子どもが歩きだすとき知ること 何が世界観をつくるのか プライドが高い女性が見た幻覚 飲酒癖に溺れる男性 空想にふける子どもたち 夢は重要な手がかり 感情移入で未来を読む 犯罪集団の子ども時代 催眠術とは何か 暗示にかかりやすい人
第四章 何を子どもは空想するのか子どもが歩きだすとき知ること 環境に適応しなければならないわたしたちは、そこからいろいろな印象を受けます。
また、精神のメカニズムには、必ず目標を追うという特徴があります。
そう考えると、 1人の人間の世界観や人生を進む理想のラインは、ごく幼いころから精神のなかに生まれていることがわかります。
この世界観はぼんやりとしていて、言葉で言い表せるものではありません。
けれど、なんとなくわかるような、理解できそうな領域、不足感とは逆の領域にただよっています。
精神が働くのは、目標があるときだけです。
すでに見てきたとおり、目標を定めるには、身体が動くこと、さらに言えば、自由に動くことが前提として必要になります。
自由に動けることで大きなプラスがあることを軽視してはいけません。
はじめて立ちあがった子どもはまったく新しい世界に踏みだし、どことなく敵対的な雰囲気を感じます。
自分で立つ力のなかに、子どもは未来への希望が強まるのを感じます。
はじめて動こうとするとき、とくに歩きだそうとするとき、どのくらい難しいかは人によってさまざまで、まったく困難でない場合もあります。
わたしたち大人にとってはささいなことに思えるこうした印象や出来事は、子どもの精神生活、ひいては世界観の形成にとてつもない影響を与えます。
動くのが大変だった子どもは、一般的に、すばやい動きと結びついた理想像をかかげるようになります。
これは、子どもに好きな遊びやなりたい職業を聞くと、すぐに判明することです。
答えが馬車の御者や電車の車掌などであれば、自由に動けない困難をすべて克服して、劣等感や不利な感覚をもたない立場になりたいと切望しているのでしょう。
こうした感覚は、子どもの成長が遅かったり病気がちだったりした場合にとくに大きくなるものです。
同じようによく目にするのは、視覚に問題があって世界を十分に認識できない子どもが、目に見えるものをもっとはっきりと把握しようと努力するケースです。
聴覚が鋭敏な子どもが、好ましく聞こえる特定の音にだけ興味や理解を示して選り好みするケース、あるいは単純に、ベートーヴェンのように音楽の才能があるケースです。
子どもが環境を把握しようとするときに用いる器官のなかで、外界と密接に関係するのは感覚器官です。
感覚器官は世界観を作るのに一役買います。
なかでも特筆すべきは、外界に向きあう視覚です。
人間に押し迫り、経験の中心となるのは、主として目に見える世界です。
こうして作られる視覚による世界観は、特別に重要です。
ほかの感覚器官と異なり、視覚はつねに存在して変わらない対象を扱うからです。
耳や鼻や舌、大部分の皮膚といった感覚器官は、たいてい一時的な刺激に頼っています。
人によっては聴覚が優先されて、耳に聞こえるものを頼りにすることもあります(聴覚タイプ)。
その次に多いのが、運動に特化した運動タイプです。
嗅覚や味覚が強い場合は、また別のタイプになります。
とくに嗅覚タイプは、現在の文化のなかでは不利な状況にあると言えます。
運動器官が重要な役割を果たす子どもはたくさんいます。
一部の子どもは生まれつき活動的で、しじゅう動きまわり、成長してからも行動せずにはいられません。
筋肉を動かさなければできないことにばかり意識を向けるのです。
この行動欲求は寝ているときでさえ休まらず、ベッドのなかを転げまわる様子がよく観察されます。
こうした子どものなかには、「そわそわして落ち着きのない」子どもも含まれます。
彼らの落ち着きのなさは、たいてい欠点と見なされます。
与えられる印象や可能性から世界観を作りあげるため、目も耳も運動器官も使わずに人生に向きあう子どもはほぼいません。
わたしたちが 1人の人間を理解できるのは、その人がどの器官を使って人生にもっとも向かい合っているのかがわかった場合だけです。
なぜなら、外界との関係は器官によって意味を増し、世界観の形成と子どもののちの成長に影響を与えるからです。
何が世界観をつくるのか 精神器官の能力のなかで、世界観の形成に強く関係する特別な能力には共通点があります。
能力の選択、精度、効果が、人がかかえる目標によって左右されるのです。
これは、だれもが、人生、環境、出来事などの特定の部分だけをひときわ強く認識することを考えればわかります。
人間は目標に求められることだけを、目標が求める形で利用しているのです。
そのため、世界観を把握する場合にも、その人のひそかな目標を読みとり、その人のすべてが目標の影響を受けていると理解することが欠かせません。
(a)知覚。
感覚器官を通して外界から伝わる印象や刺激は、なんらかの痕跡を残す信号を脳に送ります。
この痕跡から、心象の世界、そして記憶の世界がつくりあげられるのです。
けれど、知覚はカメラのようなものではなく、そこには必ず人間の独自性がいくらか関わってきます。
人は目にしたものすべてを知覚することはありません。
もし同じ絵を目にした 2人になにを見たかを尋ねたら、多様な答えが返ってくるはずです。
つまり、子どもが環境から知覚するのは、これまでに作ってきた独自性に適合すると思えるものだけなのです。
ですから、見たいという意欲の強い子どもの知覚は、おもに視覚的になります。
これは一番多い例です。
おもに聴覚で世界観を作る子どももいます。
すでにふれたとおり、こうした知覚は現実とそのまま同じではありません。
人間は外界との接触を、独自性の要求に合わせて作りかえることができます。
なにを知覚するか、どう知覚するかに、その人の独自性があるのです。
知覚はただの物理的な事象に収まらない精神の機能です。
人がなにをどのように知覚するか、その方法や状況を見れば、内面を深く読みとることができます。
(b)記憶。
ここまでで、生まれつき備わった精神器官の成長には、行動の必要性と知覚の実態が関係していることが確かめられました。
とにかく目標へ向かう傾向のある精神器官は、身体の運動能力と密接に結びついています。
人間は外界とのあらゆる関係を精神器官のなかでまとめて整理しなければなりません。
このとき精神器官は、適応の器官として、個人の安全確保に必要な能力、自分の存在に関わる能力を育てていくことになります。
ここでわかるのは、人生の課題に対して精神器官が返す独自の答えが、精神の成長に跡を残すということ、そして、適応していく流れによって記憶や価値判断の機能も作られるということです。
人間は記憶があるからこそ、将来への準備ができます。
すべての記憶は(無意識の)最終目標をかかえていて、わたしたちのなかにただ存在するのではなく、わたしたちに警告したり励ましたりします。
隠された意図のない記憶はありません。
記憶の意味は、その根底にある最終目標がわかったときにだけ判断できます。
重要なのは、どうして特定の出来事は覚えていて、ほかのことは覚えていないかという点です。
わたしたちは精神が進む方向を維持するために重要で有用な出来事を覚えています。
同じように、方向を維持するには忘れたほうがよいことを忘れています。
つまり記憶も、ぼんやりと浮かぶ目標にうまく適応するために働いているのです。
残っている記憶というのは、間違っていたり、子ども時代のたいていの例のように偏った判断がされていたりすることがありますが、求める目標に必要であれば、やはり意識の領域から消えて、態度や感情、ものの考え方のなかに引き継がれます。
(c)想像。
想像のなかには、人間の独自性がさらにはっきりと表れます。
想像というのは、対象が目の前にない状態で知覚を再現することです。
つまり想像とは、単に思考のなかで呼び起こされて再現された知覚なのです。
ここからも、精神器官がどれだけのものを作りあげるかがわかります。
過去に経験した知覚が、精神のこの創作力に影響を受けて再現されるのではありません。
人間の想像は、その人が独自に作りあげた新しい固有の作品なのです。
想像には、並外れて鮮明で、まるで知覚のように思えるものがあります。
想像などではなくて、自分を動揺させる、あるはずのない対象が本当に存在しているように鮮明に浮かんでくるのです。
このような、まるで実際に存在する対象から生まれたかのような想像を幻覚と言います。
幻覚が作られる条件は、すでに述べてきた状況と同じです。
幻覚も精神器官の創作力の結果であり、個人の目標や目的に応じて作られています。
例をあげるとわかりやすいでしょう。
プライドが高い女性が見た幻覚 両親の反対を押しきって結婚した若く知的な女性がいました。
両親の反感はとても強く、親子の関係は断ち切られていました。
時間とともに、女性は両親の仕打ちはおかしいと思うようになります。
何度も和解が試みられたものの、双方のプライドと強情のせいでうまくいきません。
名家に生まれた女性は、結婚したことで貧しい暮らしに追い込まれていました。
しかし、身分違いの結婚を表面的に観察してもなにもわかりません。
もし奇妙な出来事が続かなければ、人は彼女の状況をとくにおかしいとは思わなかったでしょう。
女性は父親のお気に入りとして育ちました。
2人の関係は、どうしてこんな断絶にいたったのかと思われるほど密接でした。
結婚の際の父親の対応はあまりにもひどく、 2人は完全に決裂しています。
子どもができたときでさえ、両親が会いに来たり、娘との距離を縮めたりすることはありませんでした。
野心の強い女性は、明らかに自分が正しいのにと思い、不当な扱いに傷ついて、両親の態度に耐えられませんでした。
女性の気分が野心の影響を完全に受けていることを見逃してはいけません。
そういう性格だったからこそ、彼女は両親との衝突に耐えられなかったのです。
母親は厳格できちんとした人で、たしかに優れた人ではありましたが、娘に厳しく接しました。
女性は少なくとも表面的には夫に従っていましたが、自分の格を下げることはありませんでした。
夫に従う行為も、ある種の誇りをもって強調し、自ら称賛していました。
弟が生まれ、名家の男児、跡とりとして女性よりも高く評価されるようになったとき、彼女の野心はいっそう刺激されました。
結婚によってそれまで経験したことのない困難や苦境におちいったために、彼女の不満はますますつのり、両親を不当だと考えるようになったのです。
ある夜、女性がまだ寝入っていないときに、こんなことがありました。
ドアが開き、聖母マリアが近寄ってきて言ったのです。
「あなたのことをとても気に入っているので教えますが、あなたは 12月半ばに死にます。
準備をしておいてください」。
女性はこの出来事に驚きはしませんでしたが、夫を起こしてすべて話しました。
次の日には医者に診てもらいました。
幻覚と診断されました。
女性は、自分はちゃんと見て聞いたと言い張ります。
これはちょっと聞いただけでは理解できないことです。
けれど、わたしたちの示す手がかりがあれば、ある程度は解明できます。
両親と衝突し、女性は苦境におちいっています。
彼女は野心が強く、調べてわかったように、だれよりも優れていることを望む傾向があります。
与えられた領域を越えようとして、神に近づき、神と対話するのは理解できることです。
祈りをささげる人の場合のように、聖母マリアは想像のなかにだけいると考えてみましょう。
だれも特別なことだとは思わないはずです。
女性はそれでは満足せず、もっと強い根拠を必要としているのです。
精神がこうした芸当をやってのけると理解すれば、女性の身に起きたことはまったく不思議でなくなります。
夢を見る人も似た状況にないでしょうか。
違いは、この女性が起きたまま夢を見られるということだけです。
彼女の野心が、誇りを傷つけられたという感情でひどく張りつめていたことも考慮する必要があります。
さて、ここで目を引くのは、彼女のところに来たのがもう 1人の母親、それも、大衆から情け深いとされている母親だということです。
2人の母親はかなり対照的な関係にあると言えます。
実の母親が来なかったから、聖母マリアが登場したのです。
これは、実の母親の愛情が足りないことを示しています。
どうすれば両親に非があるとわからせることができるか、女性が最善の道を探っていることは明らかです。
12月半ばというのも意味のない数字ではありません。
この時期は、人々の人生でより密接な関係が作られるときであり、人がたいてい優しくなり、贈り物をしあったりして和解しやすくなるときなのです。
そう考えると、 12月半ばという期限が、女性の人生の課題とかなり関係していることが理解できます。
ただ、まだよくわからないのは、聖母マリアが優しく歩み寄ってくる一方で、近いうちの死の予告という不穏な要素がともなうことです。
女性がまるでうれしそうに夫に報告している状況には、なにか意味があるはずです。
実際、死の予言は家族以外にも伝えられ、次の日には医者も知るところになっています。
こうなると、実の母親の訪問はすぐにかなえられました。
けれどその数日後、聖母マリアがふたたび現れ、同じ予言を伝えます。
母親との再会について聞かれた女性は、母は自分が間違っていたことを認めようとしないと話しました。
先ほどからの主題が再登場しています。
母親に対する優越という目標が達成されていないことが、やはり問題になっています。
ここで両親に事情を伝える努力がなされ、父親との再会が華々しく行われました。
感動的な再会でした。
けれど、女性はまだ満足しません。
父親の様子がなんだか芝居がかっていたと言うのです。
そして、なぜこんなに待たせたのかと迫りました。
間違えているのは他者で、自分は勝者だと思う傾向が続いていたのです。
この女性の例を見ると、幻覚は、精神がもっとも緊張している瞬間、目標の達成が危ぶまれる状況で現れると言えます。
こうした幻覚には、過去、古い考えの人が暮らす地域で大きな影響力があったはずです(おそらくいまも)。
旅行者の手記に見られる幻覚には、困難におちいって、空腹、のどの渇き、疲れに苦しんだり道に迷ったりしたときに、砂漠を進む人に遭遇するというものがあります。
強い苦しみの緊張があることでその人の調整力が働き、完全に明瞭な形で、現在の抑圧された状況を元気の出る状況に移しかえようとするのです。
慰めの感じられる状況は、疲れた人を元気づけ、迷う人に力を与えます。
人を強くしたり、弱りにくくしたり、香油や麻酔のように作用したりします。
ここまで検討してきたわたしたちにとって、幻覚はとくに目新しい現象ではありません。
すでに知覚、記憶、想像の働きで似たような例を見ていますし、これから扱う夢でも目にすることになるでしょう。
想像そのものを強めて自分や他者からの批判を追い払えば、幻覚のような働きは簡単に得られます。
特殊な状況が、つねに感情を誘発することを頭に入れておきましょう。
幻覚の働きは、人が苦境におちいって、自分の力がおびやかされているという印象を得たときに生じるものであり、自分が弱いと感じたために弱さを克服しようとする人に生じるものです。
こうした状況の緊張が非常に大きければ、他者からの批判などもうさほど考慮されません。
すると、「自力でなんとか切り抜ける」という原則に従って、精神器官が全力で描いた想像が、幻覚という形に変わっていくのです。
幻覚と似たものに、錯覚があります。
幻覚との違いは、外部とのつながりが残っていることです。
ただし、ゲーテの『魔王』などのように、おかしな間違われ方をしていたりします。
精神的な苦境という基本は同じです。
次の例を見れば、苦境にある精神器官の創作力が、どのように幻覚や錯覚を生むかがわかるでしょう。
飲酒癖に溺れる男性 男性は名家の出身でした。
教育がわるかったために仕事がうまくいかず、下級の事務職についていました。
この先名声を得るという望みは、すでにすっかり捨てていました。
絶望が重くのしかかり、さらに周囲からは非難され、精神の緊張はいっそう高まりました。
この状態で、男性は飲酒にふけります。
飲酒によって、自分の状況を忘れることも、言い訳することもできました。
そしてすぐにせん妄状態になって入院しました。
せん妄は幻覚と本質的に似ています。
飲酒時のせん妄でよくある幻覚として知られているのが、ネズミや黒い動物が見えるというものです。
ほかにも、患者の職業と関係した幻覚もあります。
この患者がかかった医者は、強くアルコールに反対し、厳しく禁酒を指示しました。
男性はアルコール依存から完全に抜けだし、退院してから 3年、酒を飲みませんでした。
ところが、別の症状でまた入院することになります。
仕事をしていると(このときは土木作業員でした)、いつもにやにや笑いながらからかってくる男が見えると言うのです。
ある日、ひどく強い怒りを感じた男性は、工具を手にとると、これが本当のことなのか確かめようと男に投げつけました。
相手は身をかわし、飛びかかって殴ってきました。
これは幽霊だとか幻覚だとかいう話ではありません。
相手は本物の拳をもっていたからです。
この説明は簡単です。
いつもは幻覚を見ていたのですが、確かめようとしたときは本物の人間だったのです。
退院してアルコールから解放されたのに、男性が悪化していたことが判明しました。
彼は職を失い、家を追いだされ、土木作業で生計を立てていましたが、彼も家族も、この仕事を身分の低い職だと思っています。
彼がかかえていた精神の緊張は消えていませんでした。
酒をやめられたことは大きな利点ではあったのですが、慰めを失ってもいたのです。
最初の仕事は、飲酒にふけることでこなせていました。
どうせ成功しないという家での非難が強くなると、無能と言われるよりもアルコール依存を指摘されるほうがましに思えました。
退院してからは、ふたたび現実に直面します。
以前よりもつらく重苦しい状況でした。
またうまくいかなかった場合に、アルコールの言い訳さえなかったのです。
こうした精神の苦境では、やはり幻覚が現れます。
男性は以前の状況に戻ったようにふるまって、まるでまだ酒を飲んでいるかのように物事を見ました。
そうやって、自分の一生は飲酒で害された、もうよくなることはないと訴えていたのです。
病気になれば、自分で決心することなく、あまり尊敬されない新しい仕事、彼にとって忌まわしい仕事からの解放を願うことができました。
その結果、幻覚の症状がしばらく続き、対処が必要になってふたたび入院しました。
入院した男性は、飲酒という不幸に襲われていなければ、もっといろいろなことができたのにと、自分を慰めるように言えます。
それによって、自分に価値があるという感覚をもちつづけることができます。
この感覚を失わないこと、もし不幸に見舞われていなければ、もっと偉大な成果を出せたのにと信じつづけることは、彼にとって仕事そのものよりもずっと大事でした。
自分の力のイメージを作りあげて、他者のほうが優れているのではなく、とり除けない困難に邪魔されていると言うことができました。
慰めの言い訳を探す気持ちのなかで、まるで救いのように、にやにや笑う男の幻影が生まれたのです。
空想にふける子どもたち 精神器官のもう1つの芸術的作品は空想です。
空想の痕跡は、これまでにとりあげたすべての現象に見つかります。
特定の記憶を前面に押しだしたり、イメージを作りあげたりする精神の働きと似ています。
空想の主要部分を作るのも、動くことのできる有機体に必ず備わる予見の機能です。
空想も身体が動くことと関係していますし、空想そのものがまさに予見の1つの形です。
子どもや大人の空想(白昼夢とも呼ばれます)で、実現できない計画が浮かぶ場合、決まってそれは人が向かう未来についての想像であり、その人なりの方法で予見しながら想像を作りあげようとしています。
子どもの空想を調べると、自分の力をどうとらえるかが重要な要素であること、そこには必ず野心という目標が反映していることがわかります。
ほとんどの空想は「いつか大きくなったら」などの言葉で始まります。
いつまでも「大きくなったら」と思っているような態度の大人もいます。
こうしてはっきり現れる自分の力のイメージを見ても、精神生活が成長できるのは、まず目標があるときだけだということがわかります。
人間の文化におけるこの目標は、認められるという目標です。
この目標が無難に収まることはありません。
人間の共生には他者との比較がつきまとい、優越への切望、そして競争に勝ちたい欲求が生じるからです。
だからこそ、子どもの空想に見られる予見の形は、自分の力の想像という形をとるのです。
このように幅広い想像や空想に対して、ルールを見つけることはできません。
別の言葉で言うと、一般化という過ちを犯してはいけないのです。
ここまで伝えてきたことは多くのケースに当てはまりますが、個々のケースではまた別の性質もあると見なければなりません。
当然ながら、敵対的な目で人生を見る子どものほうが強く空想を育てます。
すると、ほかの子どもよりも用心して緊張するようになります。
人生で何度もひどい目に遭う弱々しい子どもは、空想を強め、空想にふける傾向があります。
その結果、空想を利用して現実の人生から抜けだそうとする成長段階が生まれることがよくあります。
まるで現実の人生を非難するために空想を使っているように見えるのです。
その場合の空想は、人生は下劣だと見下した人間が、自分の力に有頂天になっている内容になります。
空想で確かめられるのは、力のイメージだけではありません。
共同体感覚も大きな役割を演じています。
子どもの空想は、単に彼らの力が示されるのではなく、なにかしら他者のために力が使われるような内容でもあるのです。
たとえば、子どもが騎士になったり、だれかを助けたり、人間に害をなすモンスターを打ち負かしたりするといった空想です。
よく見られる空想は、自分が自分の育った家の子どもではないというものです。
多くの子どもが、本当は別の家の子どもで、いつか真実が明らかになって、実の父親(決まって身分の高い人物です)が迎えに来てくれると考えます。
これはたいてい、劣等感の強い子ども、不自由な環境におかれて冷遇されている子ども、または周囲の愛情に満足していない子どもに起こります。
多くの場合、こうした誇大妄想は子どもの外面的な態度に現れます。
子どもはもう大人のようにふるまうのです。
病的とも言える空想の逸脱は、たとえば、子どもが山高帽や葉巻のパイプに執着する様子や、女児が男児になろうとする様子に見つかります。
男児のような態度や服装を好む女児はたくさんいます。
あまりに空想しないと言われる子どももいます。
これは明らかに的外れな推論です。
こうした子どもは空想を口にしていないか、空想が現れないように闘う別の理由があるのです。
あるいは、自分は強いと感じているのかもしれません。
現実に適応しようと懸命に努力する子どもは、空想を男らしくない、子どもっぽいと思って拒絶します。
この拒絶が行きすぎて、空想することがほぼ完全にないように見えるケースがあります。
夢は重要な手がかり すでにふれた白昼夢のほかにも、幼いころから現れ、大きな効力を示して展開する現象があります。
眠っているときに見る夢です。
一般的に、睡眠中の夢にも、白昼夢と同じ夢想という手段が見つかります。
経験を積んだ昔の心理学者たちは、夢から人間の性格が容易に読みとれることを指摘しています。
実際、人間はいつの時代にも夢のことをいろいろと考えてきました。
白昼夢には将来を予測しようとする意識がともないます。
人間が未来へ続く道を開き、確実に進もうとしているときに、白昼夢は現れます。
睡眠中の夢も同じです。
明らかな違いは、白昼夢がかろうじて理解できるのに対し、夢はほとんど理解できないという点です。
この理解のできなさは、とくに夢の奇妙なところであり、人はすぐに、だから夢は不要なのだと考えようとします。
ここでは、未来をしっかりつかみ、直面する課題を克服しようとする人間の力のイメージが、夢にも示されるということだけを指摘しておきます。
精神生活を観察するとき、夢は重要な手がかりを与えてくれます。
それについてはあとでまた述べます。
感情移入で未来を読む 動くことのできる有機体は、未来の課題にいつも直面しているので、先を予測する機能を必ず備えています。
この機能に関して精神器官を助けているのは、現実に起こることを感じ、さらに未来に起こるだろうことを感じて読みとる能力です。
このプロセスを「感情移入」と呼びます。
人間はこの能力が非常に発達しています。
広く力を及ぼすので、精神生活のあらゆるところで見つかります。
感情移入が働くには、やはり未来の予測が必要です。
課題に直面したらどうふるまうかを想像して考える必要がある場合、まだ定まっていない状況から生まれるはずの気持ちについてはっきり判断しないといけないからです。
これから体験する状況への思考、感情、感覚をまとめてはじめて、一点を目指して力を入れるのか、ひどく用心して回避するのかという立脚点が得られます。
感情移入はだれかと話すだけでも行われます。
人と接触するときに相手の状況に同調しないことはあり得ません。
とくに芸術的な形で現れるのが、演劇を見るときの感情移入です。
ほかにも、他者が危険な状況にあると気づいたときに、独特な感情に襲われることがあります。
この場合の感情移入はときとして非常に強く、自分に危険はなくても反射的に防御の行動をとります。
また、だれかがグラスを落としたときなどに、それを見た人が手を引っ込める動作をすることも知られています。
ボウリングのときに、プレーヤーがボールの動きを手伝おうとするように動く様子、ボールのコースに影響を与えるように全身でコースを示す様子はよく見られます。
ビルの高層階で窓ふきをする人や、スピーチの途中で言葉が出なくなってしまった人を見たときに生じる感情も感情移入によるものです。
演劇を見るときに、共感したり、さまざまな役を心のなかで演じたりすることはほぼ避けられません。
つまり、わたしたちの体験はすべて、感情移入と密接に結びついているのです。
自分を他者のように感じるこの能力がどこから来ているのかと考えると、生まれつき備わっている共同体感覚に行きつきます。
これはそもそも壮大な宇宙的な感覚です。
わたしたちのなかにある宇宙的なものすべてがつながって反映しています。
わたしたちは宇宙的な要素から逃れることはできませんし、そこから自分の身体の外にある物事に感情移入する能力を得ているのです。
共同体感覚がどのくらいあるかが人によって異なるように、感情移入の度合いも人によってさまざまです。
どちらの様子も、もう子ども時代には観察されます。
人形を生きているように扱う子どももいれば、中身がどうなっているのか調べることだけに関心があるような子どももいます。
周囲の人と関係を作らず、命のないものやあまり価値のないものに向きあっていると、人間の成長が完全に失敗してしまうことまであります。
子どもによく見られる動物虐待は、ほかの存在への感情移入がまったく欠けていると考えればあり得ることです。
その場合、子どもは、共生の発展には意味のないことに興味をもち、他者の利害はまるで無視して、自分のことばかり考えるようになります。
こうした現象はすべて、感情移入の成長度が低いことと関連しています。
感情移入が欠けていると、最終的には、他者との協力をまったく受けつけなくなります。
犯罪集団の子ども時代 他者に働きかけることがどうしてできるのかという問いに対して、個人心理学では、やはり人と人とのつながりが答えになります。
わたしたちの人生は、相互の働きかけが可能であるということを前提として進んでいます。
これは、教師と生徒、親と子ども、男と女といった関係でとくにはっきり見られます。
共同体感覚の影響を受けて、ある程度までは他者からの働きかけに対して折り合いがつけられます。
けれど、どのくらいの影響を受けるかは、影響を受ける側の権利がどこまで守られているかで変わってきます。
不当に扱われている人がずっと感化され続けることはありません。
もっともよい形で働きかける
働きかけることができるのは、自分の権利は守られていると相手が感じているときです。
これはとくに教育の面で重要な観点です。
別の形の教育を提案したり実行したりすることはできますが、この観点で行う教育が効果的なのは、もっとも根源的なもの、つまり他者と結びつく感覚を含んでいるからです。
ただしこの教育は、社会の影響から意図的に逃れようとする人に対してはうまくいきません。
こうした人は簡単に逃げたわけではなく、ずっと闘ってきたと考えられます。
闘いの過程でだんだんと周囲とのつながりをなくし、共同体感覚と完全に対立するようになったのです。
こうなると、どのような働きかけも難しいか不可能で、どう働きかけても抵抗が返ってくるだけになります(反抗心)。
ですから、何かしら周囲に抑圧されていると感じている子どもについては、教育者の働きかけに応じる能力や傾向があまりないと予測できます。
たしかに、外部からの抑圧が強くてあらゆる抵抗が無視され、働きかけが受け入れられているように見えるケースもたくさんあります。
けれど、この服従に価値がないことはすぐにわかります。
この服従は大きく育ちます。
ときには、一生なにもできないようなグロテスクな形で現れることもあります(盲目的な服従)。
その結果、必要な行動や手順を命じられることを待ってばかりいる人間になるのです。
強い服従がどれほど危険なのかは、こうした子どもがどのような大人になるかを見ればわかります。
自分を支配する相手に従い、命じられれば犯罪にまで手を染めることが多いのです。
彼らはいつも実行役として動くので、とくに犯罪集団で物騒な存在になっていきます。
反対に、集団のリーダーはたいてい自分では動きません。
ある集団では、目立った犯罪のほとんどが、このタイプである 1人の人間によって実行されていました。
こうした人は信じられないほど徹底した服従を示し、服従によって野心が満たされるとすら感じるのです。
催眠術とは何か 通常の感化に限って話を進めるならば、もっとも感化されやすく、また、意思が通わせられて予測しやすいのは、共同体感覚が弱まっていない人だと言えます。
反対に、もっとも感化されにくいのは、上昇志向や優越を願う思いが非常に強い人です。
これは日々の観察からわかります。
親が子どものことで嘆く場合、盲目的な服従が原因となることはまずありません。
言うことを聞かないと嘆くのです。
こうした子どもを調べると、彼らは周囲を超えることを目指し、機会を見つけては自分の小さな人生の決まりを破っています。
誤った扱いを受けたせいで、教育で指導できない状態になっているのです。
力を猛烈に求める状態は、教育できない状態と言えます。
ところが、わたしたちが家庭で行う教育は、たいてい、子どもの野心をひどく刺激し、誇大妄想を呼びさますものです。
これは、わたしたちの考えが足りないからではなく、わたしたちの文化に誇大妄想の傾向があり、子どもたちを刺激しているからです。
こうして、わたしたちの文化と同じように、家庭のなかでも、個人が特別な輝きをもって人生を送り、どうにかして他者を超えることが重視されます。
虚栄心についての章では、野心をうながすこの教育法がどれほど不適切か、どのような困難が起きて精神生活の成長がうまくいかなくなるのかを、くわしくとりあげます。
絶対の服従という傾向があるために、周囲の要求を広く受け入れる人と似たような状況にあるのが、催眠の被験者です。
言われたとおりに動き、求められたことを一時的にこなすだけの状態です。
催眠では、この状態を作ります。
ここで言っておかなければならないのは、人が催眠にかかりたいと言ったり思ったりしても、服従に対する精神的な準備ができていない場合があるということです。
強く抵抗しながらも、内面では服従の準備ができている人もいます。
催眠で重要なのは、被験者の精神的な態度だけで、口に出される言葉や考えは関係ありません。
この事実を見誤ったせいで大きな混乱が生じてしまっています。
というのも、催眠の対象になる人は、抵抗するように見えても、催眠術者の要求に従う傾向のある人が多いのです。
催眠を受け入れる程度は人によってさまざまなため、結果もそれぞれで異なってきます。
けれども、催眠を受け入れる程度が催眠術者の意志によって左右されることはありません。
あくまで被験者の精神的な態度によって決まるのです。
催眠の本質は、一種の睡眠状態です。
催眠がミステリアスなのは、睡眠状態をまず作りあげる必要があって、他者の指示で睡眠状態になるためです。
指示は、それを受け入れる準備のある人を対象にしたときに、効果を発揮します。
ここで肝心なのは、すでに述べたとおり、被験者がどのような人なのかということです。
他者の影響を無批判に受け入れるような人であれば、特殊な睡眠状態を引き起こすことができます。
この眠りは自然な眠り以上に運動能力を締めだし、催眠術者が運動中枢に指示を出すことも可能にします。
通常の眠りと変わらないのは、一種の半睡状態の部分だけで、これによって被験者は術者の指示のとおりに催眠中の出来事を記憶に残すことができます。
催眠でもっとも締めだされるのは、わたしたちの文化にとってとくに重要な能力、つまり批判力です。
こうして被験者は術者の手となり器官となって、術者の指示に従って動くのです。
他者に働きかける人間のほとんどは、その能力を(そもそも働きかける機会があることも)自分の神秘的な雰囲気や特別な力によるものだと言います。
この考えは、催眠術者やテレパシー能力者によるひどいいたずら、逸脱行為、なかでも不快な行きすぎを招きます。
こうした人については、悪行を止めるためにはどんな手段を使ってもいいと思われるくらい人間の尊厳を傷つけていると言わざるを得ません。
彼らのしていることが詐欺だと言っているわけではありません。
そうではなくて、人間という生き物には服従する傾向があって、強気な態度で接してくる人の犠牲になることがあるのです。
なぜなら、多くの人は漫然と日々を過ごし、確かめもせず服従し、権威をたたえ、はったりにごまかされて引き込まれ、無批判に従うような雰囲気に浸ってきているからです。
こうした行為が人間の共生に秩序をもたらしたことなどなく、服従させられた人たちがあとになってから反抗するという事態がくりかえされてきました。
長く続く成果を実験で残せたテレパシー能力者や催眠術者はいません。
被験者が単に「話を合わせた」ケースもたくさんあります。
自分の力を被験者に働かせようとした学界の重鎮も経験することです。
被験者がだまし、だまされる存在となるケースもあります。
部分的にだまし、部分的に服従するのです。
けれど、ここで働いているように見える力は、術者の力ではなく、服従したい被験者の傾向です。
被験者に作用する魔法の力でもなく、せいぜいのところ、はったりを言う術者の技でしょう。
自分ですべて考え、決断をすぐに他者に任せずに生きてきた人であれば、当然、催眠にかかることはなく、テレパシーという奇妙な現象が起こることもありません。
こうした現象はすべて、盲目的な服従から起こる現象でしかないのです。
暗示にかかりやすい人 催眠と関連して、暗示にもふれなければなりません。
暗示の本質を理解するには、広い意味で印象の一部だと考える必要があります。
人間がただ印象を受けとるのでなく、つねに印象から影響を受けていることは言うまでもないことです。
印象を受けるというのはささいなことではなく、その影響はずっと続きます。
印象に他者からの要求が含まれ、説得の要素があるときに、暗示と言うことができます。
このとき、暗示として作用する見解が変化したり強まったりして、暗示の受け手に明確に現れてきます。
問題がやや難しくなるのは、外部からの印象に人間がさまざまな形で反応するためです。
暗示が作用するかどうかも、その人がどのくらい自主的に生きているかということに関係しています。
ここでとくに注目すべきは2つのタイプです。
1つのタイプは、他者の意見を過信しがちで、自分の考えが正しいか間違っているかはあまり重視しません。
他者の重要性を過剰に評価するので、簡単に人の意見に合わせます。
覚醒状態での暗示や催眠にとてもかかりやすいタイプです。
もう1つのタイプは、外部から来るものはすべて侮辱のように受けとり、自分の意見だけが正しいと考えます。
他者がもたらすものは正しいか正しくないかも考えずにはねのけます。
どちらのタイプも、自分を弱いと思う感覚をかかえています。
2つ目のタイプにおけるこの感覚は、他の人からなにかを受けとれないというものです。
わたしたちがよく目にするのは、すぐに人と衝突しながらも、自分では他者の暗示にかかりやすいのではないかと思っているような人です。
けれど、彼らは暗示にかからないようにするためにあえてそう思っているだけなので、対処が難しいのです。
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