MENU

第四章遺伝子が性格を決めるのか

第四章遺伝子が性格を決めるのかわたしの調査で「セロトニン運搬遺伝子」が楽観的な性格をもたらす可能性が浮上した。

研究は一躍話題になったが、不屈の楽観主義者M・J・フォックスの遺伝子検査からは、意外な結論が導かれた

「やはり、すべては遺伝子の中にあるということですね」ラジオのインタビューはこんなふうに始まった。

テーマはわたしが発表したばかりの論文だ。

その論文は、楽観の原因遺伝子発見を予感させるものとしてメディアで大きく取りあげられていた(1)。

インタビュアーが言わんとしていたのは、つまりこういうことだ。

多くの人が信じているように、ものごとはすべて遺伝子に原因があり、その遺伝子を見つけさえすれば万事は解決するのではないか?そして、ものごとを悲観的に見るか楽観的に見るかという心の姿勢──わたしのいう「アフェクティブ・マインドセット」──も、突き詰めればただひとつの遺伝子によって引き起こされているのではないか?たしかに、遺伝子の相違と人生観の相違の関連をわたしが研究しはじめたのも、まさにこの「個々の細胞の奥深くには、悲観の遺伝子や楽観の遺伝子が潜んでいるのではないか」という推測がきっかけだった。

これはたいへん魅惑的な考えだ。

取材を何度も受けるうち気づいたことだが、遺伝子の配列が人格をつくるという概念に、多くの人はとても強い興味を示す。

どうやらわたしたち人間には、「すべては遺伝子のせいなのだから、自分ではどうにもできない」と信じたい、大いなる必然があるらしい。

現代の分子遺伝学の進歩によって、アフェクティブ・マインドセットを生物学的にさらに精密に調べることは、たしかに可能になった。

脳の回路のはたらきにいくつかの遺伝子が影響を与えることや、その遺伝子に個人間で相違があることはすでにわかっており、人格の原因遺伝子を突き止める可能性の扉は開かれたといえる。

これは遺伝学と神経科学と心理学をひとつに結ぶ非常に刺激的な分野だ。

脳内回路のさらに奥へもぐり、回路を支える神経伝達物質──いわば脳内の化学的メッセンジャー──が脳の中でどんなふうに作用するかを検証するのが、このアプローチだ。

現在急成長しているこの分野では、毎日のように新しい事実が発見されている。

だが、そうした研究からあきらかになったのは、「性格とはつまるところ先天的なものなのか、後天的なものなのか」という問いにあまり実際的な意味がないことだ。

これは今や時代遅れと言ってもいい、非常に偏狭な問いだ。

納得してもらえるかどうかはわからないが、楽観や悲観が何か単一の遺伝子によるものでないことは、すでにはっきりしている。

個々の人生観の相違は遺伝子だけでなく、もっとちがうところからも生じている。

環境が遺伝子のはたらきを強めたり妨げたり、逆に遺伝子が人の経験を左右したりという、複雑な相互作用の中から個々の人生観はつくられていく。

このしくみは非常に複雑で、まだ十分解明されてはいないが、楽観的もしくは悲観的な性質がどのように出現するかについては、驚くほど多くのことがわかってきている。

遺伝子が重要なのはもちろんだ。

だが、遺伝子が単独で作用するわけでないこともまたあきらかだ。

つまり遺伝子だけが、人格の土台をつくる鍵だとはいえないのだ。

「氏か育ちか」を、双生児で調べる人生観の形成に遺伝子と環境がどうかかわるかを解明するために、これまでにさまざまな手法が用いられてきた。

遺伝子に関する伝統的な研究を主に支えてきたのは、いわゆる双生児調査だ。

多数の一卵性双生児(遺伝子を一〇〇パーセント共有する)と二卵性双生児(遺伝子を五〇パーセント共有する)をサンプルにとって、それぞれが感じている悲観度と楽観度を比較すれば、そうしたものの見方のどのくらいが遺伝子のせいなのか、推論できる。

たとえば一卵性双生児のふたりが二卵性双生児に比べ、自分のことを悲観的だと感じる度合いが近いとしたら、二卵性双生児の悲観度の相違は遺伝子の相違のせいだということになる。

双子は家庭や育った環境などの条件がほぼ同じだろうと考えられるからだ。

この種の調査の中でこれまででいちばん大規模なものは、約四万六〇〇〇人の双子とその近親者の協力を得て実施されたアンケート調査だ(2)。

質問が行われたのは、双子それぞれの神経症の度合いについてだ。

ちなみに神経症は、レイニーブレインの回路の重要な目印のひとつである。

遺伝子が個々の性質に寄与する度合いは専門的には〈遺伝率〉と呼ばれるが、この調査では神経症の遺伝率は女性で四一パーセント、男性で三五パーセントという結果が出た。

いいかえれば、自分を神経症や不安症だと感じる度合いは、三分の一程度が遺伝によるということだ。

わたしは以前、ロンドン大学キングス・カレッジの双生児研究ユニットと共同で、楽観の遺伝率を調査する機会を得た。

ティム・スペクター教授はこの実験のためにイギリス在住の八〇〇〇組以上の双子に登録してもらい、二〇〇九年十一月、登録したほぼすべての双子に楽観の度合いを測るLOT‐Rの質問票を送付した。

回答を約七カ月後に集計した結果、楽観度の相違は二卵性双生児に比べて一卵性双生児のペアのほうが少ないことがわかった。

神経症についてのアンケート調査と同様、楽観の遺伝率は四〇パーセント前後と計算された。

だが、双生児調査には大きな難点がある。

どの特定の遺伝子が異なる精神態度の形成にかかわっているかが、まったくわからないことだ。

わかるのはただ、遺伝子全般が性格形成に重要な役目を果たしているらしいという、そのことだけだ。

遺伝子とはそもそも何なのか?レイニーブレインやサニーブレインの回路と密なかかわりをもつことが判明している神経伝達物質には、ドーパミンやセロトニンなどがある。

これらの神経伝達物質のはたらきにどの遺伝子が影響を与えるかを特定することが、性格形成にかかわる遺伝子を正確に割り出すための論理的な出発点となる。

これは現代の神経科学と心理学における最大のテーマのひとつだが、この探究におおいに追い風となったのが、二〇〇四年にヒトゲノムが完全解読されたことだ。

この大躍進によって、人格を形成する遺伝子がようやくピンポイントで特定されるという期待と興奮が生まれた。

だが、多くの科学者の期待は裏切られた。

ヒトゲノムの解読以後も性格の原因遺伝子は発見されず、そのかわりに、さらに複雑で、より興味深い筋書きが浮かび上がってきたのだ。

この領域で何が起こっているのか把握するためには、まず、遺伝子とはじっさいに何なのかをきちんと理解する必要がある。

もともと遺伝子とは、親の体から受け継がれる何かの物質の単位のようなものだと考えられていたが、一九五三年にフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンがDNAの二重らせん構造を発見して以後、現代の遺伝子学者は遺伝子をDNA上の特定の配列としてとらえている。

DNAの情報はヌクレオチドと呼ばれる四つの化学塩基──アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)──から成る遺伝暗号として貯蔵されており、これが生命というブロックの土台になる。

これら四つの塩基がたがいに(AがTと、CがGと)結びついたとき、DNAの構造の核となる基本のペアが形成される。

わたしたちが遺伝子と呼んでいるのは、これらのペアの特定の配列の先頭に〈プロモーター〉と呼ばれるDNAの一部分がくっついたものだ(次ページの図参照)。

DNAは世代から世代へと受け継がれ、まれにランダムな突然変異は起こるものの、その配列はほとんど変わることがない。

一九八〇年代に分子遺伝学が築かれて以後、遺伝子とは何か、それはどのようにはたらき、人間の多様な特質や性格にどう作用するのかという情報がつぎつぎ解明された。

これは非常にスケールの大きな科学であり、二〇〇四年にはヒトゲノムの解読という人類史上の画期的な発見をもたらした。

人間の性格のおおもとにたどり着くためには、ロードマップがぜひ必要だ。

ヒトゲノムの配列はまさにそのロードマップだった。

様々な特質の鍵になる変異「スニップス」人の遺伝子の多くには、体や脳に作用する変異がごく一般的に見られる。

この変異は一塩基多型(以下、スニップス:189ページの図参照)と呼ばれ、人が何かの病気を発症したり、何かの性格的特質をもちやすいかを占ううえで、重要な鍵になると考えられている。

神経伝達物質に影響する遺伝子上のスニップスは、人が楽観と悲観のどちらを抱きやすいかに、おそらく影響を与えているはずだ。

これまでにわかっているのは、わたしが「アフェクティブ・マインドセット」と呼ぶ心の状態にドーパミンやセロトニンなどの神経伝達物質が関係していること、そしてこれらの神経伝達物質のはたらきにいくつかの遺伝子上のスニップスが影響を与えることだ。

そうした遺伝子の中でもいちばん有名なのはセロトニン運搬遺伝子で、これは脳内のセロトニンのレベルを調節するはたらきをもち、ストレスへの耐性に関連している。

もうひとつよく知られているのが、ドーパミンのレベルに影響を与えるドーパミン受容体D4遺伝子だ。

この遺伝子上のスニップスは、アルコールを摂取したりチョコレートを食べたりといった快楽にまつわる心の動きに影響を与えている。

足を踏み入れてみると、分子遺伝学にはふたつの派閥があった分子遺伝学の進歩を知るにつけわたしは、自分が研究室で行っている心理学や神経科学の研究と遺伝子科学とを結びつければ、「悲観的な人と楽観的な人がいるのはなぜか」という謎を解く大きな一歩になるはずだと考えるようになった。

ところが分子遺伝学の世界では、どんなアプローチの仕方が最善かを巡って、ふたつの派閥が対立していた。

わたしが足を踏み入れたのは、そうした派閥抗争の最前線だった。

ふたつの陣営の研究者はどちらも情熱的で強烈な個性派ぞろいで、自説を曲げて相手と折り合う気などまるで持ちあわせていなかった(3)。

双方の主張を簡単に言えば、こういうことになる。

片方の陣営が提唱するのは、特定の神経伝達物質に影響を与えると判明している特定の遺伝子を、神経生物学をもとに研究することだ。

これは〈候補遺伝子アプローチ〉と呼ばれる手法だ。

いっぽう反対陣営の主張は、「問題の遺伝子を正確に突きとめられるほど神経生物学は進んでおらず、原因遺伝子を特定するには多数の人々の遺伝子をくまなく検証するべきだ」というものだ。

この立場は〈ゲノムワイド関連解析〉と呼ばれる。

ドーパミンに影響する遺伝子は統合失調症にも関係する?ある疾患に感受性のある遺伝子を探すには時間も費用も膨大にかかる。

それを探す理由はつまり、遺伝子の中に特定のスニップスをもつ人は何かの病気を発症するリスクが高いからだ。

たとえば、肺がんに弱いスニップスをもつ人はもともと肺がんを発病する可能性が高く、喫煙の習慣があればさらにそのリスクは増す。

それと同様に、不安を強く感じとるスニップスがもし存在するとしたら、そのスニップスを生まれもった人は強いトラウマを体験したとき、不安に関連する深刻な問題に悩まされる危険が高いことになる。

この候補遺伝子アプローチに最初の大きな躍進をもたらしたのは、メリーランド州ベセスダにある国立精神衛生研究所の実験精神科医ダニー・ワインバーガーだった(4)。

彼が着目したのは、脳内のドーパミン分泌に影響を与えるCOMTと呼ばれる遺伝子だ。

他の神経伝達物質と同じくドーパミンは脳内のさまざまな機能にかかわっているが、その大きな役目のひとつは快感の回路の活動性を保つことだ。

だからドーパミンは、サニーブレインにとって非常に重要な存在だといえる。

このドーパミンの分泌が少なすぎると、パーキンソン病などの運動障害が起こる。

いっぽうドーパミンの過剰は、統合失調症の患者に多く見られる現象であることがわかっている。

ワインバーガー率いる研究チームは統合失調症がドーパミン過多と関連している事実に着目し、健康な人のあいだでも生まれつき相違があるCOMTという遺伝子について研究を行った。

このCOMT遺伝子が脳内でドーパミンを分解し、ドーパミンの量を適正に保つはたらきをしていることや、この遺伝子に特定の変異があるとドーパミン分解機能が十分はたらかないことはすでにわかっていた。

この特定の変異があるとドーパミンを効率よく分解できず、そのために、統合失調症患者ほど高くはないが平均よりも高い値のドーパミンが脳内に滞留することになる。

ワインバーガーのチームはCOMT遺伝子の作用に関するこの知識を、「統合失調症の患者は前頭前野の活動度が低く、しばしば記憶に不調が生じがちだ」という知識とあわせて考えた。

COMT遺伝子に変異があって本来の機能を十分果たせなくなっている人は、同じ遺伝子が効率よくはたらく人に比べて前頭前野の活動度が低く、記憶にまつわる能力も統合失調症患者と同じように低いのではないか、というのが研究チームの推論だった。

彼らは脳スキャンと認知テストで実験を行い、推論通りの結果を得た。

完全な健康体だが遺伝子に特定の変異があり、脳内のドーパミン値が若干高い被験者グループは、脳内の活動パターンが統合失調症の患者とよく似ていたのだ。

そこから浮かび上がってきたのが、COMT遺伝子におけるこの特定の変異が統合失調症の早期の警告サイン──いうなれば、統合失調症の生物学的なマーク──として有効なのではないかという可能性だ。

ワインバーガーによるこの画期的な発見は候補遺伝子アプローチに大きなはずみをつけ、さまざまな精神疾患の関連遺伝子を特定しようという探究の動きに拍車をかけた。

原因遺伝子へとさかのぼってゆくには遺伝子が精神に与える作用を理解するためには、臨床的診断に着目するのではなく、特定の認知プロセスや特定の回路の活動性を調べるほうが適切だ、というのが候補遺伝子アプローチの考え方だ。

統合失調症や抑うつ症などの臨床的な症状はあまりにも多様で、そのすべてを単一の遺伝子で説明するのは無理があるからだ。

たとえば抑うつ症の症状は、感情ややる気や性的欲望や生理学的な反応など、さまざまな面であらわれる。

そこには多くの遺伝子と環境的要素がかかわっていると考えるのが自然だ。

候補遺伝子アプローチが提唱するのは、科学の世界で〈中間表現型〉と呼ばれるものを観察することだ。

それは、中間表現型の特徴やメカニズムが遺伝子の機能に一歩近いものだからだ。

最近出版された遺伝子の研究書『HowGenesInfluenceBehavior』の言葉を借りるなら、候補遺伝子を探すのは川の下流から水源を見つけようとする試みに似ている(5)。

川下から見あげただけでは、流れのおおもとがどこにあるのか突きとめるのは至難の業だ。

けれど、山のふもとに近づけばそれだけ、水がわき出ている地点を見つけられる可能性は高まる。

臨床的判断から遺伝子を突きとめようとするのは、たとえていえば、遺伝子上の営みが行われている遠い丘を何キロも離れた場所から見上げるようなものだ。

だが中間表現型に着目すれば、先のたとえで言うなら、川の流れに沿って時おり歩みを止めながら源流へ──つまりは問題の遺伝子へとじりじり近づいていくことができる。

このアプローチのおおもとにある考えは、「遺伝子を出発点にさまざまな事象が連鎖的に発生する」というものだ。

まず遺伝子がタンパク質をつくり、タンパク質が細胞を形成する。

形成された細胞は脳内で回路をつくり、それが究極的には人間が何かを見たり聞いたり感じたり記憶したりするのを助け、それらすべてがあわさって気質や人格が発生する。

この過程のどこかで何かが滞ると、何らかの臨床的な症状が起きる可能性がある。

要するに、抑うつの診断を受けたというだけでその原因遺伝子を特定するのはむずかしいが、その人のレイニーブレインの回路が恐怖にどう反応するかがわかれば、めざすゴールにわずかでも近づいたことになるのだ。

アルコール依存症にかかわる遺伝子オランダのナイメーヘンにある行動科学研究所の心理学者、ヘレ・ラーセンは候補遺伝子アプローチを効果的に用いた実験を行い、アルコール依存症の発生と遺伝子とのかかわりを検証した(6)。

ラーセンは、遺伝子の機能に近いのは症状(アルコール依存症)よりも実際の行動(飲酒)のほうだと考えた。

たいていの人には覚えがあるだろうが、酒をたくさん飲む人に囲まれていると、自分もつい大量のアルコールを摂取してしまうものだ。

ラーセンが突きとめたのは、前出のドーパミン受容体D4遺伝子に七回以上の反復配列というスニップスがある人は、周囲の飲酒習慣にとりわけ流されやすい傾向があることだ。

ラーセンは一〇〇人の学生を対象に次のような実験を行った。

一〇〇人の中にはこの遺伝子が長い(七回以上の反復がある)タイプの人と、そうでない人の両方が含まれている。

ラーセンは被験者をひとりずつバーに連れて行き、そこで実験の共謀者と落ちあった(社会心理学の昔ながらの手口だ)。

共謀者はソフトドリンクしか注文しない場合もあるし(対照群)、ソフトドリンクとアルコールの両方を飲む場合もあるし(軽度の飲酒群)、アルコールしか飲まない場合もある(重度の飲酒群)。

そうしてそれぞれの飲み物を飲みながら、彼らは実験が次の段階に進むのを待った。

結果はあきらかだった。

次のグラフからわかるように、ドーパミン受容体D4遺伝子に七回以上の反復配列がある人は、たしかにアルコールを大量に摂取していた。

だがそれは、大量に飲酒する人がそばにいたときだけだった。

遺伝子と環境との相互作用を示す好例となったこの実験は、ドーパミン受容体D4遺伝子に特定の変異がある人は、一緒に飲んでいる相手のペースにあわせて飲酒する傾向がもともと強く、まわりがみんな飲んでいる場では飲酒を途中で止めるのが困難なことをあきらかにした。

対立する陣営、ゲノムワイド関連解析の反論候補遺伝子の研究がいくつも成功をおさめたにもかかわらず、反対陣営は依然このアプローチにまったく納得していない。

急先鋒に立つのは、オックスフォード大学内ウェルカム・トラスト・センター(イギリスに本拠を置く医学研究支援団体)のヒト遺伝子研究所で精神病遺伝学部門を率いるジョナサン・フリントだ(7)。

フリントいわく最大の問題は、何千もの人を対象にした複数の大規模調査でも、単一の遺伝子と性格上の特質との相関性は、微細なレベルしか認められていないことだ(8)。

神経症の調査では症状の相違のうち、特定の遺伝子のせいだと考えられるのはわずか二パーセントだった。

ワインバーガーが統合失調症の危険因子だと主張した、COMT遺伝子についてはどうだろうか。

カーディフにあるウェールズ大学心理医学部の遺伝学者マイケル・J・オーウェンと同僚は一九九六年、統合失調症患者のCOMT遺伝子の特質を調べるため、七八人の患者と、同じ年齢の健康な被験者七八人に実験を行った。

その結果、統合失調症の患者の五一パーセントにCOMT遺伝子の不活性型変異がたしかに認められたものの、健康な被験者の五三パーセントにも同じ変異があることが判明した。

フリントが指摘するように、「問題の遺伝子の機能不全は、統合失調症患者だけに広く見られる症状ではけっしてなかった」のだ。

遺伝子の世界の根底にある生物学的な側面はまだ解明されていない部分が多く、現状では原因遺伝子を正しく拾い出すのは困難だというのが、フリントをはじめとする反対派の考えだ。

ハーバード大学の遺伝学者、スティーヴン・ハイマンは次のように述べる。

「候補遺伝子アプローチはいうなれば、自分で自分の弁当箱を詰めてから、中身は何かとのぞいてみるようなものだ」。

候補として拾い出した遺伝子がもし誤りだったら、膨大な時間とカネが水の泡になってしまう。

フリントやハイマンらによれば、最善の方法は、膨大な数の被験者のひとつひとつの遺伝子とスニップスをすべて検証するゲノムワイド関連解析だ。

これは大規模で時間のかかる調査で、実施には何百万ドルという巨額の費用が必要だが、大きな利点がある。

利点のひとつは、通常一〇〇〇人単位の非常に大きな規模で行われるため、結果の信頼性が高いことだ。

調査の対象となる人数が多いほど正確な結果が得られるのは、統計学上の単純な事実だ。

たとえばあなたが、オレンジを食べることでインフルエンザの罹患率を下げられるかどうか知りたいとする。

そして、わたしからこんな話を聞いたとしよう。

「ふたつのグループで一年以上にわたる実験をしました。

両グループの被験者はまったく同じ食事をし、まったく同じ量の運動を行います。

唯一のちがいは、片方のグループはオレンジを毎日ひとつ食べ、もう片方のグループは食べなかったことです。

実験開始から一年後、オレンジを毎日食べたグループのインフルエンザ罹患率は三〇パーセント、食べなかったグループの罹患率は五〇パーセントだったとわかりました」。

この話を聞いたらあなたは、来年はたくさんオレンジを食べようと結論するのではないだろうか。

けれどもしわたしが、各グループの構成員はわずか一〇人で、インフルエンザにかかった人はそれぞれ一〇人中三人と一〇人中五人だったと話したら、きっとそれほど心を動かされないはずだ。

いっぽう、各グループの構成員が一〇〇〇人だったら、きっと結果にもっと納得するし、もしもそれが一万人だったら、すぐにでもオレンジを買いに出かけるだろう。

統計とはつまり、全人口における真実とは何かを評価することだ。

そして、すべての人を調べるのはたいてい無理である以上、より正確な評価を下すためにはサンプル数を大きくするしかない。

この点、大規模なゲノムワイド関連解析が候補遺伝子アプローチに優ることに疑問の余地はない。

ゲノムワイド関連解析の限界ジョナサン・フリントは、イギリス国内のウェルカム・トラストから財政援助を受ける科学チームに属しており、このチームは遺伝子と疾病に関する最大規模のゲノムワイド関連解析を他に先駆けて行った。

彼らは一般的な疾患を七つ選び、各疾患ごとに二〇〇〇人、合計で一万四〇〇〇人の患者を集め、それぞれの遺伝子配列を丸ごと一式分析した。

研究チームはさらに、それらの患者と年齢や性別やライフスタイルなど一連の重要な因子が類似する対照群の被験者を合計三〇〇〇人、入念に選び出した。

こうして、計一万七〇〇〇人の遺伝子をすべて検証するというマンモス級の調査が行われた。

すべてのデータ分析が終了すると、次のことがあきらかになった。

すくなくともいくつかの疾患については、鍵となる遺伝子がたしかに存在するようだった。

たとえば冠動脈疾患については、患者群と対照群とのあいだでひとつの遺伝子に相違が認められたし、クローン病については八つの遺伝子に相違が発見された。

だが、この重要な遺伝子も、かならずしも疾患になるかどうかを決定はしないのだ。

遺伝子に特定の変異があったとしても、絶対その病気にかかるわけではない。

かかる確率は統計的にはたしかに増すが、遺伝子と発病との相関性は低かった。

それぞれの疾患の鍵と目される遺伝子上の変異は、罹患率を二パーセントから五パーセント程度上げているに過ぎなかったのだ。

フリントが主張するように、おおかたの病気には数多くの遺伝子が影響しているらしく、単独の遺伝子が関与する度合いはごく小さなものだった。

だからこそフリントは、単一の遺伝子から多くを説明しようというアプローチに納得しなかったわけだ。

ゲノムワイド関連解析には欠点もある。

多くの科学者が指摘するのはこの手法が、できるだけ広い範囲に網を放って何がかかるか見てみるというような、いわば手当たりしだいのアプローチであることだ。

手法そのものは別に悪くはない。

何を探そうとしているのか明確な目標がないときには、とりわけそうだ。

だが裏を返せばそれは、何を探しているかについて明確な仮説がないという意味だ。

そして、明確な仮説をもつことは科学の重大な指針のひとつだ。

さらに大きな問題は、調査の規模が大きいため、被験者それぞれの脳内回路や認知バイアスについて詳しく調べるのが困難なことだ。

このアプローチで典型的に用いられるのは、被験者に電話でインタビューをしたり、性格についての質問票に回答してもらったりというやり方だ。

これでは、ゲノムワイド関連解析で用いられる評価項目は往々にして、候補遺伝子アプローチに比べて大雑把なものになってしまう(9)。

心の傾向の原因遺伝子を正しく拾い出すための知識は、まだ十分集まってはいない。

だが、「アフェクティブ・マインドセット」の背後にある神経生物学な側面は、すでにかなり解明されてきた。

精神の健康にかかわる神経伝達物質がさらに多く発見されれば、候補遺伝子アプローチの魅力はそれだけ増すことになるはずだ。

たとえば、神経伝達物質のひとつであるドーパミンと統合失調症との、あるいはドーパミンと飲酒とのかかわりがあきらかなら、統合失調症や飲酒にまつわる何らかの特性には、ドーパミンに作用する遺伝子の変異が関与している可能性が高い。

これがワインバーガーやラーセンのアプローチだ。

まず予測を立て、それから裏づけとなる証拠を探す。

ラーセンが率いる研究チームもまさにこうして、「ドーパミン受容体D4遺伝子に七回以上の反復というスニップスがある人は、酒を大量に飲む人と一緒にいると自分も飲みすぎがちだ」という予測を立てた。

そして予測は的中した。

候補遺伝子アプローチとゲノムワイド関連解析は、究極的にはたがいに補いあうことができる。

ゲノムワイド関連解析で潜在的な候補遺伝子を割り出したら、次は候補遺伝子アプローチで、もっと被験者の数を絞り、精度の高い詳細な調査を行っていけばよい。

わたしがこれまでかかわってきた研究は、候補遺伝子アプローチによるものだ。

この手法が、精神の強さと弱さの原因遺伝子を探すうえできわめて有効だからだ。

わたしが特に注目してきたのは、セロトニン運搬遺伝子だ。

それにはふたつの理由がある。

ひとつ目の理由は、この遺伝子についてはその神経生物学的な作用がかなりのところまで解明されていること。

ふたつ目の理由は、この遺伝子の特定の型が不安や抑うつに弱い遺伝子であるらしいことが、多くの研究から示唆されていたからだ。

この遺伝子についてわたしが著したのが、楽観の原因遺伝子発見を期待させる──結果的にこれは誤りだったわけだが──としてマスコミに騒がれた論文だったわけだ。

セロトニン運搬遺伝子とは何かセロトニン運搬遺伝子は、神経科学と精神科学の分野でこれまでもっとも熱心に研究されてきた遺伝子のひとつだ(10)。

他の神経伝達物質と同じくセロトニンも脳内でさまざまなはたらきをするが、中でもいちばん重要な機能が気分の安定だ。

それゆえセロトニンはしばしば、脳内のハッピー・ケミカルと呼ばれる。

このセロトニンの機能がうまくはたらかないと、その結果、不安症や抑うつ症が起こる可能性がある。

セロトニン運搬遺伝子は脳内のセロトニンのレベルを適正に保つはたらきをし、それゆえまず、感情の調節に──いいかえれば気分の浮き沈みのコントロールに──かかわっている。

人間のDNAの中にはかならずこのセロトニン運搬遺伝子が含まれているが、その中身は人によってちがう。

人はそれぞれの両親からこの遺伝子の長いタイプと短いタイプのどちらかを受け継ぐため、可能性として三つの遺伝子型が存在する。

つまり、短いタイプがふたつのSS型、長いタイプがふたつのLL型、短いタイプと長いタイプがそれぞれひとつずつのSL型の三種類のどれかを、人はかならず持ちあわせているわけだ。

この遺伝子は、脳細胞とその周辺から余剰のセロトニンを運搬し、再吸収にまわす役目を果たす。

短いタイプの遺伝子はこのはたらきが鈍く、シナプスを追いかけてそこから余分なセロトニンを運び去るのに長い時間がかかる。

このため、短いタイプがふたつのSS型、つまりセロトニン運搬遺伝子の「発現量が低い」人は、余分なセロトニンが脳細胞の周辺に長時間とどまりつづけ、再吸収にはまわらないことになる。

逆に長いタイプがふたつのLL型は「発現量が高く」、余分なセロトニンを効率よく運び去り、迅速かつ効率的に再吸収することができる。

いっぽう、長いタイプと短いタイプを一本ずつもつSL型の人は、この遺伝子の「発現量が中程度」ということになる。

セロトニン運搬遺伝子の研究の短い歴史このセロトニン運搬遺伝子に注目が集まったのは、逆境における心の強さや弱さに遺伝子と環境がどう作用するかという、最初の研究が始まったころだ(11)。

ロンドン精神医学研究所のテリー・モフィット率いるチームは、テリーのパートナーであるアブシャロム・カスピとともに、現在では一種の古典となったある研究を行った。

彼らが検証したのは、ストレスへの耐性にこの特定の遺伝子が関与しているかどうかだ。

研究チームが追いかけたのは、ニュージーランド南島を本拠に二三年がかりで行われた「ダニーディン・子どもの健康と発達に関する長期追跡研究」の参加者八四七名だ。

調査開始当時、参加者はみな三歳で、以後二三年のあいだ、定期的に聞き取り調査を受けたりテストを受けたりした。

調査の最後の五年間、つまり参加者が二一歳から二六歳のあいだ、それぞれが経験してきたストレス度の高い出来事についてとりわけ入念な査定が行われた。

愛する人を亡くしたり、重い病

気にかかったり、恋や愛に破れたりといった出来事はすべて、もれなく書き記された。

参加者が二六歳のときに行われた最後の聞き取り調査では、過去に深刻な抑うつを経験したことがあるかどうかの綿密な審査も行われた。

臨床的措置を要する抑うつ症と診断された被験者は、ぜんぶで一四七人いた。

研究者らが大きな興味を抱いたのは、被験者の遺伝子型が診断結果に関連しているかという点だ。

具体的にいえば、抑うつ症の診断を受けた人の中に、発現量が低いSS型のセロトニン運搬遺伝子をもつ人が多く含まれていたかどうかだ。

答えは一見、意外なものだった。

「大きなストレスを体験しなかった」と報告した被験者に限れば、抑うつ症と診断される確率は、SS型の遺伝子をもつ人もLL型の遺伝子をもつ人も、ほぼ同率だったのだ。

セロトニン運搬遺伝子の発現量のちがいは、抑うつ症の発症に無関係のように見えた。

だが、どれだけのストレスを人々が経験したかを考慮に入れると、まったくちがう構図が浮かび上がってきた。

過去に大きなストレスを四つかそれ以上体験していた場合、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人の抑うつ発症率は四三パーセントまで上がった。

いっぽう、大きなストレスを四つ以上経験していても、発現量の高いLL型の遺伝子をもつ場合、抑うつ発症率はその約半分にとどまった。

つまり抑うつ症に関しては、遺伝子の組成と環境との相互作用がたしかに存在するらしいのだ。

遺伝子単独では大きな影響はなくても、ストレスの高い出来事と結びつくと有害な結果が引き起こされるわけだ。

この遺伝子の発現量が低い人はストレスに非常に弱いが、発現量が高い人は、逆境におちいってもネガティブな影響はあまり受けず、難なくその経験を乗り越えてしまうらしかった。

苦難や逆境におちいったときだけこの遺伝子が精神の健康に影響するのは、驚くにはあたらないことだ、とテリー・モフィットは指摘する。

「マラリアが存在しない地域に住む人ばかりを調べても、マラリアに弱い遺伝子を見つけられる確率は低いでしょう」と彼女は言う。

「同じように、もしも抑うつや不安に弱い遺伝子を見つけたければ、あるいは統合失調症や他の深刻な問題の原因遺伝子を見つけたければ、ストレスを受けている人々に光を向ける必要があるはずです」疾患感受性遺伝子はたしかに弱さをはらんでいるが、何か悪いことが起こらないかぎりその弱さはなりをひそめている。

この種の弱さは、ゲノムワイド関連解析では見落とされてしまいがちだ。

この手法では、人々がどんな生活を送っているかという詳細な情報まではなかなか得られない。

そのため、大きな影響力をもつかもしれない遺伝子が、見逃されてしまう危険があるのだ。

何かに「弱い」遺伝子でなく、何かに「強い」遺伝子を求めて科学の世界では今、何が人を幸福にするかを解明するため、楽観や健康な精神についての詳しい研究が始まっている。

つまり、「何かに弱い」遺伝子だけでなく、「何かに強い」遺伝子や「楽観をもたらす」遺伝子の探究がスタートしたということだ。

何が人を絶望させるかだけでなく、何が人を幸福にしたり楽観を抱かせたりするのかについても徐々に解明が進みはじめたことで、こうしたポジティブな面への注目は高まっている。

ここでもまた先頭に立ったのは、アブシャロム・カスピとテリー・モフィットの二人だった(12)。

二〇〇二年に『サイエンス』誌に発表した論文で彼らは、子どもを対象に行ったある調査を紹介している。

被験者になったのは深刻な児童虐待に遭った子どもと、そうした経験のない対照群の子どもたちだ。

予想されたことではあるが、虐待を受けた子どもは精神衛生上の深刻な問題を発症する確率が、対照群と比べて著しく高かった。

こうした子どもは争いごとを起こしやすく、反社会的な行為で捕まる例も多く見られた。

興味深いのは、深刻な虐待を受けたにもかかわらず、そうした問題を何も起こさない子も少なからずいたことだ。

これはどういうことだろう?彼らの心を打たれ強くした原因は何なのだろう?カスピとモフィットは、虐待の恐怖に対する子どもの反応がモノアミン酸化酵素A遺伝子(以下、MAOA遺伝子)という特定の遺伝子に強く関連していることを発見した。

人間はみなこのMAOA遺伝子を、発現量の低いタイプか高いタイプかのいずれかで持ちあわせている。

発現量が高い人は、特定の神経伝達物質をうまくコントロールできる。

そして、この遺伝子の発現量が高い子どもは、虐待を受けてもうまくそれに対処することができていた。

この遺伝子はいわば緩衝材のようにはたらいて、虐待の有害な作用を和らげているらしい。

逆に、虐待を受けた子どものMAOA遺伝子が発現量の低いタイプだった場合、その子は暴力や非行に走りやすい傾向があり、裁判所に送られる事例も多かった。

遺伝子と環境が相互に作用し、人生の成功や幸福度を左右することは、この例でもあきらかなようだ。

リスクを回避する遺伝子タイプ遺伝子と環境との相互作用は、快感の回路のはたらきにも重要なかかわりをもつ。

特にはっきりした関連がわかっているのは、リスク含みの行為に人がどれだけ引き寄せられるかだ。

ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の心理学者らは、脳内でセロトニンとドーパミンのレベルを調節しているふたつの遺伝子のスニップスが、リスク含みの経済上の意志決定に関連していることを、次のような実験であきらかにした(13)。

被験者はそれぞれ少額の金を与えられ、その資金を自分の意志次第で危険な選択肢にも安全な選択肢にも投資することができる。

そして、選んだ金融商品の実績にもとづいて配当金を与えられる。

セロトニン運搬遺伝子の発現量が低いSS型の人は、リスクに手を出す率がほかの人々より二八パーセントも低いという結果が出た。

セロトニン運搬遺伝子の短い型は、リスク回避の役割を果たしているらしい。

いっぽう、脳内のドーパミン分泌にかかわるドーパミン受容体D4遺伝子が長いタイプ(七反復以上)の人は対照群と比べて、リスクを冒してでも儲けを増やそうとする率が二五パーセント高かった。

被験者がみなふつうの人々で、その遺伝子上の変異も一般的なものであることを考えると、これらの結果は大いに注目に値する。

ごく一般的な遺伝子型のちがいによって、リスクに対する積極性にはあきらかな相違が認められたのだから。

セロトニン運搬遺伝子が恐怖の回路にも関係していたセロトニン運搬遺伝子に話を戻そう。

候補遺伝子アプローチを強く提唱したアフマド・ハリーリーはある実験を行い、恐怖に直面したときの扁桃体の反応に、セロトニン運搬遺伝子のスニップスが影響を与えるか否かを検証した(14)。

ハリーリーの研究チームは実験のために、セロトニン運搬遺伝子の短い型をすくなくともひとつはもっているSS型もしくはSL型の被験者を一四人と、長い型しかもたないLL型の被験者を同数の一四人選んだ。

被験者はそれぞれ脳スキャナーの中に仰向けになり、さまざまな表情を浮かべた顔写真を順に見る。

恐怖や幸福の表情を浮かべた顔もあれば、ほとんど無表情な顔もある。

先に紹介したレイ・ドランの実験結果から予測されるように、恐怖の表情の顔写真は扁桃体に激しい反応を引き起こした。

しかし、扁桃体が特に激しく反応したのは、セロトニン運搬遺伝子が短い型の人々だった。

この発見を再確認するために研究チームは、同じ条件の被験者を新たに二グループ集め、まったく同じ実験を行った。

結果はやはり、セロトニン運搬遺伝子の型が短い場合、扁桃体の反応はより激しくなるというものだった。

この遺伝子の型が短い人は、扁桃体が危険に過剰に反応しやすい。

ということは、何か良くないことが起きるとすぐにそれに影響されがちなはずだ。

わたしの実験で楽観の遺伝子が発見された?わたしは自分の研究室で、この遺伝子の型が注意バイアスに与える影響を検証した(15)。

注意バイアスは前にも説明した通り、レイニーブレインとサニーブレ

インの根底にある礎石のようなものだ。

わたしたちは標準的な注意プローブ課題を使って、ポジティブな画像とネガティブな画像のどちらに被験者の注意が偏っているかを調べ、さらに被験者のセロトニン運搬遺伝子が短いタイプ(SS型)か、中間タイプ(SL型)か、長いタイプ(LL型)かも調査した。

実験の結果(次ページの図を参照)、遺伝子のタイプによって注意バイアスにはっきり差があらわれることがわかった。

発現量の高いLL型の遺伝子をもつ人はポジティブな画像に引かれやすく、発現量の低いSS型もしくはSL型の遺伝子をもつ人は、ネガティブな画像に引き寄せられていた。

予想外だったのは、ある種の画像を避ける方向のバイアスも存在していたことだ。

このセロトニン運搬遺伝子の発現量が高い人は、ポジティブな画像に自然に注意が向かうと同時に、ネガティブな画像をことさらに避けていた。

いっぽう、発現量が低いタイプの遺伝子をもつ人々は、逆に、ポジティブな画像を無視してネガティブな画像に注意を集中しがちだった。

マイケル・J・フォックスの遺伝子を調べるこの実験の結果、セロトニン運搬遺伝子がLL型で発現量が高い人は、構造的にもともと楽観主義なのではないかという可能性が浮上した。

この話をマイケル・J・フォックスが耳にし、当時彼が制作中だった、楽観をテーマにしたドキュメンタリーに参加するよう、わたしをニューヨークに招いてくれたのだ。

プロデューサーは、ぜひともマイケルの遺伝子のタイプを調べ、注意プローブ課題も受けさせてほしいともちかけてきた。

これを受けてわたしは、綿棒でマイケルの口内の頰のあたりを何度かこすって──「すごくヘンな感じ」と彼はコメントした──DNAを採取し、遺伝学のラボ宛てに送った。

翌日にはもう結果が戻ってきた。

マイケルのセロトニン運搬遺伝子はたしかに長い型(LL型)のほうだった。

翌日、準備を万端整えたうえで、わたしたちはマイケルに注意プローブのテストを行った。

結果は予想通りだった。

彼の認知バイアスは、わたしたちがまさに予測していた通りのものだった。

つまりネガティブな画像を避け、ポジティブな画像を優先的に認識する方向にあきらかな偏りが認められたのだ。

マイケルは明るい面を見るだけでなく、無意識にではあるが暗い面を避けていた。

マイケルの実験でも、その他の一〇〇人以上の被験者による実験でも、注意が楽観寄りに偏っているのが特に多く確認されたのは、発現量が高いセロトニン運搬遺伝子をもつ人々だった。

この遺伝子こそが楽観主義の原因遺伝子ではないかという予測は、人々の興味をおおいにかきたてた。

だが、この話にはまだ予想外の展開があった。

予想もしなかった展開わたしがニューヨークから戻って数日後、マイケルのDNAの遺伝子型を調べた研究者から、ある知らせが電話でもたらされた。

「マイケルの遺伝子は確かにLL型なんだ」。

でも、と彼は続けた。

「最近の研究で、LL型遺伝子にはふたつのタイプがあることがわかったんだ」。

ひとつのタイプはLaと呼ばれ、余分なセロトニンを運び去る効果が非常に高い。

もうひとつのタイプはLgと呼ばれるたいへん珍しいタイプで、セロトニンの除去効果はあまり高くない。

効果の強さで言えば、短いS型の遺伝子と同程度だ。

言いかえればこれは、セロトニンの調節機能に関していえば、遺伝子がLgLg型の人はSS型の人と生物学的に変わるところがなく、LaLa型だけがこの機能にすぐれているということだ。

分析をさらに重ねたところ、マイケルのLL型遺伝子は片方だけがこの珍しいLg型であることがわかった。

つまり彼の遺伝子タイプは、ほどほどに効果の高い──といっても、中間域を出るものではない──LaLg型であり、わたしたちが考えていたような非常に効果の高いタイプではなかったのだ。

わたしはそれほど落胆しなかった。

一人の人間をちょっと調べて完璧な結果が得られることなど、そうあるものではない。

けれど新たな疑問が生まれたのは事実だ。

セロトニン運搬遺伝子が長いタイプのLL型であれば、それだけで、その人の認識は楽観寄りになるのだろうか?あるいは単にLL型であるだけでなく、もっと効果の高いLaLa型であることが必要なのだろうか?生物学的によりつじつまがあうのは後者の仮説のほうだ。

「脆弱遺伝子」のほうが楽観的?謎は深まるさらにいくつかの論文がその後続けて発表され、謎は決定的になった。

まず、メリーランド州ベセスダにある国立精神衛生研究所の精神科学医、ダニー・パインがわたしたちとよく似た研究を行い、結果を次のようにまとめた。

注意プローブ課題で調べたところ、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低いSS型もしくはLgLg型の人の注意は、怒りを浮かべた顔に引き寄せられ、発現量の高いLaLa型の人の視線は微笑みを浮かべた幸福そうな顔に自然に引き寄せられていた。

だが、マイケルと同じLaLg型の人々には、LaLa型と同じようなポジティブな方向への強いバイアスは認められなかった。

テキサス大学オースチン校の心理学者、クリス・ビーバーズが行った別の実験では、LL型のセロトニン運搬遺伝子をもつ人はネガティブな画像を避けるという、わたしたちの研究と同様の結果が出た。

だがじつはこの実験でも、「LL型の人はネガティブな画像を回避する」という仮説は、発現量の高いLaLa型にしかあてはまらず、発現量が中程度のLaLg型にはそうした傾向は認められなかった。

どうやら、人の認識を楽観的な方向に押しやるのはLaLa型の遺伝子であり、LaLg型の遺伝子をもつマイケルが楽観主義者なのは、ただの偶然だと考えるのが妥当なようだった。

わたしが自分の学生たちにLOT‐Rの楽観性尺度の設問に答えてもらったところ、先の疑問はさらに大きくなった。

マイケルと同様のLaLg型の遺伝子をもつ学生は、LaLa型の遺伝子をもつ学生よりむしろ楽観の度合いが高かったのだ。

さらに驚きだったのは、回答の結果、全体の中でいちばん楽観的傾向が強かったのは、SS型の遺伝子をもつ学生たちだったことだ。

いったいなぜ?どうしていわゆる〈脆弱遺伝子〉をもつ人々が、いちばんの楽観主義者になりうるのだろうか?こんなふうな難題に遭遇するのは、科学者にとって大きな苦しみだが、同時に大きな喜びでもある。

わたしたちの新たな結論それからまもなく、わたしたちが一年以上かけて行ってきた新しい研究結果がまとまり、LaLa型遺伝子が楽観をもたらすという単純な概念は完全にくつがえされた(16)。

この新しい実験でわたしたちは、遺伝子の発現量が低いタイプ(SS型とLgLg型)と高いタイプ(LaLa型)の双方を被験者に選び、注意バイアスを変えるように仕組まれた課題をそれぞれに与えた。

これは〈認知バイアスの修正〉と呼ばれる手法で、本質的には一種の学習課題だ。

被験者の目の前にはポジティブな画像とネガティブな画像がふたつ一組で一瞬映しだされ、それらが消えたあとどちらかの側に印があらわれる。

被験者はその印をできるだけすばやく見つけ、反応しなくてはならない。

やりかたは注意プローブ課題とまったく同じだ。

だがここには、小さな細工がほどこされている。

幾人かの被験者の場合、印はいつも、嫌悪をもよおす画像のあとにあらわれるようになっているのだ。

別の被験者の場合は逆にいつも、幸福そうでポジティブな画像のあとに印があらわれる。

この仕掛けによって被験者は、課題をこなすうちじきに、ネガティブもしくはポジティブな方向への強い偏りを身につける(どちらに方向づけられるかは、被験者の運しだいだ)。

もしも印がいつも、ネガティブな画像の側にあらわれていたら、被験者の注意はすぐにポジティブな画像よりもネガティブな画像に集まるようになる。

実験を行うと、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人は高い人に比べ、恐怖を感じさせる画像をすばやく探しあてられるようになることがわかった。

これは当然の結果といえるだろう。

脆弱遺伝子をもつ人が、脅威をより敏感に感じとるのは自然なことだ。

それよりも興味深い結果が出たのは、ポジティブな画像に注意を向ける課題を与えられた被験者グループだ。

LaLa型の遺伝子をもつ人がもしほんとうに楽観

的であるなら、彼らはポジティブなものに反応しやすいはずで、嫌悪を抱かせる画像よりも楽しい画像をたやすく感知して当然ではないだろうか?だが、実験からはまたしても、SS型もしくはLgLg型のグループがLaLa型のグループよりも、ポジティブな画像をすばやく探しあてられるという結果が出た。

脆弱遺伝子をもつグループは、ポジティブな画像にいちばん敏感に反応できるグループでもあったのだ。

つまりセロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人々は、ネガティブな画像とポジティブな画像のどちらにも敏感に反応できたわけだ。

これはどうすれば説明できるのだろう?「危険を嫌う」「脆弱な」遺伝子をもつ人々が、なぜ、ポジティブな画像をほかの人々より敏感に感知できるのだろうか?そしてなぜ、いわゆる楽観型の遺伝子タイプの人は、ポジティブな画像への反応が鈍かったのだろうか?それは楽観遺伝子でも、逆境に弱い遺伝子でもなかったわたしはまもなくこれらの実験結果が、ロンドン大学バークベック校の心理学者、ジェイ・ベルスキーによる最新の理論に合致することを知った(17)。

ベルスキーは遺伝子と環境との相互作用に関する過去の研究を細かく検証し、これまでだれも目をとめていなかった事実に気づいた。

それは、神経伝達物質に作用するいくつかの遺伝子の発現量が低い人は、良い環境と悪い環境のどちらにも、敏感に反応しやすいということだ。

セロトニン運搬遺伝子もそのひとつだ。

カスピやモフィットによる有名な研究をはじめ、遺伝子と環境の相互作用を調べた実験のおおかたは、被験者に起きたネガティブな出来事やそれがもたらす悪影響ばかりに焦点をあてていた。

そして、セロトニン運搬遺伝子のSS型など特定の遺伝子型をもつ人が非常にストレスに弱いことがわかると、その遺伝子型には「脆弱」「感じやすい」などのレッテルが貼られてきた。

だが、ベルスキーが指摘するようにわたしたちは、人が良い出来事にどう反応するかも調べる必要がある。

ベルスキーは多数の実験結果をあらためて検証し、データの中からある事実を見いだした。

それは、悪いことが起きたときに非常に不利にはたらく遺伝子型が、良いことが起きたときには非常に大きな利益をもたらすらしいことだ。

先に紹介したカスピとモフィットによる研究では、虐待を受けた子どもの中でもMAOA遺伝子の発現量が低い子は特に、大人になったとき反社会的な行為に走る率が高いという指摘があった。

だがここで見過ごされていたのは、同じタイプの遺伝子をもつ子どもがもし虐待を受けなければ、そうした行為に走る確率はずっと低いことだ。

また、ワシントンにあるアメリカン大学のキャスリーン・ガントハートと同僚による実験からは、セロトニン運搬遺伝子がSS型の人とLgLg型の人、そしてLaLa型の人とがみな同じくらい辛い出来事にあうと、その夜、強い不安にさいなまれがちなのはSS型とLgLg型の人であることがわかっている(18)。

だが、逆に非常に楽しい出来事があった日の晩、SS型やLgLg型の人が感じるストレス度は、LaLa型の人と比べてあきらかに少なかった。

ベルスキーが主張するように、この遺伝子の発現量が低い人はたしかに逆境にいちばん弱くはあるが、そのいっぽうで、幸福につながるようなポジティブな環境に置かれれば、そこからいちばん大きな利益を受けることが多いのだ。

わたしが行った学習実験も結局、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人は高い人に比べ、ポジティブなものでもネガティブなものでも感情的な背景に非常に敏感であるという、先と同様の結論に落ち着いた。

だから、セロトニン運搬遺伝子は「逆境に弱い」遺伝子や「楽観の」遺伝子であるというより、仮にそれが「何かの」遺伝子であるとすれば、「可塑的な」遺伝子だと考えるのが妥当だろう。

セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人はまわりの環境に影響されたり反応したりしやすく、そのため、すばらしい環境や支援に恵まれればそこから大きな利益を引き出せる。

だが、虐待を受けたりまわりから支援を得られなかったりしたときは、深刻な負の影響を受けることになるのだ。

マイケル・J・フォックスとふたたび対話するこれらの新しい結果を考え合わせると、前述のマイケル・J・フォックスの事例はより納得がいく。

注意プローブ課題を行ったとき、彼の脳は楽観的な方向に強く反応していた。

そして彼のセロトニン運搬遺伝子はすくなくとも二本のうちひとつが発現量の低いLg型だった。

つまり彼には、自分をとりまく環境に──それが利益をもたらすものでも、恐怖をもたらすものでも──非常に敏感に反応する素因があるということだ。

テレビのドキュメンタリーを撮ってから約一年後、マイケルはわたしとふたたび会うことを了解してくれた。

わたしは新しく判明した結果について彼に報告したかったし、彼のほうでも自身の楽観主義のルーツについてもうすこし突っ込んだ話をわたしにしたがっていた。

こうして木の葉が茶色く色づき始めたある秋の日、わたしはセントラルパークを抜けてアッパー・イーストサイドにある彼のオフィスに向かった。

ドアを開けると、まず出迎えてくれたのは、巨大だが(ありがたいことに)人懐こい愛犬のガスだった。

続いてあらわれたマイケルは日に焼けた元気そうなようすで、わたしを狭い廊下から広い部屋へと案内してくれた。

写真やゴールデングローブ賞のトロフィーに囲まれた居心地の良い部屋で、彼はわたしに「昔からほとんどいつも、僕は楽天家だったんだ」と話してくれた。

父親は軍人で、家族はみな非常に保守的だったという。

マイケルが子どものころ、家族は彼のことでいつも気をもんでいた。

「僕はひとりだけ、みんなとちがっていたから」とマイケルは説明した。

「僕は物語を書いたりマンガを描いたり、お芝居をしたりバンドで演奏したりするのが好きだった」。

父親は、まったくちがうタイプの人間だった。

あるとき、父親がバンドの演奏を聴きに来た。

終わったあと、父親はおおいに感心したようすでマイケルにたずねた。

「ギャラはちゃんともらったのか?」「もちろん」。

マイケルは答えた。

「二〇〇ドル」「悪くない」。

父親は言った。

「何に使うつもりだ?」「アンプを四〇〇ドルで借りたから、まずそれを返すところから始めなくちゃ」父親はがっくりして立ち去ったという。

家族がみなマイケルのことをまともに受け入れてくれない中で、ひとりだけ彼の側に立ち、守ってくれたのが祖母だった。

「僕の世界観のルーツがどこにあるのか、知りたい?」マイケルは言った。

「それなら祖母までさかのぼれば十分さ。

祖母は僕の家の霊媒師みたいな存在だった。

彼女が『今日は雨が降る』と言えば、家族はみんな出かけるとき雨傘とレインコートをもっていった」彼がまだずっと幼くて、一日に何時間もマンガばかり描いていたころ、祖母が両親にこう言ったことをマイケルは覚えている。

「マイクのことは心配いらないよ。

いつかあの子は有名になる。

世界中の人があの子のことを知る日がいつか来る」この日からマイケルは、自分の好きなことをするのを認められるようになった。

「祖母のおかげで家族が僕のことをほうっておいてくれるようになった。

好きなことを好きなだけやれるようになったんだ」わたしはマイケルに、LgLg型の遺伝子はSS型に近い性質をもち、この遺伝子型の人は良きにつけ悪しきにつけ、まわりの環境に敏感に反応しやすいらしいという話をした。

マイケルいわく、祖母のおかげで彼を支えてくれるような空気がたしかに家に生まれた。

彼がしていることに家族は心から興味をもってくれたわけではなかったが、祖母の後ろ盾のおかげで、ともかくマイケルは自分らしく生きる自由を得た。

こうした環境に支えられていたからこそ、彼は自身の遺伝子のタイプを最大限に活かし、結果的に、強くて楽天的な人生観を手に入れることができたのかもしれない。

遺伝と環境のさらに奥で起こっている「エピジェネティクス」DNAの配列の多様性──いいかえればそれぞれの遺伝子の型──が髪の色や身長などの肉体的な特徴だけでなく、人格や感情などにも影響を与えうることには、ほぼ疑いがない。

だが、DNAは絶対だという伝統的な見方は、遺伝学の世界に最近押し寄せた新しい流れによってくつがえされつつある。

近年成長が著しいエピジェネティクス(後成遺伝学:「エピ」はギリシャ語で「(何かの)上」「(何かを)越えて」の意)の研究によれば、遺伝子の作用はその人がどんな体験をしたかによって、生きているあいだじゅう変化しうる。

驚きなのはこうした変化が、DNAの配列そのものに影響せずとも次の世代に受け継がれる点だ。

この画期的な発見が生まれる舞台となったのは、スウェーデン北部の雪に覆われた人里離れた一帯だ。

わたしは何年か前にサイクリング旅行でそこを訪れたが、そのときには、遺伝学の革命につながる秘密をはらんだ地を自分が横断しているとは、夢にも思っていなかった。

ノルボッテン地区はスウェーデン北端の過疎地で、あまりに人里から離れているために一九世紀ごろまでは、凶作のたびに深刻な飢饉と飢餓に見舞われていた。

教会区の記録によれば、一八〇〇年、一八一二年、一八二一年、一八三六年、一八五六年には一帯で飢餓が発生している。

それとは対照的に一八〇一年、一八二二年、一八二八年、一八四四年、一八六三年は豊作で、過食による弊害が多発している。

現在ストックホルムのカロリンスカ研究所に籍を置く予防医学の専門家、ラーズ・オロブ・バイグレンはこの地方の豊作と凶作の年の状況を手がかりに、こうした環境が住民にどんな影響を与えたかを検証した。

バイグレンはノルボッテンのオベルカリックスという小さな部落で一九〇五年に生まれた住民九九人をランダムに選び、調査のサンプルにした(19)。

スウェーデンらしい綿密な記録からあきらかになったのは、少年のころ、ある冬は飢餓、次の冬は飽食という経験をした男性の子どもや、さらにその子どもが概して平均より短命になることだ。

寿命に影響すると考えられているその他の要因を考慮に入れると、この原因による寿命の差はじつに三二年にもなった。

これらのデータは、ある驚きの事実をあきらかにした。

子どものころに飢餓の冬と飽食の冬を連続して経験した人々の体内では、次の世代の寿命に、そしてさらに次の世代の寿命にまで影響するような生物学的変化が起きていたのだ。

エピジェネティクスが遺伝学の常識を塗り替えたこれらの発見は、遺伝子は何世代もかけてゆっくり変化するという伝統的なダーウィンの進化論の概念とまっこうから対立するものだ。

バイグレンはこの急速なエピジェネティクスの作用を現代の、もっとずっと詳細な生物学的記録が手に入る地域でも確認した。

イギリスのブリストル大学の疫病学者ジーン・ゴールディングが主体となって行った、エイボン親子長期調査がそれだ。

この調査の目的は、遺伝子のタイプと環境的な要因がどのように結びついて健康や幸福度に影響するかを調べることにあった。

ゴールディング率いる調査チームは一九九一年と一九九二年に、ブリストル地方に住む妊婦一万四〇二四人(これは、この時期にこの地方に居住した妊婦の七〇パーセントにあたる)に呼びかけて調査に協力してもらい、以後、親子の動向を追いかけ続けた。

この調査のデータをゴールディングとバイグレン、そしてロンドン大学の遺伝学者マルカス・ペンブレイは共同で分析し、調査に参加した父親のうち一六六人が一一歳以前から煙草を吸いはじめたと話していることを突きとめた(20)。

一一歳といえば思春期の直前にあたり、次代に影響するエピジェネティックな遺伝変化を起こせるだけ体が成熟してきている。

この一六六人の父親の子どもについて調べたところ、女児ではなく男児のみ、肥満をあらわすBMI値が九歳の時点ですでにきわめて高くなっていることがわかった。

これらの男児は成人後に肥満や糖尿病を発症するリスクが高く、寿命も短くなる可能性がある。

前述のオベルカリックスで、幼少期に飢餓と飽食をつづけて経験した親から生まれた子どもが、平均より短命だったのと似た筋書きだ。

つまり、親の若いころの過ちは自身の幸福だけでなく、子どもの幸福にまで影響するということだ。

飢餓や喫煙の習慣など環境的な要因は遺伝子に刻印を残し、それは次の世代に譲り渡される。

人が経験する出来事や食事や生活様式は、遺伝子の働きをオンにしたりオフにしたりする強力なスイッチをコントロールすることができるのだ。

これは、DNAについての従来の知識をはるかに超えた内容で、遺伝学にまったく新しい地平をもたらした。

この新しい理論によれば、マイケル・J・フォックスのような人間は楽観の遺伝子(のようなもの)を生まれもっているわけではなく、何かの経験によってエピジェネティックな変化が起きた結果、重要な脳内回路に徐々に影響が及び、最終的に楽観の確立につながったのではないかという推測も生まれる。

エピジェネティックな作用は、何に、どこまで及ぶのか人生のスタートをうまくきれば、楽観主義につながるような後成遺伝的な変化を引き起こすことがほんとうにできるのだろうか?そうしたエピジェネティックな作用が眼の色などの生物学的特徴から記憶などの心理的なプロセスまで及ぶことについては、はっきりした証拠がすでに存在している。

レナート・パロはチューリッヒにあるスイス連邦工科大学でバイオシステム科学およびエンジニアリング部門のトップをつとめる人物だ。

彼が率いる研究グループは、ミバエの卵をとりまく液体の温度を二五度から三七度にほんの短い時間上昇させただけで、遺伝的には白い目をもつようにプログラムされていたはずのミバエが、赤い目になって卵から孵ることを発見した(21)。

その後、数世代にわたって観察を続けたところ、さらに目を見張る発見があった。

この赤い目のミバエと普通の白い目のミバエを交配したところ、その後六世代に至るまでずっと赤い目のミバエが生まれつづけたのだ。

断っておくが、赤い目でも白い目でもDNAの配列自体はまったく変わらない。

それなのに、卵の状態のときにすこし温度を上げただけで、世代から世代へとなかなか消えずに受け継がれる生物学的な変化が生まれたのだ。

こうした発見により、分子生物学のしくみは根本的な見直しを促されている。

エピジェネティクスの作用によって何かの資質が次代に受け継がれるのは、ミバエだけに限った話ではない(22)。

植物でも動物でも菌類でも、そしてヒトにおいてさえも同じことが言える。

たとえば、わたしの曾祖母が非常に高脂肪な食生活をしていたら、わたしが肥満になる確率は高くなるのだろうか?答えはどうやら、あきらかに「イエス!」のようだ。

ペンシルバニア大学の神経科学者、トレイシー・ベイルが行った実験では、妊娠しているマウスに非常に高脂肪のエサを与えたところ、予想通り、その子どもは誕生時からすでに体長・体重とも平均を上回り、インシュリンに対する反応度も低かった(23)。

これらは肥満と糖尿病の危険因子として知られる特徴だ。

これらの幼いマウスは高脂肪のエサはもう与えられていないのに、成長して妊娠すると、やはり体重が重くインシュリンに反応しにくい子どもを生んだ。

さらに二世代後でもやはり、平均より体重が重く平均より食事を多く食べるマウスが誕生した。

ベイルが二〇〇八年に神経科学協会の会議で発表したように、「あなたは、あなたが食べたものだけでなく、あなたの祖母が食べたもので作られている」のだ。

記憶のような心理学的なプロセスもまた、エピジェネティクスの影響を受ける。

タフツ大学の生物化学者ラリー・フェイグは、玩具や運動用具など、マウスの関心を引きそうなものを豊富に揃えた環境に、記憶障害をもつよう遺伝子的に誘導されたマウスを入れるという実験をした。

驚きだったのは、このマウスの記憶力が環境のおかげで大きく向上しただけでなく、新しい記憶を形成するさい重要な「長期増強(=シナプスの伝達効率が高くなる現象)」という脳内プロセスにも変化が生まれたことだ。

そして、このマウスの子孫はごく普通の環境で育てられたのに、親の代で起きた脳内プロセスの変化はそのまま次代に受け継がれた。

エピジェネティクスにまつわるこれらの発見は、伝統的な遺伝学が説明しようとしてきた多くの謎に、答えを与えてくれる。

たとえばなぜ、一卵性双生児の一

人がまったく健康なのに、もう一人が深刻な不安障害を発症するのか?あるいはなぜ、スウェーデンの小さな村の食生活の変動が、住民の寿命を数世代にわたって大きく変えることになったのか?こうしたエピジェネティックな作用は今、徐々に解明が進んでおり、これらの作用が生物学的・心理学的プロセスにどう影響するかについても遺伝学的な理解は深まってきている。

では、このエピジェネティクスとは、じっさいどのように働くのだろうか?エピジェネティクスの仕組みを探るニューヨークのコロンビア大学のフランシス・シャンパーニュとラヒア・マシュードが説明するように、人間のDNAとはたとえていえば、整然とした配列で棚に並んだ図書館の本のようなものだ(24)。

並べられた本には──遺伝子の配列と同じように──情報とインスピレーションがつまっており、棚から選びだせばだれでもそれを手にできる。

けれど、本は読まれなければ、だれにも影響を与えない。

同じようにDNAは細胞の中で、RNAポリメラーゼという酵素によって読みとられるのを待っている。

この酵素は「転写」と呼ばれる重要なプロセスの中で、メッセンジャーRNAを合成するはたらきをもつ。

このメッセンジャーRNAは、DNAの配列をタンパク質に翻訳されうる形に正確にコピーしたものであり、この遺伝情報の転写によって遺伝子は発現する。

そして遺伝子が発現することで、無限につづく結果がもたらされる。

遺伝子の発現につながるこのプロセスがもしも起こらなければ、遺伝子のもつ潜在性は発揮されない。

本棚のいちばん高いところに置かれ、だれからも読まれないまま埃だけを集めていく本と同じように、発現しない遺伝子はそこにありながら、何の作用も果たさない。

何かのはたらきかけでその形質が発現したときに初めて、遺伝子はまわりに影響を与えることができるのだ。

遺伝子発現を阻害するもの遺伝子のプロモーターと呼ばれる部分は、いわば蔵書目録のようなものだ。

それをひもとけば、すべての本を読むことも、再注文をすることも簡単にできる。

けれどもし目録が閉じられたままだったら、蔵書が日の目を見ることはない。

このように遺伝子情報に鍵をかけてしまうのが、DNAのメチル化と呼ばれる現象だ。

プロモーター部分の近くに潜むメチル系化学物質は、遺伝子を効果的に沈黙させ、遺伝子のはたらきを遮断する。

次ページの図に見られるように、もしもメッセンジャーRNAが遺伝子のプロモーターをたやすく読みとることができれば、遺伝情報の転写が起こり、遺伝子は活動を開始する。

けれど、もしもメチル系化学物質がプロモーターをブロックしたら、メッセンジャーRNAは遺伝子を見ることができず、遺伝子の発現は起こらない。

遺伝子情報が解読されるかどうかに影響を与えるのは、遺伝子をとりまく環境だ。

そして遺伝子をとりまく環境に影響を与えるのはむろん、その人をとりまく環境だ。

だからこそ、人間の複雑な行動に、遺伝子が直接影響することはほとんどないといっていい。

あるひとつの遺伝子が神経伝達上の変化や神経回路の微細な調整を経て、たとえば楽観などの精神的資質を出現させるまでには、長く複雑な道のりがある。

そこには他の遺伝子や、それまでの人生で起きた出来事やエピジェネティックな変化など、数多くの要因がかかわっている。

エピジェネティクスの研究は今、遺伝子と環境との相互作用がどのように展開するのかを解明しはじめている。

いいかえれば真に重要なのは、あなたがどんな遺伝子をもって生まれてくるかよりも、むしろ、それらの遺伝子の中でどれが発現に至り、どれが沈黙したままで終わるかという点だ。

あなたの赤ん坊はひとそろいの遺伝子をもって生まれてくるが、その中のどの遺伝子が発現し、どの遺伝子が発現しないかに影響を与えるのは、赤ん坊が生まれてから起こる出来事なのだ。

エピジェネティクスは、楽観や悲観に影響するかエピジェネティックな変化によってほんとうに人間は、楽観主義になったり悲観主義になったりするのだろうか?そうらしいと示唆する次のような証拠がある。

ラットを用いた実験で、母親がどれだけ愛情深く接するかで子どもの脳に変化が起き、ストレスに対する反応性に大きな影響が生じることがあきらかになったのだ。

愛情深い母親ラットは一日に何時間ものあいだ、赤ん坊の体を舐めたり抱いたりして過ごし、赤ん坊が巣から転げ落ちればすぐさま拾いにいく。

いっぽう、愛情の薄い母親ラットは生まれた子どもを舐めたり世話したりするのにわずかな時間しか費やさない。

これら双方の赤ん坊ラットの遺伝子発現量を分析すると、両者には驚くほどの差が認められた。

モントリオールのマギル大学で行動と遺伝子と環境との関連を研究しているイアン・ウィーバーと同僚らは一連の興味深い実験を行い、母親ラットの接し方次第で子どもの、ストレスへの耐性にかかわる遺伝子の発現に大きな差が生じることをあきらかにした(25)。

脳内で学習や記憶に重要な役目を果たす海馬という場所には、「グルココルチコイド受容体」と呼ばれる物質が大量に存在している。

グルココルチコイド受容体はストレスの切り替えスイッチのようなもので、ストレスに対する反応をオンにしたりオフにしたりできる。

この受容体の量が標準より少ないとストレスに対する反応が増大し、問題をいつまでもくよくよと考え、すみやかにそれを乗り越えられなくなる。

海馬にこの受容体が大量に含まれていれば、その個体はストレスにずっと容易に対処できるはずだとウィーバーは推測した。

ウィーバーらは子どものラットの海馬を観察し、母親からの愛情が薄かった個体には、グルココルチコイド遺伝子のプロモーター部分にDNAのメチル化が高い数値で認められることを発見した。

DNAのメチル化は、遺伝子を沈黙させるのにきわめて重要なプロセスだ。

これが意味することは深刻だ。

母親の愛情という古典的な環境要因は、子どものストレスへの耐性に非常に強く影響していた。

母親の愛情によってストレスに強い子どもが育つのは純粋な慈しみの作用だと思われがちだが、その一見魔法のような力の陰には遺伝子の発現がかかわっていたのだ。

エピジェネティクスにまつわる研究のおおかたはラットなどの動物を使って行われてきたが、前出のバイグレンによるスウェーデンでのデータが示しているように、同じメカニズムは人間にもあてはまる。

カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の小児医学部のティム・オーバーランダーは、複数の妊婦の臍帯血から細胞を取り出し、研究を行った(26)。

調査に協力した妊婦の何人かは抑うつに悩まされており、何人かは悩まされていなかった。

取り出された細胞はDNAのメチル化──つまりは、遺伝子をオフにするプロセス──の痕跡がないかどうかを念入りに調査された。

その結果、妊娠の後期三カ月のあいだ母親が抑うつや不安に悩まされていると、赤ん坊のDNAのメチル化が大きく進むことが確認された。

こうしてグルココルチコイド遺伝子のプロモーター部分でメチル化が進むと、海馬の中の遺伝子が発現しにくくなり、本来以上にストレスに弱い子どもが育つことになるわけだ。

出産前に抑うつを経験していた母親から生まれた赤ん坊を生後三カ月のときに追跡調査したところ、彼らはたしかに、抑うつでない母親から生まれた赤ん坊よりはるかに強いストレスを感じていた。

母親が抑うつのときに典型的に見られる、子どもとのスキンシップの少なさを考慮に入れたとしても、DNAのメチル化とストレスへの反応につながりがあることは否定できなかった。

これらはもちろん環境がもたらす作用だ。

だが正しく言えば、環境が遺伝子を通してもたらす作用だ。

そして、子どもがほんの小さなころに起きたこの作用が、その後長きにわたって影響する可能性もある。

皮肉なことに、科学者はエピジェネティクス的なはたらきについてずっと前から知っていた。

たとえば、肝臓や脳の細胞には同じDNAが含まれているが、それぞれまったくちがう仕事をする。

こうした可塑性の重要度が理解されたのは、ごく最近のことだ。

そしてエピジェネティックな変化の可能性は、新しいすばらしい世界への扉を開いた。

わたしたちの日々の選択は自身の遺伝子にため息をつかせ、叫び声をあげさせるだけでなく、わたしたちの子どもの、そしてさらにその子どもの遺伝子の発現にまで影響を与えるのだから──。

 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次