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第1章 一流―一流と二流を分けるもの

目次

はじめに

2013年限りで現役を引退し、バックネット裏から野球を見る機会が多くなった。

「現役時代とは野球の見え方が変わりましたか?」と聞かれることが多いが、野球自体の見え方が変わったというよりは、よく見えるようになったというのが素直な印象だ。

「グラウンドの外から見るのはいい経験になる。勝ち負けが関係ないから冷静に野球を見ることができる」ヤクルト入団時に監督だった野村克也氏に引退を報告した際に言っていただいた言葉だが、まさにその通りだった。

手元には資料が用意されているし、記者席や放送席からはグラウンド全体の動きを見ることができる。試合展開に感情が入るのはヤクルト戦ぐらいのもので、客観的に試合を観察することができるようになった。

一方で、実際にチームという組織を動かす点でいえば、やはり現場に居た方が勉強になる。一つの判断で勝敗が決まるといった状況に身を置かないと、人は覚えないものだからだ。

評論で訪れた試合で「この局面は投手を続投させた方が良い」と考えたとする。その判断が裏目に出たとしても責任を負う必要はなく、緊張感は生まれない。そこには「訓練」と「実戦」の違いがある。

射撃訓練で人形を撃つのと、実戦で人間と対するのとでは意味合いが異なる。どれだけ訓練を重ねたとしても、実戦に身を置くことで得られる経験とは異なるのは当たり前だ。何よりも実戦を経験することが成長につながるのは、どこの世界でも同じではないだろうか。

19年間のプロ野球人生も野村監督の言葉から始まった。

PL学園高校、同志社大学、プリンスホテルとアマチュア時代から勝利を義務づけられたチームでプレーしてきたが、プロフェッショナルとして生きる術を教えてくれたのが野村監督だった。

「チームはエースと4番だけでは成り立たない。目立たない脇役でも、適材適所で働けば貴重な存在になる。主役になれない選手は『脇役の一流』を目指せばいい」初めてのキャンプで言われた際には、身震いしたのを覚えている。

当時は初めて間近で見るプロの打撃練習で、周囲との実力差を痛感していたときでもあった。アマチュアでも4番バッターではなかった私は主役になることはできない。

エースと4番が集まるプロ野球で生き抜くには、「脇役の一流」を目指すしかないと道を示してもらったのだ。そこで始めたのが自己分析だった。入団当時は守備には自信があったが、打撃は勝負にならなかった。体力もプロレベルとはいえなかった。

当時、ヤクルトで遊撃手を務めていたのは強打者の池山隆寛さん(現楽天チーフコーチ)である。レギュラーを確保するためには守備で評価を高めつつ、個人よりチームを優先するチーム打撃を磨くことが近道だと考えた。

守備固めでの出場が多かった1年目は、余裕を持って捕球しても間に合うタイミングのゴロを素早く捕球して投げることがあった。

次も試合で使ってもらうためにはベンチに「宮本の守備は違うな」と思われる必要があったからだ。もちろん、素早く捕球して投げればミスをする可能性は高まる。

チームという視点からは決して正解ではないが、当時私が置かれていた立場では必要なことだった。数字で評価される主役とは異なり、脇役の評価はどれだけ首脳陣からの信頼を得られるかで決まる。

個人成績は良くなくても、先発で使い続けてくれるのは信頼があるからだ。逆にどれだけ数字を残しても途中で代えられてしまうのは、信頼を得られていないということである。

脇役が数字を残しても、チームが勝たなければ意味がないのは組織として当然だろう。現役時代は2000本安打を達成し、アテネ、北京五輪では日本代表の主将を務めた。ゴールデングラブ賞を10回受賞、400犠打も達成した(通算2133安打、408犠打)。

「脇役の一流」にはなれたかもしれないが、脇役が主役になることはないと考えている。もちろん、一つ一つの試合では脇役の選手が決勝打を放って脚光を浴びることもある。

だが、組織の中で脇役が主役になれるかというと、そうではない。主役には主役なりの、脇役には脇役なりの役割というものがあるからだ。

2014年の開幕後、ヤクルトの小川泰弘に電話をする機会があった。

新人だった前年に16勝4敗で最多勝に輝いた右腕だが、4月18日の阪神戦(甲子園)で打球を右手のひらに受けて骨折していた。

「右手を出すんじゃなくてグラブを出せよ」彼にそう話すと、「えっ」と驚いた反応が返ってきた。「『大丈夫か?』という電話だと思っただろう」と言うと「はい」と素直に認める。

だから、こう続けた。

「エースにあんなところで抜けられたら、チームが困る。おまえは事故だと思っているかもしれないけれど、事故ではない。体勢が崩れたのは分かるが、守る意識があればグラブが出たはずだ。とっさに右手が出たのは準備不足じゃないのか?」小川は開幕投手を任され、首脳陣からもチームメートからもエース候補として期待されていた。

主役の序盤での離脱が組織にとって何を意味するのか。高い能力を持っているからこそ、周囲が自身をどう見ているかを考えてほしかったのだ。

自己分析が何よりも重要なのは、一般社会でも同じだろう。どんな人間でも自分がかわいく、実際よりも高く自己評価をしてしまう。それでは自分の役割を正しく理解することはできない。

一方で自己評価が謙虚過ぎれば、実際の能力よりも低いところから始めなければならず、力を発揮することはできない。

脇役だった私が長く現役を続けられたのは、相手を知り、自分を知ることに徹したからである。少しでも情報を得ようと、洞察することに努めてきたからともいえる。

本書のタイトルを「洞察力」とした。

一般社会でも活用できるテーマを意識して書いたつもりだが、私は野球一筋の人間なので、野球を通してでしか語れない。

本書を手に取られた方々が自らの立場や経験に置き換え、何かのヒントを得ていただけたなら、これほどうれしいことはないと思っている。

2017年10月

脇役だった私が長く現役を続けられたのは、相手を知り、自分を知ることに徹したからである。少しでも情報を得ようと、洞察することに努めてきたからともいえる。

目次洞察力はじめに目次

第6章指導結果を出す指導者の言動

洞察55指導者が持つべき言葉の力洞察56育成という言葉が独り歩き洞察57チャンスは平等ではない洞察58部下は上司を観察している洞察59名監督が持つ度量洞察60相談者の利益より大局観を洞察61兼任コーチの果たす役目洞察62変化する勇気を持て洞察63予想外の飴と鞭?洞察64鉄は熱いうちに―部下を叱る鉄則洞察65優しい父と厳しい母の存在洞察66受け売りで始まる技術習得

洞察1大学で変わった野球観

自分がキャリアを磨いてきた環境を振り返る中で、ターニングポイントとなったのはいつか。私にとっては、同志社大学で過ごした4年間がそれに当たる。

同志社への進学を選んだのは、先輩方のある行動がきっかけだった。PL学園高校の野球部を終えた当時、進路についてかなり悩んでいた。野球が五輪の正式種目になることが決まっていた。

日本代表に選ばれるためには東京の大学でプレーした方が有利ではないかと考えていたからだ。

そんなとき、同志社に進学された片岡篤史さん(現阪神打撃コーチ)たちPL学園の先輩方が、わざわざ高校の寮まで説得に来てくれた。

「同志社で一緒にやろう」。私が進路に悩んでいたのを、どこかで聞いていたのだろう。たった一人の後輩のため、足を運んでくださった行動に感動してしまった。先輩方の熱意に応えたい。先輩方と一緒に野球をやりたい。

京都で4年間頑張ってプロ野球を目指そうと、同志社への進学を決めたのだった。そこで私の野球観は大きく変わることになる。

PL学園時代は甲子園優勝やプロを目指すのが当たり前で、全国からレベルの高い選手が集まっていた。私が2年生だった1987年には甲子園を春夏連覇している。

その当時の3年生の立浪和義さん、野村弘樹さん、橋本清さんは同年の秋のドラフトでプロに巣立っていった。ところが、当時の同志社は推薦入試制度が厳しかった関係もあり、部員も私が4年時に全学年で27人しかいなかった。

当然のことだが、受験勉強をして入学した部員や、1浪、2浪を経て入学して入部してくる部員もいた。もちろん、中にはお世辞にも野球がうまいとはいえない部員もいた。

そんな部員が4年間で1打席でもいいから打席に立ちたい、1球でもいいから試合で投げたいと、努力を重ねる姿は衝撃的だった。

頑張っても試合に出られないかもしれない中、1打席のために毎日練習している。こんなにひたむきな野球があることを、大学に入って初めて目の当たりにした。

一生懸命練習することの美しさや相手に対する思いやりといった、野球の技術以外にも大事なことを教わった。

今でも忘れられないエラーがある。4年生最後の試合は私のトンネルで終わった。一、三塁でバックホームの場面だったのだが、焦っていたこともあって、打球のバウンドに合わせることができなかった。

あっという間にボールがグラブの下を抜けていき、試合が終わった。私は社会人野球に進むことが決まっていたが、大学で野球を引退する部員が大勢いた。

勝っていれば、次の試合に4年生の部員は優先的に出場することができた。私が最後の出場機会を奪ってしまったわけだ。エラーの感覚は今でも残っている。

在学中に行われた1992年のバルセロナ五輪への出場はかなわなかった。だが、後にプロの参加が認められたことで2004年のアテネ五輪で16年越しの願いを果たすことができた。

遠回りにはなってしまったが、全選手プロで構成された代表で日の丸を背負うことができたのも、同志社で過ごした日々があればこそだと思う。

大学時代のチームメートとは今でも連絡を取り合っている。京都に帰るときには、同期が働く会社からレンタカーを借りている。

2000本安打達成のパーティでは同期全員が顔をそろえてくれた。大学の4年間は、かけがえのない財産になった。

洞察2一流は普段の生活から一流

高校時代を過ごしたPL学園では、人が嫌がることにも率先して取り組む重要性を教えられた。基本にあるのは人間としての成長が野球にも必要な目配り、気配りに通じるという考え方だった。

目配り、気配りという点でこの人には勝てないと驚かされたのが、中日で活躍した立浪和義さんだった。

例えば、爪切りを渡すときにも目配り、気配りがある。

監督に「おい、ちょっと爪切りを貸してくれ」と言われると、相手に刃先が向かないように手渡す。ここまでならできる人もいると思うが、立浪さんの場合はすぐに使えるよう、あらかじめ爪切りを開いて渡していた。

あるいは、他校の監督さんが練習を見学に来たときである。

「(風呂場に)バスタオルを用意しておいてくれ」と言われた立浪さんは洗面器にシャンプー、リンス、洗顔料を入れて、体を洗うタオル、バスタオルと一緒に並べて置いていた。

風呂場には部員用のシャンプー、リンスが常備してあるにもかかわらずである。これには見学に来た監督がいたく感動したという。

これを16歳、17歳の高校生が平然とやる。そこに立浪さんのすごさがあると思う。普通の高校生は立浪さんが何をやっているのかにも気付かなかった。

監督に指摘されて初めてすごいことなのだと思ったのである。スコアブックを渡すときには、使うページを開いて渡す。

玄関にスリッパを並べるときは、段差のぎりぎりにそろえてしまうと履きにくいので、少しだけ前に間を開けて並べていた。

野球でも局面が見えていた。周囲を見渡せる余裕があるから、一手先を読むことができる。プレーでの大胆さや繊細さにもつながる。

私の身長は176センチメートル。プロ野球選手の中では小さい方だったが、立浪さんは173センチメートルと私よりも小柄だった。

それでもあれだけの活躍をされたのには、理由があるのだ。この人は天才だと感じたエピソードがある。

立浪さんは引退するまで打席で誰のボールを見ても速いと思ったことがないのだという。

中日に入団した1年目に「プロのピッチャーってどうですか?」と聞いたことがあるのだが、「(PL学園の先輩の)桑田真澄さんくらいかな」と答えていた。

高卒新人が春季キャンプを一軍で完走するだけでも大変なのに、素質を見込まれて開幕戦で先発した。この年には新人王も受賞している。最初から成績を残せる人はプロのレベルのボールを見ても、慌てることがないという共通点がある。

間が長くとれる打撃フォームが身に付いているから、レベルの変化にも動じないのだろう。

清原和博さんも「まあ、別に」と答えたというし、巨人の高橋由伸監督に現役時代に「正直どうだった?」と聞いたときにも「何とかなると思いました」と答えが返ってきた。

私の場合は24歳でプロ入りしたが、「やばい。3割ってどうやって打つんだ」と頭を抱えたものだった。

立浪さんは早熟の天才でありながら、40歳まで現役生活を続けた。年齢とともにスピードや体力の衰えは避けられないものだが、優れた洞察力に基づいたプレーをしてきたからだろう。立浪さんの気遣いは今も続いている。

一緒にゴルフを回らせてもらうと、誰かがバンカーに入れると先にトンボを持って待っている。

キャディがいない海外のゴルフ場では、他の人のボールがグリーンにのったときにはすぐにマークをして、汚れたボールを拭いていたこともあった。

一流の人は普段の生活から一流なのである。

洞察3一流に通じる言語感覚

言うまでもないことだが、プロ野球には各地でエースで4番だった選手が集まる。その中でも一流と呼ばれる選手になる人は数えるほどだ。

そうなれない選手との間には歴然とした違いがあるのだということを、時に痛感させられる。

オリックスの中島裕之は、打撃に関しては天才だ。いつだったかは忘れたが、一緒に食事をしたときに「(変化球が来て)あっと思ってふっと(力を)抜いたら、ライト前に落ちるんですよ」と話したことがあった。

体勢を崩されたとしても、瞬時に対応することができると言うのだ。思わず「そんなの分かるのか?」と首をひねってしまった。

面白いのが、打撃コーチから指導を受けるときも「右腕を内側から出すように」と理論的に指導されるよりも、「バン」「ドン」「シュッ」と擬音語で言われた方が分かりやすいと話していたことだ。

これは西武の先輩に当たる松井稼頭央(現楽天)も同じだったという。

凡人の私は「それは、おまえらだけの世界。おまえら、おかしいだろ」と苦笑いするしかなかった。

中島との出会いは2004年だった。当時、彼が在籍していた西武と中日の日本シリーズでゲスト解説を頼まれ、所沢を訪れたときのことだった。

西武OBの大塚光二さんから「今晩、空いてるか?中島と飯に行くんだけど、いろいろと話してやってくれよ」と誘われたのがきっかけだった。

当時の中島選手は入団4年目だった。無名校の伊丹北高校では投手だったが、プロでは打撃を評価されショートに転向していた。前年オフに大リーグに移籍した松井の後釜として、定位置をつかんだばかりだった。

彼の魅力は、人を引き付ける明るさと純粋さだ。デッドボールを当てられたときは、すぐカッとなるような子供っぽさも残っていて、つい応援したくなってしまう。

私もショートを守っていたので、よく話を聞きに来ていた。

オープン戦や交流戦の試合前の練習中には「ちょっと、ノックを見ていてください。あかんかったら、言ってくださいね」と人懐っこく言ってくる。

野球が本当に好きで、少しでもうまくなりたいという思いが全身からあふれている。

2012年オフに海外フリーエージェント(FA)となり海を渡ったが、大リーグでは思うような結果を残すことができなかった。

私は内心、これまで苦戦が目立っていた日本人の内野手で一番成功するのではないかと思っていた。西武時代には、オフに一人でウインターリーグを見にベネズエラに遊びに行っていたという。海外への順応性と明るさという部分で大リーグ向きだと思っていたからだ。

付帯条件が多い契約に縛られて、出場機会が少なかったのは残念だった。2014年オフに日本復帰を決めた。

複数球団からオファーを受けたが、オリックス移籍が決まったときには、新聞に記事が出る前日に中島から電話がかかってきた。

それまでの報道では阪神が有力とされていたので「阪神の中島さんですか?」と電話に出ると、「オリックスの中島です」という声が電話口から聞こえてきた。

「オリックス?(報道で名前が)出てなかったやん」と言うと「だから、決めました」と話していた。出身県に本拠地のあるチームに身を置き、もう一度パ・リーグで勝負したいという思いがあったのだろう。

天才的な打撃はさびていない。独特の感性に支えられた打撃を見せ続けてほしい。

洞察4古田敦也さんの思考回路

プロ野球界で一番、頭が良いと感じた選手は誰か?そう聞かれたとするなら、一緒にプレーをした中では古田敦也さんの名前を挙げる。

プロに入って2年目。米国のアリゾナ州ユマで行われた春季キャンプ中のことだった。野手全員で盗塁の練習をする機会があった。

捕手の送球練習も兼ねており、投手も盗塁を仕掛けてくることが分かっているから、素早いクイックモーションで投げる。当然、投手が投げ始めてからスタートを切っても、二塁でアウトになってしまう。何度もアウトになっていると、古田さんにこう言われた。

「おまえ、真面目やなあ。投げる前に走ったらええやん。盗塁って、別にピッチャーが投げる前に走ったってええやろ」何気ない一言だったが、当時の私は衝撃を受けた。

プロ入り間もない私は、自分で言うのも気恥ずかしいが、生真面目な部分があった。練習なのだから、投手が動き始めてからスタートを切らなければいけないと思い込んでしまっていたのである。

古田さんの考え方は違った。真面目にスタートをしても良い結果が出ないのなら、投手が動き始める前にスタートをしてみればいい。

もちろん、けん制でアウトになって首脳陣に叱られるリスクだってある。だが、勝負を懸けて選択したのなら、たとえ失敗をしても仕方がない。

セオリー通りにプレーすることが、常に正解とは限らない。「遊び心」の大切さに気付かせてもらった一言だった。現役時代の古田さんのプレーは、遊び心にあふれていた。

打席で内角にボールが来るとヤマを張ったら、左足を大きく開いて打ちにいったこともあった。左脇を開けたキャッチングも、常識とは真逆の発想だった。

ワンバウンドの投球は体ごと止めにいくのがセオリーだが、逆シングルで捕って送球することもあった。

もし後逸すれば基本に反していると責められかねないプレーだが、リスクを背負っても素早い送球を追究した。球界の常識を疑ってかかるような探求心には、驚かされることが多かった。

古田さんがよく口にしていたのが「最後は命を取られるわけじゃない」という言葉だった。肝が据わっていると感じることが多かった。

一般には知的で冷静なイメージが強いと思うが、勝利に対する執念はものすごかった。一度、若い選手がフェンスにぶつかるのを怖がって、ファウルフライを捕れなかったことがあった。直後にマウンドに集まったときには「何を怖がっているんだ。100年早いんじゃ。ぶつかってでも食らいつけ」と怒鳴っていた。

これから定位置を狙う選手に故障を怖がる余裕はないというのは、その通りだった。古田さん自身、骨折をしても休まない人だった。左膝の靱帯を断裂する大ケガを負ったときでさえも、痛み止めを飲んで試合に出続けていた。

川西明峰高校時代は夕方5時になると練習をやめてグラウンドから出て行かないといけなかったという。立命館大学でもレギュラーで出ていたのは5シーズンだけである。

野球エリートのイメージが強いが、実際に近くで接するとたたき上げの人という印象が勝る。新しいものにも好奇心旺盛で、引退後はトライアスロンに挑戦している。

ご一緒したときに「現役のときは3キロ走で文句を言っていたじゃないですか」と言うと「おまえもやらへん?」と返ってきた。そんなときは「もう十分走ったので、僕はやりません」と答えるようにしている。

勝負を懸けて選択したのなら、たとえ失敗をしても仕方がない。セオリー通りにプレーすることが、常に正解とは限らない。

洞察5臆病であることが成果につながる

野球に限らず、スポーツのパフォーマンスにメンタル面が与える影響は大きい。もっといえば、生来の気性が選手としての成長を左右することがある。

ヤクルトの山田哲人は臆病な性格が功を奏した例といえる。

履正社高校からプロ入りして1年目の2011年だった。山田は一軍での試合出場がないにもかかわらず、中日とのクライマックスシリーズファイナルステージ第2戦から先発出場した。

高卒新人野手の先発出場は初めてだったというが、山田は短期決戦の舞台に臆することなく、3試合に出場してタイムリーヒットまで打った。

その年のオフから愛媛県松山市の権現温泉での合同自主トレに連れていくことになった。

当然、山田の素質を見込んでのものだったが、これは化けるかもしれないと感じさせた理由は、彼の性格が「ビビり」ということだった。

翌2012年シーズンは26試合、2013年シーズンは94試合に出場したが、決して精神的に強い選手とは言えなかった。

結果が出ない時期や打撃の調子が悪いときには、全体のプレーが小さくなってしまう。打撃で結果が出ないと守備でも積極性を欠く。

若い頃は実績が何もないから仕方がない面があるが、一度駄目な方向に進むと今度は失敗を恐れてしまい、結果として悪循環にはまっていった。

例えば4打数無安打に終わった試合後には、ロッカーや移動のバスの中でも落ち込んでいるのがはっきりと見て取れた。

普段はあっけらかんとして明るいタイプなのだが、必要以上に結果を考え込んでしまう。落ち込む様子を目の当たりにして「意外とビビりな性格なのだな」と思ったものだった。

山田にとっては、この性格がかえって良い方向に働いた。プロ野球選手には繊細な感性が必要な場面が多いからだ。山田には困難に直面したときに「もう少し慎重にやってみよう」「丁寧にやってみよう」と考えられる意識がある。

開き直ると言えば聞こえはいいが、「もういいや、どうにでもなれ」と諦めてしまい、適当にプレーするということがなかった。

もちろん最近の若者らしく、成果が出て自信が付いたときには思い切ってプレーすることができる。

どんな仕事であれ、こうした臆病な性格の要素を持った人材の方が注意を払って事前の準備や事後のチェックをすることができるだろう。臆病であることは、考え続けられるということでもある。技術を磨く上では「ビビり」な性格は必要な要素だと思っている。

山田に関しても自らの技量を高め、これから経験するだろう優勝争いでチームに貢献していくには、この繊細さと大胆さが大きなポイントになると思っていた。

開花を迎えたのは2014年のシーズンだった。セカンドの定位置を確保し、打率3割2分4厘、29本塁打、15盗塁の好成績を残した。193安打は日本人右打者のシーズン記録だった。2015年には、前年の活躍が偶然でなかったことをバットで示した。

春先には相手投手からのマークも厳しくなり苦しんだが、自分を見詰め直す時間に変えることができた。苦しい時期に考えてバットを振り込んだことで、しっかりとした技術が身に付いたのだろう。

結果的に打率3割2分9厘、38本塁打、34盗塁といずれも前年を上回り、史上9人目のトリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁のすべてを上回ること)を達成した。

チームを優勝に導き、セ・リーグMVPを受賞した。2016年には史上初の2年連続トリプルスリーを達成している。

仕事をしていく上で臆病であることは必ずしもマイナスではない。繊細であり続けることが大胆さにつながる。一流と呼ばれる選手には繊細さと大胆さのバランスの取り方がうまい選手が多い。

洞察6勝負強さの原点とは

プロ野球には「勝負強い」と表現される選手がいる。

実際に得点圏(二、三塁)にランナーを置いているときや、試合の勝敗を決める場面で好成績を残す選手がいるのは事実だ。

最近でいえば、阪神の福留孝介が代表例だろうか。

私が見てきた印象では、勝負強いとされる打者は、腹が据わっていると感じさせる選手が多い。

投手は速いボールと遅いボールの球速の緩急、内角と外角、高低のコースを投げ分けて、打者のタイミングをずらそうとしてくる。これら全てのボールに対応して打ち返そうとするのは、不可能に近い。ましてや試合の勝敗を決める場面では、守る側も最大限の注意を払って抑えようとしてくる。

打者側としては、より球種やコースを予測して対応する必要がある。

0点か100点か。50点を狙って成果を出せるような、生易しい局面ではない。リスクを背負っても気持ちを乱すことなく、浮かんでは消える迷いを断ち切らないことには好成績は残せない。

「この場面でストレートが来たら、打てなくてもしょうがない。その代わり、スライダーが来たら絶対にヒットを打ってやろう」打席の中でこれぐらい思い切った割り切りができるかどうかが、勝負強さの原点になっていく。

福留は若い頃から、この割り切りに長けていた。

試合終盤のツーアウト満塁、フルカウントからでも、ど真ん中の真っすぐを見逃すことがあった。スライダーを狙っていましたと言わんばかりの表情でベンチに戻っていく。守っている側からすれば、これほど怖いと感じることはなかった。

次回、同じような場面で読みが当たったらどうなるのだろうと想像すると、背筋が寒くなったものだ。もちろん、経験を重ねることで、チャンスに力を発揮できるようになるケースもあるだろう。

経験を積むことで技術が上がり、配球を読む力や、駆け引きの引き出しも増えていく。福留は米大リーグの厳しい環境でもまれ、日本に復帰してベテランの域に入ってから、ますます磨きがかかってきた。

私自身も現役時代の終盤は「宮本に回せば何とかしてくれる」と言ってもらったことがあった。若い頃にはなかったことで、経験を積むことで割り切ることができるようになっていったからだと思う。

得点圏打率が注目されることもあるが、得点圏打率だけでは勝負強さの本質は測れない。10対0と試合が決まってからの打点と勝敗を決める場面での打点では、全く価値が違うからだ。

勝敗を決める場面で成果を積み重ねることで、ベンチからの信頼度も高まっていく。チーム内における勝負強さは、印象に左右される部分もあるからだ。

一緒にプレーした中で勝負強さを感じる選手といえば、ヤクルトでチームメートだった古田敦也さんだった。配球を予測するという部分では群を抜いていた。

広島の前田智徳(現評論家)も打撃技術が高く、手痛い一打を浴びることが多かった印象がある。外国人選手でいえばヤクルト、巨人、ソフトバンクなどで活躍したロベルト・ペタジーニだろう。

真っすぐを少し遅れ気味のポイントで逆方向の左中間に打つことができ、彼も打撃技術が際立っていた。好機に成果を残す大前提として、技術は必須である。

その上で持っている技術を重圧がかかる場面でも発揮するには、勇気と経験による割り切りが必要になる。どんな好打者でも7割は失敗する。だが、失敗を恐れて振ったバットが、好結果をもたらすことはあり得ない。

洞察7「オフは仕事を忘れろ」のウソ

「仕事はオンとオフの切り替えが大事」「オフは仕事を忘れた方が生産性が上がる」こんな言葉を聞くと、本当にそうなのかな、と首をかしげてしまう。

プロ野球選手にとってのオフシーズンとは、契約期間外の12月1日から1月31日までを指す。この期間は監督、コーチから指導を受けることは禁止されているため、自分でトレーニングをしなければいけない。全国各地や、最近では海外で自主トレをする選手も増えてきた。

ヤクルトに入団した1995年当時は、今ほどオフシーズンの練習は盛んではなかった。1月にも体を動かしていたが、本格的にトレーニングをするのは2月1日に始まるキャンプから。オフは体を休めることが一番とされていたからだ。

PL学園高校の頃から自分でトレーニングをすることを教わっていたので、こうした球界の風習はチャンスだと思っていた。

「(他の選手は)もっと休め、もっと休め」と思いながら、球団寮の室内練習場で打撃練習に取り組んでいた。そんな時期に他に室内で練習していたのは、同期入団の稲葉篤紀くらいだったと思う。

今だから書けることだが、こんな出来事があった。

チームの先輩で、ショートのレギュラーだった池山隆寛さん(現楽天チーフコーチ)に「忘年会だから、おまえもちょっと来い」と誘っていただいた日のことだった。

会場に着いたが、その日にメニューとして組んでいたウエートトレーニングが済んでいなかったので、食事中も時計が気になって仕方がなかった。夜の11時を回った頃だ。

池山さんに「すいません。明日早いので、先に帰ってもいいですか?」とお願いをして慌てて球団寮に帰り、やり残していたトレーニングを終えることができた。

池山さんにウソをついたわけではないのだが、その日のウエートトレーニングで軽いぎっくり腰になってしまったことも、今では笑い話だ。

練習や試合中はもちろんだが、試合後の食事の席でも野球談義が尽きないことは多い。オフに他のことをしていても、どこか野球に生かせることはないかと仕事に結び付けてしまう。

自分の腕一本で食べていく職種では、そういった意識で暮らしているのではないだろうか。他の人が休んでいる間にどれだけ準備をできるかが結果を分けることがあるのは、一般社会でも同じだろう。

周囲に負けないほどの労力をかけても満足のいく結果が得られないならば、他の人が仕事を忘れている時間にも努力して差を埋めようとするはずだ。

もちろん、努力が報われるとは限らない。

シーズンが終わってからの3カ月間にどれだけ計画的にトレーニングをしたとしても、翌シーズンで良い成績を残せる保証はない。

ただ、やらなければ絶対に良い結果は出ない。

この3カ月間が、レギュラーを狙う選手にとっては、レギュラーとの差を縮めるチャンスである。

レギュラーにとっては、他の選手を突き放す、あるいは一流選手になるチャンスになる。

毎日の結果に追われるシーズン中も大変に思われるかもしれないが、個人的にはオフシーズンの方がつらかった。

例えば「次のシーズンは長打を増やしたい」と希望に満ちてトレーニングをするわけだが、そのためには技術面に加えて体力強化も行わなければならない。年齢を重ねれば体力は落ちる一方なので、トレーニングはより厳しいものになる。

このオフの期間を億劫と感じるようになったことが、引退を決める理由の一つになった。

努力が報われるとは限らない。ただ、やらなければ絶対に良い結果は出ない。

洞察8最年長選手の原動力

サッカーの三浦知良選手が自身が持つJリーグ最年長出場記録を更新し続けている。三浦選手は1967年2月生まれで、私より4学年上に当たる。プロリーグで現在プレーしている現役選手では世界最年長なのだという。

巨人などで活躍された張本勲さんがコメンテーターを務めるテレビ番組で「もうお辞めなさい。若い選手に席を譲ってやらないと」と引退を勧めて話題になったことがあった。

野球とサッカーとで競技は違うが、何より驚かされるのは三浦選手の気力が持続する点だ。私も43歳を迎えるシーズンまで現役を続けたが、最後は気力が持たなかった。特につらいのがオフシーズンである。

自主トレ期間には翌シーズンへの希望を持って「この部分を鍛えてみよう」と前向きに練習していたのが、現役最後の1、2年は「練習しなければいけない」という義務感に変わっていった。

どれだけ練習をしても、必ずしも良い結果につながるとは限らない。だが、練習をしなければ、確実に良い結果は出ないのである。

もちろん、年齢とともに体力が衰えるという面もあるが、練習がつらく感じられるようになって引退を決めるという選手も多いのではないだろうか。

ところが、三浦選手の場合は19歳でプロになって30年以上過ぎても「もっとうまくなりたい」「まだ、プロでやりたい」という気力を維持している。そのこと自体が驚くべきことなのである。

野球界でも50歳を過ぎてプレーした選手がいた。元中日の山本昌さんである。2015年10月7日の広島戦に50歳57日で先発登板し、最年長記録を樹立した。自らが前年に記録した最年長勝利の更新はならなかったが、しばらく記録が抜かれることはないだろう。

プロ1年目の1995年4月11日の中日戦(神宮)で代打として初出場したときに、マウンドに立っていたのが山本昌さんだった。

当時すでに最多勝を2度獲得していた球界を代表する左腕で、結果は四球だった。あれから20年間現役を続けたのだから、信じられないことだ。

山本昌さんの場合、40歳を越えてから球速が上がったほどで全盛期のストレートは132、3キロ程度だった。当然、プロ野球では圧倒的に抑えられる球速ではない。

ところが、打てると思ってバットを振ったのに「あれ?」という感覚のうちにショートゴロ、セカンドゴロに打ち取られることが多かった。

山本昌さんと対戦するときには注意事項が多かった。低めのボールに手を出してはいけない。打者に有利なバッティングカウントのときほど、打者の打ち気を利用して際どいボールで誘ってくる。本当に手ごわい投手だった。

ともにミズノと野球用具のアドバイザリー契約を結んでいたので、オフシーズンには山本昌さんとはメーカーのスタッフ会議でよく話をさせていただいた。会話には必ずオチをつけようとする方なので、話していて面白い。

一度、「宮本、これを見てくれ、買ったんだよ」と購入したランボルギーニの写真を見せてくれたことがあった。とにかく趣味が多い方なので「先輩、クワガタに、ラジコンに、スーパーカーですか?」と言うと山本昌さん「俺、子供なんだ。でっかい子供だろ」と笑っていた。

気力を維持することは特別な才能の一つと感じている。若々しい気力を保ちながら、子供ほど年の離れた選手とともに汗をかき、息の長い現役生活を続けた。

これはもう、「あっぱれ」としか言いようがない。

洞察9個人的関係で仕事が左右されない

最近のプロ野球は乱闘が少なくなったといわれる。乱闘という行為の善し悪しは別にして、緊張感のある真剣勝負がプロ野球の魅力の一つでもある。

「乱闘が少なくなって寂しい」というファンの心情は理解できる。

乱闘が少なくなった理由の一つに、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)などで各チームの選手が日本代表として戦う機会が増えた影響があるのだろう。

大会前から合宿をして一緒に寝泊まりをし、1カ月近くを団体行動で過ごす。日の丸を背負って戦う独特の緊張感の中では仲間意識が芽生えるし、他チームの選手と交流を深めていくのは自然なことといえる。

とはいえ、日本代表を離れて所属チームに戻れば、今度は敵として戦わなければいけない。ピッチャーとバッターなら、直接対戦することになる。

もちろん、個人的に親しくなったからといってピッチャーがインコースを厳しく突けなくなったりしてはプロとしては失格だ。

だが、プロ野球選手といっても人間である。優しい性格のピッチャーなら、インコースを狙ってコントロールが乱れることはあり得ると思っている。だから、若い野手にはこう言うことにしていた。

「他のチームのピッチャーに食事に誘われたら、積極的に行った方がいいぞ」。

もしかしたら、今後の対戦の中でインコースを投げづらくなるかもしれない。プラスに働く可能性があるのだとしたら、利用しない手はない。勝負に対してはそれぐらいの執念を持ってほしいからだ。

逆に若い投手にはこうも言っていた。

「他のチームのバッターとは、なるべく食事に行くなよ」。

逆もまたしかりで、ピッチャーの性格次第では他チームの選手と交流を深めることで厳しいボールを投げることができなくなってしまうかもしれないからだ。

もちろん、いくら親しくなっても勝負に徹することができるのが本当のプロの姿である。そして、個人の関係性が仕事の成果を左右しては一流と呼ぶことはできない。

その意味で言えば、印象に残っているのは二人の投手だ。一人目は松坂大輔(現ソフトバンク)である。松坂とは2004年のアテネ五輪、2006年の第1回WBCでチームメートだった。

良い投手だと改めて痛感させられたのは、アテネ五輪の翌年5月25日の交流戦(神宮)だった。当時西武だった松坂が先発したのだが、3打席目に左腕に死球を受けた。いくら親しくなっても、インコースを厳しく攻めるのはプロとして当然である。松坂はその上を行っていた。

マウンドに視線を送ると「しまった」といった類いの表情は見せず、「当ててしまったか」といった涼しい顔を浮かべていた。

戦う上でのしたたかさと図太さは、敵ながら気持ち良いほどだった。

もう一人印象に残っているのは米大リーグ、カブスの上原浩治だ。上原とはアテネ五輪、第1回WBC、2008年の北京五輪でチームメートだった。何度か食事にも行った仲だが、巨人時代の対戦で驚かされたことがあった。

ある試合でスクイズのサインが出た。バントの構えをするのが少しだけ早くなってしまったのだが、スクイズをしてくると気付いた上原が頭を目がけて投げてきたのである。

何とかバットに当ててファウルにしたのだが、もし頭に当たっていたらとひやりとした瞬間だった。

後日、上原に「万が一のことがあったら、子供たちの面倒を見てもらうからな」と冗談で言うと「大丈夫ですよ。フォークだから」と返してきた。ストレートよりも球速が遅いフォークボールならよけやすいし、頭に当たっても大丈夫だというのである。

勝負への執念は際立っていた。

大リーグでの活躍も納得である。

洞察10超一流のイチロー流

あまり軽々しく使いたくない言葉ではあるが、大リーグで活躍を続けるマーリンズのイチローは間違いなく超一流に分類される選手だろう。

2016年8月に達成した大リーグ通算3000安打は殿堂入りの目安とされ、過去に29人しか到達していない記録である。3000本というヒットを積み重ね、好成績を残し続けている。純粋にすごいの一言に尽きる。

何よりも40歳という年齢を超えてもあれだけ速く走れるということに驚かされる。初めてイチローのバッティングを見たときの衝撃は今でも覚えている。私がヤクルトに入団した1995年か96年頃だったと覚えている。

オリックスとのオープン戦でグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)を訪れたとき、イチローのフリー打撃に目を奪われた。

ひとたびスイングをすれば、全てがホームランになるのである。ライトに飛ばせば、上段へ。外角の球が来れば、バックスクリーンへ。悠々とスタンドまで運んでいた。

どうして試合ではヒットを狙っているのだろうと本気で首をかしげたくなるほど、圧巻の内容だった。

ボールを打ちに行く際、投手側に上半身が突っ込まず、体の軸を維持することを野球用語で「壁を作る」という。イチローは状態が良いときは壁が絶対に崩れないから、どんな球にも対応することができる。

もちろん、次に来る球種を予想しているのだろうが、真っすぐに合わせていても、変化球に対応することができる。

野村克也監督はバッターを4つのタイプに分類するが、打者の理想型とする「A型」(直球に重点を置きながら、変化球にも対応するタイプ)の典型といえるだろう。

イチローが超一流と呼ばれる理由は、打者の理想型がどのレベルでも変わらないということにある。

日本で首位打者7回、打点王1回、盗塁王1回、最多安打5回、最高出塁率5回の実績を残し、海を渡ってからもプレースタイルが変わらなかった。

大リーグでも真っすぐに合わせながら、変化球を打ちにいくこともできる。崩れない壁、スイングの軌道と何から何まで非の打ちどころがない。

2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではチームメートになったが、彼は決して自分のペースを崩すことがなかった。

時には、ミーティングよりもストレッチやマシン打撃を優先することもあった。チームの中で自分のペースを守ろうとすれば、結果を残さなければ周囲からたたかれるのは分かっている。それでも自分のペースを貫き、結果で答えを出し続けるところがイチローのすごさといえる。

日米通算でピート・ローズ氏の最多記録4256安打を突破した際には、日本の記録を加算するべきか、米国で賛否両論があったという。ローズ氏は日米通算を認めない姿勢を貫いて話題になった。

イチロー自身も「正直ちょっとうれしかった」と語ったそうだが、それだけローズ氏がイチローを認め、意識しているということだろう。

野茂英雄さんの場合もそうだが、何よりも米国で偉大な選手として認められているということが功績を物語っている。どれだけ環境が変わっても、自らの信念を貫き続けることができる。一流と呼ばれる人物に共通している点の一つといえるだろう。

洞察11「上手」だけでは一流ではない

一流と呼ばれる選手には、それだけの責任がある。子供たちは憧れの目で見ているし、周囲の見方が厳しくなるのも当然だ。

一流は常に見られているのである。

2016年のシーズン開幕直後だった。評論家を務める日刊スポーツの評論でヤクルトの山田哲人の守備に注文を付けたことがあった。4月13日の巨人戦(神宮)だった。

0対8で敗れた結果以上に、試合に臨む姿勢に問題があるように感じたからだ。四回一死一塁。巨人の立岡宗一郎が放ったゴロは、セカンド正面に転がった。

一塁走者は投手の菅野智之で併殺崩しを狙うようなスライディングもない。ところが、一塁はセーフになった。

いくら打者走者の立岡は足が速いとはいえ、山田があと1歩でも前に出てゴロを処理していれば、併殺になっていたプレーだった。

この日の山田は、守備中に集中力を欠いているように見えた。野手が守りの姿勢に入るタイミングは、投手がセットポジションに入ったときに始まっている。

ところが、投手が投球動作に入るまで、両手を両膝に置いたままだった。動きも重く、同じ二遊間を守っていたOBとして恥ずかしいと感じた。

ここまで厳しく指摘したのは、彼が日本を代表する選手に成長したからだ。野球教室で知っている選手の名前を聞けば、山田の名前が挙がる。球場を訪れる小学生の多くは、山田のプレーを見に来ている。

それが両手を両膝に置いたままでは、野球少年の模範となることはできない。見られているという意識を、もっと持ってほしかった。

もちろん、まだ若く、全てを完璧にこなすのは難しいだろう。それでも、チームの主力になれば、コメント一つでも影響力は大きくなる。

開幕前までは「チームのために」と話していたのに、自分の打撃の調子が悪くなると「1日1安打を目標に」と個人の目標を掲げるようになってしまうようなところがあった。

山田に限らず、チームの中心選手の言動には常に自覚が求められる。

球界を代表する選手たちが、試合中にガムを噛んだり、唾を吐いたりするようでは寂しい。内野の守備といえば、最近では広島の菊池涼介、ソフトバンクの今宮健太の名前が挙がることが多い。

守備のベストナインを表彰する三井ゴールデン・グラブ賞を菊池はセ・リーグの二塁手部門で、今宮はパ・リーグの遊撃手部門で何度も受賞している。

二人とも守備のセンスという部分では球界でトップクラスのものを持っている。それだけに、もったいないと感じてしまうことがある。

菊池は余裕を持ってアウトにできるような打球でも、捕ってすぐに投げたがる傾向がある。打者走者がそれほど走っていないにもかかわらず、無理な体勢で捕りにいってしまうのだ。もっと周りが見えるようになれば余裕が出るし、より良いプレーができるだろう。

今宮の場合はエラーをした際、打球を大きくはじいて進塁を許してしまうことがある。打球のバウンドに合っていなくても、全力で捕りにいってボールと衝突してしまうからだ。

打撃も課題といえる。レギュラーになってからは、シーズン打率は2013年の2割5分3厘が最高だ。

私は現役時代、古田敦也さんから「なんぼ守備がうまくても、多少打たないと名手とは言われない」と言われたことがある。

史上最年少となる25歳11カ月で通算250犠打を達成したが、バントのサインが減るぐらいバッティングも向上してほしい。

注意して見なければ気付かないような細かなしぐさにこそ、人の本質が表れる。本質は細部に宿るのは、プロ野球でも同じだ。

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