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第四章教育の強化

目次

第四章教育の強化

27評価制度は会社の意思だ28まっすぐな思いが人を動かす29行動を科学する30服装の乱れは心の乱れ31研修を日常化する32自分の提供価値について考える33実践してきたことこそが最大の提供価値34明日と自分は変えられる◆あとがき◆【参考】杉山式ABC理論(リーダーの心得)

第四章教育の強化

27評価制度は会社の意思だ六月二十日の積上会議の席で、五十嵐は営業マンの評価制度改革を議論のテーマに挙げた。

大村専務にも事前に依頼をして、オブザーバーとして参加してもらう。

評価制度に手をつけると言うと、三人のリーダーたちはあからさまに不安そうな顔をした。

「それって、来期からのことを検討するってことですよね?」佐伯が五十嵐の言質を取るような言い方をする。

「いや。

本来なら期の途中での変更が望ましくないのはわかっているが、それまで待っていられる状況ではない」「すぐにやるってことですか?」「第二四半期スタートの七月からということで、来月から変更したいと思っている」高橋が表情を曇らせる。

「それは、どんな改定かにもよりますが……」五十嵐は資料を配りながら、改定ポイントについて説明をはじめた。

改定のポイントは、大きくは二つだった。

一つ目は、現状の売上と粗利という業績結果のみの評価に対して、活動プロセス項目を加えるというものだ。

素案は結果系が七割で、プロセス系が三割の比率で作ってある。

「今までは業績のみの評価だったので、頑張って作った売上でも、たまたまラッキーでできてしまった売上でも、とくに区別はされてなかった。

いずれはそこにもメスを入れていきたいが、現時点ではプロセス系項目を追加することで、まずはソフトランディングしたいと思う」「具体的にはどんな項目を追加するんですか?」「SFAにおけるデータ入力件数を評価に入れる。

商談履歴や新規開拓顧客の名刺情報など、十項目を考えている」全員が配布資料に目を落とす。

「なんだか新規顧客の情報を金で買うみたいだな」そう言いかけた佐伯があわてて、「いや、否定してるわけじゃないんですが……」五十嵐の顔色をうかがう。

「それだけ新規顧客の情報は価値があるってことだし、新規開拓に対する営業活動は、会社としても高く評価するということでもあるんだ」「まあ、七月から導入が開始されるSFAのスタートダッシュにもなりますからね」佐伯は賛意を示す。

高橋もうなずいていた。

が、中川は少し不安そうだ。

「趣旨には賛成なんですが、評価ほしさにSFAに噓の入力をする営業マンが出てきませんか?」「情報を入力することで誰が受益者になるのか、我々が丁寧に説明していくことが必要だろうな。

噓を入れて一時的に評価をもらっても、その情報は自分を助けてはくれないんだ」「わかりました」中川も覚悟を決めたようだ。

ここまでは、三人の賛同を得られた。

しかし、問題はここからだった。

二つ目の改定ポイントは、少額案件を評価から外すというものだ。

「ちょっと待ってください!少額案件って、いくらのことを言ってるんですか?」五十嵐の説明を遮り、佐伯が声を上げた。

顔色が変わっている。

高橋も眉間に皺を寄せていた。

「十万円未満だ。

営業マンが営業活動をして契約してきたものでも、十万円未満の案件は一切評価しない」「そりゃ、無茶だ!暴動が起きますよ」佐伯が血相を変えて、反対意見をつづける。

「お客様との関係力強化が大切だって言ったのは、五十嵐部長ですよ。

そのために関係力の共通指標を作って、展開をはじめたばかりじゃないですか」「だからなんだ。

関係力レベルを上げるための共通実施項目に、営業マンたちが本気で取り組むようにするためにも、御用聞きのような商談と本当にお客様への価値提供をしている商談を、分けて評価していく必要があるんだ」普段はあまり自分の考えを口にしない高橋も、さすがに黙ってはいられないようだ。

「私も佐伯と同じ意見です。

賛成とは言えません。

高度な商談を伴う大型案件をたくさん作ることができるトップセールスはいいかもしれませんが、業績に苦しんでいるセールスは、その御用聞きのような数字も大事なんです。

彼らからそれを奪えば、モチベーションを大きく下げてしまうことになります。

五十嵐部長には釈迦に説法かもしれませんが、そもそもそういう小さなことの積み重ねでお客様を囲い込んでいくのが、営業のセオリーなんじゃないでしょうか?」大村専務は、五十嵐と三人のリーダーのやり取りを黙って聞いている。

五十嵐は追加の資料を配布した。

「昨年度一年間の全営業マンの売上を集計したものだ。

一個千円のマウスから、一千万円以上の高額システム案件まであるが、契約書ベースで契約数を見ると、一契約が十万円未満のものが全体の六十パーセントにも及んでいる。

ただし、その六十パーセントの売上金額の合計は、売上全体のわずか七パーセントだ」五十嵐の言葉に、全員が息を吞んだ。

「どういうことだ?」みんなの疑問を代表するように、大村専務が質問した。

「たった七パーセントの売上を作るために、仕事の工数の六十パーセントが割かれているということです。

千円のマウスでも一千万円のシステム構築でも、契約は契約です。

同じ一契約なんです。

もちろん商談プロセスが同じとは言いませんが、契約後の業務処理は金額ほどの違いはないでしょう」「十万円未満の契約を評価から外しても、営業マンの評価は、七パーセントしか減らないってことか」大村専務が驚いた顔で五十嵐を見た。

「しかも、契約にかかわる業務の六割が減るんです」「それはそうかもしれませんが……」それでも佐伯は納得がいかない顔のまま、資料の数字を目で追っていた。

「業績の厳しい営業マンほど、十万円未満の低額案件の比率が高い傾向がある」「そりゃそうですよ。

だから予算を達成しないんですから」「でも、本人たちは危機感が薄い。

なぜだかわかるか?」佐伯が言葉につまる。

「低額案件の契約数がそれなりにあるから、予算は未達でも仕事をしている気分になれるんだ」「満足してるのか……」「五万円の商品を十個契約しても、売上総額は五十万円にしかならない。

でも、お客様に見積書を十枚も提出して、それだけ契約書をもらえば、仕事の達成感はそれなりにあるだろう」「錯覚してるんですね」「そうだ。

そもそもトップセールスはそんな仕事はしていない」佐伯がうなずく。

「でも、いきなり評価をしないっていうのはどうなんでしょうか?」「千円のマウスはもちろんのこと、一万円のプリンターや五万円のパソコンなどは、営業マンを介さずにネット通販サイトから注文してもらえばいい。

その場合は今まで通りに、担当営業に評価をつけよう」「自分で売らなくても評価がつくんですか?」「そうだ。

これはネット通販への誘導促進にもなる」ネット通販は人件費も抑制できるし、顧客の衝動的な追加注文も発生しやすい。

「その代わりに、営業マンが時間を割いて契約を取ってきても、十万円未満はすべて評価の対象から外す。

そうなれば、中には小さな商談を切り捨てるケースも出てくるだろう。

それは覚悟の上だ。

売上が減ったとしても、所詮は七パーセントだ。

それよりも御用聞きのような訪問ではなく、お客様の課題解決のための商談に時間を割くようになってくれたほうが、はるかに売上の拡大になる。

評価制度によって、営業マンの行動を変えるんだ」全員が沈黙してしまった。

これはあまりにも大きな賭けだった。

場合によっては営業マンたちの売り控えにより業績を悪化させてしまうかもしれないし、大切な顧客を失うきっかけを作ってしまう可能性もあった。

そのことはわかった上で提案している。

「評価制度は会社の意思だ」五十嵐は思いを吐き出すように言った。

評価制度は、どんなお客様に、なんの商品を、どのような方法で売るべきなのか、それを具体的に示していなければならない。

どんぶり勘定で売上や台数を評価していては、会社の意思は示せない。

そしてさらには、最大の教育の仕組みでもある。

営業革新を成し遂げるためには、この聖域に踏み込まないわけにはいかないのだ。

高橋も佐伯も中川も、目を伏せ、資料をじっと見つめている。

彼らの理解が得られるか、ここが勝負だった。

せっかく気持ちが一つになりかけていた営業部が、これをきっかけにバラバラに砕け散ってしまうかもしれない。

充分に考えられることだった。

理想を掲げることは大切なことだ。

しかし、人は霞を食べては生きていけない。

給与に占めるインセンティブの割合が高い営業マンたちにとって、評価制度は死活問題だ。

それを営業プロセス改革のための教育に利用しようとしているのだ。

理解してくれと言っても簡単なことではないだろう。

──それでも、やらなくてはならないんだ。

五十嵐の額を汗が流れる。

重たい空気を破るように、佐伯が発言した。

「五十嵐部長の一番の狙いは、営業マンの活動を、ルートセールス重視から顧客ニーズに合わせた価値提供型商談に誘導するということですよね?」佐伯の問いかけに、思わず身構えた。

「もちろんだ」「では、顧客セグメントにおける新規開拓顧客だけは、低額案件も評価に加えたほうがいいんじゃないですか。

それ以外のセグメントの顧客は、五十嵐部長の言う通りに、思い切って評価から外しちゃいましょう」「えっ?」佐伯の意外な答えに、思わず聞き返してしまった。

「どうなるかわかりませんけど、何もしなければ、今と変わらないってことでしょう?」佐伯がニヤッと笑う。

高橋がつづく。

「たしかに、まずはやってみないと変わりませんよね。

それでだめなら、次のことを考えましょう」中川も微笑んでいる。

「評価制度は会社の意思だ、って言葉、グッときました」大村専務が、ふーっと息を吐くと、話をまとめる。

「それじゃ、全員一致で決定だな。

詳細はもう少しつめるとして、とにかく第二四半期から新評価制度をスタートするぞ」五十嵐は、ハンカチで額の汗を拭った。

28まっすぐな思いが人を動かす営業部の積上会議が終わったあとで、会議室には大村専務と五十嵐の二人が残っていた。

「今回はさすがに驚いたよ」「ありがとうございました。

正直言って、どうなることかと不安でした」「どうせ反対したって、やるつもりだったんだろう?」「ええ、まあ……」大村専務が肩を竦める。

「そういえば聞いたよ。

SFA導入の件で、坂巻さんと対決したらしいじゃないか」「い、いや……それは……」「完敗したって、坂巻さんがうれしそうに言ってたぞ」「勘弁してください」五十嵐は苦笑いしながら、頭を搔いた。

「だんだん、五十嵐さんのことがわかってきたよ。

親父がなんでうちに呼んだのかもね」大村専務をまっすぐに見つめながら、五十嵐は笑顔で答える。

「大きな仕組みを構築するためには、一時的には何かを犠牲にする必要があるんです。

さっきは黙っていましたけど、十万円未満を評価から外すのは、一年間だけの時限立法で考えています」「そうなのか?」「会社が目指す姿が社員に伝われば、それでいいんです。

一年あれば、御用聞き営業から脱却する体質改造も進むでしょう。

佐伯リーダーが言ったように、無茶なことはわかってますから」「まいったな。

いっぱい食わされた」「専務は騙されたふりをしていてください」「それにしても今回の評価制度の改定は、営業マンたちから猛反発を食らうぞ」「もとより覚悟の上です。

リーダーの三人だけがわかっていてくれれば、それでいいんです。

暴君の誹りは、私一人が受けますから」「大丈夫だ。

ちゃんと俺もわかってるから」大村専務が悪戯っぽい笑顔でうなずいた。

本気で戦っている者の思いは、必ず周囲に伝わっていく。

人を動かすのは名誉や金銭などではなく、まっすぐで強い意志の力なのだ。

「ありがとうございます」29行動を科学する夕方、五十嵐が営業マンへの同行を終えて会社に戻ると、何やら営業部が騒がしかった。

「どうしたんだ?」

「あっ、部長。

お疲れ様です」自分の席に座っていた佐伯が、五十嵐の姿を見つけると立ち上がって挨拶をする。

すぐそばには、田所と香乃の二人が立っていた。

田所は苛立った様子で顔をしかめ、香乃は沈痛な面持ちでうなだれている。

「だからお前と組むのはいやだったんだよ」「すみません」香乃が頭を下げる。

田所とすれば香乃と組むことがどうというより、そもそも副担当制そのものが気に食わない。

重点顧客の売上評価の半分が、副担当に取られてしまうことが不満なのだ。

そんな状態で何か問題が起きたのであれば、香乃に対する怒りも並大抵ではないだろう。

「何かあったのか?」五十嵐はできるだけ柔らかな口調で、笑顔を意識しながら尋ねた。

田所が今にも舌打ちしそうな勢いで、それでも五十嵐に訊かれたので仕方なく話しはじめた。

「秋元の担当している重点顧客の三和工業さんに、一週間前に提出した見積の結果を聞きに行くって言うんで、同行したんです。

副担当の仕事ですからね。

そうしたら商談相手の総務部長に、えらい剣幕で怒られちゃって。

もう、取りつく島もないって感じで散々でしたよ。

最後は私がうまく執りなしてなんとか事なきを得ましたけど、秋元だけだったら取引停止になっていたかもしれませんよ」田所のことなので多少は大袈裟に話しているふしもあったが、それでも重点顧客からクレームが上がったのは事実なのだろう。

「それはご苦労だったね。

だけど、秋元さんがお客様を怒らせるなんて、何が原因だったんだ?」田所が溜息をつきながら、事の顚末を説明する。

三和工業からの引き合いはモバイルパソコンが五十台で、メーカーとスペックの指定があり、機種について提案してほしいというものだった。

香乃は指定されたメーカーのパソコンの中から、お客様の希望するスペックの商品を選び、重点顧客での五十台一括案件ということもあり、特別価格で見積書を提出した。

一台あたり、定価二十万円のモデルを十四万円まで値引きした。

香乃の迅速で充分な値引き対応に、総務部長も満足してくれて、すぐに社内起案をまわしてくれた。

ところが社長決裁が下りた直後に、たまたま飛び込み訪問で、未取引だった事務機器販売の営業マンが来たので、総務部長はなんの気なしに、その話をしてしまった。

すると、特価商品があると言われた。

そのメーカーの旧モデル──いわゆる型落ちで、定価二十五万円の商品を、十四万円で見積もってきた。

同じ十四万円だが、値引き率が大幅に大きい。

総務部長は、香乃に対して激怒した。

──すでに起案は社長承認ずみで、購入業者や商品の変更はできない。

なぜもっと値引き率の高いものがあるなら、教えてくれなかったのか?新モデルを売りたいがために、欺いたのではないか?そんな営業マンは信用できない。

結局、新モデルは定価が低く設定されているだけで、スペックは旧モデルを上まわるということと、旧モデルでは一部ではあるが指定スペックを満たせないということを、田所が説明して、総務部長には納得してもらった。

「ある意味で、総務部長の勘違いなんですけど、なんか後味が悪くて、お互いに気まずい雰囲気で帰ってきましたよ」「うーん、田所係長がうまく対応してくれたのはありがたかったけど、お客様の勘違いと言いきってしまうのは、ちょっとどうかなぁ」「それって、どういうことですか?」田所が怪訝そうな顔で五十嵐を見る。

香乃だけでは、興奮しているお客様に事実を理解してもらうのは難しかっただろう。

田所が同行していたことで、香乃は救われたのだ。

ベテランが若手を助けることで、重点顧客を守る。

田所としては余計な仕事をさせられたという思いが強いのだろうが、これも副担当制の狙いの一つなのだから、五十嵐としてはしてやったりというところだった。

いっぽうでは、なぜそんな問題が起こってしまったのか、要因については考えておく必要がある。

「総務部長は、アンカリング効果の罠にはまったのかもしれないな」「アンカリング効果ってなんですか?」佐伯が興味を持ったように聞き返してきた。

三人に向かって説明する。

「行動経済学の分野では、よくいわれていることなんだが、人って事前に提示された基準になる情報によって、次の判断結果が変わってくるものなんだ。

たとえば、五万円のバッグといわれたら高くてなかなか買えないけど、それが定価十万円のものがバーゲンで半額になっていると聞けば?」すかさず香乃が答える。

「とても安い気がします」「やっぱり女性はバーゲンに弱いね」「そ、それは……」香乃が赤くなった。

「秋元さんにかぎらず、これは誰でもお買い得だと思ってしまう。

定価十万円というアンカー(基準値)が打ち込まれたために、それがその後の判断の基準になってしまうからなんだ」「そうか、今回の商談も、飛び込みで来た営業マンが総務部長を罠にはめたのか!」田所が憤慨している。

「意識的にやったのかどうかまではわからないが。

だけどこれは私たちにもいえることで、営業マンがお客様と商談するとき、正しい判断をしていただけるように情報を伝えることは、とても大切なことなんだ。

今回の商談では、秋元さんが旧モデルの存在を事前に総務部長に伝えていれば、なんの問題にもならなかったからな」「すみませんでした」香乃がふたたび頭を下げた。

「気を落とすことはないさ。

いい経験をしたと思って次に活かせばいいんだから。

それに、田所係長の素晴らしい顧客対応も見ることができたし」「はい。

勉強になりました」「さすがはトップセールスの田所係長だ」そう言われて、田所もまんざらでもない様子だ。

佐伯が五十嵐に質問する。

「他にもこういうのって、あるんですか?」「行動経済学の視点で見てみると、実は人っていかに非合理的な判断をしているのかって、よくわかる」話が盛り上がっているのを見て、営業部の他のメンバーたちもまわりに集まってきた。

さながらミニセミナーのようなもので、最近よくある光景だった。

五十嵐は全員に向かって話しはじめる。

「よくいわれるのがメンタルアカウンティングで、直訳すると心の会計だな。

人って様々な要因によって、非合理的な金銭感覚を持ってしまうものなんだ。

たとえば、高橋リーダーは奥さんとレストランに食事に行って、お薦めのワインが一本一万円だったら頼みますか?」振られた高橋が、すぐさま答える。

「そんな高いの、頼みませんね」「でも、もしもその日が、奥様の誕生日だとしたら?」「迷わず頼みます」みんながどっと笑った。

「さすが愛妻家」佐伯が、「奥さんが怖いだけでしょ?」と高橋をからかっている。

五十嵐は笑いながら、みんなに向き直った。

「こういう例もある。

ギャンブルで十万円を稼ぐと、人はあぶく銭だと思ってすぐに使ってしまうけど、汗水たらして稼いだ十万円なら、大切に取っておく。

も、お金に区別はないよな」五十嵐の言葉に、田所がうなずく。

「たしかに、本当はどちらも同じ十万円なのに、人ってそこに違う価値を感じるんですね」五十嵐はつづける。

「プライミング効果というのもある。

直前に与えられた情報によって、特定の答えが導かれやすくなってしまうというものだ。

患者が成功率五分五分の手術を受けるとき、手術室に入る直前に、医者から、先週一人成功したよって言われるのと、先週一人失敗したんだって言われるのと、どっちが安心できる?」「そりゃあもちろん、成功のほうです」田所の答えにみんなも笑っている。

「でも、成功率は五分五分だって、事前に説明は受けているんだよ」「それでもやっぱりねぇ」「人って直前の情報で左右されるんだ。

保険の営業マンがよく使う手だけど、このガン保険は最近とても売れていて、先月も一人、ガンになったお客様がこれで助かったんですよ、なんて言われると、たった一人の事例なのにすごくいい商品に思えてくるだろう」「保険のテレビCMにも、そんなのがありましたね」香乃の言葉に、うなずいている人も多い。

「私たちの業界でも、提案書にはお客様の同業他社の導入事例をつけるよな」「そうか。

プライミング効果だったんですね」五十嵐はさらにつづける。

「それから、フレーミング効果は、人は判断を下すとき、絶対評価ではなく、自分が持っている基準との対比で判断しやすいっていう理論のことだ。

手術を受ける患者が、医者から、この手術は十人に一人は死にますって言われたら、受けたくなくなるだろう。

でも、成功率九十パーセントですって言われたら、なんか安心な気がする」「同じことを言っているのに、伝え方によって、相手の受け止め方は変わるんですね」「ゴルディロックス効果というのも、営業の世界ではよく話題になるな。

ゴルディロックスって、『心地よい状態』みたいな意味なんだけど」「聞いたことないですけど」「松竹梅理論なんていう人もいるかな。

レストランがランチをはじめて、千円と二千円のメニューを作ったんだが、二千円のほうがほとんど注文されなかった」「うーん、たしかに、ランチで二千円は厳しいかな」「このレストランで二千円のランチを売るには、どうしたらいいと思う?」田所が腕を組んで首をかしげる。

「無理ですね。

私なんて、野家の牛丼ばっかりですから」「まあ、田所係長はおいておくとして。

このレストランでは、三千円のランチをメニューに追加したんだ。

すると、今までほとんど注文されていなかった二千円のランチが、なんと一番多く売れ出した。

三つの選択肢を置くと、人は真ん中に心地よさを感じるわけだ。

見積書を作るときでも、選択肢が二つの場合は、あえてさらに一つ上のランクの提案を追加するというのは、どの業界の営業マンにも多く見られるテクニックだな」「それでも私は野家に行きますけどね」「私も野家は好きだよ」田所がぶつぶつ言っているのは受け流して、五十嵐はさらにつづける。

「シンメトリー効果って知ってる人はいる?」香乃が小さく手を挙げる。

「上下とか左右とか、対称になったものに、人は美しさを感じるんですよね」「そうだな。

あるテレビ番組でこんな実験をやっていた。

定価六百円のぬいぐるみを十個ほど縁日で売るんだが、最初はブルーシートの上に無造作に並べて置いただけだった。

いくらなら買うかと聞いたところ、お客さんたちの言った金額の平均は三百円だった。

次に同じぬいぐるみを、ガラス製のテーブルに等間隔に並べて置いてみた。

また同じように質問をしてみると、お客さんたちの答えの平均金額は、なんと九百円だった。

同じぬいぐるみだよ」「きれいに並べただけなのに、商品の価値が変わっちゃうんですね」「ハピネスコンピュータでは、お客様に提出する提案書については、ほとんどがテンプレート化されているんだ。

過去に提出された全営業マンの提案書が、お客様の業種やソリューションごとに共有サーバーに分類保管され、誰でも自由に参照することができるように仕組み化されている。

数字の部分はマスキングされているから、必要なテンプレートはいつでも流用することが可能だ。

提案書は個人ではなく、組織で作るものなんだ。

同じことが書かれていても、美しい提案書は、お客様に対して高い説得力を持つ。

どんなに優れた提案でも、それがお客様に正しく伝わらなければ価値の提供はできないからな」「それはおもしろい仕組みですね。

すぐにうちでも取り組みたい」さっそく高橋が、提案書の作成に長けている営業マンを推進責任者に指名した。

大村事務機では、提案書は個人ごとに勝手気ままな書式で作成されている。

保存も個人のパソコンの個人フォルダーだ。

「行動経済学について、ここまでいろいろ説明してきたけれど、これはあくまでも営業のテクニックの話だ。

知っておくべき知識ではあるが、悪用してはいけない。

お客様の心を操作して結果を求めるようなやり方は、決して正しいことではないんだ。

むしろ、人は数字の判断を間違えるのだということを踏まえた上で、いかにお客様に事実を理解していただくか、正しい判断をしていただくか、それをお手伝いすることこそが、営業マンの仕事なんだと思う。

結果的には、そういう仕事をした営業マンだけが、お客様の真の信頼を得ることができるんだ」全員の心に届くように、五十嵐は思いを込めて語りつづけた。

30服装の乱れは心の乱れ六月下旬の日曜日の朝。

五十嵐は今週も休日出勤をしていた。

土曜日なら、お客様の都合で、出勤している社員も数人いたが、さすがに日曜日の朝ともなると、五十嵐以外には誰もいない。

上着を脱いで腕まくりをすると、会社の裏にある駐車場へと向かう。

そこには三十台ほどの社用車が停めてあった。

頭上を見上げれば、真っ青に澄みきった初夏の晴れ空が広がっている。

──洗車日和だな。

ぼろ布に水垢落としワックスを浸み込ませ、営業車のボンネットを磨いていく。

屋根のない野天に駐車しているので、白い営業車は驚くほど汚れていた。

細かい傷も目立つ。

マイカーならもっと大事に乗るだろう。

営業車は毎日乗るものなのに、扱いはひどく粗雑だ。

灰皿には煙草の吸殻が溢れ、後部座席にはコンビニの袋に入ったゴミが置きっぱなしになっていた。

大村事務機では、個人による営業車の占有は認めていない。

必要な人が必要なときに、リーダーの許可を得て、空いている車に乗っていく。

共有していて車体ごとの責任者が決まっていないことも、営業車が汚れている原因の一つだろう。

汚れた車ほど事故率が高いというのを、以前何かの雑誌で読んだことがあった。

車をきれいにするということは、丁寧な運転に繫がるのだ。

車の状況は、社内の雰囲気をそのまま示していると思う。

五十嵐はゴールデンウィークから、営業車のワックスがけをはじめた。

四月が不甲斐ない業績で終わったことへの自分への戒めでもある。

五月は大口案件のおかげで予算達成はできたが、それは決して本来の力ではない。

残念ながら今の営業部の状況を考えれば、ワックスがけはしばらくつづけることになりそうだった。

誰にも内緒で、こっそりと日曜日に休日出勤し、一日に一台ずつ心を込めて磨いていく。

今日で七台目になる。

一時間ほどをかけて、営業車をピカピカに磨いた。

見ているだけで、晴れ晴れとした気持ちになった。

服装の乱れは心の乱れといわれる。

人はきちんとした服装をすることで、役割をより強く意識する。

ナースやキャビンアテンダントが制服を着ているのは機能性の問題だけではなく、人の命にか

かわる重要な仕事をしているということを自覚するのも目的の一つだ。

服装や身だしなみを整えることで、人は自信を得ることができるということも研究によって明らかになっている。

営業マンがスーツの皺や靴の汚れに気を使うのは当然のことだが、きれいな営業車で顧客を訪問することも同様のことだと思っている。

五十嵐は頭上に輝く太陽を見上げると、眩しそうに目を細めた。

31研修を日常化する月曜日の午後、月末の積上会議が行われた。

五十嵐は先日の三和工業のクレームの件について、佐伯と共に全員に説明した。

「そうはいっても、お客様の勘違いがもとなんだろう?」今回も大村専務が出席していた。

五十嵐が声をかけなくても、自分から積極的に会議に出てくれるようになっていた。

「そうともいえません。

今回のように、お客様から受けた見積依頼に、ただ対応するだけのような御用聞き営業が多いから、このようなことが起きるんです」五十嵐は大村専務に答えながらも、佐伯や中川たちに視線を流した。

「それはそうかもしれませんが、私たちは日々の数字に追われてるんですから、どんな案件だって、必死で追い駆けなくちゃならないんです」大村専務の前で、日頃の営業活動を否定されたと思ったのか、佐伯が少しむっとした様子で反論した。

「秋元さんだったから御用聞き営業ですんだけど、これが田所係長や加藤主任のようなトップセールスなら、価値の押し売りになっていたかもしれない」「価値の押し売りって……」高橋が絶句している。

「ニーズの深掘りもせず、お客様に言われた商品を見積もっているだけなら、それは価値の押し売りなんだ。

数字を追っているといっても、結果的にはお客様が知り得る需要、つまりは顕在ニーズしか商談にならない」大村専務が腕組みをして唸る。

「うーん。

数字を追っているようで、実は数字を取り逃がしているかもしれないということか」これには佐伯も反論できないようだ。

「テレビショッピングで有名なジャパネットたかたの創業者の田明さんが、新聞のインタビュー記事でおもしろい事例を紹介していた。

提供商品はICレコーダーだったんだけど、それまではビジネスマンが会議で使うのが主流だった。

というか、それくらいしか用途がなかった。

でも、これを世の中の母親向けに、『何時に帰ってきます』のような子供への伝言用に使ってみてはどうかと提案したんだ。

その結果、見事に大ヒットした」「お客様も気づいていないニーズを見つけたことで、価値を提供したというわけか」大村専務が感心したように言った。

五十嵐は大村専務に向かってうなずく。

「そもそも、お客様が営業マンに相談してくるお困りごとは、百パーセント正しいに決まっています。

困っているので言ってくるんですから。

だけど、それがお客様のお困りごとの百パーセントだともかぎりません。

お客様も気づいていないことはたくさんあるでしょうから」「だったら、お客様に相談されたことだけを解決していても、満足度は百パーセントにはならないということか」「そうなりますね」大村専務の表情に、さらに真剣味が増した。

「どうしたらいいんだ?」三人のリーダーたちも、五十嵐に注目する。

「まずは、営業マンが使っているヒアリングシートをやめませんか?」これには中川が驚いた顔をしている。

「ヒアリングシートはお客様の環境や要望を確認する上で、とても重要なんじゃないですか?とくに若い営業マンにとっては、商談での聞き漏らしを防ぐことができます」五十嵐が意味ありげに、にやりと笑いかける。

「ヒアリングシートの目的ってなんだっけ?」佐伯が怪訝な顔で答える。

「お客様の課題や問題をお聞きしたり、提案をさせていただくために環境を確認しておくことです」「本当にそうなってるのかな?自社の商品を提案したいがために、そこに繫がるような答えに誘導するようになってるんじゃないか?」「それは……だって、ヒアリングシートは提案するために使うものじゃないですか」「それがそもそもの間違いなんだよ。

ヒアリングシートはお客様のことを知るために使うべきであって、自社の提案のためのものじゃない」お客様の潜在ニーズを浮き彫りにするためには、業務フローを可視化し、そこに潜む課題や問題を共有していくことが必要だ。

しかし、多くの営業マンが、自社製品の提案ありきでヒアリングを行い、答えを誘導しようとしている。

仮説検証型提案といえば聞こえはいいが、実際にやっていることは、仮説ありきの決めつけ提案だ。

これでは価値の押し売りにしかならない。

「お客様を知るためのヒアリングシートになってなければ、営業マンの商談支援にはならないのか」大村専務が納得したようにつぶやいた。

五十嵐は、「業務フロー確認シート」と書かれたA3判のシートを配った。

「これは私が営業所時代に使っていたものでちょっと古いんだけど、議論の叩き台にはなると思う」ボックス内が空白になったフローチャート図で、業種や部門ごとに業務の流れやそこで起きている事象を書き込むようになっている。

佐伯が、はっと顔を上げた。

「そうか。

これを営業マンがお客様と一緒に埋めていく過程で、見えていなかった課題や問題が見えてくるんだ」「お客様にも、きっとたくさんの気づきがあるはずだ。

自分たちの業務を棚卸しするんだからな。

仕事って、意外なほど自分たちにも見えていないものなんだ」高橋がシートから顔を上げた。

「営業マンたちに意見を聞きながら、このシートの大村事務機バージョンを作りましょう」「これを使えば、お客様の業種や部署特有の業務フローを理解することができるんだ。

そして課題解決提案に繫がる営業プロセスを正しく踏んでいくことにもなる」「こう言ってはなんですが、まるで商談が研修みたいですね」「毎日の営業活動そのものが、生きた研修なんだ。

もちろん、定期的に営業研修をすることは大切なことだけど、それってダイエットと同じで、なかなか効果がつづかないものなんだ」「ダイエットですか?」みんなが五十嵐に注目する。

「ダイエットで短期的に効果を上げやすいのは炭水化物ダイエットだけど、これって結果は二通りに分かれるんだ。

つらくて途中で投げ出してしまうか、成功しても、安心して炭水化物を食べて、結局は元に戻ってしまうかだ」「結局どちらも失敗じゃないですか」「麺、パン、ごはんをカットするなんて、余程の忍耐力がないとできないからな。

だから、ダイエットは永遠のテーマなんだよ。

営業研修も同じさ。

どうせ無駄だと思って取り組まないか、せっかく研修で価値のあることを学んだにもかかわらず、現場に戻ったときにそれを継続して実践しないかのどちらかだ」「だから、営業研修も永遠のテーマなんですね」佐伯が笑っている。

「そうしないためにも、研修を日常の営業活動に組み入れるような仕組みが重要になってくるんだ」五十嵐たちの会話を聞きながら、大村専務が満足そうにうなずいていた。

32自分の提供価値について考える

「ああ、もう。

なんでだよ!」田所は帰社するなり、営業鞄を机の上に叩きつけるように放り投げた。

バーンと、派手な音が響く。

その音に、社内の全員が注視した。

つづいて香乃も戻ってきたが、どうしていいのかわからないようで、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。

「どうした?」佐伯が田所に尋ねた。

「どうもこうもないですよ。

ヒグチハウジングがやばいんです」「なんだって!」田所と香乃のただならぬ雰囲気に、営業部全体に緊張が走る。

ヒグチハウジングといえば、ちょうど大きな案件が継続中だった。

本社社屋のリニューアルに伴い、オフィス環境の改善を提案している。

IT機器の最適配置によるセキュリティ強化やコスト削減を要望されていた。

五十嵐はもちろん、大村専務や高橋、中川も席を立って、田所と香乃を取り囲んだ。

田所の目が泳いでいる。

いつも強気な彼にしては珍しかった。

「提案中の本社リニューアルの件、よそに任せたいって……」「それ、どういうことだよ!もう、最終提案まで行ってんだろう?受注確実のA案件だって、佐伯からも報告もらってたぞ!」大村専務が苛立ちを隠せず、声を荒らげる。

「自分だってわかんないですよ。

今日いきなり呼ばれたんで、秋元と行ってきたんです。

そうしたら担当者の上司の総務部長が出てきて、商談中の提案を白紙に戻してくれって」「どこか、来てるのか?」「帝国テクノです」「くそっ!」大村専務が握り拳で机を思い切り叩いた。

佐伯は絶句したままだ。

「相手が悪いな」高橋が肩を落とした。

中川の顔が蒼白になっている。

無理もなかった。

帝国テクノは業界大手の事務機器販売会社で、ハピネスコンピュータでさえ何度も煮え湯を飲まされている競合先だ。

資金力が豊富で、全国に営業展開をしている。

営業力も業界随一だ。

吹けば飛ぶような大村事務機と違って、提案力もずば抜けている。

そもそも比較するような相手ではなかった。

「どういう経緯で帝国テクノが呼ばれたのかは教えてもらえませんでしたが、見積を取ったら、話にならないくらいうちより安かったそうです」「しかし、なんで……。

ヒグチハウジングとは、うちが創業した当時から継続的に取引をしてもらってきたじゃないか」大村事務機の社屋も、大村社長の自宅も、ヒグチハウジングによって建設されている。

取引関係は、昨日今日はじまったものではない。

もっとも発注金額でいえば、ヒグチハウジングのほうが桁違いに大きかった。

関係は長いが、互恵というには規模が違いすぎる。

「ヒグチハウジングも業績が思わしくないそうで、昔の付き合いをいつまでも引きずってる場合じゃないそうです」「ふざけるな!」大村専務が今度は手のひらで、バンッと机を叩いた。

香乃がビクッと身体を震わせる。

今回の大型商談は、すでに今期の業績計画に積み上がっていた。

これが他社に取られるとなると、計画に大幅な狂いが生じる。

間違いなく、今期も赤字に転落だ。

いや、それどころではなかった。

毎年継続的に大型受注をもらってきたヒグチハウジングを帝国テクノに奪われてしまうようなことになれば、業績に苦しんでいる大村事務機にとって、命取りにもなりかねなかった。

全員の脳裏を、倒産の二文字がよぎる。

「田所係長、すぐに明日のアポイントを取ってくれ。

私と専務で行くから。

専務もよろしいですね?」五十嵐の言葉にも、大村専務は虚ろな目でうなずくだけだった。

翌日、五十嵐は大村専務と田所、それに香乃の四人で、ヒグチハウジングを訪ねた。

広い応接室に通される。

総務部長のみならず、樋口副社長も同席してきた。

オーナー社長の息子で、実質的な経営トップだ。

年齢はまだ五十前でかなり若い。

アメリカのビジネススクールでMBAを取得し、帰国後に大手デベロッパーに勤務して部長まで務めている。

四十五歳で退職し、ヒグチハウジングに幹部として入社した。

副社長に就任したのは一年前だ。

創業者一族ということでは、大村専務と似た経歴ではあるが、こちらは超がつくほどのエリートだ。

地方の私立大学を出たあと、親のコネで大手のパソコンメーカーに潜り込んだ大村専務とは雲泥の差がある。

「今回の件、考え直していただけませんか」大村専務が、深く頭を下げる。

「大村事務機さんとは長い付き合いだからね。

できれば無下なことはしたくないんだ」「それじゃあ──」「しかし、見積金額にあまりにも開きがありすぎる」「うちももっと頑張らせていただきます」「帝国テクノ以下にできるの?」「い、いや……それは……」大村専務が言葉につまる。

帝国テクノは、ヒグチハウジングとの口座を取るため、今回は採算度外視で破格の金額提示をしてきている。

大村事務機がその下を潜れば、間違いなく大赤字になる。

ハピネスコンピュータの支援を受けても、埋められるような金額ではなかった。

今の財務状況の大村事務機が手を出せば、かえって命取りになりかねない。

「この厳しい世の中だ。

私のところだってクライアントからコストカットを強く言われている。

その中で、ヒグチハウジングならではの価値を訴えながら仕事を取ってきてるんだ。

大村さん、そもそも御社の価値ってなんなの?」樋口がメタルフレームの眼鏡の奥の目で、じっと大村専務を見据える。

「そ、それは……」一瞬の沈黙が流れる。

「わかりました。

大村事務機さんとは今までのいきさつもありますから、もう一回だけ、提案をいただきましょう。

一週間後です。

それで私が納得できなければ、そのときには帝国テクノでいかせていただきます。

こちらも慈善事業をしているわけではありませんので」樋口はそう言うと、席を立った。

「ありがとうございます」大村事務機の四名もあわてて立ち上がると、神妙な顔で一礼し、その後ろ姿を見送った。

33実践してきたことこそが最大の提供価値大村事務機の会議室。

緊急のレビュー会が開かれた。

大村専務、坂巻、五十嵐、佐伯、高橋、中川、田所、香乃の八名に、支援先であるハピネスコンピュータからも、大村事務機担当の辻堂リーダーが出席していた。

「もうちょっと、金額をどうにかできないのか?」大村専務が辻堂につめ寄る。

辻堂がかぶりを振った。

「メーカーにも協力を頼んでいますが、すでに限界を超えています。

そもそも帝国テクノは、ヒグチハウジングとの初取引の実績作りに、原価以下で見積もってきてるんです。

資金力が違いすぎます。

金額勝負では太刀打ちできるわけがない」「それじゃあ、このまま黙って負けろってことか!」「そうは言ってませんが……」「同じことじゃないか。

帝国テクノより安くなきゃ、この商談は負けるんだ。

それがどういうことかわかるか?うちのドル箱を持っていかれるんだぞ」「だったら、どうしろって言うんですか?」「それを考えるのが卸母店の仕事だろう!」辻堂が押し黙る。

もう二時間以上、議論をつづけていた。

しかし、誰にも答えはなかった。

堂々巡りの言い争いが繰り返されるだけだ。

香乃がおそるおそる手を挙げた。

「あの、いいでしょうか?」全員の視線が注がれる。

ビクッとして、香乃が身を竦めた。

「何か考えがあるの?」「樋口副社長の言葉が、ずっと気になってるんです」「なんだよ、それ?」田所がチラリと香乃の顔を見て、わざとらしく溜息をついた。

五十嵐が香乃を促す。

「でも……」「大丈夫。

どうせみんな手づまりなんだ」五十嵐が声をかけると、香乃が小さくうなずいた。

「樋口副社長が当社に求めていることって、いったいなんでしょうか?」「帝国テクノを金額で下まわることだろう」すかさず田所が答えた。

「そうでしょうか?」「じゃあ、なんだって言うんだよ」「それは……」香乃が言いよどむ。

田所が舌打ちした。

「言いたいことがあるなら、はっきり言ってみろよ」香乃が意を決したように、立ち上がった。

「樋口副社長は、当社の価値は何かって訊かれましたよね?」「何か考えていることがあるのか?」香乃が五十嵐の目を見つめる。

「価値といえば、ずっと継続して取り組んできたことしかないんじゃないでしょうか?」大村専務も含め、誰もが香乃が言ったことの意味が理解できない。

ただ一人、彼女だけは瞳に強い光を宿らせている。

「当社の社是は、『地域と共に歩み、地域と共に飛び立つ』です。

価値っていったら、これしかないと思うんです。

長年に亘って地域の人たちと共に取り組んできたことを、今回の提案に盛り込んだらどうでしょうか?」田所が香乃に向かって言った。

「そういうことなら、すでにヒグチハウジングだって取り組んでるだろう。

建設会社だからな。

森林保全のためにアジアの植林に募金したり、社員総出で地域の清掃活動をしたり、たしか住宅展示場ではペットボトルのキャップを集めて、世界の子供にワクチンを届ける活動なんてこともやってたはずだ」「それはあくまでも社会貢献ですよね?今までの考え方では、企業が事業を行えば少なからず社会に負担をかけることになるから、企業ブランドを守るためにお金を払って社会貢献を行い、社会的責任を果たそうとしてきました。

でも、それは企業の生産活動を制約してしまうことがほとんどです。

私が提案したいのは、ヒグチハウジングが本来の事業を行うことで、地域社会の困りごとを解決するというビジネスモデルなんです」大村専務が表情を変える。

「具体的には?」「CSVです」「CSRだろう」坂巻が訂正する。

「違います。

CreatingSharedValueで、CSVです。

共有価値の創造という意味です」五十嵐が目を見開いた。

「そうか。

そうだよな。

なんでそんなことに気がつかなかったんだろう」「どういうことなんだ?」大村専務が五十嵐に説明を求める。

「CSR(CorporateSocialResponsibility)は企業の社会的責任といいながら、実は企業側には社会的義務を負わされている感が拭いきれていませんでした。

しかし、CSVは地域と共にそれぞれの価値を高め合っていく考え方で、単なる社会貢献ではなく、いわば地域共生ですね。

それぞれの持つ価値を合わせて、共に利益を生んでいくビジネスモデルです」佐伯の表情が変わる。

「企業による一方的な社会貢献ではなく、共に利益を創出するモデルか」香乃が笑顔で答える。

「はい、そうです。

社会が持っている課題に対して事業として取り組むことで、企業が社会的な責任を果たしながら利益も追求していくんです。

ヒグチハウジングのような地場大手の企業にとって、社会とは地域のことになります。

本社も工場も住宅展示場も、すべて隣接した四つの市にあるんです」坂巻も乗ってくる。

「地域に貢献すれば、企業価値が高まり、利益にも繫がるということを提案できればいいのか。

ヒグチハウジングの顧客は、ほとんどが東京都下や埼玉など、同じ地域の住民だからな」「そしてヒグチハウジングの社員が暮らしているのも、この地域社会です」五十嵐が香乃に尋ねる。

「もう、考えはあるんだろう?」「高齢化対策です。

地域課題を事業として解決していく。

そんな姿勢をコンセプトにしたオフィス作りを提案します」「なるほど、高齢化対策か」「高付加価値の高耐久プレキャスト・コンクリート住宅は、いわゆる高級住宅であって販売価格も高くなりがちです。

顧客の中心は若い世代の夫婦というより、三世代同居や二世帯住宅を視野に入れた老齢世代となるはずでしょう。

この世代に魅力的な集客の仕組みを作ることは、ヒグチハウジングにとっても重要な課題であるはずです」香乃はしっかりと背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えてプレゼンをつづける。

──あのときの顔だ。

営業に同行しているとき、九州教具の女性組織長の話をした。

いつかその女性に会ってみたいと、キラキラと目を輝かせながら言っていた。

その笑顔が思い出された。

香乃が思い描いている社会が、五十嵐にも見えた気がした。

「でもさ。

高齢化対策だって、住宅供給メーカーであるヒグチハウジングなら、とっくに取り組んでるんじゃないか?」田所が横やりを入れる。

「もちろん、商品としては提供していると思います。

だからといって、ワークスタイルまでがそうなっているとはかぎらないんじゃないですか。

うちの会社だって、五十嵐部長がいらっしゃるまでは、経費削減一辺倒で社内のIT化が遅れてましたよね」「うほぉほんっ」坂巻が咳払いをした。

「あっ、すみません」香乃があわてて謝る。

五十嵐が笑いながら、「それで、どんなアイデアがあるんだ?」香乃に質問した。

香乃の目に、力強い意志が宿っている。

「参加型のモデルハウスです」「なんだそれ?」田所が目を白黒させている。

「今までモデルハウスといえば、一方通行的な情報提供の場にすぎませんでした。

私が五十嵐部長に指摘された、『売りたい商品の説明』というものです。

でも、参加型モデルハウスは顧客同士が情報を交換する場であったり、顧客から商品開発のアイデアを求める場であったりします。

コンセプトは『人が集うモデルハウス』で、『集める』から『集まる』へと、真の意味でオープンなモデルハウスを作ります。

そこは人が暮らす家であり、家庭であって、中心にいるのは高齢者とします」「人が暮らすモデルハウスって、それこそ本物のモデルハウスだな」高橋がおもしろそうに言った。

「この不況下で、住宅メーカーもかなり厳しい状況に置かれています。

国土交通省の統計資料によれば、二○一四年度の新設住宅着工数はおよそ九十万戸で、二十年前のバブル崩壊後でさえ百五十万戸以上あったことからすれば、かなりの減少となっています」「そんなに落ち込んでいるのか?」大村専務が驚きの声を上げた。

「人口も世帯数も減少しつづけていることからすれば、むしろまだ多いくらいで、新聞記事によれば二○二五年には六十二万戸になるという予測もあるそうです」「どこの業界も大変なんだな」坂巻が溜息をついた。

香乃の手元には、新聞記事を切り抜いた分厚いファイルがあった。

朝の三分間スピーチを仕切るために、自分でも毎朝の新聞チェックを欠かさなかったのだろう。

「ヒグチハウジングは、本社と工場にそれぞれモデルルームを持っています。

二カ所の総合住宅展示場にもモデルハウスがあります。

そこでこの苦境を乗り越えるため、樋口副社長がプロモーションの責任者となり、モデルルームやモデルハウスへの集客強化をはかっているそうです」「ちょっと待て。

なんでそんなこと知ってるんだ?」田所が驚いた顔をしている。

「商工会議所が主催したオープンセミナーで、樋口副社長が講師として講演をされていたので聴いてきたんですが、そのときに自社の事例として話されていました」「いつの間に?」「田所さんの副担当になったときに、重点顧客のことをいろいろ調べていて偶然そのセミナーを見つけたので、有給休暇を使って参加してきました。

お客様のことをよく知るというのは、顧客関係力強化ではキープロセスですから」「まいったな」「樋口副社長は四つのモデルルーム・モデルハウスの集客強化について、具体的な事例を挙げながら説明されていました。

駅からの距離などの交通条件や商圏内の競合企業数、地域の住宅需要などの影響で若干の差はあるものの、四つのモデルルーム・モデルハウスはそれぞれ月間で千組ほどの来場があるそうです。

ただしこれは新聞折り込みチラシを一回あたり二十五万部ほど配布した月の数字で、年間では八回、つまり八カ月に該当します。

チラシ配布を行わなかった残りの四カ月の来場数は、百組以下だったそうです」「集客はチラシ次第ってわけか」「単純計算で二百五十枚を配れば一組の来場があることになります。

チラシはB4サイズ両面フルカラーを印刷して主要新聞に折り込みを依頼した場合、二十五万枚でおよそ二百五十万円の費用がかかるそうですから、一組呼ぶ経費は二千五百円ということになります」「すべての来場客が、折り込みチラシを見て来るわけじゃないだろう?」中川が疑問を口にした。

「来場客へのアンケートによりますと、本社や工場に併設されているモデルルームでは九十七パーセントが折り込みチラシを見たことを来場理由に挙げています。

駅前の住宅展示場だけは飛び込み来場も二割ほどいるようですけど」「それでも二割か。

ノベルティの効力はどうなんだろう?」「夏の縁日イベントのときは別として、普段配布しているボールペンやクリアファイルを目当てに来場するお客さんはほとんどいないと思います。

そもそもノベルティ目当ての来場客は冷やかしにすぎませんから、集客数にカウントする意味もないはずです」五十嵐がホワイトボードに、香乃の説明した内容を箇条書きにしていく。

「二十五万枚で二百五十万円の折り込みチラシを、四つのモデルルーム・モデルハウスのそれぞれ周辺地区に配布するとして、一カ月で百万枚。

金額で一千万円をかけていることになるんだな」「そうです。

それが年間で八カ月ですから、八百万枚で八千万円が集客のための広告宣伝費となっています」「かなりの負担だろうな」香乃がうなずく。

「樋口副社長もそうおっしゃってました。

費用対効果が見えないので、新たな集客方法を考えたいと」「どんな方法を提案するんだ?」「この四つのモデルルーム・モデルハウスを地域に開放するんです。

実際に行って見てきましたが、どれも6LDKの大きな戸建て住宅です。

本社と工場のモデルルームなんて、リビングルームが四十畳もありました。

モデルルーム・モデルハウスですから、電気や水道などのインフラも整っていますし、家具や食器もそろっています。

人が生活できる場なんです。

たとえばこれを午前中は高齢者や乳幼児を連れた若いママたちの憩いの場として、無料で喫茶の提供をします。

地域コミュニティの情報交換の場になるはずです。

午後は料理や着付け、英会話などを教えたい講師に教育の場として提供します。

テナント料は無料ですから、授業料は破格の安さになるはずです。

講師としては定年を迎えたビジネスマンや子育てを終えた主婦などが、生きがいを求めて活躍してくれると思います。

日曜日は小劇団に舞台として使ってもらったり、ミニコンサートを開いたりして、地域住民の交流の拠点にするのもいいかもしれません。

絵画や写真のギャラリーとして、展覧会なんかも企画できるんじゃないでしょうか」「そうか。

今まではモデルハウスにお客様を集めるために、高い費用をかけて広告を打っていたが、これなら利用する地域住民たちが、お客を呼んできてくれるのか」「たった一回、家を見に来るのではありません。

毎日のように、家に暮らしに来るんです。

生活を豊かにしてくれた素晴らしい空間を体感した人たちが、積極的に広告塔となって集客をしてくれるようになります。

新聞の折り込みチラシと親しい仲間からの口コミ、いったいどちらに説得力があるでしょうか。

ヒグチハウジングは地域住民、とりわけ高齢者に対して豊かな空間を無償で提供することにより、企業価値を高めていけるはずです」「だけどそんなアイデアなんて、すぐにマンネリ化しちゃうんじゃないかな」田所が腕を組みながら言った。

「本社リニューアルにあたって、役員会議室を一階に作ることを提案します」「なんだって?」「月に一度、役員会を地域住民に公開し、事前希望者には参加もしてもらいます。

国会だって公聴会を開いて公述人から意見をもらったりしてるじゃないですか。

役員会を一般公開することで、地域住民から共有価値の創造について、アイデアを募集するんです。

地場企業が地域住民の生の声を聴く場として役員会を公開し、顧客に経営者になってもらうんです」「そんな事例、聞いたことないぞ」「大丈夫です。

この運営については、長年に亘って地域の発展や市民の交流活性化に貢献してきた大村事務機の豊富なノウハウを提供できます。

自治会や老人会に参加して、住民と一緒にイベントを企画してきたノウハウがあるじゃないですか。

企業と地域住民を結ぶために、様々なITソリューションを提供したいと思います。

さらには本社をライブオフィスとして、工場をライブファクトリーとして、日常的に公開します。

設計部や営業部で自分の注文した家がデザインされ、その設計図通りに工場でコンクリートパネルが製造されていく様子を、顧客が見ることができるんです。

ライブオフィスから出発して、ライブファクトリーを見学し、最後はモデルルーム・モデルハウスでホームコンサートを体感するなんてツアーを組んでもいいですね。

本社や工場のライブ化には、当社がテレビ会議システムやプロジェクター、サインボード、タブレットPCなどのITソリューションを組み合わせて、運用ノウハウと共に提供します」「それが我が社の価値か」五十嵐は、大村社長が言っていたサムライの話を思い出した。

「はい。

お金には換えられない価値だと思います」香乃が全員に向かって微笑んだ。

34明日と自分は変えられる七月中旬。

梅雨の合間にさわやかな青空が広がっている。

薫る風が気持ちよい。

ヒグチハウジングへの再提案は、予想以上の高い評価を受けた。

樋口副社長は海外留学中にホームステイしていたホストファミリーから、地域社会に対する貢献活動について、多くの影響を受けたらしい。

それだけではなかった。

樋口副社長は自分の生まれ育った街から子供が減少し、高齢化が進むことで活力が失われていく姿を、寂しくそして歯がゆく思っていたのだ。

彼が通った小学校は、当時一学年が六クラスもあった。

それが今は二クラスしかなく、学年によっては児童数が規定に満たずに一クラスになってしまうこともあった。

高齢者が元気になれば、若い世代も街に定着する。

そして子供を産み育てていく。

そんな明るく豊かな街作りに貢献したい。

高齢化が進む地域社会と共に歩む企業として、ヒグチハウジングのビジネスプロセスをリエンジニアリングすることを以前から考えていたそうだ。

大村事務機の提案思想に共感し、本社社屋と四つのモデルルーム・モデルハウスのリニューアルを、一緒に進めていくことに同意してくれた。

もちろん、帝国テクノの提案は退けることを約束してくれた。

もはや、金額の問題ではないということだ。

七月中には、大型の契約が取れそうだった。

「秋元、いろいろ悪かったな」会議室で最終提案書を作っていると、突然、田所が香乃に言った。

「えっ?私は別に何も……」顔を上げた香乃が、どうしていいのかと戸惑っている。

「今回の件、正直言って俺はだめだと思ってたんだ。

金額じゃ帝国テクノには勝てっこないし、副担当の秋元だってどうせ頼りにはならないだろうしって」「すみません」「違う違う。

結局は秋元のおかげで助かったっていうか、俺もいい勉強ができたっていうか」「田所さん……」「秋元が副担当でいてくれて、ほんとよかったよ」照れくさそうに言った。

「あっ、そうだ。

五十嵐部長、ヒグチハウジングの数字、やっぱり半分は秋元に行っちゃうんですよね?」「当たり前だろう。

今回にいたっては、MVPは秋元さんだからな。

全額でもいいくらいだ」「ええっ?いくらなんでも、そりゃないですよ」おどける田所を見て、香乃も笑っている。

自分の失敗や過ちを認め、部下に詫びることほど難しいことはない。

とくに高い業績を上げている人ほど頭を下げられないものだ。

──みんながどんどん変わっていく。

五十嵐も声を上げて笑った。

日曜日の朝。

今日も五十嵐は一人で休日出勤をしていた。

二週ほど雨がつづいたので、ワックスがけはひさしぶりだった。

腕まくりをして、ぼろ布を手に取る。

「部長、おはようございます!」現れたのは佐伯だった。

「どうしたんだ?」「それはこっちのセリフですよ。

一人でワックスがけなんて、水くさいじゃないですか」佐伯が笑っている。

「い、いや……これは……」「営業車がきれいになってたんで、おかしいとは思ってたんですが、やっぱり部長だったんですね」「ああ」「手伝いますよ」佐伯もぼろ布を持って、車を磨きはじめた。

五十嵐は苦笑しながら、ワックスがけを再開した。

「部長に謝らなければいけないことがあるっていうか、その……やっぱり、お礼かな」「あらたまって、どうしたんだ?」「秋元のことです」五十嵐が大村事務機に出向してきた当初、佐伯と中川の二人のリーダーは、競い合うように部下に対して激しい罵声を浴びせていた。

中でも、唯一の女性営業マンであり、業績も低迷をつづけていた香乃に対して、佐伯はことさら厳しく当たっていた。

本多の事件が発覚後、中川の申し出をきっかけに、責任者制による権限委譲で、やる気を高めるマネジメントを進めていったが、佐伯の香乃に対する厳しさは、なかなかあらたまらなかったのだ。

「私は三歳のときに両親が離婚して、母子家庭で育ったんです」「それって……」「秋元と同じです。

あいつも母一人子一人ですよね」佐伯は車のボンネットを磨く手を止めずに、視線を合わせずに話しつづける。

「生活はとても厳しくて、小学五年生から新聞配達のアルバイトをしていたんです。

そのころのことですが、食卓にごはんと白菜の漬物だけの日が何日もつづいたことがありました。

うちはお金に困っていて、味噌も買えないような生活だったんです。

でも、食べ盛りの男の子なので『こんなもの食えるか。

肉が食いたい』って、ごねたんですよ。

そうしたら、いつもは気丈な母が初めて涙を見せて、『あなたを殺して私も死のうと思ったことが三回ある』って言ったんです。

『でも、ここまで頑張ってきた。

だから、もう少し一緒に頑張ってくれないか』って。

小学五年生にですよ。

このときから私は食べ物に関して、一切文句は言わないと決めました。

そして大人になったら自分でしっかり働いて、食べたいものを食べ、やりたいことをやろうって、心に誓ったんです」

五十嵐は呆然となって、その場に立ち尽くした。

佐伯にとって子供のころの思いが、トップセールスとして高い業績を残しつづけ、若くしてリーダー職にまで出世したことの原動力だったのだ。

「なんとしても秋元を一人前の営業マンに育ててやりたかったんです。

あいつには強くなってほしかった」「だから、あんなに厳しく当たったのか」「すみませんでした」「でも、それでは……」「わかってます。

本当に秋元のことを考えれば、私のやり方は正しくなかった。

ヒグチハウジングの案件で、いつの間にか秋元がしっかりと成長していたことに驚かされました。

部長のおかげです。

本当にありがとうございました」佐伯が洟を啜りながら、深々と頭を下げた。

「秋元さんが前に言ったんだ。

リーダーなんかなりたくないって」「えっ?」「佐伯リーダーを見ていると、大変そうだって。

つらくて忙しいのに、それが報われてなくて、割に合わない仕事だからなりたくないって言ってたよ」「そうですか……」佐伯は唇を嚙み締めている。

「だけどな、この間、未来の履歴書を持ってきて見せてくれたんだ。

時間がかかったけどやっと書けましたって言ってな。

未来の自分の姿を、なんて書いてたと思う?」「わかりません」「リーダーになるって書いていた」その瞬間、佐伯の表情がなんともいえないものに変わった。

泣き出したいのを必死でこらえながら、それでいて思いきり笑い出したいような、そんな複雑な顔だ。

「あいつが、リーダーですか?」「彼女は、佐伯リーダーが思ってる以上に、頑張ってると思うよ」「はい」佐伯が心からうれしそうに言った。

「でも、あいつはまだまだです。

もっと私が鍛えてやらないと」「そうだな。

しっかりと支えてやってくれ。

でも、叱るときは優しく愛情を込めてな」「もちろんです」そのとき、香乃の声がした。

「あー、いたいた」二人が振り向くと、香乃が笑顔でこちらへ向かってくるところだった。

「やっぱりやってる」香乃の後ろには、高橋と中川もいる。

中川は大きな段ボール箱を抱えていた。

さらには上島や加藤や田所といった営業部の他のメンバーたちも、ぞろぞろとついてきている。

大村専務と坂巻の顔もあった。

大村専務はシンプルな無地のポロシャツとジーパン姿だった。

「なんだ、佐伯リーダーも来てたんですか?」香乃が、ニコニコと微笑んでいる。

「当たり前だ。

秋元にわかるくらいのことが、俺にわからないわけないだろう」まだ汚れている何台かの車に、数人ずつが分かれて、ワックスがけをはじめた。

みんな、楽しそうにやっている。

「こういうときは、俺にも声をかけてくれよ」そう言ったのは、大村専務だった。

「これからは、そうします。

みんなで一緒にやりましょう」大村専務が清々しく晴れ上がった夏の空を見上げる。

「こういうのって、なんかいいな。

車だけじゃなくて、会社のまわりの道路や公園も定期的に掃除しようか。

もちろん、業務時間内にさ」「大賛成です」五十嵐はこぼれるような笑みを返した。

「部長、これを見てください」中川が段ボール箱を置くと、蓋を開いた。

みんながそのまわりを取り囲んで覗くと、たくさんのキュウリがつまっているのが見えた。

「これ、どうしたんだ?」「本多が送ってきたんです」一緒に白い封筒が入っていた。

「大村事務機の皆様へ」と宛名書きが読める。

五十嵐が取り出して、封を切った。

「本多が作ったキュウリだそうだ。

自根のキュウリらしい」「ジコンってなんですか?」中川がキュウリを一本手に取った。

「ちょっと、食べてみろよ」五十嵐の言葉に、中川が手にしたキュウリを丸ごと齧った。

「うわっ、なんだこれ。

キュウリだ!」目を丸くして驚いている。

それを見た佐伯が、「キュウリなんだから、当たり前だろ」怪訝そうな顔をしていた。

「違うって。

ぜんぜんキュウリと違って、キュウリなんだよ」「何わけのわからないことを言ってんだよ」佐伯もキュウリを齧る。

とたんに驚きの表情に変わった。

「うおっ、ほんとだ。

むちゃくちゃキュウリだ」五十嵐も笑いながらキュウリを手にする。

「キュウリって水分の多い野菜だから病気になりやすいし、そもそも実の収量も少ないんだ。

だから、病気に強くて実のなる量も多いカボチャの根に接ぎ木してやることで、強くて収量の多いキュウリを作るんだ。

蔓はキュウリで根はカボチャってわけだな。

市場に出まわっている九十七パーセントは、このカボチャに接ぎ木したキュウリだっていわれている。

それに対して、種から蒔いて自分の根で育った本来のキュウリを、『自根』っていうんだ」「なるほど、自分の根って意味なんですね」佐伯が納得いったようにうなずいている。

二人の様子を見た他の者たちも、次々に箱の中のキュウリに手を伸ばした。

「うまいな、これ!」「ほんと、美味しい!」「味が濃いぞ!」誰もが笑っていた。

キュウリが人を笑顔にしている。

五十嵐もキュウリにかぶりついた。

皮が柔らかいのにしっかりとした歯ごたえを感じる。

瑞々しい甘みとキュウリらしい豊かな香りが口いっぱいに広がった。

「病気に弱くて収量も少ないため、今では生産する農家もわずかしかなくて、幻のキュウリともいわれてるんだが、でも、これが本当のキュウリなんだよな」

五十嵐は本多からの手紙を、みんなに読んで聞かせた。

本多は群馬の実家に帰って農業を手伝いはじめた。

群馬はキュウリの一大産地だが、薄利多売の商品にもかかわらず、収量が天候に左右され、実家の経営は決して楽ではなかった。

そこでICT(情報通信技術)活用による農業改革に着手した。

農業クラウドのアプリケーションを活用し、育成データの蓄積による生産マネジメントを実施して、生産プロセスやコストの見える化を進めた。

経験による伝達・伝承が中心だった農作業のノウハウをデータ化することにより、初心者でもベテランと同じように生産性を高められるような仕組みを作ろうとチャレンジを開始したのだ。

生産者の顔の見える野菜ということで、近隣農家三十数軒で協力し、インターネット上にバーチャルショッピングモールも開設した。

種や苗から収穫されるまでをウェブカメラで映像配信した無農薬・無化学肥料栽培の野菜を、全国の顧客に直接届ける。

顧客はあたかも自分が一緒に育てたかのように愛着を持って、安心で美味しい野菜を食べることができるのだ。

そして、自分たちの提供価値を創造しようとはじめたのが、「自根のキュウリ」の栽培だった。

手間暇はかかるが、それでも顧客には本当に美味しいものを食べてもらいたい。

本多が農業にかける思いだった。

最初の収穫分を大村事務機に送った。

「蒔いた種が芽吹き、大地に本物の根を張るんだ。

本多も夢を持つことができたんだな」手紙には一枚の写真が同封されていた。

真っ黒に日焼けした本多が、妻と娘と三人で笑っている写真だった。

(完

あとがき最近、若い営業マンたちと話をする機会がありました。

どの人も優秀な成績をおさめているトップセールスです。

彼らが異口同音に口にしたのは、「リーダーになんかなりたくない」という言葉。

これは私にとって、かなりショックな出来事でした。

社会環境の急激な変化の中で、ライフスタイルが多様化して、出世だけが人生の選択肢ではなくなってきているのは、間違った価値観ではないと思います。

物質的な豊かさは、必ずしも幸福の尺度にはなり得ませんし、競争を是としない、ゆとり世代が増えてきているという現状もあります。

とはいえ、やはり彼らが日常で目指す姿というものは、自分たちの上司であり、実質的に会社を動かしている中間層の組織長なのだと思っていました。

──なんで、リーダーになりたくないの?彼らは迷うことなく、上司を見ていて大変そうだからと答えます。

つらくて忙しいのに、それが報われていない。

いつも精神的に追いつめられている。

リーダーとは、そういう割に合わない仕事なのだそうです。

そんなことに振りまわされるくらいなら、自分自身の営業成績を上げているほうが、どれだけ効率的で楽しいか知れない。

以前、私が企業で営業革新の責任者をしていたとき、その会社には営業マンが六千人ほどいました。

そのとき、たった二割のトップセールスたちが、全体業績の六割を作り出していました。

もし、この二割の人たちが、自分の業績のことだけを考えていたら、会社は瞬く間に倒産していたでしょう。

しかし近い将来、日本の社会は、本気でそういう心配をしなくてはならなくなるのかもしれません。

リーダーの仕事とは、いったいなんでしょうか。

もちろん、戦略の立案や人材の育成は、リーダーの重要な仕事です。

ただ、誰もがスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツのようなカリスマ的なリーダーになれるわけではありません。

近年の厳しい市場環境において、顧客が営業マンに求めているのは、優れた商品の提供でも、安価なサービスでもありません。

新たな価値の創造を、一緒にしてくれるパートナーとなることです。

そのためにはビジョンを共有し、潜在的な課題や問題を顕在化し、顧客と同じ視線で市場を見るという、高度な営業プロセスが求められるのです。

だからこそ、売れる営業マンを作るのではなく、営業マンが売れる仕組みを作る必要があるのです。

すべてがリーダーたちに皺寄せされるのではなく、組織が営業力強化を持続的に進めていくだけの覚悟を持つのであれば、リーダーという仕事は、もっと楽しくてやりがいのあるものになるはずです。

若いトップセールスたちが、リーダーになりたいと心から思えるような仕組みが構築されるために、また、若い営業マンたちが夢と覚悟を持ってリーダーを目指していけるように、本書がその一助になることを心から願っています。

最後になりますが、本書を執筆するにあたり取材に協力してくださり、革新的で熱い思いに溢れた実践事例を提供していただいた日本理化学工業株式会社の大山泰弘会長と、九州教具株式会社の船橋修一社長に、心より感謝を申し上げます。

二〇一六年三月杉山大二郎

【参考】杉山式ABC理論(リーダーの心得)私がリーダーのあるべき姿として心がけてきたことを、「杉山式ABC理論」と名づけて、ご紹介させていただきます。

組織のリーダーに求められる姿は、決して一つではないと思っています。

これは私の実践から生まれた考えであり、あくまでも参考例としてお読みいただきたいです。

重要なことは、あなたが自ら考え、そして先頭に立って行動することだと思います。

1リーダーのあるべき姿A=application(アプリケーション):仕組み/ITインフラ評価・表彰・報奨などの制度については、その意味についてリーダーがもっとも深く理解し、部下個々人の現状能力や目標に合わせて、繰り返し組織で共有していくことが大切です。

自分自身がなんのために仕事をするのか?その仕事が組織にとってどんな意味を持つのか?全員がしっかりと理解しているかどうかで、成果には大きな差が生まれます。

また、基幹システムや業務アプリケーション、SFAやグループウェアなどのCRM(顧客関係管理)アプリケーション、モバイルPCやタブレット端末などのモバイル/クラウド系ハードウェアなど、社内のITインフラについて、リーダーは常に部下の相談や指導を行えるように自己啓発していくことが大切だと思います。

その活用の効果測定とさらなるワークスタイル改革についても、積極的な提案をつづけることが不可欠です。

上司はあくまでもマネジャー(管理者)ではなく、リーダー(牽引者)となるべきなのです。

B=basics(ベイシックス):基礎/理念仕事で培われた経験や能力だけをもとに部下を指導するのではなく、人間性(人間的魅力)に由来する尊敬の念を醸成し部下にかかわることが重要です。

優先順位は仕事ではなく、人生であり日々の生活です。

そして、その土台は家族なのです。

部下の生活にかかわり、思いやってあげられる上司こそ、真の統率力を発揮できます。

部下の誕生日や結婚記念日を知っていますか?部下の子供の名前を何人言えますか?私が初めて持った部下は十名でした。

最初にしたことは、奥さんや子供、婚約者や恋人を連れての休日のバーベキューでした。

家族のいる人の家には家庭訪問もしました。

事情があって結婚式を挙げていない人には、本人や奥さんに内緒でお祝いパーティーも企画しました。

なんのために業績を上げるのか?目標は今月の予算を達成することではなく、人生における自己実現です。

そのために組織の中で、自分の役割を持つことが重要であることを、リーダーはメンバーたちと意志統合しなければなりません。

C=coaching(コーチング):教育「解答」や「目標」を与えて、その進捗や達成度について議論することは、私はあまりしません。

ましてや罵声を浴びせて強制的に結果を出させるように圧力をかけるなど言語道断です(たまにはモチベーションを上げるために必要な場合もないわけではありませんが)。

「どうしたらいいか」「いつやるか」「どこまでやるべきか」「何が必要か」など、自分で考えさせ、自分で仕事(目標を達成するためのプロセス)を組み立てていけるような環境を作ってあげることが、今の時代に求められるマネジメントだと思います。

そのためには仕事の中身や前後との関係(フロー)を、充分に理解させる必要もあります。

仕事はすべて結果で評価されます。

しかし、プロセスの存在しない結果などありません。

部下のプロセスについてマネジメントすることが、リーダーの重要な仕事なのです。

2リーダーの戦略リーダーは常に挑戦をつづける必要があります。

私が心がけてきたことは二つです。

一つ目は「改革をつづける」ということ。

常に現状に疑問を投じ、構造的な改革を断行する勇気を持つことです。

改革者には風当たりも強いですが、覚悟を持って望みましょう。

二つ目は「ナンバー1を作る」ということ。

すべてが平均点ではなく、一つくらいは全社で一番になれるものを作るということです。

そのためには考え得るすべての努力を惜しみません。

その対価として、逆に落第点を取ってしまう項目もあるかもしれません。

それはそれで仕方がないというのが、私の考え方です。

すべてが平均点の普通の人より、赤点もあるけれど、トップもあるという人のほうが、結果的には存在価値を高め、その分野で組織に大きな貢献ができるものです。

3リーダーの心構え失敗を恐れないこと。

これに尽きます。

私など日々、失敗の連続です。

しかし、そんな姿も、部下に包み隠さず見せるようにしてきました。

上司は「親」でも「先生」でもなく、組織上の「リーダー」だからです。

役割にすぎないのです。

かつては、カリスマ性を持った上司がたくさんいました。

私もそういう方に憧れて仕事をした時期もありましたが、実際に管理職になったとき、自分自身が同じような上司になろうとは思いませんでした。

「強制力」ではなく「統合力」を以て、組織運営をしていきたいと思いました。

経験不足から多くの失敗をしつつも、部下と共に成長していく。

それもリーダーの一つの姿なのではないかと思っています。

〈参考文献〉『[エッセンシャル版]マネジメント基本と原則』(ダイヤモンド社)ピーター・F・ドラッカー(著)/上田惇生(編訳)『ビジョナリー・カンパニー時代を超える生存の原則』(日経BP社)ジェームズ・C・コリンズ、ジェリー・I.ポラス(著)/山岡洋一(訳)『営業革新システムの実際』(日経文庫)角川淳(著)

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