今日は、普通の人が、心の態度とか、ひいては人生や生命に大きな影響を与えることはないだろうと思って、さほど大きな注意を払わない事柄に対して注意を促したい。
何でもないと、自分が思っていて、それが直接的には自分の心の態度を、そして結果において自分の人生や生命に大きな影響を与えるものとは、それはいったい何であろう……。
それは諸君が日常便利に使っている「言葉」というものである。
私はこの「言葉」というものを、そんなにも重大な影響を持っているものとは少しも知らなかった。
そして人生に関する学問をもう相当研究した後、しかもインドの山の中で、およそ文化からほど遠い民族の住まっている、あのヒマラヤの第三ピークのカンチェンジュンガの麓に住む、ヘプチヤ人種の一人から(もちろん、それは私の先生であったけれども)ある朝、「お前は毎朝、朝の挨拶のあと、俺はお前に〝今日はどうだい〟”Howdoyoudo,today?”と聞くと、必ずお前は”Iamnotquitewell.”というなあ。
それをいってそのとき楽しいかい」と、いわれた。
「いや楽しくはありませんけれども、真実こういう病を持っていますから、朝目が覚めますけれども快い気持ちでは覚めません。
やっぱり何となく、こう、熱があるように感じ、体の全体がけだるく感じまして、頭は重いし、つまり快適な気分を感じません」と答えると、「そういうことをいってお前は気持ちが良いか」といわれました。
「気持ちは良くはありませんが真実そうでありますから」と再びいうと、「そうかねえ、お前は相当アメリカやヨーロッパで学問をしてきた人間だと聞いていたが、そういう方面に対する知識は全然ゼロだなあ」という。
「それはどういう意味ですか」「お前は自分の使っている言葉によって自分の気持ちが駄目にされたり、あるいは非常に鼓舞奨励されたりする直接的な事実を少しも考えていないなあ」といわれました。
それは本当に考えていなかったから黙って顔を見ていたが、「造物主によって便利な言葉を我々人間だけに与えられているが、言葉というものが、積極的に表現されたときと、消極的に表現されたときとでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある。
先ほどのように、今日は不愉快ですとか、頭が痛いとか、熱がありますとか、気分が良くない、とかいっているときには、愉快を感じないだろう。
今日は嬉しいです、楽しいです、ありがたいです、という言葉をいったときには、なんともいえない快さを、その気持ちの上に感じるだろう。
その感じるということは何が感じるか、お前はわかるか。
実在意識が感じているんじゃないか。
そして実在意識が感じたものが、直ちに潜在意識に直接的に影響して、そして潜在意識が実在意識と同じような気持ちになると同時に、神経系統の生活機能も同じように良くも悪くもなるのだ。
そうすると結局、お前の生きる力が、その言葉の良し悪しによって、やはり良くも悪くもなるじゃないか」「しかし本当に具合が悪いとき、具合が悪いといっちゃいけないんですか」「具合が悪いとき、具合が悪いといって癒るか」「いや、癒りはしませんけれど、やはり痛いときは痛いといいます」「いや、痛いとき痛いというのがいけないんじゃないんだ。
痛いときは痛い、痒いときは痒いという、それは当り前のこと。
だからいってもいい。
だが重要なのはそういったときにそれから後を自分が考えなければよい」「それはどういう意味ですか」というと、「お前は今日はどうも頭が痛いとか、今日はどうも熱がありますとかいっている言葉の後に、愉快だとは思わない、実に不愉快だ、たとえ言葉に出さなくても心の中で思っているだろう。
何ともいえないいやな気持ちだなあ……と。
そして普段とちがって、よくない状態が体に現われてくれば、それを元にして痛いとか痒いとかいいながら、それが元でもっと悪くなりはしないだろうか、死にやしないだろうかというふうに、現実よりも過大に神経をつかいはしてないか。
それがいけないのだ。
寒いとか暑いとか痛いとか痒いとかいうことは構わない。
それは現実に対する表現だから。
それに対してお前はつけ加えなくてもよいことをしょっちゅう、つけ加えているじゃないか」「いやしかし、それは普通の人間は皆そうでしょう」と答えました。
すると、「普通の人間のことをいっているんじゃない!俺のところに来てこういうふうに毎日毎日真理を探究している以上は普通の人間じゃないんだ!まだ自分は普通の人間だと思っているのか、お前は!普通の人間はお前のように毎日毎日真理と取り組んで貴重な時間を過ごしちゃいない。
毎日毎日くだらない人事、世事にせわしく働き、やたらとその言葉を汚し、実に、自分ならびに他人をも悪くするような言葉のみを終始使っているのだ。
それは凡人のいうことだ。
真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に愧ずかしいことで、結局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか!もう少し俺はお前を賢明だと思ったが、あんまり賢明でないなあ……」といわれたときに、私は本当に恥ずかしい思いをした。
いろんな理屈をさかんにいって、卑近な学問を研究したために、普通の人よりも人生に関する理屈をべらべらいうだけで、いっているそばから、自分のいっている理屈に自分が苦しめられていた、ということを考えてみると、実際自分ながら、あんまり利口じゃないなあと思った。
さて、私のことばかりいっているが、あなた方も考えてごらん。
あなた方が四六時中使っている言葉……。
自分の言葉に自分が尊敬を感じるような言葉をいっているか!たとえていえば、暗示の誦句をいっているときのような厳かな気持ちになれるか!自分のことをいうときに自分自身を知らないで、自分の生命を一寸刻み五分刻みに馬鹿馬鹿しいことを平気でやっている。
そういうことを悪いと考えないでやっている。
悪いと考えないでさかんにおしゃべりしていると、自分自身ばかりでなく、それを聞いている人の生命にまでよくない影響を与えてしまう。
それはお互の精神生命の中の、実在意識と潜在意識と、それに繫がる神経系統の生活機能という、三角関係を考えると分る。
人々の多くは生きている現在を忘れていて、生きているのは神経系統の生活機能のおかげだということを忘れてしまっているから、肝心かなめの神経系統の生活機能の働きを悪くするようなことを、知らないでやっている。
それでいて、やれ健康がどうの、やれ運命がどうの、という。
それでは健康だって運命だってよくなくなり、諸君を苦しめるのが当然だ……。
苦しむ方面へ自分の人生を振り向けているのだから。
つまり暗示の無条件同化を自分でやっている。
人間の精神生命の中には、暗示の感受習性というものがある。
だから、たった一言をいうのも、この暗示の感受習性というものが、必ず、自分が気がつかなく
ても、ものの声に応じたように感じる。
感じると同時に潜在意識に対して、そのとおりの状態が働き出すのである。
潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくるのである。
そして、その結果が気高い言葉、神聖な言葉であり、いい換えれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極めて状態のよい事実になって現われてくる。
けれども、万が一、消極的な、怒り、悲しみ、悶え、迷い、そして悩みが遠慮なく口から出されるという場合には、もう怖ろしい結果を神経系統の生活機能に与えてしまうのである。
考えてみよう。
たとえばここに極めて快適に回っているモーターがあるとする。
このモーターの回転の一番の生命はモーターに捲かれているコイルである。
つまり人間の生命にたとえれば神経系統である。
そのコイル配列をちょっとでも乱すようなことをしたらどうなるか。
百馬力のモーターでも百馬力の性能が出なくなるだろう。
それと同じように、万物の霊長たる人間に生まれても、その人間の生命を完全に活かす一番大切な神経系統の生活機能がアンバランスになったならば、万物の霊長とは名ばかりの存在になってしまうではないか。
私が、諸君に心の持ち方を常に積極的にしろというのも、この言葉と相対関係があるからなのである。
何気なく出てくる言葉というものはあるものではない。
どんな人の言葉ですら、その言葉になる前には、観念が言葉を創るのだから。
真剣に考えよう!実際人間が日々便利に使っている言葉ほど、実在意識の態度を決定するうえに、直接に強烈な感化力をもつものはない。
感化力というよりむしろ暗示力といおう。
このことを完全に理解し、かつこれを応用して活きる人は、もはや立派に人生哲学の第一原則を会得した人だといえる。
何故か!それは人生というものは、言葉で哲学化され、科学化されているからである。
すなわち言葉は人生を左右する力があるからである。
この自覚こそ、人生を勝利に導く最良の武器である。
われらはこの尊い人生の武器を巧みに運用し応用して、自己の運命や健康を守る戦いに颯爽として、輝かしい希望に満ちた旗を翻しつつ、勇敢に人生の難路を押し進んで行かねばならない。
そしてこの目的を実現するには、常に言葉に慎重な注意を払い、いかなるときにも、積極的以外の言葉を使わぬように心がけることである。
そうすると、それが人生哲学の第一原則である暗示の法則を立派に応用したことになり、期せずして健康も運命も完全になる。
この真理に従って人生を活きるには、「その一言一語、その言葉のすべてが、人生に直接的に影響する暗示となる、という大事な宇宙真理を絶対に忘れないこと」であり、さらに努めて積極的の言葉を使う習慣を作ることである。
そうすれば、それは取りも直さず宇宙霊に立派な力の合図を暗示で行なったことになるからである。
事業をしている人の参考になるために話そう。
私が若い時に非常に可愛がってもらった日比谷平左衛門という人が日本橋の堀留にいた。
横浜のボテ振りから始めてついには、その当時の金で五億円からの金を造ったという有名な働き手だ。
ちょうど私が知り合いになってから二年目であったと思う。
インドから綿花を仕入れて、その船が上海に停泊しているときに船火事を起こして綿花が丸焼けになった。
そのために兜町で綿花の相場が急に騰貴したくらいであったが、その火災による損失額が約二億円になっていた。
その当時の二億といえば今の二千億円にも当る大変な額で、もう一文なしになった。
本人はどれだけがっかりしたかと思って、私が、「とんだことが起きましたなあ」といったところが、「いやーハッハッハッ、また儲けさせてもらう大きな動機が出来ましたよ」という。
「えッ」といって「承れば二億からの損害だそうで」「いや、私はそれを損害だとは思っていません。
二億の元金を拵えないで、神がそれを拵えてくれて、今度はその倍数がまた戻ってくると思うと大きな楽しみです」といった。
やっぱり偉い人間はさすがだなあと思った。
たいして学問もないボテ振り。
ボテ振りというのは、横浜の波止場で船に積み出す軽い荷物を荷籠の中に入れて担いでいくという、まあ今はいないが、昔は軽子人足といった。
それから成り上がった人だがね、そういうたいへんなことに遭ってもビクともしない。
ところがどうだ。
いまの事業家を見てみなさい。
僅かの不渡りを受けても、すぐ青菜に塩みたいになり、少々の損害を受けても「もう駄目だ」といってしまう。
だから戦後世の好景気にやたら煽られて高度成長した奴がバタバタバタと将棋倒しに倒れてしまうのは、欲の皮だけ突っ張っていて、心にちっとも信念というものがないからなのである。
健康もまた同じことだ。
これは日露戦争中の話であるが、あの璽霊山高地(二〇三高地)の激戦のときの伝令の話をしよう。
当時、軍の命令の下達連絡などは皆伝令によって行なった。
特に状況が急を要するときは、三人の伝令を同時に使ったものだ。
今は無線電信とか電気的通信器械があるからよいが、その当時は通信器械はなかった。
だからすべての報告は、生きた人間が使われた。
ちょうど私も満蒙方面の偵察を終えてしばらく体に暇が出来たので、乃木さんのあの璽霊山高地の戦いを見ようとやって来た。
ちょうど乃木さんの司令部に伝令が、「報告!」といいながら馬をとばして来た。
そして馬から降りようとしたときにプスッとその伝令の太腿に銃弾が当り、どっとばかりに落ちてしまった。
そして伝令はひっくりかえったまま次の言葉が出ない。
ただ痛い痛いと叫ぶばかりだ。
すると次の伝令がやって来て、これもまた「報告!」といって馬から降りようとするときに今度は胸に銃弾が当った。
これもひっくりかえって人事不省になった。
三人目の伝令のみが、弾丸に当らずに報告を立派に終えたので、その報告は司令部に完全に届いたのであるが。
しかし、その時のことだ。
大腿をやられた伝令と肺を撃ち貫かれた伝令とが看護兵に担架に乗せられて、野戦病院に送られた。
私は軍人ではないから、眼の前で倒れた人間に多少の気持ちを動かされたので、その晩の夕食後野戦病院に行ってみた。
そして、看護兵に尋ねた。
「昼間司令部で重傷を負った伝令がいるだろう」「一人は死んでしまいました」という返事なので、そうだろうなあ、肺臓をぶち貫かれたら死んでしまうだろうなあ、と思って、「二番目の伝令か」と聞くと、「いや一番最初のです」と答えた。
「一番最初の伝令は大腿をやられただけではないか」「これが弱い兵隊でしてねえ、痛い痛い痛い痛いといい続けて出血多量で死んでしまいました」「肺臓をぶち貫かれたのは」「あれは元気ですよ!」という。
行ってみるとまっ青な顔で、息も絶え絶えのように見えたが、「どうだ」
と聞くと、声に力はないけれども、「大丈夫です」と返事した。
その時私はこれは助かる、と思った。
するとニコッとうすら笑いして、「これくらいのことでは死にませんよ」と言った。
本当にこの人は死ななかった。
私は後年ひどい肺病に罹ったときに、すぐその兵隊のことを思い出した。
そしていまだに忘れない。
四国の愛媛の連隊の男で、橋田良平という男だ。
七十いくつで死んだが……。
やっぱり人間の意志の強さ。
これが現代の人なら肺でもぶち抜かれようものなら「ああもう駄目だ」と弱音を吐くに違いない。
とにかく、人間は造物主から、言語活動という、本当に考えてみると考えきれないほどのありがたいお恵みを受けている。
この尊いありがたい恵みを乱暴に使ってはいけない。
いつもいうことだが、今の人達は国を護り、身を守る大切な宝刀を、めったやたら、台所で菜っ切り包丁として使うようなことをやっている。
「言葉」のことである。
やたらに消極的言葉を使うことが、造物主が特別に与えられているお恵みであるかのように思っている人がいるが、とんでもないことである。
仲間の群を抜く人の言葉というものは消極的な言葉を決して出さない。
しかし、あなた方ときたらもう始めから終りまで消極的なのだから。
たとえば、体の悪いときに、「ここが疲れた」とか、「ここが痛い」とか、「ここが悩ましい」とかいう。
いうのは構わないが、それは感じなのであるから、逆にいったら嘘になる。
たとえば頭が痛いときに「頭が痛いか」、「いいえ痛くありません」。
耳が痛いときに「痛くないか」、「いいえ痛くありません」。
これは嘘である。
痛いのは痛いでよろしい。
けれどもそのあとがいけないのだ。
あなた方は「痛くてしようがない」とか、「どうにも死にそうだ」とか、「もう駄目だ」という。
それがいけないのだ。
そしてそれをあなた方は、さらに理屈をつけて消極的言葉をわざわざいう。
「痛くてどうにもしようがないから、痛くてどうにもしようがないというんじゃありませんか」という。
痛くてどうにもしようがない、といって、どうにかしようがあるか。
よく考えてごらん。
つまらないことだ。
たとえば時候のようなものも、暑いときでも「暑いなあ、やりきれないなあ」これがいけない。
暑い寒いは感覚だからそれはいって悪いとはいわない。
「暑いなあ」といったなら、あとにもっと積極的なことをいったらよいではないか。
「暑いなあ、余計元気が出るなあ」と。
「丸い卵も切りようじゃ四角、ものもいいようじゃ角が立つ」というではないか。
ところがあなた方は「ものいえば唇さむし秋の風」で、いっているそばから自分を傷つけ、人を傷つけている。
気がつかないからいっているんだろう。
しかし、颯爽潑剌として人生の難路を輝かしく突破して進んで行こうとする天風会員は、どんな場合にも自分の言語や言葉で消極的な表現をして、そして自分の実在意識を通じて自分の生命をそこない、なおかつそれを耳で聞いている他の人の心持ちまで悪くしないようにしよう。
そうなると善人が悪人になるじゃないか。
自分じゃ悪人にならないつもりでも他人に迷惑をかけていれば立派な悪人ではないか。
その一言一語が自分のみでなく、すべての人々にいい影響も与えるし悪い影響も与える。
だから、かりそめにも天風会員は、常に積極的言葉を使う習慣をつくりなさい。
習慣となれば、それはもうたいした努力をする必要はない。
だから実際人生を活きる場合、常に善良な言葉、勇気ある言葉、お互の気持ちを傷つけない言葉、お互に喜びを多く与える言葉を使おう。
私は、どんな人と会ったときでも、一番最初の挨拶は同じ挨拶である。
「先生今日は」「やあ、元気か!」とすぐいうでしょう。
「顔色が悪いようだが、どこか悪いか」なんてことはいったことはないでしょう。
顔色が悪かろうと、今死にそうであろうと、私は必ず、「しっかりしろ、元気出せ!」と必ずその一点張りじゃないか!それを親切なのか、それとも親切のはき違えをしているのか、「おはよう。
あんたどこか悪いことない?」「どこも悪くないわよ」「そう。
気のせいか青いわ」なんて、世間の凡人達はそんなことを平気でいう。
いわれたら今度はこういってやりなさい。
「あんたの眼のせいじゃないの?青くてもさし支えないわよ。
豆を見なさい。
青いほどうまいわよ!」相手のいった言葉にひっかからないようにしなさい。
すぐひっかかってしまうんだから、わざわざひっかかりにこっちから行くあわてものがいる。
ただ使わなければよいのだ。
どうしても使いたかったらたった一人になったときに使いなさい。
そうすれば人に迷惑をかけずにすむ。
自分だけが損害を受けるだけだ。
とにかく一日の人生を活きるときに、お互の気持ちに勇気をつける言葉、喜びを頒ち合う言葉、聞いても何となく嬉しい言葉をいい合おうではないか。
人間の気持ちは誠におそろしいものである。
私は平素いくらも経験しているが、たとえ医学上からみれば助からないような病人の枕元に行っても、こちらが元気で積極的態度のときには、その人間の状態がずうっと良くなってしまうものだ。
私はそれで、どれほど危篤になっている人間を助けてきたかわからない。
「さあ心配するな!俺が来たからもう大丈夫だから、いいか!俺が駄目だといったら覚悟しろ。
俺が駄目だといわなければ大丈夫だから!」というとずうっと勇気が出てくるものです。
だから私はいつもいう。
お互に勇気づける言葉、喜びを与える言葉というような積極的な言葉を使う人が多くなれば、この世は期せずして、もっともっと美しい平和な世界になる。
いわゆる理想的国家社会の改善が出来る。
国家社会の改善は、設備や制度の改革のみでは相対的である。
絶対的なものは、人々の心でのみ創られる。
すなわち一切を創り変える宇宙霊の力を、個人の生命の中に受け入れ、その人々が立派な人間達の集りを作ってこそ、国家社会は如実に改善されるのだ。
平和もまたしかり。
だからせめては天風会員だけは、どんな場合があっても、消極的な言語表現をしないよう気をつけよう!考えてもみよう。
人間は絶えず何事かを心で思っている。
そしてその思考はどうして生まれるのか。
それは万物の根元である「ただ一つの気」が、人間の心の中に入って「観念」となり、その観念が「思考」となるのである。
そしてその思考が、一方において行動となって現われ、一方において言葉となって現われる。
これが、人間のみが造物主から与えられた恩恵であり、他の動物にはないのである。
この否定しがたい事実から推論すれば、言葉というものは、思考が結集し、それを表現するために出来たものである。
ただ単に、口から出す言葉だけではなく、文字を書く場合もそうである。
人間の思考が結集し、それを表現するために与えられた恩恵なのだから!思い方考え方が、言葉となって現われて、あるいは文字、あるいは言語になったりして、人間同士がお互いに気持ちを理解し合うようになっているのである。
もっとも天風会員の場合にはテレパシーがあるから、あんまりいわなくてもわかる場合が多いけれども、その言葉の精神の態度が、切っても切れない密接な関係があるのである。
さらにそれが、我々の生命に、直接的な影響を与えるということを考えたならば、言葉には人生を善くも悪くもする力がある。
創造の力というものが厳として存在しているのである!だから言葉は、人生を左右する力のある哲学であり、科学であるということがいえる。
だからどんなことがあっても、お互の言葉に注意をしなさい。
それは、私の講演を注意して聞いているとよくわかるはずである。
仮にも「出来ません」とか、「うまくいきません」とか、「駄目ですよ」とかいわないだろう。
実験する場合でも「こうするから出来ないのだ」とはいわずに、「こうすれば出来るよ」といおうじゃありませんか。
結論が積極的断定で終わるように常に気をつけねばならない。
作家の作った文章でも消極的な文章は読まない。
もっとも、今の作家の書く文章はたいてい消極的なのが多いけれど。
同じことをいうのに積極的にいい現わせるはずだ。
「おお暑い、ますます元気が出るねえ」。
これは積極的。
「おお寒い、どうにもやり切れない」。
これは消極的。
だから正確に前の積極的な方を善用しなさい。
最初はやり損うことがあっても、やり損ったら取り消しておきなさい。
「ああ暑い、どうにもやりきれない」「と昔はいったけれど」とすぐそこで打ち消しておけばよろしい。
我々がたった一人でいるときでも我々の背後には万物の造り主、万物の親である、宇宙霊という限りなき叡知を持ったものが控えている。
そして、またその宇宙霊が、感覚鋭い耳を持っているのだ。
いいか!鋭敏な耳を持っているのだ。
宇宙霊は!だからいやしくも人を傷つける言葉、勇気を挫くような言葉、あるいは人を失望させるような言葉、憎しみ、悲しみ、嫉みの言葉を遠慮なくいっている人間は、悪魔の加勢をしているようなものだ!そういう人間は、哲学的にいえば、自他の運命を破壊していることを、平気でしゃべっている。
だから何遍もいうように、人々の心に勇気を与える言葉、喜びを与える言葉、何とも言えず、人生を朗らかに感じるような言葉を、お互に話し合うようにしよう。
私は本心からつくづく思う。
たとえば、天風会員のような人々がこの世に増えれば増えるほど、この世の中は、本当に理想化されていく。
だからまず隗より始めよ。
諸君がそう成らなければならない。
なかんずく次の時代の日本を建設しようとする青年男女は、特に注意するのだ。
年寄りも出来るだけ若いものの真似をしよう。
せっかく六十、七十まで生きたのなら、もう少し我慢して八十、九十まで生きよう。
そしたらもっと我慢して百を越せ!そして人生世のために生きる自分を、輝かしく活かしていかなくては。
何とか銭を貯めて、老後を楽にしよう、なんて考え方をしようとすると、造物主は、苦労しないで楽が出来るように、すぐ墓場に持っていってしまうよ!これだけいったらわかるだろう。
これだけいってわからないものはいないだろう。
特に修練会に来るような人間は皆、一を聞いて百を知る人ばかりだから!さあ!言葉の誦句を与えよう。
自分の人生を建設せんとする意気込みが、やがて世界中の人間の人生を建設することになるのだ。
言葉の誦句私は今後かりそめにも、我が舌に悪を語らせまい。
否、一々我が言葉に注意しよう。
同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言語で、批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と潑剌たる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。
そして、宇宙霊の有する無限の力を我が生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を建設しよう。
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