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第四章 「努力ができる」のは人間である証し

第四章 「努力ができる」のは人間である証し

●仕事がうまくいく人の特徴 ●運・不運は何で決まるのか ●的はずれな努力は意味がない ●「禍福は糾える縄のごとし」 ●日本人には笑いが足りない ●笑いの効用を知る ●「こだわり」は持たないほうがいい ●なぜ夢を持てない若者が増えたのか ●悲観的に考えて楽観的に行動する ●楽なほうを選ぶな

仕事がうまくいく人の特徴「あの人はいつも運がいいな」と周囲から思われている人がいます。

努力もそれなりにしているが、それ以上に運に恵まれている。

このような人は何ゆえにそうなるのでしょうか。

運というと、どこか神がかり的で偶然の要素が高いものというイメージがあります。

たしかに高額の宝くじに当たったりするような類いの運は偶然といえるでしょう。

その一方で、長い目で見ると因果応報といわれるように、しかるべき努力や準備をしてきたからこそ恵まれる必然の運というものがあります。

われわれは運がよかった、悪かったなどといっているたいがいのことは、実はこの必然的な運だと思います。

結局、真っ当な努力を続け、しかるべき準備をした上で行動すれば、それなりのものはちゃんと返ってくるものです。

努力の過程が見えていない外の人からすれば、あの人は運がいいという評価になったりするのでしょう。

仕事が継続してうまくいっている人は、見えないところでさまざまな努力をしていることが多いはずです。

それなりの目標を持ち、それを達成するための努力や工夫を一生懸命にする。

わからないことがあれば熱心に勉強をし、会社や取引先を説得し、実現に向けるのに足る十分な情熱と行動力を持つ。

そうした努力もしないで、人が幸運に恵まれ、いい成果を上げ、周囲から継続して高く評価されるなどということはめったにありません。

仕事では新規の事業を立ち上げたりするとき、そのプロジェクトが成功するかどうかは誰にもわからないことで、偶然の要素が大きく左右すると思う人もいます。

しかし、偶然の要素を減らし、成功の確率を高めるには、市場を研究調査して分析するという努力が必要です。

つまり、何か予測に基づいて行動をするときも、それがうまくいくかどうかは、そこに至る過程における努力が大きくものをいうのです。

もし、しょっちゅう予測が外れ、仕事の失敗が多いという人がいれば、それは予測するために必要な作業努力を怠っているからに他なりません。

恥ずかしい話ですが、 45年ほど前のアメリカ駐在時代、食料部門にいた私は穀物相場を読み外し、 500万ドル近くの損失を出したことがありました。

500万ドルといえば、当時の円に換算すると約 15億円。

会社の税引き後利益に匹敵するほどの金額でした。

予測を大きく外した原因はニューヨークタイムズの一面に大きく載った「今年は深刻な干ばつになる」という予測記事を鵜吞みにしたことです。

穀物が芽を出さず広大なひび割れ地となっている写真付きの記事を見た私は瞬間、「干ばつが続いて、大豆相場はとんでもなく高騰するぞ」と直感し、大豆をどんどん買い集めました。

ところが、日照り続きだった天候がやがて一転、慈雨が続き、米国農務省が豊作の予報を出したのです。

それに反応した相場はたちまち大暴落してしまったのです。

損失額のあまりの大きさに、私は退職願を出そうと本気で考えました。

そのとき、私が尊敬していた本社の上司が「一切隠し事はするな。

お前がクビになるなら俺が先にクビになる」と熱く説いてくれたのです。

この上司の言葉で吹っ切れた私は、本社に事の経緯を正直に報告し、含み損をどうすれば少しでも挽回できるか考え始めました。

そのときに思ったのは、どれほど権威のある新聞でも記事が信用できるとは限らないということです。

穀物相場に関する情報なら、まずは現地に足を運んで自分の目でたしかめなければいけませんが、記者は実際そうしたのか。

いずれにせよ、新聞記事になっている段階では衆目にさらされた手垢の付いた二次情報です。

そんなものを鵜吞みにしてしまった自分の未熟さ、迂闊さを深く恥じました。

ニューヨーク駐在に赴く際、会社の幹部役員であった瀬島龍三さんから、「すべては現場に宿る。

もし問題が起こったら、お金など気にせず、すぐ飛行機に乗って現地へ行きなさい。

それで会社から文句をいわれるなら私にいいなさい」というアドバイスをいただいていました。

瀬島さんがいうように「現場にはすべてがある」のです。

他の誰よりも早く貴重な一次情報をいかに集めるかが、穀物相場を正確に先読みする大事な鍵となると考えた私は、自ら運転して産地に足繁く通い始めました。

さらに気象庁の情報だけでなく 45年以上前、すでに動き始めていた民間の天気予報会社とも契約し、可能な限りの精度の高い情報を収集し、分析に努めました。

そんな努力を続けているうちに、その年の秋に大寒波がくるだろうという確度の高い情報を得、損切りすることなく、多くの批難に耐えぬきました。

そして秋になり実際に大寒波がやってきて、相場は急騰、これまでの含み損を一掃して儲けを出すことができたのです。

その翌年、ニューヨークタイムズは、今度は「小麦地帯が大干ばつに襲われる」と報じました。

しかし、現地を見るまでは信じまいと思った私は早速、飛行機の手配をしてカンザス州へ向かいました。

そこでレンタカーを借り、地平線の彼方まで広がる畑をあちこち見て回ったのですが、どこもかしこも青々としています。

それを見て買わないと決めたことで、危うく大損を免れることができました。

このような私の経験を引き合いに出すまでもありませんが、正確な予測といったものは、けっして偶然の運だけがもたらすものではなく、それ相応の努力によってなされるものなのです。

少ない材料を基に予測を行えば、それこそ丁半博打のような偶然の要素が高くなりますが、丹念に一次情報を集め、その分析を緻密に重ねていけば、偶然の支配から逃れることができるのです。

運・不運は何で決まるのか われわれの目は、つい表面的なものにとらわれがちです。

仕事や生活がうまくいっている人を見れば運がいいと判じ、仕事で挫折したり、病気などの不幸に襲われた人を見ると不運だと感じることがあります。

もちろん、病気などの医療の分野では、本人にとっては不可抗力ともいえる偶然の不運といったものもあります。

しかし、経済の分野において世間で目にする多くの不運といったものは、煎じつめれば本人の努力不足に起因するものが少なくありません。

もちろん病気だって、そうした一面はあるようです。

深刻な病気や怪我も、元を辿れば本人の生活習慣に問題があったり、不注意からくるものだったりすることがあります。

不幸な病にかかって命を落とした人を見て、「気の毒に。

ほんとツイてない人だ」と思ったりするかもしれませんが、それは運の問題だけではなく、医者の目から見れば、本人が日ごろ健康に留意してこなかった不注意からくるものだったりすることもあるのです。

つまり、多くの面で私たちが運、不運といっているもののおおよその本質は、ちゃんとした努力がそこにあるかないかということです。

そういうと、一生懸命努力しても報われなかった人だってたくさんいるのではと思われる人もいるでしょう。

そういうときは、本人は精一杯努力をしているつもりでも、実際はまだ努力が足りていないことがあるのです。

切磋琢磨し合っている野球のチームメイトの一人は、自分より努力をしていないのにいつも成績がいい。

なぜだろうと思いますが、実は見えないところでそのチームメイトはもっと努力を重ねていた。

そういう話もプロの方々からたくさんお聞きしました。

ですから、自分は本当にベストを尽くしているだろうかということを、絶えず自問するべきなのです。

的はずれな努力は意味がない 努力しているはずなのに報われないもう一つのケースは、同じ努力でもやり方がまずいといった、努力の仕方、方向性に問題があるときです。

それは間違った努力ともいえます。

エネルギーを注いでいるつもりでも、方向性を間違えている可能性があるということです。

的外れな努力をいくら重ねても、そう簡単に運がやってくる道理はありません。

もっとも、しかるべき努力を精一杯やったものの壁にぶつかり、それ以上は自分の力ではどうにもならないというときがあります。

その都度その都度、ベストな判断をして努力を重ねてきたのに、二進も三進もいかない状況に陥ってしまった。

そんなときは、これだけのことを自分は力一杯やってきたのだから、あとは天に任せようと、いい意味で開き直ることです。

そのときは運が開けなくても、真っ当な努力を重ねてきたことが必ずどこかで生きてくるはずです。

日々ベストを尽くし続けていれば、 DNAのランプがぽっと灯って、それまで眠っていた能力が全開するときがきっとあります。

なかなか結果が出なくても、その努力をやめてはいけません。

ベストな判断をし、ベストな選択をする。

そして正しい努力を力一杯続ける。

けっしてあきらめることなく最後の一秒まで努力する。

最後の瞬間の気力と情熱が勝負なのです。

そんな一連の行動からこそ、運は必然的にもたらされるのだと思います。

「禍福は糾える縄のごとし」「あっ、貧乏くじ引いてしまったなあ」。

そんなふうに思う瞬間を誰しも経験していると思います。

なかには「あの人、いつも貧乏くじばかり引いているよ」と思われているような人もいます。

しかし、貧乏くじを引いたかのように思えることを簡単に損だ、不幸だと決めつけることはできません。

そもそも貧乏くじを引いたかどうかなんてことは、長い目で見なければわからないのです。

勤めていた電機メーカーの経営が傾いて、人員整理の憂き目に遭ったとします。

そのこと自体は不運かもしれませんが、それをきっかけに急成長している台湾の電機メーカーに転職し、そこで重要なポジションを任され、かつてないほどの充実感を仕事から得たとしたら、昔リストラに遭ったことは貧乏くじだったとはいえなくなります。

むしろ幸運なくじを引いたことになります。

貧乏くじを引いたなと思ったときは、それを悲嘆しても仕方ありません。

そんなくじを引いてしまったのは神様の悪戯だと思ってもいいかもしれませんが、結局は自分の責任において考えるべきことです。

いろいろな運の巡り合わせでそうなった面もあるし、自分の選択がそのような状況を招いたともいえる。

どのような条件が重なってそうなったのかはよくわからなくても、自分の考え方や行動の積み重ねの結果から、貧乏くじを引いたような状況になったことだけは間違いありません。

環境や他人のせいにしても何も始まりません。

貧乏くじを引いてしまったなと思ったときは、腐らず、やるべきことを冷静に見すえて、その後も真剣に日々努力を続けることです。

「禍福は糾える縄のごとし」とはよくいったもので、一時不運に見えることはどこかで幸運につながっていったりするものです。

その逆ももちろんあるものですが、貧乏くじを引いたなと感じたときは、そのような心持ちで事に対処していけば、どこかで好転する。

最後の瞬間まで勝負は続くのです。

日本人には笑いが足りない 以前、人から誘われて吉本のお笑いを見に行きました。

久しぶりに大いに笑って楽しみました。

ふだん私はテレビなどでもお笑いを見ることはないのですが、自分の生活に「笑い」が足りないなという気持ちもあって、誘われたときちょうどいい機会だと思ったのです。

日本人はイギリス人のようにウィットに富んだユーモアもなければ、アメリカ人のようにシンプルなジョークをしょっちゅう仲間内でいい合って笑うという習慣もありません。

私もそんな典型的な日本人で、笑いを自家発電するのがあまり得意とはいえません。

ですから、いわゆる英国紳士のようなユーモアのセンスに接すると、自分にもこういうものがもう少しあればと、ちょっと羨ましい気持ちになります。

ユーモアの素晴らしさは、自分も含めて笑いの対象にする点です。

自分の失敗や欠点を俎上に載せて、笑いの話術として吐き出す。

ユーモアというのはたんに笑いに限定されるものではなく、生き方の姿勢そのものといってもいいものだと思います。

そんなユーモアの精神を皆がお互いに持っていれば、仕事においても、もっと心豊かで和やかな雰囲気が生まれることもあるだろうなと思います。

現代人は、感情より理性を重んじがちです。

感情は幼さにつながるものとして、理性より低く見られる傾向があります。

そんなこともあって、大人になるにつれて喜怒哀楽といった感情は抑えられていきます。

しかしながら感情は人間にとって、実はとても大事なものです。

感情がなければ、それは A Iと同じで、人間とはいえません。

感情というのは、水のように流れていることが大事です。

あまり抑えすぎると流れが悪くなって、元気がなくなったり、場合によっては鬱っぽくなったりもするものです。

ですから感情はあまり滞らせたりせず、常に流れるようにしておく必要があります。

私はもちろん TPOは使い分けますが、笑うときは笑い、怒るときは怒り、悲しむべきときは悲しむようにしています。

どちらかといえば、感情は無理に抑えないようにしています。

人は心を持つ生き物ですから、心の動きそのものといえる感情表現は、その幅が広いほど人生も豊かになるのではないでしょうか。

感情のなかでも喜楽の表現につながる笑いは大切なものですが、いつも笑ってばかりいて、怒りや悲しみがないのはちょっと変だし、反対にしょっちゅう怒っていて笑いがまったくないというのも不幸です。

笑いが多いなかに、ときたま怒りや悲しみがあるという加減がちょうどいいのかもしれません。

笑うと免疫細胞が活性化するといわれ、がんの患者に笑い療法を施す医師もいるほどです。

そのくらい笑いには生命を根本から元気にする力があるわけです。

日本人は英国紳士のようなユーモアの精神や、アメリカ人のようなジョークを喋るセンスに欠けていると先ほどお話ししましたが、よく考えれば日本には川柳もあれば、落語もありますし、最近はお笑いが人気を博しています。

日本人の多くは、日本人ならではの笑いやユーモアのセンスがあって、それが自分のなかにも潜在していることに気づいていないだけなのかもしれません。

川柳などを見れば、笑いの素材は身近なところにいくらでも転がっていることがわかります。

ふだんとアングルを少し変えて、感覚を澄ませば、笑う機会はたくさんあるということです。

笑いの効用を知る 笑いは瞬間的にでも自分を解放し、自由にしてくれます。

笑いの効用はわれわれが考える以上にたくさんあると思います。

2019年の春の選抜高校野球に鳥取代表で出場した米子東高校は、県内でも有数の進学校で監督のユニークな指導法が注目されました。

企業などが人材育成のために活用する自己管理法を導入し、選手自身が自分の課題と向き合い、納得して決めたことを行動に移しているのです。

その一環として選手たちは上達のための研究テーマを自分たちで考え、検証し、よければ実行するということをやっており、それがプレーにも成果となって表れているそうです。

ある選手は「笑顔でプレーするとパフォーマンスが上がる」ということをメンタルトレーニングの講演で知り、「本当なのか?」と興味を抱いて早速実験をしたといいます。

そこで笑顔(ポジティブ)、ネガティブ、怒りの 3種類の言動をとった後の筋力や敏捷性などを測定したところ、笑顔がもっとも高い数値になったといいます。

研究成果はすぐ実行に移され、試合前は輪になって笑顔を 10秒間キープ。

ふだんも互いの顔を見合って、笑顔をつくる練習をしてきたそうです。

精神論でなく科学的なアプローチで、笑いの効用を実践しているところが素晴らしいと思います。

がんの笑い療法もそうですが、「笑う門には福来る」というのはおそらくちゃんと科学的な根拠もあるということなのでしょう。

テレビをつければお笑い系の芸人たちの賑々しいお喋りがいくらでも目に入ってきますが、それとは裏腹に街を歩いたり、電車に乗ったりすると元気のない暗い顔をした人が多いなと感じることがあります。

お笑い芸人が人気があることと、気持ちが沈みがちな人が多いこととは、コインの表裏の関係にあるともいえます。

「笑いの効用」をもっと認識し、笑いを自分でつくり出す。

笑いのセンスを磨くことが、いまの日本人にとっては意外と重要なテーマなのかもしれません。

「こだわり」は持たないほうがいい 最近の食品の広告を見ていると、「こだわりの一品」みたいな表現でアピールしているものがよく目につきます。

このように「こだわり」という言葉がとてもいい響きで使われているのですが、私はこの「こだわり」という言葉にあまりいい印象や経験はありません。

こだわりがある人は、柔軟性がなく、頑固であることが多いからです。

そのこだわりがよいほうに発揮されるならいいのですが、私の経験ではどちらかというと、マイナスに働くことのほうが多い印象があります。

会議などで、これはどう見てもおかしいし、やってはいけないだろうということにこだわっている人がいるために、無駄な議論をみんなでしなくてはいけないことがよくありました。

「私がやらなくてはこの案件は成り立ちません」というものの、別にその人がわざわざやらなくても問題のないものだったり、「この進め方でやっていかないとプロジェクトは破綻します」といいながら、そのやり方以上に有望な選択肢がいくつもあったり、一つのことにこだわりすぎるあまり、視野が狭くなって全体感を欠くというケースが少なくなかったのです。

そのせいか、私は仕事で一部のことにこだわっている人を見ると、つい大局を見失うのではないか、大丈夫かなと思ってしまうのです。

音楽を演奏したり絵を描いたりする人が自分の美意識にこだわりを持つことは、いい作品を生み出す上で必要なことでしょう。

そんな芸術家のこだわりならよいのですが、多くの場合、「こだわり =とらわれ」になっているように感じます。

とらわれというのは何か一つのことに偏って執着していることですから、広い視野は持てませんし、柔らかい発想もできない状態です。

こだわりといえば人によっては聞こえがいいかもしれませんが、それが「とらわれ」ともいえる内容のものであれば、当然そんなこだわりは捨ててしまったほうがいいに決まっています。

実際はとらわれのようなこだわりなのに、プラスに評価されているものは他にもあります。

たとえば、プライドもそうかもしれません。

「俺にはプライドがある」なんていうと、ものすごく大層に聞こえますが、実はただのつまらないこだわりだったり、とらわれだったりするかもしれません。

矜持という言葉が持つような、自分という人間に対する根源的な誇りのような響きをはらんだプライドであればいいのですが、取るに足りないこだわりのようなプライドであれば、捨ててしまったほうがいいでしょう。

信念という言葉も、けっこう人を欺くものだと思います。

「私は何事も信念を持ってやっている」とか「これだけの信念を持ってすれば必ず目標は達成できる」というような情熱的な言葉を聞くと、誰もが反対しづらくなるのは世の常です。

しかし、問題はその信念の中身です。

自分が儲かりさえすれば他人に迷惑をかけてもかまわないという信念だってあります。

信念だからすべてよいものとは限らないわけです。

ですから、こだわりにしろ、信念にしろ、プライドにしろ、こうした言葉を表面的にとらえて、全体を肯定的に見てしまわないほうがいいと思います。

そういう響きのいい言葉を目にしたら、いったんはどこか疑ったほうがいいのかもしれません。

なぜ夢を持てない若者が増えたのか 世界がグローバルに広がっているのに反比例して、人々が抱く世界観や人生観といったものは、なぜかスケールがどんどん小さくなってきている気がします。

商社に勤めている私の友人から先日、こんな話を聞きました。

10人ほどの新人を集めていろいろな話し合いをした際のことです。

「君たちはなんで商社を希望したの」と聞くと、「給料がいいから」という返答がけっこうあったそうです。

さらに「海外で仕事をしたいという人はいるか」と聞くと、手をあげたのは女性一人だけだった。

給料がよくて、 3 Kではない見栄えのいい仕事だから商社に入った。

そんな就職の動機を知り、友人は内心「彼らに夢はあるのだろうか」と思ったそうです。

もう何十年も前から最近の若者は意欲がないとか、夢がないとか、こぢんまりとしているとかいわれてきましたが、その傾向はますます強くなっている感じがします。

いまはそこそこのお金があれば、快適な生活が送れます。

何かに挑戦したり、頑張ってしんどい思いをするより、目の前の生活に波風が立たず、平穏で幸せならよい。

そんなふうに思っている若い人が増えているのでしょう。

20年前、 30年前の若い人であれば、「こんなことを仕事でしてみたい」といった夢をもう少し語っていたと思いますが、いまの世代は夢を持つ必要がないほど、自分の仕事や生活、国の将来などについて満足しているのでしょうか。

これからの日本を考える上で、とても気になる部分です。

悲観的に考えて楽観的に行動する もっとも会社に入りたてのときに、これからどういう仕事をしていくことになるのか、環境の変化も速いし、よく見えないところもあると思います。

そんな漠然としたなかで夢を持てといっても、難しい部分はあるのでしょう。

初めは与えられた仕事を一生懸命にやっていくだけでもいいと思います。

そうしているうちに、「こんなことを仕事でやってみたい」と夢や目標のようなものがきっと出てくるはずです。

仕事でも何でも一生懸命やっていくなかで自然と生まれてきた夢は、気持ちを強く持ち続けている限り、かなり実現性が高いと思います。

どんな形の夢であれ、夢というのは実現するまでに相当な時間を要するものですから、注意しないといけないことがあります。

それは夢に向かう過程において、目標を小さく刻んで設定することです。

目標は高く持つほうがいいと思われがちですが、実はそうではありません。

夢は大きくとも、目標は小さく持ったほうがいいのです。

あまり高い目標だと、時間がかかりすぎて達成できないことが多いからです。

目標は、あくまでこのくらいなら届きそうだという現実的なライン上に置くべきです。

急いで夢を実現しようと高い目標を掲げても、無理がありすぎて現実味がなかったりします。

私は常に「悲観的に考えて楽観的に行動する」ことを心がけています。

「悲観的」というのはいい換えれば「現実的」ということです。

目標の設定をするときも、これと同じ感覚がいいと思います。

私も部下にはいつも「自分が達成できると思う目標を立てろ」といっていました。

反対に高い目標を出してきたら、「もっと現実的に考えて目標を下げたほうがいい」といって、当面の目標と長期的目標を聞くようにしていました。

目標設定というのは、肩の力を抜いたぐらいの感覚がちょうどいいように思います。

自分の部署で掲げたけっして厳しくはない数値目標が未達成になるときもありましたが、そういうときは心配しませんでした。

個々人の努力だけでなく、経済環境によって条件が悪くなるときもあるからです。

ただ、そういうときは、なぜ未達になったのか、その原因を分析することが必要です。

高い目標を立てると無理があるので挫折しやすく、たとえうまくいっても次の目標へ向かうスタミナが切れたりします。

あくまでも目標は低く小さく設定して、それがクリアできたら、同じベクトルの線上でまた次に小さな目標を設定するというふうに着実に前へ進むことが現実的な考えというものでしょう。

小さな達成感を積み重ねることが、モチベーションを持続させるコツなのです。

そんなことを 5年、 10年と繰り返しているうちに、気がついたら夢が目の前にあったということになります。

最初の段階で「 5年、 10年で夢を実現させよう」と考えたら、目標を高く設定したりして、息切れしてしまう可能性があります。

夢がまったくないのは論外ですが、夢はあくまで頭の片隅に、目立たないように置いておけばいいのです。

さしあたって目の前の小さな目標を達成し、また次の小さな目標を立てる。

その繰り返しに集中すれば、いつか高い目標にジャンプアップし、夢は視界に入ってくるはずです。

楽なほうを選ぶな 楽に進める道と、見るからに険しい道。

もし目の前にこの2つの道があった場合、たいていの人は楽なほうを選ぶと思います。

楽をしたい、楽に生きたいと考えるのは何もその人が怠け者だからというわけではなく、人間の本性のようなものです。

楽なほうへ流れてしまうのは自然なことです。

そのことは、社会の流れを見てもよくわかります。

社会や人の暮らしが向いている先には、「便利さ」というものが一つの大きな目標としてあるからです。

科学技術は人間の労力を少しでもカットできるように、進歩してきました。

火を起こさなくてすむ電気を発明し、足を使わなくてすむ車や飛行機をつくり、いまでは A Iを開発して労働しなくても生きていける未来を夢見ている人たちが大勢います。

このように便利さを求めて科学技術が発展してきたことは、人間が楽を好む生き物であることの証しだといえます。

ところが、いつも楽なほうを選んでいると、楽でなくなる状況になったりします。

ハアハアと息を切らしてしまうような状況に陥ったり、前に進むのすらおぼつかない事態になったりと、楽なほうを選んだがゆえにそうなってしまう。

楽なほうを選ぶと、結果的には後で困難な目に遭うことが多いのです。

反対に、先に厳しいほうを選んでおくと、後で楽になりやすいともいえます。

「苦労が多くて……」などと嘆いている人は、常に安易な道を選んでいることもあると思います。

目に見える形で楽な道と厳しい道があるとして、現実には知らず知らずのうちに厳しいほうを選択せざるを得ない立場に直面することも少なくありません。

たとえば、ヒット商品を出して大儲けしている会社の経営者であれば、ヒット商品の売り上げだけに依存していられたら楽です。

しかし、ヒット商品はそのうち必ず売り上げが落ち、いつか終焉を迎えます。

もしヒット商品に大きく依存した経営を続けていれば、会社もどこかでダメになってしまいます。

ですから、経営者はヒット商品のバリエーションを次々と開発してその息を長くしたり、増強された資金を元に新しい商品を開発していったりする必要があります。

会社が存続し、より発展していくにはおのずと厳しい道を選ばざるを得ないわけです。

第二次世界大戦終結間もない 1950年〜 60年代、世界に 48工場も持つオランダのフィリップス社は、収益の大黒柱である真空管の売れ行きが好調で経営は万全でした。

一方、日本ではソニーの前身である東京通信工業の経営が青息吐息。

同じ商品ではまったく勝ち目がないため厳しいとはいえ、未経験の新しい分野であるデジタル電気商品に挑戦せざるを得ませんでした。

そして 20年もたたないうちに、フィリップス社とソニーの地位は逆転。

経済の歴史を見れば、世界ナンバーワンの商品を持つ会社が 50年以上続いたことはなく、私も忘れてはならない事例として記憶に残っています。

楽をするとよくない結果になるものには、身近なところでは健康があります。

年を取ると体を動かすのが億劫になりますが、外出して歩かなくなると足腰が弱って、それが体調不良や病気のきっかけになったりします。

ですから、多少面倒でも体をなるべく動かしていると健康が保たれ、辛い思いをしなくてすんだりします。

若い人でも、部屋にこもってばかりいて体を動かさず、好きなものを好きなだけ食べるといった生活を何十年と続けていたら、中高年になってからそのひずみが必ず出てくるはずです。

現在のわれわれの生活のように便利なものに囲まれた環境で暮らしていると、面倒なこと、手間のかかることは億劫に感じられます。

しかし、便利なものに慣れすぎて楽をしていると体の健康に必ず跳ね返ってきますから、あえて便利さや楽なことを避けて、面倒であっても我慢が必要なことをやるようにすることも必要です。

このように仕事でも勉強でも生活でも、楽な状態を長く続けると、いつか必ずしっぺ返しがくると思ったほうがいいでしょう。

楽なほうを選んだ対価として厳しさが待ち受け、厳しいほうを選んだ対価として楽な道が開ける。

もっとも、厳しいほうを選んだ結果、楽な状態になったとしても、そこに安住していたら、また厳しいほうへ傾きます。

人間が生きていくということは、そんなことの繰り返しではないでしょうか。

休息は必要ですが、あまりにも楽な状態が続いているときは、その反動がどういう形で将来やってくるか、因果応報的な気持ちを多少なりとも持つことは必要かもしれません。

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