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第四章最後にはかならず勝つ──厳しい現実を直視する

目次

第四章最後にはかならず勝つ──厳しい現実を直視する

政治家にとって、すぐに失望させられる根拠のない期待を国民に向かって主張するほど最悪の間違いはない。

ウィンストン・S・チャーチル『第二次世界大戦』第三部第七章(1)

一九五〇年代初め、A&P(正式にはグレート・アトランティック&パシフィック・ティー社)は世界一の小売り企業であり、アメリカでも最大級の企業であった。

年間の売上高がゼネラル・モーターズについで第二位になったこともある(2)。

これに対してクローガーは地味な食品雑貨チェーンであり、規模はA&Pの半分にも満たず、株式運用成績も市場平均並みでしかなかった。

一九六〇年代になって、A&Pは衰退への道を歩むようになったが、クローガーは逆に、偉大な企業に飛躍する基礎を築きはじめた。

五九年から七三年までの株式運用成績をみると、両社ともに市場平均を下回っており、クローガーがA&Pをわずかに上回っていた。

七三年からは、二社の実績がまったくかけはなれるようになり、その後二十五年間の株式運用成績をみると、クローガーが市場平均の十倍、A&Pの八十倍になっている。

両社の命運がこれほど劇的に逆転したのはなぜなのだろう。

A&Pほどの超優良企業がここまで惨めな状態になったのはなぜなのだろう。

A&Pは二十世紀前半、二回の世界大戦と大恐慌によってアメリカ人が質素に暮らすしかなかった時代に、完璧な事業方式を確立していた。

安価な食品雑貨を大量に、実用本位の店舗で販売する方式である。

しかし二十世紀後半にはアメリカ人は豊かになり、嗜好が変わった。

もっときれいな店舗、大きな店舗、品ぞろえが豊富な店舗を望むようになった。焼き立てのパン、花、健康食品、風邪薬、新鮮野菜、四十五種類のシリアル、十種類の牛乳を求めるようになった。

五種類の高級芽キャベツ、さまざまな調合の小麦粉、中国の薬草などの変わった品物を求めるようになった。

買い物のついでに銀行の用事をすませたり、インフルエンザの予防注射を受けたりすることすら望むようになった。

要するに、食品雑貨店で買い物をしようとは思わなくなったのだ。

望んでいるのはスーパーマーケット、それもSの大きな文字を胸につけたスーパーである。

ほとんど何でも売っており、大きな駐車場があり、価格が安く、店内が清潔で、大量にレジがある、そういう店なのだ。

ここまで読んで、こう考えた読者も少なくないだろう。

「要するに、A&Pは時代後れになった企業の典型だというわけだ。前の時代にはぴったりの戦略をもっていたが、状況が変わり、時代に取り残されるようになった。

時代に適応した若い企業が、顧客の要求をもっと満たしたからだ。それで、この話に何か興味深い点があるのだろうか」では興味深い点をあげよう。

クローガーもA&Pもともに古い企業であり、一九七〇年にはクローガーが設立から八十二年、A&Pが百十一年たっていた。

どちらの企業も、事業のほぼすべてが戦前型の食品雑貨店であった。どちらの企業も事業基盤が強固な地域は、国内の成長地域ではなかった。どちらの企業も事業環境が変化してきたことを知っていた。

ところが、この二社のうち一社は、厳しい現実を直視し、現実に対応して事業方式を完全に変更した。もう一社は砂に頭を突っ込んだままであった。

一九五八年にフォーブス誌はA&Pを、年老いた王子のもと、鎖国政策をとる絶対王朝だと評している(3)。

A&P王朝を築いたハートフォード兄弟の後継者、ラルフ・バーガーは何よりの二つの点を維持しようとしていた。

家族財団が求める現金配当と、ハートフォード兄弟の過去の栄光である。

同社のある取締役によれば、バーガーは「自分は故ジョン・ハートフォードの生まれ変わりなのだと考えていた。

襟につける花を毎日、ハートフォード家の温室から取り寄せていたほどだ。

どれほど反対を受けようと、ジョン〔ハートフォード〕が選んだと考える方針をとろうとした」(4)。

バーガーは意思決定にあたって「ハートフォードならどうしただろうか」と考える社風を作り上げ、「百年にわたる成功の重みは絶対だ」をモットーにした(5)。

そのバーガーを通じて、ハートフォードは二十年近く、取締役会で圧倒的な力を維持していた。死後にも影響力をもちつづけたのだ(6)。

自社の事業方式が事業環境の変化によって時代後れになった、この厳しい現実がつぎつぎに明らかになってきたとき、A&Pはこの現実から身を守ろうと必死になっていった。

ひとつの試みとして、ゴールデン・キーと名付けた新店舗を開いた。

別ブランドの店舗で、新しい方法や方式を実験し、顧客の要望を学べるようにしたのだ(7)。

A&Pのプライベート・ブランド商品は扱わず、店長がかなりの裁量権をもつようにし、斬新な売り場を作り、新しい時代のスーパーマーケットに近づいていった。買い物客の受けはきわめて良かった。

こうしてA&Pは社内の実験の結果から、市場シェアが低下してきた理由と打つべき手を理解できるようになった。それで、A&Pの経営陣はゴールデン・キー店をどうしただろうか。この店舗が示した答えが気に入らなかったため、閉鎖した(8)。

その後A&Pは、戦略をつぎつぎに取り替え、問題を一気に解決できる策をつねに探すようになった。

従業員の士気を高める催しを開き、さまざまな計画に取り組み、流行の経営理論に飛びつき、CEOを更迭し、新CEOを雇い、またしても更迭した。

ある業界関係者が「焦土作戦」と呼んだ戦略を実行に移した。

大幅な値引きで市場シェアを回復する戦略だが、問題の根源、つまり買い物客が値下げを望んでいるのではなく、別の店舗形態を望んでいる点には対応しようとしなかった(9)。

値下げによって、コスト削減に取り組むしかなくなり、その結果、店舗が一層冴えないものになり、サービスが低下していった。

その結果、買い物客がさらに減り、粗利益率がさらに低下し、店舗は薄汚くなり、サービスがさらに低下した。

同社の元幹部のひとりが語る。

「やがて汚れがたまるようになった。店舗に塵があるだけでなく、汚い塵がたまるようになった」(10)そのころクローガーでは、まったく違った動きが起こっていた。

同社も一九六〇年代にスーパーマーケットの業態を実験した(11)。

七〇年には、経営陣は否定しがたい結論に達していた。

それまでの方式の食品雑貨店(同社売上高のほぼ百パーセントを占める事業)が絶滅する運命にあるとの結論である。

しかしA&Pとは違って、クローガーはこの厳しい現実を直視し、対策をとっていった。

クローガーの興隆をもたらした方針は単純明快であり、ある意味では笑いたくなるほど単純だ。

インタビューのとき、ライル・エベリンガムと、その後継者で転換期のCEO、ジム・ヘリングは丁寧で協力的だったが、われわれの質問に少々気分を害したようだ。

二人にとって、明白な方針をとっただけだったのだ。

飛躍をもたらした要因のうち上位五つがそれぞれ、どのような比率で寄与したかを質問したところ、エベリンガムはこう答えた。

「質問の意味がどうもよく分からない。われわれは要するに徹底した調査を行ったが、それで集まったデータは明白な事実を示していた。

スーパーマーケットこそが将来への道なのだ。それに、各市場で一位か二位になれないのなら撤退するしかないことも学んだ(*)。

たしかに、当初は懐疑的な見方もあった。

しかし事実をみれば、何をすべきか疑問の余地などなかった。だから、それを実行しただけだ」(12)*これは一九七〇年代初めの話であり、「一位か二位になれないのなら撤退する」という考えが主流になるのは、十年以上後であることに注意したい。

飛躍した企業はすべてそうだが、クローガーも目の前にあるデータに注目してこの考えを導き出したのであり、他人が作りだしたトレンドや流行にしたがったわけではない。

興味深い点だが、飛躍した企業の半分以上が「一位か二位になれないのなら撤退する」という方針を、それが経営理論としてもてはやされるようになる前に何らかの形で確立している。

クローガーは、すべての店舗を閉鎖するか、改装するか、移転し、新しい現実に合わない地域からは撤退する決定をくだした。

事業のすべてをひっくりかえすことになった。一店舗ずつ、一地域ずつ、一都市ずつ、一州ずつ。

一九九〇年代初めには、事業全体を新しい方式で作りなおす作業が終わり、食品雑貨チェーンでアメリカ第一位になる道を歩んでいた。九九年には、第一位の座を獲得している(13)。

一方、A&Pはいまだに店舗の半分以上が五〇年代の規模であり、かつての偉大な企業の成れの果てというべき悲惨な状況に陥っている(14)。

「事実は夢にまさる」今回の調査で得られた大きな結論のひとつとして、偉大な企業への飛躍が、いくつもの正しい決定をひとつずつ粘り強く実行して積み重ねていった結果であることがあげられる。当然ながら、飛躍した企業が間違いをおかさなかったわけではない。

しかし全体としてみれば、正しい決定が間違った決定よりはるかに多いし、比較対象企業とくらべて、正しい決定の数がはるかに多い。

それ以上に重要な点として、たとえば事業全体をスーパーマーケットに転換させる目標にすべての資源を投入したクルーガーの決定のように、ほんとうに大きな決定で、これら企業はおどろくほど的確だった。ここから、当然の疑問が出てくる。

たまたま運に恵まれていたために、正しい決定をくだせた企業が調査対象になったにすぎないのだろうか。

それとも、これら企業の意思決定の過程に何か違いがあって、そのために正しい決定をくだせる確率が劇的に高くなっているのだろうか。

分析の結果得られた答えは、意思決定の過程に大きな違いがあるというものであった。

飛躍を遂げた企業は、二つの特徴的な形態で規律ある考え方をとっていた。

第一がこの章のテーマであり、意思決定の全過程にわたって厳しい現実を直視する姿勢を貫いている(第二がつぎの章のテーマであり、すべての決定にあたって、単純だがきわめて賢明な判断の枠組みを用いている)。

クローガーの場合のように、状況がどうなっているかをつかもうと、真摯に懸命に努力すれば、正しい決定が自明になる場合もある。

もちろん、かならず自明になるわけではないが、そうなることは少なくない。そして、すべての決定が明白になるわけではなくても、確実にいえる点がひとつある。

厳しい現実を直視する姿勢がない場合には、正しい判断をつぎつぎにくだしていくことはできない。

飛躍した企業はこの原則を守っており、比較対象企業は一般に、この原則を守っていない。ピットニー・ボウズとアドレソグラフを比較してみよう。

ある時点でこの二社以上に性格が似ていて、その後にこの二社以上に劇的に命運が分かれた二つの企業を探し出すのは困難だろう。

一九七三年まで、両社は売上高も、利益も、従業員数も、株価動向も、きわめてよく似ていた。

両社ともに市場で独占に近い地位を確保し、顧客基盤もほぼ重なっていた。

ピットニー・ボウズは郵便料金メーターで、アドレソグラフは宛て名印刷機で、それぞれ圧倒的な市場シェアを握っていた。

そして両社とも、独占状態を近く失う現実に直面していた(15)。

しかし二〇〇〇年には、ピットニー・ボウズが従業員数三万人以上、売上高四十億ドル以上の企業に成長しているのに対して、アドレソグラフは売上高一億ドル以下、従業員わずか六百七十人と、見る影もない(16)。

株式運用成績は、ピットニー・ボウズがアドレソグラフのなんと三千五百八十一倍にもなっている。

一九七六年、大きなビジョンをもったカリスマ的な経営者、ロイ・アッシュがアドレソグラフのCEOに就任した。

アッシュは「複合企業経営者」を自認しており、それ以前に大量の買収によってリットンを築き上げたが、経営困難に陥った経歴がある。

フォーチュン誌によれば、アドレソグラフを舞台に、指導者としての自分の力を世界に示そうとした(17)。

アッシュは当時の新興分野であるOA市場で、IBM、ゼロックス、コダックなどを圧倒する企業を作り上げるビジョンを掲げた。

それまで、宛て名印刷機で圧倒的な強みをもっていたにすぎない企業にしては、きわめて大胆な計画だ(18)。

大胆なビジョンを掲げること自体は悪いことではない。

だが、アッシュは非現実的な目標の追求に熱心なあまり、計画が失敗に終わって会社全体が倒れかねないことを示す事実が積み重なっても、直視しようとしなかったとビジネス・ウィーク誌が伝えている(19)。

利益が出ている部門から現金を吸い上げて中核事業の衰退を招き、その資金を、ほとんど成功の見込みのない事業につぎ込んでいった(20)。

アッシュは解雇され、アドレソグラフは連邦破産法に基づく会社更生を申請した(同社はその後、再建された)。

そうなってもアッシュは現実を認めようとはせず、「いくつかの戦いには負けたが、戦争には勝っていた」と述べている(21)。

しかし、同社は戦争に勝っているどころではなかったし、社内の人間はみな、その時点で現実を認識していた。

しかし、真実を報告しても聞いてもらえない状態が続いて、ついに手遅れになった(22)。

同社の主要な幹部の多くは、現実を直視するよう経営陣に求めても効果がないと諦めて、この時期に会社に見切りをつけている(23)。

おそらく、アッシュがビジョンを掲げて同社を飛躍させようと試みた点は、ある程度まで評価すべきだろう(そして、公平を期すために付け加えるなら、アッシュは計画を完全に実行に移す前に解雇されている)(24)。

しかし、当時に書かれた多数のしっかりした記事を読むと、アッシュが自分のビジョンと矛盾する現実から目をそむけていた事実が浮かび上がってくる。

偉大な企業になるビジョンを追うこと自体には何の問題もない。

飛躍を遂げた企業はいずれも、偉大な企業を築こうと努力しているのだから。

しかし比較対象企業とは違って、飛躍した企業は、厳しい現実を認識して、偉大な企業への道をたえず見直している。

「岩を転がしてみたら、奇妙なものが下にいっぱいあったとする。

そのとき、岩をもとに戻す人もいるだろうし、そこにあったのがとんでもなく恐ろしいものであったとしても、岩を転がして奇妙なものをしっかり確認するのが自分の仕事だと考える人もいるだろう」(25)。

これはピットニー・ボウズのフレッド・パーデューの発言だが、われわれがインタビューを行った同社経営幹部のうちだれの発言であっても不思議ではない。

率直に言って、世界のなかの自社の立場について、全員が少し神経質すぎるし、強迫観念にとらわれているとすら思える。

ある経営幹部は、「当社の企業文化では、自己満足は極端に嫌われる」と語った(26)。

「どれほど偉大な業績を達成しても、会社の勢いを維持できるほどではないと、すぐに考える」と別の経営幹部は述べている(27)。

ピットニー・ボウズは新年はじめての経営会議で例年、十五分ほどで前年の業績を回顧し(例外なく素晴らしい業績をあげているが)、その後二時間をかけて今後の業績の悪化をもたらしかねない「奇妙で恐ろしいもの」について議論する(28)。

同社の営業会議は、ほとんどの企業でみられるような「当社はなんと偉大ではないか」といった調子のものとはまったく違っている。

経営陣全員が出席して、顧客に直接に接している営業担当者から厳しい質問や批判を受ける(29)。

同社が長年築き上げてきた伝統のひとつだが、会議で従業員が経営陣に会社の間違いを指摘し、奇妙なものがついた岩を突きつけて、「この点にもっと注意すべきだ」と主張できるようになっている(30)。

アドレソグラフの事例は、とくにピットニー・ボウズと比較すると、決定的な点を示している。

ロイ・アッシュのようなカリスマ的で強力な経営者は、ひとつ間違えればすぐに、社内の人間にとって事実上の現実になる。

今回の調査で何度もでてきた点だが、比較対象企業では経営者がきわめて強い力で会社を引っ張り、社内に恐怖心を植えつけた結果、従業員が経営者の顔色をうかがうようになり、経営者の発言や考えや行動ばかりを気にして、社外の現実や、それが自社に与える影響には注意しなくなることが多かった。

たとえば前の章で紹介したバンク・オブ・アメリカがそうで、CEOがどう考えているかが分かるまで、幹部は意見すら出そうとしなかった。

このような雰囲気は、ウェルズ・ファーゴやピットニー・ボウズにはなかった。

従業員や幹部は経営陣の意向を気にするよりも、奇妙で恐ろしいものを懸念している。

従業員や幹部が何よりも注意すべき現実として、社外の現実ではなく、自分の顔色を心配するような状況を経営者が許していると、会社は凡庸になり、もっと悪い方向にすら進みかねない。

カリスマ的な指導者よりも、それほどカリスマ的でない指導者の方が、長期的な実績が良くなることが多い理由のひとつはここにある。

カリスマ的で強い個性をもつ経営者にとって、カリスマ性が強みになると同時に、弱みにもなりうるとの見方は、じっくり検討してみる価値がある。

経営者が強い個性をもっているとき、部下が厳しい現実を報告しなくなれば、問題の種を蒔く結果になりかねない。

カリスマ性の弱みを克服することは可能だが、それには意識的な努力が必要だ。

ウィンストン・チャーチルは強い個性が弱みになりうることを理解し、第二次世界大戦のとき、この弱みを見事に補う方法をとった。

周知のように、イギリスが和平を乞うかどうかではなく、いつ乞うのかだけが問題だと世界中がみていたとき、チャーチルはイギリスが生き残るのはもちろん、大戦に勝利し偉大な国家として強力な立場を維持するとの大胆なビジョンを確固として掲げていた。

最悪の時期、ヨーロッパ大陸と北アフリカがほぼすべて、ナチスの支配下にあり、アメリカはヨーロッパの戦いにはくわわりたくないと望んでいた。

ヒトラーは一つの正面に力を集中して、まだソ連には攻め込んでいなかった。

この時期に、チャーチルはこう語っている。

「われわれはヒトラーを滅ぼし、ナチス体制をすべての痕跡にいたるまで滅ぼす決意をかためている。

何があろうとも、この決意は変わらない。

何があろうとも。

われわれは決して交渉しない。

ヒトラーとも、その配下のだれとも、交渉しない。

われわれはヒトラーと陸で戦う。

海で戦う。

空で戦う。

神の恵みを受けて、ヒトラーの影を地上から取り除くまで戦う」(31)。

チャーチルはこの大胆なビジョンを武器にしながらも、きわめて厳しい現実から決して目をそらさなかった。

傑出したカリスマ的な性格のために、悪いニュースが薄められた形でしか自分に伝えられないのではないかと恐れていた。

そこで戦争の初期に、通常の指揮命令系統とは独立した部門として、「統計局」を設立し、現実のうちとくに厳しい事実を、まったくフィルターを通さない生のままの形で、首相につねに提供することを第一の任務とした(32)。

チャーチルは戦争の指導にあたってこの部門をきわめて重視し、事実を伝えるよう、事実だけを伝えるよう繰り返し求めている。

ナチスの機甲部隊がヨーロッパ大陸を席巻したころ、チャーチルはベッドでぐっすり眠ることができた。

「元気づけてくれる夢の必要はなかった。

事実は夢にまさるのである」と、『第二次世界

大戦』に書いている(33)。

真実に耳を傾ける社風を作る

ここで疑問をもつ読者もいるだろう。

「厳しい現実を明らかにして、どうやって人びとの意欲を引き出すのか。

意欲を引き出す動機付けで中心になるのは、説得力のあるビジョンではないのか」。

答えは意外なことに、そうではないというものである。

ビジョンが重要でないというのではない。

従業員や幹部の動機付けに努力するのは、大部分、時間の無駄なのだ。

この本で繰り返し論じる重要なテーマのひとつは、今回の調査の結果をうまく実行に移せば、従業員の意欲を引き出すために時間とエネルギーを費やす必要はなくなるというものである。

適正な人たちがバスに乗るようにすれば、全員が偉大なものを築こうという意欲をもっている。

したがって、ほんとうの問題はこうなる。

「従業員の意欲を挫かないようにするにはどうすればいいのか」である。

そして、やる気をなくさせる行動のなかでも、すぐに失望させられる根拠のない期待を主張することほど最悪のものはない。

リーダーシップの要点はビジョンである。

これは事実だ。

だが、それと変わらぬほど重要な点に、真実に耳を傾ける社風、厳しい事実を直視する社風を作ることがある。

「自分の意見を言える」機会と、「上司が意見を聞く」機会との間には天地の開きがある。

偉大な企業への飛躍を導いた指導者は、この違いを理解しており、上司が意見を聞く機会、そして究極的には真実に耳を傾ける機会が十分にある企業文化を作り上げている。

では、上司が真実に耳を傾ける社風は、どのようにして作ればいいのか。

以下に四つの基本的な方法を紹介しよう。

答えではなく、質問によって指導する一九七三年、父親からCEOの職を引き継いで一年たったとき、アラン・ウルツェルの会社は倒産の淵にあり、銀行ローン契約にもう少しで違反しかねない状態に追い込まれていた。

当時の社名はワーズであり(小売り大手のモンゴメリー・ワードとは無関係)、家電とハイファイ機器の販売店を寄せ集めただけで、全体を統一する概念もなかった。

それから十年間、ウルツェルらの経営陣は同社の経営を立て直しただけでなく、サーキット・シティの業態を確立して、その後におどろくべき実績をあげる基礎を築いた。

一九八二年の転換点から二〇〇〇年一月一日までの同社株の運用成績は、市場平均の二十二倍にもなっている。

ウルツェルは、倒産寸前からこの輝かしい実績をあげるまでの長い旅路をはじめるにあたって、会社をどこに導くのかとの問いに、おどろくような答えを示した。

「わたしには分からない」という答えだ。

アドレソグラフのロイ・アッシュのような経営者とは違って、ウルツェルは「正しい答え」を示したい気持ちを抑えた。

適切な人たちをバスに乗せると、答えではなく、質問からはじめたのだ。

ある取締役はこう語る。

「アラン〔ウルツェル〕が火付け役になった。

素晴らしい質問をする能力をもっている。

だから、取締役会では感激するような論争が何度も行われた。

取締役会が安っぽいショーになって、取締役がただ話を拝聴し、話が終わったら食事に行くといったことは一度もなかった」(34)。

ウルツェルは、取締役会で受ける質問の数より、自分が出す質問の数の方が多く、このようなCEOは大企業にはごく少数しかいない。

経営幹部にも同じように接しており、つねに質問を投げかけて答えを求め、調べ、刺激する方法をとっている。

偉大な企業への道筋のどの段階でも、ウルツェルは現実とその意味を鮮明に理解できるようになるまで、質問を出しつづけている。

ウルツェルはこう語る。

「社内では審問官と呼ばれていた。

いつも質問によって方向を決めていたからだ。

ブルドックのように、理解できるようになるまで質問責めにして相手を放さない。

なぜだ、なぜだと言いつづける」ウルツェルは典型だが、飛躍を導いた指導者はみな、ソクラテスのような方法を使っている。

さらに、質問するのは、ひとつの理由、たったひとつの理由からである。

理解するためなのだ。

相手を誘導するために質問を使うことはないし(「この点でわたしの意見に賛成できないのかね」とは質問しない)、だれかを非難したり黙らせるために質問することはない(「どうしてこれに失敗したんだ」とは聞かない)。

転換期の経営陣について当時の経営幹部に質問すると、時間のかなりの部分を「理解しようとする努力」に費やしたという答えが多かった。

飛躍を導いた指導者は、非公式の会合をとくにうまく使っている。

何人かの幹部や従業員を集めて、台本も議題も議論すべき行動項目もないまま話し合う。

まず、「何を考えているのか」「それについて話してくれないか」「わたしが理解できるようにしてくれないか」「心配すべき点は何だろうか」といった質問を出す。

議題を決めない会合が、現実を浮かび上がらせる場になっている。

偉大さへと導くとは、まず答えを考え、理想を実現するビジョンに向けて人びとの意欲を引き出すことを意味しているわけではない。

答えを出せるほどには現実を理解できていない事実を謙虚に認めて、最善の知識が得られるような質問をしていくことを意味する。

対話と論争を行い、強制はしない一九六五年、ニューコアほどみじめな企業を探すのはむずかしかったはずだ。

黒字の部門はひとつしかない。

他の部門はすべて赤字を垂れ流している。

誇るにたる企業文化はない。

一貫した方向もない。

倒産一歩手前の状況にある。

当時の社名はニュークリア・コーポレーション・オブ・アメリカであり、放射能の測定に使う「シンチレーション・プローブ」という名前の製品など、核エネルギー関連製品を主力にしていた。

主力事業との関連のない事業をいくつか買収し、半導体用資材、希土類素材、静電気コピー機、屋根用の梁などの分野にも進出していた。

六五年に変身をはじめたとき、鉄鋼はまったく製造していなかった。

利益もまったく生み出せていなかった。

三十年後、ニューコアは世界第四位の鉄鋼メーカーであり(35)、一九九九年にはアメリカの鉄鋼業界で利益が第一位になった(36)。

まったくみじめだったニュークリア・コーポレーション・オブ・アメリカが、アメリカを代表する鉄鋼会社のニューコアに変身したのは、どうしてだろうか。

第一に、第五水準の指導者、ケン・アイバーソンが屋根梁部門の責任者からCEOに昇進したのが大きな契機になった。

第二に、アイバーソンが適切な人びとをバスに乗せ、おどろくほどの経営陣を作り上げた。

たとえばサム・シーゲルは同僚のひとりに「世界一の財務マネジャーで、魔術師だ」と評されているし、デービッド・アイコックは業務管理の天才である(

37)。

それでつぎに何をしたのか。

アラン・ウルツェルと同様に、アイバーソンも偉大な企業を築く夢をいだいていたが、どうすれば偉大な企業になれるのかの「正しい答え」からはじめることを拒否した。

そして、ソクラテスのような司会者になって、激烈な論争を繰り返した。

アイバーソンは語る。

「われわれは部門責任者会議を連続して開催するようになり、わたしの役割は司会だった。

会議は混乱の極みだった。

何時間にもわたって、何らかの結論が出るまで問題を議論した。

……ときには議論が沸騰して、出席者がテーブルの向こう側に押しかける構えまでみせて……怒鳴りあった。

腕を振り回し、テーブルを叩いた。

出席者の顔は紅潮し、血管が膨れた」(38)アイバーソンの下ではたらいた幹部が、長年繰り返されてきた光景を話してくれた。

幹部の一団がアイバーソンのオフィスに押しかけて怒鳴りあうが、やがて結論に達して出ていく光景である(39)。

議論し激しく論争し、核関連事業を売却した。

議論し激しく論争し、屋根用の梁に事業を集中させた。

議論し激しく論争し、鉄鋼の製造をはじめた。

議論し激しく論争し、電炉に投資した。

議論し激しく論争し、第二の電炉工場を建設した。

われわれがインタビューをしたニューコアの経営幹部は全員、同社には論争の社風があり、同社の戦略が「徹底した議論と戦いを繰り返すなかで形作られてきた」と語っている(40)。

ニューコアがそうであるように、偉大さへの飛躍を遂げた企業はすべて、激しい議論を好む傾向をもっている。

「大声での論争」「白熱した議論」「健全な対立」といった言葉が、すべての会社の記事やインタビュー記録に繰り返しでてくる。

方針を決めた後に従業員が「自分の意見を言える」機会を作り、「参加型」の形を整える、そういう場として会議を使ったりはしない。

科学者の白熱した論争に似ており、全員が最善の答えを探している。

解剖を行い、非難はしない一九七八年、フィリップ・モリスはセブンアップを買収したが、八年後に売却して損失を計上した(41)。

同社の総資産と比較すれば、損失額はそれほど多くはなかったが、目立った失敗だったし、経営陣の貴重な時間が何千時間もこれに費やされている。

フィリップ・モリスの経営幹部にインタビューを行ったとき、各人がこの失敗について自分の意見を述べ、おおっぴらに議論することにおどろかされた。

みじめな大失敗を隠すどころか、病気を直すには話す必要があると感じているかのようであった。

ジョゼフ・カルマンは『わたしは幸運に恵まれた』で、五ページにわたってセブンアップの失態を分析している。

決定に欠陥があった不都合な事実を隠してはいない。

五ページにわたって、誤りとその意味、そこから得られる教訓を冷静に分析しているのだ。

セブンアップ買収の失敗の分析には、延べ数千時間まではいかないにしろ、延べ数百時間が費やされている。

しかし、この目立った失敗について議論するなかで、失敗の責任者がだれなのかは、まったく話題になっていない。

もっともひとつだけ例外があった。

カルマンが鏡の前に立って、失敗の責任はこの人物にあると、自分を指さしているのだ。

「これも、カルマンの計画がうまくいかなかった例のひとつだ」とカルマンは書いている(42)。

それにとどまらず、買収を決定する前に反対意見をもっとよく聞いていれば、悲惨な失敗を避けられた可能性もあったと示唆している。

正しい意見であったことが後に分かった主張をしていて、自分よりも先をみる目があった人たちの名前をあげて評価しているほどである。

どの経営者も、素晴らしい実績をあげてきたというイメージを売り込もうと必死になり、成功したときは、自分が部下の反対を押し切って先見性のある方針をとったためだと自慢し、失敗したときは、他人に責任を押しつけようとする、そういう時代風潮のなかで、カルマンのような人物にぶつかると、じつに爽やかな気分になる。

カルマンは、セブンアップの失敗に対する同社の姿勢を確立した。

この間違った決定の責任は自分にあるが、高い授業料を払って得た教訓を最大限に引き出す責任は全員にあると語ったのだ。

解剖を行い、非難はしないようにすれば、真実に耳を傾ける社風を作る点で大きく前進できる。

適切な人たちがバスに乗るようにしていれば、だれかに責任を押しつける必要はまずなくなり、理解し学ぶことに専念できる。

「赤旗」の仕組みを作る情報の時代になり、質の高い情報、大量の情報をもっているかどうかが勝敗の分かれ目だとされている。

しかし、企業の興隆と衰退の様子をみていくと、情報が不足していたために衰退した企業はほとんどないことに気づくはずだ。

ベスレヘム・スチールの経営陣は、ニューコアなどの電炉メーカーの脅威を何年も前から知っていた。

ほとんど注意も払っていなかったが、あるとき気づいてみると、市場シェアを大幅に奪われていた(43)。

アップジョンは、開発中の新薬のうちいくつかが、予想されたほどの薬効をもたないばかりか、深刻な副作用の可能性があることを示す情報を十分に入手していた。

しかし、これらの問題を往々にして無視してきた。

たとえばハルシオンの事件では、ニューズウィーク誌が「ハルシオンの安全性に関する懸念を無視するのが、事実上の会社方針になっていた」という社内関係者の発言を引用している。

別の事件では、自社に問題があった事実には目をつぶって、マスコミを使った不当な攻撃だと反論しようとした(44)。

バンク・オブ・アメリカの経営陣は、規制緩和の現実について大量の情報をもっていた。

だが、この現実がもつ大きな意味のひとつを直視しようとしなかった。

規制緩和が進めば、銀行業務は価格勝負になり、上品で贅沢な銀行家の伝統は消えていくしかないのだ。

同行がこの事実を認識するようになったのは、十八億ドルもの赤字を出してからである。

これに対してウェルズ・ファーゴのカール・ライヒャルトは、前任者に「究極の現実主義者」と評された人物であり、規制緩和の厳しい現実に真っ正面から取り組んだ(45)。

銀行家の仲間には気の毒なことだが、銀行家という階層は維持できなくなった。

これからは銀行経営も一般企業の経営と同じであり、マクドナルドと変わらないほどコストと効率性を重視しなければならない。

そうライヒャルトは考えた。

偉大な実績に飛躍した企業が比較対象企業より、情報の量が多かったか、質が高かったことを示す事実は見つからなかった。

そういう事実はまったくなかったのだ。

どちらの種類の企業も、良質の情報を同じように入手できた。

したがって、カギは情報の質にはない。

入手した情報を無視できない情報に変えられるかどうかがカギである。

この点を達成する強力な方法のひとつに、「赤旗の仕組み」がある。

自分の例をもちだして恐縮だが、以下のような仕組みである。

スタンフォード大学経営学大学院で事例研究の授業を行っていたとき、院生にレター・サイズの真っ赤な紙を支給し、このような説明をつけた。

「これは今学期用の赤旗である。

赤旗を持って手をあげれば、授業をそこで止めて、自由に発言することができ

る。

赤旗をいつ、何に使うかについての制限はまったくない。

使い方は完全に各自の自由に任されている。

意見を言うため、自分の体験を話すため、分析を発表するため、教授への反対意見を述べるため、ゲストのCEOを批判するため、他の院生の発言に反論するため、質問するため、提案のためなど、どのような目的にも使える。

赤旗をどのように使おうとも、罰せられることはない。

赤旗は一学期に一回に限り利用できる。

各人に支給された赤旗は譲渡不能である。

他の院生に売却ないしは譲渡することはできない」この仕組みを採用したとき、その結果、授業で何が起こるのか、まったく予想がつかなかった。

あるとき、ひとりの院生が赤旗を掲げてこう発言した。

「コリンズ教授。

今日の授業はとくに非効率的だと思います。

質問によって答えを誘導しすぎていて、われわれが自分で考えることができなくなっています。

自分で考えさせていただけませんか」。

赤旗の仕組みによって、わたしは質問の仕方が悪いために、院生の学習が妨げられている厳しい現実を直視せざるをえなくなった。

学期末の調査でも同じ情報が得られるかもしれない。

しかし、赤旗の仕組みによって、その場で、クラスの全員の前で授業の問題点についての情報を受け取れば、絶対に無視できない情報になる。

この仕組みは、ブルース・ウールパートがグラニトロックではじめた「減額払い」制度にヒントを得たものである。

減額払い制度で、同社は顧客に、同社の製品やサービスに満足できなかったとき、主観的な判断だけに基づいて、請求書に対する支払いを自由に減額する権利を認めている。

返品制度ではない。

顧客は受け取った製品を返す必要はない。

グラニトロックに連絡して許可を得る必要もない。

請求書のうち、気に入らなかった項目に丸を付け、その金額を総額から差し引き、残額を支払えばいい。

減額払い制度を作った理由を質問すると、ウールパートはこう答えた。

「顧客調査を行えば大量の情報が得られる。

だが、うまく説明をつけて納得する方法がいくらでもある。

減額払いなら、情報に注意しないわけにはいかなくなる。

顧客が怒っていても、その顧客を失うまでまったく気づかないことが少なくない。

減額払いが早期警戒信号になって、すぐに対応しなくてはならなくなる。

顧客が離れていく段階のはるか前に対応できる」飛躍した企業では一般に、赤旗の仕組みが減額払いのように鮮明な形で使われているわけではなかった。

それでも、この方法をここに書くことにしたのは、リサーチ・アシスタントのレイン・ホーナンの強い主張に説得力があったからだ。

ホーナンは別の調査で、大量の企業の仕組みを組織的に調査し、整理する仕事をしており、こう主張した。

第五水準の指導者としての能力を完全にもっていれば赤旗の仕組みは不必要かもしれない。

しかし、第五水準にはまだ達していないか、カリスマ性の弱みを克服できていない場合、入手した情報を無視できない情報に変え、真実に耳を傾ける社風を作るために、赤旗の仕組みが実用的で役立つ方法になる(*)。

*企業のさまざまな仕組みに関しては、TurningGoalsintoResults:ThePowerofCatalyticMechanism,HarvardBusinessReview,JulyAugust,1999を参照。

厳しい現実のなかで勝利への確信を失わない

プロクター&ギャンブルが一九六〇年代後半、消費者向け紙製品市場に進出したとき、この市場で最大手だったスコット・ペーパーは、まともに戦うこともなくトップの座を明け渡し、事業多角化の道を探りはじめた(46)。

「同社が一九七一年に開催したアナリスト会議は、ほんとうに気が滅入るものだった。

経営陣は要するにタオルを投げて、『ひどい目にあった』というばかりだった」と、あるアナリストが述べている(47)。

かつては誇り高かった同社が競争相手について、「ご案内のように、最高の企業と比較すれば当社は不利な立場にありまして……」と言い、溜め息をつきながら「もちろん、当社より苦しい立場にある企業がたくさんあるわけで、少しは慰められますが……」と語る(48)。

スコット・ペーパーは攻撃をどのようにはねかえして勝利を収めるかを考えるのではなく、ただひたすら守りの姿勢をとった。

市場のうち高級品部門を明け渡し、中級品部門におとなしく隠れていれば、自社の市場に参入してきた巨大企業も見逃してくれるだろうと期待した(49)。

これに対してキンバリー・クラークは、プロクター&ギャンブルとの競争を重荷ではなく、機会だととらえた。

ダーウィン・スミスらの経営陣は、最高の企業に挑戦するという考えに興奮し、自社を鍛え、強くする機会になると考えた。

同時に、社内のすべての階層の幹部と従業員の競争意識を刺激する方法にもなるとみていた。

社内のある会議で、ダーウィン・スミスが立ち上がり、こう切り出した。

「全員立ち上がって、黙祷をしてほしい」。

みな、何があったのかと周囲を見回し、なぜ黙祷するのだろうといぶかった。

だれかが死んだのだろうか。

一瞬ためらった後、全員が立ち上がって自分の靴を眺めて黙祷した。

しばしの間をおいて、スミスは顔をあげ、重々しい口調で語った。

「いまのはプロクター&ギャンブルへの黙祷だ」全員が沸き立った。

その場にいた取締役のブレア・ホワイトは語る。

「全員が興奮した。

上から下まで、工場の現場にいたるまで。

われわれは巨人と戦うのだ」(50)。

スミスの後継者のウェイン・サンダーズは、最高の企業との戦いには信じがたいほどの利点があると話してくれた。

「プロクター&ギャンブルほど素晴らしい競争相手がいるだろうか。

いるはずがない。

こう言うのは、同社を心から尊敬しているからだ。

当社より規模が大きい。

人材が豊富だ。

マーケティングの力は偉大だ。

競争相手のすべてを蹴散らしてきた。

たったひとつの例外がキンバリー・クラークだ。

この点を当社はほんとうに誇りに思っている」(51)スコット・ペーパーとキンバリー・クラークがプロクター&ギャンブルに正反対の対応をみせた事実から、われわれは決定的な点を学ぶことができた。

厳しい現実に直面したとき、偉大な企業は強くなり士気が高くなっているのであって、弱くなったり士気が落ちたりはしていない。

厳しい現実を真っ向から見据えて、「われわれは決して諦めない。

決して降伏しない。

時間がかかるとしても、かならず勝つ方法を見つけ出す」と宣言すれば、気分は高揚する。

クローガーのロバート・アダーズがインタビューの最後に、この点をうまくまとめてくれた。

二十年にわたる組織的な努力によって事業方式を完全に変更するとてつもない任務に直面したとき、経営陣の心理はこうだったという。

「われわれの行動には、チャーチルに似た性格があった。

生き抜くことへのきわめて強い意思があった。

当社はクローガーであり、クローガーはわれわれがくる前にもあったし、われわれが去ってからも長い期間にわたって生き残っていく。

そして、この戦いにはかならず勝ってみせる。

百年かかるかもしれないが、それが必要なら百年努力を続ける」(52)今回の調査の過程で、われわれは被害者研究国際委員会による「不撓不屈」の研究を繰り返し思い出していた。

これは、癌患者、捕虜、事故の犠牲者など、深刻な危機に直面して生き残った人たちを対象とする研究である。

研究によれば、危機に直面した人たち

のその後は三つに分類できる。

危機の打撃から立ち直れない人たち、普通の生活に戻る人たち、危機の経験を糧にして強くなる人たちである(53)。

飛躍した企業は第三のグループに似ており、「不撓不屈要因」をもっている。

ファニーメイが一九八〇年代初めに変身をはじめたとき、経営再建に成功する確率が高いとはほとんどだれも考えてはいなかったし、まして偉大な企業になるとはみていなかった。

総額五百六十億ドルのローンが赤字になっていたのだ。

民間金融機関から買い取った住宅ローンで約九パーセントの金利を受け取っていたが、そのための資金は最高十五パーセントの金利で調達していた。

五百六十億ドルにこの逆ざやを掛ければ、とてつもない金額になる。

それだけでなく、ファニーメイは住宅ローン関連以外に事業を多角化することを禁じられている。

同社の命運は金利の動向しだいで、金利が上昇すれば赤字になり、下落すれば黒字になるというのが大方の見方であった。

金融当局が金利を引き下げる手を打たないかぎり、成功するはずがないという意見が強かった(54)。

「利下げに期待する以外にない」とあるアナリストは述べている(55)。

しかし、ダービッド・マクスウェルが組織した新経営陣は、状況をそうはみていなかった。

勝利の確信が揺らぐことはなく、われわれのインタビューでは、目標は単なる生き残りではなく、偉大な企業として圧倒的な力をもつようになることだったと全員が強調している。

たしかに、逆ざやは厳しい現実であって、魔法で消えたりはしないものである。

だから、金利リスク管理で世界一の資本市場参加者になる以外に道はない。

マクスウェルらの経営陣は、金利への依存度を大幅に低めた新しい事業方式を構築する作業にとりかかり、きわめて高度なモーゲージ証券を作りだした。

ほとんどのアナリストはこの動きを嘲笑した。

「五百六十億ドルのローンが赤字を垂れ流しているときに、新しい金融商品を開発するというのだから、冗談はほどほどにしてくれというしかない。

倒産の危機を乗り切るために連邦政府保証を求めているクライスラーが航空機事業に乗り出すようなものだ」とあるアナリストが述べている(56)。

マクスウェルとのインタビューの終わりに、最悪期のこうした悲観的な見方にファニーメイの経営陣はどのように対処したのかとわたしは質問した。

答えはこうだった。

「社内ではそういう問題はまったくなかった。

もちろん、愚かな慣行を大量にやめなければならなかったし、まったく新しい種類の金融商品を開発しなければならなかった。

だが、失敗の可能性を考えるようなことはまったくなかった。

悲惨な状況に陥ったのを機に、ファニーメイを偉大な企業に作り替えようと考えていた」(57)調査チームの会議で、ファニーメイの事例をみていくと、リー・メイジャーズ主演の昔のテレビ・ドラマ『サイボーグ危機一髪』を思い出すという意見が出された。

砂漠で月着陸船の訓練をしていた宇宙飛行士が事故で重体になった。

治療にあたった医師団は、患者の命を救うことだけを目標にするのではなく、六百万ドルをかけて超人的なサイボーグに改造し、強力な左目や人工の手足など、原子力エネルギーで動く機構を埋め込んだ(58)。

これと同じように、マクスウェルらの経営陣は、ファニーメイが赤字を垂れ流し、倒産の淵に立たされたとき、リストラで会社を救えばいいとは考えなかった。

これを機会に、はるかに強靱で強力な会社に作り替えようとしたのだ。

一歩ずつ、一日ずつ、一月ずつ、リスク管理を中心に据えて事業方式を完全に作り替える作業を続け、ウォール街のどの金融機関にも負けない高収益を達成できるように企業文化を変えていった。

やがて、十五年間の株式運用成績が市場平均の八倍近くに達するまでになった。

ストックデールの逆説

もちろん、飛躍した企業がすべて、ファニーメイのような深刻な危機に直面したわけではない。

そういう企業は半分に満たない。

しかし、どの企業も偉大さへの飛躍の過程で、何らかの形で逆境にぶつかっている。

ジレットは乗っ取り攻勢に、ニューコアは輸入品の攻勢に、ウェルズ・ファーゴは規制緩和に、ピットニー・ボウズは独占市場の喪失に、アボットは大規模な製品回収に、クローガーはほぼすべての店舗を入れ換える必要に、それぞれ直面した。

どの場合にも、経営陣は二面性をもった強力な姿勢で困難に対応している。

一方では、決して目をそらすことなく、厳しい現実を現実として受け入れている。

他方では、最後にはかならず勝利するとの確信を持ちつづけ、厳しい現実はあっても、偉大な会社になって圧倒的な力をもつようになる目標を追求している。

この二面性を、われわれは「ストックデールの逆説」と呼ぶようになった。

これはジム・ストックデール将軍に因んだ言葉である。

ベトナム戦争の最盛期、「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれた捕虜収容所で、最高位のアメリカ軍人だった人物だ。

一九六五年から七三年まで八年間の捕虜生活で、二十回以上にわたって拷問を受け、捕虜の権利を認められず、いつ釈放されるか見込みがたたず、生き残って家族に再開できるかすら分からない状況を生き抜いてきた。

捕虜の責任者の地位を引き受け、できるかぎり多数の捕虜が生き残れる状況を作りだすとともに、収容所側と戦い、捕虜を宣伝に使おうとする敵の意図を挫くために全力をつくした。

椅子を自分の顔にたたきつけ、剃刀で切って顔を傷つけ、「厚遇されている捕虜」の一員としてテレビ撮影されないようにしたこともある。

見つかればさらに拷問を受けるし、殺される可能性もあることを覚悟して、妻との手紙で秘密情報を交換している。

拷問を受けたときにどう対応すべきか、規則をさだめてもいる(拷問に耐え抜くことはだれにもできない。

そこで、段階的な仕組みを作った。

ある時間がたったら、ある部分まではしゃべってもいい。

これによって捕虜になった将兵は生き抜く目標をもてる)。

捕虜同士の精巧な連絡手段を作り上げ、収容所側が狙いとする孤立感を和らげた。

これはモールス信号のような信号で、縦横がそれぞれ五個の行列でアルファベットの各文字をあらわす(トン・トンでA、トン・休止・トン・トンでB、トン・トン・休止・トンでFなどで二十五文字をあらわし、Kの繰り返しでCをあらわす)。

ストックデールが撃墜されて三年たった日、話をしないよう命じられた捕虜が中庭を掃除しながら、この信号を使って皆でストックデールを讃える言葉を贈ったこともある。

釈放されて帰国した後、ストックデールは海軍の歴史ではじめて、航空記章と名誉勲章を付けた中将になった(59)。

そのストックデールに会うことになって、わたしが興奮したのは理解いただけるだろう。

わたしのクラスの院生がストックデールについての論文を書いた。

そのときストックデールはわたしの研究室のすぐ向かいにあるフーバー研究所で上級研究員としてストア哲学を研究しており、わたしとその院生を昼食に招待してくれた。

下調べをしようと、わたしは『愛と戦争』を読んだ。

ストックデール夫妻が交互に執筆して、八年間の体験を記録した本である。

本を読み進めると、気持ちが暗くなっていった。

やりきれなくなるほど暗い本なのだ。

いつ終わるともしれない苦難が続き、収容所側は残忍だ。

やがて、少しずつみえてくるものがあった。

「自分はこうして、暖かく快適な研究室に坐って、美しいスタンフォードのキャンパスを眺めながら、美しい土曜日の午後をすごしている。

この本を読んで気分が暗くなっているが、自分は結末を知っているのだ。

収容所から釈放され、家族との再開を果たし、アメリカの英雄になり、後半生をこの美しいキャンパスですごし、哲学を研究している。

それを知っているのに気分が暗くなるのなら、収容所に放り込まれ、結末がどうなるかも知らなかった本人は、いっ

たいどのようにして苦境に対処したのだろうか」わたしの質問に、ストックデールはこう答えた。

「わたしは結末について確信を失うことはなかった。

ここから出られるだけでなく、最後にはかならず勝利を収めて、この経験を人生の決定的な出来事にし、あれほど貴重な体験はなかったと言えるようにすると」***わたしは何も言えなくなった。

教員クラブに向かって、ゆっくりと歩いていた。

ストックデールは繰り返し受けた拷問の傷が癒えず、曲がらない膝をかばって足を丸く回転させながらゆっくりゆっくりと歩いている。

百メートルほど歩いたころ、わたしはようやく次の質問をした。

「耐えられなかったのは、どういう人ですか」「それは簡単に答えられる。

楽観主義者だ」「楽観主義者ですか。

意味が理解できないのですが」。

わたしは頭が混乱した。

百メートル前に聞いた話とまったく違うではないか。

「楽観主義者だ。

そう、クリスマスまでには出られると考える人たちだ。

クリスマスが近づき、終わる。

そうすると、復活祭までには出られると考える。

そして復活祭が近づき、終わる。

つぎは感謝祭、そしてつぎはまたクリスマス。

失望が重なって死んでいく」ふたたび長い沈黙があり、長い距離を歩いた。

そしてストックデールはわたしに顔を向け、こう言った。

「これはきわめて重要な教訓だ。

最後にはかならず勝つという確信、これを失ってはいけない。

だがこの確信と、それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する規律とを混同してはいけない」わたしは、楽観主義者をさとすストックデールの姿を頭のなかで思い描き、その像がいまだに消えることがない。

「クリスマスまでに出られるなんてことはない。

その現実を直視しろ」***ストックデール将軍とのこの会話は忘れられないものになり、自分を磨いていくうえで強い影響を受けるようになった。

人生は公平ではない。

ときには有利な状況に恵まれ、ときには不利な状況に追い込まれる。

人はだれでも、人生のどこかで失望を味わい、絶望的な事態にぶつかる。

納得できる「理由」もなく、責任を追求できる相手もいない挫折を味わう。

病気になることもある。

大怪我をすることもある。

事故にあうこともある。

愛する人に先立たれることもある。

政治的な動きがからんだ組織再編で職を失うこともある。

ベトナム上空で撃墜され、八年にわたって捕虜収容所に放り込まれることもある。

違いをもたらすのは、困難にぶつかるかぶつからないかではない。

人生のなかでかならずぶつかる困難にどう対応するかだ。

これがストックデールから学んだ点だ。

厳しい状況にぶつかったとき、最後にはかならず勝つという確信を失ってはならず、同時に、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視しなければならない。

このストックデールの逆説は、困難を経て弱くなるのではなく強くなるための強力な武器になった。

わたしだけではない。

この教訓を学び、活かそうと試みたもの全員にとって、強力な武器になっている。

ストックデールの逆説どれほどの困難にぶつかっても、最後にはかならず勝つという確信を失ってはならない。

そして同時にそれがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視しなければならない。

わたしは当初、ストックデールと歩きながらかわした会話を、偉大な企業の調査と関連付けようとはまったく考えていなかった。

これは企業に関する教訓ではなく、個人に関する教訓だと思えたからだ。

しかし、調査結果が明らかになっていくとともに、わたしは繰り返しこの教訓について考えるようになった。

とうとうある日の調査チーム会議で、ストックデールの物語を話すことにした。

話しおわったとき、しばしの沈黙が続いた。

「トンチンカンなことを言っていると思われているのだろうな」とわたしは考えていた。

するとドゥエイン・ダフィーが口を開いた。

物静かで思慮深く、A&Pとクローガーの比較分析を担当してきた。

「まさに、わたしが苦闘してきた点だ。

A&Pとクローガーの決定的な違いをなんとかつかもうとしてきた。

これがまさにその点だ。

クローガーはストックデールに似ており、A&Pはクリスマスまでには出られると考える楽観主義者に似ている」他の人たちも賛成し、それぞれが比較分析を担当した企業にも同じ違いがあると指摘した。

ウェルズ・ファーゴとバンク・オブ・アメリカがどちらも規制緩和に直面したとき、キンバリー・クラークとスコット・ペーパーがどちらもプロクター&ギャンブルという強敵にぶつかったとき、ピットニー・ボウズとアドレソグラフがどちらも独占市場を失ったとき、ニューコアとベスレヘム・スチールがどちらも輸入品の攻勢を受けたときなどなどである。

良好から偉大に飛躍した企業はすべて、同じ逆説的な姿勢をとっている。

われわれはこの姿勢を「ストックデールの逆説」と名付けることにした。

ストックデールの逆説は、自分自身の人生であれ、他人を率いる点であれ、偉大さを築き上げた人全員の特徴になっている。

チャーチルは第二次世界大戦のときにこの特徴をもっていた。

ストックデール将軍は捕虜収容所で、そしてそれ以前のビクトール・フランクルは強制収容所で、この特徴をもっていた。

偉大な業績をあげた企業は、自由世界を救うほどの偉業をなし遂げたわけではないし、捕虜収容所に放り込まれるほどの極限状態を経験したわけではないが、いずれもストックデールの逆説を奉じている。

状況がどれほど厳しくても、自社の凡庸さがどれほど気の滅入るものであっても、生き残るだけではなく、偉大な企業になって圧倒的な力をもつようになるとの確信が揺るぐことがない。

しかし同時に、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視する姿勢を崩さない。

今回の調査で発見した点のほとんどがそうだが、偉大さをもたらす主要な要因は拍子抜けするほど単純明快である。

飛躍を導いた指導者は、大量の雑音を取り除いて、最大の影響を与える少数の点に焦点をあてる。

そうできるのはかなりの部分、ストックデールの逆説の両面をつねに大切にしていて、片方だけに目を奪われることがないからである。

この二重性を身につけることができれば、正しい決定をつぎつぎにくだしていき、いずれはほんとうに大きな決定を行うために、単純だがきわめて賢明な概念を発見できる可能性を劇的に高められる。

こうした単純だが統一のとれた概念があれば、画期的な業績をあげられる企業への変身まであと一歩になる。

次章ではこのような概念の構築を取り上げる。

章の要約

厳しい現実を直視する要点・偉大な実績に飛躍した企業はすべて、偉大さへの道を発見する過程の第一歩として、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視している。

・自社がおかれている状況の真実を把握しようと、真摯に懸命に取り組めば、正しい決定が自明になることが少なくない。厳しい現実を直視する姿勢を貫いていなければ、正しい決定をくだすのは不可能である。

・偉大な企業に飛躍するためにまず行うべき点は、上司が意見を聞く機会、そして究極的には真実に耳を傾ける機会が十分にある企業文化を作り上げることである。

・上司が真実に耳を傾ける社風を作る基本的な方法が四つある。

㈠答えではなく、質問によって指導する。

㈡対話と論争を行い、強制はしない。

㈢解剖を行い、非難はしない。

㈣入手した情報を無視できない情報に変える「赤旗」の仕組みを作る。

・飛躍した企業は、比較対象企業と変わらぬほど逆境にぶつかったが、逆境への対応の仕方が違っている。厳しい現実に真っ向から取り組んでいる。この結果、逆境を通り抜けた後にさらに強くなっている。

・偉大さへの飛躍を導く姿勢のカギは、ストックデールの逆説である。どれほどの困難にぶつかっても、最後にはかならず勝つという確信を失ってはならない。

そして同時に、それがどんなものであれ、自分がおかれている現実のなかでもっとも厳しい事実を直視しなければならない。

意外な調査結果・カリスマ性は強みになると同時に、弱みにもなりうる。経営者が強い個性をもっているとき、部下が厳しい現実を報告しなくなりかねない。

・リーダーシップはビジョンだけを出発点とするものではない。人びとが厳しい現実を直視し、その意味を考えて行動するよう促すことを出発点とする。

・従業員や幹部の動機付けに努力するのは、時間の無駄である。ほんとうの問題は「どうすれば従業員の意欲を引き出せるか」ではない。適正な人たちがバスに乗っていれば、全員が意欲をもっている。

問題は、人びとの意欲を挫かないようにするにはどうすればいいのかである。そして、厳しい現実を無視するのは、やる気をなくさせる行動のなかでもとくに打撃が大きいものだ。

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