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第四話「無意識のネガティブな想念」を浄化していく技法

さて、無意識の世界を変え、「良い運気」を引き寄せるための第一の技法は、無意識の世界に存在する様々なネガティブな想念を「浄化」していく技法である。

では、それは、具体的にはどのようなものか。

その技法としては色々なものがあるが、本書では、特に重要な技法を紹介しよう。それは、日々の習慣を改め、次の「三つの習慣」を身につける技法である。

  • 第一の習慣 自然の偉大な浄化力に委ねる
  • 第二の習慣 言葉の密かな浄化力を活かす
  • 第三の習慣 和解の想念の浄化力を用いる
目次

自然には、無意識の世界を浄化する偉大な力がある

では、第一の習慣、「自然の偉大な浄化力に委ねる」とは、どのような技法か。それは、言葉にすれば、素朴な技法である。

自然の中に身を浸すこと

こう述べると、あなたは、「そんなことが、無意識を浄化するのか?」と疑問に思われるかもしれないが、実は、この効果は絶大である。

しばしば、小説や映画などでも、主人公が辛い逆境に置かれ、心身ともに疲れ果てて故郷に帰るという場面が描かれる。

そして、その故郷で、近くにある海辺に行き、その雄大な海を眺めていると、いま自分の置かれている境遇が小さなことのように思え、心が癒され、立ち直っていくという物語が、よく語られる。

たしかに、空や雲、海や湖、山や森、木々や草花、朝日や夕日、月や星など、自然の雄大さや美しさに接する瞬間、我々の心は無条件に、癒され、浄化されていく。

「大海原を眺めているだけで、心が晴れ渡っていった」「夜空の星を眺めていると、小さな悩みが消えていった」そういった心境は、多くの人々が体験していることでもあろう。

そして、あなたも、そうした体験を持っているだろう。

こうした自然の持つ「心の浄化力」は、ただ、表面的に気持ちが爽やかになり、心が洗われるようになるということだけではない。

それは、確実に、我々の無意識の世界のネガティブな想念を洗い流し、浄化してくれる力を持っている。しかし、この「自然の浄化力」に委ね、無意識の世界を浄化していくためには、一つ、大切なことがある。

それは、先ほど述べたように、自然に「身を浸す」ことである。そして、その自然と「正対する」ことである。

実は、ただ、自然の中に身を置いたり、自然を眺めていれば、無意識の世界が浄化されるわけではない。

実際、折角、素晴らしい自然の中に身を置いても、美しい自然を眺めていても、実は、その自然に「正対」しておらず、「身を浸して」いない人は、残念ながら、少なくない。

筆者は、富士五湖地域の自然の中に住んでいるが、何年か前、富士山の五合目近くで、独り、素晴らしい夕日を眺めていたときがある。

そこに、にぎやかな学生の集団がやってきて、その夕日を背景に、それぞれピースをしながら記念撮影をし、去っていった。

それは、誰の青春時代にもある、微笑ましい光景ではあるが、残念ながら、彼等は、最高の自然に「正対する」こともなければ、「身を浸す」こともなく、去っていった。

もし、我々が、本当に自然の浄化力に身を委ね、無意識の世界を浄化したいと思うならば、それが空や海、山や森、朝日や夕日、月や星など、何でも良い、独り、静かに、その自然に正対し、身を委ねることである。

そして、その自然が自分の中に浸み込んでくるイメージを心に描くことである。

そのとき、静かに、ゆっくりと、新鮮な空気を深く吸い込み、深く吐き切る呼吸法を併用することが望ましい。

もし、この技法を一つの習慣として身につけ、折に触れ、この技法を実践するならば、我々の表面意識の世界はもとより、無意識の世界も、確実に浄化されていく。

そして、ここで向き合う自然は、決して、有名な観光地の絶景の自然である必要はない。

それは、近くの公園の緑でも良い、日々目にする何気ない路傍の木々や草花であっても良い、大切なことは、その自然に虚心に向き合うことである。

この技法について、「習慣として身につけ」「折に触れ実践する」ということを述べる意味は、その点にある。

真の瞑想の状態とは、自然に「起こる」もの

ちなみに、こうした「心の浄化技法」としては、昔から、ヨガや座禅を始め様々な「瞑想」の技法が存在する。

もとより、こうした「瞑想」の技法は、それを本当に実践できるならば、心の中にあるネガティブな想念を消し、無意識の浄化を行うことはできるのだが、実は、この「瞑想」の技法は、それほど容易に実践できる技法ではない。

近年、「マインドフルネス」という言葉とともに、この「瞑想」の技法は、一つのブームとなっている感があるが、それを実践する人々の多くが、現実には、「リラクゼーション」の技法や、「内観」の技法のレベルにとどまっており、本当の意味での「瞑想」という状態に参入していける人は、決して多くない。

それは、広義の「瞑想」の一つである座禅も、そうである。

しばしば、政治家や経営者で、座禅を組むことを習慣にしている人もいるが、多くの場合、文字通りの「無念無想」の状態に入ることはなく、参禅中も、湧き上がる雑念との戦いを行うか、ときには、足の痛みに耐えながら座禅を組み続けるというレベルに終わってしまう。

では、なぜ、こうしたことが起こるのか。なぜ、「瞑想」という技法が、難しい技法なのか。その理由は、瞑想というものの本質が、正しく理解されていないからである。

瞑想とは、「行う」ものではない。瞑想とは、「起こる」ものである。

すなわち、本当の瞑想の技法とは、意図的に心を瞑想の状態に「する」のではなく、ある瞬間に、心が、ふと瞑想の状態に「なる」ことを待つ技法なのである。

逆に言えば、瞑想も座禅も、それが上手くいかない理由は、そこに「人為的な意図」があるからである。

「無念無想の状態になろう」「瞑想の状態になろう」という人為的な意図そのものが、まさに「雑念」になってしまい、「無念無想」にも、「瞑想の状態」にもなれないという逆説に陥ってしまうのである。

そして、それがゆえに、本書では、無意識を浄化する技法として、敢えて「瞑想」の技法ではなく、「自然に身を浸す」という技法を勧めている。

なぜなら、「自然に身を浸す」という技法は、実は、最も容易に瞑想的な心の状態が「起こる」技法だからである。

すなわち、我々が、自然の中に身を置き、自然に身を任せ、自然の素晴らしさに心を奪われる瞬間に、実は、「瞑想」が起こっている。

例えば、我々が、素晴らしい朝日を拝んだり、素晴らしい星空を眺めたりするとき、心の中に、「ああ、素晴らしい朝日だ!」「何て素晴らしい星空だ!」という言葉が浮かんでくる。

実は、そうした「言葉」が生まれる直前の一瞬、まさに、その一瞬に、我々の心の中に「瞑想の状態」が起こっているのである。そして、無意識の世界への扉が開かれているのである。

しかし、その直後、心の中に感動の言葉が生まれたときには、すでに、我々は、表面意識の世界に戻り、「人為の状態」「意図の状態」に戻っているのである。

この機微を理解したとき、我々は、「自然の中に身を浸す」ことによって、一瞬ではあるが、深い瞑想の状態に入ることができる。

そして、瞑想という心的状態においては、「時間」というものが消えてしまうがゆえに、そこで大切なことは、実は「瞑想の長さ」ではなく、「瞑想の深さ」であり、それゆえ、この「自然の中に身を浸す」という技法もまた、紛れもなく「瞑想の技法」に他ならない。

ただし、このことをもって、筆者は、ヨガや座禅を始めとする瞑想の技法を否定しているのではない。

それらの技法には、永い歴史の中で培われた深い思想も高度な技法も存在する。そして、それらの技法を本当に実践するならば、極めて深い意識状態に参入できることも明らかである。

だが、その実践のためには、かなりの年月の修行が必要であることも事実である。

そのため、こうした技法の表面だけを短期間実践しても、先ほど述べたように、リラクゼーション効果や内観効果が得られるだけにとどまってしまう。

浄土宗の開祖、法然の言葉を借りるならば、こうした宗教的技法には、実は、「難行道」と「易行道」の二つの道がある。

すなわち、難しい修行を通じて、極めて高い境涯に向かう道と、誰もが行ずることのできる易しい修行を通じて、少しずつ高い境涯に向かう道である。

筆者が本書で勧める「自然に身を浸す」という技法は、その意味で、「易行道」であり、誰もが比較的容易に「瞑想的状態」に入れる方法として提案し、勧めていることを述べておきたい。

日常の「何気ない言葉」が無意識に染み込んでいく

では、第二の習慣、「言葉の密かな浄化力を活かす」とは、どのような技法か。それは、一言で述べるならば、次の二つの技法である。

第一ネガティブな日常言葉を使わない

第二ポジティブな日常言葉を使うしかし、こう述べると、あなたは、当たり前のことを述べているように思われるかもしれない。実は、この技法で重要なのは、「日常言葉」の部分である。

従来の「無意識を変える方法」においては、多くの場合、ポジティブな言葉を意識的に自分自身に語りかけるという方法が提唱される。

しかし、すでに述べたように、我々が意図的に無意識の世界をポジティブにしようと考え、表面意識でポジティブな言葉を語ると、無意識の世界は「双極的な性質」を持っているため、逆に、ネガティブな想念が生まれてしまう。

では、どうすれば、無意識の世界に働きかけ、変えることができるのか。そのことを知るためには、無意識の世界の持つ、もう一つの重要な性質を理解する必要がある。それは、次の性質である。

無意識の世界には、表面意識が気がつかない形で見せられたイメージが浸透し、表面意識が気がつかない形で伝えられたメッセージが浸透していく。

すなわち、これは、第三話で述べた「サブリミナル効果」である。

「サブリミナル効果」とは、例えば、映画の映像の中に、観客も気がつかない特殊な映像のコマを潜ませることによって、観客の無意識に強力に働きかける方法として利用される心理効果であり、映像の中に「灼熱の砂漠」や「冷えたコーラ」といったコマを、観客が気がつかない密かなレベルで入れておくと、映画を観終わった後、観客は喉が渇き、コーラが飲みたくなるといった心理効果である。

この「サブリミナル効果」に象徴されるように、我々の無意識の世界には、意図的に伝えられたイメージやメッセージ、言葉よりも、何気ない形で見せられたイメージや、何気ない形で伝えられたメッセージ、さらには、何気ない形で語られた「日常言葉」の方が強く浸透していくのである。

従って、自分の無意識の世界に働きかけようと思うならば、「意識的な自己暗示」は、実は、あまり無意識の世界に浸透していかないが、「無意識的に使う日常言葉」は、恐ろしいほどに無意識の世界に浸透していくことを理解する必要がある。

そして、このことを理解するならば、従来の「無意識を変える方法」が提唱する「ポジティブな想念を、強く抱く」「ポジティブな言葉を、何度も語る」「ポジティブな言葉を書いて、繰り返し見る」「ポジティブなイメージを、心に焼き付ける」などの方法が上手くいかない理由が分かるだろう。

そして、本書において先ほど述べた二つの技法を推奨する理由が良く分かるだろう。

  • 第一ネガティブな日常言葉を使わない
  • 第二ポジティブな日常言葉を使う

そして、この二つの技法のうち、まず最初に行うべきは、何よりも、「ネガティブな日常言葉を使わない」ということである。

例えば、「駄目だ!」「無理だ!」「酷い!」「最低だ!」といった、物事を強く、感情的に否定する言葉は、日常生活において、できるだけ使うべきではない。

もとより、こうしたネガティブな言葉を日常習慣のように使う人は、表面意識では、それほどの自己破壊的な思いがあるわけではないのだが、こうした言葉が、我々の無意識の世界に浸透していくと、それがネガティブな想念となり、ときに、思わぬ形で自己破壊的なものを引き寄せてしまう。

そして、ネガティブな日常言葉には、もう一つ、理解しておくべき怖い性質がある。

他人を非難し否定する言葉は、自分に戻ってくる

それは、「主語が抜け落ちる」という性質である。

すなわち、我々が、誰かを非難し否定する言葉を、強く、感情的に語るとき、我々の無意識の世界では、その言葉の「主語」が抜け落ち、「述語」が自分に返ってくるのである。

例えば、「あいつは、駄目な奴だ!」「あの人は、絶対、失敗する!」「あんな人間は、必ず、酷いことになる!」といった誰かを厳しく非難し否定する言葉は、無意識の世界では、主語の部分が消え、「駄目な奴」「失敗する」「酷いことになる」といった述語の部分が、自分に戻ってくるのである。

これは、昔から、無意識の世界の不思議な性質と言われるものであるが、日本古来の諺にも、それを教えてくれるものがある。

それは、「人を呪わば、穴二つ」という諺である。

これは、「人を呪い殺そうとすれば、相手と自分の墓穴、二つが必要になる」という意味の諺であるが、「殺す」という極端な例でなくとも、誰かを強く恨み、恨みの言葉を心に刻むとき、その相手にも悪しきことが起こるが、同じ悪しきことが、自分にも返ってくることを戒めた言葉である。

従って、「言葉の密かな浄化力を活かす」という習慣の第一の技法は、ネガティブな日常言葉を使わないという技法である。

そして、まず何よりもこの技法を日常習慣として身につけ、実践した後に、身につけるべきは、第二の技法、ポジティブな日常言葉を使うである。

これは、ここまで語ってきた「無意識の世界の性質」を理解するならば、これ以上の説明は必要ないだろうが、ポジティブな言葉を使う理由は、「意識的な自己暗示」のためではない。

あくまでも、「無意識的な日常用語」として身につけるべきである。

そのことの意味は、この後、「三つの感」の言葉として説明するが、こうした言葉が自然に口を衝いて出るようになると、確実に、無意識の世界が浄化され、ポジティブになっていくと同時に、ポジティブな出来事や出会いを引き寄せ、「良い運気」を引き寄せ、人生そのものが大きく変わっていく。

ちなみに、我々が日常語るポジティブな言葉の持つ力については、昔から、様々な形で叡智として伝えられている。

例えば、曹洞宗の開祖、道元禅師は、著書『正法眼蔵』の中で「愛語よく廻天の力あることを学すべき」という言葉を遺しているが、これは本書の主旨に即して言えば、「ポジティブな日常言葉(愛語)には、世界を変える(廻天)力がある」という意味でもある。

また、仏教の教える「八正道」においても、「正語」(正しい言葉を語ること)の大切さが述べられている。

「三つの感」の言葉を使うと「良い運気」を引き寄せるでは、ポジティブな日常言葉を使い、無意識の世界を浄化していくためには、どのような言葉を使うべきか。

そのためには、次の「三つの感」の言葉が大切である。

  • 第一「感嘆」の言葉
  • 第二「感謝」の言葉
  • 第三「感動」の言葉

第一の「感嘆」の言葉とは、誰かの良いところを褒める言葉のことである。

ただし、この「褒める」ということについては、近年、マネジメントを効果的に行うために「褒める技術」の重要性が語られ、様々な形で「いかに褒めるか」「どのような褒め言葉を使うか」が語られているが、本書で述べる「褒める」ということは、そういう意味ではない。

「褒めることによって、相手のモチベーションを上げたり、相手との人間関係を良くする」という操作主義的な行為ではない。

昔から、この日本という国では「愛語讃嘆」という言葉が語られるが、本書で述べる「褒める」ということの意味は、この言葉の如く、相手の良いところ、素晴らしいところを感じたら、ただ、無条件に、本気で、心の底から「褒める」ということである。

すなわち、本書で述べる「感嘆の言葉」「褒める言葉」とは、あれこれの操作主義的な意図からではなく、ただ自然に感嘆の言葉が口を衝いて出ることに他ならない。

第二の「感謝」の言葉とは、心から「有り難い」と思って語る言葉である。

最も分かりやすい例が、誰か他人から親切にされたとき、心を込め、思いを込めて「有り難うございます」と語ることである。

一方、商売や営業のときに慣用句として語られる「有り難うございます」は、通常、心や思いが込められていないため、決して、我々の無意識をポジティブにしない。

しかし、もし、そうした商売や営業の場面であっても、心を込め、思いを込めて「有り難うございます」と語ることを習慣とするならば、それは確実に、我々の無意識の世界をポジティブにしていく。

また、この「感謝」の言葉を語るのは、誰かから親切を受けたときだけではない。様々な人生の出来事に対して、「有り難い」と口に出して語ることも大切なことである。

例えば、タクシーを飛ばして駅に向かい、発車間際の列車に間に合ったときなど、「有り難い!間に合った」と、心の中で言葉にして語ることも大切なことである。

また、平凡な日常の生活においても、家族が揃って食事をするとき、自然に、「こうして、家族揃って食事ができることは、有り難い」と語ることも大切な習慣である。

そして、こうした形で、人生の様々な出来事への「感謝」を習慣として続けていると、自然に、幸運に見える出来事だけでなく、不運に見える出来事に対しても、「有り難い」と語れるようになってくる。

その意味は、第五話で語ろう。

第三の「感動」の言葉とは、素晴らしい自然などに触れたとき、その感動を表現する言葉である。

例えば、「素晴らしい星空だ!」「爽やかな風だ!」「最高の夕焼けだ!」といった言葉である。

生物学者、レイチェル・カーソンの遺した言葉に「センス・オブ・ワンダー」(SenseofWonder)という有名な言葉があるが、「感動する心」とでも訳すべきこうした感覚を、我々は大切にするべきであり、それを言葉にして語ることをためらう必要はないだろう。

また、こうした「感動」の言葉は、「自然」に触れたときだけでなく、素晴らしい「芸術」や「音楽」に触れたときに語っても良いだろう。

さて、以上述べてきたように、無意識の世界を浄化していくためには、ネガティブな日常言葉を使わないことに加え、ポジティブな日常言葉を使うことが大切であるが、その一つの技法は、「感嘆」「感謝」「感動」の「三つの感」の言葉を大切にすることである。

そして、最初は、こうした言葉を、日常生活において意識的に使うようにする必要があるが、まもなく、それが「習慣」になったとき、自然に口を衝いて出るようになっていく。

そのとき、こうしたポジティブな言葉が、我々の無意識の世界に浸透するようになっていき、同時に、無意識の世界のネガティブな想念を浄化するようになっていくだろう。

なぜ、「言葉」を発するだけで、「心」が変わるのかこの「言葉」と「心」の関係を考えるとき、もう一つ、我々が理解しておくべき大切なことがある。

それは、仏教思想で語られる「身心一如」という考えである。

すなわち、我々の「心」と「身体」は、本来、一つであり、「心」が「身体」の姿勢を変えると同時に、「身体」が「心」の姿勢を変えるのである。

同様に、「言葉」を広義の「身体」と考えるならば、「心」の状態が、語る「言葉」を変えるだけでなく、語る「言葉」が「心」の状態を変えていく。

これを分かりやすく言えば、我々は、「有り難い」という心を抱くから、「有り難う」という言葉を発するが、逆に、「有り難う」という言葉を発するから、心が「有り難い」という状態になるのも、一面の真実である。

こうした仏教思想の「身心一如」という考えは、西洋においても、哲学者、モーリス・メルロー=ポンティの「身体性」という考えとして、同様のことが語られているが、仏教という宗教思想において、この「身心一如」が語られることには、明確な理由がある。

それは、宗教の一つの目的は、我々の「心の在り方」を変えることであるが、実は、「心」というものに直接に働きかけて変えることは極めて難しいからである。

そのため、多くの宗教においては、まず、日常の「所作動作」や「言葉遣い」を変えることによって、「心の在り方」を変えていくという技法が用いられるわけである。

それが、多くの宗教において「行」(行い、行為、行動)という身体的なものが重視される理由であり、「修行」が重視される理由でもある。

分かりやすい例を挙げれば、我々は、心が整った状態では、自然に背筋が伸びるが、一方で、背筋を伸ばすと、心が整うという逆の一面がある。同様に、我々は、神社仏閣において「拝む」ということをすると、自然に心が敬虔な状態になる。

それは、誰もが経験していることであろう。

ただ、この「身心一如」の理を用い、「言葉」によって「心」に働きかけようとするならば、一つ大切な心得がある。

それは、日常、何かを語るとき、「心」と「言葉」を一致させる修行をすることである。

例えば、「有り難うございます」という言葉を語るときは、心も「有り難い」という思いを抱いて語るようにすることである。

誰かを「素晴らしい」という言葉で褒めるときは、心にも「素晴らしい」という思いを抱いて語るようにすることである。

こう述べると、当たり前のことを述べていると思われるかもしれないが、実は、世の中を見渡すと、この「心」と「言葉」が一致していない人は決して少なくない。

作り笑いをしながら「有り難うございます」と言う人。「良いんですよ」と相手を許しているようで目が笑っていない人。「素晴らしいですね」と心にも無いお世辞を言う人。心とは全く逆の言葉で相手に接する「面従腹背」の人。

そうした人は、決して少なくない。

こうした「言葉」と「心」が分離した姿勢は、人間の誠実さという意味でも残念なものがあるが、そうした姿勢が日常の習慣となっている人は、ここで述べる「身心一如」の理を用い、「言葉」によって無意識の世界に働きかけようとしても、あまり上手くいかない。

逆に、日々の生活や仕事において、「言葉」と「心」を一致させる修行をしている人は、この「身心一如」の状態が強まっていくため、「日常言葉」によって無意識の世界を浄化することが容易になっていく。

ネガティブな想念の多くは「人間関係」から生まれるでは、無意識の世界を「浄化」する第三の習慣、「和解の想念の浄化力を用いる」とは、どのような技法か。

それは、生活や仕事の人間関係において、摩擦や葛藤、反目や衝突がある人と、心の中で、一人一人と和解していく技法である。では、なぜ、この技法が有効か。

実は、我々の心の中のネガティブな想念の多くが、「人間関係」での摩擦や葛藤、反目や衝突から発生しているからである。

我々は、人間であるかぎり、全く他人との接触をすることなく、独りで生きていくことはできない。

しかし、自分自身も含め、誰の心の中にも「エゴ」があり、誰もが、人間としての「未熟さ」を抱えて生きている。

そうであるかぎり、家族や親戚との人間関係、友人や知人との人間関係、仕事での人間関係を始め、様々な場面で、我々は人との摩擦や葛藤、反目や衝突といった悩ましい問題に直面する。

例えば、「最近、夫婦仲が悪い」「永年の友人と喧嘩をした」「職場の上司を好きになれない」といった問題である。

それらは、もとより、現実の生活や仕事においても様々なトラブルを引き起こすことがあるが、もし、現実の世界でトラブルを引き起こさなくとも、実は、それらの摩擦や葛藤、反目や衝突は、我々の心の中に、相手への不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪といったネガティブな想念を生み出し、様々な問題を引き起こす。

こうしたネガティブな想念が、無意識の世界において、ネガティブなものを引き寄せ、「悪い運気」を引き寄せてしまうことについては何度も述べてきたが、ここでの大きな問題は、様々な人間関係から生まれる、そうした心の中のネガティブな想念に、どう対処していくかである。

実は、このネガティブな想念に対処するには、一つの明確な方法がある。それは、「すべての人と和解する」ことである。

自分の心の中で、摩擦や葛藤、反目や衝突を感じている人、さらには、不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪を感じている人と、すべて「和解」することである。

こう述べると、あなたは驚かれるかもしれないが、それは、これらの人々すべてと直接会って、相手に謝ったり、相手を許したり、互いに和解をしたりすることではない。

それは、現実的には不可能なことであり、また、現実的にそれができるとしても、必ずしも、それをする必要はない。

では、どうするか。「心の世界」で、一人一人と和解することである。すなわち、「現実の世界」ではなく、「心の世界」で、それらの人々と和解していくのである。

そして、そのためには、次の「三つの手順」を、続けて行うことである。

心の中で「感謝」の言葉を述べ、一人一人と「和解」していく第一の手順は、「結ぼれの内観」である。

まず、「内観」とは、自分の心の中を、隅々まで静かに眺めてみることであるが、これを行うと、様々な人との人間関係の「心の結ぼれ」が見えてくる。

「心の結ぼれ」とは、摩擦や葛藤、反目や衝突をしていることによる「心のしこり」のようなものである。

言葉を換えれば、その人のことが心に浮かぶと、「どこか気持ちが引っかかる」「何か嫌な気分が残っている」「思い出すと不愉快になる」といった心の状態であるが、最初の手順は、心の世界を静かに内観し、「心の結ぼれ」や「心のしこり」を見出し、その対象となっている人を、思い浮かべることである。

第二の手順は、「感情の明確化」である。

その人を思い浮かべたら、なぜ、その人に対して、「どこか気持ちが引っかかる」「何か嫌な気分が残っている」「思い出すと不愉快になる」といった感情を抱いているのかを、深く、静かに見つめることである。

ここで「深く」という意味は、「感情の原因」を深く見つめるという意味である。

なぜ、その感情が生まれてきたのかを、深く考えるということである。

例えば、先日、ある人が自分に語った言葉が、なぜか「馬鹿にされた」ように感じ、嫌な気分になっているという場合、深く見つめると、その人が、以前、自分に示した行為が「自分を軽んじている」と感じるものであったからであることに気がつく。

このように、「どこか気持ちが引っかかる」「何か嫌な気分が残っている」「思い出すと不愉快になる」といった感情を、さらに深く見つめ、自分の心が何によって「結ぼれている」のか、「しこりが生まれている」のかを考えてみることである。

次に、「静かに」という意味は、心の中に、客観的に自分を見つめる「もう一人の自分」が現れてくるという意味である。

そう述べると、また驚かれるかもしれないが、世の中では、人物を評するのに、「彼は、自分が見えていない」や「彼女は、自分を見失っている」といった表現をする。

逆に、「彼は、自分が見えているから大丈夫だ」「彼女は、自分を見つめなおしている」といった表現も、しばしば使われる。

こうした言葉に象徴されるように、実は、我々誰の中にも、自分の姿を少し離れたところから客観的に見つめることのできる「賢明なもう一人の自分」がいるのである。

それは、誰の中にもいるのだが、自分の感情に流されやすい人は、その「もう一人の自分」が心の奥からなかなか表に現れてこない。

逆に、あまり感情に流されない冷静な人は、その「もう一人の自分」が、必要なとき、自然に表に現れてくる。

しかし、感情に流されやすい人も、自分の中に「賢明なもう一人の自分」がいることを信じ、その「もう一人の自分」の眼差しで、自分の感情を見つめようと意識するならば、ごく自然に、その「もう一人の自分」が現れてくるようになる。

第三の手順は、「相手との和解」である。

こうして、自分の心の中の「どこか気持ちが引っかかる」「何か嫌な気分が残っている」「思い出すと不愉快になる」といった「結ぼれ」や「しこり」の感情に気がつき、それを深く、静かに見つめていると、自然に、その感情の相手と心で「正対」できるようになる。

ここで「正対する」という意味は、相手に対して「斜めに構え」ないで、向き合うという意味である。

なぜなら、我々は、ある人に対してネガティブな感情を抱くと、その相手のことを「斜めに構えて」見るようになるからである。

「どうせ、あの人は…」「あの人のことだから…」「あの人は、結局…」といった偏った感覚を抱いたまま、相手を見るようになってしまうからである。

とはいえ、こう述べても、あなたは、「そうは言っても、やはり、嫌いな人のことを考えると、感情が先に立ってしまい、『正対』して見ることはできない」と思われるかもしれない。

それもまた、人情であり、筆者も、そうした気持ちは理解できる。

ただ、「正対」できないとき、一つ、やってみるべきことがある。

それは、もし、自分が相手の立場なら、どう思うか、どう感じるかという視点で二人の関係を見つめてみることである。

この視点の切り替えができると、少しだけ、相手の理屈や論理、気持ちや感情が理解できるようになり、それができたら、自然に相手に対して「正対」できるようになる。

そして、相手に対して心で「正対」できるようになると、その相手との「和解」は、あと一歩の状態になる。

では、その「あと一歩」とは何か。

どうすれば、その「一歩」を踏み出せるのか。

一言で述べよう。

なぜ、「感謝」の言葉は、心を大きく変えるのか心の中で「感謝」の言葉を述べることである。

すなわち、心の中で、その相手に対して「□□さん、有り難うございます」と語りかけることである。

こう述べると、「そんな簡単なことで…」と思われるかもしれないが、ただ、このことを行うだけで、心の中では、不思議なほど、何かが変わり始める。

しかし、この「心の中で『感謝』の言葉を述べる」という技法には、もう少し深い意味がある。

それを「三つの意味」として述べておこう。

第一は、「心の中で」ということの意味である。

これは、「相手と直接会って和解をする必要はない」という意味である。

もとより、相手と直接会って和解ができれば、素晴らしいことであるが、ここで問題にしているのは、我々の心の中に生まれてくるネガティブな想念と、その想念が、悪しきものを引き寄せ、「悪い運気」を引き寄せることである。

従って、この問題は、まず何よりも、自分自身の心の中の問題として解決していくことで良い。

自身の心の中が、ポジティブになれば、それだけで、心が引き寄せるものも大きく変わってくるからである。

そして、第二話の「集合的無意識」のところで述べたように、我々の心は深い世界で繋がっているため、こちらの心境が本当に変わると、それが不思議なほど相手にも伝わり、次に会ったとき、相手の心境も変わっているということが起こる。

「それが、必ず、絶対に起こる」ということは言えないが、筆者の体験では、かなり、しばしば、そうした不思議なことが起こる。

第二は、「感謝を述べる」ということの意味である。これは、「感謝」であって、「謝る」ことでも、「許す」ことでもない。

たしかに、「和解」ということを述べると、多くの人は、「謝る」ことや「許す」ことを考えるだろう。

もとより、現実の世界では、こうした「謝る」「許す」という形で「和解」が行われることは、しばしばある。

しかし、心の世界では、実は、「謝る」ことも、「許す」ことも、あまり正しくない。

なぜなら、「謝る」「許す」ということは、どちらかが正しく、どちらかが悪かった、という構図が生まれてしまうため、密やかにネガティブな想念が生じてしまうからである。

これに対して、「感謝」という行為は、そうした正悪や善悪の分離が生じない行為であり、ネガティブな想念が生じない行為である。

従って、真の意味での「和解」をするためには、この「感謝を述べる」ということが、「謝る」や「許す」ことよりも優れた技法となる。

第三は、「言葉を述べる」ということの意味である。

これは、「心の中で感謝する」のではなく、「心の中で感謝の言葉を述べる」という意味である。

すなわち、心が感謝の状態になっていなくとも、ただ「□□さん、有り難うございます」と感謝の言葉を述べることで良い。

なぜなら、不安や恐怖、不満や怒り、嫌悪や憎悪を感じている相手に対して、すぐに感情を抑え、心の状態を変え、「感謝する」ということは、極めて難しいことだからである。

しかし、我々は、「感情を変える」ことは容易にできないが、「言葉を述べる」ことはできる。

たとえ、心から「感謝する」ことはできなくとも、「感謝の言葉を述べる」ことはできる。

そして、先ほど述べたように、我々の「言葉」と「心」には「身心一如」の理があるがゆえに、まず「言葉」を語ると、それによって「心」の状態が変わっていく。

従って、「感謝の言葉」を語ると、不思議なほど、「心の状態」が変わっていくのである。

ただちに「感謝の心」に変わることはなくとも、心の何かが、ポジティブな方向に変わり始めるのである。

いますぐ実践できる、嫌いな人との「和解」の技法以上が、「和解の想念の浄化力を用いる」という技法の三つの手順であるが、ここで、「結ぼれの内観」「感情の明確化」「相手との和解」という三つの手順を理解されたならば、いま、あなたには、この本を読む手を休め、数分間で良いので、実践してみて頂きたい。

まず、静かに内観をしてみて頂きたい。

必ず、自分の心の中に「結ぼれ」や「しこり」を生み出している何人かの人の顔が浮かぶだろう。

それは、ときに家族かもしれない。

友人かもしれない。

職場の上司かもしれない。

いずれにしても、その一人のことを心に描き、静かに正対し、その人に対する自分の感情を深く見つめて頂きたい。

そして、その後、その感情がいかにネガティブなものであっても、ただ無条件に、心の中で「□□さん、有り難うございます」とつぶやいて頂きたい。

さらに、そのつぶやきを、何度か繰り返して頂きたい。

この技法によって、ただちに、その相手へのネガティブな想念が消えてしまうことはないだろう。

しかし、確実に、その想念が弱まっていくことを感じるだろう。

そして、自分の中の何かが「癒されていく」のを感じるだろう。

ただ、それだけである。

「和解」の技法とは、ただそれだけである。

そして、ある一人に対する「和解」ができたら、先ほどの内観で心に残った次の一人を心に描き、同様の和解の技法を実行して頂きたい。

さらに、時間が許せば、この技法を繰り返し、心の中に「結ぼれ」や「しこり」を感じる人がいなくなるまで続けることである。

時間が無ければ、この技法を何回かに分けて行うことでも良い。

ただ、それだけで、あなたの心の中の何かが変わり始めるだろう。

相手を責める気持ちが、自分の心を苦しめているさて、以上が、第三の習慣、「和解の想念の浄化力を用いる」という技法であるが、この技法は、もう一度述べるが、心の中で摩擦や葛藤、反目や衝突を感じる相手を、一人一人心に浮かべ、「有り難うございます」と感謝の言葉をつぶやき、心の中で和解していくだけの素朴な技法である。

しかし、それだけで、不思議なほど我々の心は癒されていく。

そして、我々の無意識の世界は浄化されていく。

もとより、この技法によって、現実の生活や仕事における誰かとの摩擦や葛藤、反目や衝突が、ただちに解消するわけではないだろう。

しかし、筆者の経験では、こちらの心が変わるだけで、不思議なほど、相手もそれに感応し、こちらに対する姿勢が変わることが、しばしば起こる。

それゆえ、もし、あなたが、色々な人間関係で悩まれているならば、この技法を習慣として実践することを勧めたい。

必ず、現実の人間関係でも、何かが変わり始めるだろう。

そして、もし、その現実の人間関係が変わらなくとも、あなたの心は、楽になるだろう。

なぜなら、人間関係の苦しみの多くは、実際に、相手が自分を非難したり、攻撃してくることによる苦しみではなく、実は、自分の心の中に生まれる、相手が自分を非難したり、攻撃してくることへの不安感や恐怖心の苦しみだからである。

そして、その不安感や恐怖心は、実は、こちらの心の中にある、相手への非難の思いや、攻撃的な気持ちが「鏡」のように映し出されたものに他ならない。

すなわち、自分の中の相手を責める気持ちが、自分の心を苦しめているのである。

それゆえ、この「和解」の技法によって、自分の心の中の、相手に対する非難の思いや攻撃的な気持ちが消えると、不思議なほど、心の中の不安感や恐怖心が消えていき、心が癒されていくのである。

昔から語られる格言に「感謝は、すべてを癒す」という言葉があるが、その言葉通り、この「感謝」の言葉を用いる技法は、劇的にではないが、静かに、我々の傷ついてしまった人間関係を癒していく。

そして、何よりも、我々の心を癒していく。

そして、この技法によって、傷ついた人間関係から生まれるネガティブな想念を消していったとき、自然に、我々は、「良い運気」を引き寄せている自分に気がつくだろう。

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