て、北朝鮮のことを判断する人が増えているようだ。これらは、選択的抽出の傾向と言える。
「一を聞いて十を知る」というのは、過度の一般化でもあるが、選択的抽出でもある。
ビジネスの世界で言えば、かつてモトローラがアナログ式携帯電話にこだわったのも、同じことが言えるかもしれない。
デジタルとアナログの両方向性があるのに、アナログのシェアが高いという自社の傾向を過度に抽出してしまって、デジタル戦略に乗り遅れてしまったのであろう。
このようなことは、ガリバーと言われるような、市場シェアの高い商品を持っている企業に起こりがちな判断ミスである。
シェアの高さだけを選択的に抽出してしまって判断するために、時代の変化やお客様のニーズの変化などに気がつかなくなってしまうことがある。
▼肯定的な側面の否定――嫌いな人のいい情報は入ってこない
誰でもそうだが、自分の価値観や人生観と合わない人には好感を持つことができない。その人に肯定的な側面があったとしても、それをまったく見ることができなくなってしまう。このような現象が、「肯定的な側面の否定」である。
たとえば、北朝鮮の金正日総書記は、拉致問題の発覚以降、日本人にとっては「敵のボス」として見られている。
私自身も、彼はかなりの部分で「敵」で「悪人」だと思うが、金正日総書記が、日本の「寅さん」シリーズが好きだというエピソードを聞いても、それをクローズアップするような人はいないと思う。
だが、「寅さん好き」ということは、本来は、親日家としてのエピソードと受け止められてもおかしくないことである。
たとえば、フランスのシラク前大統領の「相撲好き」は、親日家エピソードの一つとして知られている。
しかし、金正日総書記が「寅さん好き」でも、私たちはそのような情報は「国民が飢えているのに何をふざけている」と否定したくなるし、彼を親日家と思う人はまずいない。このように肯定的な側面でも、否定されることはよく起こるものだ。
ちなみに、「肯定的側面の否定」の対極にあるものが、「あばたもえくぼ」状態である。好きな人に対しては、悪い面が見えても、それもえくぼとして、肯定的に捉えてしまうという心理現象だ。
▼読心――勝手な思い込みは排除する
読心は、相手の心を決め付けてしまうこと。「この人は、私のことをこのように考えているに違いない」などと勝手に考えてしまうことだ。
人の心を読み取ることは、本来、簡単なことではない。心理学者の中でも、正しく心理学を実践している人ほど、「人の心はなかなかわからない」という実感を持っているものだ。
だからこそ、カウンセリングを繰り返しながら、「この人はこういう考えなのではないだろうか」という仮説を立てて、話を聞きながら検証を続けていく。仮説は外れることも多く、「なるほど、この人のホンネは、こんなところにあったんだ」と驚くこともある。
どんなに聞いても心を読み取ることができず、何度もカウンセリングを重ねることによって、ようやく「この人の悩みの原因はこんな部分にあるのではないだろうか」ということが、少しだけ見えてくることもある。
それほど、人の心を読むのは難しいのである。相手の気持ちを、簡単に決めつけてしまうのは、実は危険なことだ。
支持するような証拠が何もないのに、「あいつは俺のことを憎んでいるに違いない」などと考えてしまう人は不適応思考の人と言える。
■こんな思考に要注意!「どうも彼は、俺のことを憎んでいるみたいだ……」
▼占い――その判断には、本当に合理的な理由があるか?
占いには、良い予測と、悪い予測の両側面がある。
根拠もないのに、何かの兆候を捉えて、「うちの会社はもうダメだ」と予測を立ててしまったり、「わが社は今後もどんどん発展する」と予測してしまったりする人は、占い傾向の強い人と言えるだろう。
たとえば、売上高が七億七七〇〇万円になったのを見て、「七七七だから、うちの会社は、どんどん発展する」などと考えてしまうような人である。
このように合理的な根拠もないのに、勝手に理由付けして、良い予測、悪い予測をしてしまうのが占いである。古代社会などでは、さまざまな国で、占いが重要な意思決定の道具とされていた。
しかし、占いで意思決定をしたり、判断を下したりすることが、大きな判断ミスにつながることは避けようがない。占いとはいえないが、何かにあやかろうとすることも、判断ミスを招くことが多い。
『孫子・勝つために何をすべきか』(谷沢永一・渡部昇一著、PHP文庫)によれば、日本がミッドウェーに出ていったのは、五月二七日が海軍記念日だったからだそうだ。
連合艦隊の参謀長は、まだ準備期間を欲しがっていたのに、バルチック艦隊を破った記念日だからということで出撃したのである。
これなども、とても合理的な判断とは言えない。このように、何かにあやかろうとする判断は、経営層や指導者層でもよく起こりがちなことだ。占いとほとんど変わらない判断方法と言える。
▼破局視――一度の失敗から復活できない
ある一つの出来事で、破局的な見方をしてしまうことが、破局視である。たとえば、ちょっとした失敗をしただけで、「もうダメだ。俺はもう終わりだ」「もう絶望だ」と考えてしまうようなことである。
失敗学でよく問題にされるのは、失敗したときの対応だ。失敗したときに、パニック状態にならないことが一番重要なことで、それが被害を最小に抑える。
逆に、パニック状態になってしまって、「もうダメだ」と考えてしまうと、対応が遅れて、かえって結果が悪くなる。破局視をする人は、失敗したときに、最悪の結果を招くことが多い。誰でも、失敗したときには落ち込んでうつ的になるものだが、破局視には特に気を付けなければならない。
■こんな思考に要注意!「こんな大きなミスをしてしまったら、もう終わりだ!」
▼縮小視――謙遜も、やりすぎると逆効果
縮小視は、ある出来事を取るに足らないことと過小評価することだ。
たとえば、仕事がうまくいっていて、友人から「お前は仕事ができるやつだ」と言われたのに、「どうせ、こんな仕事は取るに足らない仕事だ。俺なんてダメなやつだ」などと考えてしまうのが縮小視である。
「君は、学歴が高いし、勉強もよくできる」と言われても、「学歴なんか関係ない。勉強なんかできたって意味がない」という考え方をする人もそうだ。
肯定的な側面でも小さなこととして見てしまうのである。
日本では近年、企業の構造改革が叫ばれ、賃金体系も年功序列型から成果主義型に変わっていった。
このとき、年功序列型がうまくいっていた企業も、改革を進めている企業が良く見えてしまって、自社のシステムを古いものと決め付けて、美点を小さく見てしまう傾向があった。
いわゆる「隣の芝生は青い」ように見えるために、自分の美点や自社の美点を縮小視してしまうのである。これも不適応思考の一つだ。
▼情緒的理由付け――世の中を覆う気分に惑わされない
情緒的理由付けとは、感情的なことが現実の見方を変えてしまうようなことだ。たとえば、バブル期にはみんなが感情的にイケイケになっていて、何でもうまくいくと考える経営者が多かった。
そして、多くの経営者が楽観的な判断を下してしまったが、これは、感情が大きく左右してしまった判断と言えるだろう。
反対に、バブル崩壊後の長期の不景気のときには、経営者の判断は悲観的に変わっていった。
土地の価格が大幅に下がり、金利が下がっていたから、お金を借りて土地を買って建物でも建てて貸したほうが儲かったかもしれないのに、「こんな時期に土地を買うなんて」「こんなときに借金して建物を建てるのはバカだ」というような考え方になって、不動産投資をしようとはしなかった。
景気の良いときには、景気のいい気分に支配され、景気の悪いときには、景気の悪い気分に支配される。
個人レベルでも同じことが言える。気分がハイな状態にあるときには、「何でもうまくいく」という気になり、どんなことに対しても強気の判断を下してしまう。
行き過ぎた判断や過剰投資は、気分が躁状態のときに起こりやすい。反対に、うつ状態のときには、「俺は何をやってもダメだ」と思い込んでしまって、ビジネスチャンスを失ってしまうことが多くなる。
▼「すべき」という言い方――理想を追い求めすぎると判断をミスる
「かくあるべし」という考え方が強すぎる人も、誤った判断をしやすい。どんなことに対しても、「~すべきである」「~しなければならない」という考えが強く、理想を求めてしまう人は、柔軟な判断ができなくなる。
会社でいえば、「うちの会社はミスがゼロでなければならない」とか「うちの会社で事故はあってはならない」という考え方が強すぎると、リコール隠しや事故隠しなどが起こってくる。
教育分野では、いじめ問題について同じことが言える。
「いじめはあってはならない」という考え方から、校長先生がいじめを隠し、「いじめゼロ」という報告をするが、実際にはいじめはなくならずに、自殺者が出たりしている。
「あってはならないこと」という意識が強すぎると、かえって間違った判断をしてしまうことが多いのだ。「こうでなければならない」という理想追求型のケースでも、同じことが起こる。
「うちの会社は、利益を出し続けなければならない」という強い信念も、決算の不正などにつながりかねない。
また、昨今の教育基本法改正においては、「教育基本法を変えなければいけない」という発想だけが先走っている。
そのために、「変えた」という実績作りが優先されて、かえって妥協の産物となってしまっている。
理想を追求することは良いことだが、それを追い求めるあまりに、現実を見極められなかったり、あるいは、理想とかけ離れたことが起こったりしてしまう。
■こんな思考に要注意!「うちの会社は、不良品がゼロでなければならない」
▼レッテル貼り――相手のイメージを固定化させてしまう
レッテル貼りとは、少し失敗してしまっただけで、「俺は失敗者だ」と決め付けてしまったりするようなことである。最近流行の「勝ち組」「負け組」という言葉も、レッテル貼りの一つだ。
本来、人間に「勝ち組」「負け組」などというものはないが、なぜか決め付けてしまうのである。
収入面だけを見て、年収一五〇〇万円なら「勝ち組」で、年収三〇〇万円なら「負け組」などと決め付けるのは、人間を総合的に見ていない証拠だが、そんなレッテルを貼ってしまう人は少なくないと思う。
仮に、年収一五〇〇万円の人が「勝ち組」だとしても、その人が翌年は失業して、失業保険で食べていかなければならない可能性もある。
反対に、年収三〇〇万円の人が、数年後に年収数千万円になることがないとは言えない。人間は変化するので、レッテルを貼ってみても、あまり意味がないことだ。
論壇の世界では、「彼は保守だ」「彼はリベラルだ」というようなレッテル貼りもよく行われる。だが、じっくりと話を聞いてみれば、この点では保守だが、この点はリベラル寄りだというような複合的な面を持っていることもある。
それを「保守」「リベラル」のレッテルで考えてしまうと、良い議論はできなくなってしまう。
■こんな思考に要注意!「あいつは保守派だから……」
▼自己関連付け――責任感が強すぎる人は注意
自己関連付けは、さまざまな事象について、それがすべて自分と関係があることのように考えてしまうことだ。たとえば、仕事で失敗したときには、さまざまな理由があるはずだが、「それはすべて自分の責任である」と考えてしまう場合がある。
もちろん、自分にも責任はあるかもしれないが、自分以外の人にも失敗の原因がある可能性もある。すべてを自分と結び付けてしまうと、自分を追い込んでしまいやすい。
逆に、仕事がうまくいったときに、「これは俺がやった仕事だ」と全部自分の力であるかのように考えてしまう人も、自己関連付けの強い人だ。
特許訴訟などではこのようなことが起こりやすい。
企業での研究開発は、企業の資金を使って、企業の施設を使って、仲間とともに研究開発をしているのだが、すばらしい特許を開発してしまうと、「コレは、自分の発明だ」と自己関連付けが強くなる人が出てくる。
会社側がすべての利益を独占してしまうことは好ましくないが、それでも、心理学的に見れば、自己関連付けの強い人が発明の対価を求める特許訴訟を起こしやすいと言える。
うまくいったときに、「これは、仲間が支えてくれたおかげだ」と感謝の気持ちを示せるかどうかは、人間関係を築くためにも重要なことと言える。
ノーベル賞を取った田中耕一さんは、ノーベル賞まで取ったにもかかわらず、会社や周りの人のおかげで取れたという考えを持つ人だったため、多くの人が敬意を払っている。
さて、この章では、不適応思考に伴う数々の「判断ミス」の要因を述べてきた。
「判断力」をつけるためにまず、何よりも大事なことが、このような「判断ミスの原因を知る」ということである。
ここまで紹介したようなさまざまな不適応思考という判断ミスの原因を知り、自分がそれに当てはまっていないかを意識するだけでも、判断ミスの可能性は大きく減るのである。
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